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2023年6月

2023年6月28日 (水)

新・私の本棚 小畑 三秋 産経新聞 THE古墳『吉野ケ里で「対中外交」あった~

終わらない「邪馬台国」発見への夢』 2023/06/28

〇はじめに~部分書評の弁
 当記事は、産経新聞記事のウェブ掲載である。七田館長(県立佐賀城本丸歴史館)の発表資料そのものでなく、担当記者の「作文」とも見えるが、全国紙記者の担当分野での発言である以上、読み流さずに率直な批判を書き残す。

-部分引用開始-
中国の城郭を模倣
遺物ではなく、遺跡の構造という「状況証拠」からアプローチするのが、七田忠昭・県立佐賀城本丸歴史館館長。物見やぐら跡や大型祭殿跡の発掘など長年にわたって同遺跡に携わっている。
「邪馬台国の時代、吉野ケ里は中国と正式な外交関係にあった」とみる。それを物語るのが、大型祭殿が築かれた「北内郭」、物見やぐらなどで知られる「南内郭」の構造だ。北内郭は王が祭祀(さいし)や政治をつかさどった最も重要な施設で、南内郭は王たち一族の居住エリアとされる。
大型祭殿には鍵型に屈曲する「くいちがい門」があり、物見やぐらは環濠(かんごう)の張り出した部分に設けられた特殊な構造だった。
同様の施設は当時の中国の城郭にもあり、七田さんは「こうした構造をもつ環濠集落は国内で吉野ケ里遺跡だけ。中国の城郭を模倣しようとした証し」とし、「大陸との民間交流というレベルではなく、正式な日中外交があったからこそ造ることができた」と話す。
-部分引用終了-
 記者見解にしても、遺跡構造は有力物証であり、「状況証拠」と称するのは見当違いである。纏向大型建物遺跡復元も「状況証拠」と言うのだろうか。

*「正式外交」の画餅
 館長発言とみられる「中国と正式な外交関係」は、複合した誤解である。当時、中原を支配していた魏(曹魏)は、南の蜀(蜀漢)と呉(東呉)の討伐を完了していない鼎立状態だから、「中国」を称する資格に欠けていたと見える。
 魏の鴻臚掌客も、「倭人」は、あくまで、服従を申し出てきた野蛮種族に過ぎず、「正式な外交」の現代的な意味から大きく外れている。
 いくら、「倭人」の敬称を得ていても、現に、文字を知らず、「礼」を知らず、まして、先哲の書(四書五経)に示された至言を知らないのでは、文明人として受け入れることはできないのである。
 もちろん、同遺跡「倭人」を代表したと見えないので、「倭人」として魏と対等の立場で交流できるはずもない。「倭人伝」には、魏の地方機関帯方郡は、倭人を代表する「伊都国」と使者、文書の交換を行っていたと明記されているから、「正式外交」は、酔態で無いにしても、飛躍の重なった無理なこじつけと言わざるを得ない。館長発言であるとしたら、不用意な発言に対して指導が必要なのは館長と見えてしまうのである。

 「倭人伝」は、「倭人」と交流したのは帯方郡であり、皇帝は「掌客」としてみやげものを下賜し、印綬を与えて馴化し、麗句でもてなしたに過ぎないと示唆していると見える。帝国の常識として、辺境に争乱を起こされたら、平定に要する出費は、土産物などの掌客の費えどころでは無いのである。天子の面目を、大いに失することも言うまでもない。それに比べたら、金印(青銅印)の印綬など、手軽に作れてお安い御用だから、正使、副使などに止まらず、随行の小心者や小国国主にまで渡したのと言われている程である。「掌客」とは、そう言うものである。
 当の環濠集落が、中国「城郭」を摸倣した/共通した構造としているが、中国古代「城郭」は一般読者が連想する戦国城郭の天守は無く、石垣と土壁で囲んだ「國」の姿が正装であり、環濠の「クニ」は、礼服を纏わない無法、論外なのである。
 「倭人伝」は、『倭人の「国邑」は、殷周代の古風を偲ばせるというものの、不適格であり、外敵のいない海島に散在しているので、正式ならぬ「略式」』と言い訳がましく述べているが、いずれにしろ、野蛮の表れなので、蕃使が中国に学んだとしたら、なによりも、王の居処を四方の城壁で囲うべきでは無かったかと思われる。
 伝え聞く「纏向」集落は、中国と交流があったと見えず、奈良盆地内で、城壁のない集落が混在していて、何とも思わなかったのだろうが、それは、「倭人伝」に書かれた「倭人」の国のかたち、さらには、中国制度の教養に反すると見えるのである。

 以上は、「倭人伝」の二千字程度の文面から、易々と読み取れる三世紀の姿である。

◯まとめ
 館長は、かねて承知の中国古代史常識への言及を避けただけと思うが、「リアル」(本物そのもの)は、演出、粉飾の婉曲な比喩としても、事の核心を述べないのは偽装に近いものではないかと懸念される。

 以上は、当記事に引用されたと見える館長発言紹介の一部を批判したものであり、当日配布されたと思われる「プレスレリース」には、これほど不用意な発言はないだろうと推察するが、一般読者は、当記事しか目にしないと思われるので、率直に苦言を呈したものである。他意はない。できれば、新聞記者の限られた史学知識だけに頼ることなく、細部まで学術的な成果を述べた「プレスレリース」 を公開頂きたいものである。

                               以上

2023年6月26日 (月)

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 1/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

▢余言のお断り 2023/06/23
 一言お断りすると、当初2ページの書評が9ページになったのは、当方の私見の展開が大半の余言であり、氏が責めを負うものではない。

◯始めに~珠玉の論義
 随分遅ればせの書評であるが、当分野では、かくも珠玉の論義が、泥沼に深く埋もれているので、ここに顕彰する。もっとも、好評連載されていた「札付き」記事に埋もれていては、端からそっぽを向かれても、無理もない。
 張明澄氏は、日本の漢字字典、辞典を読まないが、ここでは、漢字圏で最高権威とされている白川勝師の辞書「字統」で謹んで補足させていただく。
 「至」の原義は、弓で矢を射て届いたところを言う。つまり、「至」は矢が飛んで行った先であり、そこに射手が行ったわけではない。
 ▢「到」の原義は、「至」「刂」であり、「至」で得られた行き先に、(射手が)実際に至ることを言う。

*混乱した表記で理解困難な解説
 張氏は、カタカナで「到」は、「リーチ」reach、あるいは「アライブ」arriveという。ただし、英単語は、この場で補足したのであり、原記事は、カタカナ語だけであるから、原文を、一般読者が理解できるとは思えない。
 前者は、麻雀用語で知られていて、ここでは、それ以外の「どこかに行き着く」という意味だが、後者は、「アライブ」というだけでは、alive、つまり、生き生きとしたという意味の方が、むしろ知られていて、本来のarriveの意味と解すれば、「到着」、即ち、「どこかからやってくる」という意味になる。
 但し、「どこかに行きつく」と言うには、肝心の言葉が足りないので、前置詞を補って覚えるのが英語学習の常識である。「アライブ アット」arrive atで、始めて「どこかに着く」という意味になる。
 それにしても、氏の思っているように、「リーチ」、「アライブ」は、全く同じ意味ではない。ここでは、「到」には、後者が適しているように見える。
 『「至」は、「テイル」ないしは「アンテイル」』というが、これを、Tail、Untailと解しても、理解できない。むしろ、「リーチ」reachに適していると見える。

*古典的素養
 後で思いついたのだが、日本時代の台湾で張氏が受けた戦前の「国語教育」では、仮名交り文でカタカナ表記が普通で、今日の「ティル」が「テイル」と表記されていたのである。氏の書き癖かもしれない。『「至」は、「ティル」ないしは「アンティル」』とも解釈できるが、氏の玉稿はどっちだったのか。それなら、英語に戻すと、Till, Untilとなるが、それで、氏の日本語文の解釈としていいのかどうか。
 こうした瑕瑾は、本来、編集部の校正で是正されるべきが、随分取りこぼしているようである。

 このように、日本語に大変通暁した「中国人」である張明澄氏であるが、カタカナ語に無頓着な氏の構文は、表記が混乱していて誠に当てにならない。これでは、読者の混乱を深めるだけで、言わずもがなである。

 これは、同様の勘違いを諸書に散見する古田武彦氏の(失敗例の)模倣であろうか。それとも、さりげないパロディーで揶揄したのであろうか。いや、うろ覚えのカタカナ語で、ご当人は明快にしたつもりで、一向に明快にならない点では、似たもの同士である。

 所詮、場違い、時代違いの漫談であり、張氏の真意は、知るすべがない。

                               未完

 

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 2/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

*誤解の起源
 要するに、張氏は、戦前、戦中の日本時代の台北で「皇民教育」を受けたはずであり、英語は敵性、使用禁止とした「日本語教育」で育ったのであるから、カタカナ語は習ったものではなく、恐らく、成人となった後の付け焼き刃であろう。戦後の中華民国統治下では、日本語は、旧敵国語であって、むしろ排斥されていたと思えるので、氏が日本語の教養をどのように高めたかは、後世の日本人の理解を絶しているはずである。
 もちろん、氏は、伝統的な旧字旧仮名遣いで育ったのであり、引き合いに出したカタカナ語を日本語として正確に理解し、表現できているとは思えない。
 と言うものの、現代日本人も、中高生時代に、英語を基礎から習ったものの、正確に履修した保証はなく、カタカナ語を見て、原典の英単語を想定して的確に理解できるとも思えない。何しろ、現役高校生あたりでは、就職したときに実生活で必要としない「英語」は、試験に落ちない程度に流すだけだという手合いが結構多いから、そのように世に出ている書き手と張明澄氏が、ともに良い塩梅の理解しかしていない言葉を論理の中核に据えたのでは、何がどう伝わるのか到底確信できないと見るのである。

 張氏は、当記事を思いつきの随想として書いたわけではなく、編集部も、そのような冗句(ジョーク)と解していないはずだから、この下りは、何とも理解に困るのである。

 長々と余談めいたお話が続いて、さぞかし、読者諸兄姉には、退屈であったと思うが、部分的な結論としては、本論の課題は、古代中国語文の解釈であり、そこにうろ覚えのカタカナ語を持ち込むのは、根本的に筋が悪いのである。言ってしまえば、それだけである。

◯倭人伝分析:各国「条」論義 基本的に「紹熙本」に準拠。句読随時。 伊都国以降一部改善 2023/06/19~26
 と言うことで、当ブログ記事では、以下、氏の教示を、大いに参考にしつつ、原文に即した地道な解釈に努めるものである。
 と言うか、本稿は、実は、当家の道里記事論の最新集大成なのである。張氏の掲示に気づいて、書きためていた構想を形にしようとしたものである。張世澄氏が読めば、勝手に、人の発言をこね回すと言うだろうが、当方にしてみれば、氏の見解は、当方の所説の重要な要件であって、総てではないのである。無名の素人が、意見を公開する際の礎石にさせていただいたのであり、決して、尊敬の念を書いていたのではないのである。
 言い訳はさておき、ここに開通した道里論は、張氏を含め、先賢諸兄姉が一顧だにしなかった「径」(みち)を露呈した、いわば、原典回帰の意見なので、この場を借りて、批判を仰いだものである。

 この部分は、ここに置くのが適切かどうかはよくわからないが、ブログ連載記事のページ割の関係で、ここに「空き」が生じたので、急遽書き上げたものである。将来、再編成するときに、生き残るかどうか不明である。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 3/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

㈠道里記事
▢緒条(書き起こし)
 從郡至倭、…
 其北岸狗邪韓國、七千餘里。

➀對海条
 度一海、 千餘里、至對海國。
  其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。
  所居絕㠀、方可四百餘里、… 有千餘戶、… 乖船南北巿糴。
②一大条
 南渡一海、千餘里、名曰瀚海、至一大國。
  官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。
 多竹木叢林。 有三千許家。… 亦南北巿糴。
③末羅条
 渡一海、 千餘里、至末盧國。
  有四千餘戶。…

④伊都条
 東南陸行五百里、伊都國。
 官曰爾支、 副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。
  丗有王、皆統、屬女王國、郡使往來常所駐。

 /餘旁國開始/
  ・奴条
    東南至國   百里。   官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戶。
  ・不彌条
    東行不彌國  百里。   官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
  ・投馬条
    南 投馬國  水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戶。
  ・邪馬壹条
    南 邪馬壹國 女王之所。
     *[官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮]  ───┐
                                           
 /餘旁國終了/                            

▢結条(まとめ)
 都水行十日陸行一月。                                ↑ 
  官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮)     ───┘

 可七萬餘戶
 自女王國以北、其戶數道里可得略載、其餘旁國遠絕、不可得詳。 
  次有……、此女王境界所盡。
 *[自郡至女王國萬二千餘里]    ───┐
                               ↑   
㈡風俗記事
狗奴条
 其南有狗奴國。……                ↑
   (自郡至女王國萬二千餘里)  ───┘
 男子無大小皆黥面文身。...... 所有無、與儋耳朱崖同。

倭地条 (倭国総論)
 倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。......
 居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。

*お断り

 以上の区分、条題、句読、小見出し、用字の大小は、本論限りの便宜的体裁(私見)である。
 また、道里記事結条の輻輳の復元は、当ブログ筆者の私見である。
 風俗記事の「狗奴条」、「倭地条」の区分は、水野祐氏の卓見に従ったものである。
 「東アジアの古代文化」1987秋・53号 『「魏志」倭人伝をめぐって』
 言うまでもなく、版本の選択による国名の異同は、本件論義に影響しない。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 4/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23, 26

◯「張明澄」提言~末羅分岐説
 各条の書き出し「始めて」、「又」、「又」で、三度の「渡海」とわかる。
 このように、「順次行程」は、「又」で列挙する。
 一方、末羅から先の行程は、「又」が欠け、末羅での分岐行程と見る。

*コメント
 卓見であるが、氏の「解法」は、中途半端、不徹底と見える。
 張氏は、「到」、「至」蘊蓄を傾けて個々の意義を説明したが、判じ物として不得要領であり、論ずべきは凡庸な学識の持ち主に通じる真意であり、本来、「至」と「到」の使い分けは、同時代の想定読者にも通じる「明快」表現と見える。
 ということで、折角のご指導であるが、御趣旨は大いに援用させていただくものの、無批判に追従はできない。
 末羅国は、三度目の渡海の「対岸」の海津、つまり、単なる海港であり、行程の「要」(かなめ)と思えないからである。

*異論表明~伊都分岐説
 伊都以降の記事で、④伊都条は「到」であるが、以下は「至」である。
 「到」する伊都は、「丗有王、皆統、屬女王國、郡使往來常所駐」と「列国」として重んじられていて終着地と明記されたと見える。
 張氏も、「駐」は、偶々通りがかりに足を止めたとの意味ではないと明快である。要するに、遼東郡からの行人は、伊都国で、国王と面談していたという実績を示しているのである。

*「餘旁國」に「至る」
 それに対して、以下「至」の諸国は、伊都起点の「餘旁國」、脇道である。そして、掉尾の邪馬壹も、伊都からの行程・道里に欠けるが、順当な見方では、至近距離であって書くに及ばないという趣旨と見るものである。
 これら諸国は、「又」が存在せず、従って、行程が直線状に順次移動すると読むのは、「倭人伝」道里記法に外れている。つまり、伊都からの道里行程は、放射状に分岐していると理解される。
 これが、中国語に極めて造詣の深い張明澄氏の提言の眞意と見え、素人の東夷にしても、容易に納得できる明快な教えである。

*「至る」と「到る」
 漢字学の権威である白川静師の字書により、「至」は行程目的地、「到」は行程到着地であり、途上で爾後行程への出発点とされる。記事で、狗邪韓国と伊都国が「到」である。

*「邪馬壹」の姿~予告
 この「国」は、「国邑」であって古来の「邑」(ムラ)であり、「倭人伝」では、各国は山島に在って、周辺に城壁を設けて防備していないとされ、「邪馬壹」「国」も、城柵で守護しているに過ぎないと見える。推定するに、伊都の防壁の中に在って、伊都の支援を得ていたと見える。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 5/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

*「邪馬壹」行程の意義 残された課題
 伊都から南にあるとされている「邪馬壹」は「女王之所」であり、「結び目」を武断で断ち切らずに、丁寧に解きほぐすと、先行諸国と同列ではなく、道里行程記事の結語と見える。(改行した方が良い)
 と言うことで、郡太守の文書は、伊都で受領された時点で、倭王に届いたと見なされる。「郡使往來常所駐」とは、郡文書使は、伊都に文書送達した後、回答待ちで宿所待機したと見える。正始魏使なる漢使は、女王に拝謁した「蓋然性」が高いが、「邪馬壹」に参詣したかどうかは、不明である。尤も、漢使が蕃王治に参詣して蕃王と会見すること無しに交流した例は、班固「漢書」西域伝安息条に見え、不法ではない。

◯「張明澄」提言の意義~泥の中の真珠
*里程記事新たな一解~エレガントな解釈の提案
 以上、筋を通すと、道里行程記事は、最終的に「南至邪馬壹國女王之所」で完結し、全行程の集約として、要件が示され簡明至極、首尾一貫と見える。
 [道里] 都[都合]水行十日、陸行一月
 [官名] 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮
 [戸数] 可七萬餘戶
 その後、狗奴国記事に衍入して付け足している。
 [道里] 自郡至女王國萬二千餘里

*部分修正 2023/01/15
 当ブログ著者は、道里行程記事は、郡を発し倭に至る公式街道の明示であり、魏明帝が魏使を派遣する際に参照されたものと見ているので、世上の意見と大きく異なっていることを、再度確認する。
 その際、郡を発した文書使の目的地は、「倭人」の代表者である伊都国であり、道里行程は伊都で完結するとみている。

*行程の最終到着地再考~2023/06/21
 以前の解釈では、「邪馬壹国」が最終到達地と見たため、伊都国との間の道里・所要日数が欠落したと見えたが、修正後は、伊都国が最終目的地なので省略可能と見える。副次的な影響として、邪馬壹国の所在は広範囲に置けるので、 比定地諸説に対する排他的な判断は発生しないと言える。
 修正解釈では、郡から倭・伊都まで一路南下する行程が、明快である。続く、奴、不弥、投馬、邪馬壹を、揃って「餘旁國」に追いやってしまうのが、諸兄姉には、受入れがたいと思うが、本記事は、解釈の根拠を述べているので、ゴミ箱行きは、もう少し、ご辛抱頂きたいものである。
 文献考証の見地から、「都水行十日、陸行一月」は、郡を発し伊都に到る所要日数であるから、「都」の直前に改行を追加すべきである。

*「直線的解釈」に「とどめ」
 熟読すると、今回取り上げた張氏提言は、誠に明快、整然としていて、先行諸説の中で、実は、榎一雄師の「放射行程」説と軌を一にしていて、私見では、明解、堅固な論説と呼ぶに、あと一歩迄届いている。
 本稿では、当記事で直線的な解釈に「とどめ」が刺されているとみるが、これに賛同するかどうかは読者諸兄姉次第であり、拙稿は論点提示に留める。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 6/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

*隠れた本懐/本解
 兎角、季刊「邪馬台国」誌「好評連載」「一中国人の見た邪馬台国論争」記事における張氏提言を、当ブログにおいて、しばしば非難したが、時に氏の韜晦の陰に、透徹した明解な解が披瀝されているのに気づいたものである。
 そして、しばしば、支持者に忖度してか、当提言は、突如大きく撓むため、近来に至るも、遂に理解されていないと見えるので、謹んで素人が蒸し返す。

*「余傍」の深意
 本「張明澄」提言を意義あるものとみると、「畿内説」の成立の余地がなくなるので、当記事は、埋め戻し、黙殺の憂き目を見ていると懸念される。

*さらなる補足 2023/06/07
 再読して、説明不足に気づいて再度補足する。随分の分量であるが、当ブログで再掲が大半というものの諸兄姉に探させるのも何なので復習した。

◯倭人伝道里記事の新解 2023/06/07
*里数概数の確認~イロハのイ
 念を押すと、本記事では、以下、里数の自明の「餘」を省略しているが、それは、概して、二千里刻みの切りの良い、千里、三千里、五千里、七千里、万里、万二千里と飛び飛びの数値を示しているのであって、その際に、切り捨て操作はしていない。つまり、見たとおりの漢数字で加減算して良いのである。もちろん、多桁算用数字で書くと、どこまで意味があるのか不明になるから、漢数字論義がイロハのイである。

*「郡」と「倭」の由来
 記事は、「従郡至倭」で書き出されているが、記事原文が書かれたのは、「倭人」が、半島以南の東夷を「都督」していた遼東太守公孫氏の治世『後漢中平六年(189)霊帝没年以降』の「初見」時点と見える。(雒陽の大混乱に乗じて、自称したようである)
 帯方郡の創設は、建安九年(204年)なので、漢代以来の歴史を持つ楽浪郡から報告を受けて、いわば、画期的な判断をしたとも見える。
 よって、「倭に至る」道里の起点は、本来、遼東郡であったと解するのが合理的と思える。
 後世人は、帯方郡成立後、それも、魏使訪倭紀行記事の視点に囚われて、「従郡至倭」行程を、「帯方郡」から「邪馬壹国」と決め込んでいるが、丁寧に時代考証するとそうとは言いきれないのである。
 例えば、「倭在帯方東南」と言い切るには、帯方郡の後方(西北)に、天子としての視点を確立している必要がある。

*時代考証の第一歩
 「倭人伝」を丁寧に読むと、「初見」は後漢霊帝末期、女王共立以前である。当たり前ことで提起されなかったが、「王」は男王であり、後年「女王居所」とした「邪馬壹国」は、当然、存在しなかったと見える。それが、「従郡至倭」の起源である。これも、当然至極なので、書かれることはないが、史官は、「史実」、つまり、公文書史料遵守で、史料改竄/捏造/書き換え/上書きなどあり得ない。
 従って、「従郡至倭」の正確な解釈には、「倭人伝」に対する丁寧な時代考証が必要である。それには中国古代史書の素養が前提であることは言うまでもない。いや、「三国志」の(国内)最高権威と称揚されるほど素養があっても、基本的な理解力/知性が欠落していると、『「史官」は、史実の継承を本分としていない』などと、とんでもない暴言を吐くから、困ったものである。

*張氏の時代観の限界~唐代/中世
 張世澄氏の中国古典書の理解は、どうも、中国の中世、唐代漢詩の解釈が限界のようである。そこに絞り込んでいる限り、比較的多数の読者を期待できるのであり、豊富な見識で名声を博したのに違いないが、秦漢代史書の解釈は、手に余っているのでは無いかと思われる。「魏志倭人伝」解釈は、圏外の三世紀史料とは言え、字数が限られるので、余技として、威勢良く秘剣を振るったと見える。
 読者諸兄姉は、その限界を踏まえて、氏の庖丁の技を賞味すべきである。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 7/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 23/06/07, 12, 19, 21, 23~26

➀最初の区間~郡管内韓国を歴る官道行程
 まずは、倭人伝に収録された「郡から倭に至る」「従郡至倭」行程の最初の区間は、「郡」を発して、一路半島中央部を南下し、韓国領域を通過し、街道関所を通過して郡の最南端である狗邪韓国に至ったと見るのが至当である。
 当然、この行程は、街道、つまり、乗馬往来の官道で、途上、関所兼宿場兼郵局があり、蹄鉄交換なり、替え馬などにより、秦漢代以来の街道制度が実施されていて、安定した行程が確保されていたと見るべきである。「郵局」というのは、中原においては官営の「飛脚」であり、恐らく、韓地では、各宿場の責任者が、係員を駆使して送り継いだと見るものである。もちろん、郡太守の親書は、郡の「飛脚」が、走り継いだと思われるが、それぞれ、別に特筆するような内容ではないから、道里記事には書かれていないのである。
 後漢献帝建安年間に、穢、韓、倭を統轄する帯方郡が成立したが、遼東郡の下部組織であった。そして、狗邪韓国街道は、維持されたのである。
 因みに、「韓国」を歴るとは、馬韓、秦漢、弁辰の三韓を歴訪するのは明らかであるから、郡を発した街道は、それぞれの韓国の王治に届いていたことは明らかである。そもそも、「倭人」が、帯方郡に参詣するには、三韓の承認が必要であり、郡の発行した「過所」(通行許可証)がなければ、各国の街道関所で阻止されるのである。

*「万二千里」の起源
 行程記事の末尾で、行程公式道里は「万二千里」とあるが、以上、これは、「遼東郡から倭に至る」道里である。帯方郡移管後、「帯方郡から倭に至る」道里となるから、後世人の感覚では、随時里数を訂正すべきと思われだろうが、倭に至る「公式道里」は、皇帝承認後は一切変更できず、「万二千里」だったのである。
 と言うことで、「万二千里」は、「初見」時点において、遼東太守公孫氏が「公式道里」として設定したもので、後世、陳寿の「倭人伝」編纂時、、皇帝承認の不可侵史料が不合理と見えても、是正不可能だった。
 西晋瓦解に伴い雒陽に継承されていた史官組織が崩壊したこともあり、このような史官職業倫理は、史官でない笵曄には継承されなかったと見える。継承されなかったのは、雒陽公文書だけではなかったのである。

*郡/狗邪韓国~倭人伝道里の定義
 「従郡」は、郡太守治所(郡治)の位置を言う。道里は、まずは、郡の南端、狗邪韓国の渡海海港までを示し、ここまで七千里の道里原器(物差)が定義されている。一千里単位と言いたいが、千、三千、五千、七千、万、万二千と飛び飛び概数であり、有効数字1/2桁の大変大まかな世界である。

*「馬韓」評判記
 晋書「張華傳」には、西晋太康年間(280-289)都督幽州諸軍事治世の記事に治所から「馬韓」迄四千里とされている。目的地「馬韓」は、馬韓伯済国と推定され、千里単位の道里である。幽州雒陽道里は明確でも馬韓行程は不明である。三世紀末は楽浪郡経由の雒陽道里が至当であるが、当記事は道里の記事でなく、遠隔地を張華が適切に管理したという評判記である。
 笵曄「後漢書」「郡国志」の各郡道里は「公式道里」である。 西晋 司馬彪( - 306 )「続漢書]「郡国志」には、後漢雒陽公文書から各郡地理情報が集成され、劉宋 笵曄(-445)「後漢書」の「志部」として併合されたから、笵曄の美文修飾は介入していない。
 遼東郡: 雒陽東北三千六百里。 玄菟郡: 雒陽東北四千里。 樂浪郡: 雒陽東北五千里。 幽州涿郡:雒陽東北千八百里。
 晋書「地理志」は、幽州を歴史回顧し、建興四年(316)西晋滅亡時に、北方異民族の支配下に入った旨略載し、公式道里は収録していない。
 要するに、晋書「張華傳」記事にも拘わらず、三韓公式道里は不明である。馬韓を代表する権威の治所への実務道里が知られていただけである。
 但し、幽州都督の三韓支配は、両郡からの撤退で喪われたと見える。

②次なる区間~「渡海」道里の起源
 「渡海」道里「千里」は、並行街道が無い以上「形式上の道里」であって、海岸から州島に移動し次の州島に乗り継ぐ以上、実質的意義は無い。

*予告する「水行」定義/伏線回収
 「渡海」道里は、正史記事に前例がないので、不意打ちで困惑させないよう冒頭定義文で、『「倭人伝」『並行街道無き渡海』を「水行」』と明記した。
                                未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 8/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

③最後の区間
 この区間は、正始初頭(240~241)の魏使発進以降の現地情報によっている。

 現地情報とは言え、末羅~伊都間の行程道里は、「公式道里万二千里」の剰余としても辻褄が合わないので本来は明示されなかったと見える。何しろ、「万二千里」は概念で、二千里刻みの規定値に過ぎず、行程道里の積算ではないので、「余里」概数の辻褄が合わないのは、既に広く認められている。

 結局、末羅~伊都間五百里の素性は不明である。別の部分で、「女王国以北」即ち、狗邪韓国以南女王国までの行程諸国は「周旋(往来)五千里」と書かれているが、これを信ずるなら、狗邪韓国から女王国まで五千里となる。
 但し、概数計算で、この五千里から三度の渡海の三千里を引くと、表面的に、末羅国から女王国まで二千里となるが、概念である万二千里から、いずれも概念である郡管内七千里と渡海行程の三千里を引いた残る「二千里」を、倭人界の「街道制度が整っていない禽鹿径」に当てはめても意義は無い。

 街道は、乗馬文書使や荷車が往来するように整備されるのが前提であるが、「倭人」界は「牛馬」が公用に供されてないので、人が担って運ぶから、運用が異なり、所要日数は不明となり、公式道里は当てにならないのである。

 陳寿は、「倭人伝」道里が、中原制度と整合しないのを表立って主張できないので、史官の責任で所要日数を明記したものである。この編纂方針は、当時の読者の受け入れるところとなったので「倭人伝」記事は健在なのである。

*道里行程記事の意義
 「従郡至倭」の記事で要求されるのは、郡から倭への送達文書が、何日で倭の統治者に届くかという「所要日数」であり、行程里数では無い。「倭人伝」では、全所要日数を「都水行十日陸行一月」、計四十日と十日と明記している。
 正史記法で「水行」は並行街道がなければ、道里に実質的な意味が無い。「陸行」は、乗馬の文書使が、疾駆急行すれば短縮可能であるが、「水行」は、船上を騎馬で疾駆しても無意味なので、短縮不能であるから、別格である。
 中原でも、文書送達日数は実務であり、「地理志」、「郡国志」、「州郡志」などに収録の「公式道里」とは厳密に関係しない。一例として、漢代初期に武帝が設定した楽浪郡は、西晋代まで存続したが、郡治は移動を重ねていたと見える一方、公式道里は変動しなかったのである。

*追記~2023/06/12
 まだ誤解が解けていないようで、念押しするものである。つまり、「倭人伝」道里記事は、遼東太守公孫氏が、帝国の辺境都督として、新参の「倭人」の身上書を作成した際の認識が示され、伊都道程しか確認できていなかった。

 まずは、「倭人」が、「大海」、つまり、韓の向こうの塩水湖の「山島」に在るとしていて、しかも、その「山島」は、離散していて街道が通じていないと明記している。「離散した山島」は、末羅から伊都は、繋がっているように見え、それ以降「陸行」するとしているが、伊都から諸国へは、投馬国が「渡海」を含む二十日「水行」と示唆されている。

 復習すると、その時点で、帯方郡官人が実際に到着していた「伊都国」から先は推測である。つまり、「その時点」では、女王之処である「邪馬壹国」は、確認されていなかったと見える。「その時点」が、女王共立以前なら「邪馬壹国」はまだ無かったかも知れない。

 原史料を離れた思案ゲームに耽って持論を形成されてきた諸兄姉には、中々認めがたいだろうが、まだ、間に合ううちに再考いただきたいものである。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 9/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

*「倭人伝」起源考
~2023/06/20
 「その時点」は、公孫氏が遼東郡太守となった後漢霊帝崩御時点『後漢中平六年(189)』と見える。帯方郡創設は、建安九年(204)である。
 当ブログ筆者の私見によれば、卑弥呼が女王に共立されたのは、今日で言う十二歳程度の若年であり、景初遣使の時点で、せいぜい、「年己長大」、つまり「成人したばかり」の二十歳程度と解釈するなら、「その時点」は、女王共立の以前であって、当然、「女王国」は存在せず、従って、(当然)「邪馬壹国」も存在しなかったことになる、可能性が濃厚と言っておく。
 公孫氏の「倭人伝」初稿が、魏明帝に伝わったのは景初年間として、それ以前に、早合点の報告が届いて皇帝が承認していたとすると、仮に、道里、戸数などに誤解があったとしても、不敬に亘る行程記事修正でなく、補足や書き足しになるので、余儀なく許容されたと見える。いや、総て臆測である。
 ともあれ、行程外の奴、不弥、投馬へは行程を辿ったわけではない。この点は、後に、「女王国」の所在が確認できた後に、「女王国」以北の行程諸国とそれ以外の「餘旁國」を峻別した原因になっていると思える。

*邪馬壹国の姿~私見
 さらに付け加えると、「邪馬壹国」は、「国」と書かれても、太古(殷/西周代)の「國邑」(ムラ)の規模であって、小規模聚落に過ぎず、しかも、「倭人」「國邑」は、城壁を有しないで城柵で囲われたに過ぎず、随時、新設/移動できたから、卑弥呼の時代以外、どこにあったのか不明である。特に、女王共立以前は、存在したかどうか不明である。本稿では、極力「国」の幻想を払拭するために、「伊都」などと呼び捨てにしていたが、中々、染みついた「国」意識は拭えないようである。

 当ブログ筆者の推定では、「邪馬壹国」は、卑弥呼が仕えていた「氏神総社」、「一の宮」であり、小高い丘の上に鎮座していたと見ている。例えば、須玖岡本遺跡を見おろす「熊野神社」のような位置付けと見ている。
 氏神は、「倭人」全般に共通の権威を持ち、氏族の当主の季女(末娘)が、生涯不婚の巫女として、氏神に仕え託宣をあおいでいたと見るのである。太古以来の漢字史料を精読された白川 勝師の著書によれば、こうした巫女の習わしは、太古東夷とされた齊や魯で広く行われていたと言うから、そうした東夷の勢力の及んだと見える、「倭人」に及んでいたと見え、陳寿も、そのような「巫女」が、諸氏の諍いを裁く役所(やくどころ)から、女王に共立されたと見えるのである。誠に筋の通った考察であり、女王に政治的な権力を与えようとする「通説」に異論を唱えるものである。
 もちろん、これは、個人的所感であって、読者諸兄姉に押しつけるものではないから、別に、ことさら批判いただきなくても結構である。

 因みに、「倭人伝」道里行程は、景初年間に回復した帯方郡からの報告をもとに、明帝曹叡が魏使派遣を承認した前提であり、皇帝の承認を得て公文書となって後日修正できなかったのは、これまで説明したとおりである。
 とかく、悪しき風評が醸し出されているが、漢書を編纂した班固以来、史官は「史実」、つまり、公文書史料を集成するのが崇高な使命であり、創作や文書改竄は断固排していたのである。いや、そのような倫理綱領は、西晋瓦解の際に毀損されたと見えるので、その後、南方に流亡した東晋、劉宋以降の南朝史官が、どの程度承継していたか、不確かである。まして、後漢書を集大成した笵曄は、史官ではないので、その心情は、明らかに、陳寿の心情と大きく異なるのである。

◯まとめ
 張明澄氏が、「倭人伝」道里行程記事に対する先賢諸兄姉の勝手読みによって掻き立てられた「泥沼」に合理的な光明を与えた点は敬意を表するが、結局、倭人伝に書かれている真意を解読するのが至上の課題であり、その点で張氏と袂を分かつとしても、それは仕方ないところである。

 当書評は、とかく見失われている張明澄氏の慧眼を顕彰するものであり、氏の誤謬を誹るものではないのである。

                                以上

2023年6月 9日 (金)

新・私の本棚 番外 NHK BSP「 邪馬台国サミット2021」(1) 速報編 再 1/3

[BSプレミアム] 2021年1月1日(金) 午後7~9時 NHKオンデマンドで公開中  
私の見立て ★★★☆☆ 前年比改善顕著 前途遼遠   2021/01/30 補筆 2023/06/09

NHK番組紹介引用
*番組内容

日本史最大の謎のひとつ邪馬台国。どこにあったのか?卑弥呼とは何者か?第一線で活躍する研究者が一堂に会し、最新の証拠や資料をもとに自説をぶつけ合う歴史激論バトル。

出演者ほか 【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人,【出演】石野博信,上野祥史,片岡宏二,倉本一宏,佐古和枝,高島忠平,寺沢薫,福永伸哉,柳田康雄,渡邉義浩

*はじめに
 従来のNHKの古代史(三世紀)番組前作は、司会者が揃って素人の上に素人論者の乱暴なコメント連発で幻滅したのです。その後、民間放送の広く取材した番組で、司会者の含蓄のあるコメントに感心したものです。NHKの旧作使い回しにはげんなりしていましたが、ようやく新作にお目にかかりました。
 新作も、背景に擬し「倭人伝」刊本を見せながら、そこに書かれている「邪馬壹国」、「壹与」を、そこに書かれていない「台国」、「台与」と言い換える悪習の惨めさに幻滅します。また、魏使が難船必至の海上迂回到来で驚くのです。そうした基礎固めが疎かで脚もと乱雑では多難です。
 そうした不吉な序奏から、本編は、意外に冷静な論議となり、むしろ順当な展開でした。何しろ、前作は、纏向広報担当風で、年々当ブログの批判がきつくなったのです。

*総評
 二時間の番組の全面批判は無理なので、大きな難点にとどめましたが、概して、纏向論に苦言が集中するのは仕方ないところです。
 論者の意見が順次提示されましたが、九州説は、「歴史激論バトル」は気にせず、ゆったり紹介され、堅実な考察と思わせ、ことさら批判するに及ばないと思ったのです。

 これに対して、纏向論者は、「歴史激論バトル」を真に受けたのか、前作の提言を越えた一段と強引な展開で、一視聴者としては、無理するなよと言う感じでした。

*考古学の本分喪失
 例えば、論者提言に噛みついて「卑弥呼、箸墓、台与の年代比定は確立されている」との決め付けは、独善丸出しで滑稽でした。
 考古学の財産は、遺物、遺跡に基づく堅実な考察であり、同時代文字記録は存在しないから時代比定は不確実であり、不用意に文書資料を取り込むと考証が歪む」というのが、考古学会先賢の戒めと思うのですが、ここは、自説絶対で干渉は許さないと戦闘体制で臨んでいて、論争にしないのです。
 倭人伝」独善解釈に引き摺られて、正当な考古学考察を撓め「倭人伝」解釈をそれに沿わせようとしているのは、無理矢理という感じが拭えません。

*イリュージョンの不毛
 今回、纏向遺跡の「再現」動画を上映しましたが、素人目にも高価な「イリュージョン」(詐話)と見えます。考証なしにもパッと見に訴える、「見映え」する映像眩術を創造するのは、何を目論んでのことか、一納税者としては、賛成できないのです。

 例えば、堂々たる運河で、両岸から荷船を曳く」図は、古代に限らず、現地にあり得ない、戯画、虚構そのものです。
 内陸傾斜地の「運河」で、どこからどこへ、どんな質量の何を運んだのか。着いた荷は誰がどう享受したのか。地道に解析しないでの壮大、厖大な費用を費やしての児戯画餅は、せいぜい言っても勿体ない出費です。
 三世紀当時、河内平野は未開地、内海水運は未開設ですから、最寄りの海港に、大量の荷物が届くはずは無いのです。また、当時、これほど盛大な経済活動があれば、纏向王朝は、立ち所に天下を席巻したはずです。成長曲線を想像するとそうなります。

 想定する巨大建物「都市」(現代用語を 無造作に持ち込んだ用語で、古代史には無様な時代錯誤ですが、仕方なく追随しています)には、何より、食糧供給が伴わず、そもそも、住民を支える収入源が見当たらないので、きれいに言うと「画餅」なのです。時代考証無き「誇大化」に見えます。年々イリュージョンが誇張されていくのは、痛々しいものがあります。

 纏向陣営は、そこまで虚飾に励まないと正当化できないほど、追い詰められているのでしょうか。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK BSP「 邪馬台国サミット2021」(1) 速報編 再 2/3

[BSプレミアム] 2021年1月1日(金) 午後7~9時 NHKオンデマンドで公開中  
私の見立て ★★★☆☆ 前年比改善顕著 前途遼遠   2021/01/30 補筆 2023/06/09

*「自虐」論始末記
 「自虐」論は、纏向絶倫史観になびかない九州論者に対して呈された「罵倒」ですが、素人目には、攻撃になっていないので、自爆です。
 こうした挑発は、大抵、議論で勝てないと自任する「弱者」が仕掛ける「泥仕合」の狙いですが、「子供の口喧嘩」戦術に、大人は応じないので、一段と、論議に窮した焦りを露呈します。箴言風に言うと、「暴言は、無能者の最後の隠れ家」です。
 視聴者も、乱暴な決めつけに賛成すると見ているなら、皆さん見くびられたものです。

*疲弊した決め付け
 論議に窮すると、落ち着く先は、乱暴でくたびれた俗説の羅列です。

*「白髪三千里」論
 これは、前世紀の遺物、無風流な浅知恵です。
 やり玉に挙げられた李白は、漢詩三千年最高の詩人であり、気宇壮大な「比喩」は、現実を大きく離れ、深々とした感動を誘います。「白髪三丈」の陳腐と次元が違うのです。無茶な誇張と感じるのは、感性の貧困です。現代人が勝手に法螺比べを挑む図式など見たくもありません。

 少なくとも、この表現は詩的な比喩であって、史学発言ではない位は理解できるはずです。まして、東大は、三世紀世界の遙か、遙か後世です。「時代錯誤」などてなく、単に、古人が無知から言い出したことを無批判に追従するのは「問題」です。

*「戦果十倍誇張」
 この名言は、確かに、同時代に近い史書表現ですが、既に、論外の愚行とされていて、参考になりません。要するに、実戦指揮の経験が豊富な皇帝が、「軍人の誇大な手柄話には、一切騙されない」と釘を刺しているのです。
 秦代以降、軍功はクビの数であり、十倍誇張で十倍の褒賞ですが、それはそれとしても、新来蛮夷の道里、戸数の誇張に何の意義があるのでしょうか。直にばれるウソでは、虚言の廉で首が飛ぶのです。軍人は、軍功で地位を得るので安直な誇張はしないのです。また、魏使は軍務でないので戦果を求めず、この手の誇張はあり得ないのです。

 中国兵制で遠征軍司令に監軍なるお目付役が付き、杜撰な報告は監軍の一片の報告で「大丈夫」の首も飛ぶのです。軍果は敵の首の数で、お目付役が記帳しているから、デタラメに書けないことも弁えていただきたいものです。

 曹丕、曹叡は、文弱皇帝ではなく、司馬懿の使命は、公孫氏殲滅であって東夷招請ではなく、薄汚い功名稼ぎのおおぼらは関係無いのです。

*勿体ない自爆表現
 この二件は、東方諸賢の伝家の宝刀、古典的罵倒表現で、決定打のつもりでしょうが、中国古代史に通じた「世間」で通用するものではないのです。むしろ、「世間」に通じない、東夷のものの自損、自嘲表現でしょう。多分、所属組織の「軍規」で、これらの虚言を主張しないと、上官から叱責されるので、定番として述べたに過ぎないのでしょうが、これでは、典型的な「自爆」と取られかねません。
 これも、何れかの世代で、と言うより、一日も早く棄却すべき負の遺産でしょう。

*倭人伝の使命
 「倭人伝」は、三世紀当時最高の教養人が、皇帝以下の教養人に謹呈した著作であり、李白は数世紀時代錯誤で場違いだし、軍人功名談も、無教養な軍人の愚考を語るものであって、無用の極みです。暴論は、相手と「場」を弁えないと、壮大におつりが返ってきます。
 同学の先師の旧説は、学問の世界では、進歩に取り残された遺物、「レジェンド」となりかねないので、先人の名声に泥を塗らないように更新/廃棄されるべきです。
 今回の纏向論客は、口説鋭いと見ましたが期待外れでした、と風当たりがきついのは、当代随一のプロと見なされているからです。世上溢れているネット世界の野次馬などではないのです。

*闇談合露呈
 収録終了時、「オフレコで言いたい放題言い合おう」などとは、定番の闇談合でもないのでしょうが、「歴史を夜作る」のは、良い加減にしてもらいたいものです。受信料を払っていて、善良な納税者でもある一般視聴者が見ているのです。恥を知るべきです。

 それにしても、司会の「爆問」の小声の総括は、空騒ぎに惑わされず、冷静で控え目でした。前作の空騒ぎとは、格別で人選の妙です。時に纏向幕府の走狗と揶揄されるNHK制作陣の反骨精神の真骨頂でしょうか。

                              未完

 

新・私の本棚 番外 NHK BSP「 邪馬台国サミット2021」(1) 速報編 再 3/3

[BSプレミアム] 2021年1月1日(金) 午後7~9時 NHKオンデマンドで公開中  
私の見立て ★★★☆☆ 前年比改善顕著 前途遼遠   2021/01/30 補筆 2023/06/09

*「殿、ご乱心」~出所不明史料の怪、また怪
 今回の番組で、何とも重症なのは、三国志学」首魁渡邊義浩氏の暴です。
 「倭人伝」考証で、選りに選って、「翰苑」とは、何とも場違いですが、対照された「会稽東治東」ならぬ「会稽東冶東」の史料影印は、出所不明で投げ出されたのです。

*「中華書局本」の闇討ち
 紹興本、紹熙本に始まる古史料に「会稽東冶」は存在しません。それぞれ木版印刷で個体差はないので、どこで見つけたのかその場では不明です。
 散々調べた後で、諸刊本で「東治」と一致している「東治」が「中華書局本」で、なぜか「東冶」と「改竄」されていたのです。しかし、堂々と史料にない「邪馬台国」と言う以上、この際、別に異本はいらないはずです。

*「翰苑」史料批判の齟齬
 翰苑編者が、当時の写本の会稽「東治」を「会稽」とした(らしい)のは、世上、「東冶」との混同があり「東治」を削除したとも見えます。
 「東治之山」の由来が明記された「水経注」などでも、禹后が会稽した会稽「東治之山」が「東冶之山」と誤記された異本があります。というものの、翰苑は「東冶」「東治」のいずれでもなく、氏は、あえて現代史料で「東冶」を正当化していて、これは、史料考証の無用な愚行と思われます。
 渡邉氏は、陳寿「三国志」と袁宏「後漢紀」以外は、読み込んでいないのでしょうか。いや、もちろん、笵曄「後漢書」全訳の偉業は、初回記事では言い漏らしたのですが。それにしても、偏食の科は重いのです。

 渡邉氏は、過去の「特番」で、史官、つまり、陳寿が史実の忠実な継承を職務としていなかったとの暴言を吐いていて、いわば、暴言常習犯なのですが、なぜか、再度のお座敷がかかっています。もしかして、中国で古典的な「滑稽」の役を担っているのでしょうか。

*ついでの話
 別件ですが、氏の「黥面文身」解釈は軽薄で的外れと見えます。黥面は「顔面烙印」としても、図版の無い「倭人伝」に、出所不明の図版や遺物を担ぎ出すのは、誠に不審です。倭人伝」解釈に関係ない「外野」の資料を堂々とぶち上げる論議が、却って、不審を感じさせます。
 場外乱闘好きなら、三世紀当時、倭で広く行われた黥面が、日本史で蔑視されているのは、どういうことか、説明戴きたいものです。因みに、中国で顔面に黥するのは罪人の徴とされていたのです。

 更に言うと、何れかの時点で黥面制度が変わったのなら、旧制度の貴人が、新制度では罪人となるのです。歴史的、画期的な大事件の筈なのですが、記録は残っているのでしょうか。不審です。
 また、「倭人伝」にある黥面文身の「水人」は、畿内ではあり得ないのです。奈良盆地で大量の魚鰻をどうやって捕らえたのか、説明できないのです。
 それとも、氏は、当番組では、中国史書専任で、国内史書に一切言及しないと談合していたのでしょうか。うさん臭い話です。

〇通じない箴言
 氏の意見に対して、厳しく論難するのは、氏が三国志権威とされているからです。折角、「倭人伝」は、『中国教養人が中国教養人のために古典の言葉で書いたから理解されたのであり、無学な現代人には当然「不可解」である』と示唆しても、同時代人同士で意味が通じていないのは、残念です。
 要するに高樹悲風多しです。

〇まとめ~司会者の叡知
 司会者の「古い解釈を取り除いて原本から出直す」との至言は見事です。
 きっと、来年は、原点に還った新鮮な論議が聞けるものと期待しています。

                             この項完

2023年6月 7日 (水)

私の本棚 2 松本 清張 清張古代游記 「吉野ヶ里と邪馬台国」

 日本放送出版協会 1993年11月        2014/05/16 追記 2023/06/07
 私の見立て ★★★★☆ 好著必読

◯はじめに
 松本清張氏は歴史学者ではないので、一般人扱いで、清張氏と書かせていただきます。
 本書は、清張氏著作の中でノンフィクション部分の中核をなしている「邪馬台国 清張通史1」の集大成であり、決定版と呼ぶべきものです。

 「邪馬台国 清張通史1」は、単行本および文庫本として出版され、最新版は、それぞれ、「松本清張全集 33」 ((株)文藝春秋社 ’84年7月第一刷)とそれを増補した「講談社文庫」(’86年3月第一刷)として出版されています。
 「邪馬台国 清張通史1」は、一連の清張通史(1~6)の中で、唯一松本清張全集に収録されていて、世評の高さをうかがわせるとともに、清張氏のフィクションも含めた膨大な著作の欠くべからざる一角を構成する代表作と評価されているものと言えます。

 本書は、当該著作の前後に1989年の吉野ヶ里遺跡発掘に関する論考を追加し、最新の発掘、発見を取り入れた決定版としているものです。
 また、清張氏が逐一書き上げたものではなく、清張氏の没後に、氏の著作に対して、清張氏の残した著作メモに即して図形資料、図版、カラーグラビアなどを充填したものであり、その意味でも、氏の「邪馬台国」論の集大成となっているものです。

 清張氏の「邪馬台国」論は、古代史関係著作の口切りとなった「古代史疑」を母体として、記載を充実、強化していたものと見受けられ、論旨については、一貫したものを保っています。
 「古代史疑」は、当初、雑誌「中央公論」'66年6月号-'67年3月号に連載され、'68年3月に中央公論社から単行本刊行されました。
 従って、ここでは、それら著作についての論評は避けます。

 素人考えでは、清張氏の意思を明確にするには、「邪馬台国 清張通史1 最終版」としたいところでしょうが、版権者に憚るところがあって、このような体裁としたものでしょう。
 ただし、結果として、同一の著作の複数の時点の形態が残されていて、氏の関連著作の全貌の把握を困難にしています。

*「清張史論」の伸張と限界
 清張氏の邪馬台国論は、大別すると九州説に属するものながら、学会の既成の論者に追従するものではなく、広く、諸資料、諸文献を渉猟した基盤から出発し、作家としての豊富な知識、眼力に載せて、壮大な構想を展開したものと言えます。

 その際に、古代史学会の埒外とされている古田武彦氏の意見にも反応していますが、なんとしても、歴年の思索の果てに、適切な根拠に欠けると思われる倭人傳」虚妄論に陥ったとがめは大きいと思います。

 そのために、正史と雖も、膨大な筆写の果ての姿であり、誤写があって当然」という憶測の陥穽に陥って正史のその時代の原本の筆写には、誤写を防ぐために、複数の校正者による読み合わせ、筆写継承回数の削減等々、絶大な努力が払われていたから、誤写の可能性はきわめて低い、などの妥当な推論ができていないのです。

 恐らく、氏の見解は、氏が教授を受けた国内古代史学者の職業的な中国史料懐疑の「通念」が浸透したための倭人傳」虚妄論でしょうが、まことに勿体ないことだと思われ、誠に残念です。
 国内古代史学者 は、所詮、中国古代史料に関して、後世東夷の無教養という限界に囚われているものであり、「倭人傳」は、同時代最高の史官が、同時代最高の知識人のために最善努力を費やして編纂したものである、という視点に至っていないので、いわば、初学の夷人の浅薄な意見に過ぎないのです。
 この点、氏には、一切責任が無いのですが、ここでは、氏の著作の書評として苦言を呈せざるを得ないので、読者諸兄姉には、氏が矢面に立っているように感じられるかも知れませんが、それは本意ではありません。いや、いつも、気の早い野次馬読者の攻撃を浴びることになるのですが、要するに「敵は本能寺」なのです。
 当ブログ筆者は、「倭人傳」の真意を求めて研鑽してきたので、あえて、不遜な意見を述べているのです。

*「問題」との決別
 課題(問題)を与えられ、課題(問題)が解けないからと言って、課題(問題)の否定にかかるのは、正道を外れるものです。
 魏志「倭人傳」のように、執筆姿勢が真摯で、丁寧であり、正史として適切に保存されていると見られる史料の信頼性を否定したら、もはや、いかなる文献史料も信用できず、「頼れるのは自らの見識となってしまう」のです。
 主張の根拠を明快にしている限り、それはそれで、学術的には誠実な姿勢ですが、本稿筆者の信条に反する論法なので、誤解は誤解として指摘せざるを得ないのです。

*権威の自傷
 清張氏は、当分野に関する著作を発表し始めた時点で、既に、いわゆる文豪として知識人の最高位に格付けされていて、機会あるごとに、当分野の最高権威とされる諸賢と面談して、質疑したと言うことですが、氏の発言、著作は、既に確たる権威を持っていたので、ご本人にはそのつもりはなかったとしても、何かと儀礼的配慮が働いたと思われるのです。
 また、古代史学界は、議論を好まず、先哲の説を堅持し、とにかく異説を沈静化させるものなので、氏の意図した議論喚起とは行かなかったように思います。

 氏の倭人傳評価は、先入観で即断した事例を除けば、大局的に冷静であり、世上の当分野著作で、功を焦った凡庸で怠惰な著者が、時として、持論の展開に勢いを付けるために倭人伝を踏みつけにする愚とは、無縁であると感じています。

 と言うことで、ここで、批判しているのは、清張氏への尊敬の念の表明とさせていただきたいのです。

以上

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