私の本棚 白崎 昭一郎 季刊「邪馬台国」第20号 放射線行路説批判 再掲 2/2
2018/09/21 2022/01/27 2023/05/10
私の見立て ★★★★☆ 冷静、論理的にして、丁寧
*石田氏との論戦
続いて、石田孝氏の批判に対して反論しているが、こちらは、論敵というに相応しい敵手との「論争」と思う。
白崎氏は、班固「漢書」地理志の用例に基づき、「同一地点から同一方向の二地点への行路が続けて掲載された場合、二番目の(行程)方向は省略される」と述べ、「倭人伝」行程記事に伊都国を中心とした放射線行程は見いだせないと断じた。これに対する石田氏の批判に対し、再度、用例を確認した上で、石田氏の批判は成立しないと述べているのである。用例概要を再録する。
Ⅰ 同一方向二地点への行路例
⑴休循国 東、都護治所に至る三千一百二十一里、捐毒衍敦谷に至る二百六十里
⑵捐毒国 東、都護治所に至る二千八百六十一里、疏勒に至る
⑶危須国 西、都護治所に至る五百里、焉耆に至る百里
⑷狐胡国 西、都護治所に至る一千百四十七里、焉耆に至る七百七十里
⑸車師前国 西南、都護治所に至る一千八百十里、焉耆に至る八百三十五里
Ⅱ 同一方向三地点への行路例
⑹鄯善国 西北、都護治所を去る一千七百八十五里、山国に至る一千三百六十五里、西北、車師に至る一千八百九十里、
⑺依耐国 東北、都護治所に至る二千七百三十里、莎車に至る五百四十里、無雷に至る五千四十里
*私見御免
一素人の単なるぱっと見の所見であるが、漢朝の辺境管理方針では、当地域は帝国西域前線の「都護治所」が、要(かなめ)として放射状の幹線たる漢道諸道の発進中心(今日で言うハブ)を押さえていたのであり、それ以外に古来各国を結んで、それぞれ周旋、往来していた諸道が残存していたという事を示しているように思える。
*伊都国起点放射線行路について
当方は、両氏の論争自体には関与しないので、アイデア提案を試みる。
この点に関する議論で、素人考えで申し訳ないのだが、率直なところ、単なる思いつきとは言え、全面的に否定しがたいと思うので、当方の白崎氏の論考に対する批判・提言を一案、一説として付記する。
伊都国は、当時の地域政経中心であり、交易物資集散地であったから、伊都国の中心部から各国に至る物資輸送、文書交信、行軍のための官道としての直行路、倭道が整備されていて、起点には、多分石柱の道案内(道しるべ)が設けられ、そこに、「東 奴国 南 不弥国 南 邪馬壹(臺)国」のように彫り込まれていて、中でも、南に二筋の道が伸びていたように思われる。
つまり、南方二国は、大略南方向だが、当然、完全に同一方向ではなく、どこかの追分で、道が分かれていたのである。それどころか、水行二十日を包含する投馬国行程は、最終的に目的地に着くというものの、そこが、伊都国の「南」であるということは、確証できないのである。一方、所要日数すら書かれていないと見るべき「邪馬壹国」は、あるいは、伊都国の外部城壁ないしは環濠の内部とも見え、先入観に促されて、拙速の解釈を進めるものではなく、詳しい時代考証に委ねるべきであろう。
それにしても、伊都国から発する全ての漢制街道ならぬ「倭道」は、それぞれ直行したのか、どこかで転回したのかわからないし、最終目的地が、伊都国から見てどの方向かは不明であろう。わかるのは、起点道案内の「方向と目的地」である。全て直行路であるから、出発点以降、追分を間違えなければ、後は道なりに、「倭道倭遅」とでもしゃれながら、とろとろと進めば良いのである。
そのような記法は、班固「漢書」以来の伝統に従わない、地域独特のものかも知れないが、倭の実情に適したものであり、帯方郡には異論の無い妥当なものであったため改訂されず、陳寿「三国志」「魏志」編纂時も、この記法が温存されたと見る。
という事で、ここでも、先賢諸説を論破せず、文献証拠のない、単なる所感を述べたのである。
以上
追記:2022/01/27
上記意見は、『「倭人伝」道里行程記事は、直線的な行程を書いたものに違いない』とする通説/俗説/先入観の意見への所感を「アイデア」提案として述べたものであり、一案として依然有効と思うが、必ずしも、当ブログの主力とするものではないことを申し添えるものである。
追記:2023/05/10
当ブログの最新/最終見解では、「倭人伝」の道里行程記事は、郡を発し、倭に到達する行程を直截に書いたものであり、即ち、郡を発した文書使は、伊都国に到達して伊都国文書管理者に送達するものであり、その時点で、倭に対する通達を完遂すると見るべきである。そのように解釈することで、従前の道里解釈の大半は、無用のものとなり、陳寿の提示した問題の解に到るものと見える。
榎一雄氏の論説(榎一雄著作集 第八巻 「邪馬台国」汲古書院)を丁寧に拝読すると、氏の真意は、倭人伝道里記事の記述から、伊都国が、倭の政治中枢であり、郡は、伊都国を倭の首長と見なしていた、即ち、一万二千里も、「水行十日、陸行一月」も、伊都国が終着であると道里記事を解読しているものである。ただし、氏は、国内史学界の枢要な地位を占めていたことから、通説の結構を破壊することはできず、『伊都国を扇の要として、最終的に「女王国」に到達する』という「放射行程」説と見えるように仕上げたと見えるのである。
同書の大半は、季刊「邪馬台国」誌に、連載公開されたものであり、広く、万人の元に届けたと言うことは、氏の晩節の潔さを思わせるものである。一方、世上、榎氏の所説/真意は見過ごされ、単に、「伊都国から直線的に進むべき行程を、伊都国視点の放射行程と曲解した」とする軽薄な理解がはびこっているのは、誠に残念である。こと、「倭人伝」解釈に関しては、残念な停滞、退歩が支配的なようである。
以上
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