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2023年7月25日 (火)

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 16/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*誰の報告?
 言うまでもないですが、ここで色々言っているのは、現地で言葉が通じる者達であり、当時、ごく一部の上流家族を除けば、戸籍がない上に、苗字も名前もわからないものが多くいて、そう言うものたちの本当の年齢は、当然わかるはずがありません。
 また、当時は、幼児や小児がなくなる例が多かったので、現代風の平均寿命(零歳新生児の平均余命)は、全く無効と思うのです。当然、「人口」も意味の無い概念であり、正しくは、「口数」ないしは「人頭」として勘定するものでしょう。要するに、地券を与えられて農地耕作を許可され/命じられ、収穫物の貢納を命じられている「成人男性」を数えるものなのです。

*場違いな引き合い
 倭人」の首長達は、ここで引き合いに出された「アンデス」や「コーカサス」を知らないので、文句を言われても困るのです。あえていうなら、このような後世、異世界概念は、編者たる陳寿の知らない事項なので、「倭人伝」の深意に取り込まれているはずは(絶対に)ないのです。私見では、古代史論には、同時代に存在しなかった用語、概念は、原則的に、最小限に留めるべきと信じているものです。
 そうでなくても、世上、俗耳に訴える「新書」類には、時代錯誤の用語解釈が蔓延していて、まるで躓き石だらけの散歩道ですが、ここで、善良な読者が躓いて転んでも、書いている当人には痛くも痒くもないので、論考を書き出す際には、登山道のつもりで足ごしらえして立ち向かうしかないのです。細々と口うるさい理由をご理解いただけたでしょうか。

*魚豢「魏略西戎伝」賛~知られざる西域風雲録
 因みに、魚豢「魏略」は、長く貴重な史書として珍重されたのですが、正史ではなかったので、千数百年の間に、写本継承の必須図書から外れ、散佚して完本は現存せず、諸史料への(粗雑な)引用/佚文が残っています。佚文は、引用時点の所引過程で謬りや改編が発生しやすい上に、所引先の写本過程での誤写が、正史など完成写本と比べて格段に頻発しているので、魚豢「魏略」の本来の姿を留めているか、大いに疑わしいものです。顕著な例が、所謂「翰苑」現存断簡所引の「魏略」であり、ほとんど史料として信用できる部分が見られない始末です。
 ただし、「魏略」「西戎伝」は、全くの例外です。陳寿が、『意義のある記事が無いとして割愛した魏志「西域伝」』の代用として、注釈無しに丸ごと補注されているので、魏志刊本の一部として、古代史書の中でも類例のない完璧な状態で、完全に近い形で現存しています。魏略「西戎伝」を侮ってはなりません。

 魏略「西戎伝」は、実質的に後漢書「西戎伝」であって、記事の大半は、亀茲に「幕府」を開いた後漢西域都護の活動を記録しています。後世の笵曄「後漢書」西域伝によると、西域都護は、後漢明帝、章帝、和帝期の西域都督班超が、前漢武帝時に到達した西域極限の「安息」東部木鹿城(Merv)に、副官甘英を都督使節として百人規模の大使節団を派遣しています。安息の東部主幹「安息長老」は、漢との外交関係締結を委任されていて、遙か西方のメソポタミアの王都「クテシフォン」から漢使の到着地である木鹿城メルブ要塞は五千里の彼方でしたが、東西街道と騎馬文書使の往来で運用していたので、後漢洛陽から二万里の地点を「西域極限」と再確認できたのです。

 班固「漢書」「西域伝」は、諸蕃王の居処を、一切「都」と呼んでいませんが、中華文明に匹敵すると認めた文明大国「安息国」には、蕃王居城と隔絶した「王都」なる至高の尊称を与えているのです。
 と言っても、これは、漢代公文書を収録した後漢代史官班固の基準であり、後世、さらには、東夷の基準とは、必然的に異なるので、安直に参照するのは、誤解の元です。何にしろ、古典語法で書かれた班固「漢書」の用語は、唐代教養人に不可解であったため、隋~初唐の学者顔師古は、班固「漢書」地理志への付注で、ほとんど一文字ごとに「飜訳」記事を書き付けていて、如何に漢字の解釈が深遠であるか示しています。当然、古代史書は、一般的に現代中国人には読解不能なのです。ある意味、日本人と大差ないという事もできます。

閑話休題
 安息国は、かって大月氏の騎馬軍団に侵略されて国王が戦死するなど打撃を受け、以後二万の大兵力を国境要塞メルブに常設していましたから、西域都護は、後漢の西域支配に常習的に反抗する大月氏(貴霜国)を、両国の共通の敵として挟撃する軍事行動を提案したものと見えます。(どこかで聞いた話しです)但し、安息国は、商業立国であり、取引相手を敵に回す対外戦争を自制していたので、漢安同盟は、成立しなかったようです。
 安息国は、西方の「王都」「パルティア」がメソポタミアで繁栄を極めたため、西方のローマ(共和制時代から帝政時代まで)の執拗な侵略を受け、都度撃退していたものの、敵国ローマがシリア(レバノン)を準州として、駐屯軍四万を置き侵攻体制を敷いていたため、既に二万の常備軍を置いている東方で、無用の紛争を起こす気はなかったものと思われます。
 安息国は、商業国であり、周辺諸国は顧客なので、常備軍を厚くして侵略に出ることは、ほとんどなかったのです。この点、先行するアケメネス朝のペルシャが、ギリシャに度々侵攻したのと、「国是」が異なっていたのです。

 といって、凶暴と思わせるほど果断な行動力で、西域に勇名が轟いていた後漢西域都督班超を敵に回すことのないよう、また、独占している東西交易の妨げにならないよう、如才なく応対したようです。まさに、二大大国の「外交」だったのです。
 つまり、班超の副官甘英は、軍官として威力を発揮することはなかったものの、外交使節としての任務を全うし、つつがなく西域都督都城に一路帰参したのです。

*笵曄不信任宣言~ふたたび、みたび
 笵曄は、後漢書「西域伝」で、両漢代西域史料には誇張があり、西方への進出を言い立てているが、実際には、安息までしか行っていない、条支には行き着いていないと達観していますが、一方、甘英が、遙か西方まで進出して、大秦に至る海港に望んだが、長旅を恐れて引き返したと創作しています。安息は、カスピ海の手前「海東」なので、確かに、甘英は、「大海」(カスビ海)対岸の「海西」条支(アルメニア)には行き着いてないのであり、大秦を目指したとされている地中海東部は数千里の難路の果てであり、カスピ海沿岸から遠くメソポタミアに至る領域を支配していた安息は、東方の異国である後漢の武官が、西方の王都を越えて、臨戦状態である敵国ローマの領分にまで進むことを許可することはあり得ないのです。当時、シリアは、ローマの準州となっていて、時のローマは、帝制に移行しても国是は変わらず、数万のローマ軍が常駐し、往年の大敗で、三頭の一角マルクス=リキニウス=クラッススを敗死させ、万余の兵士を戦時捕虜として東部国境メルブまで配流して終生東方の外敵に備えさせた「パルティア」への復仇と世界の財貨の半ばにも及ぶ「財宝」の奪取を期していたのですから、そのような敵との接触を許すはずがないのです。
 また、班超の副官が、そのような西方進出を「使命」としていたのなら、武人は、万難を排して「使命」を全うするのであり、正当な理由無しに「使命」を回避することは、死罪に値する非命なのですが、甘英が譴責を受けた記録はなく、もちろん、斬刑に処せられたことも記録されていないのですから、もともと、そのような進出の命令/使命は「なかった」のです。
 笵曄は、ここで、前項史書の縛りの少ない西域伝」に対して、明らかに史料(魚豢「西戎伝」)にない「創作」を施したのであり、これは、笵曄の遺した夷蕃伝は、史実を忠実に記録した史料として信ずることができない」ことを証しているものです。
 と言うことで、ここまで続いた余談は、実は、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」が、史実を忠実に記録した史料として信ずることができないと断罪する理由を示しているのです。当ブログ筆者は、著名な諸論客と違って、思いつきを、確証無しに大言壮語することはないのです。 

*魏志「西域伝」割愛の背景
 このように、遥かな「大海」カスピ海岸まで達した後、永列班超の引退に伴い、後漢西域都護は名のみとなったものの、魏略「西戎伝」は、後漢盛時の業績を顕彰し、粗略な所引の目立つ范曄「後漢書」西域伝を越えて、同時代西域事情の最高資料と世界的に評価されています。
 そして、続く魏晋朝期、西域都護は、歴史地図上の表記だけで形骸化していたのです。
 恐らく、後漢撤退後の西域西部は、「大月氏」の遺産である騎馬兵団を駆使する「貴霜」掠奪政権が跳梁するままになっていたと思われますが、魏略「西戎伝」は、そのような頽勢は一切記録していないのです。
 ということで、結論として、陳寿の魏志編纂にあたって、「西域伝」は、書くに値する事件が無かったため、謹んで割愛されたのです。要するに、「西域伝」を書くと、曹魏の無策を曝け出すことになるので、むしろ、書かないことにしたと見えます。それが、「割愛」の意味です。

《原文…其俗国大人皆四五婦……尊卑各有差序足相臣服
 以下略

*まとめ
 長大な批判文に付き合って頂いて恐縮ですが、単なる批判でなく、建設的な提言を精一杯盛り込んだので、多少なりとも読者の参考になれば幸いです。
 一語だけ付け足すとすると、倭人伝は中国正史の一部であり、中でも、有能怜悧な陳寿が生涯かけて取り組んだ畢生の業績なのに、国内古代史論の邪魔になるからと言って、根拠の無い誹謗を大量に浴びて、汚名を背負い込まされ、後世改竄の嵐に襲われているのが、大変不憫なのです。

*自由人宣言
 当記事の筆者は、無学無冠の無名人ですが、誰に負い目もないので、率直な反論記事を書き連ね、黙々と、支持者を求めているのです。

*個人的卑彌呼論~「水」を分けるひと
 思うに、女王卑弥呼の「卑」は、天の恵みである慈雨を受けて、世の渇きを癒やすために注ぐ「柄杓」を示しているのであり、卑弥呼は、人々の協力を得て「水」を公平に「分け」、普く(あまねく)稲の稔りを支える力を持っていたのですが、今に伝えられていないのです。
 「卑」の字義解釈は、白川静氏の「字通」などの解説から教示を受けたものです。字義から出発して、卑弥呼が「水分」(みずわけ)の神に仕えたと見るのは、筆者の孤説の最たるもので、誰にもまだ支持されていません。

 いろいろ訊くところでは、卑弥呼の神性を云々すると「卑弥呼が太陽神を体現している」との解釈から、天照大神の冒瀆として攻撃されるようなので、これまでは公言を避けたものです。年寄りでも、命は惜しいのです。

 私見ですが、卑弥呼は、あくまで現世の生身の人であり、神がかりも呪術もなく、「女子」(男王の外孫)にして「季女」(末娘)として、生まれながらに託されていた一族の「巫女」としての「務め」に殉じたとみているのです。恐らく、陳寿も、ほぼ同様の見方で、深い尊敬の念を託していたと見るのです。
 倭人伝」には、卑弥呼その人の行動、言動について、ほとんど何も書かれていないわけですから、人は、自身の思いを好き放題に仮託しているのです。もし、以上に述べたこの場の「卑弥呼」像が、読者のお気に入りの偶像に似つかわしくなくても、それはそれでほっておいて頂きたいものです。
 別に、言うことを聞けと躾けているのではないのです。「ほっちっち」です。本論著者は、何を言い立てられても、論者の「思い」には入れないので、寛大な理解を願うだけです。

                                以上

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