新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 弐 陳寿論 2/2 再掲
新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
私の見立て ★☆☆☆☆ 史料批判なき風聞憶測 2020/08/02 2023/04/29
〇陳寿の諸葛亮観
続いて、氏は陳寿の諸葛亮への感情を述べるが、普通に見て深い尊敬を抱いていたとみる。魏で諸葛亮は連年関中方面を侵略し続けた極悪人であり、魏略を書いた魚豢は、魏官人として当然、諸葛亮に敵意を示す記事を残している。
魏官人の憤懣を引き継いだ西晋に於いて、旧敵国の巨魁たる「諸葛亮著作集」を上申したのは、大抵の決意ではない。
因みに、魏を創始した武帝曹操は時代最高の詩人であり、孫子兵法の注釈を表した文人であるが、「曹操著作集」は残されていない。
諸葛亮は、私心のない宰相であり、戦地にあっても政務に心身を労したが、軍人として、むしろ凡庸(非凡とは言えない)とみるのが妥当な人物評ではないか。その子についても、陳寿は、むしろ冷静に評価しているとみられる。これを害意と見、筆誅と見る者は、陳寿の器を見くびって、評者自身の狭隘な史眼を露呈しているものである。
〇三国志上申挿話の考証
全体に、なぜか、陳寿を支持する筆勢が痩せているが、例えば、没後の三国志上申の際の識者の建言は、三国志六十五巻の大著の書写と皇帝上程を齎すものだから、識者は、身命を賭して推薦したはずである。
著作とは、上申を想定してまとめていた三国志最終稿善本、美本を言う。つまり、陳寿原本を上申し、書写は控えと見るべきである。実務は、河南尹・洛陽令の采配であるが、六十五巻分の用紙、ないし、簡牘と墨硯は、官費で手配するとは言え、最高級の資材である。また、写本工は、在野の職人ではなく、皇帝書庫写本に任じられる当代最高の著名の人材だった筈である。何しろ、皇帝命で、金に糸目は付けなかったと見るべきである。
〇洛陽の復興
まさかとは思うが、このような写本工の動員を、現代風の雇用形態とみていると困るのでわかりきったことを言う。
まずは、写本工は高度な専門技術者であり、官営工房に多数の職人が常雇い、つまり、官人となっていると共に、周辺の下働きは、官奴として組織化されていたのである。つまり、簡牘書写と仮定すると、必要な竹簡なり木簡なりは、規定の尺寸、品質のものを、要求量納品する業者が必要であり、途中で、簡牘を保管する問屋めいた存在があって、それぞれの間のやりとりは、価格、数量、納期が協定されて運用されているのである。
こたびのように、六十五巻に及ぶ特上写本の場合、国営工房に皇帝命が下って最優先で取り組むから、そこそこの納期で完了するが、それ以外だと、後回しとか、写本工不足とかで、随分期間を要するのである。
大量の新規写本が粛々と行われたのは、曹操が、半ば廃墟としなっていた帝都洛陽を、献帝の威光を生かして、勅命で復興したからであり、魏が建国した文帝曹丕の時代も、後漢雒陽以来の長安、鄴、許都などの「都」を転々とした天子の威光が、雒陽を「首都」として、着々と往年の雒陽の威光が再建されていたからである。陳寿の時代には、既に晋に代替わりして、雒陽の活気は戻っていたから、かなりの数の写本工が、陳寿の結構広壮な旧宅を埋め尽くして、手分けして六十五巻の筆写を手がけたと思うのである。
〇洛陽の荒廃
これも念のための背景確認であるが、かの霊帝の没後、雒陽は戦場と化して、最後は、暴君董卓の指示で、西方の旧都長安への遷都が強行され、董卓が、移転督促の目的で、雒陽に火を放ったので、一時期、雒陽は、廃都となっただけでなく、廃墟と化していたのである。
そのため、献帝が東都雒陽に復帰と言っても再建が追いつかないため、後漢宮廷は、曹操一党の本拠、鄴なる地方都市に再興されたのであり、雒陽が国都に戻るまでには、さらに年月を要したのである。
〇士誠小人
最後に、松尾氏は、陳寿に対して勝手に矮小化された心情を想定しているが、自身との器の違いに気づかない小人の誤解と言わざるを得ない。「(士誠小人也)『孟子』」と言うべきか。以下は、小人の史上の偉人に対する阿りとしか見えないので勿体ない。
〇東冶幻覚
蜀は、地図上では「会稽」から見て長江(揚子江)の遥か上流であるが、地上では、とてもではないが、成都から会稽は見通せず、どの方角と言えない。また、東冶県は、一時会稽郡に属し、地図上、会稽の南とは言え、巨大な福建山地の南であり、交通至難のため、早々に会稽郡から分離され、建安郡とされている。
と言う事で、東冶は、蜀都成都から親しく感じられるものではない。
まして、これら地域は、三国時代の東呉、孫氏の領分で、敵地であった。心情的にも遠いのである。
紙上の散策だけで、深く資料批判を行わず、事情のわからないままに、勝手な感慨を加えて、陳寿を戯画化するのは御免である。
〇政治的歴史観の蔓延
一方、世上、「ためにする陳寿誹謗」が絶えないのは、こと「倭人伝」論に於いては、そこに書かれている倭人記事が、国内史書を基礎にした政治的な歴史観と衝突/相克/輻輳するからである。そこから、国内史書基準の世界観、つまり、政治的な歴史観は、国費によって正当化されて根強いのである。何しろ、三国志の校訂が丁寧に行われていたため、「異稿、異本が無いに等しいことまで誹謗の種になっている」のは滑稽ですらある。そのような論者にとって、普通に倭人伝を尊重する論義は、「聖典」崇拝とすると、もう一つの誹謗の種になっていて、見苦しい物がある。
そのような魔境では、論理でなく俗耳に心地良い響きを求めて小人跋扈するのである。松尾氏は、そのような歴史観迎合の魔境潮流に流されて満足なのだろうか。
以上
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