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2023年6月30日 (金)

新・私の本棚 伊藤 雅文「検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く」 追記

- 卑弥呼は熊本にいた! - (ワニプラス) (ワニブックスPLUS新書) – 2023/2/8
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な論考を丁寧に総括した労作 但し、難点持続 2023/02/11 追記 2023/06/30

◯始めに~新解釈・新説に異論あり
 本書は、倭人伝考察に関して、麗筆で知られる筆者の最新作であり、これまで、氏の論説で、唯一致命的とされていた倭人伝改竄説が、控え目になっているが撤回されてないのは、依然として「重大な難点」と見える。
 「重大な難点」を癒やせない筆者の論説は、折角の労作が全体として疑念を抱かれるので、大変損をしていると見える。ご自愛頂きたいものである。
 当然の事項であるが、本稿は、氏の売り物である「卑弥呼は熊本にいた!」提言を非難しているものではない。

*難点列挙
1.原文改竄~始まりも終わりも無い混沌
 氏は、原文の由来を明らかにしていないが、「対馬国」と書いているので、三国史諸本のうち、紹興本によるものと見える。いくら新書でも、史料を明記するのは、常識と見えるが、いかがなものか。

 いずれにしても、陳寿「三国志」の原文は「邪馬壹国」であるので、これを(異説・私見が支配的とは言え)「私見」により「邪馬台国」と改竄するのは、信用を無くすのであり不用意である。本書は、冒頭から「邪馬台国」と書き進んでいて、原本依存でなく、正体不明の現代語訳で書き換えているとも見える。
 このあたりの批判は、「邪馬台国」派の史料改竄に対する「税金」のようなものであり、逃げられないものと覚悟すべきである。

2.「道里」の曲解/正解~余計な廻り道
 氏は、「道里」を「新語」と紹介するが、古来「道里」は、常用されていたのである。「新語」を正式史書に採用しては、史官として不用意であり、処断されるものと見える。重大な認識不足である。氏は、遂に、魏晋代新語との手前味噌を排して、原本に回帰したのであり、当然とは言え、「道里」は「道」の「里」との当然の理解/結論に至ったのを祝し、ご同慶の至りである。

3.道里/行程について~下読みしないことの不毛
 氏は、「倭人伝」の道里行程を、『魏使(郡使)の報告によるもの』と根拠なく予断されているが、普通に解釈すると、正始魏使が下賜物を帯行して訪倭の使命に発するには、「行程全所要日数を予定する」必要があり、「都水行十日、陸行一月」は、「魏使派遣以前に皇帝に報告されていた」と見るものではないだろうか。所要日数不明、あるいは、全道里万二千里だけでは、魏使派遣は不可能だったと見るものである。
 何しろ、行程上の諸国に、到達予定とその際に所要労力、食料などの準備が必要であることを予告し、了解の確約を得る必要があるから、「全行程万二千里」との情報、狗邪韓国まで七千里などの大雑把な道里次第では、難題は解決しないのである。いや、当然極まることだから、記録されていないだけで、ちょっと考えれば、他に選択肢はないのである。
 当時の事情を推察すると、「全道里」万二千里が、何らかの事情で、実際の道里に関係なく公認されていたために是正不能で 、部分道里を按分して設定せざるを得なくなり、制度上の欠落を補足するために、実態に合わせて、全所要日数、都合「水行十日、陸行一月」 を書き込んだと見えるのである。帯方郡の言い訳としては、倭地には、馬車も騎馬連絡もないから、徒歩連絡のみであり、道里だけでは、実際の所要日数が分からないので、別途精査したということになる。
 下読みすれば、景初年間には、そのような訂正された道里行程記事が、既に記録されていたのが、陳寿によって倭人伝記事となったと見ることができる。案ずるに、後年の裴松之が、道里行程記事に異を唱えていないのは、そのような記事が史書として筋が通っていたからであり、結局、陳寿が認めた内容で良しとしたのである。以上が、当ブログ筆者の考える筋書きである。

 長大な一連の記事が「従郡至倭」と書き出されているように、本来、行程記事は、通過諸国を列挙した後、最終目的地「伊都国」に「到る」のが、要件であったと思われ、付加して「最終目的地を発して四囲に至る記事」と見ると、もっとも筋が通るのである。筋が通らない解釈を好まれる方には、「倭人伝」の有力な同時代読者である皇帝や有司/高官は、面倒くさい理屈は不要であり、さっさと結論を示せと言うだけだったはずであると申し上げるまでである。陳寿には、二千年後の東夷の好む記事を書く動機は、全く無かったのである。

 その解釈を妨げるのは、俗耳に好まれている「魏使が伊都国、奴国、不弥国、投馬国を経て邪馬壹国に至る」解釈であるが、道里行程記事が、「魏使行程記録でない」とすれば、論者の面子は保たれ、恥の上塗りになるような異議は回避される。
 
 「倭人伝」道里記事解釈談義は別記事に譲るが、諸処の記事で明らかである。むしろ、「行程最終地が邪馬壹国であり、そこに到るまでに、(傍線行程と明記している)奴国、不弥国、投馬国を通過した」との頑固な思い込みが、大局解釈を阻止していると見える。いや、業界の大勢が、そのように勘違いしているから、論者が、それに染まっていたとしても、別に恥ではない。勘違いに気がつくかどうかである。

 事程左様に、解釈以前の下読みが、曲解/正解の岐路である。

4.論争の原点(第6章)~無残な改竄説提起
 ここまで、高い評価を続けていたのだが、最後に、氏の愛蔵する「改竄説」の「魔剣再現」である。結局、氏が、倭人伝道里行程記事を適確に解釈できないために、責任を原典に押しつける「付け回し」である。まことに勿体ないので、氏自身でツケを精算するように「猛省」頂きたいものである。

◯道里行程記事の新解紹介
~私見 2023/06/30
 一連の書評で、批判だけで、当方の見解を述べるのを避けているのは、聞く気が無いと思われる相手に「本気で」論じるのは、キリスト教の聖人が飛ぶ鳥に説法する姿を思い出させて、面倒くさかったもので有るが、本件では、氏の読者も含めて、幾許かの「説法」を試みようかと感じたものである。ほんの気まぐれである。

 道里行程記事は、末羅国で上陸して以降の倭地の様子がはっきり分かっていない時点で書かれたと見るのが、妥当と思われる。記事は、狗邪韓国から倭地に至る周旋五千里について、州島、つまり、大海の流れに浮かぶ中之島を飛び飛びに渡ると書いていても、末羅国以降は、不確かな風にとどめているのだから、末羅国から伊都国への「末伊五百里」は、大変、不確かなのである。
 郡から倭までは、「郡倭万二千里」の行程であり、末羅国まで一万里しか書かれていないから、だれが暗算しても、「二千里」が残るのである。
 安本美典氏は、現在の地図上に、末羅国の推定位置を中心に、郡から狗邪韓国までの「郡狗七千里」から推定した二千里の円を、ある程度の推定の幅を持って描く手法で「邪馬台国」の存在確率の高い同心円範囲を描いている。氏の推計の基本は「郡狗七千里」を、いわば、道里行程記事の「原器」、「物差」と見るものであり、誠に、理性的な判断であると賛辞を呈するものである。

 ここで述べる私見では、氏は、現代的な推計手法を採用しているので、古代史史料に対して適用すると、蹉跌が避けられないと見るのである。特に、「郡倭万二千里」は、実測里数に基づくものでなく、周制以来、辺境に天子の威光が及んでいる様を述べるものであり、そのような、万二千里を按分した帳尻の「二千里」が、記事に「明記」された「五百里」とどう関係するのか、わからないのである。
 
 私見では、道里行程記事の末羅国以降は、魏の道里制度の全く届いていない地域なので、折角の「原器」も利用できないと見るものである。して見ると、「末伊五百里」は、百里程度より遠く、最大四千里程度まで届く可能性が否定できないと見るものである。
 要するに、按分の出発点が、「従郡至倭万二千里」をであるから、積算して、一区分上の「万四千里」には届いていないのでは無いかというものである。不確かな推定の積み重ねであるが、概算計算の妙で、いわば、箍をはめていたという推定である。
 念押しすると、道里行程記事を滑らかに読み解くと、「従郡至倭万二千里」の最終目的地は、伊都国であり、「邪馬壹国」は、行程の圏外なので、伊都国からの道里は、書かれていないのである。

 以上の筋道をたどれば、伊都国の位置は、末羅国の南方であるというものの、遠くは、日田、久留米のあたりまで包含できるという解釈が可能であり、「邪馬壹国」は、そこから先なので、無残な原文改竄説に固執しなくても、「邪馬台国熊本」説は、維持できるのである。

◯まとめ~ダイ・ハーデストか
 氏は、好著の最後に改竄説を呼び込み、因縁の躓き石でどうと倒れている。
 1~3の見過ごし、勘違いは、年代物とは言え是正ができるが、4は、容易に是正できない重大なものである。理屈を捏ねても望む結論に繋がらないために、無法な後づけに逃げているので、「病膏肓」、「最上級のダイハード」である。
 氏の不評は、道連れにされている「熊本」にも、「くまモン」にも、大いに不幸である。

                                以上

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