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2023年4月 8日 (土)

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 6/7

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10 2023/04/08

▢「倭人伝」解釈編~萬二千里の由来
 「唐六典」の史料評価を終え、「倭人伝」解釈に及ぼす影響を評価してみます。

*「唐六典」に「海路」不在
 「唐六典」は、帝国の通常業務の輸送経路、手段、費用を規定しています。里数は、所定の荷を一日で移動すべき距離であり、「陸行」、「陸道」は、ほぼ一様ですが、「水行」は、河水、江水、それ以外の川と大別して、それぞれの河川の上り下りで異なるなど、「水行」諸局面に合わせて規定しています。因みに、「水道」なる表現は、ここには存在しないのです。
 当然、「水」は「河川」であり「海」ではありえません。一部、無謀な論客が提起するように、「唐六典」の「水行」が「海路」なら、例えば陸行至難な会稽~東冶間等に「海路」官道が設定されたはずですが、「海道」の記録はありません。
 つまり、「海道」、「海路」の用例は、魏晋から唐代まで存在しないのです。

*追記 2023/04/09
 本項は、主張の論旨を鮮明にするために断言調にすると、時として自滅になってしまうという一例です。
 後記するように、南朝梁代に編纂された宋書「州郡志」には、会稽東冶縣の後身である建安郡と会稽郡の間の街道が、「水」のみで制定されていたと明記されています。そして、並行する「陸」がなかったと明記されています。つまり、その間は、陸上街道を設定できない難路であり、恐らく、何とか人が往き来できる「桟道」とか設営できなかったため、騎馬文書使が往来できず、また、街道沿いの宿場も設定できなかったため、漢制で言う街道、陸道が定義できなかったと見えます。
 但し、そのような異例の設営は、三国魏の知るところでなく、従って、魏志の編纂で参照できなかったので、「倭人伝」に影響していないという程度にとどめるべきだったのですが、書いていてしまったことは、仕方ないのです。以下、訂正もできないので、断言調が続きますが、論義の本筋は不変です。
 因みに、ここで言う「水」は、あくまで、河川交通であり、また、「水」と称しても、全行程が河川交通だけで連結していたのでなく、諸所で、渡し舟ならぬ「陸橋」行程で連結されていたものと見えます。知る限り、唐代に遣唐使一行として空海が移動した際の記録が残っていて、貴重な街道記になっているようです。

 同時代に存在しない概念に基づき時代を語るのは、個人的空想/妄想に過ぎません。

*「海路」再考~官道に不適格
 輸送規定とは別の趣旨ですが、官用の文書使や兵士が往来するのは、整備された官道の陸行であり、船による移動は想定されていないのです。
 官道の軍用運用には、順行、急行、疾駆の三段階が必要であり、文書使も、時に疾駆急行を必要とするので、当然の事として「陸行」と規定しているのですが、「水行」では疾駆(船上を駆けるのか?)はあり得ず、したがって、「水行」行程を官道と規定する事は(絶対に)ないのです。
 「陸道」、「陸行」は、路面を整備し騎馬に耐えるよう維持します。各駅は、食事と寝床の提供に加え、代え馬を常備しています。軍用疾駆ができれば文書急使も可能です。こうした官道、陸路の速度要件は、「河川航行」や「海岸沿い水行」では実現できないのです。官道は、速度本位、安全第一で、「潮待ち、風待ちのお天気まかせ」、「海が荒れたらおだぶつ」の「海道」は不採用です。
 沿岸航行が安全、安心と思う人は、死んだつもりで考え直して欲しいのです。

 当然、三世紀官道に「海路」はあり得ず、「唐六典」にも規定がないのです。

*半島内陸行の話~当然、自明で、書かれない話
 朝鮮半島沿岸に、未曾有・異例・破格・無法の「海道」があったとしたら、陳寿は、魏志東夷伝に特筆したでしょうが、そのような記事はありません。
 つまり、「歴韓国」は、当然、自明の陸道であり、狗邪韓国七千里と里数だけ示したのは、産鉄の搬送で、経路と所要日数が帯方郡に既知だったからです。いや、「倭人伝」が「明記」したのは、この間を陸行七千里と「想定した」と言うことだけであり、道里を測量した結果を書いているわけではないのです。言うならば、「倭人伝」に、当時の公的な現地里制は、明記されていないのです。

*「沿岸航行」の迷妄
 この間の空白を、現代日本人(二千年後生で無教養の東夷)だけに通じる暗黙の了解「沿岸航行」で埋めているのが過去の里程論の大半(すべて?)と思いますが、全部読んだのでないので、ここで断言などできず、数の多少も、「重み」も言いません。但し、素人考えでは、これが里制論混迷の主因の露呈と見えます。

 それにしても、現代人の普通の理解力で「倭人伝」が「すらすら」読めるとは度しがたい「誤解」です。その果ては、読み解けなければ、読み解けるように書き換える理屈が堂々提示され、世も末です。要するに、「神がかり」で、古代の真実を、既に知っているので、わざわざ訂正してやるというものです。いや、つまらないグチでした。

*深意考察の背景
 当ブログ筆者が、それなりに努力して陳寿の「深意」を考察したのは、当ブログ諸記事を「悉皆」熟読いただければ納得頂けると思います。いや、1800ページを全部読めと本気で要求しているのではありません。妄言多謝。m(_ _)m 

◯補足すべき事項~不合理な異議 2023/04/08
 ここで、時に聞かれる異議らしきものの取り扱いに関し、説明を加えます。

*呉志記事の適正評価
 「呉志」(呉書)は、陳寿が編纂した「三国志」の一部と見なされていますが、陳寿が責任編纂した「魏志」とは、別の史書であり、東呉の史官韋昭が編纂し、東呉皇帝が「正史」として受納したものを、東呉の降伏の際に、晋帝に献上し受容されたものであり、従って、単なる降伏文書/戦利品ではなく、晋朝皇帝の書庫に収納された一級公文書だったのです。
 因みに、識者に知られているように、「呉志」は江東孫氏の歴代事績を記録していますが、その際に、曹魏の歴代君主に対する誹謗、中傷の類いの発言があっても、改竄の手が加えられていないものです。(天子たる文帝曹丕を、実名「丕」で誹る記事が存在します)
 従って、陳寿「三国志」の解釈に於いて、就中、魏志「倭人伝」の解釈に際し、「呉志」用例は、あくまで、参考にとどめるべきであり、「倭人伝」と同等の意義を与えて、斟酌すべきではないのです。

*三国志「呉志」の位置付け再確認~史料批判の視点
 書かれているのは東呉政権の視点に立ったものであり、諸制度は東呉のものであり、曹魏の視点で書かれた魏志と一致せず、魏の諸制度とは整合していないのですが、一方、皇帝蔵書に収蔵されている「呉志」は、魏朝公文書に記録されている「史実」の一部なので、陳寿は、当然、編纂の際に改訂の手を加えていないのです。このような史料収録の姿勢を「無批判」と評する論者がありますが、陳寿は、史官としての資料批判を行った上で、「史実」として採用しているのであり、現代東夷論者の見識は、大変限られたものであって、陳寿を批判する見識を有しないとみられます。

 と言うことで、「呉志」に書かれている「史実」は、当然、魏志の「史実」と一致/整合していないと見るべきなのです。所詮、史書は、それぞれの視点で書かれているの原資料/公文書を集成/編纂したものであり、史官は、史料に修正の筆を加えず、「史実」を継承するのを使命としているので、しばしば一致しないのは当然であり、それを安直に「偏向」と称するのは、自身の偏向に気づかない「小人」の自白です。
 各史書間の異同、不一致の事例は、多々あり、件数の数だけでなく、それぞれの異同の意義の重みを加えて評価して、無視できないものがありますが、当然の事項なので、論証不要であり、ここでは触れないものとします。

 ここでは、魏志「倭人伝」解釈のための戸数記事、里数記事の検索に於いて、「呉志」記事は、格落ち、ないしは、除外すべきであると述べておくにとどめます。
 因みに、東呉は、長大な海岸部を有し、海船の南北往来が活発であったので、その世界観は、中原の内陸政権であった曹魏のものとは、大いに異なりますが、漢魏西晋代には、洛陽の知識人には受け入れられなかったというものです。
 東呉の世界観は、亡命政権となった建康の東晋に浸透し、後継の南朝諸国は、むしろ、積極的に、政権内部に採り入れたと見えますが、それは、時代背景の大きく異なる後世事例であり、時間を遡行して、西晋代の陳寿の世界観には、採り入れられていないのです。

*宋書「州郡志」の教え
 世界観の変遷の一例として、南朝梁代に編纂された先行王朝正史〔南梁〕沈約「宋書」州郡志に見ることができます。

 劉宋代の笵曄は、後漢洛陽中心の世界観で後漢書を編纂したため、「宋書」「州郡志」の内容は反映していませんから、後漢書「東夷列伝」には、会稽東冶とだけしか書き残していませんが、宋書「州郡志」によれば、南朝劉宋代に、会稽郡は会稽の周辺にとどまり、往年の会稽郡東冶県は、恐らく、後漢献帝の建安年間に建安郡に分郡されていて、建安郡公式道里は、「去京都水三千四十,並無陸」と記録されています。つまり、建安郡と会稽の間には、峨々たる福建山地が聳えていて、漢制に言う「街道」を設けて、文書使を往来させることができなかったので、河川船行による文書通信が公式道里であり、「京都」まで三千里とされています。「並無陸」てある以上、公式陸行は無かったのです。

*会稽東冶談義の不備払拭
 と言うことで、「魏志」に於いて、東呉管轄地域の諸郡道里は、端から不採用だったのですから、先賢諸兄姉の三国時代の道里論義は、空を切っていたのです。
 つまり、「魏志」編纂時の陳寿の地理観には、魏代統治範囲外で地理情報が得られていなかった「会稽郡東冶縣」の道里情報も何も「未知」であったので、「倭人伝」記事で、倭地の道里と対比して会稽東冶を想起することはなかったのです。誠に明快であり、決定的であると考えますが、いかがでしょうか。

 いや、これは、正史史料に異議を唱える側に、異議の正統さを立証する「立証義務」があるのであり、陳寿には、「会稽東治」を擁護するために、異議を考証する必要はないのです。

                                未完

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