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2023年5月21日 (日)

私の本棚 呉書 裴松之にしかられた陳寿 幻の「赤壁の戦い」談義 更新

                     2016/09/20 追記2021/03/04 2023/05/21 
 「正史三国志」Ⅲ 呉書 筑摩書房刊 による
 周瑜魯粛呂蒙伝第九

 本稿で論義するのは、陳寿「三国志」冒頭の山場である。

 ここで取り上げた呉書「魯粛」伝には、後漢献帝建安十三年、丞相に任じられたばかりの曹操が南征の途に発ち、長く自立を保ち続けていた荊州刺史劉表の没後の混乱に乗じて、荊州をほぼ無血で征服して、その軍勢、軍船を指揮下に取り込み、長江(揚子江)を下り、総勢八十万と称して孫権に服従を迫ったとき、孫権が、荊州を追われた劉備勢力を味方に付けて曹操と対決すると決したときの劇的な経緯が、呉書の列伝記事として描かれているのだが、裴松之は、次のように、陳寿の編纂が不備であると非難している。

〔一〕臣裴松之が考えるに、劉備が孫権と力を合せて、中原からの〔曹操の〕進出をくいとめるというのは、まったく魯粛の元来からの計画であった。加えて、諸葛亮に「私は子瑜どのの友人です」といっているのであるから、諸葛亮は早くから魯粛の意見を聞いていたのである。しかるに「蜀書」の諸葛亮伝では、「諸葛亮が連衡のはかりごとを孫権に説くと、孫権は大いに喜んだ」という。「蜀書」の書き方のようであると、この呉と蜀との連衡の計は、諸葛亮の発意に出たことになる。こうした書き方は、二つの国の史官たちが、それぞれが伝聞したところを書き記し、競って自分の国の立派さを称揚して、それぞれが手柄を一人占めしようとしているかのごとくである。しかるにこの「呉書」と「蜀書」とは、同一人の手に成るものでありながら、こんなふうに食い違っている。歴史記述の根本に違反するものである。

 つまり、陳寿が編纂した「三国志」「呉書」及び「蜀書」の編纂素材としてそれぞれ利用した「東呉」及び「蜀漢」の資料が、それぞれの勢力中心の視点で書かれているのを、陳寿が、編纂者として付き合わせずに、いわば無造作に、三国志に収録しているのを「叱り付けている」のである。
 しかし、遙か後世の読者である当ブログ記事筆者の個人的な意見では、それは、ちょっと厳し過ぎる。

 陳寿が編纂したとは言え、「三国志」「呉書」と「蜀書」は、「魏書」孫権伝と劉備伝ではなく、独立政権の「国志」として書かれている。従って、それぞれの政権を中心とした筆致にならざるを得ないのである。そういう編纂方針であるから、観点の不一致は見過ごすべきである。

 もちろん、裴松之も、そこは理解していたろうが、劉宋皇帝の手前、正史の大義名分に関わる点は、点を辛くして指摘せねばならなかったのであろう。

 ちなみに、三国志「魏書」冒頭の「武帝紀」、つまり、「曹操本紀」には、このとき、魏太祖、つまり曹操は、赤壁で劉備と戦って敗れて撤退したと書かれている。前後関係が明確では無いが、孫権は、長江北岸の合肥(ごうひ)城を攻撃したが、曹操が援軍を送ったと聞いて、(さっさと)包囲を解いて撤退したと書かれている。

 三国志でも、曹操と袁紹の「官渡の戦い」に続く山場となるはずの「赤壁の戦い」であるが、曹操の敗戦と言うこともあってか、「武帝紀」は淡々としている。孫権が赤壁に不在であったとまでは書いていないが、曹操撃退の大功を劉備に与えているのである。編纂の際に言葉を選んで、あえてそのように書いたとみて良い。
 裴松之は、この点で陳寿をしかってはいない。

 むしろ、「二つの国の史官たちが、それぞれが伝聞したところを書き記し、競って自分の国の立派さを称揚して」いると、三国志の由来を明らかにしているのである。世評を代弁してみせるように、それでは、三国志編纂の際、編纂者の筆が加わっていないことになる、と歎いて見せているが、裴松之自身は、むしろ、そのような三国志独特の構成に、特に異議を唱えていないように見える。


〇「赤壁の戦い」の幻想~序章 2021/03/04

 この時、後漢は健在であり、鄴の朝廷で丞相に任じられていた最高権力者の曹操は、あくまで、後漢献帝のもとの丞相であり、魏公のような魏の付く称号は被っていなかった。従って、率いていたのは、後漢の官軍である。

 孫権は、後漢の会稽郡太守であり、古来「呉」と呼ばれていた地域を支配していたから、「呉主」とでも呼ばれていたかも知れないが、「呉」王と称して自立していたわけではない。但し、皇帝の臣下とは言え、人質を出すとか、当然の義務を果たしていなかったから、叱責から誅伐に至る何れかの罰を受ける可能性はあった。

 劉備は、一時、後漢に仕えて曹操の傘下にあったが、劉姓のため、遠縁の皇族扱いされていて、曹操打倒の陰謀に巻き込まれかけたため、さっさと逃亡したものである。そのため、後漢皇帝に対する謀反人として、それこそ、指名手配されていた罪人であった。一時期、同姓のよしみで荊州刺史の劉表のもとに寄留していたが、曹操の攻撃を受けて、長江下流に逃亡し、曹操に対抗していた孫権の客分として滞在していたである。もちろん、長江上流の「蜀」の劉章を攻撃して国盗りしたのは後年のことであり、この時点では、領地を持たない劉備流離軍団の統領に過ぎなかった。

 と言うことで、曹操の狙いは、孫権の軍備が整っていない段階で、荊州水軍と自前の騎馬軍団の威力で、「恫喝して孫権を隨身させようというもの」であり、決して、討伐して攻め滅ぼそうというものではなかった。直前の荊州攻撃でも、実際は、大軍の威力で戦わずして降伏させていて、後継者は地位を保全しつつ遠隔地に移動させる処置を執っていて、この際、孫権を同様に取り除けないものか、というものだったと思われる。つまり、孫堅傘下の諸将といえども、周瑜のような猛将は別として、地方に領地を持つ面々は、服従するなら温存しても良いと見ていたのである。

 曹操の陣立ては、概して見かけ倒しであったはずである。荊州での本格的戦闘に備えて、南征に要する戦糧は、保持していたから、江南での小戦闘は折り込み済みであったが、大軍を渡河させて地元の孫権軍と戦うには、大量の食糧を長江越しに運ぶ兵站の必要があり、孫権の水軍に、兵站船を攻撃されると、騎馬兵を含む大軍が挫折して大敗する可能性が高いから、曹操は、そのような「無理攻め」は、一切考えていなかったと思われる。
 当座は、孫権軍を痛い目に遭わせて、長江下流の合肥(ごうひ)城への侵攻を断念させる程度であったと見えるのである。

 と言うことで、曹操には、その時点に積極的に江南に侵攻する気はなかったと見える。何しろ、曹操は、「孫氏兵法」を全巻読解しているから、万全の用意の無い戦いはしないし、そもそも侵攻してこない敵(孫権)との不必要な戦いはしないのである。

 ここまでをまとめると、曹操は、孫権を強攻で打倒して、江南を支配下に収める気は無かったから、軽く痛い目に遭わせる程度で、早々に撤退して帰京する方針だったと想像される。

 明記されてないが、当然、曹操の荊州征伐は、献帝の指示に基づくものであり、魏志に書かれていても、曹操は宰相に過ぎないので、皇帝の命令に従っていたのである。続く、孫権に対する軍事行動は、あくまで、孫権の服従を促すものであり、討伐の勅命は受けていなかったのである。なぜそのように推定するかと言えば、もし、曹操が献帝の命で孫権を討伐しようとしたのであれば、これに反して、違命で帰国したとすると、宰相といえども、厳罰を免れないのであり、軍法によれば、軽くて降格/免職、重ければ、死罪である。大罪の場合は、親族が連座するので、曹丕も曹植も、ともに斬首である。少なくとも、帰国の際に、皇帝に対して、深い謝罪の意を示さして、裁定を仰ぐものである。

 そのような記録が残されていないということは、官軍を率いた曹操は、勅命を受けて孫権討伐の戦を催したのではなく、従って、敗北しなかったということである。
 中国史に通じていない方達は、後世の軍談にのって、あることないこと、大胆に謳い上げているが、史学で言うなら、史料を踏まえた慎重な解釋が求められるのである。「三国演義」以前に、南朝の封土には、天下平定しながら、中原を喪失した、西晋、そして、その前身である曹魏に対する反発は根強かったのであり、そのような偏見に基づく野史の類いは、世にあふれていたと見えるのである。

以上

追記:2023/05/09
 近来、ネットで、風評記事として、ここに挙げたような「赤壁の戦」論義を笑い飛ばしているのを見かけたので、正確な批判をいただけるように、再公開するものである。
 因みに、当方も、曹操と孫権の対峙で、孫権が屈服しなかったために、曹操の存命中の東呉制覇はならず、そのため、当時孫権軍に付随していた劉備軍団が、曹操軍の撤退後、長江を遡上して、蜀漢を建国したことを大事件と見ているが、「赤壁の戦」を曹操大敗、敗走と見る見解には、同意できないことを述べているのである。孫権が、献帝の宰相である曹操に屈従していれば、既に、後漢に対する朝敵とされていた劉備軍は、後漢の走狗となった東呉孫権の討伐を受けることを避けられず、到底、蜀漢建国はなし得なかったと見える。

以上

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