私の本棚 2 松本 清張 清張古代游記 「吉野ヶ里と邪馬台国」
日本放送出版協会 1993年11月 2014/05/16 追記 2023/06/07
私の見立て ★★★★☆ 好著必読
◯はじめに
松本清張氏は歴史学者ではないので、一般人扱いで、清張氏と書かせていただきます。
本書は、清張氏著作の中でノンフィクション部分の中核をなしている「邪馬台国 清張通史1」の集大成であり、決定版と呼ぶべきものです。
「邪馬台国 清張通史1」は、単行本および文庫本として出版され、最新版は、それぞれ、「松本清張全集 33」 ((株)文藝春秋社 ’84年7月第一刷)とそれを増補した「講談社文庫」(’86年3月第一刷)として出版されています。
「邪馬台国 清張通史1」は、一連の清張通史(1~6)の中で、唯一松本清張全集に収録されていて、世評の高さをうかがわせるとともに、清張氏のフィクションも含めた膨大な著作の欠くべからざる一角を構成する代表作と評価されているものと言えます。
本書は、当該著作の前後に1989年の吉野ヶ里遺跡発掘に関する論考を追加し、最新の発掘、発見を取り入れた決定版としているものです。
また、清張氏が逐一書き上げたものではなく、清張氏の没後に、氏の著作に対して、清張氏の残した著作メモに即して図形資料、図版、カラーグラビアなどを充填したものであり、その意味でも、氏の「邪馬台国」論の集大成となっているものです。
清張氏の「邪馬台国」論は、古代史関係著作の口切りとなった「古代史疑」を母体として、記載を充実、強化していたものと見受けられ、論旨については、一貫したものを保っています。
「古代史疑」は、当初、雑誌「中央公論」'66年6月号-'67年3月号に連載され、'68年3月に中央公論社から単行本刊行されました。
従って、ここでは、それら著作についての論評は避けます。
素人考えでは、清張氏の意思を明確にするには、「邪馬台国 清張通史1 最終版」としたいところでしょうが、版権者に憚るところがあって、このような体裁としたものでしょう。
ただし、結果として、同一の著作の複数の時点の形態が残されていて、氏の関連著作の全貌の把握を困難にしています。
*「清張史論」の伸張と限界
清張氏の邪馬台国論は、大別すると九州説に属するものながら、学会の既成の論者に追従するものではなく、広く、諸資料、諸文献を渉猟した基盤から出発し、作家としての豊富な知識、眼力に載せて、壮大な構想を展開したものと言えます。
その際に、古代史学会の埒外とされている古田武彦氏の意見にも反応していますが、なんとしても、歴年の思索の果てに、適切な根拠に欠けると思われる「倭人傳」虚妄論に陥ったとがめは大きいと思います。
そのために、「正史と雖も、膨大な筆写の果ての姿であり、誤写があって当然」という憶測の陥穽に陥って、正史のその時代の原本の筆写には、誤写を防ぐために、複数の校正者による読み合わせ、筆写継承回数の削減等々、絶大な努力が払われていたから、誤写の可能性はきわめて低い、などの妥当な推論ができていないのです。
恐らく、氏の見解は、氏が教授を受けた国内古代史学者の職業的な中国史料懐疑の「通念」が浸透したための「倭人傳」虚妄論でしょうが、まことに勿体ないことだと思われ、誠に残念です。
国内古代史学者 は、所詮、中国古代史料に関して、後世東夷の無教養という限界に囚われているものであり、「倭人傳」は、同時代最高の史官が、同時代最高の知識人のために最善努力を費やして編纂したものである、という視点に至っていないので、いわば、初学の夷人の浅薄な意見に過ぎないのです。
この点、氏には、一切責任が無いのですが、ここでは、氏の著作の書評として苦言を呈せざるを得ないので、読者諸兄姉には、氏が矢面に立っているように感じられるかも知れませんが、それは本意ではありません。いや、いつも、気の早い野次馬読者の攻撃を浴びることになるのですが、要するに「敵は本能寺」なのです。
当ブログ筆者は、「倭人傳」の真意を求めて研鑽してきたので、あえて、不遜な意見を述べているのです。
*「問題」との決別
課題(問題)を与えられ、課題(問題)が解けないからと言って、課題(問題)の否定にかかるのは、正道を外れるものです。
魏志「倭人傳」のように、執筆姿勢が真摯で、丁寧であり、正史として適切に保存されていると見られる史料の信頼性を否定したら、もはや、いかなる文献史料も信用できず、「頼れるのは自らの見識となってしまう」のです。
主張の根拠を明快にしている限り、それはそれで、学術的には誠実な姿勢ですが、本稿筆者の信条に反する論法なので、誤解は誤解として指摘せざるを得ないのです。
*権威の自傷
清張氏は、当分野に関する著作を発表し始めた時点で、既に、いわゆる文豪として知識人の最高位に格付けされていて、機会あるごとに、当分野の最高権威とされる諸賢と面談して、質疑したと言うことですが、氏の発言、著作は、既に確たる権威を持っていたので、ご本人にはそのつもりはなかったとしても、何かと儀礼的配慮が働いたと思われるのです。
また、古代史学界は、議論を好まず、先哲の説を堅持し、とにかく異説を沈静化させるものなので、氏の意図した議論喚起とは行かなかったように思います。
氏の倭人傳評価は、先入観で即断した事例を除けば、大局的に冷静であり、世上の当分野著作で、功を焦った凡庸で怠惰な著者が、時として、持論の展開に勢いを付けるために倭人伝を踏みつけにする愚とは、無縁であると感じています。
と言うことで、ここで、批判しているのは、清張氏への尊敬の念の表明とさせていただきたいのです。
以上
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