新・私の本棚 平野 邦雄 邪馬台国の原像 1 「野性号」談義 改 1/3
学生社 2002年10月初版
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/02/02 補足 05/14 11/04 2021/09/09 2023/07/07
〇総評
本著は、「邪馬台国論」の書として、大変貴重な名著であり、中原、半島との関連はもとより、国内後代史へのつながりを踏まえた資料談義であり、とかく、俗説書に目立つ空論、先入観が少なく、学ぶところ大です。当ブログ筆者は、倭人伝専攻なので、全体の書評は手に余り、 課題になっているものです。本書評は、倭人伝道里行程論と関係している一部にとどまります。
□コラム 「邪馬台国への航海」
概評済「野性号」1975年記録ですが、指導的立場の平野氏の自戦記が当方「書庫」から浮上したので、反省してコラム書評を掲載したものです。
当記事は、初出『古代船「野性号」』(「日本歴史」344号 1977.1)記事の再掲です。雑誌「野性時代」1975年10月臨時増刊号が関連記事を掲載していますが、現時点で、古書として入手困難なので、公立図書館のお世話になる以外、閲覧方法はなく、当コラムは大変貴重な情報源です。
*航海記の教え
手漕ぎ船航海記は貴重ですが、半世紀近く経ても、深意が知られていないのは残念です。
以下、大半は、在来史書の批判ですから、平野氏の本書の批判でないことは、ご理解頂くものとして、概説します。
麗々しく公刊の古代史書籍で、『半島沖海域船行が「難しい」のは「不可能」の意でない、「史実で通っていた」から「通ったのだ。文句を言うな」』との強弁が展開されています。
いや、大抵の論者は、無造作に、現代の地理情報で書かれた地図上に、時に、大雑把に、時に、芸細かく線を描く無責任な「画餅」主義です。ただし、どちらも、当時の船、操船技術で、そのような行程が辿れたかどうかの「考証」のない、思いつきに過ぎない点では。ご同様の無責任さです。
こうした意見の持ち主が、伝統的な日本語の語彙を勘違いしていて、英語のdifficultを「難しい」に塗りつけて、「なせばなる」と読み替え、本来の「事実上不可能」impossibleの意と知らないのは、まあ、むしろ、子供っぽい誤解ですが、世上、そうした早計に無批判に追従する論者が溢れているのは、なんとも、情けないものです。
それはさておき、当時の関係者は、実験航海支援の恩人を忖度して、否定的見解を隠したのでしょうが、以下は、勉強していれば高校生学識でわかるはずです。
*船の要目
木造船長16.5㍍ 船幅2.2㍍ 定員30名 3.9トンは、排水量かなと言う感じです。
魏使一行所要艘数を計算するには、想定積載量・乗客が必要です。
様子を見る限り、甲板、船室など無く、吹きさらし、雨ざらしの苛酷な風情です。中国人は、食物を必ず煮炊きするのですが、食糧と薪水の貯蔵庫も、厨房も見て取れません。寒暑の時期は避けるとしても、中間期といえども、日数を重ねて乗り続けられるようには見えません。まして、夜通しの移動など、大変困難でしょう。
総じて言うと、船舶と言うより筏の類いと見えます。古典書では、浮海と呼ぶものです。求められたのは、渡し舟の軽便さでしょうか。
*万全の漕ぎ手
どうやら、想定乗員が三十人の、ほぼ半数が漕ぎ手とみたようです。
片側七人計十四人~十六人の想定で、舵取り二名、交代二名で、二十人乗船でしょうか。詳細資料が欲しいところです。
全員現役の若くて屈強の水産大学生が、臨んでいるのに感心します。
*所要日数
仁川(インチョン)~釜山(プサン) 28日程度
釜山(プサン)~ 博多港 16日程度
合計45日程度。休養を入れて60日程度と有意義な見積もりです。
無寄港、無補給ではないでしょうが、煮炊き用の燃料まで考えると、相当な量の積み荷が不可欠と思われますが、明細は語られていません。
支援船曳航の難局は、「当時常用の行路であれば」航路熟知で避けられても、概して漕力不十分です。
また、全行程「ほぼ漕ぎ詰め」は、理不尽なほど苛酷です。適宜、寄港時に休養をとるとしても、この日数を見ると、漕ぎ手は、超人集団に見えます。帆走で、どの程度労力を低減できたか不明ですが、少なくとも、入出港時とその前後は、舵取りのために漕ぐのは不可避で、三世紀の魏使便船の場合は、使節団の数十人では済まない人員と食料、そして、大量の下賜物のために、異例に多数の船腹が必要なので、よくぞ、追加の漕ぎ手が揃い、長期間、病人もけが人も出ないで、完漕できたものと感心します。
それにしても、使節一行に下賜物などを載せて何艘でしょうか。これは禁句でしょうか。
槽運事業の視点で、航海基点(船主の待つ母港)にしてみると、多数の主力船が漕ぎ手と船体もろとも、半年近く不在で、音信不通で、帰還が不安では、大いに悩むはずです。何しろ、通常は、せいぜい往復数日で済む「渡海船」なのですが、官命とは言え、恐らく、新造船と新規の漕ぎ手の募集で「資金」を投じ、未知の行程、未知の遠国に向かわせるのは、下見の探索を取材に送り込んだにしても、不安に駆られたでしょう。
いや、当ブログ筆者は、帯方郡太守にとって、「道中が安全に管理されていて、日々騎馬の文書使が急報してくる街道行程が、唯一無二の選択肢だった」と確信しているので、官道としてあり得ない余傍行程について、余り議論したくないのです。非常識な輸送手段が実在したと言うためには、当然、相当の論証が不可欠と思うのですが、それは、常識を支持するものの責任ではありません。
さて、今回の実験航海は、現代文明の齎した羅針盤、海図や潮流、天候情報の支援を得て乗り切りましたが、当時、山東半島との間の渡船を運用していた面々が、半島西岸海域の知識無しに六十日間一貫航行など、大変困難、つまり、到底あり得ないと思います。関係者は、一度、顔を洗って、真剣に考えてみてほしいものです。
*現地海域事情の予習
計画推進にあたり、当然ながら、航路について、慎重な予習が行われたと言う事です。ただし、有益な情報は後学の空論には反映されていないのです。
疑問として、三世紀当時、海図も気象台もないのに、これだけの長途の行程に渡り、どのようして「予習」したのか、大変疑問です。現代、遭難を避け、人命を保全したのは当然ですが、三世紀当時も、乗員の人命尊重に加えて、船荷と船体の安全は、至上命令だったはずです。
論者は、現地の陸上に並行した官道がなかった、つまり、郡の管理下にありながら、適切な交通、輸送、通信手段がなかったという前提ですから、そうした困難をいかにして克服したか、論証する義務があるのです。
こうした義務を、平野氏個人に押しつけるのは、何とも、後ろめたいのですが、氏は、単なる現代冒険航海の報道を行っているのではないので、唯一、顔が見える平野氏に文句を付けたようになっていて、困っているのです。
未完
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