新・私の本棚 小畑 三秋 産経新聞 THE古墳『吉野ケ里で「対中外交」あった~
~終わらない「邪馬台国」発見への夢』 2023/06/28
〇はじめに~部分書評の弁
当記事は、産経新聞記事のウェブ掲載である。七田館長(県立佐賀城本丸歴史館)の発表資料そのものでなく、担当記者の「作文」とも見えるが、全国紙記者の担当分野での発言である以上、読み流さずに率直な批判を書き残す。
-部分引用開始-
中国の城郭を模倣
遺物ではなく、遺跡の構造という「状況証拠」からアプローチするのが、七田忠昭・県立佐賀城本丸歴史館館長。物見やぐら跡や大型祭殿跡の発掘など長年にわたって同遺跡に携わっている。
「邪馬台国の時代、吉野ケ里は中国と正式な外交関係にあった」とみる。それを物語るのが、大型祭殿が築かれた「北内郭」、物見やぐらなどで知られる「南内郭」の構造だ。北内郭は王が祭祀(さいし)や政治をつかさどった最も重要な施設で、南内郭は王たち一族の居住エリアとされる。
大型祭殿には鍵型に屈曲する「くいちがい門」があり、物見やぐらは環濠(かんごう)の張り出した部分に設けられた特殊な構造だった。
同様の施設は当時の中国の城郭にもあり、七田さんは「こうした構造をもつ環濠集落は国内で吉野ケ里遺跡だけ。中国の城郭を模倣しようとした証し」とし、「大陸との民間交流というレベルではなく、正式な日中外交があったからこそ造ることができた」と話す。
-部分引用終了-
記者見解にしても、遺跡構造は有力物証であり、「状況証拠」と称するのは見当違いである。纏向大型建物遺跡復元も「状況証拠」と言うのだろうか。
*「正式外交」の画餅
館長発言とみられる「中国と正式な外交関係」は、複合した誤解である。当時、中原を支配していた魏(曹魏)は、南の蜀(蜀漢)と呉(東呉)の討伐を完了していない鼎立状態だから、「中国」を称する資格に欠けていたと見える。
魏の鴻臚掌客も、「倭人」は、あくまで、服従を申し出てきた野蛮種族に過ぎず、「正式な外交」の現代的な意味から大きく外れている。
いくら、「倭人」の敬称を得ていても、現に、文字を知らず、「礼」を知らず、まして、先哲の書(四書五経)に示された至言を知らないのでは、文明人として受け入れることはできないのである。
もちろん、同遺跡は「倭人」を代表したと見えないので、「倭人」として魏と対等の立場で交流できるはずもない。「倭人伝」には、魏の地方機関帯方郡は、倭人を代表する「伊都国」と使者、文書の交換を行っていたと明記されているから、「正式外交」は、酔態で無いにしても、飛躍の重なった無理なこじつけと言わざるを得ない。館長発言であるとしたら、不用意な発言に対して指導が必要なのは館長と見えてしまうのである。
「倭人伝」は、「倭人」と交流したのは帯方郡であり、皇帝は「掌客」としてみやげものを下賜し、印綬を与えて馴化し、麗句でもてなしたに過ぎないと示唆していると見える。帝国の常識として、辺境に争乱を起こされたら、平定に要する出費は、土産物などの掌客の費えどころでは無いのである。天子の面目を、大いに失することも言うまでもない。それに比べたら、金印(青銅印)の印綬など、手軽に作れてお安い御用だから、正使、副使などに止まらず、随行の小心者や小国国主にまで渡したのと言われている程である。「掌客」とは、そう言うものである。
当の環濠集落が、中国「城郭」を摸倣した/共通した構造としているが、中国古代「城郭」は一般読者が連想する戦国城郭の天守は無く、石垣と土壁で囲んだ「國」の姿が正装であり、環濠の「クニ」は、礼服を纏わない無法、論外なのである。
「倭人伝」は、『倭人の「国邑」は、殷周代の古風を偲ばせるというものの、不適格であり、外敵のいない海島に散在しているので、正式ならぬ「略式」』と言い訳がましく述べているが、いずれにしろ、野蛮の表れなので、蕃使が中国に学んだとしたら、なによりも、王の居処を四方の城壁で囲うべきでは無かったかと思われる。
伝え聞く「纏向」集落は、中国と交流があったと見えず、奈良盆地内で、城壁のない集落が混在していて、何とも思わなかったのだろうが、それは、「倭人伝」に書かれた「倭人」の国のかたち、さらには、中国制度の教養に反すると見えるのである。
以上は、「倭人伝」の二千字程度の文面から、易々と読み取れる三世紀の姿である。
◯まとめ
館長は、かねて承知の中国古代史常識への言及を避けただけと思うが、「リアル」(本物そのもの)は、演出、粉飾の婉曲な比喩としても、事の核心を述べないのは偽装に近いものではないかと懸念される。
以上は、当記事に引用されたと見える館長発言紹介の一部を批判したものであり、当日配布されたと思われる「プレスレリース」には、これほど不用意な発言はないだろうと推察するが、一般読者は、当記事しか目にしないと思われるので、率直に苦言を呈したものである。他意はない。できれば、新聞記者の限られた史学知識だけに頼ることなく、細部まで学術的な成果を述べた「プレスレリース」 を公開頂きたいものである。
以上