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2023年6月

2023年6月30日 (金)

新・私の本棚 伊藤 雅文「検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く」 追記

- 卑弥呼は熊本にいた! - (ワニプラス) (ワニブックスPLUS新書) – 2023/2/8
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な論考を丁寧に総括した労作 但し、難点持続 2023/02/11 追記 2023/06/30

◯始めに~新解釈・新説に異論あり
 本書は、倭人伝考察に関して、麗筆で知られる筆者の最新作であり、これまで、氏の論説で、唯一致命的とされていた倭人伝改竄説が、控え目になっているが撤回されてないのは、依然として「重大な難点」と見える。
 「重大な難点」を癒やせない筆者の論説は、折角の労作が全体として疑念を抱かれるので、大変損をしていると見える。ご自愛頂きたいものである。
 当然の事項であるが、本稿は、氏の売り物である「卑弥呼は熊本にいた!」提言を非難しているものではない。

*難点列挙
1.原文改竄~始まりも終わりも無い混沌
 氏は、原文の由来を明らかにしていないが、「対馬国」と書いているので、三国史諸本のうち、紹興本によるものと見える。いくら新書でも、史料を明記するのは、常識と見えるが、いかがなものか。

 いずれにしても、陳寿「三国志」の原文は「邪馬壹国」であるので、これを(異説・私見が支配的とは言え)「私見」により「邪馬台国」と改竄するのは、信用を無くすのであり不用意である。本書は、冒頭から「邪馬台国」と書き進んでいて、原本依存でなく、正体不明の現代語訳で書き換えているとも見える。
 このあたりの批判は、「邪馬台国」派の史料改竄に対する「税金」のようなものであり、逃げられないものと覚悟すべきである。

2.「道里」の曲解/正解~余計な廻り道
 氏は、「道里」を「新語」と紹介するが、古来「道里」は、常用されていたのである。「新語」を正式史書に採用しては、史官として不用意であり、処断されるものと見える。重大な認識不足である。氏は、遂に、魏晋代新語との手前味噌を排して、原本に回帰したのであり、当然とは言え、「道里」は「道」の「里」との当然の理解/結論に至ったのを祝し、ご同慶の至りである。

3.道里/行程について~下読みしないことの不毛
 氏は、「倭人伝」の道里行程を、『魏使(郡使)の報告によるもの』と根拠なく予断されているが、普通に解釈すると、正始魏使が下賜物を帯行して訪倭の使命に発するには、「行程全所要日数を予定する」必要があり、「都水行十日、陸行一月」は、「魏使派遣以前に皇帝に報告されていた」と見るものではないだろうか。所要日数不明、あるいは、全道里万二千里だけでは、魏使派遣は不可能だったと見るものである。
 何しろ、行程上の諸国に、到達予定とその際に所要労力、食料などの準備が必要であることを予告し、了解の確約を得る必要があるから、「全行程万二千里」との情報、狗邪韓国まで七千里などの大雑把な道里次第では、難題は解決しないのである。いや、当然極まることだから、記録されていないだけで、ちょっと考えれば、他に選択肢はないのである。
 当時の事情を推察すると、「全道里」万二千里が、何らかの事情で、実際の道里に関係なく公認されていたために是正不能で 、部分道里を按分して設定せざるを得なくなり、制度上の欠落を補足するために、実態に合わせて、全所要日数、都合「水行十日、陸行一月」 を書き込んだと見えるのである。帯方郡の言い訳としては、倭地には、馬車も騎馬連絡もないから、徒歩連絡のみであり、道里だけでは、実際の所要日数が分からないので、別途精査したということになる。
 下読みすれば、景初年間には、そのような訂正された道里行程記事が、既に記録されていたのが、陳寿によって倭人伝記事となったと見ることができる。案ずるに、後年の裴松之が、道里行程記事に異を唱えていないのは、そのような記事が史書として筋が通っていたからであり、結局、陳寿が認めた内容で良しとしたのである。以上が、当ブログ筆者の考える筋書きである。

 長大な一連の記事が「従郡至倭」と書き出されているように、本来、行程記事は、通過諸国を列挙した後、最終目的地「伊都国」に「到る」のが、要件であったと思われ、付加して「最終目的地を発して四囲に至る記事」と見ると、もっとも筋が通るのである。筋が通らない解釈を好まれる方には、「倭人伝」の有力な同時代読者である皇帝や有司/高官は、面倒くさい理屈は不要であり、さっさと結論を示せと言うだけだったはずであると申し上げるまでである。陳寿には、二千年後の東夷の好む記事を書く動機は、全く無かったのである。

 その解釈を妨げるのは、俗耳に好まれている「魏使が伊都国、奴国、不弥国、投馬国を経て邪馬壹国に至る」解釈であるが、道里行程記事が、「魏使行程記録でない」とすれば、論者の面子は保たれ、恥の上塗りになるような異議は回避される。
 
 「倭人伝」道里記事解釈談義は別記事に譲るが、諸処の記事で明らかである。むしろ、「行程最終地が邪馬壹国であり、そこに到るまでに、(傍線行程と明記している)奴国、不弥国、投馬国を通過した」との頑固な思い込みが、大局解釈を阻止していると見える。いや、業界の大勢が、そのように勘違いしているから、論者が、それに染まっていたとしても、別に恥ではない。勘違いに気がつくかどうかである。

 事程左様に、解釈以前の下読みが、曲解/正解の岐路である。

4.論争の原点(第6章)~無残な改竄説提起
 ここまで、高い評価を続けていたのだが、最後に、氏の愛蔵する「改竄説」の「魔剣再現」である。結局、氏が、倭人伝道里行程記事を適確に解釈できないために、責任を原典に押しつける「付け回し」である。まことに勿体ないので、氏自身でツケを精算するように「猛省」頂きたいものである。

◯道里行程記事の新解紹介
~私見 2023/06/30
 一連の書評で、批判だけで、当方の見解を述べるのを避けているのは、聞く気が無いと思われる相手に「本気で」論じるのは、キリスト教の聖人が飛ぶ鳥に説法する姿を思い出させて、面倒くさかったもので有るが、本件では、氏の読者も含めて、幾許かの「説法」を試みようかと感じたものである。ほんの気まぐれである。

 道里行程記事は、末羅国で上陸して以降の倭地の様子がはっきり分かっていない時点で書かれたと見るのが、妥当と思われる。記事は、狗邪韓国から倭地に至る周旋五千里について、州島、つまり、大海の流れに浮かぶ中之島を飛び飛びに渡ると書いていても、末羅国以降は、不確かな風にとどめているのだから、末羅国から伊都国への「末伊五百里」は、大変、不確かなのである。
 郡から倭までは、「郡倭万二千里」の行程であり、末羅国まで一万里しか書かれていないから、だれが暗算しても、「二千里」が残るのである。
 安本美典氏は、現在の地図上に、末羅国の推定位置を中心に、郡から狗邪韓国までの「郡狗七千里」から推定した二千里の円を、ある程度の推定の幅を持って描く手法で「邪馬台国」の存在確率の高い同心円範囲を描いている。氏の推計の基本は「郡狗七千里」を、いわば、道里行程記事の「原器」、「物差」と見るものであり、誠に、理性的な判断であると賛辞を呈するものである。

 ここで述べる私見では、氏は、現代的な推計手法を採用しているので、古代史史料に対して適用すると、蹉跌が避けられないと見るのである。特に、「郡倭万二千里」は、実測里数に基づくものでなく、周制以来、辺境に天子の威光が及んでいる様を述べるものであり、そのような、万二千里を按分した帳尻の「二千里」が、記事に「明記」された「五百里」とどう関係するのか、わからないのである。
 
 私見では、道里行程記事の末羅国以降は、魏の道里制度の全く届いていない地域なので、折角の「原器」も利用できないと見るものである。して見ると、「末伊五百里」は、百里程度より遠く、最大四千里程度まで届く可能性が否定できないと見るものである。
 要するに、按分の出発点が、「従郡至倭万二千里」をであるから、積算して、一区分上の「万四千里」には届いていないのでは無いかというものである。不確かな推定の積み重ねであるが、概算計算の妙で、いわば、箍をはめていたという推定である。
 念押しすると、道里行程記事を滑らかに読み解くと、「従郡至倭万二千里」の最終目的地は、伊都国であり、「邪馬壹国」は、行程の圏外なので、伊都国からの道里は、書かれていないのである。

 以上の筋道をたどれば、伊都国の位置は、末羅国の南方であるというものの、遠くは、日田、久留米のあたりまで包含できるという解釈が可能であり、「邪馬壹国」は、そこから先なので、無残な原文改竄説に固執しなくても、「邪馬台国熊本」説は、維持できるのである。

◯まとめ~ダイ・ハーデストか
 氏は、好著の最後に改竄説を呼び込み、因縁の躓き石でどうと倒れている。
 1~3の見過ごし、勘違いは、年代物とは言え是正ができるが、4は、容易に是正できない重大なものである。理屈を捏ねても望む結論に繋がらないために、無法な後づけに逃げているので、「病膏肓」、「最上級のダイハード」である。
 氏の不評は、道連れにされている「熊本」にも、「くまモン」にも、大いに不幸である。

                                以上

2023年6月28日 (水)

新・私の本棚 小畑 三秋 産経新聞 THE古墳『吉野ケ里で「対中外交」あった~

終わらない「邪馬台国」発見への夢』 2023/06/28

〇はじめに~部分書評の弁
 当記事は、産経新聞記事のウェブ掲載である。七田館長(県立佐賀城本丸歴史館)の発表資料そのものでなく、担当記者の「作文」とも見えるが、全国紙記者の担当分野での発言である以上、読み流さずに率直な批判を書き残す。

-部分引用開始-
中国の城郭を模倣
遺物ではなく、遺跡の構造という「状況証拠」からアプローチするのが、七田忠昭・県立佐賀城本丸歴史館館長。物見やぐら跡や大型祭殿跡の発掘など長年にわたって同遺跡に携わっている。
「邪馬台国の時代、吉野ケ里は中国と正式な外交関係にあった」とみる。それを物語るのが、大型祭殿が築かれた「北内郭」、物見やぐらなどで知られる「南内郭」の構造だ。北内郭は王が祭祀(さいし)や政治をつかさどった最も重要な施設で、南内郭は王たち一族の居住エリアとされる。
大型祭殿には鍵型に屈曲する「くいちがい門」があり、物見やぐらは環濠(かんごう)の張り出した部分に設けられた特殊な構造だった。
同様の施設は当時の中国の城郭にもあり、七田さんは「こうした構造をもつ環濠集落は国内で吉野ケ里遺跡だけ。中国の城郭を模倣しようとした証し」とし、「大陸との民間交流というレベルではなく、正式な日中外交があったからこそ造ることができた」と話す。
-部分引用終了-
 記者見解にしても、遺跡構造は有力物証であり、「状況証拠」と称するのは見当違いである。纏向大型建物遺跡復元も「状況証拠」と言うのだろうか。

*「正式外交」の画餅
 館長発言とみられる「中国と正式な外交関係」は、複合した誤解である。当時、中原を支配していた魏(曹魏)は、南の蜀(蜀漢)と呉(東呉)の討伐を完了していない鼎立状態だから、「中国」を称する資格に欠けていたと見える。
 魏の鴻臚掌客も、「倭人」は、あくまで、服従を申し出てきた野蛮種族に過ぎず、「正式な外交」の現代的な意味から大きく外れている。
 いくら、「倭人」の敬称を得ていても、現に、文字を知らず、「礼」を知らず、まして、先哲の書(四書五経)に示された至言を知らないのでは、文明人として受け入れることはできないのである。
 もちろん、同遺跡「倭人」を代表したと見えないので、「倭人」として魏と対等の立場で交流できるはずもない。「倭人伝」には、魏の地方機関帯方郡は、倭人を代表する「伊都国」と使者、文書の交換を行っていたと明記されているから、「正式外交」は、酔態で無いにしても、飛躍の重なった無理なこじつけと言わざるを得ない。館長発言であるとしたら、不用意な発言に対して指導が必要なのは館長と見えてしまうのである。

 「倭人伝」は、「倭人」と交流したのは帯方郡であり、皇帝は「掌客」としてみやげものを下賜し、印綬を与えて馴化し、麗句でもてなしたに過ぎないと示唆していると見える。帝国の常識として、辺境に争乱を起こされたら、平定に要する出費は、土産物などの掌客の費えどころでは無いのである。天子の面目を、大いに失することも言うまでもない。それに比べたら、金印(青銅印)の印綬など、手軽に作れてお安い御用だから、正使、副使などに止まらず、随行の小心者や小国国主にまで渡したのと言われている程である。「掌客」とは、そう言うものである。
 当の環濠集落が、中国「城郭」を摸倣した/共通した構造としているが、中国古代「城郭」は一般読者が連想する戦国城郭の天守は無く、石垣と土壁で囲んだ「國」の姿が正装であり、環濠の「クニ」は、礼服を纏わない無法、論外なのである。
 「倭人伝」は、『倭人の「国邑」は、殷周代の古風を偲ばせるというものの、不適格であり、外敵のいない海島に散在しているので、正式ならぬ「略式」』と言い訳がましく述べているが、いずれにしろ、野蛮の表れなので、蕃使が中国に学んだとしたら、なによりも、王の居処を四方の城壁で囲うべきでは無かったかと思われる。
 伝え聞く「纏向」集落は、中国と交流があったと見えず、奈良盆地内で、城壁のない集落が混在していて、何とも思わなかったのだろうが、それは、「倭人伝」に書かれた「倭人」の国のかたち、さらには、中国制度の教養に反すると見えるのである。

 以上は、「倭人伝」の二千字程度の文面から、易々と読み取れる三世紀の姿である。

◯まとめ
 館長は、かねて承知の中国古代史常識への言及を避けただけと思うが、「リアル」(本物そのもの)は、演出、粉飾の婉曲な比喩としても、事の核心を述べないのは偽装に近いものではないかと懸念される。

 以上は、当記事に引用されたと見える館長発言紹介の一部を批判したものであり、当日配布されたと思われる「プレスレリース」には、これほど不用意な発言はないだろうと推察するが、一般読者は、当記事しか目にしないと思われるので、率直に苦言を呈したものである。他意はない。できれば、新聞記者の限られた史学知識だけに頼ることなく、細部まで学術的な成果を述べた「プレスレリース」 を公開頂きたいものである。

                               以上

2023年6月26日 (月)

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 1/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

▢余言のお断り 2023/06/23
 一言お断りすると、当初2ページの書評が9ページになったのは、当方の私見の展開が大半の余言であり、氏が責めを負うものではない。

◯始めに~珠玉の論義
 随分遅ればせの書評であるが、当分野では、かくも珠玉の論義が、泥沼に深く埋もれているので、ここに顕彰する。もっとも、好評連載されていた「札付き」記事に埋もれていては、端からそっぽを向かれても、無理もない。
 張明澄氏は、日本の漢字字典、辞典を読まないが、ここでは、漢字圏で最高権威とされている白川勝師の辞書「字統」で謹んで補足させていただく。
 「至」の原義は、弓で矢を射て届いたところを言う。つまり、「至」は矢が飛んで行った先であり、そこに射手が行ったわけではない。
 ▢「到」の原義は、「至」「刂」であり、「至」で得られた行き先に、(射手が)実際に至ることを言う。

*混乱した表記で理解困難な解説
 張氏は、カタカナで「到」は、「リーチ」reach、あるいは「アライブ」arriveという。ただし、英単語は、この場で補足したのであり、原記事は、カタカナ語だけであるから、原文を、一般読者が理解できるとは思えない。
 前者は、麻雀用語で知られていて、ここでは、それ以外の「どこかに行き着く」という意味だが、後者は、「アライブ」というだけでは、alive、つまり、生き生きとしたという意味の方が、むしろ知られていて、本来のarriveの意味と解すれば、「到着」、即ち、「どこかからやってくる」という意味になる。
 但し、「どこかに行きつく」と言うには、肝心の言葉が足りないので、前置詞を補って覚えるのが英語学習の常識である。「アライブ アット」arrive atで、始めて「どこかに着く」という意味になる。
 それにしても、氏の思っているように、「リーチ」、「アライブ」は、全く同じ意味ではない。ここでは、「到」には、後者が適しているように見える。
 『「至」は、「テイル」ないしは「アンテイル」』というが、これを、Tail、Untailと解しても、理解できない。むしろ、「リーチ」reachに適していると見える。

*古典的素養
 後で思いついたのだが、日本時代の台湾で張氏が受けた戦前の「国語教育」では、仮名交り文でカタカナ表記が普通で、今日の「ティル」が「テイル」と表記されていたのである。氏の書き癖かもしれない。『「至」は、「ティル」ないしは「アンティル」』とも解釈できるが、氏の玉稿はどっちだったのか。それなら、英語に戻すと、Till, Untilとなるが、それで、氏の日本語文の解釈としていいのかどうか。
 こうした瑕瑾は、本来、編集部の校正で是正されるべきが、随分取りこぼしているようである。

 このように、日本語に大変通暁した「中国人」である張明澄氏であるが、カタカナ語に無頓着な氏の構文は、表記が混乱していて誠に当てにならない。これでは、読者の混乱を深めるだけで、言わずもがなである。

 これは、同様の勘違いを諸書に散見する古田武彦氏の(失敗例の)模倣であろうか。それとも、さりげないパロディーで揶揄したのであろうか。いや、うろ覚えのカタカナ語で、ご当人は明快にしたつもりで、一向に明快にならない点では、似たもの同士である。

 所詮、場違い、時代違いの漫談であり、張氏の真意は、知るすべがない。

                               未完

 

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 2/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

*誤解の起源
 要するに、張氏は、戦前、戦中の日本時代の台北で「皇民教育」を受けたはずであり、英語は敵性、使用禁止とした「日本語教育」で育ったのであるから、カタカナ語は習ったものではなく、恐らく、成人となった後の付け焼き刃であろう。戦後の中華民国統治下では、日本語は、旧敵国語であって、むしろ排斥されていたと思えるので、氏が日本語の教養をどのように高めたかは、後世の日本人の理解を絶しているはずである。
 もちろん、氏は、伝統的な旧字旧仮名遣いで育ったのであり、引き合いに出したカタカナ語を日本語として正確に理解し、表現できているとは思えない。
 と言うものの、現代日本人も、中高生時代に、英語を基礎から習ったものの、正確に履修した保証はなく、カタカナ語を見て、原典の英単語を想定して的確に理解できるとも思えない。何しろ、現役高校生あたりでは、就職したときに実生活で必要としない「英語」は、試験に落ちない程度に流すだけだという手合いが結構多いから、そのように世に出ている書き手と張明澄氏が、ともに良い塩梅の理解しかしていない言葉を論理の中核に据えたのでは、何がどう伝わるのか到底確信できないと見るのである。

 張氏は、当記事を思いつきの随想として書いたわけではなく、編集部も、そのような冗句(ジョーク)と解していないはずだから、この下りは、何とも理解に困るのである。

 長々と余談めいたお話が続いて、さぞかし、読者諸兄姉には、退屈であったと思うが、部分的な結論としては、本論の課題は、古代中国語文の解釈であり、そこにうろ覚えのカタカナ語を持ち込むのは、根本的に筋が悪いのである。言ってしまえば、それだけである。

◯倭人伝分析:各国「条」論義 基本的に「紹熙本」に準拠。句読随時。 伊都国以降一部改善 2023/06/19~26
 と言うことで、当ブログ記事では、以下、氏の教示を、大いに参考にしつつ、原文に即した地道な解釈に努めるものである。
 と言うか、本稿は、実は、当家の道里記事論の最新集大成なのである。張氏の掲示に気づいて、書きためていた構想を形にしようとしたものである。張世澄氏が読めば、勝手に、人の発言をこね回すと言うだろうが、当方にしてみれば、氏の見解は、当方の所説の重要な要件であって、総てではないのである。無名の素人が、意見を公開する際の礎石にさせていただいたのであり、決して、尊敬の念を書いていたのではないのである。
 言い訳はさておき、ここに開通した道里論は、張氏を含め、先賢諸兄姉が一顧だにしなかった「径」(みち)を露呈した、いわば、原典回帰の意見なので、この場を借りて、批判を仰いだものである。

 この部分は、ここに置くのが適切かどうかはよくわからないが、ブログ連載記事のページ割の関係で、ここに「空き」が生じたので、急遽書き上げたものである。将来、再編成するときに、生き残るかどうか不明である。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 3/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

㈠道里記事
▢緒条(書き起こし)
 從郡至倭、…
 其北岸狗邪韓國、七千餘里。

➀對海条
 度一海、 千餘里、至對海國。
  其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。
  所居絕㠀、方可四百餘里、… 有千餘戶、… 乖船南北巿糴。
②一大条
 南渡一海、千餘里、名曰瀚海、至一大國。
  官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。
 多竹木叢林。 有三千許家。… 亦南北巿糴。
③末羅条
 渡一海、 千餘里、至末盧國。
  有四千餘戶。…

④伊都条
 東南陸行五百里、伊都國。
 官曰爾支、 副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。
  丗有王、皆統、屬女王國、郡使往來常所駐。

 /餘旁國開始/
  ・奴条
    東南至國   百里。   官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戶。
  ・不彌条
    東行不彌國  百里。   官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
  ・投馬条
    南 投馬國  水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戶。
  ・邪馬壹条
    南 邪馬壹國 女王之所。
     *[官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮]  ───┐
                                           
 /餘旁國終了/                            

▢結条(まとめ)
 都水行十日陸行一月。                                ↑ 
  官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮)     ───┘

 可七萬餘戶
 自女王國以北、其戶數道里可得略載、其餘旁國遠絕、不可得詳。 
  次有……、此女王境界所盡。
 *[自郡至女王國萬二千餘里]    ───┐
                               ↑   
㈡風俗記事
狗奴条
 其南有狗奴國。……                ↑
   (自郡至女王國萬二千餘里)  ───┘
 男子無大小皆黥面文身。...... 所有無、與儋耳朱崖同。

倭地条 (倭国総論)
 倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。......
 居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。

*お断り

 以上の区分、条題、句読、小見出し、用字の大小は、本論限りの便宜的体裁(私見)である。
 また、道里記事結条の輻輳の復元は、当ブログ筆者の私見である。
 風俗記事の「狗奴条」、「倭地条」の区分は、水野祐氏の卓見に従ったものである。
 「東アジアの古代文化」1987秋・53号 『「魏志」倭人伝をめぐって』
 言うまでもなく、版本の選択による国名の異同は、本件論義に影響しない。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 4/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23, 26

◯「張明澄」提言~末羅分岐説
 各条の書き出し「始めて」、「又」、「又」で、三度の「渡海」とわかる。
 このように、「順次行程」は、「又」で列挙する。
 一方、末羅から先の行程は、「又」が欠け、末羅での分岐行程と見る。

*コメント
 卓見であるが、氏の「解法」は、中途半端、不徹底と見える。
 張氏は、「到」、「至」蘊蓄を傾けて個々の意義を説明したが、判じ物として不得要領であり、論ずべきは凡庸な学識の持ち主に通じる真意であり、本来、「至」と「到」の使い分けは、同時代の想定読者にも通じる「明快」表現と見える。
 ということで、折角のご指導であるが、御趣旨は大いに援用させていただくものの、無批判に追従はできない。
 末羅国は、三度目の渡海の「対岸」の海津、つまり、単なる海港であり、行程の「要」(かなめ)と思えないからである。

*異論表明~伊都分岐説
 伊都以降の記事で、④伊都条は「到」であるが、以下は「至」である。
 「到」する伊都は、「丗有王、皆統、屬女王國、郡使往來常所駐」と「列国」として重んじられていて終着地と明記されたと見える。
 張氏も、「駐」は、偶々通りがかりに足を止めたとの意味ではないと明快である。要するに、遼東郡からの行人は、伊都国で、国王と面談していたという実績を示しているのである。

*「餘旁國」に「至る」
 それに対して、以下「至」の諸国は、伊都起点の「餘旁國」、脇道である。そして、掉尾の邪馬壹も、伊都からの行程・道里に欠けるが、順当な見方では、至近距離であって書くに及ばないという趣旨と見るものである。
 これら諸国は、「又」が存在せず、従って、行程が直線状に順次移動すると読むのは、「倭人伝」道里記法に外れている。つまり、伊都からの道里行程は、放射状に分岐していると理解される。
 これが、中国語に極めて造詣の深い張明澄氏の提言の眞意と見え、素人の東夷にしても、容易に納得できる明快な教えである。

*「至る」と「到る」
 漢字学の権威である白川静師の字書により、「至」は行程目的地、「到」は行程到着地であり、途上で爾後行程への出発点とされる。記事で、狗邪韓国と伊都国が「到」である。

*「邪馬壹」の姿~予告
 この「国」は、「国邑」であって古来の「邑」(ムラ)であり、「倭人伝」では、各国は山島に在って、周辺に城壁を設けて防備していないとされ、「邪馬壹」「国」も、城柵で守護しているに過ぎないと見える。推定するに、伊都の防壁の中に在って、伊都の支援を得ていたと見える。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 5/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

*「邪馬壹」行程の意義 残された課題
 伊都から南にあるとされている「邪馬壹」は「女王之所」であり、「結び目」を武断で断ち切らずに、丁寧に解きほぐすと、先行諸国と同列ではなく、道里行程記事の結語と見える。(改行した方が良い)
 と言うことで、郡太守の文書は、伊都で受領された時点で、倭王に届いたと見なされる。「郡使往來常所駐」とは、郡文書使は、伊都に文書送達した後、回答待ちで宿所待機したと見える。正始魏使なる漢使は、女王に拝謁した「蓋然性」が高いが、「邪馬壹」に参詣したかどうかは、不明である。尤も、漢使が蕃王治に参詣して蕃王と会見すること無しに交流した例は、班固「漢書」西域伝安息条に見え、不法ではない。

◯「張明澄」提言の意義~泥の中の真珠
*里程記事新たな一解~エレガントな解釈の提案
 以上、筋を通すと、道里行程記事は、最終的に「南至邪馬壹國女王之所」で完結し、全行程の集約として、要件が示され簡明至極、首尾一貫と見える。
 [道里] 都[都合]水行十日、陸行一月
 [官名] 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮
 [戸数] 可七萬餘戶
 その後、狗奴国記事に衍入して付け足している。
 [道里] 自郡至女王國萬二千餘里

*部分修正 2023/01/15
 当ブログ著者は、道里行程記事は、郡を発し倭に至る公式街道の明示であり、魏明帝が魏使を派遣する際に参照されたものと見ているので、世上の意見と大きく異なっていることを、再度確認する。
 その際、郡を発した文書使の目的地は、「倭人」の代表者である伊都国であり、道里行程は伊都で完結するとみている。

*行程の最終到着地再考~2023/06/21
 以前の解釈では、「邪馬壹国」が最終到達地と見たため、伊都国との間の道里・所要日数が欠落したと見えたが、修正後は、伊都国が最終目的地なので省略可能と見える。副次的な影響として、邪馬壹国の所在は広範囲に置けるので、 比定地諸説に対する排他的な判断は発生しないと言える。
 修正解釈では、郡から倭・伊都まで一路南下する行程が、明快である。続く、奴、不弥、投馬、邪馬壹を、揃って「餘旁國」に追いやってしまうのが、諸兄姉には、受入れがたいと思うが、本記事は、解釈の根拠を述べているので、ゴミ箱行きは、もう少し、ご辛抱頂きたいものである。
 文献考証の見地から、「都水行十日、陸行一月」は、郡を発し伊都に到る所要日数であるから、「都」の直前に改行を追加すべきである。

*「直線的解釈」に「とどめ」
 熟読すると、今回取り上げた張氏提言は、誠に明快、整然としていて、先行諸説の中で、実は、榎一雄師の「放射行程」説と軌を一にしていて、私見では、明解、堅固な論説と呼ぶに、あと一歩迄届いている。
 本稿では、当記事で直線的な解釈に「とどめ」が刺されているとみるが、これに賛同するかどうかは読者諸兄姉次第であり、拙稿は論点提示に留める。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 6/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

*隠れた本懐/本解
 兎角、季刊「邪馬台国」誌「好評連載」「一中国人の見た邪馬台国論争」記事における張氏提言を、当ブログにおいて、しばしば非難したが、時に氏の韜晦の陰に、透徹した明解な解が披瀝されているのに気づいたものである。
 そして、しばしば、支持者に忖度してか、当提言は、突如大きく撓むため、近来に至るも、遂に理解されていないと見えるので、謹んで素人が蒸し返す。

*「余傍」の深意
 本「張明澄」提言を意義あるものとみると、「畿内説」の成立の余地がなくなるので、当記事は、埋め戻し、黙殺の憂き目を見ていると懸念される。

*さらなる補足 2023/06/07
 再読して、説明不足に気づいて再度補足する。随分の分量であるが、当ブログで再掲が大半というものの諸兄姉に探させるのも何なので復習した。

◯倭人伝道里記事の新解 2023/06/07
*里数概数の確認~イロハのイ
 念を押すと、本記事では、以下、里数の自明の「餘」を省略しているが、それは、概して、二千里刻みの切りの良い、千里、三千里、五千里、七千里、万里、万二千里と飛び飛びの数値を示しているのであって、その際に、切り捨て操作はしていない。つまり、見たとおりの漢数字で加減算して良いのである。もちろん、多桁算用数字で書くと、どこまで意味があるのか不明になるから、漢数字論義がイロハのイである。

*「郡」と「倭」の由来
 記事は、「従郡至倭」で書き出されているが、記事原文が書かれたのは、「倭人」が、半島以南の東夷を「都督」していた遼東太守公孫氏の治世『後漢中平六年(189)霊帝没年以降』の「初見」時点と見える。(雒陽の大混乱に乗じて、自称したようである)
 帯方郡の創設は、建安九年(204年)なので、漢代以来の歴史を持つ楽浪郡から報告を受けて、いわば、画期的な判断をしたとも見える。
 よって、「倭に至る」道里の起点は、本来、遼東郡であったと解するのが合理的と思える。
 後世人は、帯方郡成立後、それも、魏使訪倭紀行記事の視点に囚われて、「従郡至倭」行程を、「帯方郡」から「邪馬壹国」と決め込んでいるが、丁寧に時代考証するとそうとは言いきれないのである。
 例えば、「倭在帯方東南」と言い切るには、帯方郡の後方(西北)に、天子としての視点を確立している必要がある。

*時代考証の第一歩
 「倭人伝」を丁寧に読むと、「初見」は後漢霊帝末期、女王共立以前である。当たり前ことで提起されなかったが、「王」は男王であり、後年「女王居所」とした「邪馬壹国」は、当然、存在しなかったと見える。それが、「従郡至倭」の起源である。これも、当然至極なので、書かれることはないが、史官は、「史実」、つまり、公文書史料遵守で、史料改竄/捏造/書き換え/上書きなどあり得ない。
 従って、「従郡至倭」の正確な解釈には、「倭人伝」に対する丁寧な時代考証が必要である。それには中国古代史書の素養が前提であることは言うまでもない。いや、「三国志」の(国内)最高権威と称揚されるほど素養があっても、基本的な理解力/知性が欠落していると、『「史官」は、史実の継承を本分としていない』などと、とんでもない暴言を吐くから、困ったものである。

*張氏の時代観の限界~唐代/中世
 張世澄氏の中国古典書の理解は、どうも、中国の中世、唐代漢詩の解釈が限界のようである。そこに絞り込んでいる限り、比較的多数の読者を期待できるのであり、豊富な見識で名声を博したのに違いないが、秦漢代史書の解釈は、手に余っているのでは無いかと思われる。「魏志倭人伝」解釈は、圏外の三世紀史料とは言え、字数が限られるので、余技として、威勢良く秘剣を振るったと見える。
 読者諸兄姉は、その限界を踏まえて、氏の庖丁の技を賞味すべきである。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 7/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 23/06/07, 12, 19, 21, 23~26

➀最初の区間~郡管内韓国を歴る官道行程
 まずは、倭人伝に収録された「郡から倭に至る」「従郡至倭」行程の最初の区間は、「郡」を発して、一路半島中央部を南下し、韓国領域を通過し、街道関所を通過して郡の最南端である狗邪韓国に至ったと見るのが至当である。
 当然、この行程は、街道、つまり、乗馬往来の官道で、途上、関所兼宿場兼郵局があり、蹄鉄交換なり、替え馬などにより、秦漢代以来の街道制度が実施されていて、安定した行程が確保されていたと見るべきである。「郵局」というのは、中原においては官営の「飛脚」であり、恐らく、韓地では、各宿場の責任者が、係員を駆使して送り継いだと見るものである。もちろん、郡太守の親書は、郡の「飛脚」が、走り継いだと思われるが、それぞれ、別に特筆するような内容ではないから、道里記事には書かれていないのである。
 後漢献帝建安年間に、穢、韓、倭を統轄する帯方郡が成立したが、遼東郡の下部組織であった。そして、狗邪韓国街道は、維持されたのである。
 因みに、「韓国」を歴るとは、馬韓、秦漢、弁辰の三韓を歴訪するのは明らかであるから、郡を発した街道は、それぞれの韓国の王治に届いていたことは明らかである。そもそも、「倭人」が、帯方郡に参詣するには、三韓の承認が必要であり、郡の発行した「過所」(通行許可証)がなければ、各国の街道関所で阻止されるのである。

*「万二千里」の起源
 行程記事の末尾で、行程公式道里は「万二千里」とあるが、以上、これは、「遼東郡から倭に至る」道里である。帯方郡移管後、「帯方郡から倭に至る」道里となるから、後世人の感覚では、随時里数を訂正すべきと思われだろうが、倭に至る「公式道里」は、皇帝承認後は一切変更できず、「万二千里」だったのである。
 と言うことで、「万二千里」は、「初見」時点において、遼東太守公孫氏が「公式道里」として設定したもので、後世、陳寿の「倭人伝」編纂時、、皇帝承認の不可侵史料が不合理と見えても、是正不可能だった。
 西晋瓦解に伴い雒陽に継承されていた史官組織が崩壊したこともあり、このような史官職業倫理は、史官でない笵曄には継承されなかったと見える。継承されなかったのは、雒陽公文書だけではなかったのである。

*郡/狗邪韓国~倭人伝道里の定義
 「従郡」は、郡太守治所(郡治)の位置を言う。道里は、まずは、郡の南端、狗邪韓国の渡海海港までを示し、ここまで七千里の道里原器(物差)が定義されている。一千里単位と言いたいが、千、三千、五千、七千、万、万二千と飛び飛び概数であり、有効数字1/2桁の大変大まかな世界である。

*「馬韓」評判記
 晋書「張華傳」には、西晋太康年間(280-289)都督幽州諸軍事治世の記事に治所から「馬韓」迄四千里とされている。目的地「馬韓」は、馬韓伯済国と推定され、千里単位の道里である。幽州雒陽道里は明確でも馬韓行程は不明である。三世紀末は楽浪郡経由の雒陽道里が至当であるが、当記事は道里の記事でなく、遠隔地を張華が適切に管理したという評判記である。
 笵曄「後漢書」「郡国志」の各郡道里は「公式道里」である。 西晋 司馬彪( - 306 )「続漢書]「郡国志」には、後漢雒陽公文書から各郡地理情報が集成され、劉宋 笵曄(-445)「後漢書」の「志部」として併合されたから、笵曄の美文修飾は介入していない。
 遼東郡: 雒陽東北三千六百里。 玄菟郡: 雒陽東北四千里。 樂浪郡: 雒陽東北五千里。 幽州涿郡:雒陽東北千八百里。
 晋書「地理志」は、幽州を歴史回顧し、建興四年(316)西晋滅亡時に、北方異民族の支配下に入った旨略載し、公式道里は収録していない。
 要するに、晋書「張華傳」記事にも拘わらず、三韓公式道里は不明である。馬韓を代表する権威の治所への実務道里が知られていただけである。
 但し、幽州都督の三韓支配は、両郡からの撤退で喪われたと見える。

②次なる区間~「渡海」道里の起源
 「渡海」道里「千里」は、並行街道が無い以上「形式上の道里」であって、海岸から州島に移動し次の州島に乗り継ぐ以上、実質的意義は無い。

*予告する「水行」定義/伏線回収
 「渡海」道里は、正史記事に前例がないので、不意打ちで困惑させないよう冒頭定義文で、『「倭人伝」『並行街道無き渡海』を「水行」』と明記した。
                                未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 8/9

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③最後の区間
 この区間は、正始初頭(240~241)の魏使発進以降の現地情報によっている。

 現地情報とは言え、末羅~伊都間の行程道里は、「公式道里万二千里」の剰余としても辻褄が合わないので本来は明示されなかったと見える。何しろ、「万二千里」は概念で、二千里刻みの規定値に過ぎず、行程道里の積算ではないので、「余里」概数の辻褄が合わないのは、既に広く認められている。

 結局、末羅~伊都間五百里の素性は不明である。別の部分で、「女王国以北」即ち、狗邪韓国以南女王国までの行程諸国は「周旋(往来)五千里」と書かれているが、これを信ずるなら、狗邪韓国から女王国まで五千里となる。
 但し、概数計算で、この五千里から三度の渡海の三千里を引くと、表面的に、末羅国から女王国まで二千里となるが、概念である万二千里から、いずれも概念である郡管内七千里と渡海行程の三千里を引いた残る「二千里」を、倭人界の「街道制度が整っていない禽鹿径」に当てはめても意義は無い。

 街道は、乗馬文書使や荷車が往来するように整備されるのが前提であるが、「倭人」界は「牛馬」が公用に供されてないので、人が担って運ぶから、運用が異なり、所要日数は不明となり、公式道里は当てにならないのである。

 陳寿は、「倭人伝」道里が、中原制度と整合しないのを表立って主張できないので、史官の責任で所要日数を明記したものである。この編纂方針は、当時の読者の受け入れるところとなったので「倭人伝」記事は健在なのである。

*道里行程記事の意義
 「従郡至倭」の記事で要求されるのは、郡から倭への送達文書が、何日で倭の統治者に届くかという「所要日数」であり、行程里数では無い。「倭人伝」では、全所要日数を「都水行十日陸行一月」、計四十日と十日と明記している。
 正史記法で「水行」は並行街道がなければ、道里に実質的な意味が無い。「陸行」は、乗馬の文書使が、疾駆急行すれば短縮可能であるが、「水行」は、船上を騎馬で疾駆しても無意味なので、短縮不能であるから、別格である。
 中原でも、文書送達日数は実務であり、「地理志」、「郡国志」、「州郡志」などに収録の「公式道里」とは厳密に関係しない。一例として、漢代初期に武帝が設定した楽浪郡は、西晋代まで存続したが、郡治は移動を重ねていたと見える一方、公式道里は変動しなかったのである。

*追記~2023/06/12
 まだ誤解が解けていないようで、念押しするものである。つまり、「倭人伝」道里記事は、遼東太守公孫氏が、帝国の辺境都督として、新参の「倭人」の身上書を作成した際の認識が示され、伊都道程しか確認できていなかった。

 まずは、「倭人」が、「大海」、つまり、韓の向こうの塩水湖の「山島」に在るとしていて、しかも、その「山島」は、離散していて街道が通じていないと明記している。「離散した山島」は、末羅から伊都は、繋がっているように見え、それ以降「陸行」するとしているが、伊都から諸国へは、投馬国が「渡海」を含む二十日「水行」と示唆されている。

 復習すると、その時点で、帯方郡官人が実際に到着していた「伊都国」から先は推測である。つまり、「その時点」では、女王之処である「邪馬壹国」は、確認されていなかったと見える。「その時点」が、女王共立以前なら「邪馬壹国」はまだ無かったかも知れない。

 原史料を離れた思案ゲームに耽って持論を形成されてきた諸兄姉には、中々認めがたいだろうが、まだ、間に合ううちに再考いただきたいものである。

                               未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 9/9

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 2023/06/07, 12, 19, 21, 23~26

*「倭人伝」起源考
~2023/06/20
 「その時点」は、公孫氏が遼東郡太守となった後漢霊帝崩御時点『後漢中平六年(189)』と見える。帯方郡創設は、建安九年(204)である。
 当ブログ筆者の私見によれば、卑弥呼が女王に共立されたのは、今日で言う十二歳程度の若年であり、景初遣使の時点で、せいぜい、「年己長大」、つまり「成人したばかり」の二十歳程度と解釈するなら、「その時点」は、女王共立の以前であって、当然、「女王国」は存在せず、従って、(当然)「邪馬壹国」も存在しなかったことになる、可能性が濃厚と言っておく。
 公孫氏の「倭人伝」初稿が、魏明帝に伝わったのは景初年間として、それ以前に、早合点の報告が届いて皇帝が承認していたとすると、仮に、道里、戸数などに誤解があったとしても、不敬に亘る行程記事修正でなく、補足や書き足しになるので、余儀なく許容されたと見える。いや、総て臆測である。
 ともあれ、行程外の奴、不弥、投馬へは行程を辿ったわけではない。この点は、後に、「女王国」の所在が確認できた後に、「女王国」以北の行程諸国とそれ以外の「餘旁國」を峻別した原因になっていると思える。

*邪馬壹国の姿~私見
 さらに付け加えると、「邪馬壹国」は、「国」と書かれても、太古(殷/西周代)の「國邑」(ムラ)の規模であって、小規模聚落に過ぎず、しかも、「倭人」「國邑」は、城壁を有しないで城柵で囲われたに過ぎず、随時、新設/移動できたから、卑弥呼の時代以外、どこにあったのか不明である。特に、女王共立以前は、存在したかどうか不明である。本稿では、極力「国」の幻想を払拭するために、「伊都」などと呼び捨てにしていたが、中々、染みついた「国」意識は拭えないようである。

 当ブログ筆者の推定では、「邪馬壹国」は、卑弥呼が仕えていた「氏神総社」、「一の宮」であり、小高い丘の上に鎮座していたと見ている。例えば、須玖岡本遺跡を見おろす「熊野神社」のような位置付けと見ている。
 氏神は、「倭人」全般に共通の権威を持ち、氏族の当主の季女(末娘)が、生涯不婚の巫女として、氏神に仕え託宣をあおいでいたと見るのである。太古以来の漢字史料を精読された白川 勝師の著書によれば、こうした巫女の習わしは、太古東夷とされた齊や魯で広く行われていたと言うから、そうした東夷の勢力の及んだと見える、「倭人」に及んでいたと見え、陳寿も、そのような「巫女」が、諸氏の諍いを裁く役所(やくどころ)から、女王に共立されたと見えるのである。誠に筋の通った考察であり、女王に政治的な権力を与えようとする「通説」に異論を唱えるものである。
 もちろん、これは、個人的所感であって、読者諸兄姉に押しつけるものではないから、別に、ことさら批判いただきなくても結構である。

 因みに、「倭人伝」道里行程は、景初年間に回復した帯方郡からの報告をもとに、明帝曹叡が魏使派遣を承認した前提であり、皇帝の承認を得て公文書となって後日修正できなかったのは、これまで説明したとおりである。
 とかく、悪しき風評が醸し出されているが、漢書を編纂した班固以来、史官は「史実」、つまり、公文書史料を集成するのが崇高な使命であり、創作や文書改竄は断固排していたのである。いや、そのような倫理綱領は、西晋瓦解の際に毀損されたと見えるので、その後、南方に流亡した東晋、劉宋以降の南朝史官が、どの程度承継していたか、不確かである。まして、後漢書を集大成した笵曄は、史官ではないので、その心情は、明らかに、陳寿の心情と大きく異なるのである。

◯まとめ
 張明澄氏が、「倭人伝」道里行程記事に対する先賢諸兄姉の勝手読みによって掻き立てられた「泥沼」に合理的な光明を与えた点は敬意を表するが、結局、倭人伝に書かれている真意を解読するのが至上の課題であり、その点で張氏と袂を分かつとしても、それは仕方ないところである。

 当書評は、とかく見失われている張明澄氏の慧眼を顕彰するものであり、氏の誤謬を誹るものではないのである。

                                以上

2023年6月12日 (月)

新・私の本棚 石井 幸隆 季刊「邪馬台国」143号「古代の海路を行く」

「離島の考古学-日本の古層を探る旅」季刊「邪馬台国」143号 令和五(2023)年六月一日
私の見立て★★★★☆ 好記事 瑕瑾多々  2023/06/12~16

◯始めに
 待望の新刊であるが、昨年の142号発刊より2カ月程度先行していることもあって、また、「邪馬台国の会」サイトに、本日現在、なにも告知がないのもあって、一週間以上、刊行を見逃してしまった。と言う事もあって、ここでは、新刊告知をかねている。

*瑕瑾
 大小取り混ぜて、氏の玉稿に散在する瑕瑾を取り上げさせていただく。
*無法な「海路」
 いきなりタイトルで躓いているが、氏は、国内古代史の研究者であって、中国資料には疎(うと)いと見えるので用語が的外れでも仕方ないのだろうか。少なくとも、中国古代史書に「海路」はあり得ず、氏の圏外での無学を吐露していると言われそうである。
*史料談義
 本文冒頭の『「古事記」の原本は存在(現存の意味か)しない』とは、古代史分野に蔓延(はびこ)る一部野次馬論者の無責任な放言に似ていて、定例では、この後に「原本を読んだものも現存しない」と続くが、幸い、氏は、そのような放言の泥沼を辛うじて避けているつもりのようであろう。
 通常は、史料批判の劈頭では、現存最古の写本論義や数種の写本間の比較を語るはず(語らなければならない)であるが、氏は、いきなり正体不明の「写本」とだれが物したか分からない現代語訳を持ち出して、これに基づいて、氏の持論を開示していくのである。これでは、読者には、資料の確認ができない。
 氏は、「写本」の現物を確認してなのか、いずれかの解説書に依存しているのかも、語っていない。何とも困ったものである。
 これは、史学論文の基本の基本であるので、編集部が何の校閲もしていないのが心配である。
 以上は、恐らく、氏の追随した「お手本」がお粗末なのだろうが、お手本を真似をするかしないかは、氏の見識の問題と思うので、ここに指摘する。

 なお、氏は「古事記」に拘泥しているが、倭女王が魏に遣使したのは、日本書紀「神功紀」補注に記載されているので、一言触れるべきと思われる。

*「九州」談義

 「九州」は、中国古典書で言う天下全体に由来しているとの説が有力であるから、これも、一言触れるべきと思われる。

*船越幻想~いやしがたい迷妄
 本稿で重大なのは、「船越幻想」の蔓延である。氏は、何気なく、船を担(にな)って、つまり、人力で担(かつ)いで陸越えしたと言うが、そんなことができるものでないのは明らかである。反論があるなら、現地で実験/実証して頂きたいものである。但し、寄って集(たか)って、一回実行できたから、当時実施されていたと実証できたなどと、こじつけずに、そのような難業・苦行が、長年に亘り、地域の稼業として持続できるかどうかということである。せめて、丸太を転がした上を、大勢で曳いて滑らせたというものではないか。

 そもそもも、手漕ぎで渡海すると言っても、対馬界隈は、強靱な、つまり、骨太でずっしり重い船体でないと運行できないので、「船」と言っても、総重量の大半は、船体の自重(じじゅう)なのである。水分をたっぷり吸った船を、寄って集(たか)って担(かつ)いで陸(おか)越えしたとは、三世紀の古代社会に対して何か幻想を抱いているものと見えるが、だれも、覚ましてくれないようなので、ここに謹んで、幻想と申し上げる。いや、この地以外でも、荷船を担いで陸(おか)越えしたという幻想は、揃って早く「殿堂」入り、退場頂きたいものである。

*持続可能な事業形態
 当時、陸の向こうにも荷船と漕ぎ手は十分にあったから、陸を越えて運ぶのは、荷下ろしして小分けした積み荷だけで良いのである。
 小分けした積み荷なら、寄って集って、運べば良いのであり、担おうが、背負おうが、勝手にすれば良いのである。もともと、手漕ぎ船の積み荷は限られるので、人海戦術と言っても、知れているのである。と言うことで、向こう側で、船を仕立て出港すれば、船体が痛むこともなく、また、住民を酷使することもなく、持続可能である。いや、漕ぎ手すら、ここから、知り尽くした経路の帰り船を運航するのが常道であり、あえて陸を越えるのは、大変、大変非効率的である。
 このあたり、氏は、具体的な現地地形図まで付けて、対馬浅茅湾界隈の「船越」を語っているが、行程の「高低」は語っていないので、当世流行りの架空視点になっているのではないかと危惧される。この際に要求される労力は、どの程度の高みを越えるかで決定するのである。
 ここは、倭人伝で、『街道でなくまるで「禽鹿径」(みち)である』と言われるように、手狭で、上り下りのきつい連絡径(みち)、つまり、ぬけみち同然の未整備状態なので、荷馬も台車も使えず、大勢で担ぎ渡りしたと見えるのである。
 氏が、この区間を、大勢で船体ごと担いで渡ったという理由が、一段と不明である。何か、大量の物証が有るのであろうか。

*「ロマンティック」、「ロマンス」の(良くある)誤解~余談談義
 氏は、欧州系の話題に疎(うと)いらしく、ローマ談義の余談に「ロマンティック」、「ロマンス」の誤解が飛び出して、困惑する。どちらも、欧州の中世騎士道談義について回るのであり、男女の恋愛には全く関係無いのである。よく調べて頂きたいものである。
 因みに、19世紀オーストリアのクラシック音楽の大家であるアントン・ブルックナーには、”Romantishe”(ドイツ語)の「愛称」が付いた大作交響曲があるが、日本で、なぜか英訳を介して「ロマンティック」と通称されたため、随分誤解されているようである。あるいは、ドイツには、「ロマンティック」街道(Romantische Straße)と親しまれている観光名所があるが、これも、中世を思わせる街道という趣旨であり、通称のために随分誤解されているようである。氏も、こうした誤解に染まっているようであるが、ここに言及するには、ちゃんと語源を検証して欲しかったものである。誤解の蔓延に手を貸しては、氏の名声が廃(すた)るというものである。
 因みに、氏ほど。世上の信頼を集めている論者であれば、責任上、「Romantic」は、ローマ帝国と無関係とする有力な意見があることも、考慮すべきである。
 「専門分野」を離れるとその「離れた距離の自乗に比例して誤解の可能性が高まる」ものである。ご自愛いただきたい。

*AIIDA談義~余談談義
 後出の「アイーダ」談義も的外れである。
 提起されたAiidaは、イタリア19世紀の大作曲家ジュゼッペ・ヴェルディが古代エジプトを舞台に描いたオペラのタイトルロール(題名役)であり、実は、敵国エチオピアの王女が、正体を隠して虜になっていたのだが、最後は自害する薄幸の人なのである。
 悲劇の主人公にあやかったのでは、あまり元気が出ないと思うのだが、Aiidaをアルファベットで書くと、船名列記のトップに来るので命名されたようである。現に、大抵の百科事典で、Aiida/アイーダは、冒頭に出て来るので、氏も、ちょっと目をやれば、オペラ歌手/プリマドンナのことでないことはわかったはずである。
 それにしても、ここは、氏の博識をひけらかす場所ではないのである。

*離島談義~「要路」の島嶼国家と離島
 さらに言うなら、厳しく言うと、壱岐、対馬は「離島」などではなく、「倭人伝」によれば、両島は、大海に連なる州島、流れに浮かぶ「中の島」であり、朝鮮半島に当然のごとく繋がっていた交通の「要路」だったと思われる。見方によっては、一時期、「一大国」は、地域の中心であり、それこそ「従横」に巡らされた影響力を持っていたとも見えるのである。但し、「倭人伝」は、郡から倭への行程」に専念していたので、「従横」と言っても、「横」は一切描かれていないのである。
 ついでに言うと、「倭人伝」の視点で言うと、伊都国の属する山島以外は、行程を外れた「辺境」、「離島」とされているので、「本州」も「四国」も、離島ということになるのである。万事、奴の時代のどの地域の視点を採用するかで、異なってくるのではないかと思われる。
 掲載誌から注文を付けられたにしろ、そのように明言された方が良かったと思うのである。
 因みに、壱岐、対馬が、最終的に福岡県を離れたのは、両島は、他に「離島」のない福岡県に重荷になるので、五島などの島嶼が多い長崎県に任せたと見えるのであるが、どうだろうか。氏ほどの見識であれば、そのような見解を耳にしたことは有るはずであるから、そうした視点から見た両島の行政区分について、一言あってしかるべきだろう。

*稼ぎ頭の保身策
 因みに、交易路での収益は、「国境」、つまり、倭・韓の境界での取り引きから生じるのであり、言うならば、対馬は、三世紀において、稼ぎ頭(がしら)だったはずである。倭の諸公は、対馬に心付けをはずんでも、競い合って売り込んだはずであり、そのためには、米俵を送り届けることも、それこそ、日常茶飯事あったはずである。もちろん、そんなことを、帯方郡に知られると、何が起きるか分からないので、「倭人伝」にあるような「食うに困ってます」との「泣き」を入れていると見えるのである。そうでなくても、豊富な海産物の乾物類を売りさばくことも多かったはずである。 

*まとめ
 というように、つまらない瑕瑾がゴロゴロ転がっていて、しかも、肝心の「船越」談義が、一種与太話になっているのは、まことに勿体ないことである。
 氏は、既に、社会的な地位を極めて久しいので、ここに書いたような不快な直言を耳にしていなかったのだろうが、それは、氏に対して失礼と思うので、率直な苦言を呈するものである。

以上

新・私の本棚 青松 光晴 「日本古代史の謎~神話の世界から邪馬台国へ」補 1/2

 図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎. Kindle 版
私の見立て ★★★☆☆ 凡庸 アマゾンKINDLE電子ブック   2020/05/17  補足 2022/04/22 2023/06/12

〇はじめに
 今ひとつの古代史KINDLE本ですが、出版社の編集を経ていないブログ記事集成とあって、散漫な構成が目立ちます。

*路線の謬り
 本書は、国内史書を正当化するために、倭人伝を自陣に引き寄せる展開で、こじつけが入り、歯切れが悪く、言い訳も度々出て来ます。素人目にも、長老層の好む時代錯誤表現が目に付くので、言わずもがなの警告を流したのです。
 本書のタイトルは、著者の固執を示しているので、そうした「偏見」を掻き立てられたのかも知れません。「邪馬台国」は、笵曄「後漢書」(だけ)に登場する国名ですが、後漢書も、関係する三国志「魏志」も、同国にまつわる「神話」は、一切記録していません。つながりの無い概念を繋いでいるのは、氏の紡ぎ出すロマンであり、それは、「史学」とは、本来無縁の筈です。
 倭人伝」物語は、真っ直ぐに語りたいものです。いや、叶わぬ願望なのですが。

*古田説追従の過誤
 氏も自認しているように、古田氏論説の追従が多いのですが、むしろ、古田氏の軽率さを安易に流用して痛々しいのです。
 その原因の一つは、氏の語彙の中途半端さです。たとえ古田氏の著書から「奇想天外」の感をえたと言っても、そのような語感は歴史的に不確定で戸惑います。この際、肯定的に捉えるとして、地上のものとは思えない破天荒な新発想と見ても、揶揄に近い語感も考えられます。

 続いて、「理工系の感性」ではついていけないと評しているのは、「出任せで感情的」との酷評でもないでしょうが、熟した言葉で応用するのでなく、初心者の未熟な言葉のまま述べて、その解釈を読者に委ねるのはもったいない話です。ことによると「理工系」きっての英才と自任する著者』の自嘲なのかも知れません。とにかく、日本語の語義解釈が甘くては、中国語解釈どころではありません。
 と言う事で、氏の理解が不出来なのに、わざわざ図示しても、何の意味もないと思います。ご自分で合理的な解釈ができていない、文章題の読み解きができない状態で、ご自身の理解/無理解を「わかりやすく」図解するなど、児戯にも画餅にもならないのです。このあたり、一度、本気で考え直す必要があるように見えます。

〇道里記事の目的
 道里記事が、郡治からの道里と日程を、魏使派遣に先立って報告する理由ですが、要は、帝国統治の根幹である文書通信の所要日数および物資の送付日程を規定するためのものです。文書行政の国家構成では、定期報告の到着は日程厳守ですし、緊急交信は、最速かつ確実でなければなりません。
 「帝国中核部の混乱に乗じて各地諸侯が自立して二世紀を経た大帝国が一気に解体した」後漢の国家崩壊を体験した「魏武」曹操は、傘下の諸将、諸侯に、通信日数の制度化と厳守を命じたのです。「厳守」は、厳罰、つまり、馘首に繋がるものです。「馘首」は、単なる、降格、更迭にとどまらず、時として、というか、しばしば、文字通り断首されるので、命がけなのです。
 従って、新規服属の東夷は、何よりも、最寄りの帝国拠点帯方郡からの連絡日数を申告しなければならないのです。帝国の代理人たる公孫氏は、倭人領分のような、極めつきの辺境では、道里の測量が不確実な上に、騎馬文書使が、行程を確実に駆け抜けられる街道が整備されているかどうか、はっきりしないので、文書交信に要する日数を申告させたのです。この点、倭人伝は、倭人は牛馬を採用していないと明記して、道里から所要日数を求めることができないのを明記しているのです。
 言うまでもないと思うのですが、そのような重大な全体所要日数を明記しない理由は、思い当たらないのです。
 「都」(すべて)と明記した上で総日数を開示した「都水行十日、陸行一月」の句は、そのように受け取るべきです。因みに、正史道里行程記事で定則である「都四十日」と書かなかったのは、三度の渡海に並行する街道がなかったので、「陸行」の日数が書けなかったことを明示しているのです。冒頭で、海岸から向こう岸に渡るのを「水行」という、と明記しているから、読者は納得するのです。
 ついでに言うと、郡から狗邪韓国まで、沖合を船で行く行程が常用されていたと、がむしゃらにこじつけるとしても、所詮、並行する街道の行程を要求されるので、結局、陸地を行く街道の所要日数を書くしか無いのです。これで、諦めが付いたでしょうか。
 それとも、陳寿は、読者に解けるはずのない謎かけをしたのでしょうか。そのような稿本を上程したら、皇帝を愚弄した罪で、一発解任、死罪でしょう。

*帆船論~未熟な知識と論義
 氏は、帆船の可能性について述べています。太古以来、中国東部沿岸に帆船が普及していたのは間違いありません。漕ぎ船だけの交易では、移動できる質量の限界があり、宝貝、珊瑚、玉や貴石などの軽量の貴重品が大半となります。
 また、陳寿「三国志」に登場する千人規模の兵船は、帆船以外あり得ません。
 時代背景を丁寧に調べずに、風評や憶測で語るのは、史書筆者として半人前です。

 韓や倭で帆船を言わないのは、一つには、半島西岸から九州北岸に至る経路の急流や岩礁での操船が、帆船では行き届かず難船必至だからです。
 外洋帆船は、甲板、船室が伴い、大型化しますから、「鋼鉄製」造船器具が普及していなかったと思われる、当時の韓、倭で造船できなかったと思われます。
 また、丈夫な帆布、帆綱が無ければ、帆が張れません。更に言うなら、小型手漕ぎ船で往来できるような多島海も、数世紀後まで、操船の不自由な大型の帆船は、危険で立ち入れなかったと見えます。帆布、帆綱を含め、破損時の修復ができなければ、難船したその場で死を待つしかありませんから、航行は困難であったのです。(つまり、不可能という意味です。誤解しないように)

 その程度の学習は、先賢諸氏がよほど怠慢でない限り、この一世紀の間に検討済みではありませんか。

                                未完

新・私の本棚 青松 光晴 「日本古代史の謎~神話の世界から邪馬台国へ」補 2/2

 図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎. Kindle 版
私の見立て ★★★☆☆ 凡庸 アマゾンKINDLE電子ブック   2020/05/17  補足 2022/04/22 2023/06/12

*渡海派兵の愚
 そういうことで、この時代の「インフラストラクチャー」(古代ローマ起源の概念であり、時代錯誤ではない)の不備、つまり、渡海輸送の隘路を知れば、古田氏紛いの「渡海派兵」発言はないのです。
 よって、帯方郡は、倭人救援は勿論、徴兵も考えてなかったし、大量の米の貢納も意図していなかったのです。

*古代算術の叡知
 最近話題になる古代の算術教科書「九章算術」では、管内に複数の供給拠点がある時は、「輸送距離が短く人馬を多く要しない」拠点から多くを求め、「遠隔で人馬を多く要する」拠点からは、極力求めないようにする算法問題と解法が示されています。
 徴兵問題も同様です。援軍募兵は大量の軍糧が必要なのに加えて、海峡越えの大軍移動は相当な期間を要する上に、移動中の食糧が往復二倍必要です。まして、倭人には、軍馬がないので、渡海徴兵は論外も良いところです。そもそも、言葉が通じなくては、戦場でものの役に立たないのです。
 知らないことは手を尽くして調べるべきです。余談に近い感想に無批判に追従されると、古田氏も浅慮を拡大投影されて不本意でしょう。先賢の論法は無批判に踏襲せず、掘り下げるべきです。

 古田流半島内行程図は、子供の落書きのような階段状行程ですが、古田氏ほどの取材力があれば、関係史料と現地地形とに照らして、合理的に具体化できたはずです。この点で、古田氏を批判することはできても、だからといって、世の不合理な海上移動説を支持するのは、不合理です。

*登頂断念の弁
 当ブログ筆者の得意とする道里行程論で意欲を蕩尽しましたが、倭人伝」ほど誠実に調整された文書を、真っ直ぐに解釈できないようでは、混沌と言いたくなるような国内史料の解釈、考証など、満足に行くはずがないのです。氏は、世上の野次馬論者と同様で、相当の勉強不足と見えます。
 本書を埋めていると見える広範な議論も、希薄な受け売りで埋められて見えます。はったり半分でも良いから、自分自身で丁寧に検証した、きっぱりした主張が必要です。
 いや、本書のあるいは中核かも知れない国内史料、考古学所見、現地地理などは、当記事筆者の倭人伝専攻宣言の圏外と敬遠した次第です。

*業界の現状 余談
 本書著者にご迷惑でしょうが、本書の評価が順当になされないのには、理由があるのです。世の中は、国内史料解釈で「目が点」の諸氏が、「倭人伝」二千字の解釈に失敗して、史料が間違っている、「フェイク」だと声を上げているのです。
 また、読者自身の持つ所在地論に反するものは、はなから間違っているという横着な判断が横行して、そうした不動の信念に従わない「倭人伝」は、「フェイク」視されているのです。いや、釈迦に説法でしょうか。

 普遍/不変の法則として、どんな分野でも、新説、新作の九十九㌫は「ジャンク」ですが、全体として実直な著作が、目立ちたがりで、トンデモ主張展開の「ジャンク」記事、「ジャンク」本の紙屑の山に埋もれてしまうのは、もったいない話です。

*まとめ
 折角の新刊ですが、「基本資料である倭人伝と従来の解釈を把握し、課題となっている諸事項を取り出し、それぞれに解を与える」と言う大事で、不可欠な手順が見て取れないので、既存諸説の追従としか見えないように見えてしまいます。
 また、著者が整然と理解してなければ、図示に意味がないと理解いただきたいのです。もっとも、著者の構想を図示した図がほとんど見当たりません。
 (概念)図は、読者の知識、学識次第で解釈が大きく異なるので、学術的主張に於いて論拠とすべきではないのです。図や意味不明な「イメージ」は、あくまで文書化された論理の図示という補助手段に止めるべきです。古代史分野では、読者の誤解を誘う、いい加減な図(イリュージョン)が多いので、そのように釘を刺しておきます。

追記 基礎の基礎なので、本書が依拠した無法な巷説を明記します。
 三国志の「蜀志七、裴松之注所引「張勃呉録」」に、「鴑牛(どぎゅう、*人のあだな)一日三百里を行く」とあり、三国志の時代の標準的な陸行速度は、「1日あたり三百里」だった。

 同「史料」は、そもそも、慣用句、風評であり、「三国志」本文でなければ、考証を経た史書記事でなく、まして、「魏志」でなく別系統の「蜀志」への付注に過ぎません。裴松之が補充したとされていますが、厳密に史料批判されたものではないので、もともと、陳寿が、一読の上、排除した史料かも知れないし、裴松之も、本件は、陳寿の不備を是正する意図で、補追したものではないと見えるのです。この点、世上、裴注の深意についてね不合理で勝手な憶測が出回っているので、苦言を呈しておきます。

 里制は、万人衆知の上で普遍的に施行されていた国の基幹制度であり、周代以来一貫して施行された確固たる制度なので、一片の噂話で証されるべきではありません。つまり、「三国志」の時代の国家「標準」を示すものではないのです。

 ついでに言うと、蜀は、公式には「漢」を名乗っていたのであり、劉備は、高祖劉邦以来続いていた漢の天子であり、当然、後漢諸制度を忠実に受け継いだのであり、不法にも後漢を簒奪した逆賊「曹魏」の「不法な制度」に追従することなど、天にかけて、断じてあり得ないのです。いや、曹魏にしても、禅譲により漢制をすべて継承したのであり、里制改変などの不法な制度改革を行うことはあり得ないのです。
 この種の論考は、無意味であり、さっさと棄却すべきです。

                               以上

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 1/3 総論 改訂版

                    2021/03/08 補充2021/09/15 2023/06/12
〇はじめに
 当記事で論じているのは、范曄「後漢書」の史料批判にあたって、編者范曄が、原典史料にどのような編集を加えたか、推定するということである。そのために、後漢献帝期の著名人であった孔融の「伝」をどのようにまとめたか、同時代を記録した他の史書と比較したものである。

 孔融は、聖人孔子の子孫の中でも、同時代では、随一の位置付けであった。名門、名家の中でも、格別の偉材であった。

 范曄「後漢書」は、列伝において「孔融」伝を立てている。袁宏「後漢紀」は、列伝を持たないが、献帝紀に孔融が処刑されたとの記事を書くに際して、孔融の小伝を書き起こしている。それぞれ、孔融なる偉才に、伝記を書き残す価値があるとみたことがわかる。因みに、袁宏「後漢紀」は、東晋期に編纂されたものであり、范曄「後漢書」に先行している。つまり、笵曄の執筆時に参照されたことは確実である。

 一方、陳寿「三国志」「魏志」は、「孔融」伝を持たない。つまり、陳寿は、「孔融は著名人であったが、伝を立てるに及ばない」と見たものと思われる。これに対して、裴松之は、「魏志」崔琰伝に司馬彪「續漢書」から引用、付注 している。
 つまり、南朝劉宋の時代の視点で、魏志に孔融伝がないのは、欠落と見なされていたので、衆望に応えて補完したとみられるが、「魏志」に「孔融伝」を追加すると改竄になるので、「崔琰伝」に補注する形式を採用したとみられる。つまり、「魏志」は改変されていないのである。
 言うまでもないが、裴松之の補注、裴注は、陳寿の編纂したものではないので、陳寿「三国志」の史料批判に起用することはできない。参考になるとすれば、司馬彪「續漢書」の孔融記事は、陳寿が否決したものなのである。
 因みに、范曄「後漢書」編纂時に、司馬彪「續漢書」が参照されたことは確実である。

 素人読者が范曄「後漢書」孔融伝を通読して感じるのだが、笵曄は、先行する諸家「後漢書」を熟読した上で、自身の文筆家としての沽券にかけて、熱意を持って執筆したことは確実である。その際、江南圏教養人には、周秦漢の中原で通用していた古代語、古典用語が、十分理解できないと見て、随分手心を加えたと思われる。范曄「後漢書」が、唐代に流麗な文章と賞賛された由縁と思われる。

 以下、范曄「後漢書」の特徴を示すと思われる用例を見出して、用語、構文を対照する。因みに、袁宏「後漢紀」の該当部は、日本語訳が刊行されているので参考にした。陳寿「三国志」魏志の該当部分は、筑摩書房刊の『正史「三国志」』所収の日本語訳を参考にした。
 また、当記事は、笵曄の筆の冴えを賞味することにあるので、續漢書、後漢紀が、原資料/史実に忠実な、保守的なものとして、それを基準に、范曄『後漢書』の用語を批判している。

〇用語、文例比較
*十余歳~十歳
 范曄「後漢書」は、まずは、原史料の「十余歳」を「十歳」としている。
 つまり、笵曄は、年齢表記で「余」概数を避けたのである。今日でも、中国古代史書の語法を解しない人は、「十余」歳を、本来の七,八歳から十二,三歳程度の範囲と見ないで、十歳から十五歳までの範囲と解釈(誤解)する人が大変多いから、誤解を避けて賢明である。 
 言うまでもなく、十歳は、キッチリ十歳という断言でなく、八歳から十二歳程度としても、孔融は後に十三歳で父を亡くしたとあるので、整数ないしは所数で十歳とした方が字面が滑らかである。どのみち、孔融が、一歳単位まで正確に何歳であったかは、従容ではない。
 結お、中原では、太古以来、戸籍が整備されていたから、およそ、子供に正式に「命名」する程の名家では、それぞれの子供の名前と年齢は、確実に知られていたのである。

 言うまでもないが、当時は、日本で言う「数え」年齢であるから、現代風に「満」年齢と見ると、一,二歳若くなるのである。
 当時、現代の日本のように小学校はなかったし、どの道、四月から学年開始するのではないが、まあ、今日で言う、小学生高学年か、という程度である。

*周旋~「恩舊」(古い付き合い)
 当記事の筋書きでは、孔融少年が、しかるべき紹介者を通じてではなく、一介の無名人として、河南尹李膺に面会を申し込んだのに対して、当然、門前払いになるところを、気の効いた口上でしゃしゃり出たのである。(偉人伝の冒頭を飾る挿話である)

 李姓の李膺は、少年の口上で、老子「李耳」の末裔と扱われて気を良くしたので、孔子「孔丘」の子孫孔融との両家交流を、あっさり認めている。つまり、紹介者の要らない旧知の間柄と強弁したのである。

 ここで、原史料に見られる「周旋」は、古典用語であるため、当時の教養人に理解されない可能性があるので、笵曄は、「恩舊」(古い付き合い)と言い換えた。普通、周旋とは、二地点、あるいは、両家の間の交遊、往来という意味なのである。
 正体不明の領域をぐるぐる巡るという意味でないことは確かである。

*長大~(言い換え放棄)
 「高明長大、必為偉器」でも、同時代人に「長大」は理解されない可能性があると見たようだが、適当な言い換えが見つからないで省略したようである。大差ないとも言えるが、「この小僧、成人すれば、大物になるぞ」の意味が消されている。
 因みに、「長大」は、陳寿「魏志」「倭人伝」にも見られる表現であるが、現代中国語にも伝えられていて、さらには、現代の有力辞書である「辞海」(三省堂)にも収録されているから、日本でも、教養人の語彙として継承されているようである。
 当時成人が十八歳とすると、十余歳は「数年中」となるので、ぼかしたのだろうか。「末恐ろしい」というには、微妙である。

 また、今日に至るまで、「長大」に老齢の意味は見られないように思う。

*早熟談義~笵曄の本領
 笵曄の真骨頂は、『陳煒後至,曰「夫人小而聰了,大未必奇。」』、つまり、「小才の利いた子供は、大抵、大した大人にならないものだ」と評されて、すかさずこたえた名セリフを「書き換えている」所にある。

 先行史料は、「さぞかし早熟だったのでしょうね」と激しく切り返しているが、笵曄は「お話を聞くと、高明なる貴兄は、神童ではなかったのですね」(觀君所言,將不早惠乎) とやんわりこなしている。「早恵」は、同音の「早慧」と同義で、早熟の意味であるが、ここでは、「不早惠」と否定されているので、後漢紀、續漢書と逆の意味であると思う。つまり、神童などではなく長じて智者になったという尊敬の趣旨である。

 本来は、孔融が生意気な皮肉で高名な官人に反駁したことになっていたが、笵曄は、衆人の前で高官の面子を潰したら「ただで済まない」から、如才のない受け答えをしたはずだと解したのである。

 孔融は、晩年、献帝の建安年間、時の最高権力者曹操に楯突いて、きつい諫言を度々奏したため、遂に刑死しているから、巷では、少年時代の毒舌伝説と語られても、当時河南尹の李膺が、生意気な子供の肩を持って賓客の顔を潰すはずはないと言う、賢明な解釈を採用しているのである。

 笵曄は、「不」の一字で毒消しし、李膺は、孔融少年の爪を隠すことを知っている才覚に感嘆したとしている。話の筋は滑らかであるが、史料に忠実でなく創作である。笵曄の「本領」とは、そういう意味もこめたのである。

*陳寿の孔融観
 因みに、三国志の孔融関連記事は、むしろ乏しい。
 魏志「太祖本紀」(曹操本紀)では、時に、高官としての行状/言行が語られるが、最後は、先に書いたように、時の権力者曹操に、しばしば反抗したとして、誅殺、族滅の憂き目に遭っている。孔子の子孫であり、随分高名でありながら、「魏志」に列伝はない。
 「魏志」の孔融記事は、大半が裴注によるものであり、子供まで連座して孔融の家系は絶えていたから、裴松之が、孔子子孫の孔融を殺したのは曹操の大失態との「世評」にこたえて、十分に補追したようである。と言って、このように補注されるように、敢えて「孔融伝」を採用しなかったのは、陳寿の見識を示すものであり、また、裴松之は、決して陳寿を誹っているのでは無いのである。

 孔融十歳時の逸話は、「魏志」崔琰伝に司馬彪「續漢書」が付注されていたので、袁宏「後漢紀」、笵曄「後漢書」と比較したが、陳寿が認めた記事ではない。
 むしろ、陳寿が、「魏志」に無用として排除した一連の孔融記事の中でも、最悪と見なしていた記事と思えるのである。

 このような扱いに、陳寿の史官としての判断が厳然と示されているのである。「孔融伝」を立てると、不本意な記事も、加筆、訂正できないまま収録することになるから、陳寿の史官としての志(こころざし)が曲がるのである。もちろん、陳寿は、儒教を信奉していたわけではないし、曹操も、同様である。
 と言うことで、陳寿は、孔融の記事を「割愛」したのである。

*不本意な引用
 結局、三国志に孔融伝は無いにもかかわらず、世上の孔融神童(異童子)挿話に、三国志本文ならともかく、裴注記事が引用されているのは、割愛した陳壽の身になっても、労作を物した笵曄の身になっても、大変不本意であり勿体ないことだと思うのである。

*范曄の「脱史官」宣言
 総じて、司馬彪「續漢書」と袁宏「後漢紀」の書きぶりには大差がない。古来の史官は、忠実な引用を旨としていたためと思われる。
 そして、范曄「後漢書」は、三国志が提起した確実に歴史を語るという提言を離れて、また別の一つの正史像を示したものである。

                                未完

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 2/3 対照篇 再掲

                    2021/03/08 確認 2021/09/15 2023/06/12

〇史料対照篇 笵曄「後漢書」に「孔融列伝」あり。續漢書は、陳寿「三国志」「魏志」崔琰伝の裴注に収録
【後漢書】孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
【後漢紀】融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
【續漢書】融,孔子二十世孫也。

【後漢書】融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。
【後漢紀】幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。
【續漢書】融幼有異才。融年十餘歲,

【後漢書】時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。
【後漢紀】時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。
【續漢書】時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。

【後漢書】融欲觀其人,故造膺門。語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
【後漢紀】融欲觀其為人,遂造膺門,曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
【續漢書】欲觀其為人,遂造膺門,語門者曰:「我,李君通家子孫也。」

【後漢書】問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
【後漢紀】曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
【續漢書】膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」

【後漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
【後漢紀】融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆[僕]累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
【續漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義、而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」

【後漢書】太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
【後漢紀】太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。[煒]曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
【續漢書】太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」

【後漢書】融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
【後漢紀】融曰:「如足下幼時豈嘗〔常〕惠乎?」
【續漢書】融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」

【後漢書】膺大笑曰:「高明必為偉器。」
【後漢紀】膺大笑,謂融曰:「高明長大、必為偉器。」
【續漢書】膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」

【後漢書】年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
【後漢紀】年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。
【續漢書】該当記事なし
                    未完          

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 3/3 原典篇 再掲

                    2021/03/08 確認2021/09/15 2023/06/12

〇原典史料 出典 中国哲學書電子化計劃 維基文庫

范曄「後漢書」鄭孔荀列伝

孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
七世祖霸,為元帝師,位至侍中。父宙,太山都尉。
融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。融欲觀其人,故造膺門。
語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
膺大笑曰:「高明必為偉器。」
年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
性好學,博涉多該覽。

袁宏「後漢紀」卷三十 孝獻皇帝紀 建安十三年

融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。融欲觀其為人,遂造膺門,
曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
融曰:「如足下幼時豈嘗惠乎?」
膺大笑,謂融曰:「高明長大必為偉器。」
年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。

 司馬彪「續漢書」:「魏志」崔琰傳 裴松之付注

融,孔子二十世孫也。高祖父尚,鉅鹿太守。父宙,太山都尉。
融幼有異才。
時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。
融年十餘歲,欲觀其為人,遂造膺門,
語門者曰:「我,李君通家子孫也。」
膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」
融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」
膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」 

                                以上

2023年6月 9日 (金)

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」(1) 速報編 再 1/3

[BSプレミアム] 2021年1月1日(金) 午後7~9時 NHKオンデマンドで公開中  
私の見立て ★★★☆☆ 前年比改善顕著 前途遼遠   2021/01/30 補筆 2023/06/09

NHK番組紹介引用
*番組内容

日本史最大の謎のひとつ邪馬台国。どこにあったのか?卑弥呼とは何者か?第一線で活躍する研究者が一堂に会し、最新の証拠や資料をもとに自説をぶつけ合う歴史激論バトル。

出演者ほか 【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人,【出演】石野博信,上野祥史,片岡宏二,倉本一宏,佐古和枝,高島忠平,寺沢薫,福永伸哉,柳田康雄,渡邉義浩

*はじめに
 従来のNHKの古代史(三世紀)番組前作は、司会者が揃って素人の上に素人論者の乱暴なコメント連発で幻滅したのです。その後、民間放送の広く取材した番組で、司会者の含蓄のあるコメントに感心したものです。NHKの旧作使い回しにはげんなりしていましたが、ようやく新作にお目にかかりました。
 新作も、背景に擬し「倭人伝」刊本を見せながら、そこに書かれている「邪馬壹国」、「壹与」を、そこに書かれていない「台国」、「台与」と言い換える悪習の惨めさに幻滅します。また、魏使が難船必至の海上迂回到来で驚くのです。そうした基礎固めが疎かで脚もと乱雑では多難です。
 そうした不吉な序奏から、本編は、意外に冷静な論議となり、むしろ順当な展開でした。何しろ、前作は、纏向広報担当風で、年々当ブログの批判がきつくなったのです。

*総評
 二時間の番組の全面批判は無理なので、大きな難点にとどめましたが、概して、纏向論に苦言が集中するのは仕方ないところです。
 論者の意見が順次提示されましたが、九州説は、「歴史激論バトル」は気にせず、ゆったり紹介され、堅実な考察と思わせ、ことさら批判するに及ばないと思ったのです。

 これに対して、纏向論者は、「歴史激論バトル」を真に受けたのか、前作の提言を越えた一段と強引な展開で、一視聴者としては、無理するなよと言う感じでした。

*考古学の本分喪失
 例えば、論者提言に噛みついて「卑弥呼、箸墓、台与の年代比定は確立されている」との決め付けは、独善丸出しで滑稽でした。
 考古学の財産は、遺物、遺跡に基づく堅実な考察であり、同時代文字記録は存在しないから時代比定は不確実であり、不用意に文書資料を取り込むと考証が歪む」というのが、考古学会先賢の戒めと思うのですが、ここは、自説絶対で干渉は許さないと戦闘体制で臨んでいて、論争にしないのです。
 倭人伝」独善解釈に引き摺られて、正当な考古学考察を撓め「倭人伝」解釈をそれに沿わせようとしているのは、無理矢理という感じが拭えません。

*イリュージョンの不毛
 今回、纏向遺跡の「再現」動画を上映しましたが、素人目にも高価な「イリュージョン」(詐話)と見えます。考証なしにもパッと見に訴える、「見映え」する映像眩術を創造するのは、何を目論んでのことか、一納税者としては、賛成できないのです。

 例えば、堂々たる運河で、両岸から荷船を曳く」図は、古代に限らず、現地にあり得ない、戯画、虚構そのものです。
 内陸傾斜地の「運河」で、どこからどこへ、どんな質量の何を運んだのか。着いた荷は誰がどう享受したのか。地道に解析しないでの壮大、厖大な費用を費やしての児戯画餅は、せいぜい言っても勿体ない出費です。
 三世紀当時、河内平野は未開地、内海水運は未開設ですから、最寄りの海港に、大量の荷物が届くはずは無いのです。また、当時、これほど盛大な経済活動があれば、纏向王朝は、立ち所に天下を席巻したはずです。成長曲線を想像するとそうなります。

 想定する巨大建物「都市」(現代用語を 無造作に持ち込んだ用語で、古代史には無様な時代錯誤ですが、仕方なく追随しています)には、何より、食糧供給が伴わず、そもそも、住民を支える収入源が見当たらないので、きれいに言うと「画餅」なのです。時代考証無き「誇大化」に見えます。年々イリュージョンが誇張されていくのは、痛々しいものがあります。

 纏向陣営は、そこまで虚飾に励まないと正当化できないほど、追い詰められているのでしょうか。

                                未完

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」(1) 速報編 再 2/3

[BSプレミアム] 2021年1月1日(金) 午後7~9時 NHKオンデマンドで公開中  
私の見立て ★★★☆☆ 前年比改善顕著 前途遼遠   2021/01/30 補筆 2023/06/09

*「自虐」論始末記
 「自虐」論は、纏向絶倫史観になびかない九州論者に対して呈された「罵倒」ですが、素人目には、攻撃になっていないので、自爆です。
 こうした挑発は、大抵、議論で勝てないと自任する「弱者」が仕掛ける「泥仕合」の狙いですが、「子供の口喧嘩」戦術に、大人は応じないので、一段と、論議に窮した焦りを露呈します。箴言風に言うと、「暴言は、無能者の最後の隠れ家」です。
 視聴者も、乱暴な決めつけに賛成すると見ているなら、皆さん見くびられたものです。

*疲弊した決め付け
 論議に窮すると、落ち着く先は、乱暴でくたびれた俗説の羅列です。

*「白髪三千里」論
 これは、前世紀の遺物、無風流な浅知恵です。
 やり玉に挙げられた李白は、漢詩三千年最高の詩人であり、気宇壮大な「比喩」は、現実を大きく離れ、深々とした感動を誘います。「白髪三丈」の陳腐と次元が違うのです。無茶な誇張と感じるのは、感性の貧困です。現代人が勝手に法螺比べを挑む図式など見たくもありません。

 少なくとも、この表現は詩的な比喩であって、史学発言ではない位は理解できるはずです。まして、東大は、三世紀世界の遙か、遙か後世です。「時代錯誤」などてなく、単に、古人が無知から言い出したことを無批判に追従するのは「問題」です。

*「戦果十倍誇張」
 この名言は、確かに、同時代に近い史書表現ですが、既に、論外の愚行とされていて、参考になりません。要するに、実戦指揮の経験が豊富な皇帝が、「軍人の誇大な手柄話には、一切騙されない」と釘を刺しているのです。
 秦代以降、軍功はクビの数であり、十倍誇張で十倍の褒賞ですが、それはそれとしても、新来蛮夷の道里、戸数の誇張に何の意義があるのでしょうか。直にばれるウソでは、虚言の廉で首が飛ぶのです。軍人は、軍功で地位を得るので安直な誇張はしないのです。また、魏使は軍務でないので戦果を求めず、この手の誇張はあり得ないのです。

 中国兵制で遠征軍司令に監軍なるお目付役が付き、杜撰な報告は監軍の一片の報告で「大丈夫」の首も飛ぶのです。軍果は敵の首の数で、お目付役が記帳しているから、デタラメに書けないことも弁えていただきたいものです。

 曹丕、曹叡は、文弱皇帝ではなく、司馬懿の使命は、公孫氏殲滅であって東夷招請ではなく、薄汚い功名稼ぎのおおぼらは関係無いのです。

*勿体ない自爆表現
 この二件は、東方諸賢の伝家の宝刀、古典的罵倒表現で、決定打のつもりでしょうが、中国古代史に通じた「世間」で通用するものではないのです。むしろ、「世間」に通じない、東夷のものの自損、自嘲表現でしょう。多分、所属組織の「軍規」で、これらの虚言を主張しないと、上官から叱責されるので、定番として述べたに過ぎないのでしょうが、これでは、典型的な「自爆」と取られかねません。
 これも、何れかの世代で、と言うより、一日も早く棄却すべき負の遺産でしょう。

*倭人伝の使命
 「倭人伝」は、三世紀当時最高の教養人が、皇帝以下の教養人に謹呈した著作であり、李白は数世紀時代錯誤で場違いだし、軍人功名談も、無教養な軍人の愚考を語るものであって、無用の極みです。暴論は、相手と「場」を弁えないと、壮大におつりが返ってきます。
 同学の先師の旧説は、学問の世界では、進歩に取り残された遺物、「レジェンド」となりかねないので、先人の名声に泥を塗らないように更新/廃棄されるべきです。
 今回の纏向論客は、口説鋭いと見ましたが期待外れでした、と風当たりがきついのは、当代随一のプロと見なされているからです。世上溢れているネット世界の野次馬などではないのです。

*闇談合露呈
 収録終了時、「オフレコで言いたい放題言い合おう」などとは、定番の闇談合でもないのでしょうが、「歴史を夜作る」のは、良い加減にしてもらいたいものです。受信料を払っていて、善良な納税者でもある一般視聴者が見ているのです。恥を知るべきです。

 それにしても、司会の「爆問」の小声の総括は、空騒ぎに惑わされず、冷静で控え目でした。前作の空騒ぎとは、格別で人選の妙です。時に纏向幕府の走狗と揶揄されるNHK制作陣の反骨精神の真骨頂でしょうか。

                              未完

 

新・私の本棚 番外「 邪馬台国サミット2021」(1) 速報編 再 3/3

[BSプレミアム] 2021年1月1日(金) 午後7~9時 NHKオンデマンドで公開中  
私の見立て ★★★☆☆ 前年比改善顕著 前途遼遠   2021/01/30 補筆 2023/06/09

*「殿、ご乱心」~出所不明史料の怪、また怪
 今回の番組で、何とも重症なのは、三国志学」首魁渡邊義浩氏の暴です。
 「倭人伝」考証で、選りに選って、「翰苑」とは、何とも場違いですが、対照された「会稽東治東」ならぬ「会稽東冶東」の史料影印は、出所不明で投げ出されたのです。

*「中華書局本」の闇討ち
 紹興本、紹熙本に始まる古史料に「会稽東冶」は存在しません。それぞれ木版印刷で個体差はないので、どこで見つけたのかその場では不明です。
 散々調べた後で、諸刊本で「東治」と一致している「東治」が「中華書局本」で、なぜか「東冶」と「改竄」されていたのです。しかし、堂々と史料にない「邪馬台国」と言う以上、この際、別に異本はいらないはずです。

*「翰苑」史料批判の齟齬
 翰苑編者が、当時の写本の会稽「東治」を「会稽」とした(らしい)のは、世上、「東冶」との混同があり「東治」を削除したとも見えます。
 「東治之山」の由来が明記された「水経注」などでも、禹后が会稽した会稽「東治之山」が「東冶之山」と誤記された異本があります。というものの、翰苑は「東冶」「東治」のいずれでもなく、氏は、あえて現代史料で「東冶」を正当化していて、これは、史料考証の無用な愚行と思われます。
 渡邉氏は、陳寿「三国志」と袁宏「後漢紀」以外は、読み込んでいないのでしょうか。いや、もちろん、笵曄「後漢書」全訳の偉業は、初回記事では言い漏らしたのですが。それにしても、偏食の科は重いのです。

 渡邉氏は、過去の「特番」で、史官、つまり、陳寿が史実の忠実な継承を職務としていなかったとの暴言を吐いていて、いわば、暴言常習犯なのですが、なぜか、再度のお座敷がかかっています。もしかして、中国で古典的な「滑稽」の役を担っているのでしょうか。

*ついでの話
 別件ですが、氏の「黥面文身」解釈は軽薄で的外れと見えます。黥面は「顔面烙印」としても、図版の無い「倭人伝」に、出所不明の図版や遺物を担ぎ出すのは、誠に不審です。倭人伝」解釈に関係ない「外野」の資料を堂々とぶち上げる論議が、却って、不審を感じさせます。
 場外乱闘好きなら、三世紀当時、倭で広く行われた黥面が、日本史で蔑視されているのは、どういうことか、説明戴きたいものです。因みに、中国で顔面に黥するのは罪人の徴とされていたのです。

 更に言うと、何れかの時点で黥面制度が変わったのなら、旧制度の貴人が、新制度では罪人となるのです。歴史的、画期的な大事件の筈なのですが、記録は残っているのでしょうか。不審です。
 また、「倭人伝」にある黥面文身の「水人」は、畿内ではあり得ないのです。奈良盆地で大量の魚鰻をどうやって捕らえたのか、説明できないのです。
 それとも、氏は、当番組では、中国史書専任で、国内史書に一切言及しないと談合していたのでしょうか。うさん臭い話です。

〇通じない箴言
 氏の意見に対して、厳しく論難するのは、氏が三国志権威とされているからです。折角、「倭人伝」は、『中国教養人が中国教養人のために古典の言葉で書いたから理解されたのであり、無学な現代人には当然「不可解」である』と示唆しても、同時代人同士で意味が通じていないのは、残念です。
 要するに高樹悲風多しです。

〇まとめ~司会者の叡知
 司会者の「古い解釈を取り除いて原本から出直す」との至言は見事です。
 きっと、来年は、原点に還った新鮮な論議が聞けるものと期待しています。

                             この項完

2023年6月 7日 (水)

私の本棚 2 松本 清張 清張古代游記 「吉野ヶ里と邪馬台国」

 日本放送出版協会 1993年11月        2014/05/16 追記 2023/06/07
 私の見立て ★★★★☆ 好著必読

◯はじめに
 松本清張氏は歴史学者ではないので、一般人扱いで、清張氏と書かせていただきます。
 本書は、清張氏著作の中でノンフィクション部分の中核をなしている「邪馬台国 清張通史1」の集大成であり、決定版と呼ぶべきものです。

 「邪馬台国 清張通史1」は、単行本および文庫本として出版され、最新版は、それぞれ、「松本清張全集 33」 ((株)文藝春秋社 ’84年7月第一刷)とそれを増補した「講談社文庫」(’86年3月第一刷)として出版されています。
 「邪馬台国 清張通史1」は、一連の清張通史(1~6)の中で、唯一松本清張全集に収録されていて、世評の高さをうかがわせるとともに、清張氏のフィクションも含めた膨大な著作の欠くべからざる一角を構成する代表作と評価されているものと言えます。

 本書は、当該著作の前後に1989年の吉野ヶ里遺跡発掘に関する論考を追加し、最新の発掘、発見を取り入れた決定版としているものです。
 また、清張氏が逐一書き上げたものではなく、清張氏の没後に、氏の著作に対して、清張氏の残した著作メモに即して図形資料、図版、カラーグラビアなどを充填したものであり、その意味でも、氏の「邪馬台国」論の集大成となっているものです。

 清張氏の「邪馬台国」論は、古代史関係著作の口切りとなった「古代史疑」を母体として、記載を充実、強化していたものと見受けられ、論旨については、一貫したものを保っています。
 「古代史疑」は、当初、雑誌「中央公論」'66年6月号-'67年3月号に連載され、'68年3月に中央公論社から単行本刊行されました。
 従って、ここでは、それら著作についての論評は避けます。

 素人考えでは、清張氏の意思を明確にするには、「邪馬台国 清張通史1 最終版」としたいところでしょうが、版権者に憚るところがあって、このような体裁としたものでしょう。
 ただし、結果として、同一の著作の複数の時点の形態が残されていて、氏の関連著作の全貌の把握を困難にしています。

*「清張史論」の伸張と限界
 清張氏の邪馬台国論は、大別すると九州説に属するものながら、学会の既成の論者に追従するものではなく、広く、諸資料、諸文献を渉猟した基盤から出発し、作家としての豊富な知識、眼力に載せて、壮大な構想を展開したものと言えます。

 その際に、古代史学会の埒外とされている古田武彦氏の意見にも反応していますが、なんとしても、歴年の思索の果てに、適切な根拠に欠けると思われる倭人傳」虚妄論に陥ったとがめは大きいと思います。

 そのために、正史と雖も、膨大な筆写の果ての姿であり、誤写があって当然」という憶測の陥穽に陥って正史のその時代の原本の筆写には、誤写を防ぐために、複数の校正者による読み合わせ、筆写継承回数の削減等々、絶大な努力が払われていたから、誤写の可能性はきわめて低い、などの妥当な推論ができていないのです。

 恐らく、氏の見解は、氏が教授を受けた国内古代史学者の職業的な中国史料懐疑の「通念」が浸透したための倭人傳」虚妄論でしょうが、まことに勿体ないことだと思われ、誠に残念です。
 国内古代史学者 は、所詮、中国古代史料に関して、後世東夷の無教養という限界に囚われているものであり、「倭人傳」は、同時代最高の史官が、同時代最高の知識人のために最善努力を費やして編纂したものである、という視点に至っていないので、いわば、初学の夷人の浅薄な意見に過ぎないのです。
 この点、氏には、一切責任が無いのですが、ここでは、氏の著作の書評として苦言を呈せざるを得ないので、読者諸兄姉には、氏が矢面に立っているように感じられるかも知れませんが、それは本意ではありません。いや、いつも、気の早い野次馬読者の攻撃を浴びることになるのですが、要するに「敵は本能寺」なのです。
 当ブログ筆者は、「倭人傳」の真意を求めて研鑽してきたので、あえて、不遜な意見を述べているのです。

*「問題」との決別
 課題(問題)を与えられ、課題(問題)が解けないからと言って、課題(問題)の否定にかかるのは、正道を外れるものです。
 魏志「倭人傳」のように、執筆姿勢が真摯で、丁寧であり、正史として適切に保存されていると見られる史料の信頼性を否定したら、もはや、いかなる文献史料も信用できず、「頼れるのは自らの見識となってしまう」のです。
 主張の根拠を明快にしている限り、それはそれで、学術的には誠実な姿勢ですが、本稿筆者の信条に反する論法なので、誤解は誤解として指摘せざるを得ないのです。

*権威の自傷
 清張氏は、当分野に関する著作を発表し始めた時点で、既に、いわゆる文豪として知識人の最高位に格付けされていて、機会あるごとに、当分野の最高権威とされる諸賢と面談して、質疑したと言うことですが、氏の発言、著作は、既に確たる権威を持っていたので、ご本人にはそのつもりはなかったとしても、何かと儀礼的配慮が働いたと思われるのです。
 また、古代史学界は、議論を好まず、先哲の説を堅持し、とにかく異説を沈静化させるものなので、氏の意図した議論喚起とは行かなかったように思います。

 氏の倭人傳評価は、先入観で即断した事例を除けば、大局的に冷静であり、世上の当分野著作で、功を焦った凡庸で怠惰な著者が、時として、持論の展開に勢いを付けるために倭人伝を踏みつけにする愚とは、無縁であると感じています。

 と言うことで、ここで、批判しているのは、清張氏への尊敬の念の表明とさせていただきたいのです。

以上

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