季刊 邪馬台国126号 投稿原稿 「魏使倭人伝」から見た邪馬台国概説 2015年7月
私の見立て★★☆☆☆ 前途遼遠 2015/10/10 2023/05/03
◯始めに
あらかじめのお断りになるのだが、当記事の大部分は、題材とした論考の書評と言うより、揚げ足取りめいた、常套句批判になっているのは、筆者に大変失礼な発言になるかと思うのだが、論考の一部として、根拠記事を明示することなく書き立てているので、ここで批判するしかないのである。
自画自賛であるが、学界全体にとって大事な指摘を書けたと思うので、無謀にも、以下、延々と私見を書き綴るのである。
*本論
さて、掲題論考筆者の述懐として、「邪馬台国」と言う国名、国家像が、魏志「倭人伝」の記述に由来するものであるから、魏志「倭人伝」の記述に基づいて議論すべきであるという基本的な認識は、当然至極であり、混沌とさせられてしまった「邪馬台国」観に光を投げか掛けるものであり、誠に同感である。
しかし、そのような主張は季刊「邪馬台国」という掲載誌の編集方針と不協和なのを気にしたのか、以下の論旨がそうした基本認識から、微妙に外れていて、論考の首尾が一貫しないことになっているように思える。
季刊「邪馬台国」誌記事にあって珍しく、魏志「倭人伝」に書かれているのは「邪馬台国」ではなく、「邪馬壹国」であるというある古田武彦氏の指摘を採り上げているのは、例が少ないので好ましい。「邪馬台国」誌の沽券に関わる問題なので、ここに書く以上は、論破してくれるものと期待した。
しかし、期待は裏切られた。
「その後の研究により「壹」(壱)は「臺」(台)の表記誤りという考えが主流となっていることから」として「邪馬台国」と書く、と「通説」に逃げているのである。これは、感心しない。
要は、世間の圧倒的な大半が「邪馬台国」と書いているので、長いものには巻かれろとして、それに従っているとしているのであり、いずれが筆者の支持する議論であるか語らない処世法を採っているのである。それでは、世にざらにある安手の要約書籍と変わらない。
さて、それはそれとして、以下の記述で論者の持論に反する言及が飛び出すのである。
「魏志倭人伝」の原本はすでに失われており(中略)現状では、誤写、誤記は考えられるところであり、云々
と、世間の「魏志倭人伝」読み替えの風潮に言及しているのは、著者が同意していないとしても、見かけ上かかる風潮を容認し、迎合しているものと見られる可能性が高く、人ごとながら、それは著者の本意を誤解されて損ですよと感じる。
ここは、大事な分岐点であるので、揚げ足取りとの批判を覚悟で、素人考えで解きほぐしたい。気軽に言及したつもりの「枕」が不首尾だと、肝心の本論の足を引っ張ってしまう例が多々あるのであるので、嫌みと採られても仕方ないとばかり、苦言を呈したと善意に解していただければ幸いである。
さて、「魏志倭人伝」の原本とは、陳寿が編纂し、晋朝皇帝に上申した(いと考えていた)完成原稿を指すのであろうが、
- そのような原本が、1700年を超える期間に失われていることは、中高生でも理解できる程度の「自明の理」であるが、
- 三国志に先行する正史「史記」、「漢書」の原本が、三国志より更に長期の期間に失われていることも「自明の理」であり、
- といって、「後漢書」、「晋書」、さらには、新旧の唐書、など後続正史も、編纂後の経過期間は短いものの、ほぼ例外なく「原本が現存しているものはない」はずである。
- 写本は、如何に原本に忠実であっても、原本そのものではない。
以上は、一種当然の真理である。だからといって、上に書いたように、特に珍しくもない原本の喪失とか原本と複製の不一致なる「真実」を殊更に言い立てて、「三国志」の現存刊本、およびその根拠とされたであろう「三国志」写本の記述の信頼性を、頭から全面的に否定するというのは、まことに粗雑な論法ではないかと考えるのである。
それに続くのが、誤写、誤記の発生の可能性は否定できない、と言う一般論をすり替え、誤写、誤記の発生は当然であると断定してかかる、すり替えの手口である。「可能性」は、あくまでも、完璧からどの程度遠ざかっているかという、不可視の要素を持ち込んでいるので、眼前の史料を書き換える効力は、無いのである。あくまで、絶対的に否定できないと言うだけであり、大して信を置けないものと言わざるを得ないのである。
僅かな字数の字句であるが、以上のように、安穏と読み過ごせず、躓いて立ち止まるのである。他に、適当な論拠は持ち合わせていないのであろうか。まことに、子供じみた論調であるが、それでは、子供達から子供の知力を見くびったとして非難されるかも知れない。
学術的な議論で不可欠なのは、根拠の疑わしい、安易な総括的先入見の粗雑な適用を排した、事例毎の史料吟味「史料批判」であり、その際尊重すべきなのは、原本から継承された写本の信頼性であろう。
そして、見過ごされがちであるが、「正史」が依拠する原史料の信頼性も慎重に評価すべきであろう。
三国志が書かれた西晋朝の存続時点では、先行する後漢朝および魏朝の政府公文書が多く継承されていると共に、至近の事項では、目撃者たる関係者が生存していたであろうことから、三国志は、西晋朝に仕えていた陳寿の職責からして、鮮度の高い良質の原史料、主として公文書を利用できたものと推定して良かろうと思う。
*史料考
別記事で「三国志」と並んで論じられる史料について、これらの事項を冷静に確認して見たので、興味のある方は、各付説をご一読頂きたい。
付説-1 魚豢 「魏略」考
「三国志」と並んで論じると、陳寿の視点と異なる魏朝内部視点から記述された同時代史料であり、「三国志」の補完資料として意義の高いものと見られる。
逸文が多く残存しているのも、それら逸文引用者の評価が格段に高いことによるものであろう。裴松之によって、魏略「西戎伝」が、当時健在であった善本写本から、そっくり「魏志」に追加されたため、魚豢「魏略」の史料としての評価は、十分可能である。つまり、当時未刊であった後漢「西域伝」に相当する記事が大半であり、魏「西域伝」として時代区分すると、誠に閑散としているのだが、魚豢は、魏が後漢を正当に継承したことから、後漢代記事をも、魏略「西戎伝」として上申したのであり、陳寿が、魏「西域伝」を割愛した事情が忍ばれるのである。念のため付記すると、魏志「東夷伝」の末尾に付記されているように、陳寿は、後漢以来の東都雒陽史官が編纂した「西羌伝」を現認していて、当然、熟読した上で、却下しているのである。
再度確認すると、「三国志」は、裏付けの取れない噂話まで取り込んだ唐代編纂の「晋書」と異なり、正統派の史書なのである。
付説-2 范曄 「後漢書」考
後漢書は、本来編纂すべきであった、後漢後継政権である魏および晋が天下統一できず、あるいは、安定政権を維持できなかったために編纂が遅れた後漢書を確固たる信念で編纂したことに意義がある。
時代考証を軽視した東夷記事、特に「倭」に関する記事は、ほぼ全面的に、三国志記事に依拠した編纂、改変記事であり、若干の後世知見を加えたものと思われる。特に、遼東公孫氏の統治下の「郡志」 と言うべき「公式」資料が洛陽に齎されたのは、魏明帝景初年間、帯方郡から由来したと思われるので、後漢書に記述が許された、後漢朝の霊帝逝去時点までの期間については、何ら、史料が存在しない可能性が高い。
この点、笵曄は、史官として訓練、養成されていないため、手に入った魏代史料を年代操作して、後漢霊帝期にずり上げた可能性が高く、先学諸兄姉の、非難を浴びているのであるが、誠に、もっともな合理的な非難と言わざるを得ない。いわゆる、「風説」、偽書の類いと言われても、擁護することが困難なのである。
笵曄の後漢書編纂、改訂の筆致は、文筆家としての名声を赫赫と高めるものであるとしても、こと、東夷伝に関しては、史料としての正確さの判断を保留すべきものである。
付説-3 非正史史料考
*類書考
「太平御覧」等の非正史史料(類書)は、原写本の記述を、厳格/正確に引用している可能性は、かなり低いと見られる。編纂時、どの程度の品質の原写本を起用したか分からないが、粗略と見て取れる「所引」の際の書き写しの精度は万全に遠く、また、類書編纂時に、節略、要約するため、原文の精彩を欠いているものと見られる。
また、俗耳に訴えている粗雑な論法を借りると、類書原本自体は現存せず、原本を現認した人物は生存していない。加えて言うと、類書には、複数の異本、異稿が存在し、原史料を確定することが困難を極めていると見えるが、厖大な類書が、編纂、校訂され、写本される際に、正史と同等の高精度を期せないのは明確である。
少なくとも、類書の記事が、「三国志」現存刊本の記述と競合したときに、「三国志」現存刊本の記述を書き換えるだけの効力があるとは思えない。
言うまでもないが、「太平御覧」等の類書もまた、原本が現存しない資料と思われる。
*翰苑(断簡)考
翰苑(断簡)は、一部、漢方薬の全書めいた部分も残っているようである。そうした、百科事典めいた実用書部分もあるが、当時官吏を目指す者の必須教養と見なされていた「四六駢儷文」のお手本として編纂された風情がある。
つまり、史書としての正確さではなく、漢文としての美麗さを求めた書籍と思われる。
当断簡は、文化財ないしは著作物として高く評価され、国宝として尊重されているとしても、文書資料として評価すると、筆写、校正、浄書が手堅く成されたものとは見えず、つまり、率直に言うと、誤記、誤写、構成の乱れが、校正、修正されずに放置されているお粗末な写本であり、現存している断簡の記述に対して十分な信頼を置くことはできない。
「三国志」写本が、西晋代以来、多年に亘り帝室蔵書として最高級の格式で遇されていたのであり、毎回の写本ないしは刊刻は、帝国の威信をかけた国家事業であり、多数の専門家の手により、慎重に校訂された上で、厳重な管理の下に写本、刊刻されたのに比べて、「翰苑」残簡は、原本や善良な高品質の写本が総て喪われたなか、ただ一例が将来されたものであり、その際、少なくとも一回、杜撰な取り扱いに曝され、その際の壊滅的な被害が、そのまま修復されずに承継されていると言うのが、歴史文書としての評価である。いや、他に良質な写本が継承されていれば、比較校訂して、原本に迫ることができるのだが、現実には、原本の姿が確認できないのである。
*本論復帰
いや、ここで言いたいのは、三国志絶対論ではなく、総体的な信頼性評価である。
特定の史料の信頼性を、明確な根拠を示さずに批判するのであれば、比較対象となっている他の史料も、同じ尺度で信頼性を評価して、それぞれの信頼性を客観的に把握した上で発言すべきと言うことである。下手をすると、五十歩百歩、大同小異の手口で片付けられそうであるが、ここでは、五十歩と百歩は実質が倍違う、そして、精査においては、小異が大事、とのこだわりを持ち続けたいのである。
もちろん、「三国志」の一部である魏志「倭人伝」の記述を、同程度の信頼性をおけない国内史料や、考古学上の発掘遺物に対する憶測を根拠にして改定してはならないと言うことである。
後世正史にしても、「倭人伝」の真意を悟ることなく、後世の浅知恵で、節略、改編して要約したものが大半であるので、よほど用心してかからないと、陥穽に嵌まるのである。
未完