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2023年5月10日 (水)

古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 王都論 4/5 追記 再掲

              - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23 補追 2023/05/10, 11

〇治まらない道里論
 本編では、道里論議は棚上げしましたが、図上測量で、末羅から投馬まで450㌔㍍、千普通里と見ると、六千地域里になり、道里を通算すると、全行程万二千地域里に治まりませんから、持論の「エレガントな解法」では、説明困難です。
 とは言え、ここでは、困難は不可能と同義でなく、やり甲斐のある難題とみて、以下の様に組み立てを変えてみました。
 時代考証を練り直し、国の身の丈に合わせて着付けを工夫して見ましょう。

800km_s
*倭人の国の姿
 公孫氏以来、郡倭通信往来で、郡文書使は伊都止まりで、倭への万二千里も、通算四十日も、伊都を倭の首魁と見るのです。つまり、「倭人伝」の描写は魏使の創作とも見えるので、倭人の国の姿を再考証する必要があります。
 郡との「外交」は、伊都王が全権委任されていたので、王への報告の往復日数は勘定していないと見えます。伊都駐在の大宰、大夫が代行したかも知れません。

*安息国先例
 そのような対処は、中国にとり先例の無い無法なものだったのでしょうか。
 そこで想起されるのは、史記大宛伝、漢書西域伝、魏略西戎伝、後漢書西域伝に書かれている、西方の超大国安息国(パルティア)との交渉です。
 安息国は、武帝が最初の使節を送った頃に現在のイラン高原、南北数千里の広大な国土を確立し、「王都」をメソポタミアに置きましたが、王国発祥の地で、歴代王墓の地、カスピ海東岸南方の「安息領域」、今日マーブ城塞と見ている軍事拠点を東都としていました。
 漢書にも、漢使が東都に到着すると、西方数千里の「王都」に急使を発し、知らせを聞いて駆けつけた王の使節が親しく漢使を歓迎したと書かれています。因みに、班固「漢書」西域伝で、多数の蛮夷の中で、安息だけが「王都」を名乗っています。
 「国交」樹立の際を含め、両漢は、西域都督使節を派遣していますが、使節が西方の「王都」を訪れたことはなく、副都を安息国都と扱っていました。

*漢使王都訪問記の不在
 班固「漢書」から笵曄「後漢書」に至る正史記録は、副都を安息国王治所として、漢都(長安、後に洛陽)からの里程を記録し、後漢書に至っては、この「国」は、「小安息」であって南北数千里の大国ではないとしています。この点は、笵曄「後漢書」に先行する魚豢「魏略」及び袁宏「後漢紀」の西域記事からも、伺うことができます。

 安息は、独自の文字、文化を有し、漢帝国に匹敵する堂々たる古代国家であり、漢に服属しませんでしたが、相互に敬意を払う「国際」関係だったようです。そして、使節が王都を訪問せず、副都で「小安息」王に接見するだけで、漢安関係が魏代の安息亡国まで維持されたのです。
 当然、訪問していない王都への往還記、情景描写はなく、班固「漢書」西域伝は、安息国長老、恐らく、小安息高官のカスピ海東岸からの眺めを記録し、西方メソポタミアからの眺めは見当たらないないのです。
 陳寿は、笵曄「後漢書」を読んでいないものの、班固「漢書」と魚豢「魏略」西戎伝を熟読していたので、伊都国を倭王治扱いした記録に筆を加えなかったのです。
 因みに、古田武彦氏は、「倭人伝」解釈の際に、班固「漢書」西域伝に言及していますが、「安息国」(パルティア)を、イラン高原全体を統一支配したアケメネス朝の「ペルシャ」と混同して、そのために、「安息国長老」の言の趣旨を誤解したようです。

*魏使の成り行き推定
 こうして見ると、魏使が伊都国に止まり、そこに、女王の代理人が臨席することにより、魏帝の下賜物が、印綬と共に女王に嘉納されたことや、帯方郡からの道里が、所要期間と共に、伊都国までの行程に対して記録されたことも、無法なものではないことがわかるのです。
 いえ、決定的な意見ではないものの、古田氏初め、この際の魏使が女王に謁見しなかったとの解釈に異を唱えている諸兄への有力な反論とみるのです。

*緩やかな国家像~2023/05/11補充
 以上のように解明すると、伊都国から投馬国への里程は、水行二十日とあるものの、続く、倭王治への行程は記述されない理由が一応説明されるのです。
 また、倭王治描写は紋切り型で、現地踏査したものでない事情がわかります。
 あるいは、以後数世紀の何れかの時代に、女王の権威や王治は変貌したでしょうが、「倭人伝」記事から推測されるのは、緩やかな国家像です。文書統治が存在しない時代、騎馬文書使が往来する街道がなかったので、往来に何十日もかかる遠隔の諸国とは、「通」じることはできず、「絶」と見ざるを得なかったはずです。
 「倭人伝」には、「一大倭」が、対海国から末羅国に到る行程上諸国に置かれていて、各国の政治を監査していたと言うことですが、恐らく、文書通信のできる識字官僚、つまり、計算/記帳のできる管理者を常駐、ないしは、巡回させて、意志の疎通、さらには、現地官僚の養成を図っていたものと見えるのです。もちろん、対海、一大の両国は、街道連絡ができませんが、文書で意思疎通すれば、当時としては、緊密な連携が維持できたと見えるのです。

*「一大率」の起源~2023/05/11補充
 因みに、壹與の遣魏使記録に登場する「倭大夫率善中郎將掖邪狗」は、要するに、それまで単に「大夫」として魏官制に抵触していたのを「倭大夫」として、東夷独自の官制としたものであり、倭人官僚の教養を示したと感じさせます。

 単なる思いつきですが、ここに書かれた役職「倭大夫率善中郎」を略称すると、「倭大率」ならぬ「一大率」の通称が得られると見えます。因みに、「一大率」は、伊都国が、行程諸国、つまり、女王国以北の末羅、一大、対海の列国に派遣したものと見えます。投馬国は、遠隔で「絶」なので、対象外ですが、「奴国」「不彌國」が、「一大率」の派遣を受け入れていたかどうかは不明です。

*史学に基づく「サイエンスフィクション」~2023/05/11補充
 概して、諸兄は、「倭人」に、後世風の強力な「律令」国家の萌芽を想定しているのですが、文書統治の確立なくして、鉄血国家は、成立し得ないし、そのような時代錯誤の強権国家の必要もなかったのです。むしろ、各国に識字官僚を養成することが、随分先行して必要なものと見えるのです。近来、三世紀を舞台に、途方もないホラ話「ファンタジー」がコミック化され、結構、人気があるようですが、ここに掲げる「フィクション」は、史学という「サイエンス」にもとづく、「サイエンスフィクション」であり、思いつきを爆発させる「ファンタジー」ではないのです。
                                未完

 

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