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2023年5月 3日 (水)

新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 再記 1/2

監修 上田正昭 著者 千田 稔  文英堂 2011/4 第一刷
私の見立て ★★★★☆ 考察が潤沢な好著。ただし、図解は「無残な」でたらめ。 2022/04/09,04/11,2023/01/01,05/03

◯はじめに~圏外介入の弁
 本書は、全五巻の名著、日本古代史通史(出版社がそう呼んでいるわけではない)の二巻目で、時代的にも当ブログの範囲を外れるが、「遣隋使推定航路」図に重大な異議があり、「細瑾」批判記事を立てた。と言うものの、随分深刻な「細瑾」なので、手痛い批判になってしまったことをお詫びする。

*遣隋使行程図批判~名著の細瑾
 下図は、本書掲載の「概念図」であるが、批判するのに不可欠なので、千田稔氏著作物として、謹んで複製引用した。「日本書紀」に推古朝遣隋使の航路圖はないので、氏の著作物として作図、公表したと見て批判したのである。

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*無知の憶測の堆積~現代地図の弊害
 本図は、一見、正確な図示であるが、実は、実現性/正確性に欠けたものであり、大いに誤解を招く。
 まず、遣隋使船が、海船で飛鳥を発し、瀬戸内海航行するのは、「画に描いた餅」もいいところで、実行不可能である。
 飛鳥は、奈良盆地、つまり、内陸であり、海船が出発する「母港」は無いし、仮に、飛鳥を海船で出発しても、大振りな海船が、当時の大和川を下って、河内平野に出て、河内湾に出るのは、全体に水量の乏しい浅瀬続きであるから、どう考えても、不可能である。
 何しろ、遠路渤海湾までほとんど無寄港で進むのであるから、甲板と船室、船倉を備えた大型の帆船に違いないのだが、まずは、河内湾に出ることは到底できない。次に、瀬戸内海の移動であるが、衆知の如く、東の備讃瀬戸、西の芸予諸島の難所は、水先案内が乗り組み、小船の助けで舵取りしたとしても、外洋航行に適した帆船には到底通過不可能である。
 最後に、関門海峡通過が至難の業であるが、ここは、詳しく言わないで前に進む。
 七世紀に、大型の帆船が、こうした難所を「易々と通過することが可能であった」という根拠は無いはずである。ことは、「冒険航海」などではないから、絶対安全でなければ、飛鳥で海船を造船、進水させることなどできないのである。

 確実な出港地「海港」は、「北九州」玄海灘沿いである。帆船自体、ここで造船し、ここを母港にするのが自然であり、当然、船員も、目前の半島航路に習熟した船員とすべきと思われる。瀬戸内海航路に習熟した船員は、一切不要なのである。

 その際、目前にあり、古代の多方面に通じていた船路の要であったはずの一大國、壱岐を通過しないように見えるのが、意味不明である。
 以上の重大な難点は、総て、九州北部「北九州」が、半島を経て、黄海を進み、山東半島に上陸して、以下、官道を進むという、誠に自然な経路を無理矢理揉み消しているからであり、三世紀、魏使の来訪航路を知らなかったのか、強引に無視して夢の家、政権の継続性という視点から、大変不審であると言い置く。

 百済沿岸と称する南岸西岸航路も、無寄港で、沖合を通り抜ける意図が不明である。食糧、燃料、飲料水という重大な補給もあるが、そもそも、「沿岸」は、百済の陸地であるから、必ず上陸しなければならない。とても、百済沿岸を経ている図とは見えない。三世紀に各地に海港があって、航路が稼働していたのなら、後世になって寄港しない理由が不審である。

 図によれば、七世紀当時、抗争中の百済「領海」、次いで新羅「領海」を通り、さらには、高句麗「領海」へ通過し、転進して渤海の河水河口に直行したと見える。このような経路が、理不尽で、不合理と見る理由を、以下述べる。

 朝鮮半島の新羅海港(後の唐津 たんじん)と山東半島の登州海港(東莱 とうらい)を連絡する航路は、新羅の厳重管制下であり、横切るにしろ、新羅の通行許可を必要としたはずである。また、遼東半島先端の高句麗海港は、専ら登州と往来するものであり、当時、隋と紛争を繰り返していた高句麗が、遣隋使の通過を認めるはずがない。いずれにしろ、著名な海港は、常用されているものであり、それ以外の場所に、異国の海船を受け入れる能力/設備があったとも思えない。所定の海港以外で、蛮夷のものが、中国領に上陸することが許されたとも思えない。奇っ怪千万である。
 ついでながら、河水自体の航行についても、通行許可の無い異国の船舶は、通行できなかったはずである。

 そのように、常用される海港を避けて、人跡未踏の河水河口から、大河河水(黄河)に乗り入れて、遡行する航路など、金輪際あるはずがない。河水河口部は、泥沼であり、天井川となっていたから、海船が乗り入れ、上下航行できるようなものではない。

 図示された洛陽は、「東都」と称され、たまたま、隋煬帝時代には、東夷との折衝に用いられていたが、あくまで、副都であり、帝都は京師(長安)であったから、倭國使は、本来、京師に向かったはずであるが、なぜ、隋帝の所在を察知して東都に向かったのか、不審である。洛陽は、洛水と呼ばれる手狭な支流沿いであったから、大型の帆船の進入は許されなかったはずである。いや、河水への進入をどうやって成し遂げたかという、さらなる難問が克服されていないのを忘れないで欲しいものである。

 素人目にも、どうにもこうにもつじつまの合わない無残な絵解きである。

 ついでながら、地図上の半島の「平城」であるが、Wikipediaによると、「平城市(ピョンソンし)は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平安南道の道都。1965年に平壌市の一部を分割し、平壌市から道都を移して成立した都市である。」古代に存在しなかった地名と思われる。不審である。

 事の振出しに戻ると、遣隋使船を発するとき、見通しの立たない海を、不案内なまま、できたての船、新米の船員で行くことは「絶対に」あり得ないと見えるのである。

 本図は、現代科学の手を借りてきれいな絵解きに見えるが、当時にそのような結構な技術はなく、それこそ、一寸先は闇の手探りの旅であり、以上のように、どうにも解けない「疑問」、ここでは「重大な難点」がある。図示されたような「つぎはぎ」の船旅は無茶である。
 百済と提携して、一貫して案内して貰うのか、どこかで、百済船に乗り込むのか、いずれにしても、手慣れた百済に任せるのであれば、旅路が不案内でも、国使を送り出せるのである。

 確かに、後年、この航路が通行不能になった後は、自力で、東シナ海を突っ切るしか無かったのであるが、それ以前は、小型の海船で、百済海港にいたり、以後、経験豊富で不安のない百済海船を利用したはずである。

 なお、どう経由するかは別として、中国上陸は、半島交易船が往来していて、高麗館、新羅館と言った専用設備のある山東半島登州であろう。高麗館、新羅館は、それぞれの商館であり、隔壁で守られ、駐在武官を擁していた、言わば、治外法権なのである。何しろ、高句麗、百済、新羅は、山東半島登州への海岸往来、つまり、交易/市糴によって、莫大な収益を得ていたのであり、百済と高句麗の抗争は、互いの国王が戦死する凄惨な戦いであったが、新興の新羅が、死力を尽くして、両国間に介入して、百済を南に追ったから、三国必争地域に、強力な楔を打ち込んだのであるから、はるか圏外で海船を持たないの「倭」が介入することなど、許さなかったのである。さよう、隋代から唐代初期に「日本」は未形成であったから、三国戦局に介入しようがないのである。度しがたい、時代錯誤である。地図は、七世紀と銘打っているが、隋は、六百十八年に亡んでいるから、七世紀の残る八十年に、隋は存在しないのである。
 隋の後継と言うものの、唐代初期は全土大乱で混乱していて、とても、明快に図示できないのである。つまり、この図は虚構である。

 この海域の海上往来に、裏道、抜け道はあり得ない。

                   未完

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