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2023年7月

2023年7月22日 (土)

新・私の本棚 番外 第410回 邪馬台国の会 安本美典「邪馬台国への里程論」

          2023/05/21講演    2023/07/22
*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*明快な指針
 安本師は、本講義でも、劈頭に明快な「指針」を示して、混沌に目鼻を付ける偉業を示されているが、以下、諸家諸兄姉の諸説を羅列していて、折角の指針は、聴衆の念頭から去っていたのではないかと懸念するほどである。
 藤井氏の提言に啓示を受け、背後の地図は扨置き、郡から狗邪韓国まで一路七千里と明記し、俗に言う「沿岸水行」は、見事に排除されている。

*混迷の始まり
 倭人伝「現代語訳」で「循海岸水行」を「沿岸水行」と改訂し、後世に混乱を残したのは、何とも残念である。
 「倭人伝」解釈は、「倭人伝」自体に依拠すべきであり、確たる検証がない限り、遙か後世の東夷に従うべきではない』のではないかというのが、当ブログ筆者の意見であり、以下の諸兄姉の言説は、総じて最初の一歩を踏み間違えているので「論外」というのが率直な意見である。と言うことで、本項では、諸言説を否定も肯定もせずに進んでいる。

 安本師は、「倭人伝」道里が誇張であると称する弾劾に同意せず、地域固有の論理/法理に従って「首尾一貫している」と至当な見解であるが、続いて、後世日本での里制の乱れを紹介し、それ故に『中国に於いて「里」が動揺していた』との不合理な解に陥っている。
 これは、古代中国には無縁の曲解である。後世東夷の事情で起きた事象が、三世紀倭人伝の記述に影響を及ぼすはずがないのは、自明では無いかと思われる。
 中国は、少なくとも秦代以来、厳然たる「法と秩序」の文明国家であり、中国「里制」は、魏晋に至るまで鉄壁不変/普遍普通の鉄則と見るべきと思うのである。楽浪郡は、漢武帝創設の漢制「郡」であり、当然、郡統治は、秦漢通用の「普通里」が、厳然と適用され、帯方郡は、当然、これに従ったのである。不法な非「普通里」が横行していたというのは、とんでもない言いがかりでは無いかと思われる。

 このあたり、安本師の限界か、「倭人伝」解釈に齟齬を見てとって中国の「法と秩序」の不備に原因を求めているように見えるが、陳寿には、反論のすべがないので、素人が僭越にも代弁するものである。

 率直なところ、師の認めた「地域短里」は、秦漢魏晋の「漢制里制」、一里四百五十㍍程度の「普通里」が、『漢武帝が設立した漢制楽浪郡に於いて施行されて「なかった」』という不合理な解釈に依存しているので、残念ながら従えないのである。

*ローカルな話/明帝遺訓の万二千里
 ここで提言したいのは、師の「地域短里」は、地理的なLOCALであるが、ここは、文書内の局所定義という意味のLOCALと進路変更頂きたいというものである。
 別に述べたように、後漢末期の建安年間、遼東郡太守公孫氏は、新参の東夷である「倭人」の身上を後漢、曹魏に報告しなかったが、天子の威光の辺境外の荒地を示す「万二千里」の道里を想定したと見える。
 司馬懿の遼東征伐で公孫氏文書は破壊されたので、公孫氏の想定は明記されていないが、曹魏明帝が事前に帝詔をもって両郡を配下に移し郡文書が洛陽に回収されて、「天子から万二千里」の東夷が明帝の目にとまったと見える。斯くして曹魏皇帝が万二千里を公式に認定し、明帝遺訓となったので、史官である陳寿が金文の如く尊重し、斯くして、「倭人伝」に「ローカル」道里が記載されたと見える。
 そのように筋を通さなければ、公孫氏遼東郡時代の楽浪/帯方郡の東夷管理記録が、魏志に収容された事情がわからないのである。

*まとめ/一路邁進願望
 安本氏に期待するのは「邪馬臺国」がどうであれ、「倭人伝」道里は、最終的に九州北部(北九州)に達する、筋の通った、明快な書法であり、当時の読者が納得したものと理解して、史学論の泥沼を排水陸地化して頂きたい。

 禹后本紀は、堅固な陸地移動を「陸行」車の移動とし、河水の流れに沿う移動を「水行」船の移動としたが、介在する「泥沼」は橇で水陸間を連絡移動していると総括している。

 倭人伝の公式道里記事を、陸地なる「海岸に沿う」と称して、泥沼/海浜を「水行」させる議論は、早々に排除して頂きたいのである。もっとも、正史記事で「海岸沿い」は、陸地の街道と見るものではないかと素人なりに思量するものである。ご一考いただきたい。

                               以上

2023年7月21日 (金)

私の感想 毎日新聞 囲碁 UP TO DATE 「AIとの付き合い、手探り」

AIとの付き合い、手探り 佐田七段「ワンパターンは危険」      2023/07/20 

*始めに
 本日朝刊の「囲碁AI」談義は、専門課が、担当記者の問いかけに適確に応じた興味深い掘り下げが聞けて、秀逸であった。引き合いに出すのも何だが、小生の同窓生である老論客(単なる「ド素人」)は、軽率にも、将棋が勝負の争いで明確なのに対して、囲碁は数の争いで、肝心の臨界値が時代に流された「コミ」で変動しているから、勝敗の敷居があやふやだと勝手に評していて、認識不足は正したものの、これが世間の見る眼かとあきらめたものである。
 素人目には、将棋では、「リスク意識の無いAI」にとって、勝敗は一手の差であるから、当然「先手有利」との「定理」しか無いが、最終盤に至る「読み」では、自分の迷いやすい手筋、相手の間違いやすい手筋が入り交じって、一手、一手の手の「色合い」、質が違うので、安直な数値化を超えていると思う。
 おかげで、名手・達人の争いは、最終盤に大差と評価されても逆転の道が至る所に潜んでいる。時には、まだ先が長いと見えても、回復の余地も可能性もないと見えて、淡白に幕を閉じているように見える。

 素人考えで恐縮だが、AIが、偽物でない本物の「知性」を言うのであれば、(人の)知性を真似るべきでは無いかと思われる。古人に従うなら、指してだけ見て、人の考えか、そうでないか「区別」が付かなくなって、始めて、「知性」と認知されるものである。

*「コスパ」で幻滅
 当記事は、専門記者が、専門家に念入りに相談して、丁寧に書き上げた力作であり、味わい深いものであったが、締めの部分で、当の専門家が、「コスパ」なるインチキカタカナ語を持ち込んで、結末が尻すぼみと見えた。

 その道の専門家が言うのだから、分母に来るべき「コスト」は、使用料などでは無く注ぎ込む思考努力だろうが、個人差が厖大なのにどうやって数値化するのだろうか。例えば、当方は、囲碁に関しては、ド素人である。

 また、分子に来るべき「パフォーマンス」は、何を数値化するのだろうか。獲得賞金額なのだろうか。いかにも、即物的で興ざめである。
 対局中に、囲碁AIを援用することはできないから、専門家の内部にある「棋力」に貢献する事だろうか。それをどのように数値化するのだろうか。あるいは、複数の囲碁AIを比較して品定めしたのだろうか、不思議である。

 分母も分子も不明では、囲碁AIの「コスパ」の科学的評価は不可能と見える。専門家の数値化明細を知りたいものである。

*「囲碁AI論」待望
 冒頭にあるように、世間には、囲碁の勝負は数値で示される成果が「コミ」で調整されるから、確固たる勝敗判断が存在しないと感じている素人野次馬を見受ける。将来、AIによって整理された挙げ句に、先手勝率が高いことになりコミを変えるとなると、議論の芯がずれてしまうように思う。
 将棋界では、羽生善治永世七冠が、かねてより、人工知能が将棋界に及ぼす影響に至言を示しているが、囲碁界は、まだ、人と人が対局する舞台が、AIによってどのように影響されるかについて、定見が出せていないように見える。もっとも、将棋観戦記では「ソフト」評価値など、前世紀の概念が目だつから、将棋界の技術評論の大勢は、まだ、AIに対応できていないとも見える。

*締めくくり
 いや、当記事は、全体として、囲碁界が、AI論に於いて着実に歩んでいるようにも見えるが、タイトルで自認されているように、結末がもう一つである。
 全国紙の専門記者には、今後とも、深く切り込んだ考察を求めたいものである。

                                以上

2023年7月 7日 (金)

新・私の本棚 1 茂在 寅男 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」1/2 三掲

1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程   茂在寅男
        2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09、12/11 2023/07/07 2024/07/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*前置き
 はなからケチを付けるようですが、タイトルで謳われた「実地」とは、倭人伝時代の「実地」ではなく、論者が実際の土地と想定した土地を、二千年近い後世に歩いたという事です。近辺に足を踏み入れたことのない当方には、机上批判しかできませんが、行き届かないのは自覚しているのでご了解いただきたいのです。以下各論も同様です。

 論者たる茂在(もざい)氏は海洋学の泰斗で「九州説」に立っています。また、倭人伝」に誇張や修辞の間違いが(多々)あるとの俗説は採用していません。敬服する次第です。

*冷静明快な里程論
 「二.「一里」は何メートル」では、「郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国をへて、あるいは南しあるいは東し、その北岸の狗邪韓国に到る、七千余里」の書き出しの後に「初歩的算数問題」と評し「問題は着実に解明される」としていて、およそ陳寿の提示した「問題」は、必ず「解明」できるという冷静で知的な立場に関しては同感します。

 また、氏の理解では、郡と狗邪韓国の間、「郡狗間」は、出発・到達点が明記され、その間の行程は「航路も正確に示された航程」と談じて、海図上で大体六百五十㌔㍍と論理を重ねた上で、これが七千里と書かれているから、そこで言う一里とは大体九十三㍍であることは明白ではないか、と見事に論じています。

*渡海論復唱
 続く、三度の「渡海」、私見では、「水行三千里」について、論者は、海図から航路長を推定し、対馬まで約百㌔㍍ 、対馬から壱岐まで同じく約百㌔㍍ と、いずれも、一千里に妥当し、壱岐から到着する末羅国も、同様の航程長と推定し、ここまで、郡から一万里としています。
 いずれにしろ、ここまでの区間は一里九十三㍍で一貫と検証しています。多分、九十㍍とした方が、読者に誤解を押しつけない時代相場の概数であり、適確でしょう。

*批判

 当方が、氏の論調に賛同した上で、あえて、異を唱えているのは、まずは、以上の行程を全て「航程」、「航路」と見ている点であり、三世紀当時、そのような「航路」は言葉として存在していない、つまり、対象となる実体がない、と言うことです。概念の時代錯誤です
 参照された海図は、現代のものであり、当時、そのような行程/航程を辿ることはできなかったと感じます。現に、「魏志倭人伝」には、地図、海図の類いは添付されていません。つまり、当時、史官と読者は、文字だけで論義していたのです。遺憾ながら重ねて時代錯誤に陥っています。

 但し、現代的な「航程」で、総じて六百五十㌔㍍ なら、当時も大差ない行程長とみて、参考にして良いように思います。あくまで、海図もコンパスもパイロット(水先案内)も無しに、想定通りの航行ができたらの話であり、氏の論法に同意しているのではないのです。

 繰り返し力説しますが、この間の行程長の評価で、現代海図を採用しているのは、どうしても同意できません。当時海図も航路もなかったので、渡海船が何里移動したか、自身で知るすべはなかったのですから、この三回の渡海は、移動里数を想定できたにしても、全て、漠然たる推定、目算であって、「正確」とか「完全に一致」とか言うのは、見当違いと考えます。

 と言うものの、論拠明快であるから、同意するにしろ、異を唱えるにしろ話が早いのです。

                                未完

新・私の本棚 1 茂在 寅男 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」2/2 三掲

1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程   茂在寅男
        2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09、12/11 2023/07/07 2024/07/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇水行論
 「三.水行一日の距離」では、論者の豊富な航海知識を活かしつつ、史料記事を参考に考察を進めています。
 これまで同様、「倭人伝」における「水行」の取り違えには触れず、氏の用法に従って論じていることを確認しておきます。

 まず、一、二日を越える航海では、随時停泊上陸し休息を取ったと思われ、所要日数は、非航行日数も含めた全日数を採用したと思われるとして、これを「水行一日の距離」の計算に供しています。この点には大賛成です。体力勝負の漕ぎ手の疲労は当然考慮すべきですが、乗客だって、揺れ動く船室に座っているだけでも、相当体力を消耗するはずです。「随時」などと治まっている場合ではないのです。

 いや、せいぜい数日限りの渡海船に、乗客用船室があるとは限らないのです。甲板のない吹きさらしで、乗客用船室がなければ、毎日、夜間は入港、下船したと見るべきでしょう。何しろ、中原世界に波濤万里の船便移動は無く、また、海船に不慣れな魏使が「金槌」で、船酔いしていたら、連日の移動は不可能もいいところです。

 重ねて言うと、潮流が入港に適した流れならいいのですが、下手をすると港外で潮待ちでしょう。出港の潮待ちも、当然必要です。随分余裕を見ておかなければ、いざというときに期限に遅れ、「欠期」処刑にあうのです。 

 続いてあげている「フェニキア人のアフリカ回航」のヘロドトス著作は、諸般の状況が悉く異なり、全く参考にならないものと思います。また、三世記の当事者の知るところではなかったのです。よって、さっさと証拠棄却です。

 あえて参照するなら、Time and tide wait for no manなる格言であり、これは、しばしば、「歳月人を待たず」とされていますが、ここで、「歳」は、太陽が示す日々の推移、「月」は、月が示す潮の干満であり、誠に、至言の至訳と見るものです。

*帆船行程考証
 郡から帆船航程との想定は、氏も認めるように、帆船は、逆風、荒天時に多大な待機が想定されます。また、当時の帆船は順風帆走だけで、そもそも、操舵ができなかったので、入出港が大事業である上に、障害物の回避も思うに任せないのです。となると、結局、漕ぎ手を載せて操舵するしかなく、一段と重装備になるので、対象海域の多島海では運用不可能と素人考えしています。

 論者自身は現代人ですから高精度の海図で安全航路を見出せても、当時、正確な海図はなかったから、「海図に従う航行」は、不可能だったでしょう。絶対安全の確信なしに、貴重な積荷と乗客を難所に乗り入れなかったでしょうから、とても実務に採用できない事になります。

*漕ぎ船再考
 丁寧に言うと、地域で常用されていたはずの、吃水の浅い、操舵の効く手漕ぎ船なら、難所の海を漕ぎ進めたでしょうが、想定されているような、吃水の深い大振りの帆船は、同様の航路を、適確に舵取りして通過することは、まずできなかったはずです。頼りにしたい水先案内人ですが、地域標準の小船の案内はできても、寸法違いの帆船の安全な案内は、保証の限りでないことになります。と言うことは、早晩難破してしまうのであり、論外です。

 結局、山東半島からの渡海の際は、往来の、出来合の渡海用帆船ないしは往時の兵船を徴発して半島に乗りつけたにしても、南下するのに、そのような渡海船は転用できず、日頃運用している便船を起用するしかないことになります。つまり、漕ぎ船船隊の登場です。この海域に、漕ぎ船が活発に往来していたとすれば、郡の資金と意向で、必要な船腹と漕ぎ手を駆り立てることはできるでしょうが、それにしても、どの程度の行程を一貫して進めるか疑問です。
 当時の地域情勢で、遙か狗邪韓国まで、切れ目なく、闊達な運行があったとは思えません。
 と言うことで、普通に考えて、そのような漕ぎ船船隊が実現した可能性は、相当低いものと見る次第です。(あけすけに言えば、あり得ないものです
 学術的な時代考証であれば、実現性、持続可能性を実証する必要があったものと見ています。フィジカル、つまり、物理的、体力的な実証は、このような疑念を排する基礎検証を経た後で、蓋然性の高い設定で行うべきでしょう。

*半終止
 いや、後世にも名の残るような海港であれば、補助してくれる小船の力を借りて、入出港できたかもわかりませんが、ここに上がっているのは、「海岸沿い」、浅瀬つづきの海なのです。見くびると、即難船です。常時、帆船が往来していなければ、魏使の船は、浅瀬、岩礁の目立つ難所つづきでは、安全な航路を見いだせないのです。

 因みに、当時、東夷の世界には帆布はないので、帆船航行は、小型のものと言えども、実現不可能とみています。地場に帆布がなければ、帆船を持ち込んでも、破損の際に、修理、帆の張り替えができないのですから、定期運行もできません。いや、野性号は、力まかせの漕ぎ船の実験航海ですから、帆船の実験航海は、別に必要なのです。

 と言うことで、万事実証の論者が、辺境、未開で航路図のない倭地の水行で一日二十乃至二十三㌔と推定したのは、軽率というより無謀の感があります。

〇陸行論
 「四.陸行一日の距離」は、論者や周辺の一般人の体力を冷静に観察し、起伏のある整備不良の路の連日歩行は、一日七㌔すら困難としています。訓練不十分な一般人に、武装帯剣の上に数日分の食料を携帯したと見える唐代軍人の規定を引くのは無理との定見に賛成です。

 「倭人伝」で、「草木茂生し、行くに前人を見ず」とは、初夏の繁茂で任務遂行困難を言い立てていますが、定例の官道整備で困難が解消しますから、通行の障害になるはずがないのです。むしろ、切っても切っても逞しく生えてくる植生は中原では見かけないだけに、特筆したのかも知れません。いずれにしろ、官道は、市糴の荷の常用する経路であり、往来活発で、渡海便船着発時には交易物資が往来し、歩行困難の筈がないのです。いや、「街道」ならぬ「禽鹿径」と悪態をつかれるように、牛馬の車輌が通行できない、騎馬疾駆できない、人の担いの径(いなかみち)ですから、中原の街道とほど遠いとは思うのですが、地域基準の整備は当然と思う次第です。

*追記 2024/07/05
 丁寧に言うと、官道往来の日程の基準になるのは、騎馬、ないしは、四頭立て馬車で任務に就く文書使であり、当然、歩行者ではないのですが、こと「倭人」世界となると「牛馬」の労力が得られないので、徒歩連絡による日数規定になるのです。陸行一千里と言っても、中国と倭地では、所要日数に数倍の違いがあるのです。「倭人伝」道里記事が、「倭地」では、道里を詳細に述べないのは、現地事情が不明では、所要日数が説明できないということです。
 「倭人伝」で、「倭地」では、騎馬や馬車が無いのに加えて、街道と言うに相応しい路面整備が無いことを「禽鹿径」と示していて、読者に事情が通じるようにしているのですが、二千年後生の無教養な東夷は、時に、数世紀後の唐六典の規定を引いて論じていますが、陳寿は、唐六典を読んでいないので、議論は空振りです。もちろん、唐六典は、中国国内にとどまるものなので、「倭地」は、全く適用外なのです。かと言って、「延喜式」は、これまた数世紀後の律令制度の産物であり、陳寿は、東夷の国内制度、しかも、後世紀のものを知るはずがないのです。
 いや、茂在氏の論考の書評に、別人の無効な論義を同居させるのは、ご迷惑のことと思いますが、事の序でに、在庫一掃(Liquidation)を図っているのです。

*韓地官道論
 滅却された公道(Highway)
 因みに、氏が一顧だにしていない半島内官道は、遅くとも、二世紀後半に、小白山地の難所を越える「竹嶺」越えが開通していました。つまり、魏の官制に基づき「道路」としての整備はもとより、所定の道里毎に「駅」が運用されていて、休養、宿泊に加えて、給食、給水、さらには、替え馬の用意、蹄鉄の打ち替えなどの支援体制があって、必要に応じて、荷物の担い手を追加することもできたのです。
 もちろん、陸上行程は、足元が揺れて酔うこともなく、難船で溺死する恐怖もなく、「駅」での送り継ぎの際に人夫を入れ替えすれば、人夫の体力消耗、疲労の蓄積を考える必要がないのです。
 つまり、計画的な定時運行ができるのが、街道行程なのです。

*現地踏査の偉業
 論者は、九州島内での現地実証の提言への賛同者の多大な協力を得て踏破確認しています。ここまで率直に机上批判を呈しましたが、空前の偉業には絶大な賛辞を呈します。

 結論では、陸行一日七㌔弱の当初案を減ずる可能性が述べられていますが、夷蕃伝に書かれる日数は、郡との通信所要期間を必達の規定とするため余裕を含めるものです。何しろ、遅刻は、下手をすると処刑なので、大いに余裕を見るものです。官制の根底は、確実な厳守であり、一日、一刻を争う督励ではないのです。

*論者紹介
 末尾の論者紹介では、論者は、商船学校航海科を卒業した後、商船学校教官、商船大学教授として教鞭を執り、退任後、海洋学分野で指導的立場にあったようです。歴史系の著作多数であり、本論関係では、遣唐使船復原プロジェクト等を指導し、海と船の古代に関して該博な見識を備えていました。

 特定分野の大家や企業役員として活動した自称「専門家」の古代史著作は、突出した持論を性急に打ち出すなど、思索のバランスを失して古代実態を見過ごした著作例が珍しくありません。何しろ、「倭人伝」原文の真意が理解できていない上に、当時の地理、技術について、無知に近い方が多いので、批判するのもうっとうしいほど、外している例が、ままあるのです。

 と言うと誤解されそうですが、論者茂在氏による本稿は、そのような凡愚が山積する架空の著作ではなく、対象分野に対して常に実証を目指した力作であるだけに、大きく異論を唱えることができませんでした。いろいろ難詰したのは、氏に求められる高度で綿密な技術考証が、いろいろな事情で、疎かになっていると見えるからです。
 妄言多謝。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11 2023/07/07
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
 「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に、楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が遺した東夷身上書(仮称)に基づいていたのであり、それが、明帝の嘉納によって魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠したところの「史実」だったのです。史官の責務は、史実、即ち、公文書の継承だったので、そこには、二千年後生の無教養な東夷の好んで称する「誇張」は、一切ないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律「行きすぎ」とも見なければならないのです。

 言うまでもないと思いますが、この指摘は、「茂在氏個人に伝世の誤解の責めを負わせているものではない」のですが、いずれかの場所で、と言うか、至る所で、機会あるごとに主張しないといけないので、ここにも書き残しているのです。

                             この項完

2023年7月 6日 (木)

今日の躓き石 滑りっぱなしのNHK「歴史探偵」のつくりもの「安土城」

                   2023/07/06
 本日の題材は、NHKが、「歴史探偵」で、受信料を大量に浪費したと見える「安土城」の幻覚投影である。「VR」と、自己陶酔的に言い換えているが、要するに本物めいた「幻覚」/まやかし画像なのである。出演者は、お遊びで臨場感を愉しんでいるかもしれないが、視聴者にしたら、他人事である。金返せである。

 まずいのは、自虐的に「タイムスリップ」と滑って見せたということである。言葉の意味が分かっていないのでは無いか。まずは、過去の何れかの時点で「実在」していた「安土城」に身を以て移動して、予想外で、行ったきりの移動なら「タイムスリップ」と呼べるが、時間的にも空間的にも、移動していなくて、装着者の視覚がそれらしい物を見ているだけでは、「タイムスリップ」などではないのは、明らかである。
 ようするに、建造物の視覚的な模擬だけで、そこには行っていないのだから、「時間旅行」の幻覚さえ無いのである。単なる、年寄りにとって懐かしい「のぞきからくり」である。また、テレビ番組として、何の驚きもないのは、このネタは、放送済みだからである。

 まさしく、大すべりである。NHK受信料が、このような軽薄なギャグに費やされているのであれば、部分不払いにしたいほどである。

 因みに、毎日新聞で、近来「タイムスリップ」と滑りそうな大見出しに「時間旅行」と書き出していたのには、本気で感心したのである。わかっている人がいるのに救われたが、NHKには救われないのである。

 近年、NHKには、「ロストワールド」と「パリは燃えているか」の二大パクり/盗作紛いがあるが、今回は、パクリ損ないの滑りであり、どっちがどうかと言うところである。

以上

 

 

 

2023年7月 4日 (火)

倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 1/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10 2023/07/04

□終着 道の果て(Terminus 米国南部 ジョージア州都アトランタの旧名)
 良く言うように、鉄道の終着駅は始発駅です。すべての道はローマに通ずという諺の英文(All roads lead to Rome.)は、「すべての道はローマに至る」と言う意味ですが、丁寧に言うと、すべての道は、ローマから始まりローマに果てるという意味です。ここに、「短里説の終着」と示したのは、短里制に関する議論の始発、原点を確認するためです。
 言うまでもなく、「魏志倭人伝」史料解釈の原点に立ち返って、史料の真意、つまり、陳寿の提示した「問題」の題意を確認しようとしているので、そのあと、回答に取り組む道程をどのように選ぶかは、論者諸兄姉、その人の勝手です。
 何しろ、各論者の倭人所在地の比定は「百人百様」であり、不撓不屈の信念と見えるので、第三者がとやかく言い立てるべきではないのです。そのため、当ブログでは、滅多に「比定地論」を述べない「はず」です。

*追記
 全体道里「万二千里」の「由来」と「後日談」に関する考察は、とても、とても、本稿に収まらないので、別の機会に述べることにしました。

*里制論議 諸説の起源
 「倭人伝」解釈に於いて、所謂「短里説」が提起されたのは、倭人伝」の記事を、(「背景知識に欠けた門外漢」、要するに「無資格の野次馬」が、不勉強の無理解で、「天然」)「素直」に読むと、方位、道のりが、日本列島、特に「九州島」内に収まらないように見えて、重大な難関になると見えた点から始まっているとされます。

 「天然」というと、時代用語では憤激を買いそうですが、要するに、現代風の国語教育には、漢文解釈の素養や漢文資料読解時の必須教養などが、承継されていないので、自然に、普通に理解しようとすると、至る所で、躓き石に足元をすくわれているのに、足が地に着いていないので、躓いているのに気づかずに「浮行」(空中歩行)してしまうと言うことであって、別に、文章の行きがかりで不勉強」と言っても、個人を非難しているのでは無いのです。知らないことは、言われるまで知らないのは当然であり、肝心なのは、自身の知識を過信/頼りにしないで、謙虚に地に足を付けるということです。

*短里説と誇張説
 難関回避の一案が、道のりの『里』が、定説の四百五十㍍程度の『普通里』でなく七十五㍍程度の『短里』との解釈、「短里説」です(以下、程度を略)。

 
「普通里」が四百三十五㍍程度としている方が多いようですが、どのみち、大まかな話なので、当ブログでは、切りの良い数字、つまり、一尺二十五㌢㍍、一歩(ぶ)は六尺で、百五十㌢㍍程度、即ち、一.五㍍程度、一里は三百歩で、四百五十㍍程度に「丸めて」います。これが、周代以来唐代まで、長期に亘って大局的に安定して運用されていた「普通里」である/としましょうという考えです。いわゆる「短里」は、公的な制度として運用されたことはなかったと見られるので、対照する必要は無く、単に「普通里」と呼んでいる次第です。

 短里説」は、本来の主唱者である安本美典師が、「魏志倭人伝」の道里行程記事から読み取った一里七十五㍍程度の「道里」であり、実質的に、安本美典師が、四十年ほど前に提唱し、近著でも維持している不朽の提言です。

 一方、巷間、短里には「証拠がない」とする否定的な論議が横行していますが、「倭人伝」に短かい里が書かれているということを理解しないと、倭人伝の道里が理解できないのです。古代史分野では、時には、「証拠より論」という見方でいたいものです。

 そのため、「魏志倭人伝」に通用していた里制は、「普通里」であるが、「魏志倭人伝」記事の道里は、「普通里」の里数を、六倍程度に誇張したとの「誇張説」が説かれています。⑵
 
 あるいは、「魏志倭人伝」記事は、当時の現実を離れた創作であり、信を置くべきで無い、と言う極論として「創作説」まで説かれています。⑶
 
*快刀乱麻症候群~余談
 共に、縺れを断ち切る「快刀乱麻」ですが、それは理解力の乏しい短気な輩(やから)の暴力行使であって、謎を解(ほぐ)し解くという「解答」になっていないのです。

 「乱麻」とは、もつれた糸という趣旨なのでしょうが、西洋古代史で言う「ゴルディアスの結び目」の説話の通説では、貴重な綾織りの糸を、込み入った結び目にして、後世の解明を期待した古人は、「賢人が現れて、込み入った結び目を解いて、貴重な糸を取り出しとそれを編み上げた綾織りの技法を理解する」ことを期待したと思われます。
 要するに、「問題」には、正解があって、出題者は、正解者が現れるのを期待していたのですが、大変有名なマケドニアの若き英雄「アレキサンドロス」大王は、結び目を解すことなく「一刀両断」して、編み上げられた貴重な素材を無に帰してしまったようなのです。

 つづいて、大王は、貴重な素材、至上の富みを、ギリシャ世界、西方の「ヨーロッバ」に齎した東方の「アジア」、当時で言うとアケメネス朝「ペルシャ」との軍事衝突に快勝して、宏大な領域を軍事制覇したのですが、「ヨーロッバ」が求めている至上の富は、得られなかったものと見えます。

 説話の別解では、大王が、巧妙に結び目をほぐしたとしていますが、大王の進撃の様子を見ると、この解釈と整合しないように見えます。

 「ペルシャ」は、東方、南方からもたらされる香料、海産物などの富と、領域内に散在する宝石、貴石奇蹟や各地でバラバラに編み上げられている絨毯などの産物を国王の手元に集中させ、西方との交易に供していたと見えます。
 時代は尚早のようですが、後世中国産の絹布がもたらせる以前、原産していたと思われる野繭(原種)から、細々と紡がれた「絹」が、ペルシャ王の手元に集められ西方に供されていたとも見えるような気がするのですが、大王が、ペルシャ王の支配体制を破壊したことによって、それらの産物の流れは原産地に止まり、「ヨーロッパ」に届くことはなくなったと推定されるのです。

 因みに、大王の死後の混乱から、「ペルシャ」の支配領域東端から興隆したパルティアが、ペルシャ王の残した体制を復元し、西方に拡張された「ヨーロッパ」に興隆したとされるローマから、巨利を得たとされています。

 「快刀乱麻」は、「ガチョウと黄金の卵」のイソップ寓話に通じるものであり、高貴な産物を齎す「ペルシャ」を破壊しても、得られるものがなかった「寓意」を示していると見えるのですが、どうでしょうか。

*「武断」談義~余談の続き
 本題に還ると、「武断」は、「当時唯一の「正史」を編纂した陳寿の名声を破壊して、自身の明察を誇りたかった」ものと理解するのですが、「正史」を毀損して、どこから、「史実」を得ようとしたのか不可解です。現代人には、「正史」の根拠となった、種々の史料の原文を知るすべはないのです。

*短里制支持論
 本記事は、史料の記事(テキスト)を原点とする立場を採っているので、⑵「誇張説」、⑶「創作説」に言及しないことをご理解ください。
 言い訳するなら、これらの説は、学術的見解ではなく、論者の情緒の表明なので、議論が成立しないということが、割愛の理由です。

 また、これらの説は、短里が存在しなかったと主張しているに過ぎないので、短里の存在を証すれば自然に棄却されるということです。

1 「魏晋朝短里」説考
 「短里説」陣営でも、古田武彦師の主唱する仮説が、短里制は、曹魏が支配下の中原領域に施行した全国制度であったというものです。⑷

 それ以降、この短里制は、曹魏を継いだ西晋に継承され、西晋が北方異民族に打倒されたために南遷した東晋で廃止され、普通里制に復帰したとされています。代表的な提唱者は、既に詳解したように、古田武彦師です。

 『魏晋朝短里説』は、かくの如く「非常」(臨時、暫定)の制度と提唱されました。本論は、字数節約して、勝手に『曹魏短里』と四文字略称します。

 因みに、安本美典師は、「魏志倭人伝」の道里が「短い里」であることの論証と「短い里」の実寸の推定に止まり、「短里制」の敷衍は支持していませんから、一線を劃していると言うべきです。

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倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 2/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10 2023/07/04

*「曹魏短里」/「魏晋朝短里」論争
 本説を広く宣言したのは古田武彦師であり、第一書『「邪馬台国」はなかった』において明言し、陳寿「三国志」全体の里数記事用例を対象に、「普通里」か、「短里」かの検証を進めた成果として、史料から『曹魏短里』が証されたとの論議を展開しました。
 
 これに対して、古田師の用例解釈に反駁し、安本師を代表とする異議が呈され、『曹魏短里』はなかったとの議論が提起され、大変活発な論議が行われましたが、陳寿「三国志」全用例から、その当否を証する試みは、いまだ進行中と見えます。
 
 素人目には、短里制度を確実に支持すると見られる用例は少なく、全国制度として施行されたとするには、根拠薄弱というか、事実無根と見られますが、一方、全面的に否定はできないとの論があり、あたかも、レジェンドと化して博物館入りした「臺壹」争いの再現ですが、攻防が逆転し、論法だけは類似しているのが、奇観を呈しています。

*『曹魏短里』制度
 用例論争に比べて不活発ですが、曹魏の全国制度として、短里が施行されたという証拠となる帝詔などが、陳寿「三国志」魏書(魏志)に明記されていないことが『曹魏短里』の支持されない断然有力な理由となっています。

 古田師は、初代皇帝文帝曹丕が、後漢献帝から国を譲り受け、皇帝に就職した際に、国家としての「礼」を、周制に従う帝詔を発したことを引いて、里制は「礼」の一部であるから、それにより、里制も、当然周制に復帰したと解釈しているのです。⑹
 「解釈」と言わざるを得ないのは、里制が「礼」の一部とする明確な定義が見当たらず、また、従来の普通里を短里に変更すると明記されてないことにあります。

 また、文帝は、後漢制度の復興、継承にあたったと評されていて、三国鼎立の臨戦体制で、社会構造の変革/破壊を引き起こす里制変更には想到しなかったと見られることから、古田氏提唱の曹丕改訂は否定的に見られています。

*景初改革
 続くのが、二代皇帝明帝曹叡の「景初暦」改定です。
 明帝は、文帝が後漢朝遺風を継承したことに反対であり、魏朝礼制、暦制の創始、確立を指示し、景初暦採用の際は、礼制一新の帝詔を発しています。
 依然戦時下ながら断行した景初改暦と礼制改定は、国家大綱を改革する「景初維新」の一環として、里制変更が行われたと推定するのが、「景初里制」説です。
 しかし、裴松之の付注(裴注)は、明帝の布令を補足する際に、「文帝の遺制を廃して、殷の暦を用い、殷と同様に建丑の月を正月とし、犠牲や旗に使用する色は、すべて殷の礼を用いた」と「礼記」を参照しながら、景初暦制の執行は宣言され、実行されているものの、それ以外については一切言及していないのです。つまり、明帝の布令は、里制の変更なる「天下の一大事」に触れていないのです。
 

 景初年間は、遼東に割拠した公孫氏を討滅し、天朝の威光を東夷に及ぼした画期的時期であり、里制改定の大事業に相応しいように見えますが、それほど画期的な一大事が、陳寿「三国志」魏書に、明記されていないという克服しがたい難点があります。
 
 また明帝の「景初維新」は、二年後、景初三年元旦の明帝早世によって終焉し、景初暦、並びに、宮殿造営が撤回された所からも明帝自身明言していない里制変更が、曹魏後継皇帝少帝曹芳や司馬晋の皇帝によって、補追完成されたと見るのは、困難(不可能)です

*曹魏短里説の終熄
 曹魏短里」制度は、全国制度としての実施を証することができず、従って、潔く撤回されるべきです。
 なお、ここで確認しないといけないのは、当時は、三国鼎立時代であり、魏明帝がいかに礼制改革を称しても、魏を不法な賊子と見ていた蜀漢が追従することはあり得ないのです。いや、時に、臣従の動きを示していたとは言え、東呉皇帝孫権は、天子として元号を制定していたので、曹魏の不法な制度変更に追従することはあり得なかったのです。特に、東呉は、自身の「正史」を編纂していて、そこに、曹魏の制度に追従することはないのです。

 ついでに言うと、遼東に君臨していた公孫氏は、後漢の臣下であっても、曹魏の臣下とは言えない常態であったので、郡の屋台骨が揺らぐような、里制変革に追従したとは思えないのですが、こちらは、郡としての正史を残していないので不明です。

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倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 3/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10 2023/07/04
2 周朝短里(仮説)の再考/結末
 「曹魏短里」説に於いて、短里は、周制のものとする仮説が述べられました。
 ここでは、周制が短里里制であったが、秦が里制を「普通里」に変え、これが、漢に継承されたが、後漢末まで維持されたが、漢の後継を越えて独自境地を求めた曹魏明帝が、秦漢の「普通里」を解消して周制に復帰した』と見る「作業仮説」です。
 この見方は、「倭人伝」に公式記録されている「郡から倭まで万二千里」の里数が、普通里では、大いに過大になっているとする論難に対する「説明」として、一応筋が通っていると見えるものです。

 この見方は、ほぼ、藤井滋氏の提言を、安本美典師が着実に「倭人伝」道里記事の解釈に応用したものと思われます。

 私見による総括で失礼ですが、本件は、古田武彦師が、漢魏晋代の国制と食い違う地域制度里制の想定を不合理だと見なし、「三国志」が、西晋史官陳寿が、統一した編集方針で編纂した「正史」であるとする見解から、「三国志」全体の道里が「倭人伝」道里と通じているとする「三国志短里」を提唱し、後に、「魏志」に絞り、さらに、魏明帝期から西晋末までに限定した「魏晋朝短里」に集中したように見えます。

 広範囲に史料根拠を求めた古田武彦師の巻き起こした「悉皆」手法による史料精査検証は、二千字程度の「倭人伝」の前半部という局地的な、限定された史料範囲に対する論考であるものの、「倭人伝」論義に深く、広く影響を及ぼし、今日に至るまで沈静していないように見えます。

 しかし、今般、「晋書」地理志を確認した結果、以下に述べる「司馬法」に示された「周制」は、「短里」でなく「普通里」であった、との見解に至りました。まずは、この一歩から、事態の沈静化を進めるべきではないかと思量し、本稿をまとめたものです。
 素人考えにお付き合い頂くのは恐縮ですが、別に、個人的見解を押しつけて、諸兄姉の信念を攻撃しているものではない、もし、これまでお見過ごしにされていたのであれば、ご一考頂きたいというものに過ぎません。

◇「司馬法」談義
 「晋書」地理志に、秦漢以来の諸制度の典拠として引用された「司馬法」は、司馬穰苴(春秋・齊の将軍 BCE500頃か)によって書かれたとされる「兵法書」であり、武経七書の一つですが、史料としては現存せず。所収部は佚文とみられますが、正史である「晋書」に収容されたところから、唐代には、健在と見なされていたものまであり、以後は、正史「晋書」の一部として、維持、継承されたことから、信頼するに足る典籍と見えます。この点は、史書としては散佚している魚豢「魏略」の一部である「西戎伝」が、劉宋裴松之によって、魏志に補注、つまり、参考資料として、伝全体が、善本収容されたため、今日まで、健全に継承されていることと通じるものがあるように見えます。
 「司馬法」に関して言えば、唐代の権威者が、正史の志部の要諦として信頼を置いたという「見識」を尊重すべきだということです。
 
 司馬法」条には、秦朝が周制由来とした里制に基づく諸公所領などが規定されているため、秦漢制の基礎として「晋書」地理志に引用されているのです。

*「周髀算経」に依る短里説
 周制短里の論拠として、谷本茂氏による周髀算経の検証により、周代に七十五㍍(程度)の里長が知られていたとされています
 ただし、これは、せいぜい、周代の教養人の常識として、太古以来の「遺制」として「短里」が知られていたと見える』だけであり、周代に国家制度として短里が有効であったと証するものではない』ように見えます。

 「普通里」が厳然と施行されていた漢代に通用していたと見られる「九章算術」(幾何・算法の教科書)には、一日三百里走行する駿馬が示される例題がありますが、これを古制の残影と見るというより、解法で示される計算過程を見ても、分数計算が不要となるように桁上げされている可能性が有力です。
 ついでながら、実務を重視している同書の「課題」全体として、「普通里」に基づく、「里」(り)、「歩」(ぶ)が通用していて、共に、面積単位としても通用しているのは、貴重です。つまり、これら算法教科書の記事は、周朝短里制の根拠とはならないのです。

 少なくとも、俗に『周礼』とされる儀礼体系の中に、短里制が組み込まれていたと云う証拠はありません。むしろ、周里制は「普通里」であり、「普通」の名にふさわしく、「明記しなくても、当然自明なので書かれていないだけで、事実上明記されているのであり、厳然として適用されていた」と見えるのです。

*里制不変説
 以上を合わせて考えると、以下のように思量します。
 周朝国家制度として「短里」が採用されていたという証拠がありません。
 証拠がないのは、そのような国家制度はなかった証拠です

 従って、魏文帝、明帝が、周制回帰を謳ったとしても、周制に短里は含まれず、結局の所、「曹魏短里は無かった」のです。
 もちろん、「大夫」を、陳腐な庶民の階級から、皇帝に準ずる高官に復帰させたほど、周制の復活に精力を傾けた、新王朝の皇帝王莽も、里制には手を付けていないのです。

3 地域短里説の堅持
 「魏志倭人伝」短里説の旗手とされた曹魏短里は無効、後ろ盾の周制短里も根拠薄弱では、短里説そのものの当否が問われる事態になっています。しかし、「魏志倭人伝」の道里が、短里と見えるという解釈は、依然として揺るがないのです。
 
 今や孤塁となった「地域短里」説ですが、時に批判の論拠となっている「三国志全体が普通里制として、なぜか、そこに短里が紛れ込んで混在している」との評価は、評価者の深刻な認識不足です。

 行程道里記事の冒頭で、郡から狗邪韓国までを「地域里」で規定する「宣言」/「里原器の定義」がなされ、伝末まで全て「地域里」なので、「倭人伝」を通じて首尾一貫した語法が敷かれていて、「混在」などしていないのです。
 言うまでもないと思いますが、倭人伝に限定して提起された「地域里」は、後続されている呉志、蜀志に効力を及ぼすものでは無く、また、魏志全体に遡って効力を及ぼすものでも無いのです。効力を及ぼそうにも、周制以来の「普通里」との換算が示されていないので、統一しようがないのです。
 当時の読者としては、「倭人伝」冒頭で、『以下は、「ここ」だけ限定、ここ限りの定義ですから、目前の「倭人伝」に集中してください』とでも一声をかければすむことです。何しろ、『正規の街道はないし、牛馬のいない、「無文」の蕃王界』ですから、道里に意味は無く、所要日数が肝要なのです、とでも示唆すればすむことなのです。
 何しろ、後漢末建安年間以来、魏明帝景初年間までの長きに亘って「不法」に東夷を管理していた公孫氏が、結果として明帝を欺いたために、道里の潤色が「正史」に記録されたのであり、魏志巻末の蛮夷伝という位置付けを考えれば、『郡から倭まで万二千里という「公式道里」に、実質的な意義が無い』としても、西晋恵帝時の当時の皇帝、高官、権威者に許容されたと見るべきなのです。いや、許容されなければ、「倭人伝」は、無傷で生存できなかったし、劉宋裴松之の怜悧な慧眼を免れることができなかったのです。

 農地面積表示の「方里」は、「道里」ではないものであり、つまり、一次元と二次元で異次元なので、「別格」なのです。「方里」は、当該領域の土地台帳に記帳された「歩」(ぶ)、「畝」(ほ)、「頃」(けい)なる、度量衡とは別由来の単位系に属していると見られますが、従来は、道里の「里」を一辺とする方形領域と「素直に解され」、あるいは「誤解されて」、今日見られる混乱を招いたものと見られます。
 言うまでもありませんが、史官である陳寿は、西晋代まで健全であった「九章算術」の訓練を受けているので、二千年後の東夷の無教養な誤解は免れていたのです。

 論理の帰結として、三世紀に書かれたと見える「魏志倭人伝」の道里記事に記載された朝鮮半島中南部以遠、「韓国」の南に接する「倭」の道里に、短里が適用されているように「見える」と見るべきです。

*2020年時点の達観
 文献史料に記載が無いので、なぜ「短里」と見える「里」が適用されたかは、未確認です。
 そのような「道里」が、「魏志倭人伝」で有効であったとする根拠は、「魏志倭人伝」そのものですから、広く用例を探ることに意義は無く、本説を否定することも困難です。

                                未完

倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 4/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10 2023/07/04

*周制回顧
 ここでは、主として、「晋書」地理志所収の「司馬法」に規定が書かれている、周制に始まり魏朝に至る里制について考察します。
 
 当記事の一部として創作した概念図から、まず見て取れるのは、周制の単位系が、一尺25㌢㍍程度の「尺」から、天子の領地にあたる一辺一千里の「畿」まで、ハシゴ段(階梯)に欠けがないよう、十倍、百倍で続いているのです。(「井」、「里」の下で三倍、九倍になって例外となっていますが、例外があるのは、それなりの事情あってのことです。例外があるから、「例」が証明されるということです)
 
 丁寧に追いかけると、里から尺に下る単位系と里から畿に上る単位系は、趣旨が一致しないようですが、この点は本論に関係無いので、取り敢えず、割愛します。
 

 当概念図は、当方が自習用に作成したものであり、晋書」所収の司馬法は、当然、言葉の定義だけですから、概念図の出来具合は本論に関係無いのです。

*綿密な単位体系
 周制に始まる「単位系」は、このように綿密に築かれているので、里を1/6、ないしは、6倍に伸縮すると、尺、歩に始まり畿(一辺千里)に至る「単位系」の階梯が連動して乱れるので、天地崩壊とも見える大混乱無しに実施できないのです。
 なお、「里」(り)に始まり、「歩」(ぶ)を経て、度量衡として運用されている「尺」に下る部分は、全体として「歩」(ぶ)に綿密に連携していて、歴年保守されてきた土地台帳に常用されている「畝」(むー)を含んでいるので、国家的、社会的に大混乱を起こさず、単位の実施することはできないのです。 
 総じて言うと、周制でこうした単位系が始めて構築、公布されて確定して以降、里長の伸縮は、歴史に深い刻印を残さずには不可能だったのです。

*周制以降
 なお、ここで提示しているのは、殷周革命により周が天下を把握して、相当部分で殷制を踏襲した「周制」の公布後は、全単位系を動揺させることなく里を伸縮することは不可能、というだけです。
 里長や換算係数の当否は本論に関係無いので議論しません。
 
 司馬法の「周制」以前、つまり、商(殷)の単位系は、史料に残されてないので実体不明であり、短里の由来や時間的、空間的棲息範囲は、今となっては憶測/夢想しかできないのです。

 「魏志倭人伝」が、地域制度倭人伝限定の里制の孤証です。例外として適用されているので、当然、他に用例はありません。

 ここまで、確実な歩調を保っていたので、滑ってはいないはずです。

                         未完

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倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 5/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10
*変動する天下の広さ
 「司馬法}の単位系展開の最後は、周制の「畿」に至る広域の定義です。
 天子の領域とされる「畿」は、一辺千里の方形と思われ、「里」から「里の千倍」に至る過程は、面積十倍(一辺3.16倍)刻みで、隙無く定義されています。つまり、周制が確固として定まった有史時代、里は変わりようがなかったのです。

 もちろん、周時代、王畿を実測測量して、一辺千里の方形を得たわけではなく、「畿」は、周王の領分が諸公領分の一段上との「秩序の理念」を示しているのです。(面積十万倍 一段下位の「封」は一辺三百(六は誤記)十六里と表記)

 また、「司馬法」で「領分」は、軍制規定の基本であり、それぞれ、領分の広さに応じた兵士の数が、義務として定義されています。
 天子は王幾に在り、諸公は、四方で蛮夷の侵入を防いで「中華世界」を護るのが「天下布武」なのです。

*軍制への波及
 秦始皇帝は、周制を採り入れるに際して、諸公軍務を数字だけで算定する形式的な制度が、防衛体制を形骸化して無力なものになり、西周末期に外夷侵攻を許し亡国を招いたのであり、秦は周制を全面踏襲しないとしました。

 そのように、周制の面積単位系は、周代の諸公軍務の原則を決定しているものであり、秦漢でそのまま遵守していないとしても、国政の原則となっていたので、その一部である里制だけを変更はできないということです。

*郡国志
 郡及び国の所在地と方位、道里は、正史の志部、後漢書であれば「郡国志」に明記されます。(「魏志」には「志」が存在せず、笵曄「後漢書」も、「志」書いていますが、先行していた司馬彪「続漢書」の「志」部が後世、追加、補充されています)
 先に述べたように、土地制度の実用単位「畝」や「歩」が書かれていた土地台帳が、堅実に維持されていたため、南北朝の分裂時代を歴ても、再統一される唐代に至るまで不変でした。また、「道里」の物差である「里」を伸縮する改定は、日常生活にほとんど影響しないのですが、古来、正史の史料篇である後漢書「郡国志」、晋書「地理志」、宋書「州郡志」に収容されている公式道里は、凡そ正史の改竄ができない以上、不変だったのです。

*「舊唐書」倭国道里談義~余談
 後世ですが、舊唐書「倭国伝」は、「伝」に必須である道里条を立てていて、「倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。」先行正史を要約/節略しつつ、唐代史料にある「倭国」は、後漢書にある「倭奴国」を継承するものであり、当時、「新羅」の東南大海中在る、としていますが、厳密に正確な継承かどうかは、課題となります。なお、「道里」の基点は、同書「地理志」で「京師 秦之咸陽,漢之長安也。隋開皇二年,自漢長安故城東南移二十里置新都,今京師是也。」と総括しているように、実質上、秦・咸陽、漢・長安、隋・新都は、唐・京師と同一とされています。これに対して、後漢・雒陽は、唐代、東都/神都/東京などと称されていますが、「西京」と称されることになった「京師」とは区別されています。因みに、東京は、「在西京之東八百五十里」とされていますが、これは、見たところ、漢代以来、公式道里として維持されているようです。

 と言うことで、あっさり総括すると、唐の京師から倭国の「道里」は、「魏志倭人伝」の「万二千里」と同様に概念的なものであり、行程を明示しない、また、長安-洛陽間の公式道里を考慮しないものと見えます。
 案ずるに、唐代に「倭国」に至る公式道里を評価した際に、実道里の測量などしなかったものと見えます。つまり、「魏志倭人伝」の「万二千里」を遼東太守公孫氏の見立てなどと解釈/誤解せず、当時の「雒陽基点の概念道里」であったと見て、唐代には、唐側の基点が「京師」に遠ざかって、「天子の権威から一段と遠隔になった」という意義から、道里も一段階格上げして、「万四千里」としたものと見えます。

 その際、行程が、遼東郡、ないしは、楽浪郡を経由したことになっているか、山東半島から渡海したものかどうか、などの「考証」は、一切、抜きにしていたと見えます。と言うのは、隋代裴世清、唐代高表仁の使節は、魏志倭人伝に確固として明記されている「公式行程」である帯方郡からの陸上経路は採用せず、山東半島を発して黄海を南下し、耽羅で東転して、壱岐に「直行」する帆船に適した経路としているので、「魏志倭人伝」に明記された「公式道里行程」は、不採用だったと見えるのです。
 いや、遡って、正始魏使の行程も、公式道里行程は遼東公孫氏時代の遺物と見て、不採用で、帯方郡治には立ち寄らず、唐代統一新羅が置いた「唐津」(タンジン)に確立されていた施設、人員の整った海港を経由したものと見えるのです。そのような「不正規行程」は、皇帝に報告できず、公式文書に書けなかったものの、実務/内部文書として長く継承されたのではないかと愚考するものです。
 そのように勝手な臆測を物するのは、現在の混迷した「倭人伝」談義の解明に有意義な異説ではないかと思量するからです。

 このような、公式道里と実体との乖離は、一時交通が途絶えていた「倭国」の行程道里に限ったものではなく、程度/由来は異なっても、南朝を撲滅して全国を統一した唐代において、周秦漢代以来、営々と継承していた天子から各蕃夷への行程道里が、実際と(時に大きく)乖離していることが問題になり、征討軍の派遣や現地総督の呼集の際に齟齬を来さないように、実行程道里を実務で補正していたようであり、そのような混乱を是正すべく玄宗皇帝が号令して、各地への行程道里を精測させた成果が「入四夷之路」として地理志に掲載されていますが、さすがに、太古以来継承されている公式道里を改訂することは、不可能だったと見えます。

*東夷継承
 こと「倭国」に関しては、新興「日本」に取って代わられただけに、「倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里」の「軛」を免れたものと見えます。つまり、「日本」は「倭国」の正統な後継ではないということになりますが、あくまで、これは、一説に過ぎませんので、諸兄姉が、自説に採り入れるのであれば、ご自身の責任で史料考証されることをお勧めします。

 本題に還ると、帝国の威勢を示す全土(天下)広さや各国道里が大きく変わるのは大問題(つまり、あってはならない不法、大逆行為)です。「王幾」の広さが変わると、中華世界の広さ/大きさも変わるのですから、天下の一大事なのです。もし、中華世界の広さ/大きさが、変われば、周囲を取り巻く、蛮地、荒地の範囲も変わることになりますが、だれも、実測できないことですから、問題になることは少ないでしょうが、理屈はそういうことです。

 この辺りも、里制変更を、正史史料篇である「地理志」などに明記しないといけない理由です。いや、一切明記されていないというのが、里制変更のなかった、絶対的な根拠なのです。

*不可能な使命
 因みに、少なくとも、魏晋代に到る古代には、小数の概念がなかったので、簡便な掛け算/割り算計算が、ほぼ不可能であり、その意味でも、全国に波及する里制変更はあり得ないのです。また、千里を超える道里の一/六倍の計算では、概数の切りの良い数字が半端になるのも、難点です。これは、何らかの計算器具で換算しても、記帳が困難となるので大事件です。
 最後の決め手として、「公式道里」の改竄は、天子すらなし得ない、天に背く大罪であり、実行不可能と見えるのです。と言うことで、公式道里でない、列伝記事などでは、「普通里」や「公式道里」から乖離した不正規道里が見られるかも知れませんが、それは、あくまで「不正規」のものであり、史官には、是正の仕様がないものだったので、陳寿ほどの同時代に至高の史官も、これには是正などしていないのです。

*正史記録の不在は「史実」の不在
 つまり、これほどの天下の一大事が正史に記録されていないのは、一大事などなかったからと見るべきです。

*記録不在の意義
 時に史書に記事が無くても「無かった」とはならないとの強弁がありますが、天下の大事件を書かなかったのは「無かった」からに違いないのです。
 正史に書いてなくても、知られている史実は明白だから、そのように書いてあるものと見て、そのように「改竄」して読むと言う態度は、一部ね牢固たる古代史論者の「常套手段」です、最後の隠れ穴ですが、安易に真似してもらいたくないのです。
 史料は史料としてそのまま読むという基本原則に従うと、里制変更の主張には、明白な証拠が必要です。

 史料解釈は、史料自体による解釈から「始発」すべきではないでしょうか。

                                未完

倭人伝随想 15 倭人伝里程の話 短里説の終着駅 6/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10 2023/07/06
□余言として
 以上の議論の補足として若干余言を述べます。

*地域表記宣言
 ここまでの地域短里、地域水行宣言に比べると地味ですが、「魏志倭人伝」が、郡から狗邪韓国まで七千餘里と千里単位で書き出したのは、「倭人伝道里」は千里が単位で、百里桁は無視という宣言です。

 直後の郡からの沿岸水行里数も日数も書かなかったのは、端数は書かない、無視したとの宣言に他なりません。(そのような水行などなかったという見解が後出します)

 時に苦言を呈される「魏志倭人伝」独特の書き方、地域表記は、全てと言っていいくらい、冒頭附近で宣言されていて、編者陳寿の叡知と見るべきです。そうで無ければ、高官の閲読の際に不意打ちの衝撃を与えるため、激怒を買いかねないのですから、冒頭部分で、定義して予告するのが、最善策なのです。

 諸兄は、これを理解の上、それぞれの道を選んでいただきたいものです。

*部分里程総和
 古田武彦氏は、『「邪馬台国」はなかった』において、「魏志倭人伝」道里行程記事の全体里数と部分里数の総計は「厳密に」一致するという趣旨を提示し、これに強くこだわったため、「冒頭水行」や「島巡り」里数の以降などと、込み入った記法を唱えて、書かれざる端数里数を発掘し、数字合わせしています。

 
これは、以上に示した「魏志倭人伝」書法を見落としたための誤解であり、当方の見る限り、『「概数計算によれば」、全体里数と部分里数の総計は一致する』と訂正すれば、そのような誤解は解消すると思います。
 そうでなくても、自身の仮説に整合させるために、史料の行間、紙背から、端たの数字を取り出すというのは、氏の史料観を外れているように思います。

*端数里程について
 一例として、「倭人伝」が狗邪~末羅を渡海三回三千里とした意図に反し、島巡りの端数里程を「発掘」したのは、「魏志倭人伝」の里程観を見損ねたと見るのです。
 「魏志倭人伝」が、些末は理解の妨げと省き、「渡海千里」を、「又」記法を利用して、簡潔に概括した意図に従い解すべきです。つまり、総計算で編者達が熟慮の上捨て去った端数を拾い戻すのは、千里単位の概数構想(日数は十日単位、一日三百里)と合わないのです。
 
 これは、概数計算で大局的に整合させて書かれた記事に場違いな厳密さを求めた不合理であり、史料は、書かれたままに読むという方針を踏み外しています。 

 三国志の権威として令名をはせている「大家」が、議論に窮した事態からの最後の逃げ道として、全「三国志」を読んでから議論しろと自陣に逃げ込んでいる「カタツムリ」戦法に染まったのでなければ幸いです。
 
 どんなに明晰な理論に基づいて考察していても、万事に適確(適度に正確)な史観を持ち、適用するのは、この上もなく困難で、誰も、完璧ではないのです。

*参考資料 (誤解、見過ごし 御免)
 ⑴ 方位、里程論:倭人伝短里説は、安本美典氏の創唱と見えます。
 ⑵ 誇張説:   古来、事例多数につき、省略します。
 ⑶ 創作説:   岡田英弘氏を始めとして、渡邉義浩氏の独断的見解が、諸処に見られます。
 ⑷ 里制用例論議:曹魏短里説は、古田武彦氏の創唱であり、山尾幸久氏、白崎昭一郎氏等との用例解釈論争が知られています。(『「邪馬台国」はなかった』等)
 ⑸ 曹魏布令論議:文帝布令説は古田武彦氏『「邪馬台国」はなかった』の示唆により、文帝提唱明帝布令説は、古賀達也氏の著作に見られます。

                                完

2023年7月 3日 (月)

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 爆縮版 1/4

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である      2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30 2021/12/10 2023/07/03

◯「爆縮」版公開の弁
 本稿は、若気の至りで、大部になってしまったが、今となっては、細部の指導に意味はないと見えるので、冒頭部分に「爆縮」して、おしまいにするものである。と言っても、講談社編集部に対する苦言に対し、当事者から何の反応も無いのは、依然として遺憾であると申し上げる。

*前置き
 本書は、刊行以来十五年間当方の目の届くところに来ず、二〇一八年になって初めて目について購入した。実に、美麗な想定であり、講談社の出版物であるから、権威を持ったものと感じてしまうのである。ただし、書評を見かけないので、絶賛、好評ではないようである。
 いや、古代史分野では、タイトルを大きく構えた書籍は、見かけ倒しが多いので、大抵は御遠慮申し上げるのだが、今回は、手元の書き物の参考にと購入、一読したのである。後悔先に立たずである。

*総評
 結構迷ったが、最悪の判定、星ゼロとなった。「金返せ」である。
 当方の好みに合わないだけなら、買わない、読まないで、何の迷惑もないが、本書は、確実な史料に基づき、先入観、俗説を廃して、まじめな議論を進める」と銘打って読ませながら、突然変節して裏切っているのである。
 より重大なのは、そのような変節の兆しを表明せず、読者を落とし穴に導く書法を取っているからである。
 重大な策謀であるので、ここに高らかに宣言するのである。それでも、あえて買い込んで読むのなら、それは、ご当人の「酔狂」である。できれば、図書館の利用をお勧めする。

*警告~2021/12/10
 事前に警告しておくが、氏の「用語」は、他に例のない独特のものであり、時代錯誤と重ねて、氏の論考の文意理解を困難にしている。そして、そのような「異様な」「用語」世界を通じて、倭人伝や諸先行文献の解釈を聴いても、何のことか掴めないのである。
 そして、天下の講談社が、そのように用語が混乱している不法な書籍を、編集、校閲せずに「単行本として」出版した意図が知れないのである。世上には、「倭人伝」解説書はデタラメなものばかりだという非難が見られるが、本書は、そのような非難に結構寄与しているものと見えるのである。

 当ブログ記事は、世上諸書籍の典型、平均値ではないが、最悪では無いとだけ申し上げる。近年、新書形の「書籍」は、「持ち込み原稿をそのまま出版する」例が珍しくないから、もっと、編集・校閲の欠けた書籍も有りうるのである。「下には下がある」のである。

 当方も人間であり、見せかけの抱負に共鳴して、肯定的な書評を書き始めたが、当方が支持できる発言を拾おうとして飛ばし読みして、出てくるのは、トンデモ発言ばかりで、座り直し、読書眼鏡を磨いて、丁寧に読み進んだのである。評価が手厳しいのは、騙されたからである。
 と言っても、書籍編集の専門家ではないから、素人の技で万全ではないから、見当外れや指摘漏れがあっても、ご勘弁いただきたい。
 書籍購入代金は、やりくりで埋め合わせするとして、否定的な書評を何とか建設的な苦言にと書き整えた努力は、当方に特に得るところがないから、限りある時間を奪われた恨みは尽きないのである。また、当事者の反論も弁明もないから、改訂の度に指摘がきつくなるのも、ご容赦いただきたい。

*プロローグの酔狂
 冒頭の一幕は、新説開示の枕として、別に異例でもないが、「著者が天啓を受けて、本書の論説の理路を幻視した」というのは、当人にはそうだろうが、他人が一切知り得ない思考世界なので、神がかりを自慢されて同感も否定もできない。
 大事なのは、「神がかり」を契機として構築した所説が実証できたかどうかである。実証のない天啓は、個人的な幻想である。ざっくり言って、天啓の90%は「ゴミ」である。それが耳障りなら単なる「錯覚」である。高々と謳い上げるべきものではない。

 ちなみに、古田武彦氏は入浴中に道里説解決の天啓を受け、そのまま飛び出したので「アルキメデス的天啓」だが、大事なのは実証であり、氏は、それ以降順当に論証しているが、本稿を含めた当方の指摘で「アルキメデス的天啓」は覆っている(と、勝手に思う)。

 当方は、やはり湯船で、今書いた氏の天啓説への反論を思いついたが、別に興奮せず、飛び出さずにそのまま入浴を続けた。成り行きは、まことに陳腐だが、反論は有効だと信ずる。

*安請け合いの非~罪状認否
 末尾に「知的興奮」と言うが、推理小説でもあるまいにどんでん返しや犯人捜しは論外であり、読者は、真理に触れ、知識を深めたいのであって、心地よく騙されることを期待して読んでいるのではない。

 盗まれたと思われることは「絶対にないであろう」と言うが、口先だけの強調表現の大安売りで騙すのは、「盗み」とどう違うのか。要は、「騙りは犯罪」である。

                                          未完

 

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 爆縮版 2/4

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である        2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30 2023/07/03

*約束破りの書き出し
 ノンブル(ページ番)は「プロローグ」から始まっているものの、論議はここから始まる。
 本書で、早々に、倭人伝解釈を、「中華書局本」に基づくと高々と宣言していながら、そこに、妥当な根拠を一切示すことなく誤字論を導入しているが、唯一の依存史料が誤りとの根拠は示せるはずがない。端から不合理で「虚言 」癖を疑わせるが、まだ早々なので、辛抱する。

 続いて、諸兄の倭人伝の地理・行程論を「既存諸説の批判」の形で展開するが、「諸説」とその批判は、勝手に選別されている。自身の選別見識も、また選別すべきではないかと思われる。
 
また、その際、地理・行程論に不可欠な『倭人伝「里」の長さに対する議論が欠落している』のは、大変お粗末である。
 著者の結論として、倭人伝には、「邪馬壱国」が九州島内と書かれていると断じた上で、一転「倭人伝」は誤記と断じているが、論拠となる史料による妥当な根拠は示されない。まさしく、神がかりである。
 ここまでで、著者の不見識と誤謬が露呈しているから、ここで投げ出してもいいのだったが、ついつい、追従したのである。

*根拠なき先入観
 著者は、はなから「邪馬壱国」は、遥か東方の今日言う奈良盆地方面にあったとの確信/錯覚を持ち出して、そこまで書き立てている「倭人伝」の史料解釈を捨て去る。つまり、先ほどまで紙数を費やした諸説批判は無意味な字数稼ぎでしかない。嘆きたくなるのである。
 誰やらの「古代史家全員嘘つき」論を想起させる。

*ボロボロのエピローグ
 「エピローグ」では、本書は、思いつき(神がかり)の論旨を短縮日程でまとめて一丁上がりとし、編集部に超特急校正させて(もろに書いてはないが)、(不備だらけで、ごまかし満載の)著書を(無理矢理)世に出したと誇っている。
 そんな著者のやっつけ書籍を、一流出版社が世に出したのは、会社ぐるみのペテンとの疑惑が否定しがたい。講談社は、恥を知るべきである。
 また、当人は、少なからぬ私財を投じたと示唆しているのだろうが、読者には、関係無い話である。
 私財を投じて購入する読者にしてみれば、とんでもない話である。
 参考文献一覧と謝辞を備え、用語索引を整備する水準の著作を志したのではないか。

 当書評は、しきりに本書の用語の混乱を語っているが、用語索引を作れば、初出箇所と後続の箇所が目に見えるので、初出時に、誤解を防ぐ手当をするなり、自己校正で低次元の用語混乱は、容易に発見でき、是正できたと思うのである。
 どんな無残な失敗も、世に出す前に発見して是正すれば、ないのと同じである。と言うか、誰でも、勘違いや思い違いはあるから、何とかして、手の内にある間に、誤謬を発見して是正するのである。
 著者は、その程度の初歩的な、つまり、最低限の必須手順を手抜きして、何を得たというのであろうか。
 それが、素人に思いつかないこととしても、一流出版社「講談社」の編集子には、当然の手順であったはずである。

 してみると、ここに氏名入りで、編集不備の責任を押しつけられた両編集子は気の毒である。
 ただし、当書評で批評されているのは(最高かつ最終)責任者たる発行者であり、一流出版社としての業務基準と是正ルールの欠如である。担当者を責めているのではないから、御安心いただきたい。
 これでは、星無しにせざるを得ない。いや、マイナス評価が書けないのが残念なほどである。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 爆縮版 3/4

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である 2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30 2023/07/03

*批判の幕開き
 単なる思いつきで非難したと思われると、ブログ筆者としての沽券に関わるので、ここから後は、くどくどと丁寧に指摘する。
 言うまでもないが、当記事全体は、一私人の個人的な意見であり、他人の意見を押しのける排他的なものを意図したものではないが、一説として意義のあるものと自負しているので、あえて公開しているのである。

*看板に偽り~高度なタイトル論議

 大事なタイトルに、著者の時代錯誤が現れていて、読むに値しないと門前払いになりかねないのである。

 二〇〇〇とあるのは、古代中国になくて、遥か後世に紹介された零の概念とか、位取り多桁計算とかの視点であるが、そのようなものは、魏晋朝時代の中国にも、倭にも存在していなかったことは明らかである。当の時代・地域に存在しなかった、後代・別世界概念を言い立てる時代錯誤は却下されるべきである。

 次に問題なのは、倭人伝を二〇〇〇字と称している点である。現代人感覚と言うか、学校での教育訓練によれば、二〇〇〇字とあれば、一字の多少もない二〇〇〇字キッチリであるから、これは誤っている。つまり、間違っている。

 と言うことで、数値表現の時代錯誤と不始末を避けるには、魏晋朝に存在しない概念を一切導入せず、「魏志倭人伝二千余字に謎はない」と書かねばならないと「史学素人」は信じるのである。倭人伝「余」論は、すぐ出てくる。

*概数の理解欠如 普通の誤解
 百字単位に何らかの意味があるなら、千九百余字と書きそうなものであるが、そう書かないのは、百字単位概数の意義を適切に理解しているように見せている。つまり、偽装である。

 著者が、この理屈を理解していないのは、行程論(p114)で、一五〇〇余里と、時代錯誤の多桁表示で一里単位まで表示しているのでわかる。つまり、里数には、一里まで意義があるように表現し、かたや、世上の誤解に追従して、「余」を端数切り捨てと決めている。

*倭人伝「余」論
 倭人伝の里数、戸数は、例外を除き、「余」であるが、全て、プラス端数、端数切り捨てだろうか。

 『倭人伝の「余」』は、「程度」の意であり、「多少は不明」と解すべきであると考える。義務教育の算数程度の知識があれば、容易に理解できるはずであるが、著者に理解できなくても、当方は、著者の教師ではないので理解不足を恨まないで欲しい。

 簡単な常識であるが、概数がすべて切り捨てだとすると、戸数や里数の加算計算は、項目が増えれば、切り捨てが累積して、とんでもない誤算になるのである。当時、「世界」唯一の文明国が、そのような統計管理をすることは、あり得ないのである。
 少なくとも、司馬遷「史記」以来の史書編者は、周代以来の算数教育を経た、「数字に強い」筆者を擁しているので、そのようなつまらない誤算はしないのである。端的に言えば、「余」は概数の中心値を示しているのであり、項目数の多い加算でも、個別の端数が打ち消し合って、誤算しないのである。些細なようで、大変重要な基礎知識であるので、理解できない方は、中高生程度から、出直して欲しいものである。

 戸数で言えば、五万余戸と二万余戸を足せば、七万余戸であり、これは、五と二の足し算であるから、当時の教養人なら、容易に暗算できる程度である。他に、千戸単位、ないしは、それ以下の端数戸数/家数があっても、全国戸数の万戸単位の計算では、無視できるのである。

 世に、倭国三十国の戸数表示のない国にも、戸数があるはずであり、『塵も積もれば』で推定すれば、千や二千の戸数が出る」と、勝手な推測を述べている向きがあるが、何重もの誤謬を重ねているので重症である。

 まず、戸数は、何軒の民家があるかという数字ではなく、戸籍に登録され、農地を割り当てられ、耕作と貢納、徴兵の義務を背負っている、いわば、有産者の数であるから、国によって、戸籍がないと戸数の把握はできず、あえて申告させれば、国主含めて、一戸とか数戸のところが多いはずである。
 帯方郡の指示に対して戸数が表明されていないのは、戸数があっても、万戸どころか、千戸にも届かない「はした」であることを明示しているのである。

 つまり、「倭人伝」に表明されている公称戸数、全国七万余戸が「正しい」のである。「従郡至倭」の行程上の倭人の「国」は、対海、一大、末羅、伊都の諸国であり、各国戸籍に基づいて、千戸単位で表示されているが、それ以外の「余傍」の国は、不確かな戸数を載せているとみられる。
 そうした余傍の国別の戸数明細は、「倭人伝」の記事体裁を整えただけであり、郡は、個別に管理しているわけではないから、国ごとの戸数には大した意義はないのである。まして、行程上の千戸台の戸数は、それぞれの「国邑」が、太古以来の隔壁集落であると示しているのである。誠に、史官の寸鉄表現は、寡黙に見えて雄弁であり、決して、饒舌ではないのである。(後記中等教育の範囲だが、わかるかな)

 著者は、榎一雄氏の言う「唐六典」の歩行一日五〇里記事に関して、ここでは何も言わないので、提言に同意したかに見えるが、後段で、「独自の道を行く」、倭人伝とは関係無いと明解に断罪、否定している。悪質な詐話ではないかと疑惑が募るのである。
 素人の勝手な予告であるが、読者が、著者の片言を真に受けて、不意打ちを食わないように言い添えておく。

 著者は、高名な岡田英弘氏のような自分に理解できないことは、ことごとく頭から断固否定する』蛮勇は、示していないから救われる。いや、示していないだけで、実は、場当たりな出任せなのかも知れない。

未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 爆縮版 4/4

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である            2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30 最終 2023/07/03

⚪巨大な三大難点
 タイトルのダメ出しを終わって、内容評価を開始すると、三つ(も)の(巨大)難点がある。
 とにかく、論旨不明瞭なので、走り読みでは、変節点が見えず誤解しかねない。困ったものである。

一.旗幟隠蔽
 本書の論旨展開の本旨は、明解に語られていない。
 「魏志倭人伝」論読者は、プロ野球ファンと同様、ご贔屓の応援本は買うが、敵の応援本には、目もくれない
 と言って、旗幟を隠して毛針で無辜の読者を誘い込んでも、疑似餌でだまし通すことはできず、ばれたとき憤激を巻き起こす。販促大事の欺瞞的な執筆は、感心できない。

二.言行不一致

 前項と相通ずるが、著者は、後世人のとらわれがちな先入観を脇に置いて、倭人伝の原典の明解な読み方を提案しようとしている」と宣言しているが、遺憾ながら、著者も人の子、資料より私見を優先する、濃厚な先入見が漂っていて、宣言はむなしいのである。
 百人百様というように、先入見はあって当然で、明言すれば良いのである。
 口先で「なくする」というのが、俗に言う舌先三寸の「リップサービス」であり、根っから不誠実なのである。これは、「病ではないのでつけるクスリが無い」と言われてしまうのである。

三.構成不備
 目次を見てわかるように、目に付くのは、論文系に必須の構成の不備である。
 各論は、本文に順次述べるとして、冒頭には、第一章に先立ち、準拠テキスト、執筆方針などが開示される緒言に当たる段がないのが目次から見て取れる。
 自然科学系の論文では、冒頭に、概要、要約が示されるが、史学関係では、まず見かけないから、こんな相場かもしれないが、感心しないのは間違いない。
 また、結論部に当たる段も存在しないし、謝辞も、参考文献一覧も、少なくとも、目次に見当たらない。

 いや、実際は、それぞれ、どこかに書かれているというかもしれないが、目次などから見て取れないのである。「読者は難路の道ばたの石ころまで、全部、身を以て確認せよ」というように見える。
 繰り返して言うが、本書は、天下の講談社の随分豪勢な装丁の硬表紙本であり、どう見ても、当節ありふれている「書いて出し」の新書本では無いのである。

*小まとめ
 いずれも書籍としての品格・価値を損ない、総じて全て致命的である。いや、ただ単に、書籍を構築するのが、下手だということに治まらないかもしれないと思うのである。書籍を商品と見ると、商品を形づくる技術が未熟で、かくも無様なゴミ屑を上梓したのである。(講談社編集者の怠慢というのは、妥当かどうかわからないが、そのように非難されても、名前を曝された担当者に逃げ道は無いのである)

 敬愛する白川静師は、七十四才にして教職を辞して本格的に著作を開始し、二十年余に亘り膨大、かつ、燦然たる業績を残したから、著者は手遅れではない。(なかったというべきか)

 と言うことで、以下、順次批判していくことになる。

 いや、さすがに嫌気が差して、2023年版は、ここで筆を擱くのである。
 後続のページは、検索参照されて、よい子の目に触れ、悪弊を蔓延することがないように、公開停止したので、あしからず、ご了解いただきたい。

以上
                                         未完

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