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2023年5月

2023年5月28日 (日)

新・私の本棚 サイト記事紹介 伊作 「邪馬台国・奇跡の解法」1/4

~古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地
私の見立て 星を付けられない絶賛 必読 熟読        2023/05/28 

◯引用紹介のお断り
 サイト記事の紹介のため、記事一覧を引用しています。
 原著者の提言の正確な理解のためには、原記事を全文確認いただくようお願いします。

*「邪馬台国・奇跡の解法」~引用
記事一覧

くまモンの地元が邪馬台国だった (2013-11-04 | ●トップページ)
 <お知らせ> 当該サイト制作者(通称.伊作)は、2014年1月8日病いのため永...

このブログに関する特記事項 (2012-08-21 | ●トップページ)
 開設以来3度目の大規模改装が終りました。(2012年8月完了) 構成を組み替え、...

良く使われる用語 (2012-05-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報)
 『倭人伝』はむろん、これを収録した『三国志』は、古代中国の王朝制度下にあって、...

冊封体制という用語の誤解 (2012-05-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報)
 冊封体制という用語の誤解  朝貢外交に関連して誤解されやすいのが冊封(さくほう...

歴史書の歴史 (2012-05-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報)
 歴史記録の書かれ方  天子は神聖な存在であり聖人君子だから、オープンで公明正大...

中国人のいう倭と倭人 (2012-05-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報)
 倭人の定義  倭人については姉妹編の『倭人の来た道』で詳しく論証しているが、...

朝鮮半島の倭と日本列島の倭 (2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報)
 中国歴史書のいうところによると、朝鮮半島南部の沿岸部と島嶼部一帯には、紀元前の...

倭国の実像 (2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報)
 歴史探求に求められる条件の一つは、歴史に対して畏敬の念をもち、歴史と、その時代...

鬼道の実態 (2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報)
 『三国志』魏書・倭人伝によると、卑弥呼が女王になる以前は鬼道をやっていたという...

鬼道が古墳時代をもたらした (2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報)
 二種の神器から三種の神器へ  卑弥呼の位置づけと評価は、ひとえに鬼道の解釈にか...

やってはならない不当な文献批判 (2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための基礎情報)
 わが国の邪馬台国論には、実にいろんな方法がある。よくみかける『倭人伝』への責任...

1・皇帝の詔書は軍事支援承諾宣言書 (2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための必須条件)
 冒頭で「『倭人伝』を読むための必須条件」を提示したが、それら個々の説明に入る前...

2・里程・行程読みの鉄則 (2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための必須条件)
 冒頭で、以下の通り『倭人伝』を素直に読むための条件を提示した。 ...

やってはならない行程読み (2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための必須条件)
 やってはならない行程読み「順次読み」  不弥国から投馬国まで水行二十日、投馬国...

3・陸路距離表記の実態 (2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための必須条件) 陸路距離尺度の実態
 『三国志』魏書・明帝紀は、司馬懿軍が公孫淵討伐に向かう...

4・海路距離表記の実態 (2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための必須条件)
 海路距離表記の実態  帯方郡から狗邪韓国までの朝鮮半島沿岸部の海路7000余...

5・異常な記録の読み分け (2011-07-28 | ●『倭人伝』を読むための必須条件)
 異常な記録の読み分け ●末盧国に官がいなかった異常さ  『倭人伝』は、対馬国...

『倭人伝』原文と読み下し文 (2011-07-28 | ●『倭人伝』通読)
 正史『三国志』魏書・東夷伝「倭人」(略称『魏志倭人伝』) ●原文 倭人在帯方東...

1・『倭人伝』通読行 (2011-07-28 | ●『倭人伝』通読)
 『倭人伝』の文章構成は以下のように...

2・道程説明と主要各国の概略 (2011-07-28 | ●『倭人伝』通読)
 ●邪馬台国に至る道程と主要各国の概略   ●狗邪韓国へ  「帯方郡から倭に至る...

本項完

新・私の本棚 サイト記事紹介 伊作 「邪馬台国・奇跡の解法」2/4

~古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地
私の見立て 星を付けられない絶賛 必読 熟読        2023/05/28 

◯引用紹介のお断り
 サイト記事の紹介のため、トップページ記事を「お知らせ」を含め全文引用しています。
 原著者の提言の正確な理解のためには、原記事を確認いただくようお願いします。

くまモンの地元が邪馬台国だった
2013-11-04 | ●トップページ
<お知らせ>

 当該サイト制作者(通称.伊作)は、2014年1月8日病いのため永眠いたしました。
 生前のご高配とご親交に、遺族一同感謝申し上げます。
 なお、当該サイトは個人の遺志により、皆様の研究の一助になればということで、未完成の部分もありますが、このまま公開を継続してまいります。
 なお、感想やご質問などに対して制作者が回答する事はできません。
 また、いただいたコメント等は一定期間を置いて削除させていただきます。
 あしからずご了承ください。(制作者遺族)

 日本古代史の新境地「邪馬台国熊本説」画像は「くまモン」を含み、当サイトは使用権がないため割愛。
 https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/00/2fd5c20b4ea90ff57aedab5293bda050.jpg

 『史記』淮南衡山列伝に面白いエピソードがある。

 淮南王劉安が、伍被という腹心の参謀にこう語りかける。
 「将軍よ……」
 これを聞いた伍被は、故事を引き合いに出して劉安に何かを説くのである。将軍とは本来、天子政府の最高位の軍事指揮官の称号である。将軍は天子だけが任命できる位階であり、天子政府の軍事指揮官だけに用いる称号である。換言すれば、将軍と名のつく軍事指揮官がいる政府は、天子を戴く政府であることを意味する。(この場面は、異民族の王に将軍号=名誉称号を与えるようになる時代とは異なる)。その点では『史記』を編纂した司馬遷も、王が乱立して煩雑だった戦国時代にあって、天子ではない王侯の軍事指揮官に将軍の称号は使っていない。せいぜいが上将か大将である。

 つまり、劉安は伍被を「将軍…」と呼ぶことで、天子の座を狙おうと持ちかけたのである。このことを察知した伍被は、劉安に思いとどまらせるべく延々と説得するわけだが、読み手が「将軍とは何ぞや」を知らないと、この二人の会話はまるで退屈なシーンでしかない。
 邪馬台国に関する日本の古代史を考察する場合の最大の資料となるのが、『三国志』をはじめとした中国の歴史書いわゆる正史である。正史とは「正統的王朝によって公式に編纂された過去の王朝の歴史書」をいう。形式的には王朝ごとの歴史を記録した断代史で、王朝の興りから歴代皇帝の時代を扱った帝紀(本紀)と、さまざまな人物列伝を扱った伝でなる紀伝体で構成されている。(その他、地理情報をまとめた地理志・郡国志や、諸制度を扱った百官志・礼儀志などを含む場合もある)。

 故事や比喩が駆使されている漢詞は、歴史・文化・制度・風俗・習慣・地理・風土・故事などなど、幅広い知識がないと意味を理解することはできないものである。中国正史も同じで、その筆法は「簡潔にして饒舌」をもってよしとする。シェプアップされた文章で構成されているから、書いてあることよりも行間のほうが遥かに饒舌な場合が少なくない。つまり、読み手に相応の知識があることを前提に書かれているわけで、中国正史をより正確に読むには、その歴史・文化・制度・伝統・習慣や古代人の信仰的精神性など、幅ひろい知識が求められる。

 当サイトの『三国志』とこれに関連する中国文献解釈の特徴は、可能なかぎり古代中国人の読解レベルに近づくよう努めたところにある。

●新たな解読法の提起

 『倭人伝』を読む方法としては、「素直に読む」という言葉をよく目耳にする。これは、とくに行程記録を読むにおいて、『倭人伝』のいう行程を忠実になぞるという意味で使われるようである。だが私の知るかぎりにおいては、素直に読んでいる例は皆無といえるほどに稀である。

 それもそのはず。『倭人伝』に書かれた(方角を除く)日程・行程手段・距離をそのまま読んでは、誰しも混沌の世界に迷い込む。実は、素直に読みようがないのである。勢い、多くの場合は「『倭人伝』の行程記録は間違い・操作した・ねつ造した」という手法を選択することになる。だが、そうやって方角や数値を書き変えて良ければ、私でも邪馬台国をマチュピチュへ持って行くことができる。

                                    未完

新・私の本棚 サイト記事紹介 伊作 「邪馬台国・奇跡の解法」3/4

~古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地
私の見立て 星を付けられない絶賛 必読 熟読        2023/05/28 

●新たな解読法の提起 承前
 『倭人伝』が書いた行程記録は正しい。ただし、その道のりを正確にたどるために認識しておかなければならない必須条件がある。それが、今回提起する以下の4項目である。

●『倭人伝』を正確に読むための必須条件
❶最もかんじんな女王の都に至る「日程・方角・行程手段・距離」の4つの要素のうち、どれかがどこかで不明になるような行程説明はあり得ない。(すべてが出そろう読み方は一つしかない)。

❷海路航行距離は正しい距離測定ができない。測定不可能なものを正しく表記しようがない。そこで中国の数多の歴史書は、実際の距離とは無関係に1航海を1日単位、または1航海を1000里単位で表記している。(仮に、風待ち・潮待ちで正午に出港して夕刻に到着しても、1日表記もしくは1000里表記になる)。

❸東夷伝の中でも韓伝と『倭人伝』の陸路里程は、魏代の公式尺度の約6倍の尺度数値で書かれている。(巷間にいう短里とは根本的なところで根拠を異にする=後述)。


❹異常な記録を的確に読み分けること。


 
以上の項目はすべて、古代中国の歴史・文化・制度・習慣・精神性や、『倭人伝』の記録から導きだしたものである。当サイトでは、倭人伝を読むための必須条件として、これらを分かりやすく説明している。

*ページ引用終わり

*コメント
 当然の事項であるが、同サイトの記事は、氏が権利者から許諾されて掲載している『くまモン』の肖像を除けば、権利表示されていないし、著者の実名、ないしは筆名、連絡先が明らかになっていないものの、原著作者「伊作」の著作物であることは明らかであり、著作権と著作人格権は、同氏に帰属し、著作権は、遺族に相続されているものと理解できる。
 ここでは、著作権関係法令で許諾されている部分引用紹介を行っているものである。

□記事書評
 以下、氏の労作について、具体的に率直な「批判」を行うものである。

◯政策(Policy)の表明 *引用(補追あり)
 邪馬台国に関する日本の古代史を考察する場合の最大の資料となるのが、『三国志』をはじめとした中国の歴史書いわゆる正史である。 中略 故事や比喩が駆使されている漢詞漢文資料*は、歴史・文化・制度・風俗・習慣・地理・風土・故事などなど、幅広い知識がないと意味を理解することはできないものである。中国正史も同じで、その筆法は「簡潔にして饒舌」をもってよしとする。シェ(イ*)プアップ(凝縮*)された文章で構成されているから、書いてあることよりも行間のほうが遥かに饒舌な場合が少なくない。つまり、読み手に相応の知識があることを前提に書かれているわけで、中国正史をより正確に読むには、その歴史・文化・制度・伝統・習慣や古代人の信仰的精神性など、幅ひろい知識が求められる。
 当サイトの『三国志』とこれに関連する中国文献解釈の特徴は、可能なかぎり古代中国人の読解レベルに近づくよう努めたところにある。

*コメント
 氏の政策表明で感嘆すべきは、忌憚のない至言である。つまり、氏の指摘する要件を欠く「正史」解釈は、欠格、論外であると明言しているのである。
 例えば、先人の至言で「魏志倭人伝は、古代中国人によって、古代人のために書かれたものである」と提示されている場合、世上では、勝手な解釈で、「だから、曲筆や誤謬に満ちている」と曲解されて、先人の本意が伝わっていないのである。さらには、そのような「曲解」が、先人の意に反して蔓延しているのである。

 こういった嘆かわしい状況であるから、当ブログ筆者も、文意を解する能力に欠けているものを意識して、時に攻撃的と受け取られるほど、明解に/率直に/誠意を持って直言しなければならない、義務を課せられているということである。

                                    未完

新・私の本棚 サイト記事紹介 伊作 「邪馬台国・奇跡の解法」4/4

~古代中国の知見と価値観で読む『倭人伝』解読の新境地
私の見立て 星を付けられない絶賛 必読 熟読        2023/05/28 

*引用
●新たな解読法の提起
 『倭人伝』を読む方法としては、「素直に読む」という言葉をよく目耳にする。これは、とくに行程記録を読むにおいて、『倭人伝』のいう行程を忠実になぞるという意味で使われるようである。だが私の知るかぎりにおいては、素直に読んでいる例は皆無といえるほどに稀である。
 それもそのはず。『倭人伝』に書かれた(方角を除く)日程・行程手段・距離をそのまま読んでは、誰しも混沌の世界に迷い込む。実は、素直に読みようがないのである。勢い、多くの場合は「『倭人伝』の行程記録は間違い・操作した・ねつ造した」という手法を選択することになる。だが、そうやって方角や数値を書き変えて良ければ、私でも邪馬台国をマチュピチュへ持って行くことができる。

*コメント
 先に提言されたように、必要・不可欠な素養に欠ける現代人、つまり、古代漢文を解し得ない、二千年後生の無教養な東夷が、「素直に読む」と恥ずかしげも無く書くことの非を、全力で詰(なじ)っているのである。「倭人伝」記事を読解できない責任を「倭人伝」編纂者に押しつけて、誤謬、曲筆、捏造を唱え、自身の見解に合うように「倭人伝」を改竄していることの非を、かくも明快に明言しているのである。
 世上、個のような正論中の正論が、世上一切紹介されないのは、まことに不明であったと悔悟して、ここに紹介したものである。

*引用
●『倭人伝』を正確に読むための必須条件
❶最もかんじんな女王の都に至る「日程・方角・行程手段・距離」の4つの要素のうち、どれかがどこかで不明になるような行程説明はあり得ない。(すべてが出そろう読み方は一つしかない)。

❷海路航行距離は正しい距離測定ができない。測定不可能なものを正しく表記しようがない。 中略


❸東夷伝の中でも韓伝と『倭人伝』の陸路里程は、魏代の公式尺度の約6倍の尺度数値で書かれている。(巷間にいう短里とは根本的なところで根拠を異にする=後述)。


❹異常な記録を的確に読み分けること。


*コメント
 当ブログ筆者の道里行程記事解読は、氏の解読と異なる点があるので、部分的には異議があるが、至言は至言である。❹は、真意が不明であり、「後述」して欲しいところであった。
 以上の通り、氏は、「くまモン」を掲げたために、「ご当地」論者と誤解され、そうでなくても百花斉放の「邪馬台国」比定騒ぎにおいて、また一つの「混沌」を醸し出していると見えてしまうのが、最大の弱点であるが、何とも勿体ないのである。

 氏の卓見がほとんど顧みられていないのは、氏の「熊本」説を見て、他所説の論者が見向きもしないところにあると見えるのである。それが、「邪馬台国」論争の度しがたい底層であるが、誰が仕掛けた闇鍋なのか、何とも、傷ましいことである。

 因みに、現存の「熊本」説論者は、氏の提言に関係なく、倭人伝「改読」/「改竄」派であり、中には、「正史」「原本改竄」説にのめり込んでいる例もある。俗に言う「つけるクスリのない輩」には、いくら氏が卓見を打ち立てても耳に入らないのである。

*本稿まとめ
 本稿の目的は、氏の卓見を広く紹介するものであり、その際に、氏の提言の瑕瑾が揚げ足取りされないように、個人的に校訂しようとしたものである。決して、盗用しようとしているものではない。因みに、史学論考では、むしろ、先人の著作を正確に引用し、踏襲、ないしは、克服することが求められているのであり、決して、新説を、新説であるだけで尊重するものではないのである。

 当ブログ筆者は、プログランキングに参加するとともに、著名な先賢諸兄姉の著書に対して批判を加えることで、自身の知名度を上げることを望んだものである。数名とは言え、フォロワーを得て、数少ないとは言え、「被引用」の栄誉に浴したものである。

 並行して、諸兄姉のブログを渉猟したが、これまで、遂に「伊作」氏の謦咳に接することはできなかったものである。この点、不明をお詫びするとともに、偉業の顕彰を図るものである。願わくば、いずれかの出版社から、書籍化提案があって欲しいものである。

*紹介記事予告
 当ブログ筆者の従来の諸記事は、伊作氏の提言を知らずに、独自に書き上げたものであるが、氏の遺稿に接した以上、参照元として宣言した上で、必要に応じて原文引用を行い、ひいては、自説の強化/向上を図る所存である。
 対象が商用書籍や学会誌であれば、そのような配慮は不要だが、個人ブログは、所詮、水面に浮かぶ「うたかた」であり、当ブログもまた、ご多分に漏れず限りあるもので有るから、多少とも氏の偉業を広く顕彰し、世に拡散して、風化に逆らうものである。

 例によって、一介のブログ筆者のなし得ることには限りがあるが、せめて手桶一杯の水を散じてみたいのである。

この項完

2023年5月21日 (日)

毎日新聞 歴史の鍵穴 「伊勢・出雲ライン」の妄想

伊勢・出雲ラインの意味 神話を演じる祭祀空間か
 =専門編集委員・佐々木泰造  私の見立て☆☆☆☆☆ 2016/09/21 補充 2023/05/21

*お断り 2023/05/21
 当記事は、コラムとしては、終了して久しいものであり、誠に旧聞であるが、爾来毎日新聞紙上で是正されていないと見え、一方、一部で、当方の記事を参照していると見えるので、自衛のために、補充、再掲載したものである。近来の補充/再掲載は、概して、同様の理由に基づくものであり、弱者の自衛策として、看過頂ければ幸いである。
 なお、上記リンクは、公開期限切れで解消しているようである。

◯始めに
 今回の題材は、毎日新聞夕刊の月一コラム「歴史の鍵穴」の今月(2016年9月)分の批評であるが、またもや、「地図幻想」を蒸し返しているので、当ブログとして、誠意を持って対応している証拠として、蒸し返しに近い指摘を繰り返さねばならないのである。

*総論
 素人が、無報酬で頑張るのは、不似合いであり割に合わないと思うのだが、本件のように、途方も無い暴論に対して、世上、当然と思われる批判が見られないので、柄杓一杯の冷水を、燃えさかる野火に注ぐものである。とても、火消しにはならないが、柄杓一杯分の消火活動に務めているのである。

*主題
 今日の技術でも、各地の三角点やそれらを利用して作成した地図、或いはGPSと言った技術が無ければ、見通しの利かない地点間を直線で結ぶことは不可能であり、従って、8世紀当時も不可能であったと断じざるを得ない。いくらなんでも、高校生レベルで納得できる話と思うのだが、どうも、高貴な身分の方は、耳を貸さないようである。イソップ物語に擬えるのは控えるが、佐々木氏が、毎日新聞の専門編集委員なる格別の権威にふさわしい知性を示していないので、何かや輸したくなるのである。
 このような批判に対して、確たる証拠を持って反論するのが、全国紙に堂々掲載されたこの記事の筆者の責任だと思うのである。

*引用資料の内容確認
 2009年の「国立歴史民俗博物館研究報告」第152集掲載という論文を引き合いにしているが、字数多くして一向に要領を得ないので、別ページで原資料の書評を掲示している。

私の本棚 水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話
抄録:本稿は,『続日本紀』の記事に散見され,『貞観儀式』や『延喜式』にも見えるところの,出雲国造が天皇に対して賀詞などを奉上する儀式の意義について考察したものである。
(以下略)

 結論を言うと、当記事で紹介されている部分、つまり、「地図幻想」は、水林氏が本来の論説を展開したあとで、自身の「私見」を補強するために同僚の私見の教示を仰ぎ、論証無しの「憶測」であることを理解せずに、自説として取り込んだ部分であり、当記事で、付け足しのように長々と引用されているのが、水林氏が、いわば心血を注いだ本論なので、紹介の軽重・順序が倒錯しているのである。

 それにしても、厳しい言い方をすると、「伊勢・出雲ライン」幻想は、水林氏自身が論説の冒頭で提示した学問上の信念に反して、現代的な思考を、論証無しに古代の考証に持ち込んだ「無効」な議論なので、その点を理解した上で慎重に引用すべきなのである。
 毎日新聞の専門編集委員が、正確さに疑問のある、未検証の理論を孫引きにも拘わらず、「通説」として引用するのは、不見識この上ないのではないかとの批判を免れないのである。

 言うまでもないが、このようないい加減な「トンデモ科学」めいた思いつきを安易に受け売りすると、論説全体の信頼性を害するものであり、即ち、毎日新聞の権威に重大な疑念を投げかけるのである。

*締めくくり
 と言うことで、今回も、ため息をついて、当記事は非科学的なものであり、ダメだと言わざるを得ないのである。特に、今回は、水林氏の卓見の論証の欠けた蛇足の部分が冒頭に引用され、論説本体が巻き込まれて批判されるのは、困ったものである。

 一素人がちょっと調べて、論証の(象の隊列がすらすらと歩き抜けられるような)「アナ」をぞろぞろと指摘できるような粗雑な論説の付け足しを、本来必要もないのに、なぜ紹介するのか、理解に苦しむのである。
 ご自身が、しきりに押しつけている「地図幻想」も、受け売りと言って、別人に責任転嫁するつもりなのだろうか。

以上

 以上

私の本棚 水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話

 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ
 古代天皇制における : 出雲関連諸儀式と出雲神話(第1部 古代の権威と権力の研究)

 私の見立て★★★☆☆ 「架空地図」説の不合理は           2016/09/21 補充 2023/05/21

◯始めに
 今回の書評も、論文全体に関するものではなく、部分的なものである。
 そりゃそうである。専門とされている学問分野で研究された堂々たる成果に、通りがかりの素人が、異議も異論も無いものである。あくまで、素人に手の届く低次元の話なのである。

抄録冒頭抜粋
 本稿は,『続日本紀』の記事に散見され,『貞観儀式』や『延喜式』にも見えるところの,出雲国造が天皇に対して賀詞などを奉上する儀式の意義について考察したものである。

*コメント
 まず、感銘を受けてのは、冒頭で提示される至言である。
 8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである。

*とんだ「東西線妄想」
 ところが、引き続いて、と言っても、大分後方なのだが、蛇足とも見える形で、首を傾げる主張が見られる。
 この一直線は,「おおよそ」のものではなく,厳密なものであった。後藤真氏のご教示によれば,〈出雲大社―平城宮内裏跡―伊勢神宮(外宮)〉は,約104.6度(真北を0度,真東を90度とした場合の角度)の線上に並ぶのである(この東西線は,新暦で2月15日の頃,旧暦で正月に,伊勢神宮の東彼方から太陽が昇るラインにほかならない)。
 偶然とは考えられない事態であり,おそらくは大陸から伝えられた高度の測量技術をもって意図的計画的に配置されたに相違ないのであるが,そうだとすれば,このことは,出雲大神宮が平城宮時代(その設計・準備段階も含む)の建築物であることを示唆する。

*コメント
 水林師に教示された後藤真氏は、国立歴史民俗博物館 研究部 准教授であり、歴史GIS(歴史地理情報システム)の関係者のようである。それにしても、考古学界の一員であれば、後世知の極みである歴史GIS(歴史地理情報システム)を無造作に8世紀の事項に適用することの「無効」さは、自明であろう。
 水林氏の見解は、無批判の受け売りでなく、氏ご自身の考察を経たものとされているが、「偶然とは考えられない事態であり,おそらくは大陸から伝えられた高度の測量技術をもって意図的計画的に配置されたに相違ないのであるが,そうだとすればこのことは出雲大神宮が平城宮時代(その設計・準備段階も含む)の建築物であることを示唆する。 」と展開されている論理は、検証されていない臆測の類いで連鎖しているのであり、このような論理の連鎖は、全体として、大変不確かで、脆弱な思いつきに過ぎないと判断されるものではないか。水林師ほどの権威者にしては、随分不用意な展開であり、師の権威に大きな影を投げかけるものと見える。

 と言うことは、古代史学分野に、「東西線妄想」が、蔓延しているのだろうか。困ったことである。そのために、水林師が陥穽に墜ちているのは、傷ましいのである。

 ただし、次のような漠然たる地理認識が八世紀に存在していたことは、もう違う余地はない。(「宇宙軸」は、ため息をつかせる粗雑な言葉遣いであるが)但し、大和から西というと、伊豫を経て筑紫の方角ではないかと見える。いや、現代人が、現代と図を見て、そのような感慨を持つのは、それこそ、個人の感想であるので、否定/排斥はできない。
 大和が東であり,この東としての大和から見て出雲が海に没する西の辺地にあたっていたという宇宙軸の存在であったと思う。

 また、〈伊勢大神宮―平城宮―出雲大神宮〉を律令天皇制が創造した祭祀演劇空間として捉える前記私見と言うように、論考でなく、思いつきの私見であることも、適確に自認されているものである。如何せん、世上、威勢の良い断定的発言に囚われて、発言に対して、限定的な制限が課せられていることを見逃している方が、誤解する例が多いのである。そして、世上、そのような「誤解」が一人歩きして、定説めいた扱いを受けることが少なくないのである。

*検証の試み
 そこで先ほどの論説の考証をはかると、中々深刻な誤解が含まれている。素人の考えであるが、ご不審であれば、ご自身で権威者の意見を確かめて欲しいものである。

 旧暦も新暦も後世用語であり、当時当地にあったのは、中国由来の太陰太陽暦(ここでは中国暦という)である。中国暦は、太陽の運行と「厳密に」同期していないので、旧暦で正月(元日のことか)と言っても、年によってばらつきが多い。もちろん、新暦2月15日というのは、読者に錯覚をさそう、時代錯誤である。今日中国で春節と呼ばれる旧正月が、暦の上で年ごとに異なるのは衆知である。中国暦でも、二十四節気は太陽運航に適確に同期しているから、「立春」とでも言えば、精度が高まるのだが)

 このように、基本的な時間軸データが不確か(365日に対して10日程度。つまり、360度に対して10度程度の誤差)である以上、角度測定がいくら「高精度」であったとしても、104.6度なる、3桁以上の精度での推定が成り立たないのは自明である。まして、8世紀にどの程度の角度精度が得られたか、何か資料でもあるのだろうか。素人だましの104.6度ではないかと思われる。
 と言うことで、「厳密」という時代錯誤の言葉を撤回するとしても、まだ大きな問題が残っている。

 言うまでもないが、ある地点での真北を、8分法(45度間隔)を越える精度で知ることができたとしても、その地点の例えば105度/255度の方向に線を引いて、どこまでも伸ばして、その線上に特定の地点を求めるのは、そのような角度の測定精度とは別の話であり、現実の地形の上に線引きしていく地道な「測量技術」が必要なのである。

 なぜなら、ある地点Aの105度/255度と別の地点Bの105度/255度を天体観測で求めることができたとすると、それぞれの角度は天球上の同じ点を指すだろうが、A地点の105度/255度線上にB地点が存在するかどうかは、天体観測では知り得ないのである。

 現代であれば、GPS情報で容易に知ることができるが、測量技術が近代化し、全国が三角測量し尽くされたたあとでも、容易な技術でなかったことが知られている。例えば、トンネル掘削で、両側から掘削された坑道が、食い違うことなく遭遇し、遭遇時点が正確に予測できたのは、大戦後のことなのである。

 このように、後藤氏の提言は、現代の科学技術によってのみ確認できる地理的な感覚を、無法にも、8世紀に持ち込むものなので、根本的に非科学的であり、不合理なので、端から、古代史学では、無効だと思うが、いかがであろうか。

 以上のような素人考えは、冷静な論者には、むしろ自明と見えるので、古代史学の分野で、「東西線妄想」が、無批判で蔓延していることに、危惧を感じるのである。

以上

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私の本棚 呉書 裴松之にしかられた陳寿 幻の「赤壁の戦い」談義 更新

                     2016/09/20 追記2021/03/04 2023/05/21 
 「正史三国志」Ⅲ 呉書 筑摩書房刊 による
 周瑜魯粛呂蒙伝第九

 本稿で論義するのは、陳寿「三国志」冒頭の山場である。

 ここで取り上げた呉書「魯粛」伝には、後漢献帝建安十三年、丞相に任じられたばかりの曹操が南征の途に発ち、長く自立を保ち続けていた荊州刺史劉表の没後の混乱に乗じて、荊州をほぼ無血で征服して、その軍勢、軍船を指揮下に取り込み、長江(揚子江)を下り、総勢八十万と称して孫権に服従を迫ったとき、孫権が、荊州を追われた劉備勢力を味方に付けて曹操と対決すると決したときの劇的な経緯が、呉書の列伝記事として描かれているのだが、裴松之は、次のように、陳寿の編纂が不備であると非難している。

〔一〕臣裴松之が考えるに、劉備が孫権と力を合せて、中原からの〔曹操の〕進出をくいとめるというのは、まったく魯粛の元来からの計画であった。加えて、諸葛亮に「私は子瑜どのの友人です」といっているのであるから、諸葛亮は早くから魯粛の意見を聞いていたのである。しかるに「蜀書」の諸葛亮伝では、「諸葛亮が連衡のはかりごとを孫権に説くと、孫権は大いに喜んだ」という。「蜀書」の書き方のようであると、この呉と蜀との連衡の計は、諸葛亮の発意に出たことになる。こうした書き方は、二つの国の史官たちが、それぞれが伝聞したところを書き記し、競って自分の国の立派さを称揚して、それぞれが手柄を一人占めしようとしているかのごとくである。しかるにこの「呉書」と「蜀書」とは、同一人の手に成るものでありながら、こんなふうに食い違っている。歴史記述の根本に違反するものである。

 つまり、陳寿が編纂した「三国志」「呉書」及び「蜀書」の編纂素材としてそれぞれ利用した「東呉」及び「蜀漢」の資料が、それぞれの勢力中心の視点で書かれているのを、陳寿が、編纂者として付き合わせずに、いわば無造作に、三国志に収録しているのを「叱り付けている」のである。
 しかし、遙か後世の読者である当ブログ記事筆者の個人的な意見では、それは、ちょっと厳し過ぎる。

 陳寿が編纂したとは言え、「三国志」「呉書」と「蜀書」は、「魏書」孫権伝と劉備伝ではなく、独立政権の「国志」として書かれている。従って、それぞれの政権を中心とした筆致にならざるを得ないのである。そういう編纂方針であるから、観点の不一致は見過ごすべきである。

 もちろん、裴松之も、そこは理解していたろうが、劉宋皇帝の手前、正史の大義名分に関わる点は、点を辛くして指摘せねばならなかったのであろう。

 ちなみに、三国志「魏書」冒頭の「武帝紀」、つまり、「曹操本紀」には、このとき、魏太祖、つまり曹操は、赤壁で劉備と戦って敗れて撤退したと書かれている。前後関係が明確では無いが、孫権は、長江北岸の合肥(ごうひ)城を攻撃したが、曹操が援軍を送ったと聞いて、(さっさと)包囲を解いて撤退したと書かれている。

 三国志でも、曹操と袁紹の「官渡の戦い」に続く山場となるはずの「赤壁の戦い」であるが、曹操の敗戦と言うこともあってか、「武帝紀」は淡々としている。孫権が赤壁に不在であったとまでは書いていないが、曹操撃退の大功を劉備に与えているのである。編纂の際に言葉を選んで、あえてそのように書いたとみて良い。
 裴松之は、この点で陳寿をしかってはいない。

 むしろ、「二つの国の史官たちが、それぞれが伝聞したところを書き記し、競って自分の国の立派さを称揚して」いると、三国志の由来を明らかにしているのである。世評を代弁してみせるように、それでは、三国志編纂の際、編纂者の筆が加わっていないことになる、と歎いて見せているが、裴松之自身は、むしろ、そのような三国志独特の構成に、特に異議を唱えていないように見える。


〇「赤壁の戦い」の幻想~序章 2021/03/04

 この時、後漢は健在であり、鄴の朝廷で丞相に任じられていた最高権力者の曹操は、あくまで、後漢献帝のもとの丞相であり、魏公のような魏の付く称号は被っていなかった。従って、率いていたのは、後漢の官軍である。

 孫権は、後漢の会稽郡太守であり、古来「呉」と呼ばれていた地域を支配していたから、「呉主」とでも呼ばれていたかも知れないが、「呉」王と称して自立していたわけではない。但し、皇帝の臣下とは言え、人質を出すとか、当然の義務を果たしていなかったから、叱責から誅伐に至る何れかの罰を受ける可能性はあった。

 劉備は、一時、後漢に仕えて曹操の傘下にあったが、劉姓のため、遠縁の皇族扱いされていて、曹操打倒の陰謀に巻き込まれかけたため、さっさと逃亡したものである。そのため、後漢皇帝に対する謀反人として、それこそ、指名手配されていた罪人であった。一時期、同姓のよしみで荊州刺史の劉表のもとに寄留していたが、曹操の攻撃を受けて、長江下流に逃亡し、曹操に対抗していた孫権の客分として滞在していたである。もちろん、長江上流の「蜀」の劉章を攻撃して国盗りしたのは後年のことであり、この時点では、領地を持たない劉備流離軍団の統領に過ぎなかった。

 と言うことで、曹操の狙いは、孫権の軍備が整っていない段階で、荊州水軍と自前の騎馬軍団の威力で、「恫喝して孫権を隨身させようというもの」であり、決して、討伐して攻め滅ぼそうというものではなかった。直前の荊州攻撃でも、実際は、大軍の威力で戦わずして降伏させていて、後継者は地位を保全しつつ遠隔地に移動させる処置を執っていて、この際、孫権を同様に取り除けないものか、というものだったと思われる。つまり、孫堅傘下の諸将といえども、周瑜のような猛将は別として、地方に領地を持つ面々は、服従するなら温存しても良いと見ていたのである。

 曹操の陣立ては、概して見かけ倒しであったはずである。荊州での本格的戦闘に備えて、南征に要する戦糧は、保持していたから、江南での小戦闘は折り込み済みであったが、大軍を渡河させて地元の孫権軍と戦うには、大量の食糧を長江越しに運ぶ兵站の必要があり、孫権の水軍に、兵站船を攻撃されると、騎馬兵を含む大軍が挫折して大敗する可能性が高いから、曹操は、そのような「無理攻め」は、一切考えていなかったと思われる。
 当座は、孫権軍を痛い目に遭わせて、長江下流の合肥(ごうひ)城への侵攻を断念させる程度であったと見えるのである。

 と言うことで、曹操には、その時点に積極的に江南に侵攻する気はなかったと見える。何しろ、曹操は、「孫氏兵法」を全巻読解しているから、万全の用意の無い戦いはしないし、そもそも侵攻してこない敵(孫権)との不必要な戦いはしないのである。

 ここまでをまとめると、曹操は、孫権を強攻で打倒して、江南を支配下に収める気は無かったから、軽く痛い目に遭わせる程度で、早々に撤退して帰京する方針だったと想像される。

 明記されてないが、当然、曹操の荊州征伐は、献帝の指示に基づくものであり、魏志に書かれていても、曹操は宰相に過ぎないので、皇帝の命令に従っていたのである。続く、孫権に対する軍事行動は、あくまで、孫権の服従を促すものであり、討伐の勅命は受けていなかったのである。なぜそのように推定するかと言えば、もし、曹操が献帝の命で孫権を討伐しようとしたのであれば、これに反して、違命で帰国したとすると、宰相といえども、厳罰を免れないのであり、軍法によれば、軽くて降格/免職、重ければ、死罪である。大罪の場合は、親族が連座するので、曹丕も曹植も、ともに斬首である。少なくとも、帰国の際に、皇帝に対して、深い謝罪の意を示さして、裁定を仰ぐものである。

 そのような記録が残されていないということは、官軍を率いた曹操は、勅命を受けて孫権討伐の戦を催したのではなく、従って、敗北しなかったということである。
 中国史に通じていない方達は、後世の軍談にのって、あることないこと、大胆に謳い上げているが、史学で言うなら、史料を踏まえた慎重な解釋が求められるのである。「三国演義」以前に、南朝の封土には、天下平定しながら、中原を喪失した、西晋、そして、その前身である曹魏に対する反発は根強かったのであり、そのような偏見に基づく野史の類いは、世にあふれていたと見えるのである。

以上

追記:2023/05/09
 近来、ネットで、風評記事として、ここに挙げたような「赤壁の戦」論義を笑い飛ばしているのを見かけたので、正確な批判をいただけるように、再公開するものである。
 因みに、当方も、曹操と孫権の対峙で、孫権が屈服しなかったために、曹操の存命中の東呉制覇はならず、そのため、当時孫権軍に付随していた劉備軍団が、曹操軍の撤退後、長江を遡上して、蜀漢を建国したことを大事件と見ているが、「赤壁の戦」を曹操大敗、敗走と見る見解には、同意できないことを述べているのである。孫権が、献帝の宰相である曹操に屈従していれば、既に、後漢に対する朝敵とされていた劉備軍は、後漢の走狗となった東呉孫権の討伐を受けることを避けられず、到底、蜀漢建国はなし得なかったと見える。

以上

2023年5月20日 (土)

今日の躓き石 NHKサタデーウォッチ9の【リベンジ消費】暴言

                      2023/05/20
 今回の題材は、普通に考えられない公共放送NHKの看板番組の暴言である。ここまでによく指摘するスポーツ番組の粗忽なでまかせ語りの失言では無いのである。

 本日土曜日の65分番組のメインの一つである「ディープな体験が人気-戻ってきた外国人観光客」と題するトピックで、ようやく回復してきた観光需要のはずが、突然「リベンジ消費」などと、侮るように口走ったのには、恐れ入った。国内の一般国民に対して言うのも、途方も無い大変な暴言なのだが、今回は、良識ある公共放送が外国人観光客に対して「リベンジ消費」と蔑称を貼り付けているから、大変な罰当たりである。インタビューで、"Is this consumption your revenge?"と訊くのだろうか。敬虔なキリスト教徒であれば、大変な侮辱、罰当たりと思うはずである。

 NHKの番組は、十分な編集過程を踏んでいるはずなので、このようなつまらない、とんでもない失言が公表されるというのは、公共放送への信頼性を、大きく損なうものなので、情けないものである。

 それにしても、最初に「リベンジ消費」 などと言いだした「やから」は、ちゃんとした口の利き方を知らない無責任なお方だろうが、よくも、罵倒、中傷に近い暴言を広めたものである。いや、褒めているのではないのは言うまでもないが、「頭が白くなった」などと、平然と口走る芸術家もいるので、念を押すのである。

以上

2023年5月17日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞スポーツ面の病根 「リベンジ」見出し

                            2023/05/17 /19
   
 今回の題材は、残念ながら、毎日新聞大阪朝刊14版のスポーツ面のプロ野球報道である。

 探すまでもない。堂々と、横見出しで、「バウアーにリベンジ」と惨状を呈している。
 選手は、メジャーリーグ(MLB)で活躍したので、現地でrevengeを口にすると大変な非難の渦を巻き起こすことをご存じのはずである。そうした「教訓」を、「プロ野球」だけで無く、国内の関係者全体に伝えてほしいものなのだが、どうしているのだろうか。関係者には、口に出したり、記事に書いたりするのを職業としているメディア関係者を含めるのは言うまでもない。

*なれ合い疑惑
 記事本体から推察するに、縦見出しの主語で横見出しに流れ込んでいると見える選手は、独断で「来日初勝利」を献上したらしい。個人でチームの勝ち星を進呈するのも情けないのだが、今回は、独断で「報復」したらしい。チームの意見はどうなのだろうか。
 そもそも、前回の対戦で「納得して献上」したはずなのに、「借り」を返せとばかり、血の復讐「リベンジ」に及ぶとはどういう意味なのだろうか。つまり、前回の「献上」試合は、「なれ合い」であり、野手だから打席で凡退して進呈したと読めてしまうのではないか。これは、固く禁止されている敗退行為を示唆するものであり、毎日新聞記者としては、不穏当な発言である。
 このあたり、当の選手の混乱なのか、担当記者の混乱なのか、大問題と見えるが、紙面左上の大記事なのに署名がない。毎日新聞の方針は、誠に、ウナギのように掴みがたい。

 どうも、毎日新聞社は、真っ当な編集を経ていない記事紙面を読者に振る舞っているらしい。気の早い読者が、見出しの連携を読み損なうのは、どちらの責任だろうか。定期購読者として長年お付き合いしてきたが、誠に、悲しいことである。

*追記 2023/05/19
 ついでながら書き足すと、当記事の翌日18日のスポーツ面は、「ヘッスラ」なるいかがわしい見出しで、読者を歎かせたのである。善良な読者は、毎日新聞に対して、誹謗中傷の横行するネット記事並の乱文を期待しているのでは無い。

 どうも「ヘッドスライディング」をネット上で書き殴っているのに倣ったらしいが、全国紙は、程度の低い、聞きかじりのいい加減な言葉を普及するのを期待されてはいないのである。ちゃんと、まともな言葉に言い換えるだけの時間と給料は貰っているものと思いたい。

 それにしても、三塁打を獲得するためにスライディングするのは常識として、通常は、大けがを防ぐために、足から滑り込むものであり、三塁手も、スパイクを畏れて、緩むものである。それを、スライディングの「行きすぎ」を避けるために頭から行くのは危険そのものであり、こどもたちが真似しないように努めるのが、プロ選手では無いかと思われる。天下の全国紙が、無謀なプレーを讃えるのはどうしたものだろうか。
 大新聞は、タダでなだれ込んでくるネット記事と違う、購読料の元が取れる価値ある見識を示して貰いたいものである。いくら、若者に媚びても、読者獲得にはならないのである。
 悪く取ると、毎日新聞は、ネット記事を盗用しているのではないかと危惧するのである。「ヘッスラ」 に著作権は成立しないかもしれないが、無断利用は感心しないのである。

*「プロ野球」は、悩まないで選手を守るもの
 毎日新聞の権威が地に墜ちていないのは、別のページで、「SNS中傷 悩めるプロ野球」と題して、ネットにはびこる「馬頭星雲」ならぬ「罵倒星雲」から送りつけられる「誹謗中傷」投稿について、担当記者が「書き返すリスク」と題してまとめている内容から伺うことができる。
 誹謗中傷発言に応答すると、論争と見なされて、泥沼に引きずり込まれ、対等の当事者となる可能性を想定しているようだが、それは、太古以来の「誹謗中傷」常套手段であり、いわば、感情的になって応答して「リベンジ」合戦に巻き込まれ、いわば、テロリストの仲間入りするのは、断じて避けねばならないのである。古来、「喧嘩両成敗」の止め方が出回っているから、そこにあるのは、「リスク」ではなく、確実にそこにある陥穽、あるいは、レンガの壁である。投稿者には、何も失うものが無いから、「両成敗」など、もっての外である。挑発に乗ってはいけない。

 この点、記者の認識、論法は、かなり投稿者の思うつぼに入りかけているが、最後に、これは、多数の法律家を擁している「プロ野球」つまり「NPB」が機構防衛のために全力で対処すべきものであり、そのために、各球団と選手会の共同声明などではなく、NPBが全国紙上に発表すべきものなのであり、これを、政府当局者が、新たな法的規制の形で具体化すべきなのであると、記者の本分に目覚めたようである。

 いや、この署名記事担当記者の言明は、毎日新聞社が、報道機関として健在であることを示したものであり、そのためにも、日常紙面から、不用意な暴言、中傷を撲滅することが望まれているのである。

*言論の護り人の務め
 毎日新聞社に対して、これまでも、これからも、手厳しい、つまり、遠慮の無い、率直な意見を呈するのは、毎日新聞社が、歴史的に権威を保ち続けていることに対して、尊敬の念を示したものである。当記事は、毎日新聞社に対する苦言であるが、当記事読者が、走り読みの聞きかじりで担当記者への誹謗、中傷だと解しないように、丁寧に言葉を足しているものである。

 それにしても、野球界に根強く蠢いている前近代的な感情論、報復論は、いつになったら消え去るのだろうか。

以上

2023年5月15日 (月)

古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 序章  1/5 補充版

              - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23 補追 2023/05/10, 11, 12, 15
〇始めに
 本考は、当ブログでは番外も番外、長く続く外出自粛の夜の夢物語(ロマン)の試みです。果たして、一幕の随想としてうまく繋がるかどうか。
 ここでは、後のまとめを書き足して、5回ものにしました。(05/10)

*ロマンのお断り
 当ブログの読者には、「倭人伝」道里記事の「エレガント」な解釈を主張している記事と整合しないことに御不満の方もあるでしょうが、当記事は、「邪馬台国」比定記事の溢れる中で、今ひとつの「解」を提起したものでもあり、これまで、見過ごされていた記事解釈を殊更に読み込んでいるものです。部分的には、従来提起してきた解釈の構成要件を再確認しているので、一応の存在価値が示せているものと考えます、

*「邪馬台国」便乗のお断り/お詫び
 ここまで、大事なことを言い漏らしているので、慌てて、追記しますが、当ブログは、倭人伝原文を基本としているので、世上溢れている「倭人伝」には存在しない「邪馬台国」は、誤謬として排除しているのですが、本稿に限り、爪を隠して「邪馬台国」としています。
 別に、「長いもの」に巻かれているものではないので、よろしくご了解下さい。

*訂正の提案 2023/05/12 再確認
 当初の構想では、単なる「思いつき」の書き止めであり、本来の考証記事にしては、随分雑駁なものだったのですが、少数ながら熱心な読者がいらっしゃって参照されているように見えるので、ここに、不本意な、意図していない「誤解」を避ける書き込みを、延々と書き足しています。よろしく、趣旨ご理解の上、適切な引用を進めて頂ければ幸いです。
 世上、過度に性急な論者が少なからずいらっしゃって、前置きや但し書きの読み捨てどころが、記事自体の文脈を破壊して、単語や短文を切り抜いて、取り出して論評されることが散見されるので、そのような不当な引用を避けるように切にお願いする次第です。

 私見によれば、世上流布している「定説」、「通説」は、意図的な誤解をこめて「倭人伝」を書き換えて読んでいらっしゃるので、思わぬ所で異議が出て来るのですが、当ブログは、原文に根ざした解釈を優先しているので、「通説」に囚われている諸兄姉には、この際、ご高説を再考して、つまり、考え直して頂きたいというものですが、これは、もう一度一から考え直すという趣旨でなく、「通説」を棄てて、「正しい」道を採るものではないですかと、婉曲に述べているのです。

                     -記-

1.戸数談義~「七萬戸は全国戸数」

 「通説」は、俗に言う【邪馬台国】が北九州に存在しない」という崇高な使命を果たすための「伏線」として、「可七萬餘戶」を[邪馬台国]の戸数と決め込んでいるように見受けますが、それでは、「倭人伝」が、主題として報告している全国戸数が書かれていないことになり、誠に、誠に不都合です。
 「七萬戸は全国戸数」とすれば、当時の皇帝を始めとする高貴で性急な「読者」が、全国戸数を足し算する必要はないのです。これは、当然の理屈なので、前例を求めても仕方ないのですが、整然たる正史の典型とされている班固「漢書」西域伝を確認するまでもなく、各国の紹介には、国名、国王の居城名、道里、戸数が、必ず書かれています。
 但し、「倭人伝」を冷静に読めば、行程記事の最後に書かれているようにも見える「邪馬壹国」は、「女王之所」、つまり女王側近だけの「聚落」であり、いずれかの国、ここでは、伊都国の勢力下/領域内に庇護されていると見えるので、農業生産力や動員可能兵の力を示す「戸数」は無意味であり、また、既に伊都国が、郡からの文書を査収していて、「倭人」からの応答がなされるので、伊都国から「女王之所」までの、道里も無意味ということになるように思量します。

2.「余戸」、「余里」は、概数表現、概数計算は、一桁単位
 世上、「倭人伝」に書かれている『「余戸」、「余里」は、書かれている戸数や里数に、正体不明の端数が足されている』との誤解が蔓延していますが、これは、当然ながら、書かれている概数、例えば、「七万」余戸は、詳細不明の千戸及びそれ以下の桁の出入りがあると書かれているのに等しいので、奴国「二万余戸」に投馬国「五万余戸」を足した「七万余戸」で十分であり、対海国、一大国、末羅国、奴国、不彌國の諸国のように「千戸」の桁で切りよく書かれている千の桁の「戸数」を足しても、「七万余戸」に変わりは無いのです。因みに、戸数は、その戸数だけの収穫物が納税されるとか、戸数ごとに兵士を徴兵できるとかの統計指標なので、どこにあるかすらわからない「国」は、計算できないので、「全国戸数」に関係ないのです。
 例えば、伊都国の中核を占めている「国民」は、今日でいう「国家公務員」であり、俸給(粟)を給しているので、ここから税を取るのは、無意味なのですから、基本的に税務の対象外であり、免税なのです。つまり、人の頭数は、戸数から知ることはできないのです。同様に、「国家公務員」を兵役や公共工事の労役に動員するのは、無意味なので、その意味でも、「戸数」から、「人口」を推計するのは、無意味なのです。
 こうした原則は、当時の読書人の教養では当然のことなので、書いていませんが、「七万余戸」などと一桁数字で書いてあるだけで、「七万五千余戸」などと書いていないことで明らかです。知らなかったですまないのは、当然の批判です。
むしろ、一桁数字であっても、切りの良い数字に飛び飛びに配されているので、よく言われる、倭人伝の奇数偏重の由来が見て取れるのです。
 同様に、「数千」とあるのは、なべて五千程度のことであると決め込むのも、無理な言い張りです。ここでいうなら、一万までの千単位の概数を大雑把に四分割して表現するとき、二,三千程度をざっくり表現するときに常用されたとみるものではないでしょうか。つまり、当時の概数感覚では、「五千」に届かない範囲を「数千」と切りを付けたと見るものでしょう。

 また、時代相応の感覚でいうと、五千の上の七,八千は、ついつい「万」に繰り上げられるものと見えますが、これは、世上言われる「誇張」などではなく、要は、切りをつける感覚にすぎません。

 三世紀当時といえども、厳密な計算が行われる場と概数が起用される場は別々なので、当時、すべての計算が概数であったとみるのは、当記事の議論を誤解するものです。元に、後漢書、晋書に記録された全戸数の集計値は、一戸の桁まで明記されていて、そのような計算の際には、各桁ごとに、つまり、一桁概数計算の数倍の手数を掛けて、精緻を極めて計算を行ったと見えます。

 同様に、千里単位で書かれている「倭人伝」の道里計算で、百里の桁の諸国道里は、計算に関係しないので無視してよいのです。まして、明記されていない、仮想された道里は、計算に加えるとしても、精度に関係ないのです。

3.倭人伝の「水行」は、「海(うみ)を行く渡し舟」
 「水行」は、本来、つまり、適法な用語では、「河川を船で進む」ことを言うのであり、夷國への行程記事に使われることは一切無いのですが、「倭人伝」では、渡し舟で対岸に行く「渡海」として新たに定義しています。定義した以上は、「倭人伝」の道里行程記事の最後の「都水行十日陸行一月」まで「水行」は、その意味で書かれているのです。

 因みに、本来、道里行程記事は、陸上行程と決まっているので、「陸行」と断る必要は無いのですが、「倭人伝」行程記事では、末羅国で上陸すると、そこで、「水行」が終了するのは自明なのですが、高貴な読者が誤解して、激怒することが無いように、「陸上」を騎馬あるいは徒歩で行くことを明示したものであり、あえて前例のない「陸行」としているのです。
 もちろん、高貴な読者に、書庫から、「馬班」、つまり、司馬遷「史記」と班固「漢書」を引き出して、数百巻に及ぶ各巻を卓上に展開して、前例を検証するような難業を課することがないように、「倭人伝」の用語は、読者の教養の及ぶ範囲にとどめ、「水行」はその場で定義し、「陸行」は「水行」と退避して、「倭人伝」用語に起用したと見るのです。
 そのような「倭人伝」用語は、当然、魏志上程時に、時代最高の知識人の監査に耐えたものであり、史官の独断で書いたものが、そのまま今日まで伝わっているのではないのです。踵(きびす)を正して読むべきものなのです。

4.東夷に「王都」無し
 ついでながら、「倭人伝」は魏朝国内記事ではないので、「倭国」の「王」は、本来の「王」でなく、当然、「王之所」に「都」(みやこ)は許されないのです。
 先に挙げた「都水行十日陸行一月」は、そこまでに書かれた行程を総合すると、「都合」「水行」十日、「陸行」一月と言う意味であり、「水行十日陸行一月」が、部分的な日数と誤解されないように「都」を前置きしているのです。異例の書法ですが、三世紀の史官には、当然、自明の事項であり、異例の書法に先例がないのをもって、自明/当然の解釈を否定するのは、大胆不敵であり、もってのほかです。

5.史官の筆法
 史官の筆法は、誠に慎重、かつ、明解な書き方を守っていますから、後世の読者は、ご自身の限られた知識に頼るのではなく、広く史料を学習して、丁寧に理解する(べき)ものなのです。

 愚考するに、世上、無秩序な「邪馬台国」論義が繁盛しているのは、三世紀史官の提示した「問題」の題意を解し得ない、現代東夷の「落第」生が、自然なままの「混乱した」著作を公開しているからと思われます。

 この点は、古代史学会の先哲である榎一雄師の提起されたところであり、しかるべき敬意をもって、先賢の至言を受け止めるべきでしょう。
 
〇また一つの「邪馬台国」説
 事は、ありふれた邪馬台国比定説ですが、その始まりは「字面」(じづら)です。
 ご存じでしょうか。中国古代算術で、「邪」田は田地が斜めの平行四辺形ですが、廣従(幅縦)を掛ければ、方形の「方田」同様に面積計算できます。

 ここで、「邪馬」は、東北方向に向いた「斜馬」(ななめうま)であり、当記事筆者が思いついたのは 、愛媛県の地形です。子供のいたずら書きみたいですが、伊豫/愛媛を、東北方向(邪道)に駆ける馬に見立てて、発想を繋いでいくのです。

 ついでながら、古代の「知識人」は、教養が豊かなので、「邪」「馬」と並んだに文字に、ずいぶんいろいろな意味を込めていたと考えるべきではないでしょうか。

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*存在価値
 なお、この絵姿は、当考察のきっかけに過ぎず、「絵が下手」とか「馬じゃない犬だ」と断じても、考察の批判には、ならないので、うずたかい邪馬台国所在地諸説のすき間で、一つの「仮設」として、ひっそり生き延びられないものかと思っています。

*自画像ならぬ「児画」像
 三世紀当時、倭人の「王之所」が、伝承によって、「伊豫」にあったと想定されていたとすれば、国王の手元に自国絵図が届いていても「おかしくはない」(別に失笑されてもいにとめない)ので、中国語国名として「斜馬」ならぬ「邪馬」国を称したか、世間並みに、つまり勝手に推定、憶測します。

 誠に下手ですが、当時、「倭人」世界には、獅子も虎もいなかったように、馬も出回っていなかったので、うまく姿が描けなかったとしてください。いやいや、地形は造作できないので、ただの「つかみ」、話の「とっかかり」とします。受けずに滑ったとしたら、ごめんなさいです。

*投馬国「水行」説再考
 さて、魏志「倭人伝」道里記事は、朝鮮半島中部の「帯方郡」から、南方の狗邪韓国の「海岸」から、目前に広がる「大海」の州島を渡り継いで、「倭」に至る「公式行程」、つまり、最短、最善の街道行程を、手短に、つまり、明快に説明するために、まずは、郡から南下して、韓国南端の狗邪韓国まで街道を進み、大河を渡るのに州島(中の島)を飛び石として踏んでいくように、三度の渡海/水行で大海を渡り、九州に上陸した後、陸続きの末羅、伊都、不彌を経た上で、改めて、投馬へ改めて「水行」したとも読めないことはないようです。(そのように解釈する人がいるので、そこにもう一人便乗、参加しても、不思議ではないでしょう)

*「倭人伝」の骨格
 普通は、誤解されているのですが、「倭人伝」道里行程記事は、それまで知られていなかった新顔の東夷に至る行程を、皇帝に報告したものであり、皇帝は、倭人に対して「下賜物」を送り届ける大事業を承認するに当たって、既に道里行程記事を承認しているので、これに従って、所要日数などを確かめた上で使節団の派遣を承認したのです。
 つまり、東夷折衝の実務を管轄している帯方郡は、韓国も含めて行程上の諸国に通達して、移動日程、受入準備を確認し、報告を受けた雒陽の官人は、帯方郡の確認を得た上で使節団を発進させたので、使節団は前途の行程を承知した上で出発したのです。そのように、諸々の手順は、当然、自明なので、殊更書かれていませんが、何も書かれていないということは、万事順当に行われたと言うことです。
 雒陽の官人は、規則厳守の曹魏の規則を熟知していたので、使節の指名が不達成の時に、自身に責任が及ぶのを、頑として回避したのです。何しろ、皇帝命令の達成が不調に終わった時、責任を問われると、自身だけでなく、妻子、親族まで連座して、処刑されるので、行き着くあてのない使節の出発を見過ごすことはできないのです。
 つまり、使節団が発進するからには、雒陽を発して 倭に至る各地の責任者から、確約が届いているのであり、当然、倭が実道里で万里、いや、万二千里の彼方ではないことは、理解していたのです。むしろ、片道、精々、四十日であり、渡し船で「大海」を越えた後、数日で「倭」に至るという「実績」を承知していたとみるべきです。
 曹魏の厳然たる「法と秩序」体制を知らなくても、皇帝の厳命を受けた膨大な下賜物を、送達の確証なしに送り出すことなどありえないのであり、各地の確認を得るまでに、半年かかろうが一年かかろうが、頑として発進を許可しないのです。世上、蕎麦屋の出前のように、用命を受け次第即納することを当然と見ている向きがありますが、いろいろ勘違いを重ねていることを自覚いただきたいものです。

 端的に言うと、「倭人伝」道里行程記事は、決して、派遣された使節団の報告に基づいて、後日、新たに作成したものではないのですが、結論だけ切り取って論じるのではなく、結論に至るまでに、しかるべき時代考証を、丁寧に、幾重にも重ねていることまで、理解いただきたいものです。

*「水行」の臨時定義
 中国史書で、「街道は陸上を往く」ものなので、史書では「陸行」とは言わないのですが、倭に往くためには、「大海」、つまり、韓国の南に「倭」、臨時に、つまり、『「倭人伝」に限って有効な用語」として定義しています。
 因みに、前例のない事項の前例を求めるのは、無茶というものです。

 当時、陳寿「三国志」魏志倭人伝の道里行程記事について、並行する街道の存在しない「渡海」に適用する「水行」の臨時の定義/用法について、非難はなく、後年、詳細に審議した裴松之(南朝劉宋)をはじめとするそれぞれの時代の権威から、異議が出ていないことから、「水行」に関する陳寿の筆法は、正史の記法として、当然のものとして承認されていたと見なければなりません。

 再確認すると、「水行」は、言葉の意味から言うと、河川行に決まっているのですが、「倭人伝」は、現代で言う「渡海」を「水行」と宣言したので、海を渡る「水行」は、不法なものではないのです。
 つまり、投馬に至る「水行」も「渡海」、つまり、甲板も船室もない、むき出しの手漕ぎの小舟で渡るもので一日行程ですが、なぜか、二十日の「水行」と書かれています。これは、実際の行程では、二十日近い陸上行程を計上しているものと見えます。このあたり、「倭人伝」の本来の道里行程記事ではないので、二千年後の東夷には、はっきりしないのです。

*乗り継ぐ船路
 現代人が思い浮かべる関門海峡は、今日の強力な船舶すら、易々通過できない難所であり、非力な手漕ぎ荷船を阻むので、投馬国に往くには、陸上街道を大きく南に迂回する経路としたと見るのです。

 不彌から投馬へは、まず南に踏み出して街道を進んだ後、東に転じて、国東半島の南で「海岸」に出て、海津、つまり、海港で便船に乗り込み、馬のしっぽに見立てた三崎半島に渡りますが、それが、三世紀までの東西交易の主力経路として常用されたと思う次第です。

 便船は、一船、一商人の乗りきりでなく、必要に応じ乗り継ぎしたと見るのです。荷船乗り継ぎは、当時、自然であり、港で荷下ろしして浜市で商った荷を積んだ次の商人の便船が進んだ、細くしなやかで、長続きする交易連鎖と見ています。

*続く旅路
 と言うことで、水行二十日の「投馬国」は、まだ少し先です。

 松山界隈から伊予灘を北上しますが、芸予諸島の難所を嫌って下船し、半島最北部を手短な山越えで横切り、今日の今治、後の伊豫国衙の地に出て、大三島の南方で便船を拾い南下したと思われます。

*続く旅路 改定 2021/08/23
 一年余りの間に、多少良い知恵が湧いたようです。松山界隈から伊予灘を北上するのを撤回し、中央構造線の地殻変動によって形成された、比較的なだらかな峠越えのみちで、現代の西条、燧灘南岸に出る行程を採用しました。

*投馬お目見え~「道前投馬国」説
 そこからは、島影の見えない、穏やかな燧灘の旅であり、現在の西条に達しますが、本論では、ここを「投馬」国と見ています。山場を越えた割りには、劇映えしないのですが、それは、命がけの難所ではないからです。

 勿論、細々とした商いなので、海賊は、出てこないのです。

*改訂版 2021/08/23
 初期の伊予灘~燧灘行程は、当時としては、十分な思案のあげくですが、そのあと考え直したので、当面の最新結論を書き残します。

 丁寧に、この間の陸路を模索すると、四国中央部を東西に走る中央構造線のおかげで比較的通りやすい経路が見つかりました。つまり、今日の伊予市から石手川沿いに現在の東温市(Tooncity)までゆるやかな上りであり、ここに、中継地を設けて、現在の西条に向けて山越えすれば、山道とは言え、比較的難路の少ない行程で到達できることがわかりました。つまり、船便で高縄半島北部まで行かなくても、「目の前に」山越えできる道があったのです。

 後ほどでてくる四国中央市からの東向き街道は、東方の吉野川上流の現在の池田に向かって、やはり、中央構造線の谷みちを利用してゆるゆる登っているので、実は、鳴門海峡付近に出るまで、中央構造線沿いの一文字の径と言うべきかも知れません。「径」と言うのは、中国の制度で言う「道」の規定にあるように車馬が対抗できるように、幅広く、平坦に整備されたものではなく、担った人が、黙々と往き来できる「禽鹿径」をいうのであり、時に、誤訳して「けものみち」と解されているものではなく、古代公道(Highway)であったことには間違いないのです。

 拙稿旧提案の高縄半島北部にいたる船便は、貴重な船腹と漕ぎ手を長く労する上に、伊予灘の海況次第で難破する危険を抱えていたのですが、今回の提案では、短期間の山越えであって行程に危険は無く、労力と言っても、小分けした荷を農民達を動員して、必要なだけ人数を掛けて、先を急がずにゆるりと運べば良いので、大したものではないのです。いや、もともと、古代に於いて、遠隔地まで運んで商売になるのは、軽量、少量で売り物になる貴重品であり、例えば、黒曜石、翡翠、朱などが考えられます。西域においては、絹製品、貴石、玉などが挙げられますが、本稿では、論義を差し控えています。
 因みに、当行程は、ほぼ終始、海産物の豊富な地域を通るので、干し魚などの海産物の行商は、商売にならないでしょう。又、食塩も別に不自由していないので、海塩は、売り物にならないでしょう。

 言うまでもなく、農民達に課せられた義務は、収穫物の税務だけでなく、年間一定日数の勤労奉仕、労務も含まれていたので、ただ働きではないのです。もちろん、折角の動員ですから、食事が出るだけでなく、多少の小遣い稼ぎにはなっていたでしょう。そうでなければ、こうした行程は維持できないのです。

 また、行程上の要所で、市(いち)を開いて、売り買いすれば、はるか東方まで行き着く前に、荷が売りさばけてしまうかも知れませんが、その時は、市で仕入れた荷をまとめて、次に進むのかも知れません。

 と言うことで、本説で言う投馬国「西条地区」までの行程は、現在の大分付近から三崎半島に至る手短な「渡海」(倭人伝で言う「水行」)を除けば、並行する陸路で支えられているので、荷船を起用したとしても、官道経路としては「陸行」ですが、書類上は「水行二十日」に括られてしまったということでしょうか。渡船は、甲板船室もなく、一日行程が前提なので、二十日を要するのは、二十回の乗り継ぎであり、そのような行程は、どこにもないのです。

 と言うものの、毎度のことですが、史料に書いていないことはわからないのです。

                              未完

2023年5月13日 (土)

今日の躓き石 奈良県立美術館 知財権論義  1/2

 「籔内佐斗司館長の部屋」第65回 技術革新 https://www.pref.nara.jp/58242.htm

*館長雑感批判~技術観の混迷
 館長籔内氏の専門は、「美術」、つまり、Fine Art分野であり、当記事で論じている工業技術論は門外漢とお見受けしますが、館長の意見として公式の場で述べるからには、専門家の助言が必要です。
 例えば、氏は軽率に「アナログ」なる評語を起用しますが、ことは、情報処理技術ではなく、機械的な「戦争技術」(Art of War)であり見当違いです。

 「19世紀の産業革命」と大すべりしていますが、「産業革命」は、18世紀後半に開始したと思います。ご確認いただきたいものです。
 「泥と血にまみれたアナログ技術の大量殺戮」と散々ですが、古来、戦争の齎すのは戦士の生命喪失であり、「アナログ技術」(意味不明)のせいではありません。

*画像盗用
 「左:19世紀中頃の英軍兵士の軍装 右:映画「1971」の英軍兵士」出所不明、権利者不明の画像盗用と見えますが、あえて掲示する趣旨不明でもあります。画像は、見る人ごとに受け止めが違うので、論理的な文章に似合いません。

*粗雑な歴史観
 第二次大戦が契機と決め付けられている大量殺戮論義が粗雑に展開され、氏の見識に不信が募りますが、文字情報としては、第三者の著作物を盗用しているとの証拠が見出せないので、氏が著作権を主張しても失当とは言えません。

*粗雑な技術認識
 続く、現代情報技術の展開に関する個人的な感想は、聞き流すしかないものです。認識不足と思われても、個人の信条を断罪することは不可能です。問題は、事実認識です。
 Wikipedia(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると明記)によると、「1990年に最初のバージョンである Photoshop 1.0 が発売された。」とあり、Adobe,Photoshopは、商標の注記が必要です。

*感傷的回顧と認識不足の露呈
 「これからは写真が信用できなくなる時代が来るね」と話したと回顧していますが、氏の認識不足から生じた「偽造」世界観表明であり、読者に意味の無い放言です。新規性を主張しても、文書証拠がないのでは無意味です。昨日今日のことではないので、つけるクスリが不明です。

 「映画や映像の制作においてAIを活用した動画編集ソフトは不可欠になり、ネットニュースにはまるで現実と見間違う虚構の映像で溢れかえっています」と現代での認識が書かれていますが、本来、古来、写真も動画(動く写真)も、カメラレンズを通じた記録を、成形、整備した創作物であり、現実そのものでないのは当然ですから、氏の「虚偽論」は、無意味な感情論です。

 そもそも、氏の管轄する美術品は、現実世界の切片の芸術的表現であって、現実の模倣ではないはずです。芸術的創造行為が、「見間違えられて」現実の模倣と解されることを論じるべきなのです。

*「グーグル検索の信頼性」の誤解
 続いて、氏は、何の関係も無い「グーグル検索」の信頼性を論じますが、「検索」が情報源の「信頼性」を保証しないのは明らかで、氏を初めとする利用者は、「グーグル検索」提供の出典の自己検証が求められています。

*百科辞典再考
 氏が言及する「百科辞典」(例えばEncyclopedia Britannica)は、専門分野の編集者がFact Checkを積み重ねているので信を置くことができるのです。書き飛ばすのでなく、正当に評価すべきです。

*「ツール」の主権
 素人が口を挟むと、ここに言う「技術」は、絵筆や彫刻刀のような「ツール」であり、それ自体が芸術創造の能力/知性/感性は無いのです。氏のように、無意味な感情論で、「ツール」使用者としての主権を放棄されては困るのです。
                                未完

今日の躓き石 奈良県立美術館 知財権論義  2/2

 籔内佐斗司館長の部屋 第65回 技術革新 https://www.pref.nara.jp/58242.htm

*Wikipedia論義
 因みに、Wikipediaの記事は、本質的に、多数の無記名寄稿者の持ち寄りであり、個々の寄稿者に信が置けなければ、Wikipedia記事は信用できないという当然のことであり、Wikipediaは、個別の寄稿者に対して、記事の論拠を求め続けることで、辛うじて記事の信頼性を維持されているものです。

 元来、記事持ち寄りで形成されるWiki形式は、管理者が怠慢であれば、「闇鍋」のように、信頼できないごった煮になるものです。

 氏の結論は、当該分野の技術の最高地点(State of Art)の諦観と見え、「その信頼性は日増しに改善されているとはいえ、善悪を判断しないAIが呼吸するように虚偽情報を垂れ流すこの機能を、誰が制御できるのでしょう。」と無責任なもので、氏のように影響力のある大家が改善尽力すると宣言し、然る可く締めくくらなければ、責任ある「結論」とならないのです。

*改善提案
 権威/影響力のない素人が添削すると、『「加工情報の信頼性を審査しないAIは、責任ある管理者が制御しなければ、識別不能な虚偽情報を放言する」ので、遅ればせながら、自己監査によるFact Check機能を組み込むべきと信じますので、ここに、審査機関の設置を提言します』と締めくくるべきでしょう。

*館名の誤解
 英文で"Museum of Art"と「美術」(Fine Art)に限定されないと敷居を下げた以上、奈良県立美術館館長に要求される見識は広大なのですが自覚されているでしょうか。
 今回は、館長の認識不足と見当違いな運命論に大変疑問を感じた次第です。

*「引用拒否権」の提案
 普通に感じて、いかなる個人も、公開の場で表明した意見を、意に反して引用加工されて、第三者に盗用されるのを拒否する権利「引用拒否権」を保障されるべきであると信じるものです。

*失言封印提案
 付記すると、「呼吸するように虚偽情報を垂れ流す」とは、要するに、失禁の形容であり、奈良県立美術館館長の品位を穢すこと夥しいのです。「失言御免」「斬捨て御免」のSNS発言でなく、だれもダメ出ししないサイト記事だからこそ、勢いに任せて書き飛ばさず、慎重に慎重を重ねて推敲して、ご自愛いただきたいものです。

◯奈良県ホームページの不用意な表現
著作権
 奈良県ホームページに掲載されている文章、画像等の著作権は、奈良県または提供者にあります。「私的使用のための複製」や「引用」など著作権法上認められた場合を除き、無断で複製・転用することはできません。

*コメント
 以上の宣言は、一般県民の誤解を誘うもので改善が必要です。現に、例示した記事には、第三者が著作権を有する画像、商標など知的財産権が、明記されることなく盗用されていると見えるので、同記事は、著作権を主張できないと思われます。

 要するに、同県ホームページは、無審査/無鑑査で記事を掲載している物と思われ、他記事にも、同様の不法行為が存在するものと思われます。
 違法な著作物に対して著作権は認められないので、「奈良県」は、県民の所有する知財権を適法に管理していないと見られます。

 よろしく、知財権に通暁した弁護士が助言する法務担当部門による審査、是正を要請します。
                                以上

2023年5月10日 (水)

私の本棚 白崎 昭一郎 季刊「邪馬台国」第20号 放射線行路説批判 再掲 1/2

                    2018/09/21 2022/01/27 2023/05/10
 私の見立て ★★★★☆ 冷静、論理的にして、丁寧

 実際のタイトルは、「張明澄・石田孝両氏に答える 『漢書』用例にもとづく放射線行路説批判」である。同誌の白崎氏論考への張明澄(17号掲載)、石田孝(18号掲載)両氏の批判に対する白崎氏の反論である。

 先に述べたように、白崎氏の論考は、概して冷静、論理的である。これに対して張氏の毒舌は批判と言えないが、白崎氏は、お粗末と見える挑発には乗らず、概して反論は丁寧である。

*張氏暴言批判
 張氏が、白崎氏の論考は、「現代日本人である白崎氏が勝手に作り上げた法則にしたがったものであり、「三国志」の著者が、そのような法則に従って文章を書くはずが無い」無責任に断じている。普通に言うと、これは、とんでもない暴言である。ご自分も、初等教育は、日本統治下の台湾で受けたものであり、少なくとも、古代中国人の教育を受けていないことを、失念されているようである。

*勝手にします
 しかし、本格的辞書に掲載される正しい日本語では、こうした場合、「勝手に」とは物事がうまく運ぶよう手順をこらすとの意味であり、実は、白崎氏の論法を賞賛している事になる。もちろん。「勝手に」には、他人との関係で相手の事に構わずに自分本位に振る舞う事を言うこともあるが、白崎氏の批判では、「相手」が現実世界に存在しないので「勝手に」しようがない。

 して見ると、この「勝手に」は、白崎氏の手際を賞賛しているのだが、張氏は、自身の用語の不備に気づかず白崎氏を罵倒したようである。
 それとも、張氏は、総て承知の上で、滔々と二枚舌を駆使しているのだろうか。

*継承と創唱
 もちろん、白崎氏は、ご自身の文で、独自の法則を作り上げたとは書いていない、ご自身が班固「漢書」の用例に従っただけだというのである。一部重複するが、現代人が、古代人の文章を多数読みこなして、そこから、法則めいたものを見出した時、それを現代人の創作と呼ぶのは、見当違いの素人考えである。
 この点、白崎氏の言う、太古ー現代に通じる漢文語法を発明発見するのでなく、三世紀頃に知られていた文例を求めたとの意見に共感する。

*完敗の賦
 張氏の論理は、現代の一中国人、それも独特の感受性を持つ人物が、論敵の意図を無視して(悪い意味で)「勝手に」創作した「法則」であり、明らかに分が悪い。感情論では白崎氏の冷徹な論理に歯が立たないのは当然である。いや、張氏の経歴でわかるように、氏は、戦中の台湾で、日本式の皇民教育を受けて育ったのであるから、氏の日本語は、「古典的に正しい」と見ざるを得ない。むしろ、中華民国に戻った台湾で受けた中国語教育であるから、二カ国の言語の間で、見事に学識を整えたと尊敬するものである。

 続いての白崎氏の反論は、元々の張氏の批判が論考の本筋を見損なった暴言となっているのに丁寧に反駁したものであり、まことに同感である。

 張氏の好む暴言は、所詮、悉くが氏の個人的感情に根ざしているから、いかに付け焼き刃の理を尽くしても、善良な読者を納得させられないものと考える。

 別項でも述べたが、張明澄氏の「邪馬臺国 」論考は、しばしば、凡そ論理性のない感情論に陥って、脈略の無い雑言をまき散らしている。これは、安本氏の編集方針に反していると思うのだが、一連の張氏記事が、当時「好評」をえていたことに不審感すら覚えるのである。

*不同意の弁
 ただし、私見では、ここで白崎氏が強弁する、『「魏志」編纂者が、「倭人伝」資料を自身の信奉する伝統的漢文語法に合うように書き変えた』とする仮説には、同意できかねる。倭人伝」は、「魏志」記事全体と異なる漢文語法を採用していると、諸処で見てとれるように思うのである。これは、中日両国語に精通した張氏自身が認めているのだから、尊重すべきである。

 諸兄の意見は、それぞれ、ご自身の思い込みに影響されるものであるが、論考として提示する場合には、論証を求められると思うのである。

                                          未完

私の本棚 白崎 昭一郎 季刊「邪馬台国」第20号 放射線行路説批判 再掲 2/2

                    2018/09/21 2022/01/27 2023/05/10
 私の見立て ★★★★☆ 冷静、論理的にして、丁寧

*石田氏との論戦
 続いて、石田孝氏の批判に対して反論しているが、こちらは、論敵というに相応しい敵手との「論争」と思う。

 白崎氏は、班固「漢書」地理志の用例に基づき、「同一地点から同一方向の二地点への行路が続けて掲載された場合、二番目の(行程)方向は省略される」と述べ、「倭人伝」行程記事に伊都国を中心とした放射線行程は見いだせないと断じた。これに対する石田氏の批判に対し、再度、用例を確認した上で、石田氏の批判は成立しないと述べているのである。用例概要を再録する。

Ⅰ 同一方向二地点への行路例
 ⑴休循国 東、都護治所に至る三千一百二十一里、捐毒衍敦谷に至る二百六十里
 ⑵捐毒国 東、都護治所に至る二千八百六十一里、疏勒に至る
 ⑶危須国 西、都護治所に至る五百里、焉耆に至る百里
 ⑷狐胡国 西、都護治所に至る一千百四十七里、焉耆に至る七百七十里
 ⑸車師前国 西南、都護治所に至る一千八百十里、焉耆に至る八百三十五里
Ⅱ 同一方向三地点への行路例
 ⑹鄯善国 西北、都護治所を去る一千七百八十五里、山国に至る一千三百六十五里、西北、車に至る一千八百九十里、
 ⑺依耐国 東北、都護治所に至る二千七百三十里、莎車に至る五百四十里、無雷に至る五千四十里

*私見御免

 一素人の単なるぱっと見の所見であるが、漢朝の辺境管理方針では、当地域は帝国西域前線の「都護治所」が、要(かなめ)として放射状の幹線たる漢道諸道の発進中心(今日で言うハブ)を押さえていたのであり、それ以外に古来各国を結んで、それぞれ周旋、往来していた諸道が残存していたという事を示しているように思える。

*伊都国起点放射線行路について
 当方は、両氏の論争自体には関与しないので、アイデア提案を試みる。
 この点に関する議論で、素人考えで申し訳ないのだが、率直なところ、単なる思いつきとは言え、全面的に否定しがたいと思うので、当方の白崎氏の論考に対する批判・提言を一案、一説として付記する。

 伊都国は、当時の地域政経中心であり、交易物資集散地であったから、伊都国の中心部から各国に至る物資輸送、文書交信、行軍のための官道としての直行路、倭道が整備されていて、起点には、多分石柱の道案内(道しるべ)が設けられ、そこに、「東 奴国 南 不弥国 南 邪馬壹(臺)国」のように彫り込まれていて、中でも、南に二筋の道が伸びていたように思われる。
 つまり、南方二国は、大略南方向だが、当然、完全に同一方向ではなく、どこかの追分で、道が分かれていたのである。それどころか、水行二十日を包含する投馬国行程は、最終的に目的地に着くというものの、そこが、伊都国の「南」であるということは、確証できないのである。一方、所要日数すら書かれていないと見るべき「邪馬壹国」は、あるいは、伊都国の外部城壁ないしは環濠の内部とも見え、先入観に促されて、拙速の解釈を進めるものではなく、詳しい時代考証に委ねるべきであろう。

 それにしても、伊都国から発する全ての漢制街道ならぬ「倭道」は、それぞれ直行したのか、どこかで転回したのかわからないし、最終目的地が、伊都国から見てどの方向かは不明であろう。わかるのは、起点道案内の「方向と目的地」である。全て直行路であるから、出発点以降、追分を間違えなければ、後は道なりに、「倭道倭遅」とでもしゃれながら、とろとろと進めば良いのである。

 そのような記法は、班固「漢書」以来の伝統に従わない、地域独特のものかも知れないが、倭の実情に適したものであり、帯方郡には異論の無い妥当なものであったため改訂されず、陳寿「三国志」「魏志」編纂時も、この記法が温存されたと見る。

 という事で、ここでも、先賢諸説を論破せず、文献証拠のない、単なる所感を述べたのである。

                              以上

追記2022/01/27
 上記意見は、「倭人伝」道里行程記事は、直線的な行程を書いたものに違いない』とする通説/俗説/先入観の意見への所感を「アイデア」提案として述べたものであり、一案として依然有効と思うが、必ずしも、当ブログの主力とするものではないことを申し添えるものである。

追記
2023/05/10
 当ブログの最新/最終見解では、「倭人伝」の道里行程記事は、郡を発し、倭に到達する行程を直截に書いたものであり、即ち、郡を発した文書使は、伊都国に到達して伊都国文書管理者に送達するものであり、その時点で、倭に対する通達を完遂すると見るべきである。そのように解釈することで、従前の道里解釈の大半は、無用のものとなり、陳寿の提示した問題の解に到るものと見える。

 榎一雄氏の論説(榎一雄著作集 第八巻 「邪馬台国」汲古書院)を丁寧に拝読すると、氏の真意は、倭人伝道里記事の記述から、伊都国が、倭の政治中枢であり、郡は、伊都国を倭の首長と見なしていた、即ち、一万二千里も、「水行十日、陸行一月」も、伊都国が終着であると道里記事を解読しているものである。ただし、氏は、国内史学界の枢要な地位を占めていたことから、通説の結構を破壊することはできず、『伊都国を扇の要として、最終的に「女王国」に到達する』という「放射行程」説と見えるように仕上げたと見えるのである。
 同書の大半は、季刊「邪馬台国」誌に、連載公開されたものであり、広く、万人の元に届けたと言うことは、氏の晩節の潔さを思わせるものである。一方、世上、榎氏の所説/真意は見過ごされ、単に、「伊都国から直線的に進むべき行程を、伊都国視点の放射行程と曲解した」とする軽薄な理解がはびこっているのは、誠に残念である。こと、「倭人伝」解釈に関しては、残念な停滞、退歩が支配的なようである。

以上

古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 半終止 2/5 追記 再掲

              - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23 補追 2023/05/10, 11

*霊峰と神井の投馬

 時に、不彌国から「水行二十日」と解釈される投馬国に至る道里記事は、あくまで目安ですが、山越えの連絡を含め、さほどの見違いはないと見ています。

*「石鎚の山」、「伊予の海」 余談
 投馬の南に聳える石鎚山は、今日、西日本随一の二千㍍級高山ですが、弧峰でなく、競い合う高嶺を連ねた石鎚連峰となっています。

 高校野球の名門、松山商業の校歌は、冒頭で「石鎚の山伊予の海」と叙景していますが、松山から石鎚は見えず、して見ると、伊予の海も松山の前面に広がる伊予灘でなく、燧灘かと思うのですが、引き続く「金亀城頭春深し」は、名城松山城を謳うので、思い過ごしでしょうか。
 今回の改訂で言うと、伊予灘から石鎚の高嶺を目指していく行程とも見えるので、古代には、伊予灘は石鎚連峰の裳裾と感じていたとも思えるのです。

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〇豊穣の投馬国

 当地は霊峰のお膝元で、南方の太平洋からの熱く湿った海風が、高峰に冷やされて雨として、山肌に降りしきったものが豊富な地下水となり、小雨地帯である燧灘南岸でも、「神井」の掘り抜き井戸は自噴する「水の宝庫」であり、投馬国は、戸数の如く国力随一と思われます。

*水神 余談

 水田稲作は、期間を通じ、強い日射、温暖な気温と共に、潅漑水量が潤沢でなければならないのです。水の神に守られた投馬と言うことです。むしろ、夏季は、晴天日が多く、降水量の不足が懸念され、後世ため池が造成されます。「天の恵み」を願うなら、水の恵みと思うのですが、それにもかかわらず、水神が最高神でないのには不審を感じます。太陽の熱は、力強い男神に相応しく、水の艶は、豊かな女神に相応しいと思います。

 あるいは、男性の太陽神と女性の水神が、文字記録のない世紀を超えている内に交錯して、太陽女神が最高神、水神は壁の花になったのでしょうか。

〇斜馬国にいたる道

 続いて、特に難関もなく、くにざかいの丘陵を幾つか越えて、後世宇摩(馬)と呼ばれた伊豫東界につきますが、ここが、「斜馬」(邪馬)国と思われます。
 かくして、「邪馬台国」に到達したのです。特に轟音も響きませんが、漠然たる四国説ではないのです。難所を避けた「海路」を時代考察しているのは、実は、目新しいはずなのです。

*合わない勘定

 諸兄から、宇摩は、投馬のすぐ向こうだから道里記事に合わないと言われそうですが、書かれている水行十日、陸行三十日は、帯方郡からの全所要日数であり、投馬や不彌からの日数ではないと見る説に従うのです。或いは、行程道里で、榎一雄師が提言し、当方も「至言」、つまり、最終決着と見ている「放射行程」説、実は、伊都国終着説に背いて、伊都国から、奴国、不彌國を経由して投馬国に至り、其の向こうに「邪馬壹国」があるという地理観に従っているので、変節と見えるかも知れませんが、今一つの「解」を提示しているだけで、排他的な立案ではないのです。

 とにかく、辻褄合わせは難儀ですが、それは、別途考えることとして、話を進めます。

*伊豫の二つの顔、二つの名

 今日、伊豫は、大変字画が嵩張って、面倒がられている「愛媛県」ですが、盛時には、「四国」全島を「伊豫」と呼んでいたと想定しています。その時代、「宇摩」は、政治経済中心だけでなく、地理的にも、大「伊豫」中央と見えます。勿論、二、三世紀同時、四国全島を易々と支配していたとは思えませんから、多少誇張気味にそう称していたのでしょう。

*宇摩三嶋の由来
 後世に至るまで、伊豫三嶋神社として船人の絶大な尊崇を集めた大山祇神社ですが、暴風の高波でご神体の一部が流出し、燧灘の海流に乗って宇摩の海岸に辿り着き、祀られたのが、宇摩の「三嶋神社」の起源として伝わっているように、宇摩は、大三島と大変縁が深いのです。

                               未完

古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 偽終止 3/5 追記 再掲

              - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23 補追 2023/05/10, 11

 ページ割りの都合で、末羅からの行程図をここに載せます。
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*伊豫路の旅
 旅路は、宇摩で果てるのでなく、さらに東方に続くのですが、当時は、伊吹島から備讃瀬戸に出る経路が、明石/鳴門海峡の難所に阻まれるため、これを迂回して陸路に転じ、今日の阿波池田へ山越えした後、吉野川沿いに進んだと見ます。あるいは、深く刻まれた吉野川河岸から川船で通ったかも知れません。いずれにしろ、中央構造線をたどる「径」は、細くても、大きくうねることはなく、容易にたどれたはずです。

*黎明期の東西交易要地
 最終的に、鳴門海峡の東方に降り立つので、全体を通して、難所のない、つまり、遅くても確実な瀬戸内海航路となります。各地の商人には、少ない人材、機材と短い日時で見返りの得られる、確実な商いが続けられます。

 と言うことで、宇摩国は、荷船が瀬戸内海を往来できなかった時代、九州北部と淀川水系を繋ぐ要地であり、物資の集散地であったように思います。

 世上、阿波国を流れる「吉野川」の河口から、真東を河口とするもう一つの「吉野川」は、古来から、一つの河川として親しまれていたとする私見があり、或いは、太古、中央構造線の路は、河内湾を越えて、紀伊半島に続いていたかもしれないのですが、途方の調べられるものではないので、一応、ここが終着としておきます、
 因みに、紀伊半島を東に進むと、いずれかの地で、中央構造線の径を離れて、奈良盆地に入ることが可能ですから、常識的には、奈良盆地に入る最南の「径」として、太古以来、通用していたことと思われます。

 後年、宇摩の背後の山地に豊富に自生する楮(こうぞ)、三叉(みつまた)を活用した製紙業が地域産業となったことも、付記しておきます。

*完稿宣言

 か細い論理の鎖ですが、平和なオチが付いたので、ここにお披露目します。

*図版の著作権確認 [重要]
 添付図で、愛媛県の地形図は、特に著作権の主張されない公有の地形図から作成したものです。下手くそな馬の絵は、自作です。後は、GoogleMapの3Dビューで生成した架空視点展望ですが、利用条件に従い、著作権情報を残し、最低限の注記を付記しています。
 一部の篤実なかたを除き、著作権に関するコンプライアンス意識が低い論者が多く、無造作な盗用が目立つので、念のため書き残しています。今回の例でも、Googleの設定している制限は緩やかなものですが、簡単な付記を除き原図「無改造」引用が原則であり、勿論、権利表示は隠さないことが必須条件です。

 ここでは、PDF出力を介してJPGファイルにし、文字書き込みなどしているものです。おわかりのように、本来、大小随意ですので、興味のある諸兄は、GoogleMapを試したらいかがでしょうか。
 画面表示のため横1280ドット程度に縮小したので、細部は見えにくくなっていますが、提供された図版で見て取れる適切な遠近感は、遠景のかすみ具合も含め絶妙で、本小論が追求する現実的世界観を支持するものです。

 なお、ここに示された架空視点には、昨今多用される精密地図の空々しさはなく、当時識者の世界観、近年言われる空間認識を想起させるものと見ていますので、時代錯誤の非難は、ご勘弁いただきたいのです。

*遠すぎる楽土
 GoogleMapの助けを得て、九州北部末羅から宇摩の想定経路を計測しましたが、400㌔㍍を越え五千地域里程度(概数)のようです。いずれにしろ、経路はあくまで推定であり、海上部分は測量できず、数字に大した意義はないのです。

 難路を避けて順当な日数計算として、船待ち、潮待ちを見込んで、不彌国から「水行二十日」に押し込めても、郡から倭まで万二千地域里を、かなりはみ出します。 これは、この場では説明しきれず、別途談義します。このあたりは、日頃批判する各地説と同断で、慚愧の至りですが、遠隔地比定の宿命とご理解いただきたい。

*謝辞
 本小論の推進にあたり、合田洋一氏の提唱された、西条付近を含めた越智国を往時の地域政治経済中心とみた諸論考を参考にしましたが、敬意を払いつつも過度に依存しないように気をつけたので、この場で謝辞を述べるに止めます。また、各種郷土史事項は、現地常識と理解いただきたいのです。
 論文ではないので、細々とした出典は省略します。

*仮泊まり
 なお、全体の筆致、特に、宇摩考察でおわかりのように、当記事は、筆者の生まれ育った地を、半世紀を隔てて回想して書き出したものです。
 他の記事では、諸兄の考察を我田引水と批判していますが、筆者とて、生まれ育った地への愛郷心は持ち合わせているのでつい甘くなっているのです。
 と言うことで、懸案を残しつつ、一旦締めくくります。

                               未完

古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 王都論 4/5 追記 再掲

              - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23 補追 2023/05/10, 11

〇治まらない道里論
 本編では、道里論議は棚上げしましたが、図上測量で、末羅から投馬まで450㌔㍍、千普通里と見ると、六千地域里になり、道里を通算すると、全行程万二千地域里に治まりませんから、持論の「エレガントな解法」では、説明困難です。
 とは言え、ここでは、困難は不可能と同義でなく、やり甲斐のある難題とみて、以下の様に組み立てを変えてみました。
 時代考証を練り直し、国の身の丈に合わせて着付けを工夫して見ましょう。

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*倭人の国の姿
 公孫氏以来、郡倭通信往来で、郡文書使は伊都止まりで、倭への万二千里も、通算四十日も、伊都を倭の首魁と見るのです。つまり、「倭人伝」の描写は魏使の創作とも見えるので、倭人の国の姿を再考証する必要があります。
 郡との「外交」は、伊都王が全権委任されていたので、王への報告の往復日数は勘定していないと見えます。伊都駐在の大宰、大夫が代行したかも知れません。

*安息国先例
 そのような対処は、中国にとり先例の無い無法なものだったのでしょうか。
 そこで想起されるのは、史記大宛伝、漢書西域伝、魏略西戎伝、後漢書西域伝に書かれている、西方の超大国安息国(パルティア)との交渉です。
 安息国は、武帝が最初の使節を送った頃に現在のイラン高原、南北数千里の広大な国土を確立し、「王都」をメソポタミアに置きましたが、王国発祥の地で、歴代王墓の地、カスピ海東岸南方の「安息領域」、今日マーブ城塞と見ている軍事拠点を東都としていました。
 漢書にも、漢使が東都に到着すると、西方数千里の「王都」に急使を発し、知らせを聞いて駆けつけた王の使節が親しく漢使を歓迎したと書かれています。因みに、班固「漢書」西域伝で、多数の蛮夷の中で、安息だけが「王都」を名乗っています。
 「国交」樹立の際を含め、両漢は、西域都督使節を派遣していますが、使節が西方の「王都」を訪れたことはなく、副都を安息国都と扱っていました。

*漢使王都訪問記の不在
 班固「漢書」から笵曄「後漢書」に至る正史記録は、副都を安息国王治所として、漢都(長安、後に洛陽)からの里程を記録し、後漢書に至っては、この「国」は、「小安息」であって南北数千里の大国ではないとしています。この点は、笵曄「後漢書」に先行する魚豢「魏略」及び袁宏「後漢紀」の西域記事からも、伺うことができます。

 安息は、独自の文字、文化を有し、漢帝国に匹敵する堂々たる古代国家であり、漢に服属しませんでしたが、相互に敬意を払う「国際」関係だったようです。そして、使節が王都を訪問せず、副都で「小安息」王に接見するだけで、漢安関係が魏代の安息亡国まで維持されたのです。
 当然、訪問していない王都への往還記、情景描写はなく、班固「漢書」西域伝は、安息国長老、恐らく、小安息高官のカスピ海東岸からの眺めを記録し、西方メソポタミアからの眺めは見当たらないないのです。
 陳寿は、笵曄「後漢書」を読んでいないものの、班固「漢書」と魚豢「魏略」西戎伝を熟読していたので、伊都国を倭王治扱いした記録に筆を加えなかったのです。
 因みに、古田武彦氏は、「倭人伝」解釈の際に、班固「漢書」西域伝に言及していますが、「安息国」(パルティア)を、イラン高原全体を統一支配したアケメネス朝の「ペルシャ」と混同して、そのために、「安息国長老」の言の趣旨を誤解したようです。

*魏使の成り行き推定
 こうして見ると、魏使が伊都国に止まり、そこに、女王の代理人が臨席することにより、魏帝の下賜物が、印綬と共に女王に嘉納されたことや、帯方郡からの道里が、所要期間と共に、伊都国までの行程に対して記録されたことも、無法なものではないことがわかるのです。
 いえ、決定的な意見ではないものの、古田氏初め、この際の魏使が女王に謁見しなかったとの解釈に異を唱えている諸兄への有力な反論とみるのです。

*緩やかな国家像~2023/05/11補充
 以上のように解明すると、伊都国から投馬国への里程は、水行二十日とあるものの、続く、倭王治への行程は記述されない理由が一応説明されるのです。
 また、倭王治描写は紋切り型で、現地踏査したものでない事情がわかります。
 あるいは、以後数世紀の何れかの時代に、女王の権威や王治は変貌したでしょうが、「倭人伝」記事から推測されるのは、緩やかな国家像です。文書統治が存在しない時代、騎馬文書使が往来する街道がなかったので、往来に何十日もかかる遠隔の諸国とは、「通」じることはできず、「絶」と見ざるを得なかったはずです。
 「倭人伝」には、「一大倭」が、対海国から末羅国に到る行程上諸国に置かれていて、各国の政治を監査していたと言うことですが、恐らく、文書通信のできる識字官僚、つまり、計算/記帳のできる管理者を常駐、ないしは、巡回させて、意志の疎通、さらには、現地官僚の養成を図っていたものと見えるのです。もちろん、対海、一大の両国は、街道連絡ができませんが、文書で意思疎通すれば、当時としては、緊密な連携が維持できたと見えるのです。

*「一大率」の起源~2023/05/11補充
 因みに、壹與の遣魏使記録に登場する「倭大夫率善中郎將掖邪狗」は、要するに、それまで単に「大夫」として魏官制に抵触していたのを「倭大夫」として、東夷独自の官制としたものであり、倭人官僚の教養を示したと感じさせます。

 単なる思いつきですが、ここに書かれた役職「倭大夫率善中郎」を略称すると、「倭大率」ならぬ「一大率」の通称が得られると見えます。因みに、「一大率」は、伊都国が、行程諸国、つまり、女王国以北の末羅、一大、対海の列国に派遣したものと見えます。投馬国は、遠隔で「絶」なので、対象外ですが、「奴国」「不彌國」が、「一大率」の派遣を受け入れていたかどうかは不明です。

*史学に基づく「サイエンスフィクション」~2023/05/11補充
 概して、諸兄は、「倭人」に、後世風の強力な「律令」国家の萌芽を想定しているのですが、文書統治の確立なくして、鉄血国家は、成立し得ないし、そのような時代錯誤の強権国家の必要もなかったのです。むしろ、各国に識字官僚を養成することが、随分先行して必要なものと見えるのです。近来、三世紀を舞台に、途方もないホラ話「ファンタジー」がコミック化され、結構、人気があるようですが、ここに掲げる「フィクション」は、史学という「サイエンス」にもとづく、「サイエンスフィクション」であり、思いつきを爆発させる「ファンタジー」ではないのです。
                                未完

 

古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 女王論 5/5 追記 再掲

              - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23 補追 2023/05/10, 11

*女王の姿
 女王は、高い継承順位にあった有力国の王族と見ます。中国東部齊では、氏族代表者は、実子の内、男女各一名を神官と巫女とし、氏神祭事に専念させたようです。この季女(末娘)制は、例えば、白川静氏の著書に記されています。

 「倭人伝」の手短な共立談義から察すると、政治後継者に不都合があったのか、男王が譲位できない事態に至り、敢えて権威ある神職の巫女を起用したようです。

*女子共立
 「女子」と言う形容を、古典に即して深読みすると、男王の娘の子、外孫、ここでは、嫁ぎ先で産んだ娘となります。寸鉄の書法です。
 つまり、その人は、実祖父である男王の家と、その娘、つまり実母が嫁いだ先の実父家と、両家を受け継いでいたので、両陣営で妥協が成立し、男王も孫への譲位なので納得したのです。遠巻きにして事態を注視していた重臣や第三国も、内戦勃発が避けられたので悦んで同意したのです。
 つまり、ここで言う「共立」は、二者合意が支持されことを言うのであって、別に総選挙や諸國氏子の総会を催したのではないのです。

 因みに、結構、時代錯誤の理解が出回っていますが、「名卑弥呼」とあるのは、当然親に貰った実名です。他人に名付けされるのは不当です。

*王位継承
 本来、子供を持てない巫女は、王位継承に不適格です。それが通ったという事は、決まった短い任期の後、別氏族の宗女に譲ると決めたのでしょう。

 終身在位となると、いつ墓陵を造成していいのかわからないし、継嗣も、いつまで待機して良いかわからないので困るのです。俗説で七十才の長寿では、継嗣候補が次々鬼神になって跡継ぎに困るのです。次代閣僚を期した面々も、とうに世を去って代替わりし、国の形は揺らいでいたはずです。
 もとより、若い頃から長年不仲であった狗奴国王は、存命としても、老境で相争うことができなかったはずです。

 いや、世にある俗説が、余りに現実離れで、余計なことを書き連ねましたが、古代人は世代交代の難儀を知っていたので延々在世はしなかったのです。
 それにしても、中国太古の王制伝統に倣うと、「邪馬」の王統は直系相続と限らず、むしろ、有力氏族間の回り持ちの可能性が高いようです。その時点で若くて意気盛んなものが、各国を導くべきと知っていたのです。

*巡回王都
 回り持ち時代の倭王之所を推定すると、伊都主導の「邪馬」は背なの里山であり、投馬主導の「斜馬」は東方の宇摩の山沿いの地でしょう。

 倭王の住まう治は、多数の官僚を擁する政治経済中心でなく、総社、総氏神の一の宮で、神職小数が在住する門前町であり、伊都を離れて巡回しても国は保てましたが、倭王治は明記できず、不動の 伊都を公的、つまり、中国の天子に申告する国城としたのです。それで、一応の理屈は通ります。

*余談の山
 いや、魏志に補追された名著、魚豢「魏略」西戎伝から想を得て話しを面白くすると、倭女王は、一ヵ月を四分割した「週」毎に、御神輿のように身軽に各国御旅所に行幸して、直訴まで受け付けて、巡回調停したかも知れません。ちと行きすぎでしょうか。
 諸国間調停限定といえ、文書のない時代は実情がわからず適確に裁けなかったでしょう。女王を、全知全能と見る人もいますが、それは絵空事です。

*二十年の「都」
 ついでに言うと、当時の建物は木造であり、二十年と経たずに建て替えが必要で、千年の都は想定外だったのです。西洋の箴言で「ローマは一日にしてならず」は石造建築で石畳だったのですが、こちらは、精々、丸柱藁縄組みの藁葺きでけもの路だったのです。
 但し、雨の多い倭の地で、地べたに藁を敷く「竪穴式住居」の絵解きは、ちと無理があり、低くても、床を設けていたはずです。ネズミに限らず、地を這う害虫も出回っていたはずなので、庶民といえども、穴蔵の地べた住まいでは無かったように思うものです。
 それはさておき、古代人といえども、健康的な住居を求めたのではないでしょうか。
 ここでは、国を貫く「こころざし」を見てほしいものです。

〇まとめ
 と言うことで、うまく持論を着付け直しできたでしょうか。ともあれ、三世紀は三世紀の心で語るべきで、結果論の無理筋は、最後の最後の手段です。と言っても、ここまでついてきた読者はいないものと覚悟しています。
 なお、本件の考証の諸処で、白川静氏の古代史論のお世話になっていますが、いつもお世話になっているという事でもあります。

 比較の意味で、伊豫路から畿内纏向に至る行程を図示してみました。余り見かけない経路でしょうが、熱の引いた後に見ていただきたいものです。          

*改訂版追記 2021/08/23
 今回の改訂は、行程の更新だけです。上図に反映するには時間がかかるので、言葉だけで書き残します。

*一条の「山のみち」
 まず、伊都国以後の行程は、上図では、まだ、案が練れていなかったので、九州島北岸を迂回し、国東半島から渡海する図になっていて、いかにも思慮不足であり、改訂が必要となっています。今回の提案では、図上の伊都国から南下して、谷筋を通り、日田盆地を経て中央構造線を東に進み、現在の大分付近の海港に出る案になっています。但し、図の改訂に手が回っていないので、ご容赦ください。
 上図の案では、途上、多くの国邑を歴訪するので、何も書かないわけには行くまいと言うことです。山中の抜け道が想定されています。

 最短距離の渡海で三崎半島へ水行した後は、極力船便を避けるのが賢明と考えました。漕ぎ手の手が要らず、難船の心配も無い安定した陸上行程が当時として最善だったろうという事です。改定案は、基本的に、「中央構造線」が大地に刻み込んだ真一文字の道筋が頼りであり、当時、当地では、最強の輸送路であったと見るのです。私見では、備讃瀬戸で産出した黒曜石の半島への位相はもこの経路が最善であったと見ているのですが、中々賛同は得られないでしょう。
 そして、後世、瀬戸内海の難所が克服され、「海のみち」を通じた大量輸送が始まると、この「山のみち」は、歴史の闇に沈んだのでしょう。
 現存する「今治」(いまばり、あるいは、いまはる)は、宇摩にあった「(女)王之所」、中国風に言うと「治所」が、後に、この地「今の治」に移動したものかも知れないのです。

 以上は、一介の素人の紡いだ物語ですから、ほころ びがあることは言うまでもありません。一時の夢物語であれば良いと願う次第です。

以上

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新・私の本棚 秦 政明「三国志」里程論 「市民の古代」 第15集 1/2 再掲

「三国志」における短里・長里混在の論理性 市民の古代研究会編 新泉社 1993年11月刊
 私の見立て ★★★★☆ 古田短里説の限界を示す   2020/02/16 2023/05/09

▢総評
 本論の掲載された冊子は、古田武彦氏の古代史論に啓発された諸兄が論考を寄せた好著であり、本号まで、氏の最新論説を巻頭に、適確な編集と相まって、赫々たる成果を世に送り出していたものと思います。

 本論は、古田氏提唱の魏晋朝短里説、「本説」の論証において、先行提唱されていた、安本美典氏を代表的な提唱者とされていた地域短里説の論破を図ったものであり、今日も確たる位置を占めているのです。

 本稿の結論として、本論は、古田氏の本説に対する強い思い込みに影響され、史料解釈を外した強引な論考の「論理性」が破綻していると見られます。

*再掲の弁 2023/05/10
 本記事を、最近閲覧頂いているのに気づいたので、この機会に、補筆し、再掲したものです、趣旨には変更がありません。 

〇序論展開
 氏は、本説の提唱経緯と反論論者との間で展開された論戦を復習していますが、当然ながら、用語、表現が撓んで論議の正確な理解を妨げています。

 まずは、「韓伝・倭人伝に見える短里」と仮説論証の視点を、いきなり逸脱しています。また、「いまだに短里を一切認めない守旧派の専門家」を指弾、排除するのは不当と見えます。守旧派の意見は、里制は国家の制度の根幹であるから、「倭人伝」の「里」が、国家制度の基幹である魏制「里」(周代以来の「普通里」)一/六程度に短く見えても、「短里」が公的に施行されていたとは言い切れないとの堅実な議論であり、氏の指摘は感情的で粗暴です。粗暴な意見は、声量が甲高くて、広く響いたとしても、聞き入られることは少ないのです。

 それはさておき、「地域的短里説」は、安本氏が支持したことから、広く知られ、また、妥当な説として、現に広く深く支持されているものと思われます。

 本説は、古田氏が、安本氏の提言に触発され、「倭人伝」の道里、里程を解釈する上で必須の作業仮説と認めたことから出発しましたが、次第に、里程考察のための作業仮説の域を脱して、魏晋朝の国家体系に拘わる論議となっていて、素人目にも、本来の目的である里程論の解明という目的を踏みにじって、今日に到るも収拾困難な混沌を広げているように見えるものです。

 そして、安本氏も歎いたように、いち早く提示された明確な否定論に対して、古田氏は、いたずらに反発するだけで、遂に、冷静で客観的な理解を示すことができなかったのです。そして、その遺命により同説は保持されているのです。古田氏没後、古田氏の諸説は、不可侵な「レジェンド」と化し、後世の訂正の可能性を排除されていて、まことに勿体ないことです。

*地域的短里説への批判
 秦氏は、当然、古田氏の主張を堅持していて、古田氏の本末転倒と見える主張を裏付ける論法に本質的な批判を課することなく推し進めているのです。

 まず、「根本的批判」と称して、地域的短里施行を証する根拠が示されていないと断罪しますが、大きな勘違いを披瀝していて同意できません。

 「倭人伝」には、郡から狗邪まで七千里の「地域里」が明記されています。「倭人伝」には、郡から倭への行程記事が収録され、それぞれ付された里数がどのような里長かとの質問に対して、地域里を予め示して整合を確保しているのです。「論理性」などと大げさに言うことではありません。

 字数からも意義からも、陳寿「三国志」の中でも、編纂方針が一貫していると見られる「魏志」全体に対して、「倭人伝」は取るに足りない瑣末と見られますから、「倭人伝」記事をもって、魏の全体里制を示すと見るのは本末転倒です。史官は、「倭人伝里制」と魏制の輻輳を懸念して「地域里」を宣言していると見るべきです。

                                未完

新・私の本棚 秦 政明「三国志」里程論 「市民の古代」 第15集 2/2 再掲

「三国志」における短里・長里混在の論理性 市民の古代研究会編 新泉社 1993年11月刊
 私の見立て ★★★★☆ 古田短里説の限界を示す   2020/02/16 2023/05/09

*「受命改制」の政治思想
 ここで、秦氏は、里制は、国家制度の一部であり、「受命改制」の制詔に応じて、自動的に改変されたとしています。しかし、いずれの制詔記事を見ても、里長が(大幅に)改変された記事は見当たりません。

 里制は、拠点間道里の単位にとどまらず、土地所有制度で常に参照される面積単位である「畝」に連動していて、里を一/六に短縮すれば、土地台帳の全面書き換えが必要なのです。そして、台帳の一/六換算は、当時の実務上の計算手段では、不可能です。いや、無理して、計算不能を脇に置いても、計算結果に小数端数が必然的に発生し、土地台帳書換は、国家として実施不能、亡国の失政ですが、そのような記録は一切ないのです。仮に、「受命改制」の号令が発せられたとしても、全国各地で、実務を行うためには、具体的な指令が必要であり、それは、そもそも、厖大な字数を費やす上に、全国に布令するためには、多数の地点に発令されねばなりません。つまり、厖大な公文書が発信され、結果として、各地の土地台帳が改訂されるため、それに要する文書は、厖大ですから、何の跡も残さないはずはないのです。

 思うに、国家儀礼の変更は、専門家を動員し、国費を費消して実施できても、国家の基盤を成している土地制度改変は、国家制度に危殆を及ぼすこと無くしては不可能です。まして、仮に全国の全土地の台帳記載を書き替えられたとしても、当該農地への課税は変えられないので、農民に対して、税率の説明が付かないのです。
 そして、そのような制度改定は、国庫に対して何の恩恵もないのです。

 色々不審な点を述べましたが、このように実務を伴う制度改定が、何の形跡も残さなかったと主張するなら、どのようにして、そのような制度改定が為されたか、理路整然と論証する義務が、古田氏に発生していたのです。
 
*秦制の考察
 ここで、秦始皇帝の制詔が例挙されますが、合理的な解釈では、それまで各国で異なっていた諸制度を廃し、秦制度を厳格に敷衍するという宣言であり、貨幣制、度量衡も、秦制の徹底と見るべきです。秦が長年行ってきた諸制度を廃棄し、自身、「法令」を悉く書き替える難題になり不合理なのです。

 秦制を他国に敷衍したのであれば、自国内制度は維持するので、官員を割いて諸国に派遣し、厳格に徹底すれば良いのです。

 ただし、各国においては、旧来諸制度が撤廃され、官民もろとも多大な努力で秦制に適合する桎梏に喘ぎ、それ故に、二世皇帝の治下、諸国で大規模な反乱が相次いだと見られるのです。確かに、軍縮により多数の常備軍が撤廃されて、厖大な失業軍人を吸収するのに、寿稜造成という名の雇用創出政策しかなかったとしても、思うに、このような大規模な反乱は、土地制度の改変による増税に対する農民層の不満が、初因と思われるのです。

 それはさておき、全国的に土地制度改変が、大規模な反乱決起に到るということは、後代の諸統治者に知られていましたから、そのような「改制」は、なかったと見るべきです。

〇総評
 秦氏が多大な労力を投じた史料考察は、空を切っています。『「三国志」における短里・長里混在の論理性』は、早合点の誤解です。
 本来、「地域短里」は、全国里制、普通里がいかなるものか、一切主張していないのを見逃しているのです。「地域短里」は、『「魏志」の特定部位で限定的に有効』という意味での「地域」であり、地理的な概念を指しているのではないのです。そして、「倭人伝」道里の解明と言う「地域」内の議論に有効との端的な主張だけであり、これを論破することに、史学論としての意義はないのです。

〇まとめ
 以上、秦氏の論考が、古田氏の論説の短所を補強しようとしたため、大変無理なこじつけを行っていることの指摘です。

 本記事公刊以来、長い年月が経過していますが、「魏晋朝短里」説、と言うか、「三国志統一里制」説が収束/終焉していないのは誠に残念です。今や、氏は、「いまだに地域短里を一切認めない守旧派の専門家」とされているのではないかと危惧するのです。

                               以上

2023年5月 3日 (水)

私の本棚 30a 季刊邪馬台国126号 雑感 本文前半

 季刊 邪馬台国126号 投稿原稿 「魏使倭人伝」から見た邪馬台国概説 2015年7月
 私の見立て★★☆☆☆ 前途遼遠    2015/10/10 2023/05/03

◯始めに
 あらかじめのお断りになるのだが、当記事の大部分は、題材とした論考の書評と言うより、揚げ足取りめいた、常套句批判になっているのは、筆者に大変失礼な発言になるかと思うのだが、論考の一部として、根拠記事を明示することなく書き立てているので、ここで批判するしかないのである。
 自画自賛であるが、学界全体にとって大事な指摘を書けたと思うので、無謀にも、以下、延々と私見を書き綴るのである。

*本論
 さて、掲題論考筆者の述懐として、「邪馬台国」と言う国名、国家像が、魏志「倭人伝」の記述に由来するものであるから、魏志「倭人伝」の記述に基づいて議論すべきであるという基本的な認識は、当然至極であり、混沌とさせられてしまった「邪馬台国」観に光を投げか掛けるものであり、誠に同感である。
 しかし、そのような主張は季刊「邪馬台国」という掲載誌の編集方針と不協和なのを気にしたのか、以下の論旨がそうした基本認識から、微妙に外れていて、論考の首尾が一貫しないことになっているように思える。

 季刊「邪馬台国」誌記事にあって珍しく、魏志「倭人伝」に書かれているのは「邪馬台国」ではなく、「邪馬壹国」であるというある古田武彦氏の指摘を採り上げているのは、例が少ないので好ましい。「邪馬台国」誌の沽券に関わる問題なので、ここに書く以上は、論破してくれるものと期待した。
 しかし、期待は裏切られた。
 「その後の研究により「壹」(壱)は「臺」(台)の表記誤りという考えが主流となっていることから」として「邪馬台国」と書く、と「通説」に逃げているのである。これは、感心しない。

 要は、世間の圧倒的な大半が「邪馬台国」と書いているので、長いものには巻かれろとして、それに従っているとしているのであり、いずれが筆者の支持する議論であるか語らない処世法を採っているのである。それでは、世にざらにある安手の要約書籍と変わらない。

 さて、それはそれとして、以下の記述で論者の持論に反する言及が飛び出すのである。
 「魏志倭人伝」の原本はすでに失われており(中略)現状では、誤写、誤記は考えられるところであり、云々
 と、世間の「魏志倭人伝」読み替えの風潮に言及しているのは、著者が同意していないとしても、見かけ上かかる風潮を容認し、迎合しているものと見られる可能性が高く、人ごとながら、それは著者の本意を誤解されて損ですよと感じる。

 ここは、大事な分岐点であるので、揚げ足取りとの批判を覚悟で、素人考えで解きほぐしたい。気軽に言及したつもりの「枕」が不首尾だと、肝心の本論の足を引っ張ってしまう例が多々あるのであるので、嫌みと採られても仕方ないとばかり、苦言を呈したと善意に解していただければ幸いである。

 さて、「魏志倭人伝」の原本とは、陳寿が編纂し、晋朝皇帝に上申した(いと考えていた)完成原稿を指すのであろうが、

  1. そのような原本が、1700年を超える期間に失われていることは、中高生でも理解できる程度の「自明の理」であるが、
  2. 三国志に先行する正史「史記」、「漢書」の原本が、三国志より更に長期の期間に失われていることも「自明の理」であり、
  3. といって、「後漢書」、「晋書」、さらには、新旧の唐書、など後続正史も、編纂後の経過期間は短いものの、ほぼ例外なく「原本が現存しているものはない」はずである。
  4. 写本は、如何に原本に忠実であっても、原本そのものではない。

 以上は、一種当然の真理である。だからといって、上に書いたように、特に珍しくもない原本の喪失とか原本と複製の不一致なる「真実」を殊更に言い立てて、「三国志」の現存刊本、およびその根拠とされたであろう「三国志」写本の記述の信頼性を、頭から全面的に否定するというのは、まことに粗雑な論法ではないかと考えるのである。

 それに続くのが、誤写、誤記の発生の可能性は否定できない、と言う一般論をすり替え、誤写、誤記の発生は当然であると断定してかかる、すり替えの手口である。「可能性」は、あくまでも、完璧からどの程度遠ざかっているかという、不可視の要素を持ち込んでいるので、眼前の史料を書き換える効力は、無いのである。あくまで、絶対的に否定できないと言うだけであり、大して信を置けないものと言わざるを得ないのである。
 僅かな字数の字句であるが、以上のように、安穏と読み過ごせず、躓いて立ち止まるのである。他に、適当な論拠は持ち合わせていないのであろうか。まことに、子供じみた論調であるが、それでは、子供達から子供の知力を見くびったとして非難されるかも知れない。

 学術的な議論で不可欠なのは、根拠の疑わしい、安易な総括的先入見の粗雑な適用を排した、事例毎の史料吟味「史料批判」であり、その際尊重すべきなのは、原本から継承された写本の信頼性であろう。
 そして、見過ごされがちであるが、「正史」が依拠する原史料の信頼性も慎重に評価すべきであろう。

 三国志が書かれた西晋朝の存続時点では、先行する後漢朝および魏朝の政府公文書が多く継承されていると共に、至近の事項では、目撃者たる関係者が生存していたであろうことから、三国志は、西晋朝に仕えていた陳寿の職責からして、鮮度の高い良質の原史料、主として公文書を利用できたものと推定して良かろうと思う。

*史料考
 別記事で「三国志」と並んで論じられる史料について、これらの事項を冷静に確認して見たので、興味のある方は、各付説をご一読頂きたい。
 付説-1 魚豢 「魏略」考
 「三国志」と並んで論じると、陳寿の視点と異なる魏朝内部視点から記述された同時代史料であり、「三国志」の補完資料として意義の高いものと見られる。
 逸文が多く残存しているのも、それら逸文引用者の評価が格段に高いことによるものであろう。裴松之によって、魏略「西戎伝」が、当時健在であった善本写本から、そっくり「魏志」に追加されたため、魚豢「魏略」の史料としての評価は、十分可能である。つまり、当時未刊であった後漢「西域伝」に相当する記事が大半であり、魏「西域伝」として時代区分すると、誠に閑散としているのだが、魚豢は、魏が後漢を正当に継承したことから、後漢代記事をも、魏略「西戎伝」として上申したのであり、陳寿が、魏「西域伝」を割愛した事情が忍ばれるのである。念のため付記すると、魏志「東夷伝」の末尾に付記されているように、陳寿は、後漢以来の東都雒陽史官が編纂した「西羌伝」を現認していて、当然、熟読した上で、却下しているのである。
 再度確認すると、「三国志」は、裏付けの取れない噂話まで取り込んだ唐代編纂の「晋書」と異なり、正統派の史書なのである。

 付説-2 范曄 「後漢書」考
 後漢書は、本来編纂すべきであった、後漢後継政権である魏および晋が天下統一できず、あるいは、安定政権を維持できなかったために編纂が遅れた後漢書を確固たる信念で編纂したことに意義がある。
 時代考証を軽視した東夷記事、特に「倭」に関する記事は、ほぼ全面的に、三国志記事に依拠した編纂、改変記事であり、若干の後世知見を加えたものと思われる。特に、遼東公孫氏の統治下の「郡志」 と言うべき「公式」資料が洛陽に齎されたのは、魏明帝景初年間、帯方郡から由来したと思われるので、後漢書に記述が許された、後漢朝の霊帝逝去時点までの期間については、何ら、史料が存在しない可能性が高い。
 この点、笵曄は、史官として訓練、養成されていないため、手に入った魏代史料を年代操作して、後漢霊帝期にずり上げた可能性が高く、先学諸兄姉の、非難を浴びているのであるが、誠に、もっともな合理的な非難と言わざるを得ない。いわゆる、「風説」、偽書の類いと言われても、擁護することが困難なのである。
 笵曄の後漢書編纂、改訂の筆致は、文筆家としての名声を赫赫と高めるものであるとしても、こと、東夷伝に関しては、史料としての正確さの判断を保留すべきものである。

 付説-3 非正史史料考
 *類書考
 「太平御覧」等の非正史史料(類書)は、原写本の記述を、厳格/正確に引用している可能性は、かなり低いと見られる。編纂時、どの程度の品質の原写本を起用したか分からないが、粗略と見て取れる「所引」の際の書き写しの精度は万全に遠く、また、類書編纂時に、節略、要約するため、原文の精彩を欠いているものと見られる。
 また、俗耳に訴えている粗雑な論法を借りると、類書原本自体は現存せず、原本を現認した人物は生存していない。加えて言うと、類書には、複数の異本、異稿が存在し、原史料を確定することが困難を極めていると見えるが、厖大な類書が、編纂、校訂され、写本される際に、正史と同等の高精度を期せないのは明確である。
 少なくとも、類書の記事が、「三国志」現存刊本の記述と競合したときに、「三国志」現存刊本の記述を書き換えるだけの効力があるとは思えない。
 言うまでもないが、太平御覧」等の類書もまた、原本が現存しない資料と思われる。

 *翰苑(断簡)考
 翰苑(断簡)は、一部、漢方薬の全書めいた部分も残っているようである。そうした、百科事典めいた実用書部分もあるが、当時官吏を目指す者の必須教養と見なされていた「四六駢儷文」のお手本として編纂された風情がある。
 つまり、史書としての正確さではなく、漢文としての美麗さを求めた書籍と思われる。
 当断簡は、文化財ないしは著作物として高く評価され、国宝として尊重されているとしても、文書資料として評価すると、筆写、校正、浄書が手堅く成されたものとは見えず、つまり、率直に言うと、誤記、誤写、構成の乱れが、校正、修正されずに放置されているお粗末な写本であり、現存している断簡の記述に対して十分な信頼を置くことはできない
 「三国志」写本が、西晋代以来、多年に亘り帝室蔵書として最高級の格式で遇されていたのであり、毎回の写本ないしは刊刻は、帝国の威信をかけた国家事業であり、多数の専門家の手により、慎重に校訂された上で、厳重な管理の下に写本、刊刻されたのに比べて、「翰苑」残簡は、原本や善良な高品質の写本が総て喪われたなか、ただ一例が将来されたものであり、その際、少なくとも一回、杜撰な取り扱いに曝され、その際の壊滅的な被害が、そのまま修復されずに承継されていると言うのが、歴史文書としての評価である。いや、他に良質な写本が継承されていれば、比較校訂して、原本に迫ることができるのだが、現実には、原本の姿が確認できないのである。

*本論復帰
 いや、ここで言いたいのは、三国志絶対論ではなく、総体的な信頼性評価である。
 特定の史料の信頼性を、明確な根拠を示さずに批判するのであれば、比較対象となっている他の史料も、同じ尺度で信頼性を評価して、それぞれの信頼性を客観的に把握した上で発言すべきと言うことである。下手をすると、五十歩百歩、大同小異の手口で片付けられそうであるが、ここでは、五十歩と百歩は実質が倍違う、そして、精査においては、小異が大事、とのこだわりを持ち続けたいのである。

 もちろん、「三国志」の一部である魏志「倭人伝」の記述を、同程度の信頼性をおけない国内史料や、考古学上の発掘遺物に対する憶測を根拠にして改定してはならないと言うことである。
 後世正史にしても、「倭人伝」の真意を悟ることなく、後世の浅知恵で、節略、改編して要約したものが大半であるので、よほど用心してかからないと、陥穽に嵌まるのである。

未完

私の本棚 30b 季刊邪馬台国126号 雑感 本文後半

 季刊 邪馬台国126号 投稿原稿 「魏使倭人伝」から見た邪馬台国概説 2015年7月
 私の見立て★★☆☆☆ 前途遼遠    2015/10/10 2023/05/03

*先行論考の批判について
 以下、当記事では、魏志「倭人伝」の道里行程記事について、後半に参照した上で、堅実な考察を加えているが、すでに公刊されている中島信文氏の著作を克服しなければ、いわゆる定説の正確さを主張することはできないものと考える。(中島信文 『甦る三国志「魏志倭人伝」』 2012年10月 彩流社)

 それぞれの論者が、先行論考の評価を怠っていては、議論は、堂々めぐりして先に進まないのである。

 以上、肝心の論文内容についての「批評」ができていないのだが、これについては、著者の口ぶりを借りれば、当方の浅学非才で手の届かない分野であるので、おおむね考慮中と申し上げておくものである。
 ここに書き連ねているのは、当論考に触発された個人的な感慨である。

*「古代国家」に寄せる感慨
 本論考で、感心するのは、当時の邪馬台国の国の形として、九州北部にまとまった小国連合と見ている堅実な見方であり、九州島内すら完全支配していない「古代国家」が、島外に権力を伸ばしていたとは見ていない点であり、この点は、「近畿論」が、奈良盆地に根拠を持つ古代国家が、すでに、遙か北部九州まで権力範囲に収めていたとする壮大、かつ根拠不明の展望に比べると、確実な議論と思える。

 以前にも書いたように思うのだが、当時の交通手段で日帰り圏を越えた遠隔地を支配しようとすると、相互の意思疎通、つまり、頻繁な文書交信にはじまり、年々の貢粗取り立てに伴う物資の搬送、軍役の賦課、労役の賦課など人員の移動が必須であるが、そのような、支配される側が容易に受け入れないと考えられる国家としての「支配」を維持するのは、機動的な武力行使を背景としない限り、限りなく困難(ほぼ不可能)である。

 少し言い換えると、その時代に短期間で到達不可能な「遠隔地」を実効支配するには、相応する交通、輸送、通信「インフラ」(社会基盤)整備が、大前提である。
 それには、必要な水陸交通手段が不確実であり、文字や紙がなくて文書支配もできないと思われる「インフラ」未整備状態の3世紀、4世紀には、西日本を横断支配する古代国家は、史料にも遺物にも依拠しない願望に基づくものであり、満潮が来れば無に帰する「砂上の楼閣」とみられる、それを言い立てるのは、非常識/不合理な時間錯誤である。

 本論文著者が書き綴っているように、その時代の各地小国家は、相互に影響を及ぼせる範囲内では、互いに存在を認めつつ、競合ないし連合し、支配など試みなかったと思われるのである。本来、絶賛ものの卓見である。
 私見では、隣国は、もともと同族の分家であり、交際と言うより、婚姻を通じて、親戚付き合いを深めていたから、紛糾はあっても、仲介/斡旋によって折り合いがつく限り、武力抗争に訴えなかったと見るのである。恐らく、「仲裁は時の氏神」というように、氏子同士の諍いは、氏神が取りなしたと見えるのである。なぜなら、古来、「戦い」は、互いの言い分を通すための意地の張り合いであり、死傷者が多発するような「戦い」は、ほとんど無かったと見るものである。

*場違いな迷言の介入
 この点、近来のNHKBS番組では、古代史素人の「歴史学者」が、「掠奪すれば、労せずして多量の収穫が得られるから、真面目に農耕を重ねるのは馬鹿馬鹿しい」とでも言うような、不適切/不規則/不合理な発言をして、善良な視聴者、中でも、次代を担うべき若年世代に、間違った時代認識を与えているのである。お隣の先進国中国の古代は、確実に地平線の彼方から襲来する騎馬の掠奪集団から、小規模の「自国」を防衛するために、時には、幾重にも、石や土の城壁/防壁を設けていたが、話題にしている「古代」史は、別次元、別時代の様相であり、中国側の視点で書かれた「倭人伝」を見ても、各地遺跡/遺物の考古学的な考証を見ても、自国の防衛手段らしきものは、防衛手段としては無力に近い環濠と防衛柵であり、騎馬武装集団による侵略/掠奪への備えは、乏しいと見えるのであるが、それは、平地に乏しくて、騎馬集団が掠奪活動できない地理状況も加味して、実行不可能で不合理な「総力戦」に訴えることなく「各部族」の折り合いがついていたと見るのである。

 当該「歴史学者」は、主として江戸時代の古文書の解釈を通じて、経済活動を考察して、「歴史学者」たる名声を得たようであるが、こと、古文書の助けを得られない古代史では、江戸時代あたりから類推する策しか取れないようで、困ったものだと歎いているのである。

*「邪馬台国」戯画台頭への嘆き
 現代人は、そうで無くても、戦いを戯画として捉える傾向があるが、人口が少なく食糧確保のための農耕に多数の人員の専念を要していた農業社会では、他国を侵略するためには、農耕を放棄して戦闘員を多数動員する必要があり、そのような時代環境では、勝者といえども戦力の損耗は避けられず、戦利品としての穀類の獲得も乏しいと思われるから、共に、戦後の飢餓に怯えなければならないのである。まして、広域に及ぶ戦乱など、自滅行為なのである。2023年現在、「邪馬台国」をサカナにして、戦乱戯画が延々と展開されているが、誠に嘆かわしいご時世だと思い、苦言したものである。

 言うまでもないと思うのだが、遠隔の他国を征服・支配するには、時に応じて遠征軍を派遣する必要があり、そのためには、物資、食糧の輸送、多数の人員の移動が必要であり、これを国家事業として実施するには、少なくとも、後の山陽道と呼ぶに値する堅固な「インフラ」(国家基盤)が必要なのである。

 当時、遠隔地との交易は、隣接集落との物々交換による送り継ぎ、交易の鎖が存在していて、「交易」と言えるほどの大規模な交換はなかったと思われる。なぜなら、共通通貨が未形成であったから、と思うのである。おそらく、少人数の行商人が往来していたのではないだろうか。
 発掘された遺物に見られる遠隔地物資の流入は、それらがあくまで、貴重品の範囲であり、交易が大規模な実業として成立する規模ではなかったと思われるのである。

*結語らしき感慨
 それにしても、「邪馬台国」に関する議論では、信頼性の高い陳寿「三国志」魏志倭人伝でなく、相対的に不確かさの高まっている後世資料である笵曄「後漢書」やさらに信頼性が低下している後漢書引用史料を根拠とした論理的に証明されていない俗説の類いが横行していて、そのため、素人目にも、俗に言う「邪馬台国」論は、止めどなく混沌としていると見えるのである。
 中国の説話にある、のっぺらぼうな混沌の顔に目鼻を書いて面目を与えると、混沌は死んでしまうと言う教えに従っているのか、それとも、単に、世上に溢れている悪ガキの落書きのようなものに倣っているのか、理屈の通った議論、解明が成されないのが残念である。

 当ブログ筆者のようなその道の素人にも粉飾の目立つ議論であるから、逆に言うと、山成す粉飾を丁寧に取り払えば、意外に単純な中核が見えるのではないだろうか。

以上

新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 再記 1/2

監修 上田正昭 著者 千田 稔  文英堂 2011/4 第一刷
私の見立て ★★★★☆ 考察が潤沢な好著。ただし、図解は「無残な」でたらめ。 2022/04/09,04/11,2023/01/01,05/03

◯はじめに~圏外介入の弁
 本書は、全五巻の名著、日本古代史通史(出版社がそう呼んでいるわけではない)の二巻目で、時代的にも当ブログの範囲を外れるが、「遣隋使推定航路」図に重大な異議があり、「細瑾」批判記事を立てた。と言うものの、随分深刻な「細瑾」なので、手痛い批判になってしまったことをお詫びする。

*遣隋使行程図批判~名著の細瑾
 下図は、本書掲載の「概念図」であるが、批判するのに不可欠なので、千田稔氏著作物として、謹んで複製引用した。「日本書紀」に推古朝遣隋使の航路圖はないので、氏の著作物として作図、公表したと見て批判したのである。

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*無知の憶測の堆積~現代地図の弊害
 本図は、一見、正確な図示であるが、実は、実現性/正確性に欠けたものであり、大いに誤解を招く。
 まず、遣隋使船が、海船で飛鳥を発し、瀬戸内海航行するのは、「画に描いた餅」もいいところで、実行不可能である。
 飛鳥は、奈良盆地、つまり、内陸であり、海船が出発する「母港」は無いし、仮に、飛鳥を海船で出発しても、大振りな海船が、当時の大和川を下って、河内平野に出て、河内湾に出るのは、全体に水量の乏しい浅瀬続きであるから、どう考えても、不可能である。
 何しろ、遠路渤海湾までほとんど無寄港で進むのであるから、甲板と船室、船倉を備えた大型の帆船に違いないのだが、まずは、河内湾に出ることは到底できない。次に、瀬戸内海の移動であるが、衆知の如く、東の備讃瀬戸、西の芸予諸島の難所は、水先案内が乗り組み、小船の助けで舵取りしたとしても、外洋航行に適した帆船には到底通過不可能である。
 最後に、関門海峡通過が至難の業であるが、ここは、詳しく言わないで前に進む。
 七世紀に、大型の帆船が、こうした難所を「易々と通過することが可能であった」という根拠は無いはずである。ことは、「冒険航海」などではないから、絶対安全でなければ、飛鳥で海船を造船、進水させることなどできないのである。

 確実な出港地「海港」は、「北九州」玄海灘沿いである。帆船自体、ここで造船し、ここを母港にするのが自然であり、当然、船員も、目前の半島航路に習熟した船員とすべきと思われる。瀬戸内海航路に習熟した船員は、一切不要なのである。

 その際、目前にあり、古代の多方面に通じていた船路の要であったはずの一大國、壱岐を通過しないように見えるのが、意味不明である。
 以上の重大な難点は、総て、九州北部「北九州」が、半島を経て、黄海を進み、山東半島に上陸して、以下、官道を進むという、誠に自然な経路を無理矢理揉み消しているからであり、三世紀、魏使の来訪航路を知らなかったのか、強引に無視して夢の家、政権の継続性という視点から、大変不審であると言い置く。

 百済沿岸と称する南岸西岸航路も、無寄港で、沖合を通り抜ける意図が不明である。食糧、燃料、飲料水という重大な補給もあるが、そもそも、「沿岸」は、百済の陸地であるから、必ず上陸しなければならない。とても、百済沿岸を経ている図とは見えない。三世紀に各地に海港があって、航路が稼働していたのなら、後世になって寄港しない理由が不審である。

 図によれば、七世紀当時、抗争中の百済「領海」、次いで新羅「領海」を通り、さらには、高句麗「領海」へ通過し、転進して渤海の河水河口に直行したと見える。このような経路が、理不尽で、不合理と見る理由を、以下述べる。

 朝鮮半島の新羅海港(後の唐津 たんじん)と山東半島の登州海港(東莱 とうらい)を連絡する航路は、新羅の厳重管制下であり、横切るにしろ、新羅の通行許可を必要としたはずである。また、遼東半島先端の高句麗海港は、専ら登州と往来するものであり、当時、隋と紛争を繰り返していた高句麗が、遣隋使の通過を認めるはずがない。いずれにしろ、著名な海港は、常用されているものであり、それ以外の場所に、異国の海船を受け入れる能力/設備があったとも思えない。所定の海港以外で、蛮夷のものが、中国領に上陸することが許されたとも思えない。奇っ怪千万である。
 ついでながら、河水自体の航行についても、通行許可の無い異国の船舶は、通行できなかったはずである。

 そのように、常用される海港を避けて、人跡未踏の河水河口から、大河河水(黄河)に乗り入れて、遡行する航路など、金輪際あるはずがない。河水河口部は、泥沼であり、天井川となっていたから、海船が乗り入れ、上下航行できるようなものではない。

 図示された洛陽は、「東都」と称され、たまたま、隋煬帝時代には、東夷との折衝に用いられていたが、あくまで、副都であり、帝都は京師(長安)であったから、倭國使は、本来、京師に向かったはずであるが、なぜ、隋帝の所在を察知して東都に向かったのか、不審である。洛陽は、洛水と呼ばれる手狭な支流沿いであったから、大型の帆船の進入は許されなかったはずである。いや、河水への進入をどうやって成し遂げたかという、さらなる難問が克服されていないのを忘れないで欲しいものである。

 素人目にも、どうにもこうにもつじつまの合わない無残な絵解きである。

 ついでながら、地図上の半島の「平城」であるが、Wikipediaによると、「平城市(ピョンソンし)は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平安南道の道都。1965年に平壌市の一部を分割し、平壌市から道都を移して成立した都市である。」古代に存在しなかった地名と思われる。不審である。

 事の振出しに戻ると、遣隋使船を発するとき、見通しの立たない海を、不案内なまま、できたての船、新米の船員で行くことは「絶対に」あり得ないと見えるのである。

 本図は、現代科学の手を借りてきれいな絵解きに見えるが、当時にそのような結構な技術はなく、それこそ、一寸先は闇の手探りの旅であり、以上のように、どうにも解けない「疑問」、ここでは「重大な難点」がある。図示されたような「つぎはぎ」の船旅は無茶である。
 百済と提携して、一貫して案内して貰うのか、どこかで、百済船に乗り込むのか、いずれにしても、手慣れた百済に任せるのであれば、旅路が不案内でも、国使を送り出せるのである。

 確かに、後年、この航路が通行不能になった後は、自力で、東シナ海を突っ切るしか無かったのであるが、それ以前は、小型の海船で、百済海港にいたり、以後、経験豊富で不安のない百済海船を利用したはずである。

 なお、どう経由するかは別として、中国上陸は、半島交易船が往来していて、高麗館、新羅館と言った専用設備のある山東半島登州であろう。高麗館、新羅館は、それぞれの商館であり、隔壁で守られ、駐在武官を擁していた、言わば、治外法権なのである。何しろ、高句麗、百済、新羅は、山東半島登州への海岸往来、つまり、交易/市糴によって、莫大な収益を得ていたのであり、百済と高句麗の抗争は、互いの国王が戦死する凄惨な戦いであったが、新興の新羅が、死力を尽くして、両国間に介入して、百済を南に追ったから、三国必争地域に、強力な楔を打ち込んだのであるから、はるか圏外で海船を持たないの「倭」が介入することなど、許さなかったのである。さよう、隋代から唐代初期に「日本」は未形成であったから、三国戦局に介入しようがないのである。度しがたい、時代錯誤である。地図は、七世紀と銘打っているが、隋は、六百十八年に亡んでいるから、七世紀の残る八十年に、隋は存在しないのである。
 隋の後継と言うものの、唐代初期は全土大乱で混乱していて、とても、明快に図示できないのである。つまり、この図は虚構である。

 この海域の海上往来に、裏道、抜け道はあり得ない。

                   未完

新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 再記 2/2

監修 上田正昭 著者 千田 稔 文英堂 2011/4 第一刷
私の見立て ★★★★☆ 考察が潤沢な好著。ただし、図解は「無残な」でたらめ。 2022/04/09,04/11,2023/01/01,05/03

*「画餅」~根拠なき「夢想」疑惑
 重複気味に念押しすると、河水河口部は、毎年春先の凍結解消による氾濫で、茫々たる泥濘で、海船乗り入れは無謀である。河口部を大きく避けて上陸したとしても、以後、現地川船で河水に乗り入れと見るにしても、なぜ、京師である長安/大興でなく、東都/洛陽に入ったのか。一部に新説が流布しているようだが、一般読者に対して説明不足である。

 因みに、洛陽は、河水の支流である洛水の上流であるが、海船で乗り入れることが許されたかどうか不明である。長安は、河水を、はるばる撞関まで遡った後、支流である渭水に乗り入れる必要があり、海船で乗り入れることが許されたかどうか、さらに不明である。いずれにしろ、密入国に近い状態でどこまで辿り着いたのか、不審である。

 蛮夷は、少なくとも、いずれかの海津(しん)で、隋官人に来訪を申告し、入国許可と国内通行許可を得るのであり、河水河口部の無人の境地から不法侵入するものではない。蛮夷のものは、鴻臚寺と交信の上、事前に入国強化を得ているものであり、いきなり飛び込んでいくものではない。中国は、法と秩序の国家であるから、このような不法侵入が承認されることはない。

*合理的な推定~国使の行くべき「道」
 以上の難点を見た上で、九州北岸からを旅路を見なおすと、倭人伝以来周知の壱岐、対馬経由の半島への渡海/水行は、便船豊富で「銭」で雇えるし、上陸後は、古来内陸街道が常道、既知であったので、ここも何の迷いもない。方や、壱岐から転じて南岸西岸沖合航路は、以上説いたように、にわか作りに違いない倭船にとって、不案内で、とても行き着けるものではない。
 どちらを行くべきか、明白ではないだろうか。特に、出発点が、本当に内陸の飛鳥であれば、海の長旅には、恐怖しか感じなかったと思うのである。

*「新羅道」提言~安全、確実、迅速、低廉な経路
 復唱すると、新羅街道「新羅道」は、古来整備されていた官道であり、半島の嶺東を北上して竹嶺で小白山地を越え、下山して西に向かい、西岸海港に出て、以下、渡船で登州に至る長丁場だが、新羅にお任せである。登州上陸以降、内陸街道は、人馬を要する移動も宿泊も「銭」で賄える。但し、このような安全、確実、迅速、低廉な経路も、倭と新羅の関係が険悪になれば、倭遣隋使の新羅国内街道通行が許されなくなる。もちろん、後年の遣唐使の大使節団も、同様に通行できないと思われる。
 以上が、本図航路に対する異議であり、反論があればお受けする。

*隋書無視に疑問~台所事情の苦渋か
 氏の論議は、信頼すべき隋書を無視しているが、国書交換など、世上の遣隋使論に整合しない「隋書」俀国伝を無視したと思われる。「『日本書紀』の記事が事実とすれば」と書く氏の苦渋を察して、これ以上は深入りしない。
 舊唐書、新唐書どころか、古田武彦氏著作も参照していないが、以下同文。

                                以上

  追記:「隋王朝(7世紀)」の無残 (2022/04/11)
 ついつい、地図の疎漏の指摘で、精力と注意を削がれて、肝心なことを取りこぼし、書き漏らしたので、仕方なくここに追記するが、実は、一番無残なのは、この表現である。

_n_20220411203901 

 重要なので復習すると、隋は、一般に581~618年の期間存続したとされていて、別に、七世紀べったりではない。むしろ、七世紀の主要部は、唐にとって代わられているので、正直に書くなら、七世紀初頭と言うべきだろう。
 それにしても、隋代、グレゴリオ暦による世紀の数え方が、隋に届いていたと思えないので、「七世紀」の当否を煬帝の霊魂に問い質そうにも、飜訳/通訳の仕様がないのである。
 史学会には、当時の教養人に理解できない言葉や概念は避けよ、と言う箴言があると聞いている。それにしても、この失態は、一言で言えば、杜撰を越えて無残な誤記である。

 さらに言うなら、世紀の半ば過ぎの六百六十年代には、唐の征討軍により百済、高句麗が、相次いで撲滅され、この図は、全く無意味になっている。氏が、どういうつもりで掲載したのかというと、単に、裴世清来訪時の諸国形勢を書きたかっただけではないのだろうか。と言わないと、何も言い訳ができないことになる。不確かな推定を、立派な地図にしてしまったために、アラが目立つのである。

 と言うことで、国内古代史について、造詣を深めているのに、同時代の中国、朝鮮方面については、全く素人だと露呈している。それにしても、氏の周囲に、誰も「助言と支持」を与える知恵袋はいなかったのだろうか。出版社の編集担当からの助言もなかったのだろうか。いかに「細瑾」とは言え、重大な「躓き石」があからさまで、勿体ないことである。

この項完

新・私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 『天皇制の「伝統」』論 1/2 補

 私の見立て★★★★☆ 必読       2019/05/16 2023/05/03
 今回の題材は、毎日新聞夕刊文化面の月一の歴史コラムです。

*総評 
 「天皇制の「伝統」とは 時代に即した柔軟性」が、紙面に掲示されたタイトル。

 論説として稚拙です。どこが、どう不出来なのか、以下、当ブログの芸風に沿って丁寧に批判します。なお、当記事は、毎日新聞夕刊文化面記事で、同社サイトに掲示されています。(ネット記事のタイトルは、前回分流用。偽装かな)

*「伝統」の時代錯誤
 まずは、タイトルの「伝統」に躓くのです、この言葉は、古代史では「王統を継承する」という限定された意味であり、「時代に即した柔軟性」などあり得ないのです。

*仁藤氏(敦史・国立歴史民俗博物館教授)の卓見
 担当記者は、「古墳時代前ずらし」主唱者として知られる歴博の教授である、仁藤敦史氏の論説を紹介しているので、たっぷりとした問答をへて書き上げたのでしょうが、このように、記者の語彙が混濁していると、ここに書かれている「今どき」の解釈が、仁藤氏の本来の意見かどうか疑念が残ります。と言うことで、丁寧に問題提起しますが、仁藤氏の論説の成り行きそのものについて難詰しているのではないのです。

*書紀の大予言
 劈頭、記者は、「日本書紀」に天皇家萬世一系の伝統が説かれていると、書紀知らずの素人にも自明の暴言ですが、書紀」そのものから、以後、現代に及ぶ伝統が読み解けたら、神がかりでしょう。まして、また、記者は、五世紀論で、書紀を棄て、宋書の書紀欠落部に触れて平然としています。真偽は別として、その場凌ぎもいいところです。
 因みに、仁藤氏は、神武天皇以来武烈天皇までの「伝統」について、特に主張せず、五世紀に関する推定とそれ以降の考察の対比だけにとどめて、非科学的な神がかりにはなっていないのは、記者も学ぶべきでしょう。

*古墳群並行着工の奇観
 五世紀、4~5カ所に、それぞれ自律的に古墳を造成する有力勢力が割拠、並存していたとは通りすがりに大胆ですが、古墳群は、厖大な物資と労力を長期間に亘って食らう呑舟もので、構想だけでも神業であり、広く労働力と「経済力」を空費する超巨大労務を長年に亘って強要する強大権力は驚異です。大勢の識字官員による文書記録と計算によってのみ、そのような壮大な「史実」が成り立つでしょう。

 労力だけ見ても、従来、古墳造成は、今日の近畿圏のかなりに及ぶ動員が必要と見ています。記者が、諸勢力割拠の広がりをどう想定しているか不明ですが、各勢力の造成が競合すれば、素人にも、全面的な混乱が想像できます。長年に亘り、従来当社比数倍の広域から成人男子を徴用すれば、営農不能、農産壊滅で、全土で飢餓必至と見えます。亡国の策と見えます。

 既存説は、畿内圏で一時に一カ所の造成で、並行すると想定していなかったのですが、それでも、地域経済の疲弊が想定されていました。それも「時代」の一様相で強行されていたのでしょうか。いずれにしろ、素人には、畿内で大規模古墳を複数カ所並行施工するとは信じられないのです。3世紀開始として、倍速進行でも、古墳施工場所も含めて、四世紀末には万事枯渇したはずで不可解です。

 仁藤氏ほどの碩学ですから、仁藤氏には、論理的な反論があるかも知れませんが、素人の代弁者であるべき記者の受け売りでは、一般読者には、氏の真意は、知りようがないのです。

                               未完

新・私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 『天皇制の「伝統」』論 2/2 補

 私の見立て★★★★☆ 必読       2019/05/16 2023/05/03
 今回の題材は、毎日新聞夕刊文化面の月一の歴史コラムです。

*王の実力を数値化、可視化する方法
 また、記者は、忽然と仁藤氏の発言を引用して「外交」と述べますが、素人目には、巨大墳墓を並行して造成できる勢力は、それぞれ、いわば独立国、独立の伝統の持ち主で、「外交」とは、日本列島内諸国間「外交」かと思うのです。因みに、中国側視点では、「倭」は国でなく蛮夷に過ぎず、従って、「外交」はあり得ないのです。語彙の時代錯誤でしょう。別の意味で、「交易」も三世紀はおろか五世紀にもなかったと思われるので、時代錯誤でしょう。誰が誰とどのような通貨、決済手段で、交易したというのでしょうか。

 仁藤氏は、「実力」要素として『「外交」「軍事」「交易」の三項目が最優先され」たとおっしゃったようですが、「三項目」を「最優先」するというのは、一種の冗談かと思うのです。国内古代史業界言葉で、そう言わないと排斥されるのであれば、保身していただいても良いのですが、せめて、一般読者向けに、誤解の無い言葉に言い直す配慮をいただきたいものです。

 取り敢えず、解釈を試みると、軍事」は、日本列島内諸国 で、「物理的に誰が一番強いか」と、総当たり式の実力行使の果てに比較できそうですが、「外交」、「交易」は、時代錯誤で当時通用しなかったというのは別として、不可視で数値化できず互いに比較もできず、また、「軍事力」にどのように加味するか、全く意図不明で、さらには、これら以外の「書かれてもいない要素」に対して、どのようにして「最優先」させるか、何も説明が無いので、善良な一般読者には、理解しようがないのです。
 仁藤氏の断言は、厖大な歴史に学んでいる現代人にも趣旨不明で、当時の評価は知りようがないのです。元々、「実力」とは、政治的な折衝力とその果てに来る軍事行動の強さであり、そう解すべきのように思えるのですが、どうでしょう。

 いや、当方は、仁藤氏が、推定にとどめている五世紀について、どのような数値モデルで「実力」を求めたかわからないし、記者が、素人、つまり、一般人読者に通じる言葉遣いで、仁藤氏の主張を噛み砕いてくれないので、毎日新聞夕刊を目前にしていても、途方に暮れて、素人臭い質問を呈するしかないのです。「それは、どういう意味ですか。なぜ、そう思うのですか」
 担当記者は、随分受け売り得意の特技の持ち主のようですが、記者の使命は、一般読者に理解できる言葉で伝えることだと思うのです。

*「法理論」の怪、「女系OK」の怪
 ここで、突然、意味不明な断定が出て来ます。古代に「法理論」は、一切なかったので、いくら言い立てても、当時の世人に一切理解できない後世人の後知恵だろうし、「女系OK」に到っては、世間一般に通用する現代語ですらないのです。「柔軟性」(記者の意図は不明、趣旨も不明)にも、ほどがあります。
 古代とは言え、国家制度の根幹が、自分の書いている言葉の意味すら不確かな民間人の意見で左右されるとは思えない、いや、これは記者のことであって、仁藤氏のことでないのは言うまでもないのですが、読者は、記者の変移させた語彙に載せ替えた意見を読んでいるとは気づかないので、全て仁藤氏の意見として受け取り、仁藤氏に被害が及ぶのです。

*首相談話無理解
 安倍晋三首相の答弁が引用されていますが、政治家に付きものの強調、断言を割り引くと、男系継承が「伝統」として保たれていたことを歴史の重みと理解することに、特に、文句を付ける必要はないと思います。
 記者は「正確な歴史認識」と意味不明の虚辞を持ち出しますが、「歴史」は人知で把握しようのない膨大さであり、「歴史認識」は人それぞれに異なる個人的感想である以上、「正確」な「歴史認識」の「共有」(記者の意図は不明、趣旨も不明)なぞ虚言の極みです。
 まして、人それぞれの語彙で染められて認識されているから、共通の「歴史認識」など成立せず、具体的な論点の個々について、互いの言い分が正確に互いに理解されるまで、十分に言葉を尽くして論議するしかないのです。いかに、記者が、自己視点を押しつけて短絡的な解決を望んでも、互いに理解し合えないままでは、結論は出せないのです。
 記者は、自身の脳内を眺めて独り言しているから、反対意見も質問も聞こえてこないでしょうが、一個人の早合点が、記者故に、制止されることがないままに、全国紙の紙面を占拠するのは、不気味ですらあります。

 個人的な意見ですが、記者が記者個人の(瑕疵込みの)「歴史認識」を述べたことに、特に異議はありませんが、「共有」と称して、記者の認識への同意を強要されれば断固否定します。いらないものはいらないのです。

 それは、個人的意見の「独立宣言」に反すると考えるものです。今回、記者の無法な意見に同調できないと書いて結語とします。仁藤氏は、そのような無法は主張していないと思われるので、仁藤氏と喧嘩しようとする動機は全く無いのです。

 いや、かくのごとき問題満載のタイトルが、乱暴で意図不明の体言止め、言いっぱなしなので、趣旨を誤解したかも知れませんが、個人的理解で述べました。
 まして、タイトルを偽ってネット掲示するなど、いったい何をたくらんでいるのか、奇々怪々です。
(いや、褒めているのではありません)

                                完

追記 5月18日17時現在、タイトル「偽装」は終了し、正しいタイトルが表示されているが、訂正したとの告知はないので、当方は現状確認に止める。

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