新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 新解 7/9
「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
私の見立て ★★★★☆ 泥中の真珠再発見 2022/12/01 部分改訂 2023/01/15 23/06/07, 12, 19, 21, 23~26
➀最初の区間~郡管内韓国を歴る官道行程
まずは、倭人伝に収録された「郡から倭に至る」「従郡至倭」行程の最初の区間は、「郡」を発して、一路半島中央部を南下し、韓国領域を通過し、街道関所を通過して郡の最南端である狗邪韓国に至ったと見るのが至当である。
当然、この行程は、街道、つまり、乗馬往来の官道で、途上、関所兼宿場兼郵局があり、蹄鉄交換なり、替え馬などにより、秦漢代以来の街道制度が実施されていて、安定した行程が確保されていたと見るべきである。「郵局」というのは、中原においては官営の「飛脚」であり、恐らく、韓地では、各宿場の責任者が、係員を駆使して送り継いだと見るものである。もちろん、郡太守の親書は、郡の「飛脚」が、走り継いだと思われるが、それぞれ、別に特筆するような内容ではないから、道里記事には書かれていないのである。
後漢献帝建安年間に、穢、韓、倭を統轄する帯方郡が成立したが、遼東郡の下部組織であった。そして、狗邪韓国街道は、維持されたのである。
因みに、「韓国」を歴るとは、馬韓、秦漢、弁辰の三韓を歴訪するのは明らかであるから、郡を発した街道は、それぞれの韓国の王治に届いていたことは明らかである。そもそも、「倭人」が、帯方郡に参詣するには、三韓の承認が必要であり、郡の発行した「過所」(通行許可証)がなければ、各国の街道関所で阻止されるのである。
*「万二千里」の起源
行程記事の末尾で、行程公式道里は「万二千里」とあるが、以上、これは、「遼東郡から倭に至る」道里である。帯方郡移管後、「帯方郡から倭に至る」道里となるから、後世人の感覚では、随時里数を訂正すべきと思われだろうが、倭に至る「公式道里」は、皇帝承認後は一切変更できず、「万二千里」だったのである。
と言うことで、「万二千里」は、「初見」時点において、遼東太守公孫氏が「公式道里」として設定したもので、後世、陳寿の「倭人伝」編纂時、、皇帝承認の不可侵史料が不合理と見えても、是正不可能だった。
西晋瓦解に伴い雒陽に継承されていた史官組織が崩壊したこともあり、このような史官職業倫理は、史官でない笵曄には継承されなかったと見える。継承されなかったのは、雒陽公文書だけではなかったのである。
*郡/狗邪韓国~倭人伝道里の定義
「従郡」は、郡太守治所(郡治)の位置を言う。道里は、まずは、郡の南端、狗邪韓国の渡海海港までを示し、ここまで七千里の道里原器(物差)が定義されている。一千里単位と言いたいが、千、三千、五千、七千、万、万二千と飛び飛び概数であり、有効数字1/2桁の大変大まかな世界である。
*「馬韓」評判記
晋書「張華傳」には、西晋太康年間(280-289)都督幽州諸軍事治世の記事に治所から「馬韓」迄四千里とされている。目的地「馬韓」は、馬韓伯済国と推定され、千里単位の道里である。幽州雒陽道里は明確でも馬韓行程は不明である。三世紀末は楽浪郡経由の雒陽道里が至当であるが、当記事は道里の記事でなく、遠隔地を張華が適切に管理したという評判記である。
笵曄「後漢書」「郡国志」の各郡道里は「公式道里」である。 西晋 司馬彪( - 306 )「続漢書]「郡国志」には、後漢雒陽公文書から各郡地理情報が集成され、劉宋 笵曄(-445)「後漢書」の「志部」として併合されたから、笵曄の美文修飾は介入していない。
遼東郡: 雒陽東北三千六百里。 玄菟郡: 雒陽東北四千里。 樂浪郡: 雒陽東北五千里。 幽州涿郡:雒陽東北千八百里。
晋書「地理志」は、幽州を歴史回顧し、建興四年(316)西晋滅亡時に、北方異民族の支配下に入った旨略載し、公式道里は収録していない。
要するに、晋書「張華傳」記事にも拘わらず、三韓公式道里は不明である。馬韓を代表する権威の治所への実務道里が知られていただけである。
但し、幽州都督の三韓支配は、両郡からの撤退で喪われたと見える。
②次なる区間~「渡海」道里の起源
「渡海」道里「千里」は、並行街道が無い以上「形式上の道里」であって、海岸から州島に移動し次の州島に乗り継ぐ以上、実質的意義は無い。
*予告する「水行」定義/伏線回収
「渡海」道里は、正史記事に前例がないので、不意打ちで困惑させないよう冒頭定義文で、『「倭人伝」『並行街道無き渡海』を「水行」』と明記した。
未完
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