新・私の本棚 榎一雄著作集 第八巻 「邪馬台国」 御覧所収魏志 増補 2/5
汲古書院 1992/5
私の見立て ★★★★★ 不朽の金字塔 必読 2019/07/13 記 2022/09/02 補充 2023/07/03
*歪んだ三国鼎立図式 個人的余談
かくして、南朝陳と北朝齊(北斉)、周(北周)の三国鼎立と言っても、長安を中心とした関中と南方の蜀を版図とした西の大国周(北周)が巨大で、不均衡、つまり、不安定でした。
*北齊国情概観~亡国の暗君
その後、時代は急転し、「齊」は、暗君失政により、『修文殿御覧』直後のCE 577に亡国となりました。
まずは、重鎮にして猛将の斛律光(CE 515-572)を粛正して、「齊」は中原の覇者であるから蛮勇を捨てたと宣言し、次いで、舞楽「蘭陵王」で知られる英雄であり、国軍の支柱であった従高長恭(CE 541-573)に賜毒し、軍の両翼を自らもぎ取る愚行を犯したので、強大な「周」に対抗できるはずは無く、程なく「齊」は亡んだのです。
鼎立は、いまや、南朝領域の一部、建康周辺に収縮した「陳」と残る大半を支配する「周」の南北朝二国対立に転じたものの、幼帝に継承された「周」は、重臣楊堅に国を奪われ、北朝は隋文帝楊堅による統一「隋」を得て、弱小国「陳」の討伐に向かったのです。
「隋」文帝は、「陳」を滅ぼし全国統一した際に、膨大な南朝文物を悉く持ち去り、中国文明の正統である北朝天子に反逆した南朝歴代の墳墓を破壊し、三世紀近い東晋・南北朝諸国の陵墓は、現存していないといいます。
少し時代を戻すと、内外紛争の絶えない時世の「齊」の文化事業は、恐らく、漢人官僚の雄図とみて敬意を払いますが、後の統一王朝「隋」、「唐」に比べて、国力が大いに劣り、人材も遠く及ばなかったと思われます。
*西晋滅亡流亡~道草
振り返ると、「西晋」(CE 265-316)の滅亡時、北部の異民族が大挙侵入した際に、帝都洛陽の官人、つまり、当時最高の教養人、芸術家、さらには、職人の多くは、あるいは逃亡し、あるいは略奪を恐れて身を隠し、中原が、「魏」、つまり、「後魏」ないしは「北魏」の支配下で安定し、中原国家への移行を望んだ「北魏」の中華文化振興策がこれらの隠れた文化人を呼び戻すまで、中華文明は、専ら「東晋」(CE 317-420)、および継承した歴代の南朝諸国に委ねられたのです。
*余談~百済祢軍墓誌由来
「西晋」滅亡時、漢蛮関係を主管した鴻臚官人等が、親交のあった百済の勧誘を受け、山東半島経由で渡海亡命したようです。
見事な墓誌で知られる百済禰氏一族は、その際に亡命、移住して、代々百済王の幕僚として重責にあり、南朝歴代との濃密な交流を進め、中華文明の導入を支えたようです。
あくまで、個人的夢想ですが、帯方郡時代に韓国以南で敷かれていたと思われる「短里制」を廃し、再測量、土地台帳更新を歴て普通里、つまり周里制として、中国の制度に帰した大事業が行われたと無理矢理仮定すると、中核となって推進したのは、亡命西晋高官の働きと思えるのです。
とかく、感情的な反発が懸念される話題ですが、所詮「夢想」ですから、反論されると困るので、感想にとどめて戴ければ幸いです。
時を経て、「唐」の「百済」討伐の時、百済の高官であった「禰軍」は、「唐」の要請に応じて、先だって中原に復帰し「百済」国王に降伏を求める軍使となったようです。
このように「百済」平定の国業に尽力した「禰軍」を顕彰する墓碑には、古典書籍に依拠した厳選の麗句を連ねた美文が綴られたのです。
近来、墓誌に「日夲」の二字が見えることから、中国に於いて、「日本」が知られていたとする論義が見られますが、「禰軍墓誌」制作の当時、唐京師長安界隈に「日夲」を知る人もなく、また、先立つ古典用例がないことから、素性不明の「日本」国号が書かれるはずはないのです。
そこで、「日本」の二字並びを一語と読むのは錯覚であり、墓碑を正確に読み取れば「日本」は消え失せるというのが、別記事の主題です。いや、本記事に於いては、やや道草ですが、大事なことなので再録しました。
◯唐代 『芸文類聚』『文思博要』の背景
「西晋」瓦解(CE 316)以来三世紀近い分裂時代を経た天下は、「隋」(CE 581-618)に統一され、「隋」を継いだ「唐」(CE 618-907)が全国政権となったのです。いや、史家によると、「隋」は、北朝を統一した後、南朝「陳」を滅ぼしたものの、天下統一はできていなかったとの厳しい評価があります。
赫々たる全国政権を確立した「唐」の諸皇帝は、京師長安を文化活動の中心として、当代随一の教養人、芸術家、職人を招集し、散逸していた諸文献を集成し、中でも、世界帝国に相応しい二類書『芸文類聚』百巻(CE 622-624)、『文思博要』千二百巻(CE 641)を編纂したのです。多大な時間を投入した類書編纂事業を核として、永久政権の基盤作りをもくろんだのでしょう。
宮崎市定氏によると、中国は唐に於いて古代から中世に進んだようで、このような有様は、まことに中世の開幕と呼ぶに相応しい堂々たるものです。
未完
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