新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 9/16
塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05 記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25
*要件と添え物の区別
氏自身も漏らしているように、「倭人伝」道里行程記事は、後世の魏使が通過した国々を紹介した記録が、当初提出された代表的な諸国行程を列記した記録に付け足されたと見るものではないでしょうか。
氏は、投馬国への水行行程の考察に多大な労苦を払ったので「余傍」記録を棄てがたかったのかも知れませんが、肝心の「倭人伝」には、「行程外の国は余傍であり、概略を収録するに留めた」と明記されている事を、冷静に受け止めるべきでしょう。五万戸の大国「投馬国」に至る長期の行程の詳細に触れず、現地風俗も書かれていないのに、勝手に、気を効かして記録の欠落を埋め立てるのは、「倭人伝」の深意を解明してから後のことにすべきと思うのです。そのため、当記事では、余傍の国に言及しません。
とにかく、考慮事項が過大と感じたら、低優先度事項を一旦廃棄すべきです。
c、投馬国から邪馬壱国へ
《原文…南至投馬国水行二十日……可五萬余戸
南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月……可七万余戸
コメント:戸数談義
魏志で戸数を言うのは、現地戸籍から集計した戸数が現地から報告されていることを示します。要するに、何れかの時点で、倭人が郡に対して服従の前提で、内情を吐露したと示していることになります。
本来、一戸単位で集計すべきですが、東夷は戸籍未整備で概数申告ですから、千戸、万戸単位でも、ほとんど当てにならず、投馬国は「可」五万余戸であり、交通不便な遠隔余傍の国の戸数などは、責任持てないと明言しています。
となると、「可七万余戸」が不審です。俗説では女王居所邪馬壹国の戸数と見ますが、「倭人伝」の用いた太古基準では「国邑」、「王之治所」に七万戸はあり得ないのです。
殷周代、国邑は、数千戸止まりの隔壁聚落です。秦代には広域単位として「邦」が使われたようですが、漢高祖劉邦に僻諱して、「邦」は根こそぎ「國」に書き換えられたので、二種の「國」が混在することになり、後世読者を悩ませたのです。倭人は、古来の「国」に「国邑」を当てたように見受けます。ともあれ、気を確かに持って、「国」の意味を個別に吟味する必要があります。
*「数千」の追求
因みに、「倭人伝」も従っている古典記法では、「数千」は、本来、五千,一万の粗い刻みで五千と零の間に位置する二千五百であり、千単位では、二、三千のどちらとも書けないので、「数千」と書いているものです。とかく、「大雑把に過ぎる」と非難される倭人伝の数字ですが、『史官は、当時の「数字」の大まかさに応じた概数表記を工夫し、無用の誤解が生じないようにしている』のです。
*戸数「七万戸」の由来探し
また、中国文明に帰属するものの首長居城の戸数が不確かとは不合理です。諸国のお手本として戸籍整備し一戸単位で集計すべきなのです。
そうなっていないということは、倭人伝に明記された可七万余戸は、可五万余戸の投馬国、二万余戸の奴国に、千戸単位、ないしはそれ以下のはしたの戸数を(全て)足した諸国総計と見るべきなのです。(万戸単位の概数計算で千戸単位の端数は、無意味なのです)
*「余戸」の追求~「俗説」への訣別/哀惜
塚田氏が適確に理解されているように、「余戸」というのは、「約」とか「程度」の概数表現とみられます。先行論考は、「餘」の解釈で大局を見誤っている例が山積していて、歎いていたところです。
つまり、(投馬)五万余と(奴)二万余を足せば、ピッタリ七万余であり、その他諸国の千戸単位の戸数は、桁違いなので計算結果に影響しないのです。まして、戸数も出ていない余傍の国は、戸数に応じた徴税や徴兵の義務に対応/適応していないので、全国戸数には一切反映されないと決めているのです。
「俗説」では、余戸は、戸数の端数切り捨てとされていますが、それでは、倭人伝内の数字加算が端数累積で成り立たなくなるのです。そもそも、実数が把握できていないのに区分ができるというのは、不合理です。漠然たる中心値を推定していると見るべきです。
また、帯方郡に必要なのは、総戸数であり、女王居所の戸数には、特段の関心がないのです。俗説の「総戸数不明」では、桁上がりの計算を読者に押しつけたことになり、記事の不備なのは明らかで、「倭人伝」が承認されたと言うことは、そのような解釈は単なる誤解という事です。
七万余戸に対する誤解は、随分以前から定説化していますが、明白極まりない不合理が放置されているのは不審です。
案ずるに、「七万戸の国は九州北部に存在できない」のが好ましい方々が、頑として、不合理な「俗説」にこだわるからで、これは学術論でなく、子供の口喧嘩のこすい手口のように見えます。信用を無くすので、さぞかし名残惜しいことでしょうが、早々に撤回した方が良いでしょう。
未完
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