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2023年7月

2023年7月28日 (金)

今日の躓き石 岡上佑の古代史研究室 【ちょっと待てい!】支離滅裂?ここが変だよ!!魏志倭人伝その①【邪馬台国】

 【ちょっと待てい!】支離滅裂?ここが変だよ!!魏志倭人伝その①【邪馬台国】   Jul 28, 2023          2023/07/28

◯はじめに
 今回の題材は、YouTube動画の独演会であり、文字テキストがないので、引用・批評することができない。書評としないのは、そのためである。評点も付けられない。
 以下の当家所感が適切かどうかは、原本動画を視聴頂きたいのである。

*本論 
 いや、ここまで堂々と自嘲されると、大丈夫かなと心配になるが、一応、ご自分のことを「支離滅裂」というのは残念だと言っておく。
 要するに、古典史書を、ご自身の「視点」で読み解けないので、「反省会」気取りで、一々降参してみせているだろうが、それを、ご自身の「支離滅裂」さのせいだと「ぼけ」て見せて、古典的な一人「スラップスティック」のつもりなのだろうか。

 その端緒が、原文解釈に岩波文庫版の読解を使用しているのであり、これに、現代人の無教養な語彙、現代地図、などなど、倭人伝解釈に不都合な道具立てを多数起用しているが、氏の「失敗」の要因として、世上の俗説を参照して、具合の悪いものを使い立てているから、視聴者の耳には、わかりやすく、馴染みやすいかもしれないが、間違い必至の「必敗」法をまたもや確認いただいているように見て取れる。(地図に出典を書かないのも、自嘲しているのだろうか)

 いや、古典的なコメディ技法としても、ちょっと目先を変えているだけで創造性が見えないと思う。折角だが、お付き合いしかねる。

 また、氏の現代日本語の語り口は、古来の先賢諸兄姉には、重訳無しでは伝わらないものと見えるし、まして、原編纂者陳寿は、東夷蕃人に悪罵を浴びていても、理解しようがない。そもそも、「倭人伝」は、漫談でも「演義」でもなく、別に「ぼけ」ているわけではないから、氏が「ツッコン」でも、すべりまくりであろう。

 氏の動画の背景には、先賢諸兄姉の新書、文庫が見えるが、これら著作を「支離滅裂」のともがら/共犯者とされては、皆さん御不満と思うのである。

以上

2023年7月25日 (火)

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 1/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20

*三訂の弁
 当記事は、16ページの長尺に、書き足しがあって、結構字数が多いのですが、そこそこ閲覧頂いているようなので、少しばかり書き足して、三訂版としました。いくら書いても、いくら閲覧があっても、世間の「俗説」が減らなければ、とは思うのですが、手桶から柄杓一杯の水を打てば、打たないより世の中が潤うと思うので、微力を尽くすことにしました。

▢はじめに
 塚田敬章氏のサイトで展開されている古代史論について、その広範さと深さに対して、そして、偏りの少ない論調に対して、かねがね敬服しているのですが、何とか、当方の絞り込んでいる「倭人伝」論に絞ることにより、ある程度意義のある批判ができそうです。

 いや、今回は三度目の試みで、多少は、読み応えのある批判になっていることと思います。別の著者/著作の批判記事では、未熟な論者が、適切な指導者に恵まれなかったために、穴だらけの論説を「でかでか」と公開してしまった事態を是正したいために、ひたすらダメ出ししている例が多いのですが、本件は、敬意を抱きつつ、あえて批判を加えているものであり、歴然と異なっているものと思います。

 言うまでもないと思うのですが、当記事は、氏の堂々たる論説の「すき間」を指摘しているだけで、当記事での一連の指摘が単なる「思い付き」でないことを示すために、かなり、かなり饒舌になっていますが、それだけの労力を費やしたことで、格別の敬意を払っていることを理解いただけると思うものです。とかく批評記事で饒舌になると、広げた風呂敷のほころびを言い立てられて「損」をすると思われるでしょうが、当方は、専門家でなく「素人」なので、「利」を求めているわけではないからして、特定の営利集団から、「百害あって一利なし」と指弾されても、むしろ本望なのです。

 塚田氏は、魏志倭人伝の原文をたどって、当時の日本を検証していくのに際して、造詣の深い「国内史料に基づく上古史」論から入ったようで、その名残が色濃く漂っています。そして、世上の諸論客と一線を画す、極力先入観を避ける丁寧な論議に向ける意気込みが見られますが、失礼ながら、氏の立脚点が当方の立脚点と、微妙に、あるいは、大きくずれているので、氏のように公平な視点をとっても、それなりの「ずれ」が避けられないのです。いや、これは、誰にでも言えることなので、当記事でも、立脚点、視点、事実認識の違いを、できるだけ客観的に明示しているのです。また、氏の意見が、「倭人伝」の背景事情の理解不足から出ていると思われるときは、くどいように見えても、背景説明に手間を惜しんでいません。
 どんな人でも、「知らないことは知らない」のであり、当ブログ筆者たる当方の自分自身で考えても、「倭人伝」の背景事情を十分納得したのは、十年近い「勉学」の末だったのです。対象を「倭人伝」に限り、考察の範囲を「道里」里程論に集中しても、それだけの時間と労力が必要だったのです。というような、事情をご理解いただきたいものです。
 長文の記事から批判を、片々をつまみ上げ/取り出して、「失礼、冒瀆」と悲憤慷慨、怒髪天を衝く向きには、いくら諄々と説いても、主旨が通じないかも知れませんが、当記事は、少なくとも「三顧の礼」なのです。

 また、氏の「倭人伝」道里考察は、遙か後世の国内史料や地名継承に力が入っていますが、当記事では、倭人伝」の考察は、同時代、ないしは、それ以前の史料に限定する主義なので、後世史料は、言わば「圏外」であり、論評を避けている事をご理解頂きたいと思います。

 そういうわけで、揚げ足取りと言われそうですが、『三世紀に「日本」は存在しない』との仕分けを図っています。丁寧に言うと、三世紀当時、交通、輸送、交信の維持できた範囲は、ほんの近場であり、海山を隔てた地域との「遠距離恋愛」ならぬ「遠距離締盟」、「遠距離征伐」は存在しなかった以上、「日本」なる概念は存在しなかったという見方です。もし、今述べたような批判が不成立だというご意見であれば、十分な論拠を持って批判頂きたいものです。

 このように、論義の有効範囲と前提条件を明確にしていますので、異議を提示される場合は、それを理解した上お願いします。

 なお、氏が折に触れて提起されている史料観は、大変貴重で有意義に感じるので、極力、ここに殊更引用することにしています。

〇批判対象
 ここでは、氏のサイト記事の広大な地平から、倭人伝道里行程記事の考証に関するページに絞っています。具体的には、
 弥生の興亡、1 魏志倭人伝から見える日本、2 第二章、魏志倭人伝の解読、分析
 のかなり行数の多い部分を対象にしています。(ほぼ四万字の大作であり、言いやすい点に絞った点は、ご理解頂きたい)

〇免責事項
 当方は、提示頂いた異議にしかるべき敬意を払いますが、異議のすべてに応答する義務も、異議の内容を無条件で提示者の著作として扱う義務も有していないものと考えます。

 とはいうものの氏の記事を引用した上で批判を加えるとすると、記事が長くなるので、引用は、最低限に留め、当方の批判とその理由を述べるに留めています。ご不審があれば、氏のサイト記事と並べて、表示検証頂いてもいいかと考えます。

                           未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 2/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20

魏志倭人伝から見える日本2 第二章魏志倭人伝の解読、分析
 1 各国の位置に関する考察
  a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ    b 北九州の各国、奴国と金印  c 投馬国から邪馬壱国へ
  d 北九州各国の放射式記述説批判  e その他の国々と狗奴国
 2 倭人の風俗、文化に関する考察
  a 陳寿が倭を越の東に置いたわけ  b 倭人の南方的風俗と文化

第二章、魏志倭人伝の解読、分析 [全文 ほぼ四万字]
1 各国の位置に関する考察
  a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ
《原文…倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 …… 今使訳所通三十国

コメント:倭人在~「鮎鮭」の寓意
 まずは、「倭人伝」冒頭文の滑らかな解釈ですが、「魏志倭人伝の解読、分析」という前提から同意できないところが多々あります。
 「うっかり自分の持っている常識に従うと、同じ文字が、現代日本語と全く異なる意味を持つ場合が、少なからずあって、とんでもない誤訳に至る可能性もあります。」とは、諸外国語の中で、「中国語」は、文字の多くを受領したいわば導師であることから自明の真理であり、『「倭人伝」など別に教えて貰わなくてもすらすら読める』という根強い、度しがたい「俗説」を否定する基調です。氏の例示された「鮎鮭」の寓意は、特異な例ではなく、むしろ、おしなべて言えることです。
 してみると、「国邑」、「山島」の解釈が、既に「甘い」と見えます。
 氏は、このように割り切るまでに、どのような参考資料を咀嚼したのでしょうか。素人考えでは、現代「日本語」は、当時の洛陽人の言語と「全く」異なっているので、確証がない限り、書かれている文字に関して、「必然的」に意味が異なる可能性があると見るべきです。ついでに言うなら、現代中国語も、又、古代の「文語」中国語と大きく異なるものであり、「文語」の背景となる厖大な素養のない(無教養な)現代中国人の意見も、又、安直に信じることはできません。
(よくよく、人柄を審査し、意見の内容を確認しない限り、「全く」信用できないという事です)

 「文意を見失わぬよう、一つ一つの文字に神経を配って解読を進めなければなりません。」とは、さらなる卓見ですが、それでも、読者に「文意」を弁える「神経」がなければ、いくら苦言を呈しても耳に入らず、何も変わらないのです。大抵の論者は、ご自身の知性と教養に絶大な自信を持ってか、「鮎鮭」問題など意識せず、中国古代の史官の筆の運びを「自然に」「すらすら」と「普通に」解釈できると錯覚して堂々と論義しているのです。そういうご時世ですから、塚田氏処方の折角の妙薬も、読者に見向きもされないのでは、「つけるクスリがない」ことになります。誠に、この上もなく勿体ないことです。

コメント:「倭人伝」に「日本」はなかった
 自明のことですが、三世紀当時、「日本」は存在しません。
 当然、「日本」は、洛陽教養人の知るところでなく、倭人伝」は「日本」と全く無関係です。無造作に押しつけている帯方郡最寄りの「日本」は、史学で言う「日本列島」、つまり、筑紫から纏向に至る帯状の地域を思い起こさせますが、それこそ、世にはびこる倭人伝」誤解の始まりです。この点、折に触れ蒸し返しますが、お耳ざわりでご不快でしょうが、よろしく趣旨ご了解の上、ご容赦いただきたい。

 些細なことですが、帯方郡は、氏の理解のように、既知の楽浪郡領域の南部を分割した地域ではなく、後漢中平六年(189)(霊帝没年)以来遼東の地に駐屯していた遼東郡太守公孫氏が、後漢献帝建安九年(204)に、漢武帝が設置し、以来半島方面を管理していた楽浪郡の管轄域であっても、管理の手の及んでいない「荒地」、郡に服属していなかった蕃夷領域を統治すべく、それまで同地域を管轄していたと見える「帯方」縣を、「郡」に格上げして、新たに「郡」としたのです。
 「」は、郡太守が住まう聚落、城郭、郡治であって、以前の「帯方縣」の中心と同位置であったとしても、支配地域の広がりを言うものではないのです。

 因みに、帯方郡が設立された動機は、半島南部の「韓」、「穢」のさらに南にあるとわかった「倭」の新境地を監督するためと見えます。丁寧に言うと、それまで、楽浪郡領域南端にあって東夷管理の実務に当たっていた「帯方縣」を格上げして、東夷と折衝する面目/権限を与えたものであり、別に、遼東郡に並ぶ、同格の一級の郡としたものでは有りません。万事、遼東郡に報告し、指示を仰いでいたのですから、「倭人」のことは、後漢の中央政権の知るところではなかったと見えるのです。笵曄「後漢書」に収録された司馬彪「続漢書」「郡国志」は、楽浪郡管内に帯方縣を記載していて、帯方郡は、存在しません。つまり、笵曄「後漢書」に、帯方郡は存在しないのです。笵曄「後漢書」が、根拠史料がないのに、東夷列伝に「倭」の条を追記した意図は、不明ですが、楽浪郡から倭に至る行程道里が明記されていないのは、その辺りに原因がありそうです。楽浪郡は、郡に至る道里を申告させる権限と義務があり、明らかに、笵曄は、楽浪郡の公式記録を参照していないのです。
 というものの、倭から楽浪郡の檄まで「万二千里」と書いているのは、奇々怪々です。世上、「倭人伝」に書かれている「郡から倭まで万二千里」を、魏代の創作としている説がありますが、後漢書記事が同工異曲となっているのは、後漢書東夷列伝の信頼性を損ない、正確さを疑わせるものと見えます。

 閑話休題。帯方郡太守の俸給(粟)も、軍兵の食い扶持も、帯方郡内の賄いというものの、実際は、公孫氏の裁量範囲だったのです。

*「幻の帯方郡」論義
 言い過ぎがお気に障ればお詫びするとして、帯方郡を発していずれかの土地に至ると言うのであれば、その出発点は、帯方郡の文書発信窓口ですから、ほぼ郡治中心部となります。南方の「荒れ地」は、関係ないのです。
 ついでに言うと、正史の記録を確認/復習すると、後漢献帝の知性である建安年間、当時、遼東公孫氏が当地域を所領として自立同然であり、帯方郡を設立したとの通知は行われていなかったようです。つまり、郡治の位置は、公式に行程の居処であった許昌に届け出されていなくて、帯方郡が雒陽から何里とされていたかという「公式道里」は不明です。ですから、雒陽から「倭人」まで何里という公式道里は、当然、不明なのです。
 なお、帯方郡の母体であった楽浪郡について言えば、武帝の設置時に公式道里が設定されて、それ以来、楽浪郡の所在の移動には、全く関係なく保持されていたのです。つまり、後漢代初頭、東夷所管部門であった楽浪郡の(洛陽からの)「公式道里」は、笵曄「後漢書」に収容された司馬彪「続漢書」「郡国志」に記載されているものの、それは、漢代以来固定されていて実際の「道里」、つまり、街道を経た「道のり」との関連は、かなり疑わしいのです。

*後漢書「倭条」の不条理
~2023/07/24
 加えて、楽浪郡から新設された帯方郡に至る「道のり」は、笵曄「後漢書」「郡国志」に記録が残っていないのです。それどころか、「郡国志」には「帯方縣」と書かれているだけで、帯方郡は載っていないのであり、後漢献帝の時代の公文書に「帯方郡」は存在しないので、笵曄の視点から言うと、帯方郡の所在は、本来幻なのです。言い換えると、笵曄が、「倭条」を書いた/創作した時、その手元には、確たる公文書史料がなかったと言う事を証しています。
 「倭人伝」の対象である両郡郡治の所在が、今日に至るも、不明/不確定なのは、そうした事情によるものなのです。

 念のため言うと、陳寿は、雒陽に所蔵されていた、後漢から引き継がれた魏代の「公文書」を「随時」閲覧することができたので、公孫氏が、帯方郡創設の際に所在地/(洛陽からの)「公式道里」を洛陽/献帝に報告していれば、皇帝の批准を得た「公文書」となっていて、三国志「魏志」の編纂の際に利用できた/利用するしかないのですが、「倭人伝」には、そのような「公文書」記載の帯方郡に至る「公式道里」は参照されていません。遼東公孫氏は、東夷に関して後漢献帝のもとに報告していなかったことは、陳寿「魏志」に明記されていますが、帯方に関しては、後漢代の事件でありながら、郡の設立すら許昌の献帝に報告されていなかったということです。(細かく言うと、その時点で、統轄部門である鴻臚が、洛陽にあったのか、許昌に会ったのか、確認は困難と思います)

 恐らく、公孫氏時代の「倭人」文書は、景初二年八月とされる司馬懿の遼東討伐の際に全て破壊され、辛うじて、事前に魏明帝の指示によって楽浪/帯方郡から回収した地方郡文書が、魏の支配下の洛陽に届き、而して、皇帝の承認を得て、魏の公文書に記載されたものと見えます。

 以下、論義が一部、重複していくのですが、笵曄「後漢書」東夷列傳の倭に関する断片記事「倭条」は、後漢公文書史料の裏付けのない憶測、ないしは、本来利用が許されない魏公文書の盗用ということになりますが、魏公文書の実物は、陳寿没後の西晋末、洛陽滅亡の際に喪われたと思われるので、百五十年程度後世である劉宋の文筆家笵曄は、一次史料である魏公文書そのものを見ることができなかったと見えます。
 と言うことで、笵曄「後漢書」東夷列伝の中で「倭条」は正当な史料根拠を持たないので、そこに書かれている記事は「信用できない」ということになります。正確な記事もあるかも知れないが、裏付けがないので、「倭人伝」記事を訂正する、ないしは、記事ないしは解釈を追加する論拠とできないということです。ご理解いただけたでしょうか。

*東方倭種談義
 「倭条」には、「倭人伝」で、女王居所の「南方」にあると明記され、熱暑とも見える風土、習慣などが詳述された「狗奴国」の印象を利用して、「倭」の東方にある「拘奴国」が創作されていますが、景初年間に帯方文書を回収し、倭使の参上を受入、正始年間(240-249)には「倭」に魏使を送った魏代においてすら詳細不明だった「倭」の東方の「倭種」が、後漢建安年間(196 - 220)、つまり、正始年間の五十年以前に、郡に国使を送って、国名を申告していたと言うのは、「倭人伝」に対して、何とも、壮大な異論となります。

 はんよう「ごかんじょ」「倭条」全体が、根拠の無い創作幻像としたら、その一部である「拘奴国」が、「史実」、つまり、「後漢公文書記録」の反映ではないと見るものでしょう。あえて、同意いただけないとしたら、明確な根拠を持って否定していただくよう、お願いします。

 さらに言うと、笵曄と同時代の裴松之が魏志に付注した際、帯方郡の道里に関する付注をしていないことから、後漢書編纂時点において、帯方郡の所在/公式道里は不明だったことになります。因みに、その時点では、山東半島から朝鮮半島への行程は、劉宋の勢力外であり、また、先だって辺境を管理していた帯方郡は、楽浪郡共々滅亡していたので、劉宋から現地情報を確認することは不可能だったのです。

コメント:大平原談義
 自明のことですが、倭人伝」の視点、感覚は、三世紀中原人のものであり、二千年後世の無教養な東夷である「我々」の視点とは対立しているのです。この認識が大事です。
 因みに、なぜか、ここで、「北方系中国人」などと、時代、対象不明の意味不明の言葉が登場するのは、誤解の始まりで不用意です。
 論ずべきは、三世紀、洛陽にたむろしていた中原教養人の理解なのです。むしろ、「中国」の天下の外に「中国人」は、一切存在しないので、あえて言うなら、後世語で「華僑」と言うべきでしょう。

 因みに、氏の言う「大平原」は、どの地域なのか不明です。モンゴル草原のことでしょうか。もう少し、不勉強な読者のために、言葉を足して頂かないと、理解に苦しむのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 3/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*「日本」錯誤ふたたび
 中原人の認識には、当然「日本」はなく、「倭人伝」を読む限り、「女王之所」のある九州島すら、その全貌は知られていなくて、壱岐、対馬同様の海中絶島、洲島が散在するものと見られていたようです。少なくとも、冒頭の文の「倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑」は、冷静に読むと、そのように書かれています。
 まだ「倭人」世界がよく見えてなかった公孫氏時代の帯方縣/郡の初期認識では、「日本」ならぬ「倭人」の「在る」ところは、對海、一支、末羅あたりまでにとどまっていて、伊都が末羅と地続きらしいと見ていても、その他の国は関係が不確かであり、要は、集団としての「倭人」は帯方東南に在って、「大海」(広大な塩水湖)あるいは塩水の流れる大河を「倭」と捉えていて、そのような「倭」に散在する小島に存在する「国邑」だろうと見ていたと思わせるのです。恐らく、「倭人」が楽浪郡に参上して以来、伊都が主導していると見えたことから、郡、つまり、公孫氏遼東郡の務めは、郡から倭までの文書伝達の規定日程を確定することにあったと見えます。

 時代が進んで、帯方郡によって「倭人伝」の構図が完成してみると、傍路諸国でも、戸数五万戸に垂ん(なんなん)とする投馬国は、さすがに、小島の上には成り立たないので、どこか、渡船で渡らざるを得ない遠隔の島と想定したという程度の認識だったのでしょう。不確かでよくわからないなりに、史官として筋を通したに過ぎないので、ここに当時存在せず、従って参照できなかった精密な地図や道里を想定するのは、勝手な「思い込み」の押しつけ、あるいは、妄想に過ぎないのです。

 以上のように、古代中原人なりの地理観を想定すれば、世上の『混濁した「倭人伝」道里行程観』は、立ち所に霧散するでしょう。もちろん、ここにあげる提言に同意頂ければと言うだけです。いや、以下の提言も同様に、私見の吐露に過ぎませんので、そのように理解いただきたいものです。

 この地理観を知らないで、「九州島」さらには「東方の正体不明の世界にまで展開する広大な古代国家」を想定していては、「倭人伝」記事の真意を知る事はできないのが、むしろ当然です。地理観が異なっていては、言葉は通じないのです。何百年論義をしても、現代人の問い掛ける言葉は、古代人に通じず、求める「こたえ」は、風に乗って飛んで行くだけです。

 念のため確認すると、氏が今日の地図で言う「福岡平野」海岸部は、往時は、せいぜい海岸河口部の泥世界であって、到底、多数の人の「住む」土地でなかったし、当時「福岡」は存在しなかったので、論義するのは時代違いです。今日、福岡市内各所で進められている着実な遺跡発掘の状況を見ると、海辺に近いほど、掘れども掘れども泥の堆積という感じで、船着き場はともかく倉庫など建てようがなかったと見えますが、間違っているのでしょうか。
 そして、帯方郡の官人には、そのような現地地理など、知ったことではなかったのです。

 余談ですが、イングランド民謡「スカボローフェア」には、「打ち寄せる海の塩水と渚の砂の間の乾いた土地に住み処を建てて、二人で住もう」と、今は別れて久しい、かつての恋人への伝言を言付ける一節がありますが、「福岡平野」は、そうした叶えようのない、夢の土地だったのでしょうか。 あるいは、波打ち際に築き上げた砂の城なのでしょうか。

コメント:国数談義
 漢書の天子の居処は、遙か西方の関中の長安であり、とても、手軽に行き着くものではないのです。後漢書の天子の住まう洛陽すら、樂浪/帯方両郡から遙か彼方であり、倭の者は、精々、漢武帝以来の楽浪郡か後漢建安年間に武威を振るった遼東郡(公孫氏)の元に行っただけでしょう。
 何しろ、帝国街道は、要所に宿駅や関所が設けられていて、「過所」(通行許可証)を持たない蛮夷は、通行できなかったのです。もちのろん、道中の宿駅は、ただで宿泊させてくれるわけはなく、もちのろん、食料や水も得られないのです。「郡」の役人が、「過所」を持って随行すればこそ、洛陽までたどり着けるのです。いや、蛮夷は、道中で、随員共々かなりの厚遇を受けたとされていますから、ますます、郡官人の同伴は、不可欠だったのです。
最後のとどめですが、もし、蛮夷が、「勝手に」洛陽の鴻臚寺にたどり着いたとしても、所定の郡役人に伴われずに、つまり、事前の申請/許可無しに「勝手に」参上した蛮夷は、追放/排斥されるだけです。

 因みに、古来、蛮夷の国は、最寄りの地方拠点の下に参上するのであり、同伴、案内ならともかく、単独で皇帝謁見を求めようにも、通行証がなくては道中の関所で排除されます。中国国家の「法と秩序」を侮ってはなりません。
 国数の意義はご指摘の通りで、楽浪郡で「国」を名乗った記録であり、伝統、王位継承していたらともかく、各国実態は不確かです。不確かなものを確かなものとして論ずるのは誤解です。その点、塚田氏の指摘は冷静で、至当です。 世上、滔々と古代史を語り上げる方達は、東夷の蛮人が、文字が無く、文書がない時代、数世紀に亘って、どんな方法で「歴史」を綴っていたか、説明できるのでしょうか。

《原文…従郡至倭 循海岸水行……到其北岸狗邪韓国 七千余里
コメント:従郡至倭~水行談義
 「水行」の誤解は、「日本」では普遍的ですが、世上の論客は、揃って倭人伝の深意を外していて、塚田氏が提言された「鮎鮭」の寓意にピタリ当てはまります。
 「倭人伝」が提示している「問題」の題意を誤解しても勝手にお手盛りで、自前の問題を書き立て自前の解答をこじつけては、本来の正解にたどり着けないのは、当然です。 この問題に関して、落第者ばかりなのは、問題が悪いからではないのです。何しろ、二千年来、「倭人伝」は、「倭人伝」として存在しているのです。

 「倭人伝」記事は、文字通り、「循海岸水行」であり、「沖合に出て、海岸に沿って行く」との解釈は、陳寿の真意を見損なって無謀です。原文改竄は不合理です。ここでは「沿って」でないことに注意が必要です。
 「海岸」は海に臨む「岸」、固く乾いた陸地で、「沿って」 との解釈に従うと、船は陸上を運行する事になります。「倭人伝」は、いきなり正史と認定されたのではなく、多くの教養人の査読を歴ているので、理解不能な痴話言と判断されたら却下されていたのです。つまり、当時の教養人が読めば、筋の通った著作だったのです。

 「循海岸水行」が、場違い、勘違いでないとしたら、「水行」は、以下の道中記に登場する『並行陸路のない「渡海」』概念を、適確に「予告」しているものと見るものではないでしょうか。見方を変えれば、既存の用語では書けないので、「この場限りの用語定義」ということになります。

*冒頭課題で、全員落第か
 世上、「倭人伝」道里記事の誤解は許多(あまた)ありますが、当記事が、正史の公式道里の鉄則で、陸上の街道を前提としている事を見過ごしている、いわば、初心者の度しがたい「思い込み」による誤解による「落第」であり、「落第」を免れているのは「循海岸水行」を、意味不明として回避している論者だけのように見えます。
 つまり、「郡から狗邪韓国まで七千里、郡から末羅国までは、これに三千里を足して、一万里」と見ている「賢明な論客」だけが、「落第」を免れています。
 誤解を正すと、中原教養人の用語で「水行」は、江水(長江、揚子江)など大河を荷船の帆船が行くのであり、古典書は「海を進むことを一切想定していない」のです。これは、中原人の常識なので書いていません。と言うことで、この点の誤解を基礎にした世上論客の解釈は、丸ごと誤解に過ぎません。ほぼ、全員が「一発落第」ですから、例外的な「賢明な論客」以外は、全員落第で、試験会場はがら空きです。
 念のため言うと、古典書にある「浮海」とは、当てなく海を進むことを言うのであり、「水行」が示唆するように、道しるべのあるものではないのです。

*「時代常識」の確認
 そもそも、皇帝使者が、「不法」な海上船舶交通を行うことはないのです。一言以て足るという事です。その際、現代読者の一部が軽率に口にする「危険」かどうかという時代錯誤の判断』は、一切関係ないのです。
 あえて、「不法」、つまり、国法に反し、誅伐を招く不始末を、あえて、あえて、別儀としても、「危険」とは、ケガをするとか、船酔いするとか人的な危害を言うだけではないのです。行人、文書使である使者が乗船した船が沈めば、使者にとって「命より大事な」文書、書信が喪われ、あるいは、託送物が喪われます。そのような不届きな使者は、たとえ生還しても、書信や託送物を喪っていれば、自身はもとより、一族揃って連座して、刑場に引き出されて、文字通り首を切られるのです。自分一人の命より、「もの」を届けるという「使命」が大事なのです。
 因みに、当時の中原士人は、「金槌」なので、難船すれば、水死必至なのです。

*後世水陸道里~圏外情報 
 後世史書の記事なので、「倭人伝」道里記事の解釈には、お呼びでないのですが、後世、南朝南齊-梁代に編纂された先行劉宋の正史である沈約「宋書」州国志に、会稽郡戸口道里が記載されていて、「戶五萬二千二百二十八,口三十四萬八千一十四。去京都水一千三百五十五,陸同」、つまり、京都建康から、水(道 道里)一千三百五十五(里)、陸(道 道里)も同様との「規定」から、一見、船舶航行を制度化したと見えますが、長江、揚子江の川船移動の「道のり」と並行する陸上移動の「道のり」とは、「規定」上、同一とされていたのがわかります。
 ここで言う、「水道」は、陸上街道「陸道」と対比できる河川行程を言うのであり、後世、「日本」で海峡等を誤称した「水道」でなければ、もちろん、飲料水などを、掛樋や鉛管で供給する「水道」でもありません。諸兄姉の愛顧されている漢和字典に、この意味で載っていなくても、古代(中国)に於いて、そのように書かなかった証拠にはなりません。ご注意下さい。 
 両経路/行程を、例えば、縄張りで測定して、五里単位で同一とした筈はなく、推測するに、太古、陸上街道を一千三百五十五里と「規定」したのが、郡治の異同に拘わらず、水陸の差異も関係無しとして、水道(河川交通)に「規定」として適用されていたことがわかります。
 要するに、「倭人伝」道里は、当時意味のなかった測量値でなく、「規定」であるというのも、理解いただけるものと思います。

 補足すると、並行街道がない」というのは、『「騎馬の文書使が走行できる」とか、「武装した正規兵が隊伍を組んで行軍できる」とか、「四頭立ての馬車が走行できる」などの要件を「全長に亘って」満たす「街道」』が設置、維持できなかった/されていなかったと言うだけであって、崖面に桟道を設けるなどの苦肉の策で細々と荷役する「禽鹿径」が存在したという可能性は否定していないと言うか、否定しようなどないのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 4/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20

*重大な使命~Mission of Gravity
 使者が使命を全うせずに命を落としても、文書や宝物が救われたら、留守家族は、使者に連座するのを免れて、命を長らえるだけでなく、褒賞を受けることができるのです。陸送なら書信や託送物が全滅することはないのです。
 「循海岸水行」の誤解が蔓延しているので、殊更丁寧に書いたものです。

 因みに、「沿岸航行」が(大変)「危険」なのは、岩礁、荒磯、砂州のある海岸沿いの沖合を百千里行くことの危険を言うのです。一カ所でも海難に遭えば、残る数千里を無事でも落命するのです。
 ついでに言うと、海上では、強風や潮流で陸地に押しやられることがあり、そうなれば、船は抵抗できず難船必至なので、出船は、一目散に陸地から遠ざかるのです。

 これに対して、後ほど登場する海峡「渡海」は一目散に陸地を離れて、前方の向こう岸を目指するのであり、しかも、通り過ぎる海の様子は、岩礁、荒磯、砂州の位置も把握していて、日々の潮の具合もわかっていて、しかも、しかも、日常、渡船が往来している便船の使い込んだ船腹を、とことん手慣れた漕ぎ手達が操るので危険は限られているのです。その上、大事なことは、他船であれば、万一、難船しても両岸から救援できるのです。恐らく、周囲には、漁船がいるでしょうから、渡船は、孤独ではないのです。
 このあたりの先例は、班固「漢書」、及び魚豢「魏略」西戎伝の「二文献」に見てとることができますが、文意を知るには、原文熟読が必要なので、誰でもできることではありません。
 しかして、海峡渡海には、代わるべき並行陸路がないので、万全を期して、そそくさと渡るのです。
 ついでに言うと、渡し舟は、朝早く出港して、その日の早いうちに目的地に着くので、船室も甲板もなく、水や食料の積み込みも、最低限で済むのです。身軽な小船なので、荷物を多く積めるのです。

*橋のない川
 そもそも、中原には、橋のない川がざらで、渡し舟で街道を繋ぐのが常識で、僅かな渡河行程は、道里行程には書いていないのです。
 東夷で海を渡し船で行くのは、千里かどうかは別として、一度の渡海に一日を費やすので、三度の渡海には十日を確保する必要があり、陸上行程に込みとは行かなかったから、本来自明で書く必要のなかった「陸行」と区別して、例外表記として「水行」と別記したのです。

*新規概念登場~前触れ付き
 念押しを入れると、「循海岸水行」は、『以下、例外表記として「渡海」を「水行」と書くという宣言』なのです。
 因みに、字義としては、『海岸を背にして(盾にとって)、沖合に出て向こう岸に行く』ことを言うのであり、「彳」(ぎょうにんべん)に「盾」の文字は、その主旨を一字で表したものです。(それらしい用例は、「二文献」に登場しますが、寡黙な現地報告から得た西域情報が「二文献」に正確に収録されているかどうかは、後世の文献考証でも、論義の種となっています)
 ということで、水行談義がきれいに片付きましたが、理解いただけたでしょうか。

 要は、史書は、不意打ちで新語、新規概念を持ちだしてはならないのですが、このように宣言で読者に予告した上で、限定的に、つまり、倭人伝の末尾までに「限り」使う「限り」は、新語、新規概念を導入して差し支えないのです。何しろ、読者は、記事を前から後に読んでいくので、直前に予告され、その認識の残っている間に使うのであれば、不意打ちではないということです。

*新表現公認
 その証拠に、倭人伝道里記事は、このようにつつがなく上覧を得ていて、後年の劉宋史官裴松之も、「倭人伝」道里行程記事を監査し、格別、指摘補注はしてないのです。
 ここで、正史たるべき、倭人伝」で「水行」が史書用語として確立したので、後世史家は、当然のごとく使用できたのです。

*「従郡」という事
 「従郡至倭」と簡明に定義しているのは、古来の土地測量用語に倣ったものであり、「従」は、農地の「幅」を示す「廣」と対となって農地の「縦」、「奥行き」の意味であり、矩形、長方形の農地面積は、「従」と「廣」の掛け算で得られると普通に教えられたのです。(出典「九章算経」)
 「従郡至倭」は、文字通りに解すると、帯方郡から、縦一筋に倭人の在る東南方に至る、直線的、最短経路による行程であり、いきなり西に逸れて海に出て、延々と遠回りするなどの「迂回行程」は、一切予定されていない』のです。
 念押ししなくても、塚田氏も認めているように、郡から倭人までは、総じて南東方向であり、その中で、「歷韓國乍南乍東」は、「官道に沿った韓国を歴訪しつつ、時に進行方向が、道なりに、東寄りになったり、南寄りになったりしている」と言うだけです。解釈に古典用例を漁るまでもなく、時代に関係ない当たり前の表現です。

コメント:里程談義
 因みに、塚田氏は「三国鼎立から生じた里程誇張」との政治的とも陰謀説とも付かぬ「俗説」を理性的に否定していて、大変好感が持てます。文献解釈は、かくの如く「合理的」でありたいものです。

 高名な先哲が、二千年後生の無教養な東夷であることを自覚せずに、「三国志」に書かれていない「陰謀」を「創作」して、「西晋代の陳寿が、後漢代の記録にまで遡って、魏朝の記録に干渉/改竄/捏造し、あり得ない道里記事をでっち上げた」と弾劾しているのと大違いです。

 子供の口喧嘩(賈豎争言)でもあるまいに、「高名な先哲」は、弾劾には、「証拠」提出の上に「弁護」役設定が不可欠であり、『根拠の実証されていない一方的な非難は「誣告」とよばれる重罪である』のを見落としているのですから、氏の厳正な姿勢には、深甚なる賛辞を呈します。

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新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 5/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20

*「心理的距離」の不審
 但し、氏の言われる七千余里は、「大体こんな程度ではなかろうか」という大雑把な心理的距離と捕えておけば済みます。との割り切りは、意味不明です。「心理的距離」というのは、近来登場した「社会的距離」の先ぶれなのでしょうか。「メンタルヘルス」の観点から、早期に治療した方が良いでしょう。
 おっかぶせた「大雑把な」とは、どの程度の勘定なのでしょうか。苦し紛れのはぐらかしにしても、現代的な言い訳では、三世紀人に通じないのです。
 それにしても、郡~狗邪は、最寄りの郡官道で「地を這ってでも測量できる」のです。とは言え、倭人伝など中国史料で、道里は、せいぜい百里単位であり、他区間道里と校正することもないのですが、それでも、魏志で、六倍近い「間違い」が「心理的な事情」で遺されたとは信じがたいのです。中国流の規律を侮ってはなりません。

*第一報の「誇張」~不可侵定説
 私見では、全体道里の万二千里が検証なくして曹魏皇帝明帝に報告され、御覧を得たために、以後、「綸言汗の如し」「皇帝無謬」の鉄則で不可侵となり、後続記録が辻褄合わせしたと見ます。同時代中国人の世界観の問題であり、心理的な距離など関係はないのです。

*御覧原本不可侵~余談
 三国志は、陳寿没後早い時期に完成稿が皇帝の嘉納、御覧を得て帝室書庫に所蔵され、以後不可侵で、改竄など到底あり得ない「痴人の夢」なのです。原本を改竄可能なのは、編者范曄が嫡子もろとも斬首の刑にあい、重罪人の著書となった私撰稿本の潜伏在野時代の「後漢書」でしょう。
 いや、世上、言いたい放題で済むのをよいことに、「倭人伝」原本には、かくかくの趣旨で道里記事が書かれていたのが、南宋刊本までの何れかの時点で、現在の記事に改竄されたという途方も無い『暴言』が、批判を浴びることなく公刊され、撲滅されることなく根強くはびこっているので、氏の論考と関係ないのに、ここで指弾しているものです。

*東夷開闢
 それはさておき、「倭人伝」道里記事の「郡から倭人まで万二千里」あたりは、後漢から曹魏、馬晋と引き継がれた(東京=洛陽)公文書を根底に書き上げられたので、最初に書かれたままに残っていると見たのです。

 後日、調べ直して、考え直すと、後漢末献帝建安年間は、遼東郡太守の公孫氏が、混乱した後漢中央政府の束縛を離れて、ほぼ自立していたのであり、遼東から洛陽への文書報告は絶えていたので、帯方郡創設の報せも、帯方郡に参上した「倭人」の報せも、遼東郡に握りつぶされ、「郡から倭人まで万二千里」の報告は、後漢公文書どころか、後継した魏の公文書にも、届いていなかったと見えるのです。
 笵曄「後漢書」に併録された司馬彪「続漢紀」郡国志には、「楽浪郡帯方縣」とあって、建安年間に創設された帯方郡は書かれていないのです。当然、洛陽から帯方郡への公式道里も不明です。
 恐らく、遼東公孫氏が撲滅され、公文書類が破棄されたのと別に、明帝の指示で、楽浪/帯方両郡を、皇帝直下に回収した際、両郡に残されていた公文書が、洛陽にもたらされたものと見えます。
 魚豢「魏略」は、正史として企画されたものではないので、洛陽公文書に囚われずに洛陽に保管されている東夷資料を自由に収録したものと見えますが、陳寿が、公式史料でない魏略から、どの程度資料引用したか、不明と云わざる吠えません。

 魏明帝の景初年間、司馬懿の遼東征伐に、「又」、つまり、「さらに」、つまり、並行してか前後してか、魏は、皇帝明帝の詔勅を持って、楽浪/帯方両郡に新太守を送り込み、遼東郡配下の二級郡から、皇帝直轄の一級郡に昇格させ、帯方郡に、新規参上東夷統轄の権限を与え、韓、倭、穢の参上を取り次ぐことを認めたので、その際、帯方郡に所蔵されていた各東夷の身上調査が報告されたのです。遼東郡に上申した報告書自体は、公孫氏滅亡の際に一括廃棄されていましたが、控えが「郡志」として所蔵されていたのです。

 つまり、「郡から倭人まで万二千里」とは、この際に、帯方郡新太守が、魏帝に報告した新天地に関する報告です。文字通り、東夷開闢です。この知らせを聞いた明帝は、「直ちに、倭人を呼集して、洛陽に参上させよ」と命じたのに違いないのです。
 但し、新太守は、倭人に急使を派遣して即刻参上せよと文書を発しようとしたものの、記録から、郡から発した文書が倭人に至るのは、四十日相当であると知って、「郡から倭人まで万二千里」が、実際の行程に基づいた実道里でないと知って、皇帝に重大な誤解を与えた責任を感じて苦慮したはずです。
 つまり、「郡から倭人まで万二千里」は、遼東郡で小天子気取りであった公孫氏が、自身の権威の広がりを、西域万二千里まで権威の広がった「漢」に等しいと虚勢を張ったものであって、これは、周制で王畿中心の端子の以降の再外延を定義したものに従っただけであり、実際の行程道里と関係無しの言明であり、公孫氏自体、倭まで、実際は、せいぜい四十日程度の行程と承知していたことになるのです。万事、景初の帯方郡に生じた混乱のなせる技だったのです。これは、一応筋の通ったお話ですが、あるいは、「倭人」は、公孫氏以前の桓帝、霊帝期に、「倭人」が参上して、東夷を統轄していた楽浪郡が、道里、戸数などを事情聴取したものの、洛陽に報告していなかったとも見えます。何れにしろ、女王共立以前、女王国は存在せず、伊都国が「倭人」を統轄していたものの「大倭王」が居城に君臨していた可能性もあり、後漢書「東夷列伝」倭条は、そのような体制を示唆しているとも見えますが、あてにはなりません。
 
 原点に帰ると、陳寿は、魏志を編纂したのであり、創作したのでは「絶対に」ないのです。公文書史料が存在する場合は、無視も改変もできず、「倭人伝」道里行程記事という意味では、より重要である所要日数(水陸四十日)を書き加えることによって、不可侵、改訂不可となっていた「万二千里」を実質上死文化したものと見るのです。

 因みに、正史に編纂に於いて、過去の公文書を考証して先行史料に不合理を発見しても、訂正せずに継承している例が、時にあるのです。(班固「漢書」西域伝安息伝に、そのような齟齬の顕著な例が見られます)

 現代人には納得できないでしょうが、太古以来の史料作法は教養人常識であり、倭人伝を閲読した同時代諸賢から、道里記事の不整合を難詰されてないことから、正史に恥じないものとして承認されたと理解できるのです。後世の裴松之も「万二千里」を不合理と指摘していないのです。

*舊唐書 萬四千里談義~余談
 因みに、後世の舊唐書「倭国」記事は「古倭奴國」と正確に理解した上で、「去京師一萬四千里」、つまり京師長安から万四千里として、「倭人伝」道里「万二千里」を魏晋代の東都洛陽からの道里と解釈、踏襲しているのであり、正史の公式道里の実質を物語っています。
 つまり、倭人道里は、実際の街道道里とは関係無く維持されたのです。
 もちろん、「倭国」王城が固定していたという保証はありません。具体的な目的地に関係なく、蕃王居処が設定されて以後「目的地」が移動しても、公式道里は、不変なのです。
 客に言うと、当初、公孫氏が「従郡至倭」万二千里と設定した後、出発点が、遼東郡、または、楽浪郡から帯方郡に代わったとしても、到着先が、伊都国(倭国)から、女王国(倭国)に代わって、國王の治所が変動しても、それぞれ、公式道里には、一切反映しないのです。舊唐書編者は、倭王之所までの行程道里は、当時の首都洛陽であったに違いないとの高度な解釈をしたのかも分かりません。何しろ、倭人伝以来、東大までの間には、天下の西晋が、北方異民族によって滅亡して、洛陽が破壊蹂躙され、辛うじて南方に逃避した東晋の権威は、以下継続した南朝諸国に引き継がれたものの、北朝魏が南朝最後の陳を破壊蹂躙したので、唐代以降の「倭人伝」道里記事の解釈が、正当なものでなくなっていた可能性はあるのです。

*「歩」「里」 の鉄壁
*「尺」は、生き物
 「尺」は、度量衡制度の「尺度」の基本であって、時代の基準とされていた遺物が残されていて、その複製が、全国各地に配布されていたものと見えます。そして、「歩」(ぶ)は、「尺」の六倍、つまり、六尺で固定だったのです。世上、「歩」を、歩幅と身体尺と見ている向きがありますが、それは、素人考えであって、根拠のない想定に過ぎないのです。
 何しろ、日々の市場での取引に起用されるので、商人が勝手に変造するのを禁止する意味で、市場で使われている「尺」の検閲と共に、定期的に、「尺」の更新配布を持って安定化を図ったのですが、政府当局の思惑かどうか、更新ごとに、微細な変動があり積み重なって、「尺」が伸張したようです。
 但し、度量衡に関する法制度には、何ら変更はないのです。何しろ、「尺」を文書で定義することはできないので、以下に述べた換算体系自体は、何ら変更になっていないのです。

*「歩」の鉄壁
 基本的に、耕地測量の単位は、「里」の三百分の一である「歩」(ぶ)です。
 「歩」は、全国各地の土地台帳で採用されている単位であり、つまり、事実上、土地制度に固定されていたとも言えます。皇帝といえども、「歩」を変動させたとき、全国各地の無数の土地台帳を、連動させて書き換えるなど、できないことなのです。(当時の下級吏人には、算数計算で、掛け算、割り算は、実際上不可能なのです)
 また、各戸に与えられた土地の面積「歩」に連動して、各戸に税が課せられるので、土地面積の表示を変えると、それにも拘わらず税を一定にする、極めて高度な計算が必要となりますが、そのような計算ができる「秀才」は、全国に数えるほどしかいなかったのです。何しろ、三世紀時点で、計算の補助になるのは、一桁足し算に役立つ算木だけであり、掛け算は、高度な幾何学だったのです。
 世に言う「ハードル」は、軽く跨いで乗り越えられるものであり、苦手だったら、迂回して回避するなり、突き倒し、蹴倒しして通れば良いのですが、「鉄壁」は、突き倒すこともできず、乗り越えることもできず、ただ、呆然と立ちすくむだけです。
 因みに、ここで言う「歩」は、耕作地の測量単位であって、終始一貫して、ほぼ1.5メートルであり、世上の誤解の関わらず、人の「歩」幅とは連動していないのです。そして、個別の農地の登録面積は、不変なのです。
 言い換えると、「歩」は、本質的に面積単位であり、度量衡に属する尺度ではないのです。

 史料に「歩」と書いていても、解釈の際に、『耕作地測量という「文脈」』を無視して、やたらと広く用例を探ると、這い上がれない泥沼、出口の見えない迷宮に陥るのです。世上の「歩」論義は、歩幅に関する蘊蓄にのめり込んでいて、正解からどんどん遠ざかっているのです。

*里の鉄壁
 道里」の里は、固定の「歩」(ぶ ほぼ1.5㍍)の三百倍(ほぼ、450㍍)であり、「尺」(ほぼ25㌢㍍)の一千八百倍であって固定だったのです。
 例えば、洛陽の基準点から遼東郡治に至る「洛陽遼東道里」は、一度、国史文書に書き込まれ、皇帝の批准を得たら、以後、改竄、改訂は、できないのです。もし、後漢代にそのような行程道里が制定され、後漢郡国志などに記録されたら、魏晋朝どころか、それ以降の歴代王朝でも、そのまま継承されるのです。そのような公式道里の里数ですから、そこに書かれている一里が、絶対的に何㍍であるかという質問は、実は、全く意味がないのです。「洛陽遼東道里」は。不朽不滅なのです。

 因みに、それ以外にも、「里」の登場する文例は多々あり、それぞれ、太古以来の異なる意味を抱えているので、本論では、殊更「道里」と二字を費やしているのです。異なる意味の一例は、「方三百里」などとされる面積単位の「方里」です。よくよくご注意下さい。
 三世紀当時、正史を講読するほどの知識人は、「里」の同字異義に通じていたので、文脈から読み分けていたのですが、現代東夷の無教養人には、真似できないので、とにかく、丁寧に、文脈、つまり前後関係を読み取って下さいと申し上げるだけです。
 「倭人伝」は、三世紀の教養人陳寿が、三世紀の教養人、例えば晋皇帝が多少の努力で理解できるように、最低限の説明だけを加えている文書なので、そのように考えて、解読に取り組む必要があるのです。三世紀、教養人は「中原中国人」で、四書五経の教養書に通じていたものの、現代人は、日本人も中国人も無教養の蛮夷なのです。別に悪気はないのです。

*短里制度の幻想
 どこにも、一時的な、つまり、王朝限定の「短里」制など介入する余地がありません。
 天下国家の財政基盤である耕作地測量単位が、六分の一や六倍に変われば、戸籍も土地台帳も紙屑になり、帝国の土地制度は壊滅し、さらには、全国再検地が必要であり、それは、到底実施できない「亡国の暴挙」です。因みに、当時「紙屑」、つまり、裏紙再使用のできる公文書用紙は、大変高価に買い取り/流通されたので、今日思う「紙屑」とは、別種の、むしろ高貴な財貨だったのです
 中国史上、そのような暴政は、最後の王朝清の滅亡に至るまで、一切記録されていません。
 まして、三国鼎立時代、曹魏がいくら「暴挙」に挑んだとしても、東呉と蜀漢は、追従するはずがなかったのです。いや、無かった事態の推移を推定しても意味がないのですが、かくも明快な考察内容を、咀嚼もせずに、とにかく否定する論者がいるので、念には念を入れざるを得ないのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 6/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*柔らかな概数の勧め
 氏は、厳密さを求めて、一里四百三十㍍程度の想定のようですが、古代史では、粗刻みの概数が相場/時代常識なので、厳密、精密の意義は乏しく、五十㍍刻みの「四百五十㍍程度」とすることをお勧めします。
 して見ると、一歩(ぶ)は百五十㌢㍍程度(1.5㍍)、一尺(しゃく)は二十五㌢㍍程度(1/4㍍)で、暗算できるかどうかは別として、筆算も概算も、格段に容易です。
 魏志「倭人伝」の道里では、「有効数字」が、一桁あるかないかという程度の、大変大まかな漢数字が出回っていますが、このあたりは、漢数字で見ていないと、尺、歩、里に精密な推定が必要かと錯覚しそうです。
 少し落ち着いて考えていただいたらわかると思いますが、二十五㌢㍍の物差は、精密に制作できますが、150㌢㍍の物差は、大変制作困難であり、四百五十㍍の物差は、制作不可能です。せいぜい、縄で作るくらいです。
 手短に言うと、尺は、物品の商取引に広く利用されていますが、歩は、農地の検地や建物敷地の測量やなどに利用されるので、尺とは、別次元の単位であり、まして。里は、広域の農地面積統計に利用されるくらいで、ほとんど、実測されることはなかったと見えます。つまり、里は、別に、その時点の「尺」を原器として構成されたものでなく、概念として保持されていたものと見えますから、一々、計量史的に考察する必要は乏しいものと見えます。

 いずれにしろ、古代氏に於いて、大まかでしか調べのつかなかったことを、現代感覚で厳格に規定するのは、無謀で、時代錯誤そのものです。

原文…始度一海 千余里 至対海国 所居絶島 方可四百余里……有千余戸……乗船南北市糴

コメント:始度一海
 誤解がないように、さりげなく、ここで始めて、予告通り「海」に出て、海を渡ると書いています。先走りして言うと、続いて、「又」、「又」と気軽に書いています。ここまで海に出ていないと明記しています。狗邪韓国で、初めて、海岸、つまり、海辺の崖の上から対岸を目にするのです。
 復習すると、氏の「水行」の解釈は俗説の踏襲であり同意できません。「沿岸水行」説に従うと、後で、水行陸行日数の辻褄が合わなくなるのです。
 また、進行方向についても認識不足を示しています。「倭人在帯方東南」であり、暗黙で東西南北の南に行くのが自明なので書いてないのです。氏は、史官の練達の文章作法を侮っているようで不吉な感じがします。

*史官集団の偉業~陳寿復権

 そういえば、世間には、陳寿が計算に弱かったなど、欠格を決め付けている人がいます。多分、ご自身の失敗体験からでしょうか倭人伝」は、陳寿一人で右から左に書き飛ばしたのではなく、複数の人間がそれぞれ読み返して、検算、推敲しているので、陳寿が数字に弱くても関係ないのです。

 他に、世間には、「陳寿は海流を知らなかったために、渡海日程部の道里を誤った」と決め付けた例もあります。
 当時言葉のない「海流」は知らなかったとしても、しょっちゅう経験していた渡し舟は、川の流れに影響されて進路が曲がるのを知っていたし、当人が鈍感で気付かなくても、編者集団には、川船航行に詳しいものもいたでしょうから、川の流れに浮かぶ小島と比喩した行程を考えて海流を意識しないはずはないのです。

 史官は、集団で編纂を進めたのであり、個人的な欠点は、埋められたのです。
 渡し舟での移動行程を、実里数に基づいているとみた誤解が、無理な「決め付け」を呼んでいるようですが、直線距離だろうと進路沿いだろうと、船で移動する道里は計りようがないし、計っても、所詮、一日一渡海なので、千里単位の道里には、千里と書くしかないので、全く無意味なのです。
 無意味な事項に精力を注いで、時間と労力を浪費するのは、一日も早く、これっきり、これが最後にしてほしいものです。

 陳寿は、当代随一の物知りで早耳であり、鋭い観察眼を持っていたと見るのが自然でしょう。計数感覚も地理感覚も人並み以上のはずです。物知らずで鈍感で史官は務まらず、無知/無能な史官の替わりはいくらでもいたのです。多分氏は、いずれかの「現代語訳」を手にして書いているのでしょうが、これでは、論者としての信用を無くすだけです。ご自愛ください。

コメント:對海国談義
 暢気に、「対馬国」を百衲本は「対海国」と記しています。前者は現在使用されている見慣れた文字で、違和感がないとおっしゃいますが、氏とも思えない不用意な発言です。史書原本は「對海國」ないし「對馬國」であり、「見なれない」文字です。

 氏は、不要なところで気張るのですが、「絶島」は、「大海(内陸塩湖)中の山島であっても、半島でない」ことを示すだけです。逆に言うと、単に海中山島と言えば、半島の可能性が高いのです。山東半島から北を眺めたとき目に入るのは、山中海島、東夷の境地であり、朝鮮/韓を半島と思い込むのは、後世人の早合点であり、ある意味、誤解となりかねないのです。

 ご想像のような「絶海の孤島」を渡船で渡り継ぐなどできないことです。気軽に渡り継げるのは、流れに浮かぶ中之島、州島です。
 因みに、倭人伝道里記事の報告者は、対海国から一大国の渡船が、絹の綾織りのような水面「瀚海」を渡ったとしているので、波涛などでなく、穏やかな渡海であったと実体験を語っているものと思わせます。

*大海談義~余談 2023/07/25
 「大海」も、大抵誤解されています。倭人伝では、西域に散在の内陸塩水湖の類いと見て「一海」としているのです。「二大文献」の西域/西戎伝では、「大海」には、日本人の感覚では「巨大」な塩水湖「カスピ海」(裏海)も含まれていて、大小感覚の是正が必要になります。
 くれぐれも、「大海」を「太平洋」(The Pacific Ocean)と決め付けないことです。そもそも、対馬海峡も日本海も、太平洋ではありません。
 
むしろ、現代地図で言うと、東西の瀬戸の隘路に挟まれた「燧灘」が、いちばん「大海」の姿に近いものです。何しろ、塩っぱくて飲めない「塩水湖」なのです。ただし、燧灘は、九州北部にあるわけではなく、考証がむつかしいところです。
 琵琶湖は、淡水湖なので端から落第です。宍道湖は、塩水湖ですが、対岸が見えないほどに大きくないので、外れます。となると、後は、有明海ぐらいになりますが、有明海は、筑紫を呑み込むほどではないので、疑問です。

 結局の所、三世紀当時、景初二年時点で、帯方郡から見て、対馬海峡の海水面がどこまで広がっていたか、皆目分からなかったから、現代地図を見ても、その視界は窺えず、伊都国の向こうは臆測しかできなかったと見るものでしょう。「倭人伝」の地理情報が理解しがたいのは、書いている方が、現地情報をよくわかっていなかったからなのです。そして、後世の東夷現地人が、自分の豊富な土地勘で補っても、見当違いになるのです。

 それにしても、「大海」が韓国の東西にある「海」と繋がっているとの記事もなく、どうやって、海から大海の北岸に至るのかも不明です。
 現地地図など見なければ、「倭人伝」の文字情報だけで陳寿の深意を読み損なう「誤解」は発生しないのです。(いや、地図など見るから誤解すると言えます)
 
 「倭人伝」の後半になると、魏使や帯方郡官人の伊都国や狗奴国の訪問記が収録されていると見えますが、当時、皇帝上覧を経て、公文書庫に収録されていた道里行程記事部分の文書は、改竄/修正が許されていなかったので、精々、補筆程度だったのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 7/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*「方里」「道里」の不整合
 詳細は略しますが、この表現は、その国/領域の(課税)耕作地の面積集計であり、「方里」は「道里」と別種単位と見るものです。
 要は、信頼すべき史料を順当に解釈すると、そのように適切な解に落ち着くのです。この順当/適切な解釈に、心理的な抵抗があるとしたら、それは、その人の知識が整っていないからです。現代風に云うと「メンタル」不調です。
 塚田氏が想定されている「方里」理解だと、一里百㍍程度となり「短里説」論者に好都合なので、文献深意に迫る健全な解釈が頓挫し、一方では、塚田氏のように不都合と決め付ける解釈が出回るのです。情緒と情緒の戦いでは、合理的な解釋が生まれるはずがないのです。
 「方里」の深意に迫る解釈は、まだ見かけませんが、少なくとも、審議未了とする必要があるように思います。

*「倭人伝」再評価
 「倭人伝」は、陳寿を統領とする史官達が長年推敲を重ねた大著であり、低次元の錯誤は書かれていないと見るところから出発すべきです。
 「一つ一つの文字に厳密な定義があって、それが正確に使い分けられており、曖昧に解釈すれば文意を損なうのです」とは、また一つの至言ですが、氏ご自身がその陥穽に落ちていると見えます。

 そして、「魏志韓伝」に、次の記述があります。
《原文…国出鉄……諸市買皆用鉄如中国用銭

コメント:産鉄談義

 まず大事なのは、魏では、秦漢代以来の通則で、全国統一された穴あき銅銭が、国家経済の基幹となる共通通貨なのに、韓、濊、倭は、文明圏外の未開世界で、およそ「銭」がないので、当面、鉄棒(鉄鋌)を市(いち)の相場基準に利用したということです。

 漢書に依れば、漢朝草創期には、秦朝から引き継いだ徴税体制が躍動していて、全国各地で農民達は税を銅銭で納め、集成された厖大な銭が、長安の「金庫」に山を成して、使い切れずに眠っていたと書かれています。
 戦国時代の諸国分立状態を統一した秦朝が、短期間で、全国隅々まで、通貨制度、銭納精度を普及させ、合わせて、全国に置いた地方官僚が、戦国諸国の王侯貴族、地方領主から権限を奪って、「皇帝ただ一人に奉仕する集金機械に変貌させた」ことを示しています。
 農作物の実物を税衲されていたら、全国の人馬は、穀物輸送に忙殺され、皇帝は、米俵の山に埋もれていたはずです。もちろん、北方の関中、関東は、人口増加による食糧不足に悩まされ、食糧輸送は、帝国の基幹業務となっていましたが、それでも、銭納が確立されていて、食糧穀物輸送は、各地の輸送業者に対して、統一基準で運賃を割り当てる制度が成立していたのです。(「唐六典」に料率表が収録されていますが、秦代以来、何らかの全国通用の運賃基準が制定されていたはずです)

 それはさておき、共通通貨がなければ、市での取引は物々交換の相対取引であり、籠とか箱単位の売り物で相場を決めるにしても、大口取引では、何らかの協定をして価格交渉するしかなく、とにかく通貨がないのは、大変不便です。
 それでも、東夷で市(いち)が運用できたのは、東夷では商いの量が、圧倒的に少なかったという趣旨です。商いの量が多ければ、銭がないと取引が成り立たないのです。いずれにしろ、東夷では、現代の五円玉では追いつかない数の大量穴あき銭が必要であり、それが大きな塊の鉄鋌で済んだというのが当時の経済活動の規模を示しています。

《原文…又南渡一海千余里……至一大国 方可三百里……有三千許家

コメント:邪馬壹国改変
 氏は、妙な勘違いをしていますが、「倭人伝」原本には、南宋刊本以来「邪馬壹国」と書かれていて、どこにも「邪馬台国」などと改変されてはいないのです。
 因みに、氏が提示されているように、ほとんど見通せない直線距離も方角も知りようのない海上の絶島を、仮想二等辺三角形で結ぶなどは、同時代人には、夢にも思いつかない発想(イリュージョン)であり、無学な現代人の勘違いでしょう。

*地図データの不法利用疑惑
 当節、「架空地理論」というか、『衛星測量などの成果を利用した地図上に、実施不可能な直線/線分を書き込んで、図上の直線距離や方角を得て、絶大な洞察力を誇示している』向きが少なからずありますが、史実無根もいいところです。
 当時の誰も、そのような視野や計測能力を持っていなかったのであり、まことに「架空論」です。因みに、二千年近い歳月が介在しているので、現代の地図データ提供者の許諾する保証外のデータ利用であり、どう考えても、「地図データの利用許諾されている用法を逸脱している」と思われますから、権利侵害であるのは明らかです。
 塚田氏は、「架空地理論」に加担していないとは思いますが、氏が独自に得た地図データを利用していると立証できない場合は、「瓜田に沓」の例もあり、謂れのない非難を浴びないように「免責」されることをお勧めします。

コメント:又南渡一海
 結局、両島風俗描写などは、高く評価するものの、「壱岐の三百里四方、対馬下島の四百里四方という数字は過大です」と速断していますが、それは、先に「方里」談義として述べたように「原文の深意を理解できていないための速断」と理解いただきたいのです。
 塚田氏の論理も、全体部分に誤解があれば、全体として誤解とみざるを得ないのです。氏自身、「方里」の記法が正確に理解できていないと自認されている以上、そこから先に論義を進めるのを保留されることをお勧めする次第です。
 既に書いたように、陳寿は、当時の最高の知識人として、東夷伝で「方里」を書いたのであり、「道里」の「里」と異次元の単位を起用していると明記されているのですから、そのようなり懐が必要です。あえて「異次元」というのは、「方里」は、面積系の二次元単位であり、道「里」は、巨利/尺度系の一次元単位なので、大小比較や算数計算できないという意味です。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 8/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*對海國談義
 ついでに言うと、對海國「方里」談義で、南北に広がった島嶼の南部の「下島」だけを「方里」表現するのは、「對海國」の国力を表現する手段として、「重ね重ね不合理」です。帯方郡が、皇帝に対する上申書でそのように表現する意義が、「一切」見られないのです。
 そうでなくても、山林ばかりで、農地として開発困難(不可能)な土地の広さを示して、何になるのでしょうか。「對海國」の国力は、課税可能な戸数で示されていて、本来、それだけで十分なのです。
 因みに、東夷伝で先行して記載されている高句麗の記事も、なぜか、「山川峡谷や荒れ地が多く、国土の大半が耕作困難と知れている」高句麗を「方里」で表現する意図が、理解困難なのです。東夷傳に記載されているということは、東夷の国力評価に際して、「方里」に何らかの意義は認められていたのであり、恐らく、高句麗以南を管理していた公孫氏遼東郡の独特の管理手法が、東夷伝原資料に書き込まれていたものと見えます。
 といって、今さら、遼東郡の深意を知ることは困難です。後世人としては、「敬して遠ざける」のが無難な策と考えます。

 さらに言うと、郡から倭に至る主行程上の各国は、隔壁代わりの海に囲まれた「居城」であって、戸数で農地面積を示す標準的な「国邑」と表現されているので、想定しているような方里表現は、本来、無意味なのです。よろしく、御再考いただきたい。

*両島市糴談義
 「誤解」は、両島の南北市糴の解釈にも及んで、「九州や韓国に行き、商いして穀物を買い入れている」と断じますが、原文には、遠路出かけたとは書いていないのです。ほんのお隣まで出向いて、「市場」で食料などを仕入れて帰還したと見るものでしょう。
 そのように「誤解」すると、一部史学者が、現地まで出向いて、わざわざ因縁を付けたように、食糧不足で貧しい島が、何を売って食糧を買うのかという詰問になり、島民を人身売買していたに違いないとの、とんでもない暴言に至るのです。おっしゃるとおりで、手ぶらで出向いて売るものがなければ、買いものはできないのです。

*当然の海港使用料経営
 素直に考えれば、両島は、南北に往来する市糴船の重要/不可欠な寄港地であり、当然、多額の入出港料が取得できるのであり、早い話が、遠方まで買い付けに行かなくても、各船に対して米俵を置いて行けと言えるのです。
 山林から材木を伐採/製材/造船して市糴船とし、南北市糴の便船とすれば、これも、多額の収入を得られることになります。入出港に、地元の案内人を必須とすれば、多数の雇用と多額の収入が確保できます。
 両島「海市」(うみいち)の上がりなど、たっぷり実入りはあるので、出かけなくても食糧は手に入るのです。
 むしろ、独占行路の独占海港ですから、結構な収益があったはずです。
 当時、狗邪韓国が、海港として発展したとは書かれていないので、自然な成り行きとして、狗耶海港には、對海國の商館と倉庫があり、警備兵が常駐して、一種、治外法権を成していたと見えます。狗耶が倭の北岸と呼ばれた由縁と見えます。

*免税志願
 ただし、標準的な税率を適用されると戸数に比して、良田とされる標準的農地の不足は明らかであり、食糧難で苦しいと「泣き」が入っていますが、それは、郡の標準的な税率を全面的に免れる免税を狙ったものでしょう。魏使は商人ではないので、両島の申告をそのまま伝えているのです。また、漕ぎ船運行と見える海峡渡船で大量の米俵を送るなど、もともとできない話なので、對海、一大両国が欠乏しているのに、さらに南の諸国から取り立てるのは、金輪際無理という事です。
 まして、中原の「戸数」は、各戸の牛犂などの畜力耕作を前提にしていて、農地の割り当ては、「戸」内に、ある程度の成人耕作者、兄弟を想定しているので、各戸の耕作地面積が、それなりに宏大だったのですが、倭地には、牛馬が起用されていなかったので、同じ基準で農地を割り当てることができなかったのです。つまり、例えば、一大国の戸数から計算される耕作地面積と収穫量は、中国基準の、例えば1/5程度でしかなかったと推定されるのです。
 つまり、倭人伝に示されている戸数は、ほとんど意味のないものだったのです。
 特に、奴国と投馬国の万戸単位の戸数は、とんだ法螺話であり、それぞれ両国が申告したものでなく、最初に全国戸数七万戸と報告してしまったものを、傍国の不明な戸数に押し込めてしまったものと見えます。
 駒あたり、文書行政が存在せず、全国に戸籍が整備されていない上に、各地の戸数を足し算計算する計算官僚もいないのですから、「万戸」台の戸数は、途方もない法螺話に過ぎないのです。
 因みに、後年の東国での戸籍簿を見ると、口分田は、戸籍上の成人男女に、猫の額のような土地を割り当てたものであって、それは、ほぼ人力耕作という実態から、むしろ、妥当なもののように見えるとされています。
 国内古代史料が、戸数で無く、人口を基準にしているのは、そのような実態を踏まえたものであり、「倭人伝」が本来辻褄の合わない中原制度を、懸命に採り入れていたのとは、大きな違いがあります。

b、北九州の各国。奴国と金印
《原文…又渡一海千余里至末盧国有四千余戸……東南陸行五百里到伊都国……有千余戸 東南至奴国百里……有二万余戸東行至不弥国百里……有千余家

コメント:道里行程記事の締め
 ここまで、道里論と関わりの少ない議論が続いたので、船を漕ぎかけていましたが、ここでしゃっきりしました。
 倭人伝は伊都国、邪馬壱国と、そこに至るまでに通過した国々を紹介した記録なのですと見事な洞察です。
 私見では、倭人伝道里記事は、「魏使の実地行程そのものでなく」、魏志の派遣に先立って、行程概略と全体所要日数を皇帝に届けた「街道明細の公式日程と道里」と思いますが、その点を除けば、氏の理解には同意します。

 但し、氏自身も認めているように、ここには、議論に収まらない奴国、不弥国、投馬国の三国が巻き込まれています。小論では、三国は官道行程外なので、道里を考慮する必要はないと割り切っていますが、氏は、「魏使が奈良盆地まで足を伸ばした」と、予め、特段の根拠無しに決め込んで考証を進めているので、三国、特に投馬国を通過経路外とできないので、割り切れていないようです。結論を先に決めておいて、そこに諸講座をつなぎ込むのは、「曲解」、「こじつけ」の端緒であり、まずは、原史料を、着実に解釈するところから出発すべきと思量します。
 この「決め込み」は、氏の考察の各所で、折角の明察に影を投げかけています。
 史料の外で形成した思い込みに合わせて、史料を読み替えるのは、資料改竄/捏造/曲解の始まりではないかと、危惧する次第です。
 このあたり、「倭人伝」の正確な解釈により、行程上の諸国と行程外の諸国/傍国を読み分ける着実な読解が先決問題と考えます。

 氏が、こじつけ、読替えなどを創出する無理な解決をしていない点は感服しますが、議論に収まらない奴国、不弥国、投馬国の三国は、倭人伝に於いて、『「余傍の国」と「明記」されている』と理解するのが、順当としていただければ、随分、単純明快になるのです。

 「金印」論は、後世史書范曄「後漢書」に属し「圏外」として除外します。
 「倭人伝」道里行程記事に直接関連する論義では無いので、割愛するのですが、おかげで、史料考証の労力が大幅に削減できます。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 9/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*要件と添え物の区別
 氏自身も漏らしているように、「倭人伝」道里行程記事は、後世の魏使が通過した国々を紹介した記録が、当初提出された代表的な諸国行程を列記した記録に付け足されたと見るものではないでしょうか。
 氏は、投馬国への水行行程の考察に多大な労苦を払ったので「余傍」記録を棄てがたかったのかも知れませんが、肝心の「倭人伝」には、行程外の国は余傍であり、概略を収録するに留めた」と明記されている事を、冷静に受け止めるべきでしょう。五万戸の大国「投馬国」に至る長期の行程の詳細に触れず、現地風俗も書かれていないのに、勝手に、気を効かして記録の欠落を埋め立てるのは、「倭人伝」の深意を解明してから後のことにすべきと思うのです。そのため、当記事では、余傍の国に言及しません。
 とにかく、考慮事項が過大と感じたら、低優先度事項を一旦廃棄すべきです。

c、投馬国から邪馬壱国へ
《原文…南至投馬国水行二十日……可五萬余戸
 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月……可七万余戸

コメント:戸数談義
 魏志で戸数を言うのは、現地戸籍から集計した戸数が現地から報告されていることを示します。要するに、何れかの時点で、倭人が郡に対して服従の前提で、内情を吐露したと示していることになります。

 本来、一戸単位で集計すべきですが、東夷は戸籍未整備で概数申告ですから、千戸、万戸単位でも、ほとんど当てにならず、投馬国は「可」五万余戸であり、交通不便な遠隔余傍の国の戸数などは、責任持てないと明言しています。

 となると、「可七万余戸」が不審です。俗説では女王居所邪馬壹国の戸数と見ますが、「倭人伝」の用いた太古基準では「国邑」、「王之治所」に七万戸はあり得ないのです。
 殷周代、国邑は、数千戸止まりの隔壁聚落です。秦代には広域単位として「邦」が使われたようですが、漢高祖劉邦に僻諱して、「邦」は根こそぎ「國」に書き換えられたので、二種の「國」が混在することになり、後世読者を悩ませたのです。倭人は、古来の「国」に「国邑」を当てたように見受けます。ともあれ、気を確かに持って、「国」の意味を個別に吟味する必要があります。

*「数千」の追求
 因みに、「倭人伝」も従っている古典記法では、「数千」は、本来、五千,一万の粗い刻みで五千と零の間に位置する二千五百であり、千単位では、二、三千のどちらとも書けないので、「数千」と書いているものです。とかく、大雑把に過ぎる」と非難される倭人伝の数字ですが、『史官は、当時の「数字」の大まかさに応じた概数表記を工夫し、無用の誤解が生じないようにしている』のです。

*戸数「七万戸」の由来探し
 また、中国文明に帰属するものの首長居城の戸数が不確かとは不合理です。諸国のお手本として戸籍整備し一戸単位で集計すべきなのです。
 そうなっていないということは、倭人伝に明記された可七万余戸は、可五万余戸の投馬国、二万余戸の奴国に、千戸単位、ないしはそれ以下のはしたの戸数を(全て)足した諸国総計と見るべきなのです。(万戸単位の概数計算で千戸単位の端数は、無意味なのです)

*「余戸」の追求~「俗説」への訣別/哀惜
 塚田氏が適確に理解されているように、「余戸」というのは、「約」とか「程度」の概数表現とみられます。先行論考は、「餘」の解釈で大局を見誤っている例が山積していて、歎いていたところです。

 つまり、(投馬)五万余と(奴)二万余を足せば、ピッタリ七万余であり、その他諸国の千戸単位の戸数は、桁違いなので計算結果に影響しないのです。まして、戸数も出ていない余傍の国は、戸数に応じた徴税や徴兵の義務に対応/適応していないので、全国戸数には一切反映されないと決めているのです。
 俗説」では、余戸は、戸数の端数切り捨てとされていますが、それでは、倭人伝内の数字加算が端数累積で成り立たなくなるのです。そもそも、実数が把握できていないのに区分ができるというのは、不合理です。漠然たる中心値を推定していると見るべきです。
 また、帯方郡に必要なのは、総戸数であり、女王居所の戸数には、特段の関心がないのです。俗説の「総戸数不明」では、桁上がりの計算を読者に押しつけたことになり、記事の不備なのは明らかで、「倭人伝」が承認されたと言うことは、そのような解釈は単なる誤解という事です。
 七万余戸に対する誤解は、随分以前から定説化していますが、明白極まりない不合理が放置されているのは不審です。
 案ずるに、「七万戸の国は九州北部に存在できない」のが好ましい方々が、頑として、不合理な「俗説」にこだわるからで、これは学術論でなく、子供の口喧嘩のこすい手口のように見えます。信用を無くすので、さぞかし名残惜しいことでしょうが、早々に撤回した方が良いでしょう。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 10/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

d、北九州各国の放射式記述説批判
コメント:断てない議論
 氏は、投馬国に関して、通らない筋を通そうとするように、延々と論考を進められました。当方の議論で、本筋に無関係として取り捨てた部分なので、船を漕ぎかけていましたが、ここでしゃっきりしました。

 私見では、氏の読み違いは、まずは、投馬国からかどうかは別として、邪馬壹国に至る最終行程を、端から「水行十日、陸行三十日」、「水陸四十日」行程と認めている点であり、ここまで、着実に進めていた考察が大きく逸脱する原因となっています。そして、そのような逸脱状態で、強引に異論を裁いているので、傾いているのは異論の論点か、ご自身の視点か、見分けが付かなくなっているようです。

 ご自身で言われているように、女王が交通の要所、行程の要と言うべき伊都国から「水陸四十日」の遠隔地に座っていて伊都国を統御できるはずがないのです。当時は、文字/文書がなく、報告連絡指示復唱には、ことごとく高官往復が必須であり、それでも意思疎通が続かないはずです。そのような「巨大な不合理」をよそごとにして、先賢諸兄姉が「倭人伝」解釈をねじ曲げるのは、痛々しいものがあります。
 要するに、「広域古代国家」は、三世紀の世界に存在できないのです。
 してみると、「広域国家」の権力闘争で、血塗られた戦いが「長年」続くの「大乱」も、全くあり得ないのです。

 それはそれとして、明解な解釈の第一段階として、水陸四十日」は、郡からの総日程と見るべきです。
 かくして、「女王之所」は、伊都国から指呼の間に在り、恐らく、伊都国王の居所と隣り合っていて、揃って外部隔壁に収まっていたと見るべきです。それなら、騎馬の文書使が往来しなくても、「国」は、討議できるのです。「諸国」は、月に一度集まれば良く、その場で言いたいことを言い合って、裁きを仰げば良いのであり、戦って、言い分を通す必要はないのです。どうしても、妥協が成立しないときは、女王の裁断を仰げば、「時の氏神」が降臨するのです。

 中国太古では、各国邑は、二重の隔壁に囲まれていて、内部の聚落には、国王/国主の近親親族が住まい、その郷に、臣下や農地地主が住まっていて、本来は、外部隔壁内で、一つの「国家」が完結していたと見られるのです。

 要するに、「倭人伝」で、伊都国は、中国太古の「国邑」形態であり、千戸単位の戸数が相応しいのです。ここまで、對海、一大、末羅と行程上の国々は、いずれも、山島の「国邑」で、「大海」を外郭としていることが、山島に「国邑」を有していると形容されていたのですが、それは、伊都国にも女王国にも及んでいるのです。

 それに対して、余傍の国」は、国の形が不明で、「国邑」と呼ぶに及ばず、戸籍も土地台帳もなく、戸数が、度外れて大雑把になっていると見えるのです。丁寧に言うと、ここで論じているのは、陳寿の眞意であり、帯方郡の報告書原本を、中原人に理解しやすいように、内容を仕分けしていると見るものです。何しろ、全戸数「七万余戸」の前提と行程の主要国が一千戸単位の「國邑」とをすりあわせると、「余傍」で事情のわからない二国に、七万戸を押しつけるしかなかったと見えるのです。

 と言うように話の筋が通るので、遙か後世の倭人末裔が「中国史書の文法」がどうだこうだという議論は、はなから的外れなのです。

*これもまた一解
 といっても、当方は、氏の見解を強引とかねじ曲げているとか、非難するつもりはありません。いずれも一解で、どちらが筋が通るかというだけです。それにしても、氏ほど冷徹な方が、この下りで、なぜ言葉を荒げるのか不可解です。

 氏は、突如論鋒を転換して、「伊都国以降は諸国を放射状に記したので、記述順序のわずかな違いからそれを悟ってくれ。」と作者が望んだところで、読者にそのような微妙な心中まで読み取れるはずはないでしょう。と述べられたのは、誠に意図不明です。

 作者ならぬ編者である陳寿は、あまたかどうかは別として、有意義な資料を幅広く採り入れつつ、取捨選択できるものは、取捨して編纂することにより「倭人伝」に求められる筋を明示したのであり、文法や用語の揺らぎではなく文脈を解する「読者」、つまり、同時代知識人に深意を伝えたものなのです。この程度の謎かけは、皇帝を始めとする同時代知識人には「片手業」であり、「読者」に分かるか分からないか、後世の無教養な東夷が心配することでは無いと思うのです。

 因みに、私見ですが、道里記事の解釈で、一字の違いは、「読者」に重大な意義を伝えているのであり、「わずかな違い」と断罪するのは、二千年後の無教養な東夷の思い上がりというものです。

*先入観が災いした速断
 放射式記述説は、常識的には有り得ない書き方を想定して論を展開しているわけで、記録を残した人々の知性をどう考えているのでしょうか。文献の語る所に従い、歩いて行くべきなのに、先に出した結論の都合に合わせ、強引に解釈をねじ曲げる姿勢は強く非難されねばなりません。というのも、冷徹な塚田氏に似合わない無茶振り、強弁であり、同意することはできません。

 「常識的にあり得ない」とは、どこの誰の常識でしょうか。「記録を残した人の知性」とは、その人を蔑んでいるのでしょうか。遥か後世人が、そのような深謀遠慮を察することは「不可能」ではないでしょうか。
 多くの研究者は、「文献の語る所」を理解できないから、素人考えの泥沼に陥って、混乱しているのではないでしょうか。
 そして、氏は、どのような具体的な根拠で、放射式記述説のどの部分を、どのように否定しているのでしょうか。誠に、不穏当で、氏ほどの潤沢な見識、識見にふさわしくない、悪罵のような断定です。

 当ブログでは、論者の断定口調が険しいのは、論者が、論理に窮して悲鳴を上げている現れだとしていますが、氏が、そのような「最後の隠れ家」に逃げ込んでいるのでなければ、幸いです。

 何度目かの言い直しですが、当時の「読者」は、文字のない、牛馬のない「未開」の国で、途方も無い遠隔地の「女王国」から「伊都国」を統制することなどできない』と明察するはずであり、「倭人伝」の主題は、「伊都国のすぐ南に女王国がある」という合理的な倭人の姿と納得したから、「倭人伝」はこの形で承認されたと解すべきなのです。

 「古代国家」(古代史論の場では、かなり不穏当な用語ですがご容赦ください)運営には、緊密な連携が存在すべきであり、存在しないと連携そのものが、そもそも成立しないし、維持できないので、「伊都国」と「女王国」の間に、「水行二十日」などと、倭人伝独特の「渡船、即ち水行」との表示すら踏み外していて、所要日数が不明瞭/長大で、行程明細の不明な道中が介在するなどは、端からあり得ないとみるべきなのです。
 「倭人伝」冒頭で語られているように、以下、行程記事に語られる主要国は、太古、中原諸国の萌芽状態であった「国邑」と同様の姿であり、精々、千戸台の「国」であって、但し、孤島の場合は、周囲に「都城」を設けていないとされています。あるいは、伊都国は、周囲に、都城ないしは隔壁を持っていて、「女王国」は、伊都国の保護下にあったとも見えます。
 因みに、伊都国以降に書かれている奴国、投馬国は、数万戸を擁する巨大な「国」であり、明らかに「国邑」定義を外れていると思われますが、倭人伝道里記事の要点ではないので、行程明細とともに、深入りしていないものと見えます。

 それは、反論しようのない強力無比な状況証拠であり、感情的な反証では確固たる「状況証拠」は、一切覆せないのです。

 一度、冷水を含んでから、ゆるりと飲み干し、脳内の温度を下げて、穏やかな気分で考え直していただきたいものです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 11/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
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*自縄自縛
 先に出した結論の都合に合わせ、強引に解釈をねじ曲げる姿勢」とは、お言葉をそっくりお返ししたいものです。誰でも、どんな権威者でも、自分の思い込みに合うように解釈を撓めるものであり、それに気づくのは、自身の鏡像を冷静に見る知性の持ち主だけです。
 「放射行程説の自己流解釈の破綻」について、氏の自己診断をお聞かせいただきたいものです。論争では、接近戦で敵を攻撃しているつもりで、自身の鏡像を攻撃している例が、ままあるのです。所謂「おつり」が帰って来る状態なのです。

 素人目には、倭人伝記事は魏使の実行程と「早計で見立てた」上で、魏使は投馬国経由との根拠の無い「決め込み」が、明察の破綻の原因と見えます。大抵の誤謬は、ご当人の勝手な思い込みから生じるものなのです。
 いや、それ以前に、倭人伝道里記事は、下賜物を抱えた正史魏使の行程とみる先入観が災いしているのですが、多分お耳には入っていないでしょうから、ぼやいておくことにします。

 当時、多数の教養人が閲読したのに、東夷の国の根幹の内部地理である伊都国-投馬国-女王国の三角関係が、「洛陽人にとって明らかに到達不能に近い遠隔三地点であって、非常識で実現不能と見えるように書いている」わけはないのです。
 すべて、この良識に基づく『結論』を踏まえて、必要であれば、堂々と乗り越えていただく必要があるのです。それは、「良識」に基づく推定を覆す論者の重大極まる使命です。

*報告者交代説の意義
 因みに、氏は、これに先立って、伊都国から先の書き方が変わっているのに気づいて、「伊都国を境に報告者が交代しています。」と断言していますが、それしか、合理的な説明が思いつかないというのなら、結局、「思い込み」というものです。
 単純な推定は、伊都国~奴国以降は、細かく書いていないという「倭人伝」道里記事の古来の解釈であり、直線的な解釈は、一考の余地があると思います。確かに、そのような論義は、魏使が女王国に至っていないとの軽薄な論義に繋がっていて、とかく軽視されますが、要は、奴国から投馬国までの国には行っていないように読めるというのに過ぎないのです。

 当ブログの見解では、倭人伝道里記事は、魏使派遣以前に皇帝に報告されたものであり、魏使が行ったとか行っていないとかは、記事に反映されていないと明快に仕分けしているので、残るのは、簡単な推定だけです。
 ちなみに、当ブログ記事筆者の意見では、倭人伝道里記事は、郡から倭に至る「公式道里」を書いたものであり、正史魏使発進の際の前提情報であって、魏使の報告は、行程記事に反映していないものと見ます。あえて言うなら、伊都国起点で書かれている、奴国、不彌國、投馬国の行程は、後日の「付け足し」とみても良いようと思われます。公式道里の明細で、諸国「条」は、要件を備えているのに、これら三国の「条」は、要件を欠いて、略載にとどまって許されているのは、要するに、行程道里外なので、重要視されていなかったためと思われます。
 と言うことで、本項の趣旨では、伊都国から先の記事は、後日追記された「余傍」なので、書法が異なっていると見るもので、あるいは、郡は、伊都国を代表として交信、往来していたと見えるのです。

 以上は、「倭人伝」から読み取れる真意の一案であり、氏に強要するものでは有りませんが、ご一考いただければ幸甚と感じるものです。

*道里行程の最終到着地
 「倭人伝」道里記事を精査すると、伊都国は「到る」と到達を明記されているのに対して、以下の諸国は「至る」として、到達明記を避けているので、伊都国が、道里行程記事の最終目的地という見解です。
 要するに、「倭人伝」記事には伊都国は、郡の送達文書の受領者であり、郡使が滞在する公館の所在地と明記されているので、郡太守の交信相手、つまり、現代風に言う「カウンターパート」は、伊都国王と言うことが、陳寿によって明記されていると見るものです。
 
 これを、氏がなぜか忌避する「放射行程説」なる論義と対比すると、実は、伊都国と女王居所の間は至近距離であったので、行程道里を書き入れていないという「伊都・女王」至近関係説になるのです。一つの隔壁の中に、二つの「国邑」隔壁が同居していた可能性もあります。ただし、厳密に言うと、伊都国以降は「行程外」なので、「放射行程」説否定は意味を成さないのです。いや、榎一雄師の所説の根拠は、当時、伊都国が地域の政治中心であったというものであり、本説は、むしろ其の延長線上にあるものと考えます。
 この議論は、投馬国を必要としないので、恐らく、氏のお気に召さないとしても、ここで挙げた仮説は、基本的に氏のご意見に沿うものと考えます。

 なお、前記したように、「倭人伝」道里記事は、正始魏使に先だって書かれているので、魏使の実際の道中を語るものではないのですから、魏使が卑弥呼の居処に参上したかどうかは、この記事だけでは不明です。

*「時の氏神」
 私見では、倭人は、もともと、氏神、つまり、祖先神を共有する集団であり、次第に住居が広がったため、国邑が散在し分社していったものと見ています。本来、各国間の諍いは、國王の意を承けた総氏神が仲裁するものであり、それが成立しなくなったとき、「物欲」を持たない女王の裁きが起用されたものと見るのです。もちろん、女王の「出張」には限界があるので、女王の宿る「神輿」を送り出したり、所定の巡回地を「御旅所」として、地域の仲裁事を受けたのかも知れません。倭人伝の断片的な記事を想像力で膨らますとしても、この程度にしたいものです。
 一度、「思い込み」を脇にどけて、一から考え直すことをお勧めします。

e、その他の国々と狗奴国
原文…自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳
 次有斯馬国……次有奴国 此女王境界所盡

コメント 余傍の国
 国名列記の21カ国は、当然、帯方郡に申告したもの、つまり、倭人の名乗りです。中国人に聞き取りができたかというのは別に置くとしても、三世紀の現地人の発音は、ほぼ一切後世に継承されていないので、今日、名残を探るのは至難の業です。(不可能という意味です)
 当時の漢字の発音は、ほぼ一字一音で体系化していて、「説文解字」なる発音字書に随えば、精密な推定が可能ですが、蛮夷の発音を、固定された発音の漢字で正確に書き取るのは、ほぼ不可能であり、あくまで、大雑把な聞き取りと意訳の併用がせいぜいと見えます。
 「九州北部説」によれば、後世国内史料とは、地域差も甚だしいと見えるので、「十分割り引いて解釈する必要」があると考えます。(割り引きすぎて、「タダ」になることもあり得ます)

 そのように、塚田氏も承知の限定を付けるのも、最近の例として、古代語分野の権威者が深い史料解釈の末に、倭人伝時代の「倭人語」に対して「定則」を提唱されたものの『時間的、地理的な隔絶があるので、かなり不確定な要因を遺している「仮説」である』と提唱内容の限界を明言されているのですが、そのような配慮にも拘わらず、「定則」の仮説』を「定説」と速断して、自説の補強に導入した論者が多々みられるので、念には念を入れているものです。

 現代人同士で、文意誤解が出回っている』というのも、誠に困ったものですが、更なる拡大を防ぐためには、余計な釘を打たざるを得ないと感じた次第です。塚田氏にご不快の念を与えたとしたら、申し訳なく思います。

*言葉の壁、文化の壁
 「至難」や「困難」は、伝統的な日本語文では、事実上不可能に近い意味です。塚田氏は、十分承知されているのですが、読者には通じていない可能性があるので、本論では、またもや念のため言い足します。ちなみに英語のdifficultは「為せば成る」チャレンジ対象と解される可能性があり、英日飜訳には、要注意です。

*カタカナ語~余談
 いや、事のついでに言うと、近来、英単語の例外的な用法が、「気のきいた」カタカナ語として侵入し、大きな誤解を誘っているのも、国際的な誤解の例として指摘しておきます。
 ほんの一例ですが、「サプライズ」は、本来、「不快な驚き」とみられるのであり、現代日本語の「ドッキリ」に近いブラック表現です。
 「うれしい」驚きは、誤解されないようにわざわざ言葉を足して「プレゼントサプライズ」(うれしいサプライズ)とするのですが、無教養な「現地人」の発言に飛びついて誤解を広めているのは、嘆かわしいものです。
 少なくとも、世間のかなりの人に、強い不快感を与える表現を無神経に触れ回る風潮は、情けないと感じている次第です。

 まあ、「Baby Sitter」を「ベビーシッター(Baby Shitterうんち屋?)」とするのも、かなり顰蹙ものなのに、そこから無理に約めて「シッター」(Shitter)うんち屋さん」と人前で口にできない尾籠な言葉に曲げてしまうのよりは、まだましかも知れませんが、今や、「シッター」が一人歩きして、世間のかなりの人に、強い不快感を与える表現を無神経に触れまわっているのを目にすると、「現代語」に染まりたくないと切望する次第です。

 他にも、同様の誤用は、多々ありますが、以上に留めます。
                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 12/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*更なる余傍の国
 なお、里程記事で言う女王国以北というのは、奴国、不弥国、投馬国という後付けの余傍の国を除き、對海國、一大国、末羅国、伊都国の諸国に限定されている」ことは自明です。自明事項は、明記されていなくても、誤解の余地なく示唆されていれば、明記と等しいのです。

 ということで、奴国、不弥国、投馬国に加えて、名前だけ出て来るその他の諸国は、倭人伝の体裁を整える添え物なのです。各国名は、帯方郡に参上したときの名乗りです。その証拠に、行程も道里も戸数も国情も書かれていません。また、当然なので書いていませんが、「国」のまとめ役、「国主」はいても、「国王」はいないのです。「国王」が伝統、継承されないということは、「国」として固く約束しても、個人との約束であり、世代を超えて長続きしはないのであり、帯方郡から見ると水面に浮かぶ泡沫(うたかた)ということになります。
 「倭人伝」では、「王」の伝統が不確かな状態を「乱」と形容していますが、どの程度深刻な状態なのかは不明です。「倭人伝」では、「王」の権威が揺らぐ事態の深刻さを中原基準で誇張気味に示していますが、「女王」が臣下に臨見することが希』では、大した権威は発揚できず、そのような「王位」が戦乱で争奪されるとは見えないのです。
 倭人は、恐らく、渡来定住以来、分家を重ねていたとは言え、長年にわたる親戚づきあい、氏子づきあいであり、季節の挨拶や婚姻で繋がっていて、内輪もめはあっても、小さいなりに纏まっていたものと見えます。

 因みに、後ほど、女王は、狗奴国王と不和と書かれていますが、推測すると、親戚づきあいしていて、遂に、互いの位置付けに合意できなかった程度とみられます。本来「時の氏神」が仲裁するべき内輪もめなのですが、狗奴国王と氏神たる女王の不和は、仲裁できる上位の権威がないので、それこそ、席次の争いが解決できなかったことになります。

 念には念を入れると、魏朝公式文書、つまり、皇帝に上申する公文書資料に必要なのは、郡から女王国に至る行程諸国であり、他は余傍でいいのです。

《原文…其南有狗奴国 …… 不属女王
*狗奴条の起源
 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、南方の狗奴国に関する記事の起源であり、九州北部に不似合いな亜熱帯風の風土、風俗描写南方と見える狗奴国に関する記事と納得できるので、当ブログでは、水野氏の提言に従います。

*衍文対応
《原文…自郡至女王国 萬二千余里
 この文は、狗奴条の趣旨に適合しないので、本来、前文に先だって、道里行程記事を総括していたものと見えます。按ずるに、小国列記の末尾に狗奴国を紹介したものと見たようですが、狗奴国は、女王国に「不属」なので、「狗奴条」を起こすものです。

*狗奴条の展開
 以上に述べた理由により、この部分の南方亜熱帯めいた記事は、九州中南部の狗奴国の描写と見直します。報告者は、後の張政一行と思われます。従来の解釈になれた方は、一度席を立って、顔を洗って、座り直して、ゆっくり読みなおすことをお勧めします。くれぐれも、画面に異物をぶつけないように、ご自制下さい。

2、倭人の風俗、文化に関する考察
a、陳寿が倭を越の東に置いたわけ
《原文…男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中国 皆自称大夫
《原文…夏后少康之子封於会稽……沈没捕魚蛤文身亦以厭……尊卑有差

コメント:更なる小論
 甲骨文字は「発見」されたのではなく、商(殷)代に「発明」されたのです。なお、甲骨文字遺物の大量出現以前、「文字」が一切用いられていなかったとは、断定できません
 甲骨文字のような、厖大で複雑な形状の文字体系が採用されるまでには、長期の試行期間があったはずであり、その間、公文書の一部に使用されていたと思われるのですが、後世に残された商代遺物は、ほぼ亀卜片のみであり、それ以外は、臆測にとどまるのです。
 因みに、初期の「漢字」は、商后が命じた亀卜によって得られた甲骨の亀裂から、得られた「神意」を読み解き、「字書」を蓄積したことから、長年を歴て形成されたものであり、人の保有する「文字」を神意に押しつけたものとは言えないのです。後代、「漢字」の形成に幾つかの法則が見出され、「説文解字」が集大成され、それが、今日常用される正字「書体」にまで反映しているとされていますが、「説文解字」編纂時に知られていなかった甲骨文字遺物の発見と解析により、「漢字」創生期の多大な労苦が、始めて解明されたと見えるのです。
 因みに、「夏后」は後代で言う「夏王」です。夏朝では「王」を「后」と呼んでいたのです。商(殷)は、夏を天命に背いたものと見たので、「王」を発明したと見えます。以後、「后」は、「王」の配偶者となっています。当時の教養人の常識であり常識に解説はないのです。
 ついでながら、「倭人伝」に示されているのは、倭人の境地は、禹が会稽した「会稽山」、つまり、「東治之山」の遥か東の方と言うだけであり、「越」云々というのは、見当違いです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 13/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*沈没論義

 古代中国語で、「沈没」は、せいぜい、腰から上まで水に浸かるのを言うのであり、水中に潜ることではないのです。因みに、中国士人は汗や泥に汚れるを屈辱としていたので、川を渡るのも裾を絡げる程度が限度で、半身を水に浸す「泳」や「沈」、「没」の恥辱は断じて行わないのです。当時の中原士人は、大半が「金槌」で「泳」も「沈」 も、自死です。深みにはまらなくても、転ぶだけで「致命的」です。
 逆に言うと、当時の貴人、士人が、「泳」、「沈」、「没」するのは、自身の身分を棄てて、庶人、ないしはそれ以下に身を落とすことを言うのです。沓を濡らすのすら、問題外だったでしょう。
 因みに、当時の韓国は、概して、冬季の気温が低いので、夏季以外の「沈没」は、低体温症で死ぬものだったでしょう。

《原文…計其道里 當在会稽東治之東

*道里再確認~「道」無き世界 2023/01/18
 「其道里」は、記事の流れから、『郡から狗邪韓国まで「七千里」としたときの「万二千里」の道のり』という事であり、中国側の「万二千里」ではないことは承知です。むしろ、会稽の地が、洛陽から万二千里がであるなどとは、全く思ってもいないのです。まして、魏、西晋代は、雒陽から東呉の領分であった東冶県までの陸上道里は、全く知られていなかったので、だれが考えても、対比することなどできないのです。とんだ、誤解の例でしょう。
 因みに、後世、劉宋正史である「宋書」州郡志によれば、東冶県が収容された建安郡は、「去京都水三千四十,並無陸」、つまり、時の京都、建康までの官道といっても、「陸」、つまり「陸道」はなく、「水」、つまり「水道」で三千四十里となっていますから、もともと、会稽郡治から東冶県に至る整備された陸上経路は存在しなかったとみるべきです。念のため言い添えると、陸上経路と認められる「街道」は、騎馬の文書使が疾駆でき、四頭立て馬車が往来できる整備された官道であり、所定の間隔で、関所、宿場があり、宿泊、食料と水に加えて、替え馬の提供まで用意されていることを言うのです。そのような整備ができていれば、宿場間の文書通信が確保され、帝国のいわば文書行政を支える動脈となるのです。案ずるに、建康と建安郡の間には、崖面に桟道が設けられていた区間が存在し、全区間が街道として整備されていなかったものと見えますが、人出で細々とつなぐ部分があれば、「陸道」と認められず、従って、道里が定義できなかったと見えます。
 ちなみに、南朝時代以前の東呉時代、並行陸路が貫通していなくても、河川交通は活発であり、「水三千四十 (里) 」は、公式道里として認められていたことを示しています。

 三国志「呉志」に「地理志」、ないし「郡国志」があれば、そのように書かれたものと推定されますが、当時、曹魏の支配下になかった建安郡に関する公文書が無い以上、「魏志」に建安「郡国志」は書けないし、当然「呉志」に書けなかったのです。晋書「地理志」に、なぜ書かれていないのかは、唐代編纂者の意向に関わるので意味不明です。

 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、九州北部ではなく、南方の狗奴国に関する記事と言うことなので、先ほどの道里論の「万二千里」は適用されず、「俗説」は、三国志全体を探っても書かれていない架空の道里に基づいていることになります。
 倭人傳に還ると、「来周知の会稽東治之山から見て、狗奴国は漠然と東の方向」になるらしいというに過ぎないことになります。道里を明記されている伊都国については、言及していないことになりますが、当然、漠然と東の方となるものと思われます。

*不可視宣言~存在しなかった呉書東夷伝~余談
 大体、魏の史官にしたら、東呉の領域内である会稽郡東冶県の具体的な所在は皆目不明であり、一方、位置不明の南方の史蹟「会稽東治之山」から見た「倭人」なる僻遠の東夷の王之所在など、わかるはずもなく、知る必要もないと言われかねないのです。いや、だれが何をしても、到底東呉との関係は見えないのに、なぜ、臆測を言い立てるのか、と言う事でもあります。
 古来、そのような南方に土地が延びていれば、東呉領は、ほんの対岸だから、狗奴国ないしは書かれていない周辺の南方異国が連盟しようとした/実際に連盟したという「夢想譚」がもて囃されることがありますが、「三国志」は、東呉が降伏の際に献上した「呉書」が、ほぼそのまま「呉志」となっているように、東呉が狗奴国と連携していれば、「呉書」に書かれていて、臆測など必要がなかったのです。
 因みに、「呉書」に、南蛮伝、西域伝、東夷伝がなかったのは、ほぼ間違いなく、「俗説」は、臆測を担ぎすぎていると見えます。いや、そのようなことは、二千年前から、周知なのですが、倭人伝」道里記事が、間違いだらけだと言うためだけに、担ぎ出されているようです。

コメント:倭地温暖
 再確認すると、魏使の大半は、帯方官人であり、大陸性の寒さを体感したかどうか不明です。また、洛陽は、寒冷地とは言えないはずです。もちろん、床下で薪を焚いて、家屋を温める暖房が必要な帯方郡管内、特に、小白山地付近の冬の寒さは格別でしょう。因みに、奈良県奈良盆地南部、吉野方面の寒さもかなり厳しいので、気軽に肌脱ぎなどできないのです。

*夜間航海談義
 何が言いたいのか不明の一千二百年後のフロイス書簡ですが、いずれにしろ、当該時代には、羅針盤と六分儀、そして、即席の海図を頼りの外洋航海で、夜間航行もできたでしょうが、太古の「日本人」は、命が惜しいので、明るいうちに寄港地に入り、夜間航行などと無謀なことはしないのです。いずれが現地事情に適しているかは、視点次第です。
 因みに、三世紀時点、磁石は全くなく、当然、船の針路を探る高度な羅針盤もありません。また、三世紀の半島以南に、まともな帆船もなかったのです。何しろ、当時の現地事情では、帆布、帆綱などに不可欠な強靱な麻が採れないのです。また、木造船を造りたくても、鋭利な鋼(はがね)のノコギリもカンナもないのでは、軽量で強靱な船体は造れず、夢想されているような帆船の横行は、無理至極の画餅というものです。少なくとも、現地では、数世紀、時間を先走っているのです。

*貴人と宝物輸送隊の野宿
 ついでながら、魏使は高位の士人なので、軍兵と異なり、「野宿」とか軍人並の「キャンプ」「野営」などしないのです。それとも、魏使といえども、一介の蕃客扱いだったのでしょうか。氏の想像力には敬服しますが、文明国のありかたを勘違いしてないでしょうか。貴重な宝物を託送された魏使の処遇とは思えないのです。まして、国家の郵亭制度が、無防備の「野宿」に依存するはずがないのです。
 因みに、当時の中国に外交は無いので「外交官」は存在しません。魏使一行は、軍官と護衛役の兵士、合わせて五十人程度と文官ならぬ書記役です。つまり、魏使一行が、延々と、果てしない野道を長駆移動することなど、あり得ないのです。

コメント:方位論の迷走
 この部分は漫談調で失笑連発です。氏の読み筋では、魏使は、大量の宝物を担いできているので、小数の魏使だけに絞れるはずがないのです。
 因みに、中国の史料で「実測万里」は登場しません。氏は、しばしば、中国文化を侮っていますが、魏使には書記官がいて、日々の日誌を付けていたし、現地方位の確認は一日あればできるので間違うことはないのです。もちろん、帯方郡からの指示で、現地方位は、日々的確に知らされたものと思われます。大勢の論客諸兄姉が、中国文化を侮っていますが、遅くとも周代には、天文観測が定着していたので、東西南北を誤ることなどないのです。

コメント:誤解の創作と連鎖~余談
 引き続き、とんだ茶番です。魏使は、現地に足を踏み入れておきながら、「帯方郡から遥かに遠い、そして、暑い南の国だと思い込んだ」とは、不思議な感慨です。想定した遠路が謬りという事でしょうか。氏は、魏使一行が、大量の荷物を抱えていたことを失念されたようです。
 そもそも、洛陽出発時には、主たる経由地の到着予定は知らされていたのであり、それだから、大量の下賜物を届けるという任務が成立したのです。行き当たりばったりでできる任務ではないのです。

 なお、半島南部と九州北部で気温は若干違うでしょうが、だからといって、九州が暑熱というものではありません。単に「倭地温暖」というに過ぎません。この点は、次ページの新規追加コメントで詳解します。
 以下、「会稽東治」の茶番が続きますが、年代物の妄説なので、「ここでは」深入りしないことにします。

*吉野寒冷談義
 因みに、奈良盆地南端の吉野方面は、むしろ、河内平野南部の丘陵地帯と比べて低温の「中和」、奈良盆地中部と比して、さらに一段と寒冷であり、冬季は、降雪、凍結に見舞われます。

 塚田氏は、奈良県人なので、釈迦に説法でしょうが、世上、吉野方面は地図上で南にあるので温暖だと見ている方がいて、後世、吉野に離宮を設け、加えて、冬の最中に平城京から吉野の高地に大挙行幸したと信じている方がいて、唖然としたことがあるので、一般読者のために付記した次第です。
 率直な所、いくら至尊の身とは言え、吉野の山中で、食糧、燃料の調達が可能とは思えず、耐寒装備も乏しかったはずなので、雪中行幸の随員一行に、かなりの凍死者や餓死者が出ても不思議はないのです。纏向や飛鳥に詳しい諸兄姉が、そうした凍死行記事にダメ出ししなかったのが不思議です。
 いくら、毎日新聞の高名な編集委員が、不出来な思いつきで紙面を飾るというのは、大変なことですが、現にあったことなので、「前車の覆るは後車の戒め」として、何事も、思い込みにこだわらず、十分な「ダメ出し」をお勧めするのです。
 つまり、この下りは、纏向付近の記事として、誠に、誠に見当違いなのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 14/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

コメント:無意味に「ごみ」資料斟酌
 氏は、味不明「固定観念」で想像を巡らしていますが同感できません。
 顕著な例として、原史料に明記されている「東治」を「東冶」に改竄するのは、文献考証として不用意で論外です。まして、原文記事を改竄して「思い込み」に沿えさすのは、百撓不折とは言え、重ねて論外です。
 この部分の地理考証は、素人目には、無意味な茶番です。

コメント:地理感覚迷走
 氏は、随分誤解していますが、当時の「中国」は現代のベトナムまで伸びていたので、「中国東南海岸部」は、会稽郡の南部を遙かに超えています。また、会稽郡東冶県を含む南部は、早々に分郡して会稽郡から分離しましたから、当時の会稽は、古来の会稽そのものと見えます。
 いや、そんな細かいことに立ち入る必要は、まるでないのです。どのみち、「魏志」に曹魏の管轄外の東呉領域であった「会稽郡東冶県」がどうのこうのというのは、全くの的外れですから、陳寿が、魏志倭人伝に採用するはずがないのです。確かに、陳寿「三国志」「呉志」には、会稽愚の郡県制移動の経緯が記録されていますが、逆に言うと、当時、そのような異同は、曹魏に一切報告がなかったと言う事です。
 古田武彦氏は、陳寿が、「呉志」記事から会稽郡の異同を把握していたから、建安郡分郡以降、「会稽東冶」と言う事はなかったとしていますが、魏使編纂の際に、東呉降服の際に西晋皇帝に献呈された「呉志」の記事を参照することはあり得ないので、倭人伝の道里記事で、「会稽東冶」と言う事は、無法だと言うだけです。これもまた、古田武彦氏の勘違い/瑕瑾と言うべきですが、氏の議論の本筋を誤りと言うようなものではないのは、言うまでもありません。
 なお、「会稽」は、郡領域全体を指すものではなく、郡治を言うものです。古代中国の常識を無視してはなりません。

*使節団方向感喪失の怪
 また、当時の魏使が、揃って、容易に確認できる現地「方位」を誤解したとは、大した創作です。しかも、検証も何も無しに、今日まで絶滅を免れているのは、神がかりのようです。

 まず、魏使というものの、実態は、大半が帯方郡官人であり、中には、狗邪韓国あたりから参加した、通詞、案内人も含まれていたはずですから、四季を通じた太陽移動の変化など承知していて「子供みたい」に誤解はしないのです。
 いや、現地の太陽の南中から、南北方位を知り、そこから東西方位を知るのは、小学校理科程度の常識なので、「子供みたい」とは、子供を侮っていることになります。
 書かれているような誤解をするのは、小学校時代の知識を忘れ、野天で過ごしたことのない、現代文明人のいい年した大人でしょう。

 ついでながら、当記事では、伊都国以降の「余傍の国」は、除外していますので、議論する必要はないのです。

*「食卓」の振る舞い
 当時の中国では、食卓はあったものの、まだ、手づかみが多かったと思うので、別に、手づかみを野蛮と言っているのではないのです。むしろ、籩豆は、中国古代の礼にかなっているもののようです。「文化」は、中国の礼にしたがっていることを言うので、無文の国は圏外です。

コメント:邪馬壹国を九州に置く

 曲がりくねった言い回しで、氏は、何を言ったのでしょうか。
 参照している「混一彊理図」は文化財として美術的な意義はあっても、この場では「史料価値のないバチもの」であり、まして、遙か後世の産物なので、倭人伝考証に無用の「ごみ」(ジャンク)であり、さっさと却下すべきです。
 とうに博物館入りの「レジェンド」(骨董品)と思うのですが、なぜ、場違いの実戦に担ぎ出されるのか、気の毒に思います。

*風評混入
 ついでに評された後世の流着異国人が、どのような地理認識をしていたか、地名認識の検証も何もされていないので、風評以下の確かさすら怪しいのです。また、南方と見える「出羽」が、実際はどこにあったのか、全く不明です
 氏は「史料批判」、「証人審査」を一切せず、持ち込まれた風評を、提供者の言いなりに、いいように受け取っているのでしょうか。食品見本の偽物食品にかぶりつくような蛮勇は、真似したくてもできません。まことに、まことに、不審です。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 15/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*狗奴条の起源(再掲/重複)
 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、南方の狗奴国に関する記事の起源であり、九州北部に不似合いな亜熱帯風の風土、風俗描写南方と見える狗奴国に関する記事と納得できるので、当ブログでは、水野氏の提言に従います。

b、倭人の南方的風俗とその文化~狗奴国査察記録
原文…其風俗不淫……貫頭衣之種禾稲紵麻……
 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾……
 竹箭或鉄鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

 再確認したように、この部分は、正始魏使の報告のさらに後年、恐らく、多数の軍兵(数百名か)を伴ったと見える張政の長期とも見える派遣、滞倭時の「狗奴国」査察記録/報告書の収録と見えます。
 その地を、「会稽東治」、つまり、高名な史蹟である会稽山に例えた後、亜熱帯とも見える南方的風俗を「儋耳朱崖」、つまり、遙か南方の海南島と狗奴国を比較したところで、狗奴条は完結したと見えます。
 もちろん、狗奴国に「文字」はないので、「文化」は、見当違い、失当です。ご注意下さい。

*郡による「和解」~当然至極な帰着
 言うまでもないでしょうが、狗奴国は、帯方郡の指導に反して、女王への反抗を続けたとは見えないので、両勢力は「和解」したものと見えます。現地勢力の抗争が現地勢力によって和解できないときは、上位に当たる郡が、権力を振るって「和解」させるのであり、それが、郡の東夷管理の主務なのです。

*「倭地条」~「温暖」境地の紹介
《原文 倭地温暖……穿中央為貫頭 男子耕農……山多麖麈……食飲用籩豆 手食
本条は、世上言われているように、正始魏使の現地査察記録/報告と見えますが、注目すべきなのは、「倭地温暖」の形容です。つまり、厳冬と言える帯方郡の冬季風土と比べて温暖、ほんのり温かいというものであり、「狗奴国条」のように、亜熱帯というものではないのです。

コメント:幻の食卓
 氏は、隋書俀国伝の風俗記事を、あたかも、7世紀初めの飛鳥時代の飛鳥風俗と思い込んでいるようですが、圏外なので論評しません。

《原文…其死有棺無槨 封土作冢……挙家詣水中澡浴 以如練沐

コメント:封土作冢
 ここは、後出の卑弥呼葬送の段取りと重なるのですが、無造作に飛ばしています。「封土作冢」とは、棺を地中に収めた後、土で覆い、盛り土の「冢」とするとの意味であり、墓誌もなく石塚ともせず、簡素なものとわかります。また、周辺住民の労力で比較的短期間に完工する規模であり、故人没後に施行して、程なく埋葬できた程度と思量します。墓地は、代々の域内墓地であり、盗掘などの及ばないものであったと見受けます。つまり、過度な副葬品などないということです。

《原文…其行来渡海詣中国……謂其持衰不勤 出真珠青玉……有獼猴黒雉
《原文…其俗挙事行来…… 視火坼占兆 其会同 …… 人性嗜酒
 魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
《原文…見大人所敬 …… 其人寿考或百年或八九十年

コメント:加齢談義
 「暦や紀年を持たない倭人に、正確な年齢が解るのかと裴松之が首をかしげた」とあるように、氏の弁舌力が余ってか、古代人の心理を深読みする例がままありますが、素人としては、遺された史料から、よく、裴松之の意見がわかるものだ、神がかりだと感心しています。
 私見では、陳寿が史料とした採用しなかった「魏略」にこのような表現があるから、補追した方が良いのではないかとの提言のように見えます。
 古来、毎年元日に全員揃って加齢する習わしであるから、別に年齢を数えることに不思議はなく、文字がなく記録文書がなくても、何か目印でも遺していれば、自身や肉親の年齢はわかるのです。
 これは、春秋の農事祝祭に因んで、それぞれ加齢したとしても同様です。そのような習慣があれば、そのように記憶されるまでです。「二倍年暦」などと言うと、元日に二歳ずつ加齢するような誤解を招きますが、「春秋加齢」とでも説明すれば、余計な誤解は無いでしょう。現代でも、民間企業では、四月から上期、十月から下期と6ヵ月単位で会計決算して、それぞれ、一期と数える例があったので、その際には、一年に二期進むことになっていたのです。別に驚くほどのことは無いように思います。
 因みに、東夷が年月日を知らないでは、郡の諸制度に服属させることが困難なので、中国の暦制を指示していたと見るものではないでしょうか。

*識字力、計数力~地域住民管理
 但し、百に近い数字まで適確に認識するには、当時としては大変高度な教育訓練が必要です。一般住人が、幾つまで数えられたか不明ですが、三、五(片手)、十(両手)までが精々という者が大半の可能性があります。氏の示唆に拘わらず、各人が自身の年齢をちゃんと数えられたという保証はありません。現代でも、義務教育が十分行き届いていない国、地域では、十を超えると数えられない例が珍しくはないのです。
 恐らく、聚落の首長が、「住民台帳」めいた心覚えを所持していて、その内容を参照して、世間話として回答したのでしょう。戸籍調べは、徴兵、徴税の前提であり、容易に本音を漏らすものではないのです。
 何にしろ、計数管理は、郡として、早い段階で教育していたものと思われます。そうでないと、戸数を知ることは到底できないのです。

*戸籍を偽る
 例えば、戸籍上に老人が多く若者が少ないとすれば、戸数に比べて動員可能人員が随分少なく担税能力が低いことになり、徴兵、徴税が緩和されます。「未開、無文と言っても、無知ではない」ので、首長を侮ってはなりません。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 16/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*誰の報告?
 言うまでもないですが、ここで色々言っているのは、現地で言葉が通じる者達であり、当時、ごく一部の上流家族を除けば、戸籍がない上に、苗字も名前もわからないものが多くいて、そう言うものたちの本当の年齢は、当然わかるはずがありません。
 また、当時は、幼児や小児がなくなる例が多かったので、現代風の平均寿命(零歳新生児の平均余命)は、全く無効と思うのです。当然、「人口」も意味の無い概念であり、正しくは、「口数」ないしは「人頭」として勘定するものでしょう。要するに、地券を与えられて農地耕作を許可され/命じられ、収穫物の貢納を命じられている「成人男性」を数えるものなのです。

*場違いな引き合い
 倭人」の首長達は、ここで引き合いに出された「アンデス」や「コーカサス」を知らないので、文句を言われても困るのです。あえていうなら、このような後世、異世界概念は、編者たる陳寿の知らない事項なので「倭人伝」の深意に取り込まれているはずは(絶対に)ないのです。私見では、古代史論には、同時代に存在しなかった用語、概念は、原則的に最小限に留めるべきと信じているものです。
 そうでなくても、世上、俗耳に訴える「新書」類には、時代錯誤の用語解釈が蔓延していて、まるで躓き石だらけの散歩道ですが、ここで、善良な読者が躓いて転んでも、書いている当人には痛くも痒くもないので、論考を書き出す際には、登山道のつもりで足ごしらえして立ち向かうしかないのです。細々と口うるさい理由をご理解いただけたでしょうか。

*魚豢「魏略西戎伝」賛~知られざる西域風雲録
 因みに、魚豢「魏略」は、長く貴重な史書として珍重されたのですが、正史ではなかったので、千数百年の間に、写本継承の必須図書から外れ、散佚して完本は現存せず、諸史料への(粗雑な)引用/佚文が残っています。佚文は、引用時点の所引過程で謬りや改編が発生しやすい上に、所引先の写本過程での誤写が、正史など完成写本と比べて格段に頻発しているので、魚豢「魏略」の本来の姿を留めているか、大いに疑わしいものです。顕著な例が、所謂「翰苑」現存断簡所引の「魏略」であり、ほとんど史料として信用できる部分が見られない始末です。
 ただし、魚豢「魏略」「西戎伝」は、全くの例外です。陳寿が『意義のある記事が無いとして割愛した魏志「西域伝」』の代用として、注釈無しに丸ごと補注されているので、魏志刊本の一部として、古代史書の中でも類例のない完璧な状態で、完全に近い形で現存しています。魏略「西戎伝」を侮ってはなりません。

 魏略「西戎伝」は、実質的に後漢書「西戎伝」であって、記事の大半は、亀茲に「幕府」を開いた後漢西域都護の活動を記録しています。後世の笵曄「後漢書」西域伝によると、西域都護は、後漢明帝、章帝、和帝期の西域都督班超が、前漢武帝時に到達した西域極限の「安息」東部木鹿城(Merv)に、副官甘英を都督使節として百人規模の大使節団を派遣しています。安息の東部主幹「安息長老」は、漢との外交関係締結を委任されていて、遙か西方のメソポタミアの王都「クテシフォン」は、漢使の到着地である木鹿城メルブ要塞から五千里の彼方でしたが、東西街道と騎馬文書使の往来で運用していたので、後漢洛陽から二万里の地点を「西域極限」と再確認できたのです。

 班固「漢書」「西域伝」は、諸蕃王の居処を、一切「都」と呼んでいませんが、中華文明に匹敵すると認めた文明大国「安息国」には、蕃王居城と隔絶した「王都」なる至高の尊称を与えているのです。
 と言っても、これは、漢代公文書を収録した後漢代史官班固の基準であり、後世、さらには、東夷の基準とは、必然的に異なるので、安直に参照するのは、誤解の元です。何にしろ、古典語法で書かれた班固「漢書」の用語は、唐代教養人に不可解であったため、隋~初唐の学者顔師古は、班固「漢書」地理志への付注で、ほとんど一文字ごとに「飜訳」記事を書き付けていて、如何に漢字の解釈が深遠であるか示しています。当然、古代史書は、一般的に現代中国人には読解不能なのです。ある意味、日本人と大差ないという事もできます。

閑話休題
 安息国は、かって大月氏の騎馬軍団に侵略されて国王が戦死するなど打撃を受け、以後二万の大兵力を国境要塞メルブに常設していましたから、西域都護は、後漢の西域支配に常習的に反抗する大月氏(貴霜国)を、両国の共通の敵として挟撃する軍事行動を提案したものと見えます。(どこかで聞いた話しです)但し、安息国は、商業立国であり、取引相手を敵に回す対外戦争を自制していたので、漢安同盟は、成立しなかったようです。
 安息国は、西方の「王都」「パルティア」がメソポタミアで繁栄を極めたため、西方のローマ(共和制時代から帝政時代まで)の執拗な侵略を受け、都度撃退していたものの、敵国ローマがシリア(レバノン)を準州として、駐屯軍四万を置き侵攻体制を敷いていたため、既に二万の常備軍を置いている東方で、無用の紛争を起こす気はなかったものと思われます。
 安息国は、商業国であり、周辺諸国は顧客なので、常備軍を厚くして侵略に出ることは、ほとんどなかったのです。この点、先行するアケメネス朝のペルシャが、西方で隔絶して富有の身で、弱小ギリシャに度々侵攻したのと「国是」が異なっていたのです。

 といって、凶暴と思わせるほど果断な行動力で、西域に勇名が轟いていた後漢西域都督班超を敵に回すことのないよう、また、独占している東西交易の妨げにならないよう、如才なく応対したようです。まさに、二大大国の「外交」だったのです。
 つまり、班超の副官甘英は、軍官として威力を発揮することはなかったものの、外交使節としての任務を全うし、つつがなく西域都督都城に一路帰参したのです。

*笵曄不信任宣言~ふたたび、みたび
 笵曄は、後漢書「西域伝」で、両漢代西域史料には誇張があり、西方への進出を言い立てているが、実際には、安息までしか行っていない、条支には行き着いていないと達観していますが、一方、甘英が、遙か西方まで進出して、大秦に至る海港に望んだが、長旅を恐れて引き返したと創作しています。
 安息は、西方の大海カスピ海の手前「海東」なので、確かに、甘英は、「大海」対岸の「海西」条支(アルメニア)には行き着いてないのであり、大秦を目指したとされている地中海東部は数千里の難路の果てであり、カスピ海沿岸から遠くメソポタミアに至る領域を支配していた安息は、東方の異国である後漢の武官が、西方の王都を越えて、臨戦状態である敵国ローマの領分にまで進むことを許可することはね絶対にあり得ないのです。
 当時、シリアは、ローマの準州となっていて、時のローマは、帝制に移行しても国是は変わらず、数万のローマ軍が常駐し、往年の大敗で、三頭の一角マルクス=リキニウス=クラッススを敗死させ、万余の兵士を戦時捕虜として東部国境メルブまで配流して終生東方の外敵に備えさせた「パルティア」への復仇と世界の財貨の半ばにも及ぶ「財宝」の奪取を期していたのですから、そのような敵との接触を許すはずがないのです。
 また、班超の副官が、そのような西方進出を「使命」としていたのなら、武人は、万難を排して「使命」を全うするのであり、正当な理由無しに「使命」を回避することは、死罪に値する非命なのですが、甘英が譴責を受けた記録はなく、もちろん、斬刑に処せられたことも記録されていないのですから、もともと、そのような進出の命令/使命は「なかった」のです。
 笵曄は、ここで、先行史書の縛りの少ない西域伝」に対して、明らかに史料(魚豢「西戎伝」)にない「創作」を施したのであり、これは、笵曄の遺した夷蕃伝は、史実を忠実に記録した史料として信ずることができない」ことを証しているものです。
 と言うことで、ここまで続いた余談は、実は、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」が、史実を忠実に記録した史料として信ずることができないと断罪する理由を示しているのです。当ブログ筆者は、著名な諸論客と違って、思いつきを、確証無しに大言壮語することはないのです。 

*魏志「西域伝」割愛の背景
 このように、遥かな「大海」カスピ海岸まで達した後、英傑班超の引退に伴い後漢西域都護は名のみとなったものの、魏略「西戎伝」は、後漢盛時の業績を顕彰し、粗略な所引の目立つ范曄「後漢書」西域伝を越えて、同時代西域事情の最高資料と世界的に評価されています。
 そして、続く魏晋朝期、西域都護は、歴史地図上の表記だけで形骸化していたのです。
 恐らく、後漢撤退後の西域西部は、「大月氏」の遺産である騎馬兵団を駆使する「貴霜」掠奪政権が跳梁するままになっていたと思われますが、魏略「西戎伝」は、そのような頽勢は一切記録していないのです。
 ということで、結論として、陳寿の魏志編纂にあたって、「西域伝」は、書くに値する事件が無かったため、謹んで割愛されたのです。要するに、「西域伝」を書くと、曹魏の無策を曝け出すことになるので、むしろ、書かないことにしたと見えます。それが、「割愛」の意味です。

《原文…其俗国大人皆四五婦……尊卑各有差序足相臣服
 以下略

*まとめ
 長大な批判文に付き合って頂いて恐縮ですが、単なる批判でなく、建設的な提言を精一杯盛り込んだので、多少なりとも読者の参考になれば幸いです。
 一語だけ付け足すとすると、「倭人伝」は中国正史の一部であり、先行二史を越えて、有能怜悧な陳寿が生涯かけて取り組んだ畢生の業績なのに、国内古代史論の邪魔になるからと言って根拠の無い誹謗を大量に浴びて、汚名を背負い込まされ、後世改竄の嵐に襲われているのが、大変不憫なのです。

*自由人宣言
 当記事の筆者は、無学無冠の無名人ですが、誰に負い目もないので、率直な反論記事を書き連ね、黙々と、支持者を求めているのです。

*個人的卑彌呼論~「水」を分けるひと
 思うに、女王卑弥呼の「卑」は、天の恵みである慈雨を受けて、世の渇きを癒やすために注ぐ「柄杓」を示しているのであり、卑弥呼は、人々の協力を得て「水」を公平に「分け」、普く(あまねく)稲の稔りを支える力を持っていたのですが、今に伝えられていないのです。
 「卑」の字義解釈は、白川静氏の「字通」などの解説から教示を受けたものです。字義から出発して、卑弥呼が「水分」(みずわけ)の神に仕えたと見るのは、筆者の孤説の最たるもので、誰にもまだ支持されていません。

 いろいろ訊くところでは、卑弥呼の神性を云々すると「卑弥呼が太陽神を体現している」との解釈から、天照大神の冒瀆として攻撃されるようなので、これまでは公言を避けたものです。年寄りでも、命は惜しいのです。

 私見ですが、卑弥呼は、あくまで現世の生身の人であり、神がかりも呪術もなく、「女子」(男王の外孫)にして「季女」(末娘)として、生まれながらに託されていた一族の「巫女」としての「務め」に殉じたとみているのです。恐らく、陳寿も、ほぼ同様の見方で、深い尊敬の念を託していたと見るのです。
 倭人伝」には、卑弥呼その人の行動、言動について、ほとんど何も書かれていないわけですから、人は、自身の思いを好き放題に仮託しているのです。もし、以上に述べたこの場の「卑弥呼」像が、読者のお気に入りの偶像に似つかわしくなくても、それはそれでほっておいて頂きたいものです。
 別に、言うことを聞けと躾けているのではないのです。「ほっちっち」です。本論著者は、何を言い立てられても、論者の「思い」には入れないので、寛大な理解を願うだけです。

                                以上

2023年7月22日 (土)

新・私の本棚 番外 第410回 邪馬台国の会 安本美典「邪馬台国への里程論」

          2023/05/21講演    2023/07/22
*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*明快な指針
 安本師は、本講義でも、劈頭に明快な「指針」を示して、混沌に目鼻を付ける偉業を示されているが、以下、諸家諸兄姉の諸説を羅列していて、折角の指針は、聴衆の念頭から去っていたのではないかと懸念するほどである。
 藤井氏の提言に啓示を受け、背後の地図は扨置き、郡から狗邪韓国まで一路七千里と明記し、俗に言う「沿岸水行」は、見事に排除されている。

*混迷の始まり
 倭人伝「現代語訳」で「循海岸水行」を「沿岸水行」と改訂し、後世に混乱を残したのは、何とも残念である。
 「倭人伝」解釈は、「倭人伝」自体に依拠すべきであり、確たる検証がない限り、遙か後世の東夷に従うべきではない』のではないかというのが、当ブログ筆者の意見であり、以下の諸兄姉の言説は、総じて最初の一歩を踏み間違えているので「論外」というのが率直な意見である。と言うことで、本項では、諸言説を否定も肯定もせずに進んでいる。

 安本師は、「倭人伝」道里が誇張であると称する弾劾に同意せず、地域固有の論理/法理に従って「首尾一貫している」と至当な見解であるが、続いて、後世日本での里制の乱れを紹介し、それ故に『中国に於いて「里」が動揺していた』との不合理な解に陥っている。
 これは、古代中国には無縁の曲解である。後世東夷の事情で起きた事象が、三世紀倭人伝の記述に影響を及ぼすはずがないのは、自明では無いかと思われる。
 中国は、少なくとも秦代以来、厳然たる「法と秩序」の文明国家であり、中国「里制」は、魏晋に至るまで鉄壁不変/普遍普通の鉄則と見るべきと思うのである。楽浪郡は、漢武帝創設の漢制「郡」であり、当然、郡統治は、秦漢通用の「普通里」が、厳然と適用され、帯方郡は、当然、これに従ったのである。不法な非「普通里」が横行していたというのは、とんでもない言いがかりでは無いかと思われる。

 このあたり、安本師の限界か、「倭人伝」解釈に齟齬を見てとって中国の「法と秩序」の不備に原因を求めているように見えるが、陳寿には、反論のすべがないので、素人が僭越にも代弁するものである。

 率直なところ、師の認めた「地域短里」は、秦漢魏晋の「漢制里制」、一里四百五十㍍程度の「普通里」が、『漢武帝が設立した漢制楽浪郡に於いて施行されて「なかった」』という不合理な解釈に依存しているので、残念ながら従えないのである。

*ローカルな話/明帝遺訓の万二千里
 ここで提言したいのは、師の「地域短里」は、地理的なLOCALであるが、ここは、文書内の局所定義という意味のLOCALと進路変更頂きたいというものである。
 別に述べたように、後漢末期の建安年間、遼東郡太守公孫氏は、新参の東夷である「倭人」の身上を後漢、曹魏に報告しなかったが、天子の威光の辺境外の荒地を示す「万二千里」の道里を想定したと見える。
 司馬懿の遼東征伐で公孫氏文書は破壊されたので、公孫氏の想定は明記されていないが、曹魏明帝が事前に帝詔をもって両郡を配下に移し郡文書が洛陽に回収されて、「天子から万二千里」の東夷が明帝の目にとまったと見える。斯くして曹魏皇帝が万二千里を公式に認定し、明帝遺訓となったので、史官である陳寿が金文の如く尊重し、斯くして、「倭人伝」に「ローカル」道里が記載されたと見える。
 そのように筋を通さなければ、公孫氏遼東郡時代の楽浪/帯方郡の東夷管理記録が、魏志に収容された事情がわからないのである。

*まとめ/一路邁進願望
 安本氏に期待するのは「邪馬臺国」がどうであれ、「倭人伝」道里は、最終的に九州北部(北九州)に達する、筋の通った、明快な書法であり、当時の読者が納得したものと理解して、史学論の泥沼を排水陸地化して頂きたい。

 禹后本紀は、堅固な陸地移動を「陸行」車の移動とし、河水の流れに沿う移動を「水行」船の移動としたが、介在する「泥沼」は橇で水陸間を連絡移動していると総括している。

 倭人伝の公式道里記事を、陸地なる「海岸に沿う」と称して、泥沼/海浜を「水行」させる議論は、早々に排除して頂きたいのである。もっとも、正史記事で「海岸沿い」は、陸地の街道と見るものではないかと素人なりに思量するものである。ご一考いただきたい。

                               以上

新・私の本棚 番外 第411回 邪馬台国の会 安本美典 「狗奴国の位置」

            2023/06/18講演           2023/07/22
*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*後漢書「倭条」記事の由来推定
 笵曄「後漢書」は、後漢公文書が西晋の亡国で喪われたため、先行史家が編纂した諸家後漢書を集大成したが、そこには「倭条」部分は存在しなかったと見える。
 後漢末期霊帝没後、帝国の体制が混乱したのにつけいって、遼東では公孫氏が自立し、楽浪郡南部を分郡した「帯方郡」に、韓穢倭を管轄させた時期は、曹操が献帝を支援した「建安年間」であるが、結局、献帝の元には報告が届かなかったようである。
 「後漢書」「郡国志」は、司馬彪「續漢書」の移載だが、楽浪郡「帯方」縣があっても「帯方郡」はなく郡傘下「倭人」史料は欠落と思われる。

 笵曄は、「倭条」編纂に際して、止むなく)魚豢「魏略」の後漢代記事を所引したと見える。公孫氏が洛陽への報告を遮断した東夷史料自体は、司馬氏の遼東郡殲滅で関係者共々破壊されたが、景初年間、楽浪/帯方両郡が公孫氏から魏明帝の元に回収された際に、地方志として雒陽に齎されたと見える。

*魚豢「魏略」~笵曄後漢書「倭条」の出典
 と言っても、魚豢「魏略」の「倭条」相当部分は逸失しているが、劉宋裴松之が魏志第三十巻に付注した魏略「西戎伝」全文から構想を伺うことができる。
 魚豢は、魏朝に於いて公文書書庫に出入りしたと見えるが、公認編纂でなく、また、「西戎伝」は、正史夷蕃伝定型外であり、それまでの写本継承も完璧でなかったと見えるが、私人の想定を一解として提示するだけである。
 笵曄「後漢書」西域伝を「西戎伝」と対比すれば、笵曄の筆が後漢代公文書の記事を離れている事が認められるが、同様の文飾や錯誤が、「倭条」に埋め込まれていても、確信を持って摘発することは、大変困難なのである。

*狗奴国記事復原/推定
 念を入れると、陳寿「魏志」倭人伝は、晋朝公認正史編纂の一環であり、煩瑣を厭わずに郡史料を集成したと見える。史官の見識として、魚豢「魏略」は視野に無かったとも見える。魚豢は、魏朝官人であったので、その筆に、蜀漢、東呉に対する敵意は横溢していたと見えるから、史実として魏志に採用することは避けたと見えるのである。
 それはさておき、女王に不服従、つまり、女王に氏神祭祀の権威を認めなかった、氏神を異にする「異教徒」と見える狗奴国は、「絶」と思われ、女王国に通じていなかったと見えるので、正始魏使の後年、人材豊富な張政一行の取材結果と見える。

 安本師が講演中で触れている水野祐師の大著労作『評釈魏志倭人伝』(雄山閣、1987年刊)に於いては、「其南有狗奴國」に始まる記事は、亜熱帯・南方勢力狗奴国の紹介と明快である。

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。[中略]男子無大小皆黥面文身。[中略]計其道里當在會稽東治之東。[中略]男子皆露紒以木綿招頭。[中略]種禾稻、紵麻、蠶桑[中略]所有無、與儋耳朱崖同。

 一考に値する慧眼・卓見と思われ、重複を恐れずに紹介する。

*本来の「倭記事」推定
 つづく[倭地溫暖]に始まる以下の記事は、冬季寒冷の韓地に比べて温暖であるが亜熱帯とまでは行かない「女王国」紹介記事と見える。

倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。[中略]其死、有棺無槨、封土作冢。[中略]已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。[中略]出真珠、青玉。[中略]有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。[中略]自女王國以北特置一大率[中略]皆臨津搜露傳送文書賜遺之物[中略]倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大。無夫婿。[中略]女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。[中略]參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里。

*結論/一案
 要するに、「倭人伝」には、狗奴国は女王国の南方と「明記」されている。但し、時代を隔て、一次史料から隔絶していた笵曄が、解釈を誤ったとしても無理からぬとも言える。
 要するに、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は信頼性が証されず「推定忌避」するものではないかと愚考する。(明快な立証がない限り、取り合わない方が賢明であるという事である)

 安本師は、当講演では、断定的な論義を避けているようなので、愚説に耳を貸していただけないものかと思う次第である。

                                以上

2023年7月21日 (金)

私の感想 毎日新聞 囲碁 UP TO DATE 「AIとの付き合い、手探り」

AIとの付き合い、手探り 佐田七段「ワンパターンは危険」      2023/07/20 

*始めに
 本日朝刊の「囲碁AI」談義は、専門課が、担当記者の問いかけに適確に応じた興味深い掘り下げが聞けて、秀逸であった。引き合いに出すのも何だが、小生の同窓生である老論客(単なる「ド素人」)は、軽率にも、将棋が勝負の争いで明確なのに対して、囲碁は数の争いで、肝心の臨界値が時代に流された「コミ」で変動しているから、勝敗の敷居があやふやだと勝手に評していて、認識不足は正したものの、これが世間の見る眼かとあきらめたものである。
 素人目には、将棋では、「リスク意識の無いAI」にとって、勝敗は一手の差であるから、当然「先手有利」との「定理」しか無いが、最終盤に至る「読み」では、自分の迷いやすい手筋、相手の間違いやすい手筋が入り交じって、一手、一手の手の「色合い」、質が違うので、安直な数値化を超えていると思う。
 おかげで、名手・達人の争いは、最終盤に大差と評価されても逆転の道が至る所に潜んでいる。時には、まだ先が長いと見えても、回復の余地も可能性もないと見えて、淡白に幕を閉じているように見える。

 素人考えで恐縮だが、AIが、偽物でない本物の「知性」を言うのであれば、(人の)知性を真似るべきでは無いかと思われる。古人に従うなら、指してだけ見て、人の考えか、そうでないか「区別」が付かなくなって、始めて、「知性」と認知されるものである。

*「コスパ」で幻滅
 当記事は、専門記者が、専門家に念入りに相談して、丁寧に書き上げた力作であり、味わい深いものであったが、締めの部分で、当の専門家が、「コスパ」なるインチキカタカナ語を持ち込んで、結末が尻すぼみと見えた。

 その道の専門家が言うのだから、分母に来るべき「コスト」は、使用料などでは無く注ぎ込む思考努力だろうが、個人差が厖大なのにどうやって数値化するのだろうか。例えば、当方は、囲碁に関しては、ド素人である。

 また、分子に来るべき「パフォーマンス」は、何を数値化するのだろうか。獲得賞金額なのだろうか。いかにも、即物的で興ざめである。
 対局中に、囲碁AIを援用することはできないから、専門家の内部にある「棋力」に貢献する事だろうか。それをどのように数値化するのだろうか。あるいは、複数の囲碁AIを比較して品定めしたのだろうか、不思議である。

 分母も分子も不明では、囲碁AIの「コスパ」の科学的評価は不可能と見える。専門家の数値化明細を知りたいものである。

*「囲碁AI論」待望
 冒頭にあるように、世間には、囲碁の勝負は数値で示される成果が「コミ」で調整されるから、確固たる勝敗判断が存在しないと感じている素人野次馬を見受ける。将来、AIによって整理された挙げ句に、先手勝率が高いことになりコミを変えるとなると、議論の芯がずれてしまうように思う。
 将棋界では、羽生善治永世七冠が、かねてより、人工知能が将棋界に及ぼす影響に至言を示しているが、囲碁界は、まだ、人と人が対局する舞台が、AIによってどのように影響されるかについて、定見が出せていないように見える。もっとも、将棋観戦記では「ソフト」評価値など、前世紀の概念が目だつから、将棋界の技術評論の大勢は、まだ、AIに対応できていないとも見える。

*締めくくり
 いや、当記事は、全体として、囲碁界が、AI論に於いて着実に歩んでいるようにも見えるが、タイトルで自認されているように、結末がもう一つである。
 全国紙の専門記者には、今後とも、深く切り込んだ考察を求めたいものである。

                                以上

2023年7月 7日 (金)

倭人伝随想 さよなら「野性号」~一九七五年の実証航海 (補) 1/3

                      2020/01/31 2021/10/24 2023/07/06

▢お断り 2021/10/24
 当記事は、魏使が、皇帝の下賜した宝物を、倭人のもとに運んだ行程を想定して、掲題の実証航海の意義を考証したものです。
 当ブログでは、倭人伝冒頭の道里行程記事は、中国王朝の公式記録に「公式」に記録されるのは、街道を使用した道里と所要日程であって、魏使の実際に通過した道程の記録ではないと見ているので、以下、論外と弾いてします。
 ここで、「野性号」を取り上げるのは、「野性号」が、「想定した沿岸航行」を「想定復元した漕ぎ船で実行可能であった」という「実証実験」なので、果たして、実現性は証されたのか、いや、そもそも、妥当な前提かという論点から批判したものです。

 おわかりのように、早々にはじいて議論から外さないで、道草を食っていると、これだけ頑張らないといけないのです。
 しかも、都合の悪いことに、このように戦線拡大して、字数を使って面倒見ると、その拡大した部分に対して批判が沸いて、また対応を迫られる悪循環が想定されるのです。正直言って、個人のできることには限界があるので、当ブログの記事は次第に道を絞らざるを得ないと感じる次第です。くれぐれも、このような余談にかかずり合わないでいいように願いたいものです。

 それにしても、当実験は、素人目には、随分飛躍した前提から取り組んでいるように見えるのです。厳しい指摘とも見えるかも知れませんが、当時、色々演出しなければ示現できなかったことは理解しているので、その点を非難しているのではないことをご理解いただきたいものです。もう、「実証航海」以来二十五年たっているので、率直な批判は許されると見たのです。

 以上、単独記事として閲覧いただく際には、多少の前置きが必要とみて追加したものです。

〇「従郡至倭」水行~神話の起源
 倭人伝冒頭の解釈で、郡からいきなり黄海に出て、以下、海岸沿いに南下、半島南端に達して東転する(とは、書いていないのだが)と決め込んだ勝手読みが天下独裁で、一切異説に耳を貸さないのが「定説」という名の嘆かわしい「神話」になっているようです。

*神話不可侵の軌跡
 この背景を調べていたのですが、やはり、一つの「神話」が根づいています。
 末尾の資料を拝読した感想ですが、要は、多くの人々の支援と資金援助で実現した実証計画が、率直なところ、仮想航路の実証が不首尾なのですが、色々背景があって、結果を糊塗しているようです。
 当方が、安楽椅子探偵ばりに、現地を見ない思考実験で、野性号の実験は「実証失敗」と見なす理由は次の通りです。

⑴ 同一漕ぎ船の一貫した航行、一貫漕行は、断然維持困難(不可能)です
 漕行は一定の難業でなく、壱岐-対馬-狗邪韓国間の急流が図抜けています。一貫漕行なら、この区間を越えられる船体、漕ぎ手の船となり、例えば三十人漕ぎの特製船体となります。(壱岐-対馬間が最難関とみたのは、総計であり、ここに撤回します)

 最難所にあわせた重装備の船は、他区間では大変な重荷です。船体は、漕ぎ手の体重を加えて大変な重荷ですが、運賃は払いません。沿岸航路の漕行には、一切代船はないので、何か支障が生じて頓挫したとき一切回復手段がないので、一巻の終わりです。 

⑵ 漕ぎ船の継続漕行は、相当維持維持困難(不可能) です
 前項の不合理を排除するには、まずは、狗邪~末羅間の海峡部、特に壱岐-対馬-狗邪韓国間の便船を「別誂え」にすることです。

 そうすれば、他区間は、軽量、軽装備の船体と少ない漕ぎ手で運行できます。どの区間も、複数船体運用であり、代船も常備の筈です。要は、半ば消耗品扱いで、航海から帰還したとき点検して、痛みがあれば、適宜、代船に差し替えて、修理にかけていたはずです。

 継続漕行を避け、毎回乗り換えとすれば、南北に長く海流が厳しい対馬の「半周島巡り」が避けられます。別便船仕立てなら、乗客と荷物の短距離陸送で良いのです。壱岐でも、操船も漕ぎも大変困難な沿岸漕行の「半周島巡り」が避けられて、大変有用です。
 対馬で話題になる船越は、船体を担いで陸を行くという暴挙を避ければ良いのです。要するに、船荷を担いで陸越えして、向こう側で、次の船体、漕ぎ手に代われば、何の無理もないのです。陸を荷担ぎするのは、だれでもできることなので、人海戦術でこなせて、難破などしないのです。

 三度の渡海は、それぞれの区間の海流の厳しさに応じた特製便船、漕ぎ手体制で、伝馬の如き乗り継ぎになります。それなら、一日毎の渡海運用もできたでしょう。また、海上運行に付きものの難航も、馴染んだ行程の往復なら安心です。そうした説明が、何やら疑わしいと感じるとしたら、それは、時代感覚がずれているのです。

*余談
 江戸時代の渡船は、東海道の長丁場を除けば、大抵、十人ほどの乗り合いで、漕ぎ手は、せいぜい二人、船賃は手頃で、しかも、武士は、常時公務という解釈で無料だったのです。いや、現代になっても、渡し舟は、手軽な乗り物で、手漕ぎではないものの、都市近郊にも大事な交通機関として生き残っています。
 つまり、船体は、船室も甲板もなく、厨房もお手洗いもなく、とにかく、乗客を向こう岸に運ぶ手軽な下駄代わりだったのです。

 ここで話題に上っている長距離航行の漕ぎ船は、外洋航行であって、風波が激しく、舷側を高めてもしぶきがかかります。と言うことで、荷物の傷むのを防ぐためには、甲板ないしは帆布などで覆った「船室」が必要です。そうでなくても、海水の侵入も避けられなかったでしょう。つまり、都市近郊の渡し舟に比べて、大きくて頑丈、当然、数人から十数人の漕ぎ手が必要です。

 そのような大型の船は、空船でも重量が大きく、単に漕ぎ進めるにしても、多大な労力が必要です。想定されているように、釜山(プーサン)から仁川(インチョン)あたりまで、漕ぎづめに進むというのは、漕ぎ手/水手(かこ)の酷使と言うより使い潰しに近いものであり、事業として継続できるものではありません。あり得る姿が、伝馬形式の繋ぎです。

 因みに、ここで言う「大型」というのは、一人や二人漕ぎの河船の渡し舟や沖合の漁を想定した漁師の舟と比較して「図体が大きい」という意味で、近来報道されているようなクルーズ船のような「大型客船」を言うものではありません。ここで例示されている「野性号」は、ここで言う「大型の船」ですが、当時実用とされていた船と似ているのか、似ていないのか実際の所は不明です。

*沿岸漕行の難儀
 と言うわけで、半島沿岸漕行の長丁場には格別の配慮が必要です。日々の槽運は、漕ぎ手に大変な負荷をかけるので、連日槽運(連漕)は実際上不可能です。事業を持続するには漕ぎ手の休養が必須で、更に言うと、随時漕ぎ手交替が必要です。一度限りの冒険航海なら、連漕後に漕ぎ手全員が疲弊困憊なら、長期休養できますが、継続運行には過度の負担は避けねばなりません。大体、地元を離れた連漕などの苛酷さでは、いかに厚く報いても、漕ぎ手のなり手がいなくなります。

 それにしても、以前から不思議に思っているのですが、想定されている魏使用船は、末羅国で一旦お役御免になった後、帰途に備えるとして、その場待機なのでしょうか。狗邪韓国まで、空船で帰って、待機するのでしょうか。大変不審です。
 行ったのはいいが、一体いつ帰るかわからないのでは、船員を待機させるとしても、処遇に困るしょう。また、順調に使命を果たせば、荷物はほとんどなくなるでしょうから、大半は、山東半島の母港に返すのでしょうか。余計なお世話と言われそうですが、用船を一貫航行させるのは、そのような成り行きを覚悟してのことになるのです。

 実際の行程を想定しても、漢蕃使節は、最低五十人、通常百人とまとまるのが定例で、大層な荷物を考慮しなくても、想定の漕ぎ船では、十便ないし二十便が必要です。今回限りの雇い切り、借り切りとしても大変なものです。東夷の辺境の往来ですから、いくら市糴が鄙にも希な盛況でも、それほど多数の船が、遊休状態にあるとは信じがたいのです。

 その際、先に説いた区間ごとの乗り継ぎであれば、近隣までの便船を借り切りにして往復航行するので、多数の船も、帰途待ちの待機策も要らないのです。

*魏使行程の「否」選択肢~「なかった」世界
 前項の片道数十日連続漕行の想定なら、最後尾が追いつくのに数ヵ月、ないし、一年以上かかりそうです。説明の段取りで遅ればせに成りましたが、一貫漕行が実現不可能と考える主要因でもあります。

 本項の短区間乗り継ぎなら、数船を並行運行して、一ヵ月程度で最後尾が追いつくかとも思われますが、それでも、前例のない、絶大な繁忙なので、文書通達する程度では不確かで、何ヵ月も前に各港に担当官が赴いて細かく指示しないと、手配漏れなど手抜かりが出そうです。また、多数の船腹、漕ぎ手を動員するということは、いずれ、何らかの不測の事態で、混乱しそうです。郡関係者も、よく、このような尋常ならざる事態に対応する運用を構想できたものです。
 いや、当方の深意は、そんなことは実際上できなかった、と言うか、帯方郡太守は、そんな無謀な策は一切やろうとしなかったという意見なのです。と言うか、太守の選択肢には、幻の沿岸航行などなく半島陸行しかなかったということでしょう。

*伝馬体制の必要性
 以上述べ立てた伝馬体制は、この際に思いついた異様な運用ではありません。陸上街道でも、輸送従事の人馬は一貫したものでなく、適宜、駅伝で交替するのです。つまり、沿岸航路の運用には、地元漁民の案内と漕ぎ手を備えた「海の駅伝」が必須なのです。

 余得として、漕ぎ手は、近隣一日行程程度の漕ぎ慣れた区間の往復になり、自港では自宅でくつろげるから、短期休養でも長続きするのです。

 とても、当時実用に供されていたとは思えませんが、どうしても実用に移すとしたら、ここに述べたような事項は、全て克服しなければならないということです。ことは、「むつかしい」が「やればできる」とかの空疎な思い入れでは、解決しない、厖大な難題を抱えているのです。

 諸兄姉に於いては、時代離れした先入観で、前車に無批判に追従して、ぞろぞろと陥穽なる「ブラックホール」にはまり込み、雑駁な沿岸航行の戯画を描き継ぐのでなく、原資料に基づき、ご自身の健全な思考に基づく、実現、維持可能な業態の生きた時代考証を試みることが必要ではないでしょうか。

                               以上

倭人伝随想 さよなら「野性号」~一九七五年の実証航海 (補) 2/3

                     2020/01/31 2021/10/24

⑶ 漕行路は、重荷を運べないと運用不可能です
 「野性号」の積荷想定は不明ですが、二十人漕ぎで、荷物を百㌔㌘程度、乗客を五人から十人程度運ばないと分が悪いでしょう。
 して見ると、最低五百㌔㌘程度の有効荷重があって「業」として維持できるのでしょう。漕ぎ手二十人で、客五人は相当なものですが、どうも、商用の貨客船には見えないのです。といって、漕ぎ手二十人が、空荷の船を目的地に届けても、一切実入りはないのです。「実証」するには、船荷と乗客を乗せた航海が必要だったでしょう。

*漕行の非効率
 世の中には、古代の運送では「比重」が大きいものを水上便にするというご託宣を垂れるかたがあります。多分、「質量」(目方)のつもりでしょうが、大変な心得違いです。純金は、比重20に近い「重さ」ですが、極めて高価で、少量軽量で流通したのです。今日日(きょうび)の商用出版物には、編集チェックがないのでしょう。

 漕ぎ船は、荷が重いと推進力が負けてしまいます。水上なら荷が軽いと思いそうですが、船体と漕ぎ手はまことに重いのです。漕ぎ手の奮闘も、推進力となるのは一部だけで、大概はひたすら波を起こすのです。水上便は負荷が軽くて効率的だと思い込んでいる向きが多いようですが、それは、川下りの様子を見ているのであって、例えて言うなら、海はすべて追い風の航行であれば軽いものでしょうが、世の中には、追い風と同じだけの向かい風があるので、港で何日でも風待ちするのは、手漕ぎ時代でも同じだったのです。水流の助けは片道だけで、かならず逆行があるので、帳消しどころでなくなります。

 総じて、漕ぎ船の推進力は、人馬が地面を踏みしめて荷物の正味を進める力に、遠く及ばないのです。船が、人馬を労せずして荷を運ぶのは帆船が定着してからです。

*陸道~駄馬と痩せ馬が共有する重荷
 陸では、荷物を適宜小分けし、人馬の数をそれに合わせて無理なく担える程度にすればよく、後は、規定の日数でゆるゆる行くのです。
 税の一部である労役に動員可能な日数は限られていても、小遣い銭程度で追加労役に動員できるのです。いや、世に駄馬という荷役専門の馬は数が限られていて大変貴重ですから「痩せ馬」と称して人を増やすのです。倭人伝によれば荷役駄馬はいなかったので、万事、背負子だったかも知れません。広く人馬を募れば、重荷の峠越えも、難なくこなせるのです。いや、そのために、郡から鉄山まで、街道整備し、維持したのです。

*滔々たる七千里の官道
 ということで、弁辰産鉄の郡納入を目的に整備された筈の半島中央の官道七千里、随一の難所、小白山地竹嶺越えも、近郷農民に手当をばらまけば、痩せ馬背負子が、働き蟻の如く集い寄ってつづら折れを行く「数」の力で大役をこなせるのです。(冬季は、積雪、路面凍結の難がありますが)

 動員される農民達も、農作業は家族に任せて、出稼ぎ代わりに参集したでしょう。当時の世相はわかりませんが、経済活動が発展途上のため、そんなに苛酷な労役は無かったように感じます。

 交通量が増えたら、街道に茶店でも出たかも知れません。腰弁当にせずとも、茶店で食が補えるなら、安いものと思う程度の手当は出ていたはずです。

*渡海事情と実現性の考察
 と言うものの、三度の海峡渡海には、陸送の選択肢はなく独占です。

 倭人伝には、対馬と壱岐の食糧事情に続いて交易船運用が書かれていても、末羅と狗邪韓国には無いので、海峡便船は両島がほぼ独占し、頻繁に運送したように見えます。両島は往来する交易船から、入出港料、関税として、最低限、饑餓が発生しない程度の食糧を徴収できたと見えます。

 それにしても、文書便は文箱だけですが、米俵など重量物は、漕ぎ船には荷が重いので、極力、軽量高貴品に専念したでしょう。つまり、海峡渡船は、確実に稼げる事業形態になっていた筈です。その視点で、沿岸航行の実現性を時代考証していただきたいものです。

*人身売買の暴言
 先ほど食糧充足にこだわったのは、古代史学界には「人身売買」など、ご自身の無知に由来する冤罪を唱えて誣告し、現代両島住民に罵声を浴びせる妄言派がいるからです。講演に出かけて謝礼を受け取っておいて、自身の妄想を言い立てて、現地の先人を非人道的だと罵倒するとは、論外だと思うのです。と指弾されても、古代住民は、立ち上がって名誉毀損を唱えられないので、一介の素人がここに書き残すのです。

                                未完

倭人伝随想 さよなら「野性号」~一九七五年の実証航海 (補) 3/3

                     2020/01/31 2021/10/24 2023/07/06
⑷ 漕行は「海の駅」なしに運用不可能です
 衆知のように、現地水先案内なしに多島海航行は不可能です。進路案内とともに、岩礁や浅瀬の案内が航行に不可欠です。

 大型の帆船なら、備え付けの艀(はしけ)を下ろして、泳ぎの達者な海辺育ちの水夫(かこ)に偵察させる手もあったでしょうが、便船は、元々小舟だから瀬踏みのしようがありません。海を読み誤って、座礁、沈没すれば、乗員、乗客、積荷、全てが海のもずく、いや、もくずです。

 つまり、漕行運用には、要所で入港し、漕ぎ手を変え、土地勘のある案内人を載せるためにも街道宿「駅」並の宿泊施設と食糧供給体制が必須ですが、三世紀時点、半島西岸、南岸に、そのような連綿とした港運体制が存在したという証拠はあるでしょうか。

*無類空前の「海路」はあったか
 気軽に「海行」、「海道」、「海路」と無邪気に書き飛ばす人がいますが、官道なら、さらに港ごとに差配役を置き郡との文書交信が必須です。魏武曹操が、帝国に文書交信を再構築した魏制下の帯方郡を見くびってはなりません。

 そもそも、韓国領域に海の官道体制があれば、韓伝に記録される筈です。天下無類、空前の「海道」は、魏朝の画期的業績として残されるはずです。
 そのような「海道」が半島内の「陸道」より物資運送に優れていたなら、後世の新羅は、高句麗、百済の西岸角逐の漁夫の利とは言え、国富を傾け、多大な犠牲を要した軍事行動で漢城獲得の挙に出なかったはずです。

〇総括
 要するに、三世記、洛陽を発した魏使一行は、山東半島から、易々と渡海して、帯方郡に荷物陸揚げ、引き継ぎ方々、魏使の任務を郡官人に委嘱し、郡が、陸送手順を整えているのを確認した上で、帰途に就いたと見るものです。くれぐれも、以上の論義を聞き分けていただいて、後世の学習者に、とんでもない重荷を押しつけないことです。誤解の申し送りは、ご勘弁いただきたいのです。

 それにしても、冷静に考えれば海峡漕行は史実であり、実証は不要です。沿岸航行すら、数世紀後には実現していますから、喫緊の課題は、沿岸漕行の「同時代での実現性」なのです。くれぐれも、「問題」の「題意」を勘違いしてはなりません。
 そのためには、「海道」体制の考古学的実証、つまり、遺跡、遺物、文献による確認があって、初めてさらなる考察ができるのです。

*遠慮のかたまり
 ところが、当時の「実証」は、「やればできる」の信条表明(Credo)であり、運用の「実証」に欠けていて、むしろ失敗事例と見えます。
 いや、文章読解は人によって異なり、成功と解した方も多いでしょうが、理詰めで追いかけるとそう見えないのです。かなり苦しい実証試験故に、関係者の絶大な努力が結集され、それ故に、関係者が不愉快になりかねない、否定的意見を含む率直な総括ができなかったと思われます。
 今回、もはや遠慮は時効と批判稿を上げたのです。もっとも、関係者の方々は、現場も報告書も見てない素人のたわごととして一蹴できるでしょう。

〇参照資料
日本の古代 3 海を越えての交流 9 古代朝鮮との交易と文物交流~海峡を越える実験航海[東 潮]中央公論社 1986(昭和61)年4月刊
 1975年の仁川(インチョン)~博多港「野性号」実験航海概要です。仁川~釜山(プーサン)は漁師十人交替八丁櫓漕ぎとした一方で、核心の釜山~博多「海峡越え」は、大学カッター部員二十人交替の十四丁オール(Oar)漕ぎで、釜山までの航海術本位の構成と隔絶した「力業」本位が見て取れます。
 但し、乗船待機の屈強なアスリート6名が、仮想乗客/荷物500㌔㌘の想定かどうかは不明ですが、本記事の成り行きとは関係無いので、追求はしません。

*補足 2023/07/06
  読み返して、当記事では、倭人伝行程道里記事が、正始魏使の行程報告でない』ことを主張する余り、正始魏使の行程に関する考察が疎かになってしまいました。
  ここに補足すると、正始魏使は、大量の下賜物、主として、百枚の銅鏡を輸送するために、山東半島東莱の海港から、対岸、恐らく後世、統一新羅時代に海港として常用された唐津(タンジン)で荷を下ろし、以下、陸上街道の輸送に切り替え、小白山地を越えて、南下し、狗邪韓国の対馬間に至ったものと考えますが、記録が残っていないので、これに固執するものでは有りません。
 あえて、山東半島東莱の海人の献策を受けて大型の帆船便船を起用し未知の海上航行に挑んだとも考えられるのです。「海岸に沿って移動などの無謀で難船必至な行程」を避け、沖合の黄海を南下して、有望そうな海港では、艀を下ろして、現地の海人と相談の上、寄港しつつ、物資を搬入したことと思われるのです。いや、唐の帆船のような大型の船が、荒瀬に近づくことができたとは思えないのですが、何か策があった可能性は否定しないのです。

 後世、隋煬帝が下級官人の文林郎裴世清を俀国に派遣した際の往路記事同様に、魏使乗船が南下した帆船航行で耽羅を見つつ東進し、壱岐に寄港した上で、いずれかの海港に入った可能性も、十分残されていると申し添えておきます。何しろ、魏の国策としては、倭に至るには狗邪韓国まで官道を行き、狗邪韓国から渡海するという制度となっているので、臨時の海船航行は「倭人伝」に記録が残らなかったものと見えるのです。僅か二千字の小伝に、二種の行程を書くと読者が混乱する上に、万二千里の公式道里について、ことさら疑念を掻き立てるので割愛したものと見えるのです。隋唐代、ら正始や古来の公文書に遺された公式行程道里が、実務運用のものとしばしば乖離していることは、むしろ官人の常識であって、唐代に、全国制度の厳正さを求めていた玄宗皇帝が、公式行程道里の「全国調査」を命じた結果が残されていますが、それでも、公式道里の更新と言っても、正史書換えはできず、唐制確立にも及ばなかったので、そのような大事業の成果は、あくまで、玄宗皇帝の功績に止まっているのです。因みに、更新された行程記事を解釈すると、当時、統一新羅の慶州(キョンジュ)に至るには、山東半島から渡海した後、半島中央部の小白山地を越えて東南方向に進み八百里を要する陸上街道が確認されたように見えます。
 唐代に渡唐した仏僧円仁(慈覚大師)は、山東半島海港に新羅館が繁栄していたことを書き残していますが、黄海交易が発展していた時代にも、新羅国内の輸送交通は、陸上街道に依拠していたことが読み取れるのです。帆船交通/運輸が形成されていなかった三世紀も、山東半島との渡海がほぼ全てであったと、確実に推定されるのです。

 と言うことで、野性号の冒険航海の教訓は、全てが無駄にはなっていないのです。「教訓」が「教訓」として活用されていないことが「不覚」ですが、これは、当時の関係者の「不覚」などでは全く無いのです。
                                 以上

新・私の本棚 1 茂在 寅男 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1/2

 1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程   茂在寅男
  私の見立て ★★★★★ 必読         2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/07/07

*前置き
 はなからケチを付けるようですが、タイトルで謳われた「実地」とは、倭人伝時代の「実地」ではなく、論者が実際の土地と想定した土地を、二千年近い後世に歩いたという事です。近辺に足を踏み入れたことのない当方には、机上批判しかできませんが、行き届かないのは自覚しているのでご了解いただきたいのです。以下各論も同様です。

 論者たる茂在(もざい)氏は海洋学の泰斗で「九州説」に立っています。また、倭人伝に誇張や修辞の間違いが(多々)あるとの俗説は採用していません。敬服する次第です。

*冷静明快な里程論
 「二.「一里」は何メートル」では、「郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国をへて、あるいは南しあるいは東し、その北岸の狗邪韓国に到る、七千余里」の書き出しの後に「初歩的算数問題」と評し「問題は着実に解明される」としていて、およそ陳寿の提示した「問題」は、必ず「解明」できるいう冷静で知的な立場に同感します。

 また、氏の理解では、郡と狗邪韓国の間、「郡狗間」は、出発・到達点が明記され、その間の行程は「航路も正確に示された航程」と談じて、海図上で大体六百五十㌔㍍と論理を重ねた上で、これが七千里と書かれているから、そこで言う一里とは大体九十三㍍であることは明白ではないか、と見事に論じています。

*渡海論復唱
 続く、三度の「渡海」、私見では、「水行三千里」について、論者は、海図から航路長を推定し、対馬まで約百㌔㍍ 、対馬から壱岐まで同じく約百㌔㍍ と、いずれも、一千里に妥当し、壱岐から到着する末羅国も、同様の航程長と推定し、ここまで、郡から一万里としています。
 いずれにしろ、ここまでの区間は一里九十三㍍で一貫と検証しています。多分、九十㍍とした方が、読者に誤解を押しつけない時代相場の概数であり、適確でしょう。

*批判

 当方が、氏の論調に賛同した上で、あえて、異を唱えているのは、まずは、以上の行程を全て「航程」、「航路」と見ている点であり、三世紀当時、そのような「航路」は言葉として存在していない、つまり、対象となる実体がない、と言うことです。概念の時代錯誤です
 参照された海図は、現代のものであり、当時、そのような行程/航程を辿ることはできなかったと感じます。現に、魏志倭人伝には、地図、海図の類いは添付されていません。つまり、当時、史官と読者は、文字だけで論義していたのです。遺憾ながら重ねて時代錯誤に陥っています。

 但し、現代的な「航程」で、総じて六百五十㌔㍍ なら、当時も大差ない行程長とみて、参考にして良いように思います。あくまで、海図もコンパスもパイロット(水先案内)も無しに、想定通りの航行ができたらの話であり、氏の論法に同意しているのではないのです。

 繰り返し力説しますが、この間の行程長の評価で、現代海図を採用しているのは、どうしても同意できません。当時海図も航路もなかったので、渡海船が何里移動したか、自身で知るすべはなかったのですから、この三回の渡海は、移動里数を想定できたにしても、全て、漠然たる推定、目算であって、「正確」とか「完全に一致」とか言うのは、見当違いと考えます。

 と言うものの、論拠明快であるから、同意するにしろ、異を唱えるにしろ話が早いのです。

                                未完

新・私の本棚 1 茂在 寅男 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 2/2

1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程   茂在寅男
                2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09、12/11 2023/07/07
〇水行論
 「三.水行一日の距離」では、論者の豊富な航海知識を活かしつつ、史料記事を参考に考察を進めています。
 これまで同様、「倭人伝」における「水行」の取り違えには触れず、氏の用法に従って論じていることを確認しておきます。

 まず、一、二日を越える航海では、随時停泊上陸し休息を取ったと思われ、所要日数は、非航行日数も含めた全日数を採用したと思われるとして、これを「水行一日の距離」の計算に供しています。この点には大賛成です。体力勝負の漕ぎ手の疲労は当然考慮すべきですが、乗客だって、揺れ動く船室に座っているだけでも、相当体力を消耗するはずです。「随時」などと治まっている場合ではないのです。

 いや、せいぜい数日限りの渡海船に、乗客用船室があるとは限らないのです。甲板のない吹きさらしで、乗客用船室がなければ、毎日、夜間は入港、下船したと見るべきでしょう。何しろ、中原世界に波濤万里の船便移動は無く、また、海船に不慣れな魏使が「金槌」で、船酔いしていたら、連日の移動は不可能もいいところです。

 重ねて言うと、潮流が入港に適した流れならいいのですが、下手をすると港外で潮待ちでしょう。出港の潮待ちも、当然必要です。随分余裕を見ておかなければ、いざというときに期限に遅れ、「欠期」処刑にあうのです。 

 続いてあげている「フェニキア人のアフリカ回航」のヘロドトス著作は、諸般の状況が悉く異なり、全く参考にならないものと思います。また、三世記の当事者の知るところではなかったのです。よって、さっさと証拠棄却です。

 あえて参照するなら、Time and tide wait for no manなる格言であり、これは、しばしば、「歳月人を待たず」とされていますが、ここで、「歳」は、太陽が示す日々の推移、「月」は、月が示す潮の干満であり、誠に、至言の至訳と見るものです。

*帆船行程考証
 郡から帆船航程との想定は、氏も認めるように、帆船は、逆風、荒天時に多大な待機が想定されます。また、当時の帆船は順風帆走だけで、そもそも、操舵ができなかったので、入出港が大事業である上に、障害物の回避も思うに任せないのです。となると、結局、漕ぎ手を載せて操舵するしかなく、一段と重装備になるので、対象海域の多島海では運用不可能と素人考えしています。

 論者自身は現代人ですから高精度の海図で安全航路を見出せても、当時、正確な海図はなかったから、「海図に従う航行」は、不可能だったでしょう。絶対安全の確信なしに、貴重な積荷と乗客を難所に乗り入れなかったでしょうから、とても実務に採用できない事になります。

*漕ぎ船再考
 丁寧に言うと、地域で常用されていたはずの、吃水の浅い、操舵の効く手漕ぎ船なら、難所の海を漕ぎ進めたでしょうが、想定されているような、吃水の深い大振りの帆船は、同様の航路を、適確に舵取りして通過することは、まずできなかったはずです。頼りにしたい水先案内人ですが、地域標準の小船の案内はできても、寸法違いの帆船の安全な案内は、保証の限りでないことになります。と言うことは、早晩難破してしまうのであり、論外です。

 結局、山東半島からの渡海の際は、往来の、出来合の渡海用帆船ないしは往時の兵船を徴発して半島に乗りつけたにしても、南下するのに、そのような渡海船は転用できず、日頃運用している便船を起用するしかないことになります。つまり、漕ぎ船船隊の登場です。この海域に、漕ぎ船が活発に往来していたとすれば、郡の資金と意向で、必要な船腹と漕ぎ手を駆り立てることはできるでしょうが、それにしても、どの程度の行程を一貫して進めるか疑問です。
 当時の地域情勢で、遙か狗邪韓国まで、切れ目なく、闊達な運行があったとは思えません。

 と言うことで、普通に考えて、そのような漕ぎ船船隊が、実現した可能性は、相当低いものと見る次第です。(あけすけに言えば、あり得ないものです)
 学術的な時代考証であれば、実現性、持続可能性を実証する必要があったものと見ています。フィジカル、つまり、物理的、体力的な実証は、このような疑念を排する基礎検証を経た後で、蓋然性の高い設定で行うべきでしょう。

*半終止
 いや、後世にも名の残るような海港であれば、補助してくれる小船の力を借りて、入出港できたかもわかりませんが、ここに上がっているのは、「海岸沿い」、浅瀬つづきの海なのです。見くびると、即難船です。常時、帆船が往来していなければ、魏使の船は、浅瀬、岩礁の目立つ難所つづきでは、安全な航路を見いだせないのです。

 因みに、当時、東夷の世界には帆布はないので、帆船航行は、小型のものと言えども、実現不可能とみています。地場に帆布がなければ、帆船を持ち込んでも、破損の際に、修理、帆の張り替えができないのですから、定期運行もできません。いや、野性号は、力まかせの漕ぎ船の実験航海ですから、帆船の実験航海は、別に必要なのです。

 と言うことで、万事実証の論者が、辺境、未開で航路図のない倭地の水行で一日二十乃至二十三㌔と推定したのは、軽率というより無謀の感があります。

〇陸行論
 「四.陸行一日の距離」は、論者や周辺の一般人の体力を冷静に観察し、起伏のある整備不良の路の連日歩行は、一日七㌔すら困難としています。訓練不十分な一般人に、武装帯剣の上に数日分の食料を携帯したと見える唐代軍人の規定を引くのは無理との定見に賛成です。

 倭人伝で、「草木茂生し、行くに前人を見ず」とは、初夏の繁茂で任務遂行困難を言い立てていますが、定例の官道整備で困難が解消しますから、通行の障害になるはずがないのです。むしろ、切っても切っても逞しく生えてくる植生は中原では見かけないだけに、特筆したのかも知れません。いずれにしろ、官道は、市糴の荷の常用する経路であり、往来活発で、渡海便船着発時には交易物資が往来し、歩行困難の筈がないのです。いや、「街道」ならぬ「禽鹿径」と悪態をつかれるように、牛馬の車輌が通行できない、騎馬疾駆できない、人の担いの径(いなかみち)ですから、中原の街道とほど遠いとは思うのですが、地域基準の整備は当然と思う次第です。


*韓地官道論
 因みに、氏が一顧だにしていない半島内官道は、遅くとも、二世紀後半に、小白山地の難所を越える「竹嶺」越えが開通していました。つまり、魏の官制に基づき「道路」としての整備はもとより、所定の「駅」が運用されていて、休養、宿泊に加えて、給食、給水、さらには、替え馬の用意、蹄鉄の打ち替えなどの支援体制があって、必要に応じて、荷物の担い手を追加することもできたのです。もちろん、陸上行程は、足元が揺れて酔うこともなく、難船で溺死する恐怖もなく、「駅」での送り継ぎの際に人夫を入れ替えすれば、人夫の体力消耗、疲労の蓄積を考える必要がないのです。
 つまり、計画的な定時運行ができるのが、街道行程なのです。

*現地踏査の偉業
 論者は、九州島内での現地実証の提言への賛同者の多大な協力を得て踏破確認しています。ここまで率直に机上批判を呈しましたが、空前の偉業には絶大な賛辞を呈します。

 結論では、陸行一日七㌔弱の当初案を減ずる可能性が述べられていますが、夷蕃伝に書かれる日数は、郡との通信所要期間を必達の規定とするため余裕を含めるものです。何しろ、遅刻は、下手をすると処刑なので、大いに余裕を見るものです。官制の根底は、確実な厳守であり、一日、一刻を争う督励ではないのです。

*論者紹介
 末尾の論者紹介では、論者は、商船学校航海科を卒業した後、商船学校教官、商船大学教授として教鞭を執り、退任後、海洋学分野で指導的立場にあったようです。歴史系の著作多数であり、本論関係では、遣唐使船復原プロジェクト等を指導し、海と船の古代に関して該博な見識を備えていました。

 特定分野の大家や企業役員として活動した自称「専門家」の古代史著作は、突出した持論を性急に打ち出すなど、思索のバランスを失して古代実態を見過ごした著作例が珍しくありません。何しろ、倭人伝原文の真意が理解できていない上に、当時の地理、技術について、無知に近い方が多いので、批判するのもうっとうしいほど、外している例が、ままあるのです。

 と言うと誤解されそうですが、論者茂在氏による本稿は、そのような凡愚の架空の著作ではなく、対象分野に対して常に実証を目指した力作であるだけに、大きく異論を唱えることができませんでした。いろいろ難詰したのは、氏に求められる高度で綿密な技術考証が、いろいろな事情で、疎かになっていると見えるからです。
 妄言多謝。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11 2023/07/07
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に、楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が遺した東夷身上書(仮称)に基づいていたのであり、それが、明帝の嘉納によって魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠したところの「史実」だったのです。史官の責務は、史実、即ち、公文書の継承だったので、そこには、後世東夷が好んで称する「誇張」は、一切ないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律「行きすぎ」とも見なければならないのです。

 言うまでもないと思いますが、この指摘は、茂在氏個人に責めを負わせているものではないのですが、いずれかの場所で、と言うか、至る所で、機会あるごとに主張しないといけないので、ここにも、書き残しているのです。

                             この項完

新・私の本棚 平野 邦雄 邪馬台国の原像 1 「野性号」談義 改 1/3

 学生社 2002年10月初版
 私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/02/02 補足 05/14 11/04 2021/09/09 2023/07/07

〇総評
 本著は、「邪馬台国論」の書として、大変貴重な名著であり、中原、半島との関連はもとより、国内後代史へのつながりを踏まえた資料談義であり、とかく、俗説書に目立つ空論、先入観が少なく、学ぶところ大です。当ブログ筆者は、倭人伝専攻なので、全体の書評は手に余り、 課題になっているものです。本書評は、倭人伝道里行程論と関係している一部にとどまります。

□コラム 「邪馬台国への航海」
 概評済「野性号」1975年記録ですが、指導的立場の平野氏の自戦記が当方「書庫」から浮上したので、反省してコラム書評を掲載したものです。
 当記事は、初出『古代船「野性号」』(「日本歴史」344号 1977.1)記事の再掲です。雑誌「野性時代」1975年10月臨時増刊号が関連記事を掲載していますが、現時点で、古書として入手困難なので、公立図書館のお世話になる以外、閲覧方法はなく、当コラムは大変貴重な情報源です。

*航海記の教え
 手漕ぎ船航海記は貴重ですが、半世紀近く経ても、深意が知られていないのは残念です。
 以下、大半は、在来史書の批判ですから、平野氏の本書の批判でないことは、ご理解頂くものとして、概説します。

 麗々しく公刊の古代史書籍で、『半島沖海域船行が「難しい」のは「不可能」の意でない、「史実で通っていた」から「通ったのだ。文句を言うな」』との強弁が展開されています。
 いや、大抵の論者は、無造作に、現代の地理情報で書かれた地図上に、時に、大雑把に、時に、芸細かく線を描く無責任な「画餅」主義です。ただし、どちらも、当時の船、操船技術で、そのような行程が辿れたかどうかの「考証」のない、思いつきに過ぎない点では。ご同様の無責任さです。
 こうした意見の持ち主が、伝統的な日本語の語彙を勘違いしていて、英語のdifficultを「難しい」に塗りつけて、「なせばなる」と読み替え、本来の「事実上不可能」impossibleの意と知らないのは、まあ、むしろ、子供っぽい誤解ですが、世上、そうした早計に無批判に追従する論者が溢れているのは、なんとも、情けないものです。
 それはさておき、当時の関係者は、実験航海支援の恩人を忖度して、否定的見解を隠したのでしょうが、以下は、勉強していれば高校生学識でわかるはずです。

*船の要目
 木造船長16.5㍍ 船幅2.2㍍ 定員30名 3.9トンは、排水量かなと言う感じです。
 魏使一行所要艘数を計算するには、想定積載量・乗客が必要です。

 様子を見る限り、甲板、船室など無く、吹きさらし、雨ざらしの苛酷な風情です。中国人は、食物を必ず煮炊きするのですが、食糧と薪水の貯蔵庫も、厨房も見て取れません。寒暑の時期は避けるとしても、中間期といえども、日数を重ねて乗り続けられるようには見えません。まして、夜通しの移動など、大変困難でしょう。
 総じて言うと、船舶と言うより筏の類いと見えます。古典書では、浮海と呼ぶものです。求められたのは、渡し舟の軽便さでしょうか。

*万全の漕ぎ手
 どうやら、想定乗員が三十人の、ほぼ半数が漕ぎ手とみたようです。
 片側七人計十四人~十六人の想定で、舵取り二名、交代二名で、二十人乗船でしょうか。詳細資料が欲しいところです。
 全員現役の若くて屈強の水産大学生が、臨んでいるのに感心します。

*所要日数
 仁川(インチョン)~釜山(プサン) 28日程度
 釜山(プサン)~  博多港     16日程度
 合計45日程度。休養を入れて60日程度と有意義な見積もりです。
 無寄港、無補給ではないでしょうが、煮炊き用の燃料まで考えると、相当な量の積み荷が不可欠と思われますが、明細は語られていません。

 支援船曳航の難局は、「当時常用の行路であれば」航路熟知で避けられても、概して漕力不十分です。
 また、全行程「ほぼ漕ぎ詰め」は、理不尽なほど苛酷です。適宜、寄港時に休養をとるとしても、この日数を見ると、漕ぎ手は、超人集団に見えます。帆走で、どの程度労力を低減できたか不明ですが、少なくとも、入出港時とその前後は、舵取りのために漕ぐのは不可避で、三世紀の魏使便船の場合は、使節団の数十人では済まない人員と食料、そして、大量の下賜物のために、異例に多数の船腹が必要なので、よくぞ、追加の漕ぎ手が揃い、長期間、病人もけが人も出ないで、完漕できたものと感心します。
 それにしても、使節一行に下賜物などを載せて何艘でしょうか。これは禁句でしょうか。

 槽運事業の視点で、航海基点(船主の待つ母港)にしてみると、多数の主力船が漕ぎ手と船体もろとも、半年近く不在で、音信不通で、帰還が不安では、大いに悩むはずです。何しろ、通常は、せいぜい往復数日で済む「渡海船」なのですが、官命とは言え、恐らく、新造船と新規の漕ぎ手の募集で「資金」を投じ、未知の行程、未知の遠国に向かわせるのは、下見の探索を取材に送り込んだにしても、不安に駆られたでしょう。
 いや、当ブログ筆者は、帯方郡太守にとって、「道中が安全に管理されていて、日々騎馬の文書使が急報してくる街道行程が、唯一無二の選択肢だった」と確信しているので、官道としてあり得ない余傍行程について、余り議論したくないのです。非常識な輸送手段が実在したと言うためには、当然、相当の論証が不可欠と思うのですが、それは、常識を支持するものの責任ではありません。

 さて、今回の実験航海は、現代文明の齎した羅針盤、海図や潮流、天候情報の支援を得て乗り切りましたが、当時、山東半島との間の渡船を運用していた面々が、半島西岸海域の知識無しに六十日間一貫航行など、大変困難、つまり、到底あり得ないと思います。関係者は、一度、顔を洗って、真剣に考えてみてほしいものです。

*現地海域事情の予習
 計画推進にあたり、当然ながら、航路について、慎重な予習が行われたと言う事です。ただし、有益な情報は後学の空論には反映されていないのです。
 疑問として、三世紀当時、海図も気象台もないのに、これだけの長途の行程に渡り、どのようして「予習」したのか、大変疑問です。現代、遭難を避け、人命を保全したのは当然ですが、三世紀当時も、乗員の人命尊重に加えて、船荷と船体の安全は、至上命令だったはずです。
 論者は、現地の陸上に並行した官道がなかった、つまり、郡の管理下にありながら、適切な交通、輸送、通信手段がなかったという前提ですから、そうした困難をいかにして克服したか、論証する義務があるのです。
 こうした義務を、平野氏個人に押しつけるのは、何とも、後ろめたいのですが、氏は、単なる現代冒険航海の報道を行っているのではないので、唯一、顔が見える平野氏に文句を付けたようになっていて、困っているのです。

                                未完

新・私の本棚 平野 邦雄 邪馬台国の原像 1 「野性号」談義 改 2/3

 学生社 2002年10月初版
 私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/02/02 補足 05/14 11/04 2021/09/09 2023/07/07

*半島西岸事情
 韓国側の顧問と見られる方東仁氏は、以下の海況を述べています。
 ⒈ 西海域は、干満の差が激しく、時に十㍍に及ぶため、海港からの出港は引き潮に、入港は、上げ潮に合わせたと思われる。

 コメント そうしないと、接岸施設の利用が覚束ないのです。満潮時に海浜に乗り上げた場合、引き潮時は取り残され、出港しようがないのです。まことに理の当然です。
 当海域の干満が激しいのは、黄海/渤海湾が奥深いため、干満時の海水往来が著しいためと思われます。

 と言う事で、出入港には、潮待ちが必要であり、常時往来していた渡海船の場合はともかく、未知の海域に乗り込むには、潮時を知る手立てが必要です。確実なのは、現地の水先案内を雇うことであり、そうすれば、岩礁なとの位置を知ることができますが、水先案内が通用するのは、精々隣の港までであり、隣の港では、別の水先案内を雇うことになります、

 と言う事で、一日の航海が終わると、水先案内の交代ですが、まずは、漕ぎ手と舟の交代が考えられます。小船の替えに不自由はないのです、

 西沖合海域の航行が終わるまでに、何回寄港し、潮待ちし、舟を替えたかは不明ですし、この点は語られていません。頭から、一貫して漕ぎ続けたと決めつれけているようです。

 ⒉ 南海域は、多島海であるが、干満の差は激しくはなく、ほぼ通年南西季節風が絶えないので帆走に利用できたはずである。

 コメント 帆船航行の示唆ですが、西海域は、およそ帆走できない海況であり、その間、帆を下ろして走行との想定でしょうか。帆船航路運用に必須の帆布、帆桁の替えは用意できたでしょうか。そして、何より問題な潮流逆行はどうなのでしょうか。
 肝心な課題点が、等閑にされているのは不穏です。

*對海国渡海事情
 平野氏の述解によれば、船は、韓国の国境検問のため釜山(プサン)入港し、そこから対馬に向かったものの、逆流に難航して、巨済島(コジェド)沖の南兄弟島で気息を整えて、対馬に出港し、以下、旅程完了とのことです。

 つまり、当航海の目的は、郡倭行程での半島西南海域船行解釈の実証であり、一部に難行程があっても克服したという実績を指しているのです。

*浅薄な狗邪非寄港談義~余談
 このあたりの経験談を生かじりして、半島南海域船行から狗邪韓国寄港を廃し、さらには対馬寄港すら割愛しかねない「狗邪非寄港」説を見かけますが、当実験航海の趣旨を見くびる浅薄な意見です。

 更に言うなら、里程道里記事全体に加え対馬条の「南北市糴」記事まで無視しています。史料記事を自分好みに改竄するのは愚考の極みです。

 当ブログ筆者の意見は、郡から一路陸道を南下し、狗邪韓国の岸辺から、渡海水行の途に就く、「自然」な行程が、官制街道として倭人伝に書かれたという主張ですから、机上空論の経路迂回など論ずるに値しないのです。

*倭人伝に沖合航行はなかった
 結局、半島沖合船行仮説は、陸上輸送の二倍の日数の上に、船数不足、難船懸念に迫られて、魏使の便船とはできなかったものと見えます。

 一方、潮待ち、風待ちがなく、定時運行で、横揺れ、縦揺れが無くて船酔いせず、水漏れもなく、時化に遭っての難船、転覆の無い、不沈の半島内陸行は精々二十五日程度整備された街道を粛々と進むのであり、既に一世紀に亘る実績によって、運用は定型化されていて、街道筋の宿舎は完備し、一方、事前の通達で荷が多いと知らされていれば、その当日の要請に合わせて必要なだけ人馬を増やすだけです。

 なぜ、官制の定める一本道の陸行を避けて、遠回りで難儀で、しかも、官制に反する無法な沖合航行を選択するのか、魏使の分別を疑いたくなります。

〇野性号所感のまとめ
 丁寧に読み進めば、大勢の努力で実現した実験航海で、(現代の科学技術の支援があれば)「不可能でない」と証された航海は、三世紀の官制に規定べき倭人伝道里には、採用不可能とわかるはずです。
                                未完

新・私の本棚 平野 邦雄 邪馬台国の原像 1 「野性号」談義 改 3/3

 学生社 2002年10月初版
 私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/02/02 補足 05/14 11/04 2021/09/09 2023/07/07

○従郡至倭行程海上不通の弁
 以下、私論を連ねますが、当時、帯方郡が、官制道里として、郡から狗邪韓国まで海上行程を設定していたとは考えられません。特に、後漢建安年間の帯方郡創設時は、漢代以来の伝統を持つ楽浪郡の指揮下にあったので、いくら「荒地」とは言え、古制の官道が敷設されていたものと思われます。いずれにしろ、諸事遼東郡に、月次、年次で文書報告/連絡し、文書指示に従う制度だったので、陸上街道を騎馬文書使が往来するための制度であったから、ここに、海上連絡が書かれたとは、到底考えられないのです。
 このように、倭人伝道里行程記事の考証から「海上行程」を排除すれば、議論の空転、時間の浪費を避けられるのです。

*帆走風待ち、潮待ちの難
 平野氏は、海上交通の実証航海という見地に止まっていて、操船技術の基本を提起しているように、当時の帆走技術では、定期航路の維持は不可能です。適度の追い風を受けたときだけ帆走できるものであり、向かい風や横風は、難船を招く物です。つまり、風待ちを重ねて、ようやく維持されるものですが、何日、いい風を待つのでしょうか。

*帆船操船の難
 氏は明言を避けていますが、帆走では適確な操舵ができないため、想定される多島海運航は難船必至です。帆船の重厚な船体は、操舵補助の漕ぎ手を乗せていても、手漕ぎ転進は困難です。入出港には、地元の手漕ぎ船が「タグボート」のように船腹に取り付いて転進させることになります。

 そのような人海作戦を要求される帆船航行が維持できたとは思えません。もちろん、山東半島と帯方郡を往来する渡船は、平穏な航海であり、また、船荷豊富と思われるので、入出港タグボートは動員できたでしょうが、客の滅多に来ない航路では維持できなかったでしょう。現地の岩礁、浅瀬を避けられるのは、小振りの漕ぎ船に乗った、老練(当時の用法では、年寄りという意味はない)/練達の漕ぎ手達です。

 と言う事で、半島沿岸を帆船で往来していたとは、とても、とても思えないのです。関係者は、確実な史料をお持ちなのでしょうか。

○駅伝制採用と島巡り廃止
 当時、海峡渡海は、市糴で常用されていたから実証不要ですが、難行苦行と報告されている「島巡り」不要の駅伝方式と見ます。

 渡船乗り継ぎの提案です。海上泊は不要で、甲板も船室も煮炊きもいらず、また、日々寄港して休養できます。
 漕ぎ手は、都度、地元の者と交代し、自身は、帰り船で母港に帰るので、負担の軽い、維持可能な勤務形態です。別に、連日運行ではないので、漕ぎ手に無理をさせないのです。

*駅伝制~交易の鎖
 その際、舟も交代させるから、船主は、短期間で舟と漕ぎ手を取り戻せるので、持ち合わせた船体と人材で、市糴を続けられるのです。
 閑散とした沿岸航行の近場専用の軽装であれは、船体は軽量で漕ぎ手の負担が軽減されます。区間限定で、船と漕ぎ手を入れ替えるのであれば、淡々と定期便を運行できるのです。繁忙期には、運行間隔を縮めるなり、予備の船幅を提供するなりして増便すれば良いのです。

 つまり、無理して一貫航行しなければ、適材適所の船体と人材で、楽々運用できるのです。(半島沖合船行すら、運用可能なのです)
 特に、行程の短い渡し舟は、中原でも渡河の際に常用されていて、多少、所要時間は長いものの、常識の範囲と見えたのです。
 また、山東半島と朝鮮半島の間は、古来、渡海便船が往復していて、こちらも、何の不安もなかったのです。つまり、魏使の携えた大量の荷物は、帯方郡治までは、難なく運ばれたのです。
 問題は、前代未聞の半島沖合船行だったのです。

*官制航路への起用
 倭人伝冒頭に展開される道里行程記事は、郡から倭の王城に到る行程を皇帝に上申する文書であり、そのように理解しなければ、文書の深意を見損ないます。

 俀国の根幹である公式文書便は、渋滞、遭難なしで、迅速かつ確実でなければならず、つまり、日数死守です。経路選択は、慎重な上にも慎重で無ければなりません。

*水行論
 後代の「唐六典」には「水行」の規定がありますが、これは、大量の穀物輸送、つまり、華南産の大量の米俵を華北に送る官用輸送便の一日の輸送距離と運賃について、統一規定したものであり、文書便の走行距離を示したものではありません。国制として文書便を送達した「飛脚」は、官営なので、運賃を規定する必要は無かったのです。
 もちろん、唐代は、長江(江水、揚子江)流域を支配下に収めていましたが、三世紀、江水流域は、蜀漢、東呉の勢力下にあり、華北に送達する官用輸送便など成立していなかったのです。つまり、唐六典の規定を、三世紀に適用するのは、重大な時代錯誤なのです。河水(黄河)の事情も、隔世の感があり、河水本流の下流部は、太古以来毎年の氾濫のくり返しで、両岸が荒れ地と化していて、荷船は、洛水などの支流を利用していたのですから、「唐六典」「の規定は、場違いなのです。

*辺境の営み
 まして、辺境であって、官制の「水行」、つまり、河川航行の規定が行き届いていない帯方郡管内に河川水行は論外であり、かといって、「水行」を、太古以来採用されていなかった沿岸航行の意に捉えるのは、二重三重の錯誤を冒しているのです。
 丁寧に言うと、実務として、川船による漢江中游(中流域)運行、特に輸送は行われていたでしょうが、官制公式道理は、陸道騎馬行が原則なので、並行する官道が、倭人伝道里記事に記録されたものと見えるのです。

 それとは事情が違うにしろ、皇帝下賜の宝物の重量、大量の貨物と使節団を、「板子一枚下は地獄」の船旅には託しません。遭難時、使節関係者は重罪に問われます。いや、そう見ると、はなから、魏使の地域船便利用は、あり得ない無法な策です。あり得るのは、大型の帆船による沖合航行です。

 私見ですが、古代中国が「国民皆泳」とは思えないので、金槌ぞろぞろの可能性があり、古代人だって、勅命とは言え、命は惜しいのです。ゴロゴロ船底を転げ回りつつ、睡眠を摂るなど到底できなかったでしょう。

*まとめ
 氏は、立場上、「野性号」による実証航海の否定的論議はしませんが、本書のコラムにまとめたのは、「倭人伝」道里行程記事の解釈に於いては、決定的な「成果」でないことを示しているようです。要するに、場違いのものということで、時に冷淡な批判になって、ご不快であったこととお詫びしますが、古代史の科学的研究では、時に、率直な批判を述べることが重大なものと思うので、このように書き出したものです。

 本書の本題では無い「コラム」の批判ですが、氏の書籍全体を貫く堅実な考察に不満があるわけではなく、偶々、手掛かりの着いた議論の瑕瑾、それも、氏自身の本位で無い記事なので、本書に対して、当ブログにしては高評価なのです。

                                以上

2023年7月 6日 (木)

今日の躓き石 滑りっぱなしのNHK「歴史探偵」のつくりもの「安土城」

                   2023/07/06
 本日の題材は、NHKが、「歴史探偵」で、受信料を大量に浪費したと見える「安土城」の幻覚投影である。「VR」と、自己陶酔的に言い換えているが、要するに本物めいた「幻覚」/まやかし画像なのである。出演者は、お遊びで臨場感を愉しんでいるかもしれないが、視聴者にしたら、他人事である。金返せである。

 まずいのは、自虐的に「タイムスリップ」と滑って見せたということである。言葉の意味が分かっていないのでは無いか。まずは、過去の何れかの時点で「実在」していた「安土城」に身を以て移動して、予想外で、行ったきりの移動なら「タイムスリップ」と呼べるが、時間的にも空間的にも、移動していなくて、装着者の視覚がそれらしい物を見ているだけでは、「タイムスリップ」などではないのは、明らかである。
 ようするに、建造物の視覚的な模擬だけで、そこには行っていないのだから、「時間旅行」の幻覚さえ無いのである。単なる、年寄りにとって懐かしい「のぞきからくり」である。また、テレビ番組として、何の驚きもないのは、このネタは、放送済みだからである。

 まさしく、大すべりである。NHK受信料が、このような軽薄なギャグに費やされているのであれば、部分不払いにしたいほどである。

 因みに、毎日新聞で、近来「タイムスリップ」と滑りそうな大見出しに「時間旅行」と書き出していたのには、本気で感心したのである。わかっている人がいるのに救われたが、NHKには救われないのである。

 近年、NHKには、「ロストワールド」と「パリは燃えているか」の二大パクり/盗作紛いがあるが、今回は、パクリ損ないの滑りであり、どっちがどうかと言うところである。

以上

 

 

 

2023年7月 4日 (火)

倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 1/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10 2023/07/04

□終着 道の果て(Terminus 米国南部 ジョージア州都アトランタの旧名)
 良く言うように、鉄道の終着駅は始発駅です。すべての道はローマに通ずという諺の英文(All roads lead to Rome.)は、「すべての道はローマに至る」と言う意味ですが、丁寧に言うと、すべての道は、ローマから始まりローマに果てるという意味です。ここに、「短里説の終着」と示したのは、短里制に関する議論の始発、原点を確認するためです。
 言うまでもなく、「魏志倭人伝」史料解釈の原点に立ち返って、史料の真意、つまり、陳寿の提示した「問題」の題意を確認しようとしているので、そのあと、回答に取り組む道程をどのように選ぶかは、論者諸兄姉、その人の勝手です。
 何しろ、各論者の倭人所在地の比定は「百人百様」であり、不撓不屈の信念と見えるので、第三者がとやかく言い立てるべきではないのです。そのため、当ブログでは、滅多に「比定地論」を述べない「はず」です。

*追記
 全体道里「万二千里」の「由来」と「後日談」に関する考察は、とても、とても、本稿に収まらないので、別の機会に述べることにしました。

*里制論議 諸説の起源
 「倭人伝」解釈に於いて、所謂「短里説」が提起されたのは、倭人伝」の記事を、(「背景知識に欠けた門外漢」、要するに「無資格の野次馬」が、不勉強の無理解で、「天然」)「素直」に読むと、方位、道のりが、日本列島、特に「九州島」内に収まらないように見えて、重大な難関になると見えた点から始まっているとされます。

 「天然」というと、時代用語では憤激を買いそうですが、要するに、現代風の国語教育には、漢文解釈の素養や漢文資料読解時の必須教養などが、承継されていないので、自然に、普通に理解しようとすると、至る所で、躓き石に足元をすくわれているのに、足が地に着いていないので、躓いているのに気づかずに「浮行」(空中歩行)してしまうと言うことであって、別に、文章の行きがかりで不勉強」と言っても、個人を非難しているのでは無いのです。知らないことは、言われるまで知らないのは当然であり、肝心なのは、自身の知識を過信/頼りにしないで、謙虚に地に足を付けるということです。

*短里説と誇張説
 難関回避の一案が、道のりの『里』が、定説の四百五十㍍程度の『普通里』でなく七十五㍍程度の『短里』との解釈、「短里説」です(以下、程度を略)。

 
「普通里」が四百三十五㍍程度としている方が多いようですが、どのみち、大まかな話なので、当ブログでは、切りの良い数字、つまり、一尺二十五㌢㍍、一歩(ぶ)は六尺で、百五十㌢㍍程度、即ち、一.五㍍程度、一里は三百歩で、四百五十㍍程度に「丸めて」います。これが、周代以来唐代まで、長期に亘って大局的に安定して運用されていた「普通里」である/としましょうという考えです。いわゆる「短里」は、公的な制度として運用されたことはなかったと見られるので、対照する必要は無く、単に「普通里」と呼んでいる次第です。

 短里説」は、本来の主唱者である安本美典師が、「魏志倭人伝」の道里行程記事から読み取った一里七十五㍍程度の「道里」であり、実質的に、安本美典師が、四十年ほど前に提唱し、近著でも維持している不朽の提言です。

 一方、巷間、短里には「証拠がない」とする否定的な論議が横行していますが、「倭人伝」に短かい里が書かれているということを理解しないと、倭人伝の道里が理解できないのです。古代史分野では、時には、「証拠より論」という見方でいたいものです。

 そのため、「魏志倭人伝」に通用していた里制は、「普通里」であるが、「魏志倭人伝」記事の道里は、「普通里」の里数を、六倍程度に誇張したとの「誇張説」が説かれています。⑵
 
 あるいは、「魏志倭人伝」記事は、当時の現実を離れた創作であり、信を置くべきで無い、と言う極論として「創作説」まで説かれています。⑶
 
*快刀乱麻症候群~余談
 共に、縺れを断ち切る「快刀乱麻」ですが、それは理解力の乏しい短気な輩(やから)の暴力行使であって、謎を解(ほぐ)し解くという「解答」になっていないのです。

 「乱麻」とは、もつれた糸という趣旨なのでしょうが、西洋古代史で言う「ゴルディアスの結び目」の説話の通説では、貴重な綾織りの糸を、込み入った結び目にして、後世の解明を期待した古人は、「賢人が現れて、込み入った結び目を解いて、貴重な糸を取り出しとそれを編み上げた綾織りの技法を理解する」ことを期待したと思われます。
 要するに、「問題」には、正解があって、出題者は、正解者が現れるのを期待していたのですが、大変有名なマケドニアの若き英雄「アレキサンドロス」大王は、結び目を解すことなく「一刀両断」して、編み上げられた貴重な素材を無に帰してしまったようなのです。

 つづいて、大王は、貴重な素材、至上の富みを、ギリシャ世界、西方の「ヨーロッバ」に齎した東方の「アジア」、当時で言うとアケメネス朝「ペルシャ」との軍事衝突に快勝して、宏大な領域を軍事制覇したのですが、「ヨーロッバ」が求めている至上の富は、得られなかったものと見えます。

 説話の別解では、大王が、巧妙に結び目をほぐしたとしていますが、大王の進撃の様子を見ると、この解釈と整合しないように見えます。

 「ペルシャ」は、東方、南方からもたらされる香料、海産物などの富と、領域内に散在する宝石、貴石奇蹟や各地でバラバラに編み上げられている絨毯などの産物を国王の手元に集中させ、西方との交易に供していたと見えます。
 時代は尚早のようですが、後世中国産の絹布がもたらせる以前、原産していたと思われる野繭(原種)から、細々と紡がれた「絹」が、ペルシャ王の手元に集められ西方に供されていたとも見えるような気がするのですが、大王が、ペルシャ王の支配体制を破壊したことによって、それらの産物の流れは原産地に止まり、「ヨーロッパ」に届くことはなくなったと推定されるのです。

 因みに、大王の死後の混乱から、「ペルシャ」の支配領域東端から興隆したパルティアが、ペルシャ王の残した体制を復元し、西方に拡張された「ヨーロッパ」に興隆したとされるローマから、巨利を得たとされています。

 「快刀乱麻」は、「ガチョウと黄金の卵」のイソップ寓話に通じるものであり、高貴な産物を齎す「ペルシャ」を破壊しても、得られるものがなかった「寓意」を示していると見えるのですが、どうでしょうか。

*「武断」談義~余談の続き
 本題に還ると、「武断」は、「当時唯一の「正史」を編纂した陳寿の名声を破壊して、自身の明察を誇りたかった」ものと理解するのですが、「正史」を毀損して、どこから、「史実」を得ようとしたのか不可解です。現代人には、「正史」の根拠となった、種々の史料の原文を知るすべはないのです。

*短里制支持論
 本記事は、史料の記事(テキスト)を原点とする立場を採っているので、⑵「誇張説」、⑶「創作説」に言及しないことをご理解ください。
 言い訳するなら、これらの説は、学術的見解ではなく、論者の情緒の表明なので、議論が成立しないということが、割愛の理由です。

 また、これらの説は、短里が存在しなかったと主張しているに過ぎないので、短里の存在を証すれば自然に棄却されるということです。

1 「魏晋朝短里」説考
 「短里説」陣営でも、古田武彦師の主唱する仮説が、短里制は、曹魏が支配下の中原領域に施行した全国制度であったというものです。⑷

 それ以降、この短里制は、曹魏を継いだ西晋に継承され、西晋が北方異民族に打倒されたために南遷した東晋で廃止され、普通里制に復帰したとされています。代表的な提唱者は、既に詳解したように、古田武彦師です。

 『魏晋朝短里説』は、かくの如く「非常」(臨時、暫定)の制度と提唱されました。本論は、字数節約して、勝手に『曹魏短里』と四文字略称します。

 因みに、安本美典師は、「魏志倭人伝」の道里が「短い里」であることの論証と「短い里」の実寸の推定に止まり、「短里制」の敷衍は支持していませんから、一線を劃していると言うべきです。

                              未完

倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 2/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10 2023/07/04

*「曹魏短里」/「魏晋朝短里」論争
 本説を広く宣言したのは古田武彦師であり、第一書『「邪馬台国」はなかった』において明言し、陳寿「三国志」全体の里数記事用例を対象に、「普通里」か、「短里」かの検証を進めた成果として、史料から『曹魏短里』が証されたとの論議を展開しました。
 
 これに対して、古田師の用例解釈に反駁し、安本師を代表とする異議が呈され、『曹魏短里』はなかったとの議論が提起され、大変活発な論議が行われましたが、陳寿「三国志」全用例から、その当否を証する試みは、いまだ進行中と見えます。
 
 素人目には、短里制度を確実に支持すると見られる用例は少なく、全国制度として施行されたとするには、根拠薄弱というか、事実無根と見られますが、一方、全面的に否定はできないとの論があり、あたかも、レジェンドと化して博物館入りした「臺壹」争いの再現ですが、攻防が逆転し、論法だけは類似しているのが、奇観を呈しています。

*『曹魏短里』制度
 用例論争に比べて不活発ですが、曹魏の全国制度として、短里が施行されたという証拠となる帝詔などが、陳寿「三国志」魏書(魏志)に明記されていないことが『曹魏短里』の支持されない断然有力な理由となっています。

 古田師は、初代皇帝文帝曹丕が、後漢献帝から国を譲り受け、皇帝に就職した際に、国家としての「礼」を、周制に従う帝詔を発したことを引いて、里制は「礼」の一部であるから、それにより、里制も、当然周制に復帰したと解釈しているのです。⑹
 「解釈」と言わざるを得ないのは、里制が「礼」の一部とする明確な定義が見当たらず、また、従来の普通里を短里に変更すると明記されてないことにあります。

 また、文帝は、後漢制度の復興、継承にあたったと評されていて、三国鼎立の臨戦体制で、社会構造の変革/破壊を引き起こす里制変更には想到しなかったと見られることから、古田氏提唱の曹丕改訂は否定的に見られています。

*景初改革
 続くのが、二代皇帝明帝曹叡の「景初暦」改定です。
 明帝は、文帝が後漢朝遺風を継承したことに反対であり、魏朝礼制、暦制の創始、確立を指示し、景初暦採用の際は、礼制一新の帝詔を発しています。
 依然戦時下ながら断行した景初改暦と礼制改定は、国家大綱を改革する「景初維新」の一環として、里制変更が行われたと推定するのが、「景初里制」説です。
 しかし、裴松之の付注(裴注)は、明帝の布令を補足する際に、「文帝の遺制を廃して、殷の暦を用い、殷と同様に建丑の月を正月とし、犠牲や旗に使用する色は、すべて殷の礼を用いた」と「礼記」を参照しながら、景初暦制の執行は宣言され、実行されているものの、それ以外については一切言及していないのです。つまり、明帝の布令は、里制の変更なる「天下の一大事」に触れていないのです。
 

 景初年間は、遼東に割拠した公孫氏を討滅し、天朝の威光を東夷に及ぼした画期的時期であり、里制改定の大事業に相応しいように見えますが、それほど画期的な一大事が、陳寿「三国志」魏書に、明記されていないという克服しがたい難点があります。
 
 また明帝の「景初維新」は、二年後、景初三年元旦の明帝早世によって終焉し、景初暦、並びに、宮殿造営が撤回された所からも明帝自身明言していない里制変更が、曹魏後継皇帝少帝曹芳や司馬晋の皇帝によって、補追完成されたと見るのは、困難(不可能)です

*曹魏短里説の終熄
 曹魏短里」制度は、全国制度としての実施を証することができず、従って、潔く撤回されるべきです。
 なお、ここで確認しないといけないのは、当時は、三国鼎立時代であり、魏明帝がいかに礼制改革を称しても、魏を不法な賊子と見ていた蜀漢が追従することはあり得ないのです。いや、時に、臣従の動きを示していたとは言え、東呉皇帝孫権は、天子として元号を制定していたので、曹魏の不法な制度変更に追従することはあり得なかったのです。特に、東呉は、自身の「正史」を編纂していて、そこに、曹魏の制度に追従することはないのです。

 ついでに言うと、遼東に君臨していた公孫氏は、後漢の臣下であっても、曹魏の臣下とは言えない常態であったので、郡の屋台骨が揺らぐような、里制変革に追従したとは思えないのですが、こちらは、郡としての正史を残していないので不明です。

                               未完

倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 3/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10 2023/07/04
2 周朝短里(仮説)の再考/結末
 「曹魏短里」説に於いて、短里は、周制のものとする仮説が述べられました。
 ここでは、周制が短里里制であったが、秦が里制を「普通里」に変え、これが、漢に継承されたが、後漢末まで維持されたが、漢の後継を越えて独自境地を求めた曹魏明帝が、秦漢の「普通里」を解消して周制に復帰した』と見る「作業仮説」です。
 この見方は、「倭人伝」に公式記録されている「郡から倭まで万二千里」の里数が、普通里では、大いに過大になっているとする論難に対する「説明」として、一応筋が通っていると見えるものです。

 この見方は、ほぼ、藤井滋氏の提言を、安本美典師が着実に「倭人伝」道里記事の解釈に応用したものと思われます。

 私見による総括で失礼ですが、本件は、古田武彦師が、漢魏晋代の国制と食い違う地域制度里制の想定を不合理だと見なし、「三国志」が、西晋史官陳寿が、統一した編集方針で編纂した「正史」であるとする見解から、「三国志」全体の道里が「倭人伝」道里と通じているとする「三国志短里」を提唱し、後に、「魏志」に絞り、さらに、魏明帝期から西晋末までに限定した「魏晋朝短里」に集中したように見えます。

 広範囲に史料根拠を求めた古田武彦師の巻き起こした「悉皆」手法による史料精査検証は、二千字程度の「倭人伝」の前半部という局地的な、限定された史料範囲に対する論考であるものの、「倭人伝」論義に深く、広く影響を及ぼし、今日に至るまで沈静していないように見えます。

 しかし、今般、「晋書」地理志を確認した結果、以下に述べる「司馬法」に示された「周制」は、「短里」でなく「普通里」であった、との見解に至りました。まずは、この一歩から、事態の沈静化を進めるべきではないかと思量し、本稿をまとめたものです。
 素人考えにお付き合い頂くのは恐縮ですが、別に、個人的見解を押しつけて、諸兄姉の信念を攻撃しているものではない、もし、これまでお見過ごしにされていたのであれば、ご一考頂きたいというものに過ぎません。

◇「司馬法」談義
 「晋書」地理志に、秦漢以来の諸制度の典拠として引用された「司馬法」は、司馬穰苴(春秋・齊の将軍 BCE500頃か)によって書かれたとされる「兵法書」であり、武経七書の一つですが、史料としては現存せず。所収部は佚文とみられますが、正史である「晋書」に収容されたところから、唐代には、健在と見なされていたものまであり、以後は、正史「晋書」の一部として、維持、継承されたことから、信頼するに足る典籍と見えます。この点は、史書としては散佚している魚豢「魏略」の一部である「西戎伝」が、劉宋裴松之によって、魏志に補注、つまり、参考資料として、伝全体が、善本収容されたため、今日まで、健全に継承されていることと通じるものがあるように見えます。
 「司馬法」に関して言えば、唐代の権威者が、正史の志部の要諦として信頼を置いたという「見識」を尊重すべきだということです。
 
 司馬法」条には、秦朝が周制由来とした里制に基づく諸公所領などが規定されているため、秦漢制の基礎として「晋書」地理志に引用されているのです。

*「周髀算経」に依る短里説
 周制短里の論拠として、谷本茂氏による周髀算経の検証により、周代に七十五㍍(程度)の里長が知られていたとされています
 ただし、これは、せいぜい、周代の教養人の常識として、太古以来の「遺制」として「短里」が知られていたと見える』だけであり、周代に国家制度として短里が有効であったと証するものではない』ように見えます。

 「普通里」が厳然と施行されていた漢代に通用していたと見られる「九章算術」(幾何・算法の教科書)には、一日三百里走行する駿馬が示される例題がありますが、これを古制の残影と見るというより、解法で示される計算過程を見ても、分数計算が不要となるように桁上げされている可能性が有力です。
 ついでながら、実務を重視している同書の「課題」全体として、「普通里」に基づく、「里」(り)、「歩」(ぶ)が通用していて、共に、面積単位としても通用しているのは、貴重です。つまり、これら算法教科書の記事は、周朝短里制の根拠とはならないのです。

 少なくとも、俗に『周礼』とされる儀礼体系の中に、短里制が組み込まれていたと云う証拠はありません。むしろ、周里制は「普通里」であり、「普通」の名にふさわしく、「明記しなくても、当然自明なので書かれていないだけで、事実上明記されているのであり、厳然として適用されていた」と見えるのです。

*里制不変説
 以上を合わせて考えると、以下のように思量します。
 周朝国家制度として「短里」が採用されていたという証拠がありません。
 証拠がないのは、そのような国家制度はなかった証拠です

 従って、魏文帝、明帝が、周制回帰を謳ったとしても、周制に短里は含まれず、結局の所、「曹魏短里は無かった」のです。
 もちろん、「大夫」を、陳腐な庶民の階級から、皇帝に準ずる高官に復帰させたほど、周制の復活に精力を傾けた、新王朝の皇帝王莽も、里制には手を付けていないのです。

3 地域短里説の堅持
 「魏志倭人伝」短里説の旗手とされた曹魏短里は無効、後ろ盾の周制短里も根拠薄弱では、短里説そのものの当否が問われる事態になっています。しかし、「魏志倭人伝」の道里が、短里と見えるという解釈は、依然として揺るがないのです。
 
 今や孤塁となった「地域短里」説ですが、時に批判の論拠となっている「三国志全体が普通里制として、なぜか、そこに短里が紛れ込んで混在している」との評価は、評価者の深刻な認識不足です。

 行程道里記事の冒頭で、郡から狗邪韓国までを「地域里」で規定する「宣言」/「里原器の定義」がなされ、伝末まで全て「地域里」なので、「倭人伝」を通じて首尾一貫した語法が敷かれていて、「混在」などしていないのです。
 言うまでもないと思いますが、倭人伝に限定して提起された「地域里」は、後続されている呉志、蜀志に効力を及ぼすものでは無く、また、魏志全体に遡って効力を及ぼすものでも無いのです。効力を及ぼそうにも、周制以来の「普通里」との換算が示されていないので、統一しようがないのです。
 当時の読者としては、「倭人伝」冒頭で、『以下は、「ここ」だけ限定、ここ限りの定義ですから、目前の「倭人伝」に集中してください』とでも一声をかければすむことです。何しろ、『正規の街道はないし、牛馬のいない、「無文」の蕃王界』ですから、道里に意味は無く、所要日数が肝要なのです、とでも示唆すればすむことなのです。
 何しろ、後漢末建安年間以来、魏明帝景初年間までの長きに亘って「不法」に東夷を管理していた公孫氏が、結果として明帝を欺いたために、道里の潤色が「正史」に記録されたのであり、魏志巻末の蛮夷伝という位置付けを考えれば、『郡から倭まで万二千里という「公式道里」に、実質的な意義が無い』としても、西晋恵帝時の当時の皇帝、高官、権威者に許容されたと見るべきなのです。いや、許容されなければ、「倭人伝」は、無傷で生存できなかったし、劉宋裴松之の怜悧な慧眼を免れることができなかったのです。

 農地面積表示の「方里」は、「道里」ではないものであり、つまり、一次元と二次元で異次元なので、「別格」なのです。「方里」は、当該領域の土地台帳に記帳された「歩」(ぶ)、「畝」(ほ)、「頃」(けい)なる、度量衡とは別由来の単位系に属していると見られますが、従来は、道里の「里」を一辺とする方形領域と「素直に解され」、あるいは「誤解されて」、今日見られる混乱を招いたものと見られます。
 言うまでもありませんが、史官である陳寿は、西晋代まで健全であった「九章算術」の訓練を受けているので、二千年後の東夷の無教養な誤解は免れていたのです。

 論理の帰結として、三世紀に書かれたと見える「魏志倭人伝」の道里記事に記載された朝鮮半島中南部以遠、「韓国」の南に接する「倭」の道里に、短里が適用されているように「見える」と見るべきです。

*2020年時点の達観
 文献史料に記載が無いので、なぜ「短里」と見える「里」が適用されたかは、未確認です。
 そのような「道里」が、「魏志倭人伝」で有効であったとする根拠は、「魏志倭人伝」そのものですから、広く用例を探ることに意義は無く、本説を否定することも困難です。

                                未完

倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 4/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10 2023/07/04

*周制回顧
 ここでは、主として、「晋書」地理志所収の「司馬法」に規定が書かれている、周制に始まり魏朝に至る里制について考察します。
 
 当記事の一部として創作した概念図から、まず見て取れるのは、周制の単位系が、一尺25㌢㍍程度の「尺」から、天子の領地にあたる一辺一千里の「畿」まで、ハシゴ段(階梯)に欠けがないよう、十倍、百倍で続いているのです。(「井」、「里」の下で三倍、九倍になって例外となっていますが、例外があるのは、それなりの事情あってのことです。例外があるから、「例」が証明されるということです)
 
 丁寧に追いかけると、里から尺に下る単位系と里から畿に上る単位系は、趣旨が一致しないようですが、この点は本論に関係無いので、取り敢えず、割愛します。
 

 当概念図は、当方が自習用に作成したものであり、晋書」所収の司馬法は、当然、言葉の定義だけですから、概念図の出来具合は本論に関係無いのです。

*綿密な単位体系
 周制に始まる「単位系」は、このように綿密に築かれているので、里を1/6、ないしは、6倍に伸縮すると、尺、歩に始まり畿(一辺千里)に至る「単位系」の階梯が連動して乱れるので、天地崩壊とも見える大混乱無しに実施できないのです。
 なお、「里」(り)に始まり、「歩」(ぶ)を経て、度量衡として運用されている「尺」に下る部分は、全体として「歩」(ぶ)に綿密に連携していて、歴年保守されてきた土地台帳に常用されている「畝」(むー)を含んでいるので、国家的、社会的に大混乱を起こさず、単位の実施することはできないのです。 
 総じて言うと、周制でこうした単位系が始めて構築、公布されて確定して以降、里長の伸縮は、歴史に深い刻印を残さずには不可能だったのです。

*周制以降
 なお、ここで提示しているのは、殷周革命により周が天下を把握して、相当部分で殷制を踏襲した「周制」の公布後は、全単位系を動揺させることなく里を伸縮することは不可能、というだけです。
 里長や換算係数の当否は本論に関係無いので議論しません。
 
 司馬法の「周制」以前、つまり、商(殷)の単位系は、史料に残されてないので実体不明であり、短里の由来や時間的、空間的棲息範囲は、今となっては憶測/夢想しかできないのです。

 「魏志倭人伝」が、地域制度倭人伝限定の里制の孤証です。例外として適用されているので、当然、他に用例はありません。

 ここまで、確実な歩調を保っていたので、滑ってはいないはずです。

                         未完

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倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 5/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10
*変動する天下の広さ
 「司馬法}の単位系展開の最後は、周制の「畿」に至る広域の定義です。
 天子の領域とされる「畿」は、一辺千里の方形と思われ、「里」から「里の千倍」に至る過程は、面積十倍(一辺3.16倍)刻みで、隙無く定義されています。つまり、周制が確固として定まった有史時代、里は変わりようがなかったのです。

 もちろん、周時代、王畿を実測測量して、一辺千里の方形を得たわけではなく、「畿」は、周王の領分が諸公領分の一段上との「秩序の理念」を示しているのです。(面積十万倍 一段下位の「封」は一辺三百(六は誤記)十六里と表記)

 また、「司馬法」で「領分」は、軍制規定の基本であり、それぞれ、領分の広さに応じた兵士の数が、義務として定義されています。
 天子は王幾に在り、諸公は、四方で蛮夷の侵入を防いで「中華世界」を護るのが「天下布武」なのです。

*軍制への波及
 秦始皇帝は、周制を採り入れるに際して、諸公軍務を数字だけで算定する形式的な制度が、防衛体制を形骸化して無力なものになり、西周末期に外夷侵攻を許し亡国を招いたのであり、秦は周制を全面踏襲しないとしました。

 そのように、周制の面積単位系は、周代の諸公軍務の原則を決定しているものであり、秦漢でそのまま遵守していないとしても、国政の原則となっていたので、その一部である里制だけを変更はできないということです。

*郡国志
 郡及び国の所在地と方位、道里は、正史の志部、後漢書であれば「郡国志」に明記されます。(「魏志」には「志」が存在せず、笵曄「後漢書」も、「志」書いていますが、先行していた司馬彪「続漢書」の「志」部が後世、追加、補充されています)
 先に述べたように、土地制度の実用単位「畝」や「歩」が書かれていた土地台帳が、堅実に維持されていたため、南北朝の分裂時代を歴ても、再統一される唐代に至るまで不変でした。また、「道里」の物差である「里」を伸縮する改定は、日常生活にほとんど影響しないのですが、古来、正史の史料篇である後漢書「郡国志」、晋書「地理志」、宋書「州郡志」に収容されている公式道里は、凡そ正史の改竄ができない以上、不変だったのです。

*「舊唐書」倭国道里談義~余談
 後世ですが、舊唐書「倭国伝」は、「伝」に必須である道里条を立てていて、「倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。」先行正史を要約/節略しつつ、唐代史料にある「倭国」は、後漢書にある「倭奴国」を継承するものであり、当時、「新羅」の東南大海中在る、としていますが、厳密に正確な継承かどうかは、課題となります。なお、「道里」の基点は、同書「地理志」で「京師 秦之咸陽,漢之長安也。隋開皇二年,自漢長安故城東南移二十里置新都,今京師是也。」と総括しているように、実質上、秦・咸陽、漢・長安、隋・新都は、唐・京師と同一とされています。これに対して、後漢・雒陽は、唐代、東都/神都/東京などと称されていますが、「西京」と称されることになった「京師」とは区別されています。因みに、東京は、「在西京之東八百五十里」とされていますが、これは、見たところ、漢代以来、公式道里として維持されているようです。

 と言うことで、あっさり総括すると、唐の京師から倭国の「道里」は、「魏志倭人伝」の「万二千里」と同様に概念的なものであり、行程を明示しない、また、長安-洛陽間の公式道里を考慮しないものと見えます。
 案ずるに、唐代に「倭国」に至る公式道里を評価した際に、実道里の測量などしなかったものと見えます。つまり、「魏志倭人伝」の「万二千里」を遼東太守公孫氏の見立てなどと解釈/誤解せず、当時の「雒陽基点の概念道里」であったと見て、唐代には、唐側の基点が「京師」に遠ざかって、「天子の権威から一段と遠隔になった」という意義から、道里も一段階格上げして、「万四千里」としたものと見えます。

 その際、行程が、遼東郡、ないしは、楽浪郡を経由したことになっているか、山東半島から渡海したものかどうか、などの「考証」は、一切、抜きにしていたと見えます。と言うのは、隋代裴世清、唐代高表仁の使節は、魏志倭人伝に確固として明記されている「公式行程」である帯方郡からの陸上経路は採用せず、山東半島を発して黄海を南下し、耽羅で東転して、壱岐に「直行」する帆船に適した経路としているので、「魏志倭人伝」に明記された「公式道里行程」は、不採用だったと見えるのです。
 いや、遡って、正始魏使の行程も、公式道里行程は遼東公孫氏時代の遺物と見て、不採用で、帯方郡治には立ち寄らず、唐代統一新羅が置いた「唐津」(タンジン)に確立されていた施設、人員の整った海港を経由したものと見えるのです。そのような「不正規行程」は、皇帝に報告できず、公式文書に書けなかったものの、実務/内部文書として長く継承されたのではないかと愚考するものです。
 そのように勝手な臆測を物するのは、現在の混迷した「倭人伝」談義の解明に有意義な異説ではないかと思量するからです。

 このような、公式道里と実体との乖離は、一時交通が途絶えていた「倭国」の行程道里に限ったものではなく、程度/由来は異なっても、南朝を撲滅して全国を統一した唐代において、周秦漢代以来、営々と継承していた天子から各蕃夷への行程道里が、実際と(時に大きく)乖離していることが問題になり、征討軍の派遣や現地総督の呼集の際に齟齬を来さないように、実行程道里を実務で補正していたようであり、そのような混乱を是正すべく玄宗皇帝が号令して、各地への行程道里を精測させた成果が「入四夷之路」として地理志に掲載されていますが、さすがに、太古以来継承されている公式道里を改訂することは、不可能だったと見えます。

*東夷継承
 こと「倭国」に関しては、新興「日本」に取って代わられただけに、「倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里」の「軛」を免れたものと見えます。つまり、「日本」は「倭国」の正統な後継ではないということになりますが、あくまで、これは、一説に過ぎませんので、諸兄姉が、自説に採り入れるのであれば、ご自身の責任で史料考証されることをお勧めします。

 本題に還ると、帝国の威勢を示す全土(天下)広さや各国道里が大きく変わるのは大問題(つまり、あってはならない不法、大逆行為)です。「王幾」の広さが変わると、中華世界の広さ/大きさも変わるのですから、天下の一大事なのです。もし、中華世界の広さ/大きさが、変われば、周囲を取り巻く、蛮地、荒地の範囲も変わることになりますが、だれも、実測できないことですから、問題になることは少ないでしょうが、理屈はそういうことです。

 この辺りも、里制変更を、正史史料篇である「地理志」などに明記しないといけない理由です。いや、一切明記されていないというのが、里制変更のなかった、絶対的な根拠なのです。

*不可能な使命
 因みに、少なくとも、魏晋代に到る古代には、小数の概念がなかったので、簡便な掛け算/割り算計算が、ほぼ不可能であり、その意味でも、全国に波及する里制変更はあり得ないのです。また、千里を超える道里の一/六倍の計算では、概数の切りの良い数字が半端になるのも、難点です。これは、何らかの計算器具で換算しても、記帳が困難となるので大事件です。
 最後の決め手として、「公式道里」の改竄は、天子すらなし得ない、天に背く大罪であり、実行不可能と見えるのです。と言うことで、公式道里でない、列伝記事などでは、「普通里」や「公式道里」から乖離した不正規道里が見られるかも知れませんが、それは、あくまで「不正規」のものであり、史官には、是正の仕様がないものだったので、陳寿ほどの同時代に至高の史官も、これには是正などしていないのです。

*正史記録の不在は「史実」の不在
 つまり、これほどの天下の一大事が正史に記録されていないのは、一大事などなかったからと見るべきです。

*記録不在の意義
 時に史書に記事が無くても「無かった」とはならないとの強弁がありますが、天下の大事件を書かなかったのは「無かった」からに違いないのです。
 正史に書いてなくても、知られている史実は明白だから、そのように書いてあるものと見て、そのように「改竄」して読むと言う態度は、一部ね牢固たる古代史論者の「常套手段」です、最後の隠れ穴ですが、安易に真似してもらいたくないのです。
 史料は史料としてそのまま読むという基本原則に従うと、里制変更の主張には、明白な証拠が必要です。

 史料解釈は、史料自体による解釈から「始発」すべきではないでしょうか。

                                未完

倭人伝随想 15 倭人伝里程の話 短里説の終着駅 6/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10 2023/07/06
□余言として
 以上の議論の補足として若干余言を述べます。

*地域表記宣言
 ここまでの地域短里、地域水行宣言に比べると地味ですが、「魏志倭人伝」が、郡から狗邪韓国まで七千餘里と千里単位で書き出したのは、「倭人伝道里」は千里が単位で、百里桁は無視という宣言です。

 直後の郡からの沿岸水行里数も日数も書かなかったのは、端数は書かない、無視したとの宣言に他なりません。(そのような水行などなかったという見解が後出します)

 時に苦言を呈される「魏志倭人伝」独特の書き方、地域表記は、全てと言っていいくらい、冒頭附近で宣言されていて、編者陳寿の叡知と見るべきです。そうで無ければ、高官の閲読の際に不意打ちの衝撃を与えるため、激怒を買いかねないのですから、冒頭部分で、定義して予告するのが、最善策なのです。

 諸兄は、これを理解の上、それぞれの道を選んでいただきたいものです。

*部分里程総和
 古田武彦氏は、『「邪馬台国」はなかった』において、「魏志倭人伝」道里行程記事の全体里数と部分里数の総計は「厳密に」一致するという趣旨を提示し、これに強くこだわったため、「冒頭水行」や「島巡り」里数の以降などと、込み入った記法を唱えて、書かれざる端数里数を発掘し、数字合わせしています。

 
これは、以上に示した「魏志倭人伝」書法を見落としたための誤解であり、当方の見る限り、『「概数計算によれば」、全体里数と部分里数の総計は一致する』と訂正すれば、そのような誤解は解消すると思います。
 そうでなくても、自身の仮説に整合させるために、史料の行間、紙背から、端たの数字を取り出すというのは、氏の史料観を外れているように思います。

*端数里程について
 一例として、「倭人伝」が狗邪~末羅を渡海三回三千里とした意図に反し、島巡りの端数里程を「発掘」したのは、「魏志倭人伝」の里程観を見損ねたと見るのです。
 「魏志倭人伝」が、些末は理解の妨げと省き、「渡海千里」を、「又」記法を利用して、簡潔に概括した意図に従い解すべきです。つまり、総計算で編者達が熟慮の上捨て去った端数を拾い戻すのは、千里単位の概数構想(日数は十日単位、一日三百里)と合わないのです。
 
 これは、概数計算で大局的に整合させて書かれた記事に場違いな厳密さを求めた不合理であり、史料は、書かれたままに読むという方針を踏み外しています。 

 三国志の権威として令名をはせている「大家」が、議論に窮した事態からの最後の逃げ道として、全「三国志」を読んでから議論しろと自陣に逃げ込んでいる「カタツムリ」戦法に染まったのでなければ幸いです。
 
 どんなに明晰な理論に基づいて考察していても、万事に適確(適度に正確)な史観を持ち、適用するのは、この上もなく困難で、誰も、完璧ではないのです。

*参考資料 (誤解、見過ごし 御免)
 ⑴ 方位、里程論:倭人伝短里説は、安本美典氏の創唱と見えます。
 ⑵ 誇張説:   古来、事例多数につき、省略します。
 ⑶ 創作説:   岡田英弘氏を始めとして、渡邉義浩氏の独断的見解が、諸処に見られます。
 ⑷ 里制用例論議:曹魏短里説は、古田武彦氏の創唱であり、山尾幸久氏、白崎昭一郎氏等との用例解釈論争が知られています。(『「邪馬台国」はなかった』等)
 ⑸ 曹魏布令論議:文帝布令説は古田武彦氏『「邪馬台国」はなかった』の示唆により、文帝提唱明帝布令説は、古賀達也氏の著作に見られます。

                                完

私の所感 古賀達也の洛中洛外日記 第3059話 『隋書』俀国伝に記された~都の位置情報 (1)  

古賀達也の洛中洛外日記 第3059話 ブログ記事 2023/07/02                     当ブログの初稿  2023/07/04

◯コメント
 本稿は、「多元的古代研究会」の会誌『多元』176号掲載の八木橋誠氏論稿に対する古田史学の会事務局長古賀達也氏の「賛成意見」と見える掲題ブログ記事に対する「賛成意見」である。あくまで、一介の素人の「所感」であるが、早いうちに表明しないと契機を逸するのではないかと懸念して、あえて、早合点覚悟で先走ったものである。
 八木橋誠氏論稿の引用は、二重引用になり、第三者著作物の取り扱いに疑義が生じることもあり、本稿からは割愛したが、あくまで、古賀達也氏の部分引用コメントに限定したものである。

*本題
 知る限り、古田武彦師の本件に関する最終的な見解は、『「隋書俀国伝」は、中国人によって、中国人のための史書として書かれているのであるから、中国史書として解釈すべきである』と解される「原則再認識」と見える。要するに、隋書編者が知るはずもない「現代日本人の地図情報や歴史認識、及び/又は『日本書紀』の記述」を参照した論義は、論外/圏外のものとして、まずは排除すべきであるとの真意と思うものである。
 つまり、当史料は、それ自体の明記事項と先行する史書、主として、「魏志倭人伝」の明記事項に基づいて、丁寧に解釈することを推奨しているものである。

*隋書俀国伝再確認
 「隋書俀国伝」は、冒頭部分で「三史」の重鎮である笵曄「後漢書」を根本として、格下の「魏志」は、一応書名に言及するだけで、内容はほぼ無視していて、「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。」と、「古」として尊重する笵曄「後漢書」を、無造作に節略して述べているので、当該記事に限っての断定であるが、隋書編者の「存檔史料」が、時代混濁している感じである。
 さすがに「魏志倭人伝」の「存在」は承知しているはずであるが、厳密な史料批判無しに、新作記事を捏ね上げているので、後世東夷の無教養な素人読者にしてみると、編者の視線/視点が、有らぬ方にさまよっていて、いわば、宙に浮いていると見えて心許ないのだが、諸兄姉は、どう感じておられるのだろうか。

 その程度の史料認識に搭載された裴世清「訪俀所感」と見えるが、それにしても、本来原史料として最も尊重すべきである「魏志倭人伝」は、九州島外の地理を一切詳記していないこと、及び「隋書俀国伝」自体が、「竹斯国から東に行けば、最終的に海の見える崖(海岸)に達する」と書くだけで、以後、「浮海」するとも「渡海」するとも書いていない以上、「書かれていない」海津/海港で船に乗って長距離を移動することは、一切予定されていないと見るべきではないかと思われる。天子である隋帝楊廣(煬帝)は、この時期は、以前意気軒昂で在ったはずであるから、魏代以来疎遠であった俀国への往還記が、探索行の要点を漏らした粗雑なものと見たら、突っ返して、きつく叱責したはずである。

 それにしても、陳寿が、「魏志倭人伝」に於いて、ことさら「水行」なる行程用語を渡海行程に充てる書法を創始したことに気づけば、幸甚な先例として、「循海岸水行」と書くのは適法であるが、それも書かれていない。「魏志倭人伝」に一顧だにしていないことを重大に受け止めたい。

 もちのろん、論者が「魏志倭人伝」の道里行程記事に、「島外に出て、東方に遠出する」と書いていると、根拠無しに「決め込んで」いると、さすがに「つけるクスリが無い」のだが、論義は、「決め込み」を主張することで解決することは無いのである。

*頓首/死罪の弁
 古田武彦師が書かれたように、順当な文書解釈にたいして、あえて重大な異議を唱えるのであれば、正統な論拠に準拠した堅固な論証を提示する重大な義務がある」ことにご留意いただきたい。それでようやく異議が一人前と認められて審査に付されるのである。世に蔓延る「異議」僭越に対して、当然の指導とみる。

 以上の「難詰」は、「異議」を奉戴している史学界諸兄姉には、無礼極まりないと聞こえるかも知れないが、ことは、「論義」/「論証」の正道の確認であるので、ご容赦いただきたい。また、古賀達也氏に対して、頭越し/僭越の失礼であることも、よろしく御寛恕頂きたい。

以上

2023年7月 3日 (月)

新・私の本棚 榎一雄著作集 第八巻 「邪馬台国」御覧所収魏志 増補 1/5

汲古書院    1992/5
私の見立て ★★★★★ 不朽の金字塔 必読     2019/07/13 記 2022/09/02

 本考察は、『「魏志」「倭人伝」とその周辺~テキストを検討する~』と題して、季刊「邪馬台国」第十五号~第四十一号(1983/3~1990/3)の二十二回にわたって連載され、当方も、最初、同誌バックナンバーの誌面で出会いましたが、結局、本書を古書購入したものです。

□「太平御覧に引く三国志について」
 今回検討したのは、同書の最終部分ですが、里程論の基礎として踏みしめました。
 同誌は、安本美典師の編集のもと、学術誌としての編集方針が脈々と流れていて、古代史に関する思案の基礎とできる上質の記事が、見られました。
 本稿では、榎師の「倭人伝」テキストに関する考察の中から、掲題のごとく、太平御覧所収の「所引魏志」に関する考察を糧に、当方の考察を試みたものです。当方の浅慮によって、氏の高見を誤っていないことを望むものです。

*先行類書談義~榎師による
 従来、「太平御覧」、「御覧」が北宋初期の太平興国年間(977-983)に編纂された類書(百科全書的書籍)と見て所収記事を批判しましたが、氏の幅広い調査によれば、実は、北朝の齊、北齊『修文殿御覧』三百六十巻(572)、唐『芸文類聚』百巻(622-624)、『文思博要』千二百巻(641)の三大先行資料を基本に、編纂当時の諸資料を取り入れ、一千巻に及ぶ大部として完成させたとされています。
 と要約されているが、さらに調査すると、そもそもの起こりは、南朝梁武帝(在位502-547)が、中華正統である梁の権威を示すために「類書」編纂を号令したようです。それまで、曹魏黄初年間に完成したとされる「皇覧」(222)が存在していて、幾つかの集団が競った挙げ句、七、八年を要した六、七百巻と言われる「華林遍略」(523)が上程されたようです。大部の著作でしたが、武帝は、東晋末から動揺していた南朝を一気に安定させ半世紀に近い長期の在位の間に経済的な発展を遂げたので、地方蔵書家にまで写本が流布したようです。
 梁は武帝末の大乱によって零落しましたが、「華林編略」を典拠として、北齊「修文殿御覧」(572)、隋「長洲玉鏡」(605頃)、唐「芸文類聚」(624)と、それぞれ、有力王朝による「類書」編纂が開花しましたが、学識豊かで麗筆の人材を多数列席させた「修文殿御覧」が、「華林編略」を大要としつつ北朝独特の諸書を補充したと見え、七ヵ月の編纂期間とは言え、結果として好評を博し、唐代末期には、類書の首座を占める一方、「華林遍略」は退勢に陥って散佚し、そのため、編者、巻数などは、不確かと言うことです。
 と言うことで、太平御覧は、先行する「類書」を底本としたというものの、一連の先行類書の継承部分も多々あり、北宋代編纂と言い切れないようです。特に、初期の「皇覧」は、魏代の完成と言うことで、陳寿「三国志」に取材していないことは明らかです。

 つまり、「御覧」所収「魏志」といっても、十世紀時点で、並行着手されていた刊本事業目的で集成された「魏志」の高級、帝室原本に近い「魏志」良質写本を、直々に参照したのでなく、三、四世紀先行する各類書が、手元の「通用写本」から引用した記事を、さらに、子引き、孫引きしたのです。古ければ、信頼性が高い「魏志」写本を参照したと見がちですが、実際は、当時参照した写本の信頼度と参照・引用の姿勢が不確かです。良質だったかも知れないが、劣悪だったかも知れないのです。

 以下、各国展開は、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。

◯北齊『修文殿御覧』の背景
 本類書編纂時(572)は、南北朝対立時代(439~589)も末期の北朝齊でしたが、南朝にも齊があったので、区別のため「北齊」と呼ぶのです。
 南朝側は、梁(502-557)を創業し半世紀統治した武帝䔥衍が、北朝夷将侯景の亡命、帰順を不用意に帝国内部に取り込み、反乱勃発(548)して帝都建康は包囲陥落し、南朝代々の蔵書が焼失したと言われています。反乱は鎮圧されたものの帝国は形骸化して北朝に対して非勢で、最後の南朝、陳(557-589)は、長江の中上流を失い、大きく版図を減らしたのでした。

*北朝形勢 個人的余談
 『修文殿御覧』を編纂した斉、北齊(550-577)は、三国時代の曹魏の旧都鄴(曹魏の「首都」は洛陽)を帝都として、魏(北魏)、東魏(534-550)を継いで中原東部を支配していましたが、土地柄から、後漢、西晋に至る旧都洛陽域の比較的豊富な史料と人材を起用できたようです。
 北朝の全容を見ると、南朝衰退に対して、北朝も、百五十年続いた大国魏(北魏)(386-534)の東西分裂によって、陣営内部の対立が激しかったのです。
 北朝でも、西方では、魏(北魏)、西魏(535-556)を継いで、前漢以来の帝都長安から中原西部と旧蜀漢地域を支配した周、北周(557-581)は、周礼を尊重したとは言え、鮮卑制度も復活させ、皇帝を廃して天主をいただきましたが、国力としては、当時最大の大国でした。

                               未完

新・私の本棚 榎一雄著作集 第八巻 「邪馬台国」 御覧所収魏志 増補 2/5

汲古書院    1992/5
私の見立て ★★★★★ 不朽の金字塔 必読   2019/07/13 記 2022/09/02 補充 2023/07/03

*歪んだ三国鼎立図式 個人的余談
 かくして、南朝陳と北朝齊(北斉)、周(北周)の三国鼎立と言っても、長安を中心とした関中と南方の蜀を版図とした西の大国周(北周)が巨大で、不均衡、つまり、不安定でした。

*北齊国情概観亡国の暗君
 その後、時代は急転し、「齊」は、暗君失政により、『修文殿御覧』直後のCE 577に亡国となりました。
 まずは、重鎮にして猛将の斛律光(CE 515-572)を粛正して、「齊」は中原の覇者であるから蛮勇を捨てたと宣言し、次いで、舞楽「蘭陵王」で知られる英雄であり、国軍の支柱であった従高長恭(CE 541-573)に賜毒し、軍の両翼を自らもぎ取る愚行を犯したので、強大な「周」に対抗できるはずは無く、程なく「齊」は亡んだのです。

 鼎立は、いまや、南朝領域の一部、建康周辺に収縮した「陳」と残る大半を支配する「周」の南北朝二国対立に転じたものの、幼帝に継承された「周」は、重臣楊堅に国を奪われ、北朝は隋文帝楊堅による統一「隋」を得て、弱小国「陳」の討伐に向かったのです。
 「隋」文帝は、「陳」を滅ぼし全国統一した際に、膨大な南朝文物を悉く持ち去り、中国文明の正統である北朝天子に反逆した南朝歴代の墳墓を破壊し、三世紀近い東晋・南北朝諸国の陵墓は、現存していないといいます。

 少し時代を戻すと、内外紛争の絶えない時世の「齊」の文化事業は、恐らく、漢人官僚の雄図とみて敬意を払いますが、後の統一王朝「隋」、「唐」に比べて、国力が大いに劣り、人材も遠く及ばなかったと思われます。

*西晋滅亡流亡~道草
 振り返ると、「西晋」(CE 265-316)の滅亡時、北部の異民族が大挙侵入した際に、帝都洛陽の官人、つまり、当時最高の教養人、芸術家、さらには、職人の多くは、あるいは逃亡し、あるいは略奪を恐れて身を隠し、中原が、「魏」、つまり、「後魏」ないしは「北魏」の支配下で安定し、中原国家への移行を望んだ「北魏」の中華文化振興策がこれらの隠れた文化人を呼び戻すまで、中華文明は、専ら「東晋」(CE 317-420)、および継承した歴代の南朝諸国に委ねられたのです。

*余談~百済祢軍墓誌由来
 「西晋」滅亡時、漢蛮関係を主管した鴻臚官人等が、親交のあった百済の勧誘を受け、山東半島経由で渡海亡命したようです。
 見事な墓誌で知られる百済禰氏一族は、その際に亡命、移住して、代々百済王の幕僚として重責にあり、南朝歴代との濃密な交流を進め、中華文明の導入を支えたようです。
 あくまで、個人的夢想ですが、帯方郡時代に韓国以南で敷かれていたと思われる「短里制」を廃し、再測量、土地台帳更新を歴て普通里、つまり周里制として、中国の制度に帰した大事業が行われたと無理矢理仮定すると、中核となって推進したのは、亡命西晋高官の働きと思えるのです。
 とかく、感情的な反発が懸念される話題ですが、所詮「夢想」ですから、反論されると困るので、感想にとどめて戴ければ幸いです。

 時を経て、「唐」の「百済」討伐の時、百済の高官であった「禰軍」は、「唐」の要請に応じて、先だって中原に復帰し「百済」国王に降伏を求める軍使となったようです。
 このように「百済」平定の国業に尽力した「禰軍」を顕彰する墓碑には、古典書籍に依拠した厳選の麗句を連ねた美文が綴られたのです。
 近来、墓誌に「日夲」の二字が見えることから、中国に於いて、「日本」が知られていたとする論義が見られますが、「禰軍墓誌」制作の当時、唐京師長安界隈に「日夲」を知る人もなく、また、先立つ古典用例がないことから、素性不明の「日本」国号が書かれるはずはないのです。
 そこで、「日本」の二字並びを一語と読むのは錯覚であり、墓碑を正確に読み取れば「日本」は消え失せるというのが、別記事の主題です。いや、本記事に於いては、やや道草ですが、大事なことなので再録しました。

◯唐代 『芸文類聚』『文思博要』の背景
 「西晋」瓦解(CE 316)以来三世紀近い分裂時代を経た天下は、「隋」(CE 581-618)に統一され、「隋」を継いだ「唐」(CE 618-907)が全国政権となったのです。いや、史家によると、「隋」は、北朝を統一した後、南朝「陳」を滅ぼしたものの、天下統一はできていなかったとの厳しい評価があります。
 赫々たる全国政権を確立した「唐」の諸皇帝は、京師長安を文化活動の中心として、当代随一の教養人、芸術家、職人を招集し、散逸していた諸文献を集成し、中でも、世界帝国に相応しい二類書『芸文類聚』百巻(CE 622-624)、『文思博要』千二百巻(CE 641)を編纂したのです。多大な時間を投入した類書編纂事業を核として、永久政権の基盤作りをもくろんだのでしょう。

 宮崎市定氏によると、中国は唐に於いて古代から中世に進んだようで、このような有様は、まことに中世の開幕と呼ぶに相応しい堂々たるものです。
                               未完

新・私の本棚 榎一雄著作集 第八巻 「邪馬台国」 御覧所収魏志 増補 3/5

汲古書院    1992/5
私の見立て ★★★★★ 不朽の金字塔 必読   2019/07/13 記 2022/09/02 補充 2023/07/03

*唐から宋へ
 以上のように、西晋代の「三国志」上程以来、長い戦乱と分裂の時代を歴て、「唐」帝国が三百年に垂(なんな)んとする盤石の大帝国を築き、周辺諸蕃の世界を文明の光で啓発した中国文明の黄金時代が来たのですが、諸行無常、まずは、東北辺境の守りを托した梟雄安禄山の反乱で、京師から皇帝が脱出する惨事を招き、一旦大乱を平定したものの、最後は、多発する反乱の的となって滅び、暫しの乱世を歴て、文治を根本として「宋」が全国を統一したのです。

◯太平御覧
 と言うことで、宋代の「太平御覧」編纂に到るのですが、唐代と事情が異なるのは、文治主義の「宋」は、軍備に大量に投入されていた国費を、官僚の俸給を格段に手厚くするなど、官民打ち揃っての文化活動、経済活動の振興に注ぎ、また、首都を、城郭都市である洛陽から、開放的な開封に移したのに加えて、国都機能を分割することにより、各都市の興隆を促したのです。
 ついには、木版印刷を国営工房で展開し、各地方の有力者に、経書、史書の規範「刊本」を供給し、粗悪な写本の駆逐を図ったのです。
 全て、平和のためには蛮人に兄事し莫大な償金を払う、つまり、平和を金で買うことを恥としない文治思想の表れであり、一時代を画すものでしたが、永久政権では無かったのは言うまでもありません。

 以上、文化的背景の推察を踏まえながら、「三国志」の編纂、上程以来の、中国情勢を通観し、「太平御覧」とその原典となった先行類書の編纂背景を見渡そうとしたものです。別に、権威のある学術的意見ではなく、参考にしていただければ幸いです。

*古代から中世に 紙の作る歴史 余談
 宋代の国内安定化は、商業活動の振興につながり、各地に富裕層を輩出させ、富裕層が蔵書家となったこともあって、写本は、経書需要に加えて、一大産業となり、それを支える用紙産業も確立したのです。
 印刷事業は、元々、生活必需品である暦の量産に発したものであり、ついには、市のチラシのようなものが出回ったらしいのです。要は、版画のような一枚刷りに発しているのです。

 写本時代、書物は巻物形式だったのです。綴じ本には、定寸の単葉紙が大量に必要です。しかも、一冊の冊子であれば、厚さ、肌合い、色合いの統一が求められ、工業的な大量生産が必要なのです。印刷本時代になるには、後漢以来の製紙工房が長年を歴て大量生産工場となり、量産体制ができたと言うことであり、併せて、故紙、反古の回収、再生も繁盛したと言うことです。
 それ以外にも、経理台帳、戸籍、役所記録なども、急増したでしょう。特に、戸籍は、定期的な更新ごとに大量の用紙を消費したでしょう。
 何事も、需要の拡大は、価格低下、さらなる需要の拡大を呼ぶのです。唐代に、中国の古代は終焉し、中世が開始したと言われるゆえんです。

*類書考察
 本論に戻ると、類書は、編纂過程の編集力に限界があり、なべて高品質とは行かなかったのです。大量の記事を書くためには、玉石混淆の人材を動員、激しい督促を行ったと想像されるので、記事の信頼性は求め得ないのです。要するに、大著の編集は、粗製濫造だったのです。

 その上に、先行類書が三世紀余り継承された過程の信頼性も当てにならないのです。正史は、経書、仏典同様に、厳格な手順で、確実に写本されたとしても、類書は世俗のものでぞんざいに扱われた可能性が極めて濃厚です。

                               未完

新・私の本棚 榎一雄著作集 第八巻 「邪馬台国」 御覧所収魏志 増補 4/5

汲古書院    1992/5
私の見立て ★★★★★ 不朽の金字塔 必読   2019/07/13 記 2022/09/02 補充 2023/07/03

*人海戦術の盗写事件~余談
 風評の類いですが、大部の類書写本の売り込みを受けた蔵書家が、一式借り受けた上で、近在の写本人材を呼集して、一日一夜にして人海戦術で全巻を書写してしまい、翌日、不要と返却したなどと、荒っぽい挿話が伝わっているのです。
 大量の書写を即席でやっつけるためには、周辺に、そこそこの写本工がいなければならず、筆墨硯はともかく、常用の長巻紙とは言え、用紙の潤沢さにも恐れ入るのです。

 また、書き物机がある程度なければ、かなりの人数はほとんど腹ばいで書き写すことになります。夜を徹してとなれば、大量の明かりが必要です。要するに、安直な盗用とは言えないのです。恐らく、愛書家の財源のかなりの部分は、蔵書の複写、販売で得ていて、世評の高い愛書家のもとには、高価な大作の売り込みがあったのでしょう。

 ちなみに、かかる大がかりな盗写は、到底秘密を保てないので、やがて世間の知る所となったでしょうが、告発されたと書いていないので、ある程度常態化していたのでしょう。

*「翰苑」由来の推定
 「三国志」の史料批判に関係なさそうな挿話を掘り下げたのは、麗筆ながら乱調という様相を示している「翰苑」断簡を想起したからです。
 恐らく、粗忽な書写の部分が混じった野良写本を購入したかと思われます。破格の写本を書き継いで、格式が乱れ誤字山積したものを、最後の最後に、美麗忠実に書き写したと考えれば、初めて筋が通るのです。別断簡では、薬草目録記事が残っていて、この部分は、緻密な校正を経た書写と見られるのです。
 「翰苑」断簡の史料信頼性は、そのような考察を必要とするのです。そこに文字が見えるから、原本にその通り書かれていたとは限らないのです。

*泥縄写本の推定
 この挿話で、類書一式の写本が、莫大な金銀を対価としながら、ある程度の需要が見込め、各地の蔵書家に売り込むのが商売として成り立ったことがわかるのです。商売が成り立つには練達の写本工が大量に必要ですが、お抱え以外に出入りの遊軍がいたようです。用紙代や写本工給金の先行投資で大量の資金を要するので、全員お抱えでなくても不思議でないのです。

*草書写本の推定
 いくら人海戦術でも、楷書体では到底無理で草書風の走り書きと見られます。誤字、脱字は甚大で、またもやの人海戦術で校正し、原文を復元したのでしょう。何しろ、大部の写本は、とてつもなく高価で、誠に得がたいものなのです。
 これに対して、帝室書庫の貴重写本は、所要時間を半ば度外視して、確実に校正されたものであり、そうした荒技と無縁であったことは言うまでもないのです。現存刊本各種に、取り立てて言い立てる程の記事異同がないのは、正史写本の、信じがたい程の正確さを思わせるのです。

*校訂の反映
 榎師は、こうした経緯を考察しつつ、「御覧」所収の魏志、「所収魏志」の由来に細心の注意を払い、そこに取り込まれた「倭国」国号は五世紀起源と思われることに基づき、六世紀以降の書写の際に混入したとの仮説に至ったのです。また、所収魏志の魏志本体と裴注のつながり具合が、書写原本の形態を思わせるとしています。なお、御覧」新規書写は、適正に行われているようです。

                               未完

新・私の本棚 榎一雄著作集 第八巻 「邪馬台国」 御覧所収魏志 増補 5/5

汲古書院    1992/5
私の見立て ★★★★★ 不朽の金字塔 必読   2019/07/13 記 2022/09/02 補充 2023/07/03

*写本改竄疑惑
 榎師の精査の動機の一部は、氏の畢生の学説である魏志倭人伝行程記事後半の放射状経路が、所収「魏志」などで直線行程としか読めないように改変されている由来の解明でしょう。何しろ、氏の画期的な明察に対して、「文法的に誤っていて成立しない」とか「後世史書は、直線的としか読めないように構成されている」とか、見当違いな批判が山積しているので、氏としても、大いに不本意で、克服を図ったものと見えます。何しろ、批判は、感情的、非論理的で、根拠不明なので、反論が特定しがたいのです。

 榎師によれば、これもまた、「北齊」に先行する「東魏」とその前の「北魏」時代に、「東晋」、南朝諸国への東夷遣使の上申書などの示唆で、「邪馬台国が畿内にあったとも読めるように補正したのではないか」というものです。時に聞かれる後世改竄説の余塵が感じ取れる気もしますが、空耳でしょうか。
 そうであれば、「邪馬臺国」自体が「倭人伝」原典にないものであり、類書編纂時に意図的に取り込まれた改変かと思われますが、榎師は、そこまで踏み込んではいないのです。まあ、掲載されたのが、「季刊邪馬台国」なので、「邪馬台国」後世付会説は、出てきにくかったはずです。

*「倭国」国号の発祥
 してみると、かつて「倭人」として威勢を誇った東夷政権は五世紀までに舞台を退き、新政権は政権交代を表現して「倭国」と名乗ったかもしれないのです。すべて、唐書のような後世文書を除けば、信頼するに足る文書資料がないので「かも知れない」で「おしまい」、幕引きなのです。

 榎師は、「魏志」、「後漢書」共に「倭国」国号を記録していないのに対して、宋書以降の正史は、「倭国」を自称したと明記しているので、何か事情があったと見ているのです。そして、厳重に管理されている「魏志」原本は不可侵としても、類書編纂用に書写された通用写本は、随時手を加えて当時の常識に合わして改善され、先に述べた先行類書所収の「魏志」は、当時で言う「現代化」されていたと推定したのです。

 榎師の推察は、所収「魏志」の先行類書由来部は、「倭国」国号と直行経路の影響を受けているのに対して、現行刊本、ないしは、所収「魏志」の「御覧」編集時の新規引用文は、倭国国号の影響を受けていないとことから来ています。

*「魏志」写本の継承
 御覧論客は、「御覧」が宋代編纂であって、南宋刊本に先行していることに、徹底的にこだわり、実は、さらに三世紀先行していることに気づいていないようです。
 陳寿原本は、「劉宋」史官裴松之により、精査、付注されましたが(429)、「三国志」上程以来、晋(西晋、東晋)に続いて、劉宋でも貴重史書として保護されていたとわかります。
 裴注付注本「三国志」の上程以後、裴注のない原三国志は、保護の対象から除外され、早々に廃棄されたものと思われ、北齊、唐の類書の所収記事は、裴注を含めて引用されているものです。

*類書編者の「編集」加筆 
 類書編集者は、当時の「古典書籍」を類書に所収する時は、当時の「現代人」の常識ですらすら読める記事に改訂/改竄して、加筆したのであり、正史管理者が、古典書籍を原型継承を必然としていたのとは使命感が異なるのです。つまり、類書記事は、後世編者の創作と言えるのです。
 類書編集者の引用文に、厳密な正確さを求めるのは見当違い」と言えます。

 正史管理者が組織的に正史原本に改竄を行うことは、断然あり得ないとしても、類書編纂者は、むしろ、古典書籍の改善に努めて美しく改訂したのです。いわば、美文家范曄の輩(ともがら)であったのです。

◯しめくくり
 当記事は、榎師の大部の論考の要部を占めている「太平御覧所収魏志」の資料批判を行ったものであり、世上流布している浅慮とも思える速断の議論を、是非見直していただきたいものです。

 本書は、滅多に参考文献として引用されないのですが、そのような後世史学者の手ひどい不始末は、「史学者として、大変、不勉強、不明ですよ」と苦言を呈しているのです。因みに、「不勉強、不明」とは、本来、当人が、自身の公言を卑下して言うものですが、ここでは、適当な苦言表現が見当たらないので、しかたなく、「誤用」しています。
                                完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 爆縮版 1/4

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である      2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30 2021/12/10 2023/07/03

◯「爆縮」版公開の弁
 本稿は、若気の至りで、大部になってしまったが、今となっては、細部の指導に意味はないと見えるので、冒頭部分に「爆縮」して、おしまいにするものである。と言っても、講談社編集部に対する苦言に対し、当事者から何の反応も無いのは、依然として遺憾であると申し上げる。

*前置き
 本書は、刊行以来十五年間当方の目の届くところに来ず、二〇一八年になって初めて目について購入した。実に、美麗な想定であり、講談社の出版物であるから、権威を持ったものと感じてしまうのである。ただし、書評を見かけないので、絶賛、好評ではないようである。
 いや、古代史分野では、タイトルを大きく構えた書籍は、見かけ倒しが多いので、大抵は御遠慮申し上げるのだが、今回は、手元の書き物の参考にと購入、一読したのである。後悔先に立たずである。

*総評
 結構迷ったが、最悪の判定、星ゼロとなった。「金返せ」である。
 当方の好みに合わないだけなら、買わない、読まないで、何の迷惑もないが、本書は、確実な史料に基づき、先入観、俗説を廃して、まじめな議論を進める」と銘打って読ませながら、突然変節して裏切っているのである。
 より重大なのは、そのような変節の兆しを表明せず、読者を落とし穴に導く書法を取っているからである。
 重大な策謀であるので、ここに高らかに宣言するのである。それでも、あえて買い込んで読むのなら、それは、ご当人の「酔狂」である。できれば、図書館の利用をお勧めする。

*警告~2021/12/10
 事前に警告しておくが、氏の「用語」は、他に例のない独特のものであり、時代錯誤と重ねて、氏の論考の文意理解を困難にしている。そして、そのような「異様な」「用語」世界を通じて、倭人伝や諸先行文献の解釈を聴いても、何のことか掴めないのである。
 そして、天下の講談社が、そのように用語が混乱している不法な書籍を、編集、校閲せずに「単行本として」出版した意図が知れないのである。世上には、「倭人伝」解説書はデタラメなものばかりだという非難が見られるが、本書は、そのような非難に結構寄与しているものと見えるのである。

 当ブログ記事は、世上諸書籍の典型、平均値ではないが、最悪では無いとだけ申し上げる。近年、新書形の「書籍」は、「持ち込み原稿をそのまま出版する」例が珍しくないから、もっと、編集・校閲の欠けた書籍も有りうるのである。「下には下がある」のである。

 当方も人間であり、見せかけの抱負に共鳴して、肯定的な書評を書き始めたが、当方が支持できる発言を拾おうとして飛ばし読みして、出てくるのは、トンデモ発言ばかりで、座り直し、読書眼鏡を磨いて、丁寧に読み進んだのである。評価が手厳しいのは、騙されたからである。
 と言っても、書籍編集の専門家ではないから、素人の技で万全ではないから、見当外れや指摘漏れがあっても、ご勘弁いただきたい。
 書籍購入代金は、やりくりで埋め合わせするとして、否定的な書評を何とか建設的な苦言にと書き整えた努力は、当方に特に得るところがないから、限りある時間を奪われた恨みは尽きないのである。また、当事者の反論も弁明もないから、改訂の度に指摘がきつくなるのも、ご容赦いただきたい。

*プロローグの酔狂
 冒頭の一幕は、新説開示の枕として、別に異例でもないが、「著者が天啓を受けて、本書の論説の理路を幻視した」というのは、当人にはそうだろうが、他人が一切知り得ない思考世界なので、神がかりを自慢されて同感も否定もできない。
 大事なのは、「神がかり」を契機として構築した所説が実証できたかどうかである。実証のない天啓は、個人的な幻想である。ざっくり言って、天啓の90%は「ゴミ」である。それが耳障りなら単なる「錯覚」である。高々と謳い上げるべきものではない。

 ちなみに、古田武彦氏は入浴中に道里説解決の天啓を受け、そのまま飛び出したので「アルキメデス的天啓」だが、大事なのは実証であり、氏は、それ以降順当に論証しているが、本稿を含めた当方の指摘で「アルキメデス的天啓」は覆っている(と、勝手に思う)。

 当方は、やはり湯船で、今書いた氏の天啓説への反論を思いついたが、別に興奮せず、飛び出さずにそのまま入浴を続けた。成り行きは、まことに陳腐だが、反論は有効だと信ずる。

*安請け合いの非~罪状認否
 末尾に「知的興奮」と言うが、推理小説でもあるまいにどんでん返しや犯人捜しは論外であり、読者は、真理に触れ、知識を深めたいのであって、心地よく騙されることを期待して読んでいるのではない。

 盗まれたと思われることは「絶対にないであろう」と言うが、口先だけの強調表現の大安売りで騙すのは、「盗み」とどう違うのか。要は、「騙りは犯罪」である。

                                          未完

 

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 爆縮版 2/4

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である        2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30 2023/07/03

*約束破りの書き出し
 ノンブル(ページ番)は「プロローグ」から始まっているものの、論議はここから始まる。
 本書で、早々に、倭人伝解釈を、「中華書局本」に基づくと高々と宣言していながら、そこに、妥当な根拠を一切示すことなく誤字論を導入しているが、唯一の依存史料が誤りとの根拠は示せるはずがない。端から不合理で「虚言 」癖を疑わせるが、まだ早々なので、辛抱する。

 続いて、諸兄の倭人伝の地理・行程論を「既存諸説の批判」の形で展開するが、「諸説」とその批判は、勝手に選別されている。自身の選別見識も、また選別すべきではないかと思われる。
 
また、その際、地理・行程論に不可欠な『倭人伝「里」の長さに対する議論が欠落している』のは、大変お粗末である。
 著者の結論として、倭人伝には、「邪馬壱国」が九州島内と書かれていると断じた上で、一転「倭人伝」は誤記と断じているが、論拠となる史料による妥当な根拠は示されない。まさしく、神がかりである。
 ここまでで、著者の不見識と誤謬が露呈しているから、ここで投げ出してもいいのだったが、ついつい、追従したのである。

*根拠なき先入観
 著者は、はなから「邪馬壱国」は、遥か東方の今日言う奈良盆地方面にあったとの確信/錯覚を持ち出して、そこまで書き立てている「倭人伝」の史料解釈を捨て去る。つまり、先ほどまで紙数を費やした諸説批判は無意味な字数稼ぎでしかない。嘆きたくなるのである。
 誰やらの「古代史家全員嘘つき」論を想起させる。

*ボロボロのエピローグ
 「エピローグ」では、本書は、思いつき(神がかり)の論旨を短縮日程でまとめて一丁上がりとし、編集部に超特急校正させて(もろに書いてはないが)、(不備だらけで、ごまかし満載の)著書を(無理矢理)世に出したと誇っている。
 そんな著者のやっつけ書籍を、一流出版社が世に出したのは、会社ぐるみのペテンとの疑惑が否定しがたい。講談社は、恥を知るべきである。
 また、当人は、少なからぬ私財を投じたと示唆しているのだろうが、読者には、関係無い話である。
 私財を投じて購入する読者にしてみれば、とんでもない話である。
 参考文献一覧と謝辞を備え、用語索引を整備する水準の著作を志したのではないか。

 当書評は、しきりに本書の用語の混乱を語っているが、用語索引を作れば、初出箇所と後続の箇所が目に見えるので、初出時に、誤解を防ぐ手当をするなり、自己校正で低次元の用語混乱は、容易に発見でき、是正できたと思うのである。
 どんな無残な失敗も、世に出す前に発見して是正すれば、ないのと同じである。と言うか、誰でも、勘違いや思い違いはあるから、何とかして、手の内にある間に、誤謬を発見して是正するのである。
 著者は、その程度の初歩的な、つまり、最低限の必須手順を手抜きして、何を得たというのであろうか。
 それが、素人に思いつかないこととしても、一流出版社「講談社」の編集子には、当然の手順であったはずである。

 してみると、ここに氏名入りで、編集不備の責任を押しつけられた両編集子は気の毒である。
 ただし、当書評で批評されているのは(最高かつ最終)責任者たる発行者であり、一流出版社としての業務基準と是正ルールの欠如である。担当者を責めているのではないから、御安心いただきたい。
 これでは、星無しにせざるを得ない。いや、マイナス評価が書けないのが残念なほどである。

                      未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 爆縮版 3/4

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である 2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30 2023/07/03

*批判の幕開き
 単なる思いつきで非難したと思われると、ブログ筆者としての沽券に関わるので、ここから後は、くどくどと丁寧に指摘する。
 言うまでもないが、当記事全体は、一私人の個人的な意見であり、他人の意見を押しのける排他的なものを意図したものではないが、一説として意義のあるものと自負しているので、あえて公開しているのである。

*看板に偽り~高度なタイトル論議

 大事なタイトルに、著者の時代錯誤が現れていて、読むに値しないと門前払いになりかねないのである。

 二〇〇〇とあるのは、古代中国になくて、遥か後世に紹介された零の概念とか、位取り多桁計算とかの視点であるが、そのようなものは、魏晋朝時代の中国にも、倭にも存在していなかったことは明らかである。当の時代・地域に存在しなかった、後代・別世界概念を言い立てる時代錯誤は却下されるべきである。

 次に問題なのは、倭人伝を二〇〇〇字と称している点である。現代人感覚と言うか、学校での教育訓練によれば、二〇〇〇字とあれば、一字の多少もない二〇〇〇字キッチリであるから、これは誤っている。つまり、間違っている。

 と言うことで、数値表現の時代錯誤と不始末を避けるには、魏晋朝に存在しない概念を一切導入せず、「魏志倭人伝二千余字に謎はない」と書かねばならないと「史学素人」は信じるのである。倭人伝「余」論は、すぐ出てくる。

*概数の理解欠如 普通の誤解
 百字単位に何らかの意味があるなら、千九百余字と書きそうなものであるが、そう書かないのは、百字単位概数の意義を適切に理解しているように見せている。つまり、偽装である。

 著者が、この理屈を理解していないのは、行程論(p114)で、一五〇〇余里と、時代錯誤の多桁表示で一里単位まで表示しているのでわかる。つまり、里数には、一里まで意義があるように表現し、かたや、世上の誤解に追従して、「余」を端数切り捨てと決めている。

*倭人伝「余」論
 倭人伝の里数、戸数は、例外を除き、「余」であるが、全て、プラス端数、端数切り捨てだろうか。

 『倭人伝の「余」』は、「程度」の意であり、「多少は不明」と解すべきであると考える。義務教育の算数程度の知識があれば、容易に理解できるはずであるが、著者に理解できなくても、当方は、著者の教師ではないので理解不足を恨まないで欲しい。

 簡単な常識であるが、概数がすべて切り捨てだとすると、戸数や里数の加算計算は、項目が増えれば、切り捨てが累積して、とんでもない誤算になるのである。当時、「世界」唯一の文明国が、そのような統計管理をすることは、あり得ないのである。
 少なくとも、司馬遷「史記」以来の史書編者は、周代以来の算数教育を経た、「数字に強い」筆者を擁しているので、そのようなつまらない誤算はしないのである。端的に言えば、「余」は概数の中心値を示しているのであり、項目数の多い加算でも、個別の端数が打ち消し合って、誤算しないのである。些細なようで、大変重要な基礎知識であるので、理解できない方は、中高生程度から、出直して欲しいものである。

 戸数で言えば、五万余戸と二万余戸を足せば、七万余戸であり、これは、五と二の足し算であるから、当時の教養人なら、容易に暗算できる程度である。他に、千戸単位、ないしは、それ以下の端数戸数/家数があっても、全国戸数の万戸単位の計算では、無視できるのである。

 世に、倭国三十国の戸数表示のない国にも、戸数があるはずであり、『塵も積もれば』で推定すれば、千や二千の戸数が出る」と、勝手な推測を述べている向きがあるが、何重もの誤謬を重ねているので重症である。

 まず、戸数は、何軒の民家があるかという数字ではなく、戸籍に登録され、農地を割り当てられ、耕作と貢納、徴兵の義務を背負っている、いわば、有産者の数であるから、国によって、戸籍がないと戸数の把握はできず、あえて申告させれば、国主含めて、一戸とか数戸のところが多いはずである。
 帯方郡の指示に対して戸数が表明されていないのは、戸数があっても、万戸どころか、千戸にも届かない「はした」であることを明示しているのである。

 つまり、「倭人伝」に表明されている公称戸数、全国七万余戸が「正しい」のである。「従郡至倭」の行程上の倭人の「国」は、対海、一大、末羅、伊都の諸国であり、各国戸籍に基づいて、千戸単位で表示されているが、それ以外の「余傍」の国は、不確かな戸数を載せているとみられる。
 そうした余傍の国別の戸数明細は、「倭人伝」の記事体裁を整えただけであり、郡は、個別に管理しているわけではないから、国ごとの戸数には大した意義はないのである。まして、行程上の千戸台の戸数は、それぞれの「国邑」が、太古以来の隔壁集落であると示しているのである。誠に、史官の寸鉄表現は、寡黙に見えて雄弁であり、決して、饒舌ではないのである。(後記中等教育の範囲だが、わかるかな)

 著者は、榎一雄氏の言う「唐六典」の歩行一日五〇里記事に関して、ここでは何も言わないので、提言に同意したかに見えるが、後段で、「独自の道を行く」、倭人伝とは関係無いと明解に断罪、否定している。悪質な詐話ではないかと疑惑が募るのである。
 素人の勝手な予告であるが、読者が、著者の片言を真に受けて、不意打ちを食わないように言い添えておく。

 著者は、高名な岡田英弘氏のような自分に理解できないことは、ことごとく頭から断固否定する』蛮勇は、示していないから救われる。いや、示していないだけで、実は、場当たりな出任せなのかも知れない。

未完

私の本棚 相見 英咲 「魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない」 爆縮版 4/4

 講談社 二〇〇二年一〇月刊
 私の見立て☆☆☆☆☆   詐欺である            2018/04/12 追記 2019/07/22 2021/07/30 最終 2023/07/03

⚪巨大な三大難点
 タイトルのダメ出しを終わって、内容評価を開始すると、三つ(も)の(巨大)難点がある。
 とにかく、論旨不明瞭なので、走り読みでは、変節点が見えず誤解しかねない。困ったものである。

一.旗幟隠蔽
 本書の論旨展開の本旨は、明解に語られていない。
 「魏志倭人伝」論読者は、プロ野球ファンと同様、ご贔屓の応援本は買うが、敵の応援本には、目もくれない
 と言って、旗幟を隠して毛針で無辜の読者を誘い込んでも、疑似餌でだまし通すことはできず、ばれたとき憤激を巻き起こす。販促大事の欺瞞的な執筆は、感心できない。

二.言行不一致

 前項と相通ずるが、著者は、後世人のとらわれがちな先入観を脇に置いて、倭人伝の原典の明解な読み方を提案しようとしている」と宣言しているが、遺憾ながら、著者も人の子、資料より私見を優先する、濃厚な先入見が漂っていて、宣言はむなしいのである。
 百人百様というように、先入見はあって当然で、明言すれば良いのである。
 口先で「なくする」というのが、俗に言う舌先三寸の「リップサービス」であり、根っから不誠実なのである。これは、「病ではないのでつけるクスリが無い」と言われてしまうのである。

三.構成不備
 目次を見てわかるように、目に付くのは、論文系に必須の構成の不備である。
 各論は、本文に順次述べるとして、冒頭には、第一章に先立ち、準拠テキスト、執筆方針などが開示される緒言に当たる段がないのが目次から見て取れる。
 自然科学系の論文では、冒頭に、概要、要約が示されるが、史学関係では、まず見かけないから、こんな相場かもしれないが、感心しないのは間違いない。
 また、結論部に当たる段も存在しないし、謝辞も、参考文献一覧も、少なくとも、目次に見当たらない。

 いや、実際は、それぞれ、どこかに書かれているというかもしれないが、目次などから見て取れないのである。「読者は難路の道ばたの石ころまで、全部、身を以て確認せよ」というように見える。
 繰り返して言うが、本書は、天下の講談社の随分豪勢な装丁の硬表紙本であり、どう見ても、当節ありふれている「書いて出し」の新書本では無いのである。

*小まとめ
 いずれも書籍としての品格・価値を損ない、総じて全て致命的である。いや、ただ単に、書籍を構築するのが、下手だということに治まらないかもしれないと思うのである。書籍を商品と見ると、商品を形づくる技術が未熟で、かくも無様なゴミ屑を上梓したのである。(講談社編集者の怠慢というのは、妥当かどうかわからないが、そのように非難されても、名前を曝された担当者に逃げ道は無いのである)

 敬愛する白川静師は、七十四才にして教職を辞して本格的に著作を開始し、二十年余に亘り膨大、かつ、燦然たる業績を残したから、著者は手遅れではない。(なかったというべきか)

 と言うことで、以下、順次批判していくことになる。

 いや、さすがに嫌気が差して、2023年版は、ここで筆を擱くのである。
 後続のページは、検索参照されて、よい子の目に触れ、悪弊を蔓延することがないように、公開停止したので、あしからず、ご了解いただきたい。

以上
                                         未完

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 再掲 1/3

邪馬台国問題の論争点について  2019/02/17 補充 2022/02/18 05/30 2023/07/03
私の見立て ★★★★☆ 必見         「日本歴史」349号 (1977年6月)

*総論
 氏の論考は極めて篤実で、捨てがたい卓見ですが、採用史料の評価に同意できない点を含み、多大な論考の結論であっても、同意できないのです。今さら、ここに書評するのは、氏の古典的な論考ぶりが、今でも、同様の趣旨で継承されているからです。
 陽だまりの大樹にも実生の時代があったのであり、せめて、人の手の届く低木の時代に、このようなあからさまな傷を癒やしていれば、今日の巨木になって、大きな欠陥を人目にさらすことはなかったのにと、惜しまれるのです。まことにもったいない話です。

*不吉なタイトル
 その一端は、タイトルに表れていて「魏志倭国伝」は、氏の言う「通行本」(紹凞本)の小見出しに符合せず「倭人伝」書き出しにも整合しません。論文として、最低限の考査も加えられていない表れとみられてしまいます。

*「魏略」批判欠如~「翰苑」は論外
 通行本に並列の二史料の第一、「魏略」は現存せず、他史料に引用の佚文、つまり、ひ孫引き等された断片の集成に過ぎません。(衆知の如く、魏志第三十巻の巻末に裵松之によって補注された魚豢「魏略」「西戎伝」は、伝全体の良好な写本が挿入されていて、佚文などではなく、ここで言う「魏略」批判の対象外です
 つまり、無造作に「魏略」というものの、実態は、それぞれの断片の健康状態次第であり、いずれにしても、佚文である以上、「魏略」原本の忠実な再現かどうかは、大いに疑問です。(再現の筈がないと断言しているのです)

 特に、ここで提起されている倭人伝部分の依拠する「翰苑」の所引記事は、そもそも、「翰苑」 自体が、適切に編纂された史書などではなく、「倭」関連部分に限って言えば、明白な誤解、誤記を、非常に多く含み、編纂者の資料の取扱が、不正なものではないかと大いに疑われますが、本来、原本に囚われない自由な引用と見えるので、史学の視点で言うと、大変粗雑な引用と思われます。
 早い話が、野次馬の聞き書き同然で、支離滅裂だという事です。
 三木氏が、素人目にも明らかな難点を審議しないままに、氏の論拠とするのは、むしろ失態に近いものと見えます。

*「御覧」批判欠如
 その第二、所引本は太平御覧(御覽)に引用の「魏志」です。
 世上、誤解が出回っていますが、「御覧」は史書ではない類書であり、編纂時の引用、記事承継に加えて、編集が施されていて、史料の正確さに関して、全く信頼できないと言わざるをえません。
 榎一雄氏の考察によれば、「太平御覧」は、先行する複数の類書に依存した編纂物であり、「御覧」の編纂自体、実に数多くの所引担当者を動員した大事業と見えるので、信頼性の面で大いに疑問があります。
 榎一雄著作集 第八巻「邪馬台国」 巻末の「太平御覧に引く三国志について」に、書誌学的考察とともに、史料の精査に基づく、精緻な考察が展開されている。

 これに対して、「三國志」は、史官としての訓練を受け、史官の使命で動機づけられていた陳寿が、専念して史書として編纂して完成稿を遺し、没後の上程後は、歴代皇帝の蔵書として、適確に継承されていた、検証済みの史書です。
 後に、劉宋史官裴松之が、陳寿の編纂の簡潔さに不満な劉宋皇帝の指示で、陳寿が割愛した稗史の類いまで採り入れて補注した「裴松之補注三国志」を編纂していて、今日、この形態が、陳寿「三国志」の決定版と誤解している例が多いのですが、大変な誤解であり、「所引三国志」が、裴松之付注記事を、無造作に「三国志」本文に取り入れているのは、史料改竄の不祥事とみるべきです。

 いずれにしろ、氏の議しているのは、蟻が富士山に背比べを挑むようなものであり、それだけで、氏の奉じる史料批判の信頼性が大きく損なわれるものと見えます。

 「御覧」上程以後に限定しても、「御覧」も絶対不朽の継承が検証されているわけではなく、「三国志」同様に、北宋末、侵入金軍によって、中原から長江流域に至る全土での「諸書(経書、史書、類書)及び版木の全面的破壊」の被害を受け、南宋が、国の権威をもって、各地に遺存していた写本から原本回復を行った結果、今日の「御覧」の南宋刊本が得られたものであり、史料としての信頼性としては、少なくとも、同様の依存史料から復原されたと思われる「三国志」に対する批判と同等の批判を克服する必要があると思えます。

 国内史学界で陳腐化している、つまらない言い草の繰り返しを論じるのは、誠に鬱陶しいのですが、「太平御覧」の原本は現存せず、原本を読み通した者も現存しない』のです。そして、最良の刊本は精々南宋期のものでしかないのです。肝心なのは、南宋による復原努力の成果であり、原本が現存しないこと自体は何の根拠にもならないのです。子供の口喧嘩に似た、無意味な言説は、発言者の氏ら用を損ねるので、慎んだ方が良いのではないかと愚考します。

 見かけない議論ですが、所引魏志に云う「耶馬臺國」は、⑴所引者の見た魏志の正確な引用なのか、⑵「邪馬壹国」(通行本由来)ないしは、⑶「邪馬臺国」(後漢書)の何れなのか、三択状態にあり、結局、より信頼性に乏しい後代史料によって、信頼性の卓越した通行本を批判しているのです。余りに、後代史料の正確さに対する信頼性が低いのです。

 素人目にも明らかな難点を審議しないままに、論拠とするのは、むしろ失態に近いものと見えます。

*両史料の信頼性評価
 まとめると、「魏略」には、かなり厳しい批判が必要であり、所引魏志(「御覧」所引魏志)にも、しかるべき史料批判が必要/不可欠であり、両史料が通行本に優越するとは(絶対に)言えません。

*先人評価~風に揺れる思い
 ちなみに、冒頭に二重引用された末松保和氏の評言は、
 所引本は、当時の三国志原本(意味不明)からの引用、要約と認めつつ、
 通行本では「侏儒国、躶国の記事を含む一節が不自然な位置と考えられ」るが、
 所引本では、「より自然と認められる位置にある」、及び
 主要国の路程などの順序が、所引本では「比較的整頓され」ているが、
 通行本は「実に支離滅裂(意味不明)
 と見た上で、所引本は、(魏志の)「本来の形」であり、所引本魏志は、通行本魏志と「系統を異にする別本」、と推定口調とは言え実質的に断定しましたが、三木氏は、前段の路程などの記述順序評価は不当と認めつつ、後段は妥当と認めているようです。(「意味不明」は、当記事での追記です)

 このあたり、論理が大きく動揺していて、とても、筋の通った推論とは見えないと申し上げざるを得ないのです。

 「所引本」に対して、史料批判、検定を受ける前から、つまり、著者の深意が知られないうちから、その記述内容について評価するのは、本末転倒の錯誤です。

                               未完

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 再掲 2/3

邪馬台国問題の論争点について  2019/02/17 補充 2022/02/18 05/30 2023/07/03 
私の見立て ★★★★☆ 必見 「日本歴史」349号 (1977年6月)

*「御覽」編者の重い使命~Mission of Gravity
 「御覽」編者は、当時の教養人が一読して意味が通る滑らかな記事を書くよう指示され、その問題に時代一流の解を提示したのですが、その際、原文をいわば「誤解」して、それを、滑らかな漢文に書き上げた(書き換えた)と見るものです。

 従って、氏の史料評価は観点が交錯しています。言うならば、史料に現代人にとって読み取りやすい表面的な明快さを求めるのか、深く掘り下げて古代人の文意を発掘し明快な解釈を見出すのか、方針の違いです。

*堅実な論文構成
 提示資料の史料批判をここまでにして、本論の批判に戻ると、三木氏は、先行論考を検証する意図で、ここに、自身の論考を着実に展開していて、その点、堅実な学術論文であると感じます。

*写本継承系統複線化仮説

 氏は国内史書の写本がいくつかの写本系統で継承される過程で少なからぬ(多大な)改変が生じたことを意識してのことでしょうが、中国正史は、歴代王朝「国宝」として、厳重に管理、保全されていた「三国志」「原本」の厳正な、つまり、人員、経費、所要期間に囚われない「正確な継承」が最優先され、世上流布していたと想像される下流、派生写本の改変が、「原本」に一切遡及しない仕組みが維持されていたことを、随分軽視しているように思われます。

 河水(黄河)下流、河口原での分流に見られるように、一度、扇状地に放たれた奔流は、果てしなく分岐派生し、南北に隔たった小河口でそれぞれ海に注ぐのですが、大河の上流は依然として揺るがないのです。
 下流の派生を見て、上流に揺らぎを見るのは場違いな幻想です。

 引き合いに出された末松氏も、「別系統」で複数の正史原本が継承されていたと示唆し、南北朝期などの輻輳を想定したのでしょうが、中国の正統観から言って、各王朝が自己流の正史を蔵書していたとは思えないのです。特に、ここであげつらっているのは、「三国志」の中でも「魏志」末尾の細瑾に過ぎない「倭人伝」の論義であり、就中、道里行程記事を解読した上で、自己流に手を入れるなど、あり得ないでしょう。素人目には、何か、壮大な神がかりを思わせるのです。

 と言うことで、当方の素人考えは、たまたま、古田武彦氏の正史観と一致しますが、前提として、通行本は正史の(同時代史料群を相対評価して)最も正確な継承と見るものです。ただし、しばしば揶揄されるように神聖不可侵などと言うものではないのです。
 どんな人、著作にも、欠点はあります。
単に、信頼性随一の原点として共有し、その「岩盤」を基礎として、以下の議論を構築しようというものです。

 仮に、聡明全知の後世人が、不出来、不首尾な記事と見ても、後代視点から、正史の記事を改訂、ないしは、読替えすべきではないのです。砂上楼閣はご免です。いや、当世の現代人は、三世紀基準で言えば、無教養の東夷である以上、同時代の知識人より、時代の実相に詳しいことなど、到底あり得ないと思うのですが、現代人は、中々そう思わないようです。

*孤証の誹り
 氏は、本資料の中で通行本が孤立している、孤証であるとの主張を述べていますが、それは、先に述べたように、他の二史料に分に過ぎた信を置いているからであり、評価基準が適正でなければ、いくら適正な手順を採用しても、正確な結論、というか、信用できる判断はできないのです。

 言い方を変えれば、史料評価は、標本の数や字数の多少で左右すべきでない、と思うのです。それとも、収録史書の総重量、目方で行くのでしょうか。それなら、御覧」の大勝でしょう。

                                未完

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 再掲 3/3

邪馬台国問題の論争点について  2019/02/17 補充 2022/02/18 05/30 2023/07/03
私の見立て ★★★★☆ 必見 「日本歴史」349号 (1977年6月)

*また一つの我田引水
 残念ながら、氏は、特定の史観の学派に党議拘束されているのか、多大の議論を、一定の目的意識/使命感に背を押されて進めていて、客観的な論証から逸脱した我田引水に労力を費やしていると見え、大変痛々しいものの、少なくとも、その判断の根拠を明示しているので、学術的な錯誤とまでは言わないのです。

*傾いた道しるべ
 そういう視点で見れば、三木氏の本論への取り組みは、若干倒錯しています。
 明らかに、今回の論考は、到達点として、列記された課題を掲げて始まり、終始、そのような「青雲」を目指して道を選んでいるから、道が曲がっても躓き石があっても、ものともせずに、正義の旗を高々と掲げて、断固直進したとみるのです。

 いや、それは、氏だけではないのです。少なくとも、古代史学界では、大抵の論者がいわば天命に即して苦闘していて、そのような取り組みが、往々にして、結論に合わせて経路を撓める経過を辿っていて、ときに、岩脈に素手で洞門を掘り抜いているのですが、大命を背負っていない素人は誠意を持って指摘するのです。
 三木氏が、先に挙げた参照資料の難点を意識外として、字面に沿って考察したのは、そのような背景からでしょう。
 燦然と輝く道しるべは、既に傾いていたのです。

 客観的な考察は、それ自体が学術的な成果ですが、課題必達型の主観的な考察は、自ら、学術的な価値を正当化できず、却って貶めているようにも見えます。いや、真摯な論考をこうして批判するのは、大変後ろめたいのですが、「曲がった」論考がなぜ曲がったか、率直な意見を呈して、学会に関わりの無い、一介の私人たる素人が、古代史学に貢献できればよいと考えるのです。

*風化した雄図
 氏が提示した以下の結論は、そのような議論を支持する論者には大いに歓迎されたとしても、氏の雄図はむなしく、本論公開時点以来、四十年を経て、依然として、単なる作業仮説に留まっています。もったいないものです。

 論争を終熄させるべき時宜を失し、執拗な風雨に正論の松明が負けるように、風化してしまったのでしょうか。真摯な論争が途絶えたように見える現時点では、こうした三十~四十年を遡る真摯な論文が必読資料と見て、辛抱強く発掘しては、紹介旁々、持論を宣伝しているのです。

 天に届く劫火に手桶の水を柄杓(卑の字義)で手向けるに過ぎないかも知れませんが、手桶の水の微力にも、微力なりの効果があると信じているのです。

*解けない問題を解くために
 以下、掲げられた成果から見て、三木氏が掲げた下記の正否は素人目には明白ですが、どのような課題を自らに課すかは、各論者の専権事項であり、批判/論義の対象外です。ですから、いちいち批判は加えません。ここで批判しているのは、考察の客観性の蛇行なのです。

    1. 邪馬台、邪馬壱論争は邪馬台国の名称が正しいこと。
    2. 倭国乱の時期は霊帝光和中であること。
      中国使節は卑弥呼に拝仮したこと。
    3. 邪馬台国までの行程記事は直進的に読むこと。

 と言うものの、世上、邪馬台国論争は混迷を続けているとか、なかでも、所在地論は、千人千様であるが悉く間違っている」とお見通しであるとか、数限りない野次馬の嘲笑罵声を浴びせていますが、それは、議論の立脚点を固めないままに当て推量を積み重ねて、ここに唱えられているような砂上の楼閣を高々と築き上げたからだと感じる次第です。

 二十一世紀、令和の時代、半世紀どころではない太古の原点に戻って、問題の読み方から考え直すべき時代が来ているように思量します。

                               完

2023年7月 2日 (日)

私の所感 岡上佑 「魏書倭人伝の究明」「サンプルファイル」読後感 1/2

 「魏書倭人伝の究明」「サンプルファイル」                                               2023/07/02

◯書評ならぬ所感の披瀝
 本稿は、YouTube講義で、令名をはせている氏が、快く公開されている「サンプルファイル」に対する「所感」である。
 部分引用もしていないので、興味のある方は、クリックいただきたい。
 因みに、氏のYouTube講義は一通り拝視聴したが、厖大でつかみ所が無いので、ここでは、締めの効く文字史料批判とした。

*王沈「魏書」幻想譚
 筑摩版「正史三国志」の付記によると、「『魏書』:王沈・荀顗・阮籍編。魏の末期に成立したが、晋を建てることになる司馬一族におもねっているため、陳寿に劣ると言われている。甄皇后の項目では、……明らかに事実と異なった記述をしているので裴松之から叩かれている。」

 そもそも、王沈「魏書」は、当代皇帝とその父という、神聖不可侵の存在の治世を公式史書に綴るという無謀な著作として開始したので、「おもねる」も何も、端から阿諛追従、ウソ八百となっているのは明らかである。

 但し、明帝曹叡の早世により即位した少帝曹芳は、司馬懿の権力奪取によって形骸化したので、憚ることなく皇帝批判できたと見える。少帝曹芳は素行不良と弾劾され皇帝の座を追われたが、司馬氏の画策/造作と見える。以後、司馬氏の排除を図って殺害された皇帝もあり、事実上、明帝曹叡没後、曹魏は失墜したと見える。
 倭使は西晋文帝に参詣したと記録されている。陳寿が、最早、曹魏の国策でない倭の参上を、倭人伝に書き漏らしたのは、司馬氏に対する筆誅とも見える。もちろん、本紀に収録された記事の補足を、夷蕃伝に収録しなければならないという法はない。無意味な西域伝を割愛したくらいであるから、大したことではないのである。

*史官の面目
 司馬懿遼東征伐と並行して「明帝が指示して楽浪、帯方両郡を、魏皇帝の下に回収した」記事で、皇帝の指示で作戦を実行したのは、当然、明帝の信頼が篤かった幽州刺史毋丘儉であり、後に、司馬氏の専横に反抗挙兵して討伐、族滅となり、大功が隠蔽されたと見える。明帝臨終の場で、司馬懿は、継嗣曹芳の擁護を誓ったが平然と奪権したのと陳寿は対照している。
 つまり、「倭人伝」は、陳寿が毋丘儉の陰徳を書き遺したのであり、それ故、卑弥呼が顕彰されたが、毋丘儉が敗死し、卑弥呼が没した後の事績は、最早、「倭人伝」の主題から外れたものと見え、筆を止めたものである。

*王沈「魏書」評価
 「正史」は、本来、先行王朝の「史実」、公文書記録の集成であり、王沈が先例を無視して当代史書を書き起こした時点で、勝負は見えている。氏が、不法な史書を有力とする意図が不審である。陳寿「三国志」と異なり、王沈「魏書」は、三国鼎立時に曹魏の史書を書き残しているので、「正史」として不都合である。
 韋昭「呉書」が奉呈されたのは、西晋への降服時点であるから、王沈は、何も知り得なかったのである。また、「蜀書」は、蜀漢に史書記録がなかったため、陳寿が尽力して蜀漢公文書を元に編纂提出させたのであり、王沈「魏書」に未刊の「蜀書」は反映していない。
 王沈「魏書」は、「西戎伝」が、良好に保存されている魚豢「魏略」と異なり、ほぼ全滅しているので、論外ではないか。
 と言うことで、陳寿は、王沈「魏書」を閲読したであろうが、これを「剽窃」するなど、あり得なかったのである。この一点について、氏は、のらくら書いているのが、不都合極まりないから、いわば、いきなり「落第」である。
 当方は、「買わず」批判を嫌っているが、落第答案を、買い込む趣味はないから、氏の提示した「サンプル」はありがたい。金返せと言わずに済む。
 それにしても王沈「魏書」に、「倭人伝」があったとは、初耳である。

                                未完

私の所感 岡上佑 「魏書倭人伝の究明」「サンプルファイル」 読後感 2/2

「魏書倭人伝の究明」「サンプルファイル」                                               2023/07/02

*無定見の陳寿批判/誣告
 付随して、氏は、適当に、しきりに三国志編者陳寿を誹謗するが、根拠の無い誹謗は「誣告」であり、感心しない。物々しく資料解読して、不正確な飜訳でお茶を濁しては根拠にならない。

 氏は、陳寿が先行史料に忠実であるのを「剽窃」と誹謗するが、それは、「史実」遵守の史官責務を理解していない、後世東夷の無法な暴言である。氏は、「述べて作らず」の至言を知らないのか誠に不遜である。要するに、陳寿が原史料を尊重して、自身の加筆を最低限にとどめているのを理解せず、後世東夷の感性で断罪しているのである。陳寿は、氏の誹謗を知ることはなく、反論もしないから、言いたい放題だが、古代史論者として、それでいいのだろうか。

 まして、この発言は、陳寿が、「魏志」から、曹魏に偏した記述を極力排除し、「呉志」、「蜀志」の二部を合わせて、「三国志」とした途方もない難事に挑んだ「編集方針」を無視している。軽率なのか不明なのか、いずれか不確かである。

*「御覧所引」の怪
 続いて、千巻大部の「類書」「太平御覧」所引のいわゆる「所引魏志」を論じるが、榎一雄師が丁寧に解析したように、「太平御覧」は宋代に編纂完結したものの、唐末以来の「五代十国」分裂期に地方政権が国家事業として編纂したと思われ、以下、類書大要が承継されたものであり、いずれの時点で「所引」されたか、史料の変遷も含めて、誰も見たことがないので、一切不明である。

 要するに、いずれかの時点で、編集機関が入手した史料を引き写し、担当書生が要約短縮した断片であり、史料の品質や編集子の要約の的確さは、保証の限りでないと見るべきである。氏は、陳寿の著述を「粗雑」と言うが、氏が誹謗しているのは、ご自身の読解力、表現力の反映であり、良くある自爆発言と見える。そして、「所引魏志」の勝手気ままな縮約、改変は、粗雑をとうに越えていて、上には上があるものと考える。
 古人曰く、「割れ鍋にとじ蓋」である。

 「所引魏志」の発祥はいつのことか不明だし、だれも、その現場をみていないので、確言はできないが、生まれ落ちての腕白もののようである。ともあれ、初回所引時の元史料の現物が確認できない以上、その時点の陳寿「三国志」善本と対比の評価が不可能であり、史料として、参考にならないとみえる。せめて、劉宋裴松之の補注時に、まずは三国志原本が周到に校訂された時点を取っても、御覽草創時よりは、随分以前である。

 因みに、敦煌などの文書断片で論じられる三国志「呉志」らしき断片は、明らかに、数次の粗雑写本の成れの果てであり、誤字、誤写、写本者の主観による改竄によって、「三国志」善本から逸脱していると見えるから、それとは程度の差こそあれ、「所引魏志」の参照原本の時代善本からの粗雑な素人所引による逸脱が、確実に推定される。

*テキストクリティークということ
 このように、対象史料の品質を評価するのが、「テキストクリティーク」のイロハであり、散佚史料のカケラを眺めて、二千年近い年月、歴代王朝「国宝」として最善の努力で継承された陳寿「三国志」と対比して、適否を論ずるのは無謀である。

 「魏略」が、氏の思惑で宙空を泳いでいるが、魚豢は曹魏官人として公文書を閲覧し、「魏略」を編纂、執筆できたのであり、その筆の運びの強(したた)かさは、陳寿「三国志」魏志巻末に裴松之が補追したおかげで、良好に承継されている「魏略西戎伝」で知ることができる。後世東夷が、自身の視覚、聴覚、三半規管の健全さを検証せずに、「偏向」と喚くのとは、別の世界である。視点倒錯と言うべきか。

 因みに、衆知の如く、公文書を渉猟し史書編纂するのは、本来大罪であり、妻子親族が連座するから、後世まで生存した魚豢は、職務として公文書庫に出入りできたのである。
 と言うことで、魚豢は、時に、「前世」後漢代の西域史料の誤謬を指摘/校正するが、これは、史官の正史編纂の筆法と大いに異なるものである。

◯まとめ
 以上、氏は、大仰に論じるが、周知事項を見落として誤解を募らせているから、よくよく顔を洗って見直すのをお勧めする。粗雑な著作で、ご自分の顔に汚泥を塗りつけるのは、美顔術としても、程々が良いと愚考すると思う。

 以後展開される氏の思いつきは、根拠となるべき史料観の誤謬が如実であるから、氏の諸作は、到底代金を払って読むことができないのである。何しろ、泥沼と躓き石の連続では、多分、一歩ごとに、足元を確かめないと、読解のしようがないのである。

 とば口での、泥沼掛け流しの謝絶は、自衛手段であり攻撃手段ではない。
 以上、書評ならぬ、教育的指導である。
                               以上

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