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2023年7月 7日 (金)

倭人伝随想 さよなら「野性号」~一九七五年の実証航海 (補) 3/3

                     2020/01/31 2021/10/24 2023/07/06
⑷ 漕行は「海の駅」なしに運用不可能です
 衆知のように、現地水先案内なしに多島海航行は不可能です。進路案内とともに、岩礁や浅瀬の案内が航行に不可欠です。

 大型の帆船なら、備え付けの艀(はしけ)を下ろして、泳ぎの達者な海辺育ちの水夫(かこ)に偵察させる手もあったでしょうが、便船は、元々小舟だから瀬踏みのしようがありません。海を読み誤って、座礁、沈没すれば、乗員、乗客、積荷、全てが海のもずく、いや、もくずです。

 つまり、漕行運用には、要所で入港し、漕ぎ手を変え、土地勘のある案内人を載せるためにも街道宿「駅」並の宿泊施設と食糧供給体制が必須ですが、三世紀時点、半島西岸、南岸に、そのような連綿とした港運体制が存在したという証拠はあるでしょうか。

*無類空前の「海路」はあったか
 気軽に「海行」、「海道」、「海路」と無邪気に書き飛ばす人がいますが、官道なら、さらに港ごとに差配役を置き郡との文書交信が必須です。魏武曹操が、帝国に文書交信を再構築した魏制下の帯方郡を見くびってはなりません。

 そもそも、韓国領域に海の官道体制があれば、韓伝に記録される筈です。天下無類、空前の「海道」は、魏朝の画期的業績として残されるはずです。
 そのような「海道」が半島内の「陸道」より物資運送に優れていたなら、後世の新羅は、高句麗、百済の西岸角逐の漁夫の利とは言え、国富を傾け、多大な犠牲を要した軍事行動で漢城獲得の挙に出なかったはずです。

〇総括
 要するに、三世記、洛陽を発した魏使一行は、山東半島から、易々と渡海して、帯方郡に荷物陸揚げ、引き継ぎ方々、魏使の任務を郡官人に委嘱し、郡が、陸送手順を整えているのを確認した上で、帰途に就いたと見るものです。くれぐれも、以上の論義を聞き分けていただいて、後世の学習者に、とんでもない重荷を押しつけないことです。誤解の申し送りは、ご勘弁いただきたいのです。

 それにしても、冷静に考えれば海峡漕行は史実であり、実証は不要です。沿岸航行すら、数世紀後には実現していますから、喫緊の課題は、沿岸漕行の「同時代での実現性」なのです。くれぐれも、「問題」の「題意」を勘違いしてはなりません。
 そのためには、「海道」体制の考古学的実証、つまり、遺跡、遺物、文献による確認があって、初めてさらなる考察ができるのです。

*遠慮のかたまり
 ところが、当時の「実証」は、「やればできる」の信条表明(Credo)であり、運用の「実証」に欠けていて、むしろ失敗事例と見えます。
 いや、文章読解は人によって異なり、成功と解した方も多いでしょうが、理詰めで追いかけるとそう見えないのです。かなり苦しい実証試験故に、関係者の絶大な努力が結集され、それ故に、関係者が不愉快になりかねない、否定的意見を含む率直な総括ができなかったと思われます。
 今回、もはや遠慮は時効と批判稿を上げたのです。もっとも、関係者の方々は、現場も報告書も見てない素人のたわごととして一蹴できるでしょう。

〇参照資料
日本の古代 3 海を越えての交流 9 古代朝鮮との交易と文物交流~海峡を越える実験航海[東 潮]中央公論社 1986(昭和61)年4月刊
 1975年の仁川(インチョン)~博多港「野性号」実験航海概要です。仁川~釜山(プーサン)は漁師十人交替八丁櫓漕ぎとした一方で、核心の釜山~博多「海峡越え」は、大学カッター部員二十人交替の十四丁オール(Oar)漕ぎで、釜山までの航海術本位の構成と隔絶した「力業」本位が見て取れます。
 但し、乗船待機の屈強なアスリート6名が、仮想乗客/荷物500㌔㌘の想定かどうかは不明ですが、本記事の成り行きとは関係無いので、追求はしません。

*補足 2023/07/06
  読み返して、当記事では、倭人伝行程道里記事が、正始魏使の行程報告でない』ことを主張する余り、正始魏使の行程に関する考察が疎かになってしまいました。
  ここに補足すると、正始魏使は、大量の下賜物、主として、百枚の銅鏡を輸送するために、山東半島東莱の海港から、対岸、恐らく後世、統一新羅時代に海港として常用された唐津(タンジン)で荷を下ろし、以下、陸上街道の輸送に切り替え、小白山地を越えて、南下し、狗邪韓国の対馬間に至ったものと考えますが、記録が残っていないので、これに固執するものでは有りません。
 あえて、山東半島東莱の海人の献策を受けて大型の帆船便船を起用し未知の海上航行に挑んだとも考えられるのです。「海岸に沿って移動などの無謀で難船必至な行程」を避け、沖合の黄海を南下して、有望そうな海港では、艀を下ろして、現地の海人と相談の上、寄港しつつ、物資を搬入したことと思われるのです。いや、唐の帆船のような大型の船が、荒瀬に近づくことができたとは思えないのですが、何か策があった可能性は否定しないのです。

 後世、隋煬帝が下級官人の文林郎裴世清を俀国に派遣した際の往路記事同様に、魏使乗船が南下した帆船航行で耽羅を見つつ東進し、壱岐に寄港した上で、いずれかの海港に入った可能性も、十分残されていると申し添えておきます。何しろ、魏の国策としては、倭に至るには狗邪韓国まで官道を行き、狗邪韓国から渡海するという制度となっているので、臨時の海船航行は「倭人伝」に記録が残らなかったものと見えるのです。僅か二千字の小伝に、二種の行程を書くと読者が混乱する上に、万二千里の公式道里について、ことさら疑念を掻き立てるので割愛したものと見えるのです。隋唐代、ら正始や古来の公文書に遺された公式行程道里が、実務運用のものとしばしば乖離していることは、むしろ官人の常識であって、唐代に、全国制度の厳正さを求めていた玄宗皇帝が、公式行程道里の「全国調査」を命じた結果が残されていますが、それでも、公式道里の更新と言っても、正史書換えはできず、唐制確立にも及ばなかったので、そのような大事業の成果は、あくまで、玄宗皇帝の功績に止まっているのです。因みに、更新された行程記事を解釈すると、当時、統一新羅の慶州(キョンジュ)に至るには、山東半島から渡海した後、半島中央部の小白山地を越えて東南方向に進み八百里を要する陸上街道が確認されたように見えます。
 唐代に渡唐した仏僧円仁(慈覚大師)は、山東半島海港に新羅館が繁栄していたことを書き残していますが、黄海交易が発展していた時代にも、新羅国内の輸送交通は、陸上街道に依拠していたことが読み取れるのです。帆船交通/運輸が形成されていなかった三世紀も、山東半島との渡海がほぼ全てであったと、確実に推定されるのです。

 と言うことで、野性号の冒険航海の教訓は、全てが無駄にはなっていないのです。「教訓」が「教訓」として活用されていないことが「不覚」ですが、これは、当時の関係者の「不覚」などでは全く無いのです。
                                 以上

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