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2023年5月 3日 (水)

私の本棚 30b 季刊邪馬台国126号 雑感 本文後半

 季刊 邪馬台国126号 投稿原稿 「魏使倭人伝」から見た邪馬台国概説 2015年7月
 私の見立て★★☆☆☆ 前途遼遠    2015/10/10 2023/05/03

*先行論考の批判について
 以下、当記事では、魏志「倭人伝」の道里行程記事について、後半に参照した上で、堅実な考察を加えているが、すでに公刊されている中島信文氏の著作を克服しなければ、いわゆる定説の正確さを主張することはできないものと考える。(中島信文 『甦る三国志「魏志倭人伝」』 2012年10月 彩流社)

 それぞれの論者が、先行論考の評価を怠っていては、議論は、堂々めぐりして先に進まないのである。

 以上、肝心の論文内容についての「批評」ができていないのだが、これについては、著者の口ぶりを借りれば、当方の浅学非才で手の届かない分野であるので、おおむね考慮中と申し上げておくものである。
 ここに書き連ねているのは、当論考に触発された個人的な感慨である。

*「古代国家」に寄せる感慨
 本論考で、感心するのは、当時の邪馬台国の国の形として、九州北部にまとまった小国連合と見ている堅実な見方であり、九州島内すら完全支配していない「古代国家」が、島外に権力を伸ばしていたとは見ていない点であり、この点は、「近畿論」が、奈良盆地に根拠を持つ古代国家が、すでに、遙か北部九州まで権力範囲に収めていたとする壮大、かつ根拠不明の展望に比べると、確実な議論と思える。

 以前にも書いたように思うのだが、当時の交通手段で日帰り圏を越えた遠隔地を支配しようとすると、相互の意思疎通、つまり、頻繁な文書交信にはじまり、年々の貢粗取り立てに伴う物資の搬送、軍役の賦課、労役の賦課など人員の移動が必須であるが、そのような、支配される側が容易に受け入れないと考えられる国家としての「支配」を維持するのは、機動的な武力行使を背景としない限り、限りなく困難(ほぼ不可能)である。

 少し言い換えると、その時代に短期間で到達不可能な「遠隔地」を実効支配するには、相応する交通、輸送、通信「インフラ」(社会基盤)整備が、大前提である。
 それには、必要な水陸交通手段が不確実であり、文字や紙がなくて文書支配もできないと思われる「インフラ」未整備状態の3世紀、4世紀には、西日本を横断支配する古代国家は、史料にも遺物にも依拠しない願望に基づくものであり、満潮が来れば無に帰する「砂上の楼閣」とみられる、それを言い立てるのは、非常識/不合理な時間錯誤である。

 本論文著者が書き綴っているように、その時代の各地小国家は、相互に影響を及ぼせる範囲内では、互いに存在を認めつつ、競合ないし連合し、支配など試みなかったと思われるのである。本来、絶賛ものの卓見である。
 私見では、隣国は、もともと同族の分家であり、交際と言うより、婚姻を通じて、親戚付き合いを深めていたから、紛糾はあっても、仲介/斡旋によって折り合いがつく限り、武力抗争に訴えなかったと見るのである。恐らく、「仲裁は時の氏神」というように、氏子同士の諍いは、氏神が取りなしたと見えるのである。なぜなら、古来、「戦い」は、互いの言い分を通すための意地の張り合いであり、死傷者が多発するような「戦い」は、ほとんど無かったと見るものである。

*場違いな迷言の介入
 この点、近来のNHKBS番組では、古代史素人の「歴史学者」が、「掠奪すれば、労せずして多量の収穫が得られるから、真面目に農耕を重ねるのは馬鹿馬鹿しい」とでも言うような、不適切/不規則/不合理な発言をして、善良な視聴者、中でも、次代を担うべき若年世代に、間違った時代認識を与えているのである。お隣の先進国中国の古代は、確実に地平線の彼方から襲来する騎馬の掠奪集団から、小規模の「自国」を防衛するために、時には、幾重にも、石や土の城壁/防壁を設けていたが、話題にしている「古代」史は、別次元、別時代の様相であり、中国側の視点で書かれた「倭人伝」を見ても、各地遺跡/遺物の考古学的な考証を見ても、自国の防衛手段らしきものは、防衛手段としては無力に近い環濠と防衛柵であり、騎馬武装集団による侵略/掠奪への備えは、乏しいと見えるのであるが、それは、平地に乏しくて、騎馬集団が掠奪活動できない地理状況も加味して、実行不可能で不合理な「総力戦」に訴えることなく「各部族」の折り合いがついていたと見るのである。

 当該「歴史学者」は、主として江戸時代の古文書の解釈を通じて、経済活動を考察して、「歴史学者」たる名声を得たようであるが、こと、古文書の助けを得られない古代史では、江戸時代あたりから類推する策しか取れないようで、困ったものだと歎いているのである。

*「邪馬台国」戯画台頭への嘆き
 現代人は、そうで無くても、戦いを戯画として捉える傾向があるが、人口が少なく食糧確保のための農耕に多数の人員の専念を要していた農業社会では、他国を侵略するためには、農耕を放棄して戦闘員を多数動員する必要があり、そのような時代環境では、勝者といえども戦力の損耗は避けられず、戦利品としての穀類の獲得も乏しいと思われるから、共に、戦後の飢餓に怯えなければならないのである。まして、広域に及ぶ戦乱など、自滅行為なのである。2023年現在、「邪馬台国」をサカナにして、戦乱戯画が延々と展開されているが、誠に嘆かわしいご時世だと思い、苦言したものである。

 言うまでもないと思うのだが、遠隔の他国を征服・支配するには、時に応じて遠征軍を派遣する必要があり、そのためには、物資、食糧の輸送、多数の人員の移動が必要であり、これを国家事業として実施するには、少なくとも、後の山陽道と呼ぶに値する堅固な「インフラ」(国家基盤)が必要なのである。

 当時、遠隔地との交易は、隣接集落との物々交換による送り継ぎ、交易の鎖が存在していて、「交易」と言えるほどの大規模な交換はなかったと思われる。なぜなら、共通通貨が未形成であったから、と思うのである。おそらく、少人数の行商人が往来していたのではないだろうか。
 発掘された遺物に見られる遠隔地物資の流入は、それらがあくまで、貴重品の範囲であり、交易が大規模な実業として成立する規模ではなかったと思われるのである。

*結語らしき感慨
 それにしても、「邪馬台国」に関する議論では、信頼性の高い陳寿「三国志」魏志倭人伝でなく、相対的に不確かさの高まっている後世資料である笵曄「後漢書」やさらに信頼性が低下している後漢書引用史料を根拠とした論理的に証明されていない俗説の類いが横行していて、そのため、素人目にも、俗に言う「邪馬台国」論は、止めどなく混沌としていると見えるのである。
 中国の説話にある、のっぺらぼうな混沌の顔に目鼻を書いて面目を与えると、混沌は死んでしまうと言う教えに従っているのか、それとも、単に、世上に溢れている悪ガキの落書きのようなものに倣っているのか、理屈の通った議論、解明が成されないのが残念である。

 当ブログ筆者のようなその道の素人にも粉飾の目立つ議論であるから、逆に言うと、山成す粉飾を丁寧に取り払えば、意外に単純な中核が見えるのではないだろうか。

以上

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