會稽東治考 1 「東治之山」 2016/11/09 2023/05/04,/24, 三掲 2023/08/07
□三掲の弁
当ページ末尾付近で、「念押しの議論」と称して、念には念を入れているが、一向に反響がないので、最後のお願いに挑んでいるものである。
◯はじめに
定説と呼ばれる「俗説」では、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」の「會稽東治」には典拠がなく、「会稽東冶」の誤写とあるが、そう簡単な話では無いと思う。
「會稽東治」とは、司馬遷「史記」夏本紀の「或言禹會諸侯江南,計功而崩,因葬焉,命曰會稽。」と言及している歴史的な事跡に因む、由緒来歴のある會稽「東治之山」を指すものであり、「東治之山」とは、具体的には会稽山をさすものと考える。
*「会稽之山」
「水経注」および「漢官儀」で、秦始皇帝が創設した「会稽郡」名の由来として書かれている記事があるが、現在「東冶之山」と作っている写本が見られる。
秦用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡,或以列國,陳、魯、齊、吳是也;
或以舊邑,長沙、丹陽是也;或以山陵,太山、山陽是也;或以川源,西河、河東是也;或以所出,金城城下有金,酒泉泉味如酒,豫章章樹生庭中,鴈門鴈之所育是也;
或以號令,禹合諸侯,大計東冶之山,會稽是也。
では、「東冶」が正しいのかと思いたくなるが、会稽郡名の由来に「東冶之山」が登場する謂われはなく、禹の事績に因んで「東治之山」と校勘した写本を採用するべきと考える。
また、中国の地名表記で、「会稽東冶」は、「会稽」(地域)と「東冶」(地域)と読むのであり、会稽郡の東冶県をさす場合は、「会稽東冶県」と明記する。これらの書きわけは、笵曄「後漢書」倭条(傳)に揃って現れているが、笵曄は、魏志「倭人傳」の「会稽東治」の本来の意義を理解できずに「東治」は地名にないから、劉宋の領土内の地名である「東冶」の誤記と即断して校勘したものと思われる。
更に念押しするなら、ここで書かれている各郡命名は、秦始皇帝の全国統一の際に、重臣である李斯が決定したものであり、その時点、漢(前漢)に命名された「東冶」なる地名は存在しないので、ここに「東冶」と書くのは、時代錯誤なのである。「水経注」と「漢官儀」は、「倭人伝」から見ると後世の編纂であるが、李斯の提言の記録なので、その由来は、遠く秦代に遡るのである。
丁寧に時代考証すると、異議を挟む余地はないように思うがどうであろうか。
*念押しの議論~2023/05/24
因みに、三国時代、「東冶」は、曹魏の領域外である東呉孫権の領域内であって、魏には、一切現地情報が届いていなかったのである。
また、先立つ後漢代、会稽郡治から東冶に至る経路は、崖に階梯を木組みした桟道すら通じていなかったから、「街道」は途絶していて、その間の道里は未設定であり、東呉すら知ることができなかったと思われ、まして、敵国である魏の公文書に記載されることはなく、従って、「魏志」に東冶がどこに在るなどと書くことはできなかったのである。そもそも、「東冶」の属する東呉建安郡が、古来の会稽郡から分郡されて創立されたのすら、東呉が、壮語を継承した司馬晋に対して降服した際に上納された「呉書」(呉志)で知るだけであり、陳書の編纂した「魏志」は、最後まで敵国東呉を参照しなかった魏の公文書に全面的に依拠しているから、そのように判断されるのである。
この際の結論として、「魏志」を編纂した陳寿の厳正な態度から見て、「倭人伝」において、倭に至る道里が雒陽から会稽東冶に至る道里と比較してどうであるというのは、一切あり得ないのである。
因みに、「会稽東治」が書かれている部分は、気候風俗の記事内容から見て、かなり南方であって暑熱の狗奴国の視察報告、それも、後日の張政一行の早書きと思われるので、正体不明の会稽東冶と対比することに大した意義はなく、古来周知の「会稽東治之山は、その地の西方に当たるようだ」という風聞記事を付け足したと見た方が良いのではないか。これは、続いて「倭地温暖」と書き出された記事が、倭の盟主であって女王を擁立した伊都国の存在する北九州のものと思われるのと、一線を劃しているのである。(「評釈 魏志倭人伝」 {新装版}水野祐 ㈱雄山閣 平成16年11月新装刊)
いや、陳寿がいかに知恵を絞っても、東夷の地理について、議論の視野を広げ、さらに遠隔の霞の彼方の地を論じると、議論がぼやけるのだが、その意味でも、いわば、正史夷蕃伝で、倭の最果ての地から会稽東冶なる具体的縣名を遠望したとは思えないのである。
*異議の史料批判~証人審査~2023/05/24
いや、現に史料に明記されている字句が誤伝であると主張する「俗説」には、厳重に審査された資料の提示が必須であり、単なる臆測で言い立てるのは、素人の野次馬論に類するものであり、史学においては、本来論外なのである。
一説では、近年公刊された公式資料に「東冶」と書かれているらしいが、根拠不明である上に「誤植」、「誤解」の可能性が否定できないので、耳を貸す必要はないと思量するのである。
つまり、ここで展開している議論は、本来不要であるから、これに対して、異議を言い立てるのは、無法なのである。
*初学者への指導事項
ちょっと厳しすぎる議論になりそうだが、正直言って、漢字の「さんずい」(水)を、ちょっと間違えて「にすい」(火)に書いてしまうのは、実際上、それほど、珍しいことではなく、時に、通字になって辞書に堂々と載っているくらいである。
ただし、それは、「さんずい」の漢字を「にすい」にした「字」がなくて、誤字にならないと言うことが前提である。「東治」と「東冶」のように、「さんずい」と「にすい」で字義が異なる場合は、きっちり書き分け、読み分けしなければならない。
漢字解釈の「イロハ」を知らずに高々と論じるのが、国内古代史学界の通例/悪弊であり、榎一雄師や張明澄師の夙に指摘しているところであるが、頑として是正されないようである。
近来に至っても、在野の研究者から三国志の解釈に於いて、定説気取りの国内論者の通弊/誤解を是正すべく、中国史料としての善解を促す健全な提言があっても、権威者気取りの論者は、かかる提言に一顧だにせず、つまり、原史料に立ち戻って「再考」することなく、「大胆」の一言で片付けて、保身する安易な対応がはびこっていて、やんぬるかな、「百年河清を待つ」と言う感じであるのは、大変残念である。
どうか、史学の原点に立ち返って、原史料と「和解」していただきたいものである。それが、晩節というものではないだろうか。
未完