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2023年7月25日 (火)

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 13/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*沈没論義
 古代中国語で、「沈没」は、せいぜい、腰から上まで水に浸かるのを言うのであり、水中に潜ることではないのです。因みに、中国士人は汗や泥に汚れるを屈辱としていたので、川を渡るのも裾を絡げる程度が限度で、半身を水に浸す「泳」や「沈」、「没」の恥辱は、断じて行わないのです。当時の中原士人は、大半が「金槌」で「泳」も「沈」 も、自死です。深みにはまらなくても、転ぶだけで「致命的」です。
 逆に言うと、当時の貴人、士人が、「泳」、「沈」、「没」するのは、自身の身分を棄てて、庶人、ないしはそれ以下に身を落とすことを言うのです。沓を濡らすのすら、問題外だったでしょう。
 因みに、当時の韓国は、概して、冬季の気温が低いので、夏季以外の「沈没」は、低体温症で死ぬものだったでしょう。

《原文…計其道里 當在会稽東治之東

*道里再確認~「道」無き世界 2023/01/18
 「其道里」は、記事の流れから、『郡から狗邪韓国まで「七千里」としたときの「万二千里」の道のり』という事であり、中国側の「万二千里」ではないことは承知です。むしろ、会稽の地が、洛陽から万二千里であるなどとは、全く思ってもいないのです。まして、魏、西晋代は、雒陽から東呉の領分であった東冶県までの陸上道里は、知られていなかったので、だれが考えても、対比することなどできないのです。とんだ、誤解の例でしょう。

 因みに、後世、劉宋正史である「宋書」州郡志によれば、東冶県が収容された建安郡は、「去京都水三千四十,並無陸」、つまり、時の京都、建康までの官道といっても、「陸」、つまり「陸道」は通じていなくて、「水」、つまり「水道」で三千四十里となっています。会稽郡治から東冶県に至る整備された陸上経路は存在しなかったとみるべきです。
 念のため言い添えると、陸上経路と認められる「街道」は、騎馬の文書使が疾駆でき、四頭立て馬車が往来できる整備された官道であり、所定の間隔で、関所、宿場があり、宿泊、食料と水に加えて、替え馬の提供まで用意されていることを言うのです。そのような整備ができていれば、宿場間の文書通信が確保され、帝国のいわば文書行政を支える動脈となるのです。案ずるに、建康と建安郡の間には、崖面に桟道が設けられていた区間が存在し、全区間が街道として整備されていなかったものと見えますが、人出で細々とつなぐ部分があれば、全体として「陸道」と認められず、従って、道里が定義できなかったと見えます。
 ちなみに、南朝時代以前の東呉時代、並行陸路が貫通していなくても、河川交通は活発であり、「水三千四十 (里) 」は、公式道里として認められていたことを示しています。

 三国志「呉志」に「地理志」、ないし「郡国志」があれば、そのように書かれたものと推定されますが、当時、曹魏の支配下になかった建安郡に関する魏朝公文書が無い以上、「魏志」に建安「郡国志」は書けないし、当然「呉志」にも書けなかったのです。晋書「地理志」に、なぜ書かれていないのかは、唐代編纂者の意向に関わるので意味不明です。

 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、九州北部ではなく、南方の狗奴国に関する記事と言うことなので、先ほどの道里論の「万二千里」は適用されず、「俗説」は、三国志全体を探っても書かれていない架空の道里に基づいていることになります。
 「倭人伝」に還ると、「周知の会稽東治之山から見て、狗奴国は漠然と東の方向」になるらしいというに過ぎないことになります。道里を明記されている伊都国については、言及していないことになりますが、当然、漠然と東の方となるものと思われます。

*不可視宣言~存在しなかった呉書東夷伝~余談
 大体、魏の史官にしたら、東呉の領域内である会稽郡東冶県の具体的な所在は皆目不明であり、一方、位置不明の南方の史蹟「会稽東治之山」から見た「倭人」なる僻遠の東夷の王之所在など、わかるはずもなく、知る必要もないと言われかねないのです。いや、だれが何をしても、到底東呉との関係は見えないのに、なぜ、臆測を言い立てるのか、と言う事でもあります。
 古来、そのような南方に土地が延びていれば、東呉領は、ほんの対岸だから、狗奴国ないしは書かれていない周辺の南方異国が連盟しようとした/実際に連盟したという「夢想譚」がもて囃されることがありますが、「三国志」は、東呉が降伏の際に献上した「呉書」が、ほぼそのまま「呉志」となっているように、東呉が狗奴国と連携していれば、「呉書」に書かれていて、臆測など必要がなかったのです。
 因みに、「呉書」に、南蛮伝、西域伝、東夷伝がなかったのは、ほぼ間違いなく、「俗説」は、臆測を担ぎすぎていると見えます。いや、そのようなことは、二千年前から、周知なのですが、倭人伝」道里記事が、間違いだらけだと言うためだけに、担ぎ出されているようです。

コメント:倭地温暖
 再確認すると、魏使の実態は、帯方官人であり、大陸性の寒さを体感したかどうか不明です。また、雒陽は、寒冷地とは言えないはずです。もちろん、床下で薪を焚いて、家屋を温める暖房が必要な帯方郡管内、特に、小白山地付近の冬の寒さは格別でしょう。因みに、奈良県奈良盆地南部、吉野方面の寒さもかなり厳しいので、気軽に肌脱ぎ/水遊びなどできないのです。

*夜間航海談義
 何が言いたいのか不明の千二百年後のフロイス書簡ですが、いずれにしろ、当該時代には、羅針盤と六分儀、そして、即席の海図を頼りの外洋航海で、夜間航行も不可能ではなかったでしょうが、太古の「日本人」は、命が惜しいので、明るいうちに寄港地に入り、夜間航行などと無謀なことはしないのです。いずれが現地事情に適しているかは、視点次第です。
 因みに、三世紀時点、磁石は全くなく、当然、船の針路を探る高度な羅針盤もありません。また、三世紀の半島以南に、まともな帆船もなかったのです。何しろ、当時の現地事情では、帆布、帆綱などに不可欠な強靱な麻が採れないのです。また、木造船を造りたくても、鋭利な鋼(はがね)のノコギリもカンナもないのでは、軽量で強靱な船体は造れず、夢想されているような帆船の横行は、無理至極の画餅です。少なくとも、現地では、数世紀、時間を先走っているのです。

*貴人と宝物輸送隊の野宿
 ついでながら、魏使は高位の士人なので、軍兵と異なり、「野宿」とか軍人並の「キャンプ」「野営」などしないのです。それとも、魏使といえども、一介の蕃客扱いだったのでしょうか。氏の想像力には敬服しますが、文明国のありかたを勘違いしてないでしょうか。貴重な宝物を託送された魏使の処遇とは思えないのです。まして、国家の郵亭制度が、無防備の「野宿」に依存するはずがないのです。
 因みに、当時の中国に外交は無いので「外交官」は存在しません。魏使一行は、軍官と護衛役の兵士、合わせて五十人程度と文官ならぬ書記役です。つまり、魏使一行が、延々と、果てしない野道を長駆移動することなど、あり得ないのです。

コメント:方位論の迷走
 この部分は漫談調で失笑連発です。氏の読み筋では、魏使は、大量の宝物を担いできているので、小数の魏使だけに絞れるはずがないのです。
 因みに、中国の史料で「実測万里」は登場しません。氏は、しばしば、中国文化を侮っていますが、魏使には書記官がいて、日々の日誌を付けていたし、現地方位の確認は一日あればできるので間違うことはないのです。もちろん、帯方郡からの指示で、現地方位は、日々的確に知らされたものと思われます。大勢の論客諸兄姉が、中国文化を侮っていますが、遅くとも周代には、天文観測が定着していて、日食予測もできていたので、手ぶらでできる東西南北を誤ることなどないのです。

コメント:誤解の創作と連鎖~余談
 引き続き、とんだ茶番です。魏使は、現地に足を踏み入れておきながら、「帯方郡から遥かに遠い、そして、暑い南の国だと思い込んだ」とは、不思議な感慨です。想定した遠路が謬りという事でしょうか。氏は、魏使一行が、大量の荷物を抱えていたことを失念されたようです。
 そもそも、雒陽出発時には、主たる経由地の到着予定は知らされていたのであり、それだから、大量の下賜物を届けるという任務が成立したのです。行き当たりばったりでできる任務ではないのです。

 なお、半島南部と九州北部で気温は若干違うでしょうが、だからといって、九州が暑熱というものではありません。単に「倭地温暖」というに過ぎません。この点は、次ページの新規追加コメントで詳解します。
 以下、「会稽東治」の茶番が続きますが、年代物の妄説なので、「ここでは」深入りしないことにします。

*吉野寒冷談義~余談
 因みに、奈良盆地南端の吉野方面は、むしろ、河内平野南部の丘陵地帯と比べて低温の「中和」、奈良盆地中部と比して、さらに一段と寒冷であり、冬季は、降雪、凍結に見舞われます。

 塚田氏は、奈良県人なので、釈迦に説法でしょうが、世上、吉野方面は地図上で南にあるので温暖だと見ている方がいて、後世、吉野に離宮を設け、加えて、冬の最中に平城京から吉野の高地に大挙行幸したと信じている方がいて、唖然としたことがあるので、一般読者のために付記した次第です。率直な所、いくら至尊の身とは言え、吉野の山中で、食糧、燃料の調達が可能とは思えず、耐寒装備も乏しかったはずなので、雪中行幸の随員一行に、かなりの凍死者や餓死者が出ても不思議はないのです。纏向や飛鳥に詳しい諸兄姉が、そうした凍死行記事にダメ出ししなかったのが不思議です。
 いくら、毎日新聞の高名な編集委員が、不出来な思いつきで紙面を飾るというのは、大変なことですが、現にあったことなので、「前車の覆るは後車の戒め」として、何事も、思い込みにこだわらず、十分な「ダメ出し」をお勧めするのです。
 つまり、この下りは、纏向付近の記事として、誠に、誠に見当違いなのです。

                                未完

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