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2023年8月

2023年8月30日 (水)

今日の躓き石  NHKの歴史的醜態 「歴史探偵」+「どうする」 リベンジ

                    2023/08/30
 今回の題材は、NHKGのバラエティー番組「歴史探偵」「家康VS.秀吉 どうする家康コラボスペシャル(後編)」である。

 タイトルで明らかなように、戦国時代末期の歴史ドラマの内幕を描くはずが、タイトルのいかがわしさは、とかく低視聴率でおちょくられている大河ドラマ」と「コラボ」する恐怖を乗り越えるための「受け狙い」で仕方ないとして、番組の始まりに、でかでかと「リベンジ」と書かれていて白けるのである。

 この時代で、「復讐」と言えば、暴君信長の指令で、妻子、それも、愛妻と嫡子を殺さざるを得なかった家康の「血の復讐」を思い出さざるを得ない。
 それが、今回は、前編で描かれた小牧-長久手の後の秀吉と家康の対抗で「リベンジ」とは、どっちが、どっちに復讐するのだろうか。そもそも、戦国時代の英雄が、カタカナ語の「リベンジ」を叫ぶとは、どういう法螺話なのだろうか。時代考証担当の権威者は、何も指導/ダメ出ししなかったのだろうか。
 色々不思議なのである。番組を見ていると、今回は秀吉の没後まで届いていて、「どうする」でなく「どうした」にしてしまっているのは、「ネタバレ」のようにも見える。主役が、素で登場しているのも、ぶち壊しのような気がするのである。

 随分知られている時代の随分知られている両雄の物語だから、どうしても、これまでにない斬新な「法螺話」としたいのだろうが、いきなり大すべりで「白ける」のである。誰も止めなかったのが、不審極まりない。

 NHKも、随分困って「どうする」と迷ったのだろうが、それにしても、極めつきの「罰当たり」で「どぎたない」言葉を叩きつけるとは、墜ちるところまで墜ちたものである。受信料を返せと言いたいところである。確かに、公衆の面前で嘔吐したら、途轍もなく人目を引くだろうが、二度と信用してもらえないのである。NHKには、「ことば」を守り抜くという、公共放送としての理念も信条もないのだろうか。

以上

 

 

2023年8月28日 (月)

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 1/12 序論1 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義 結論別儀  2021/08/14 2023/08/28 2024/02/14

〇はじめに~謝辞にかえて
 本書は、小生(当ブログ筆者の一人称)が、かねてから古代史論で兄事する刮目天一氏が、第三者ブログを舞台に、小生専攻範囲「倭人伝」道里について、高柴 昭氏と問答しているのを拝読して、どう差し出口するか迷ったあげくの題材です。
 第三者ブログ投稿に第四者が口を挟むのは、無作法ですが、放っておくにしのびないので、本書書評の形を取って、高柴氏の見解に口を挟むことにしたものです。
 ご両人はもとより、対話の場を提供された氏の厚誼に感謝するものです。
 以下の書評は、お耳触りでも率直な意見と聞き置いていただければ幸いです。

〇古代史論争に涼風一陣
 まずは、長年混迷が続く倭人伝談義の経緯を精査し、漂う暗雲というか、泥沼に似た混迷を歎いて明解な筋を通す建言に、全面的に賛成します。
 つまり、『「倭人伝」論議は、信頼すべき文書史料「倭人伝」を全考察の出発点としなければ、混沌に目鼻がつかない』との提起と思います。

 既に世紀を越えた仁義なき議論は、浄き高嶺を目指して難所に登攀路を創出すべく先を競っていますが、私見は、それと別に、最寄りの高みへの「散歩道」を進むというものです。ご不快でしょうが、耳に留めていただければ幸いです。

 砕けて言うと、例えば、倭人伝」冒頭の「倭人」紹介や郡から倭までの「道里行程」記事は、締めとする「読者」に「倭人」なる新参の東夷を紹介する「倭人伝」の「つかみ」の部分であり、多少の謎で好奇心を喚起するのは序の口で、以下は、読者の教養をもって読み解ける程度の「問題」であったから、題意を解し、解答(正解)を出すのは、本来の回答者、つまり、三世紀洛陽の読書人には、造作ないことだったはずです。

〇論争混迷の実相
 後世人には、「倭人伝」を読解する教養に欠けるのを自覚することなく、尊大な態度を取って、『かほどに善良な読者が、いくら考えても読み解けないのは「倭人伝」に多発する誤記、あるいは、曲筆のせいだ』との「神がかり」説、「つけまわし」手法が出回って、年代物の「風説」を醸しています。

 そんな風評のため、「倭人伝」の道は、大半の「読者」にとっては、踏み込みをためらう「荒れ地」であり、家庭ごみや業務廃材に類するごみを投棄されて「荒れ地」にすら見えなくなっていると見えます。勿体ない話です。

 倭人伝は、同時代に関する最も有効な史料であり、廃材類をどけて、じかに、踏みしめる/噛みしめる時と思うのです。本来、明快に読み解けたものに違いない」とご明察いただければ、つまらない「神がかり」は、影を潜めるものと感じています。

〇失敗の効用~惹き句の失敗
 「発明王」トーマスエジソンによれば、失敗例は、探索範囲を一段絞らせるので、幾千の失敗例は、そう見えずとも、針路を照覧していると見えます。
 ちなみに、氏の起用された「惑わされない」は、「倭人伝」の用語と齟齬します。卑弥呼は「衆を惑わし」多くを感動させ共立されたのが筋であり、「迷わされない」と字を変えた方が良かったようです。
 「倭人伝にあいまいな記述無し」は不用意で、概数表現に見られるように『過不足無く「あいまい」である』と考えます。
 帯惹句の「一切の固定観念」は勇み足で、「固定観念」の取捨選択なしの読解は不可能です。現に、本書は「固定観念」満載です。「合理的」も要らざる断言です。過去論者は、全て自分なりに「合理的」な判断と自負していたわけで、「自分なり」同士の衝突は解決不能です。

 まあ、これらは、恐らく出版社の営業方針によるもので、氏につけを回すのは筋違いなのでしょうが、「随分損してますよ」と言うところです。
 氏の指摘が大勢の混濁を晴らすだけに瑕瑾を指摘したくなったものです。

〇景初遣使論争の意義
 因みに、契機となった両氏論議は、魏志東夷伝/倭人伝の「景初遣使」の経緯の解釈で、史料に立脚した論議を進めようとしているのには、敬服しますが、史料から御両所の「合理的」見解に移ると、途端に「固定観念」に足をとられて、忽ち迷走していると感じたものです。
 「ダイハード」の諺のように「悪い癖ほど止められない」のです。諺は「ダイハーダー」、「ダイハーデスト」と最上級に進んでも、そこで終わる保証はない、底なしの泥沼かもしれないのです。

 それにしても、以下味見しているように、本書は、ご大層な能書きはどこへやら、「通説」やら「俗説」やらを棄てきれずに引き摺っているのは、もったいない話で、これでは、「ゴミ屋敷」必然です。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 2/12 序論2 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義 結論別儀  2021/08/14 2023/08/28 2024/02/14

〇裏切られた抱負
 氏は、『安易な「通説」追従や無効な「固定観念」を棄却して、論理の筋を明解にする』抱負ながら、当然必要となる「原文回帰」が果たせていません。実際には、東西両派を問わず、数多くの「固定観念」が混沌に手を貸しています。この点は、まことに残念であり、この急転はまことに残念です。

〇借り物の固定観念
1.「短里説」の不都合
 行程道里記事の解釈は、「倭人伝」解釈の基礎の基礎であり、冒頭で解明しなければ、以下の論議の混沌に繋がります。この際、一から洗い直すべきです。

2.史料批判の欠如
 『「倭人伝」に対する批判』の根拠とされる諸史料ですが、適確な史料批判のないままに、論義の核心に起用され、しばしば「倭人伝」誤記論の根拠とされているのが、不審そのものです。自明に近いものを列記しておきます。
⑴「三国史記」史料批判の欠如
 当史料が編纂されたのは、新羅の統一時代、新羅滅亡時の新三国対立を統一した高麗による再統一を経た、いわば、原資料散佚後の再構成で、特に、統一以前の新羅に関する記事は、「正史」と対峙する資格のない「ジャンク]であり棄却すべきです。要は、統一新羅を高揚し、敵対「倭人」、「倭奴」は、客観的に書かれていないのです。統一新羅といえども、「倭人伝」時代は、まともに国史記事を残せなかった辰韓の一員「辰韓斯羅」に過ぎず、倭国使を受ける立場にありません。
 同記事は、年代比定が不合理で、採用した断片史料が、不都合な断片かと思わせます。と言うことで、本記事は、後世編者が、後知恵で半ば捏造したものとして、棄却すべきです。
 氏は、「通説」論者が道ばたの「落とし物」を盛り付けた「ごちそう」にかぶりついているもので、「拾い食い」は止めた方が良いですよと進言するだけです。
 氏には、慎重な史料批判を求めます。

⑵「翰苑」史料批判の欠如
 本件は、小生にとっては、解決済みです。氏は、「正確な史料批判のできない福永氏」の提言に依拠し、これは「固定観念」の最たるものでしょう。

 引き合いに出された福永氏は、「翰苑」の現物(影印版)を精査することなく、不正確な文字起こしに推定を重ねて「謝承後漢書」なる散佚史書を勝手に再構築し、現存「倭人伝」対等史料としたもので、率直に言うと、福永氏ほどの学識の方に不似合いな粗忽と言うしかありません。誰も、氏に対して事実誤認を指摘しなかったのは、「学界」として機能不全と見えます。いや、学説として公開していないから、批判されなかったのかも知れません。小生は、後日、中国哲學書電子化計劃サイトで、《遼海叢書》本《翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本》として、校訂済みの整然たる刊行物が収録されているのを見て、なぜ、心ある研究者が参照しないのか不思議に思っている次第です。

 言うまでもないことですが、原文資料から書写、引用を重ねると、原資料から遠ざかるにつれて急速に失調が募り、史料が損壊してしまうのは常識中の常識で、そのような行程で起きる破壊的な誤写雪崩は、一度起きれば、取り返しのつかない惨状に陥りますそのような惨状を満載した非史書「翰苑」は、原本でなく、不確かな引用を重ねた誤写満載「資料」なので、文献論議には、無用の廃材です。

 このような不当な史料を根拠に論議するのは、冒頭の崇高な抱負に反するものであり残念です。氏には、慎重な史料批判と証人審査を求めます。

〇所感まとめ
 主要部だけで力尽きた感じですが、氏は、新しい革袋の雑味のない「新酒」を、と訴えています。古いワインには古いワインなりの滋味があるのですが、氏は、「先賢」の独断と偏見を検証不十分なままに温存した古いワインを「新酒」と触れ込んでいるのは、民心を「迷わせて」いるのです。

*今さらの「長大」論議
 例えば、「長大」なる普通の言葉の解釈を、用例を踏まえた古田氏の慎重な提言に背いて、俗説の「老齢」の決め込みで、『無謀で無法な卑弥呼老婆説捏造に加担する』愚行は、金輪際是正できないのでしょうか。

 倭人伝をそのまま読めば、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」が書いたのは、「卑弥呼は小娘時代に女王に担がれたが、ついこのあいだ、成人になった」と言う、まことに簡明で合理的な報告と思うのです。
 因みに、ここで示された「長大」は、(今年の新年で)「成人」となったという意味であり、何年も前に成人していて、今や「いい年をしている」という意味ではないのですが、違いがわかるでしょうか。

                              この項完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 3/12 目次評 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28 2024/02/14

〇本書目次紹介
 21の鍵がどんな順序で開示されるか見ることができます。
第一章 倭人伝の前に
 邪馬台国はいわゆる大和朝廷の前身ではない     ー 惑わされない鍵  1
 倭人伝の間違いは多くない             ー 惑わされない鍵  2
 倭人伝は短里で書いてある             ー 惑わされない鍵  3
 三国志では長里と短里が混在            ー 惑わされない鍵  4
 朝鮮半島の南部には倭人がいた           ー 惑わされない鍵  5
 朝鮮半島は全水行ではなく大部分が陸行       ー 惑わされない鍵  6
 弥生時代の年代観                 ー 惑わされない鍵  7
 魏使は何故遠路を越えてやって来たのか       ー 惑わされない鍵  8
第二章 倭人伝に従って進む
第三章 伊都国から邪馬台国へ
 志賀島の金印をどう読むのか            ー 惑わされない鍵  9
 「奴」の古代音                  ー 惑わされない鍵10
 「奴園」はどこにあったのか            ー 惑わされない鍵11
 不弥国へ                     ー 惑わされない鍵12
 魏使は投馬国に行ったのか             ー 惑わされない鍵13
第四章 邪馬台国が見えた
 原文の「邪馬壹国」はもともとは「邪馬臺国」だった ー 惑わされない鍵14
 春日市の王墓                   ー 惑わされない鍵15
 伝世鏡理論は成立しない              ー 惑わされない鍵16
 三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない         ー 惑わされない鍵17
 三角縁神獣鏡はどうして作られたか         ー 惑わされない鍵18
 箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない           ー 惑わされない鍵19
 魏の薄葬と大形前方後円墳とは結びつかない     ー 惑わされない鍵20
 纏向古墳群は邪馬臺国ではない           ー 惑わされない鍵21

〇目次評
 21の鍵が、無造作に羅列されているのは「無策」に過ぎます。明らかに、脇道、道草と見える余傍の「鍵」が多く、氏が、全体像を心象として適確に描けていないと思いやられます。余傍の路で力尽きては、目的地に着けません。
 本筋を見出すには、安本美典氏著作に見かける「絵解き」(ビクチャー)が必要でしょう。
 明解な道程を発見するためには、「鍵」を差すべき扉の「錠」に妥当な順序があるはずであり、大事な問題が後々で浮上するのは不出来に過ぎます。
 因みに、小生は、「倭人伝」二千字全体を、一気に噛み砕くのは終生無理として、冒頭の行程道里記事の追求に専心しているものです。

*余談「焦土作戦」
 懸案の景初遣使」が帯方郡に着いたのは、景初二年六月と魏志に明記されていますが、これでは、「物理的に」間に合うのは九州倭人だけで、遙か大和からでは、全く間に合わず、郡から狗邪韓国まで船旅では、ますます間に合わないので、まともに論義すると必敗とみた反対論者は、必死で「誤字」、「誤記」、「陳寿曲筆」、「史料改竄」と力説するのです。
 誠に、高度な戦略で、論議の場に煙幕を張るのに成功しているように見えますが、この際で言うと、「二」を「三」の誤記だと必死でこだわるのは、「纏向」説の生死に関わる一大事とみているからです。巻き込まれてはなりません。

 これは、古来、論争敗勢時の常套戦術の「焦土作戦」であり、とにかく、敗勢にあると自覚して、窮鼠の如く、あることないこと山ほど言い立てていますが、こんな「些細なこと」に大騒動を巻き起こす相手とは、かかずり合いたくないものです。

 諸兄は、いらぬ巻き添えを食わないよう、ご注意下さい。本件は、学問の核心ではないのです。

                              この項完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」鍵14 5/12 臺論1 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28 2024/02/14

第四章邪馬台国が見えた
 原文の「邪馬壹国」はもともとは「邪馬臺国」だった 惑わされない鍵14
 陳寿も范曄も裴松之も李賢も「謝承後漢書」を見ていた
 さて「不弥国」に続いて「投馬国」の方向を示した後、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」とあります。……邪馬台国……は「三国志」……全版本で「邪馬壹国」と記載されています。……しかしながら、「後漢書」では「邪馬臺国」……、隋書では都を「邪靡堆」と表記し……中国史書の中では三国志だけが「邪馬壹国」……でした。

 この鍵14は、重大な位置を占めていますが、氏の提言は、根拠薄弱、論理混迷で、説得力がなく、うつろに言葉を飾り立てるに過ぎません。いくら飾り立てても、肝心の論証が不調では、虚飾の誹りを免れません。
 まず、史料批判ですが、史料は、一山いくらの「ざる盛り」評価や巻数/頁数評価でなく、まして、目方で量って評価するものでは有りません。文献として、一件ごとに信頼性評価すべきです。「倭人伝」は、史料の重鎮であり、ごみの山にはごみの価値しかありません。
 
 丁寧に見ると、隋書は「俀国」で「倭」ではありません。国名を信用して良いのでしょうか。「靡」「堆」は、何と読むのでしょうか。

 ……福永晋三氏は……元々は「邪馬臺国」と書かれていたことを見いだされ、九州古代史の会において「邪馬壹国こそなかった」と題して講演されました。その論旨を要約してご紹介します。 (講演会発表依拠で、原資料の確認ができないいい加減な引用で矢面に立たせては、福永氏に失礼です)
 ……「後漢書」は范曄……ですが、……謝承……「後漢書」があり……「謝承後漢書」は……残っていませんが、……范曄も参照したと見られ……ます。

 口頭発言の書き下ろしで筆が曲がっていますが、范曄「後漢書」原本は現存しません。「現存後漢書」は、范曄編纂史書そのものでありません。正史に不可欠な地理志などの資料部分「志」が欠け、李賢太子が、先行司馬彪「続漢書」の「志」を足して正史の体裁を整えたものですが、李賢太子等の補注共々、笵曄の知らないことです。真っ直ぐに書いてほしいものです。
 それにしても、福永氏は、どこから「元々」を見出されたのでしょうか。神がかりでもしたのでしょうか。不適当な引用です。

 笵曄は、南朝宋、劉宋高官で、裴松之同時代人ですが、陰謀に連座して嫡子と共に斬首され、笵家は断絶しています。どんな経緯で大罪人の遺著が継承されたか不明です。劉宋が南齊に代わった時、名誉回復されたでしょうが、既に袁宏「後漢紀」等があり、直ちに正史扱いされず写本継承経緯は不詳です。
 因みに、高官笵曄は激務の中、後漢書編纂に着手した動機として、先行書の風聞、俗説を是正し、品格ある史書を残したようです。燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。

 また、謝承「後漢書」は、散佚して現存していません。佚文があっても、当然、原本にその通りの記事があったと信じることはできません。因みに、笵曄「後漢書」に次ぐ後漢史書として、先ほど名を挙げた袁宏「後漢紀」が現存していて、結構良好な形で現存していますから、適正な史料継承が成されたものとして、信じることができます。ともあれ、二千年にわたる長年を経て検証された「正史」「三国志」に対抗するには、同等乃至はそれを越える「検証を経た史料」でなければなりません。

 因みに、掲題の諸先哲は、当然、謝承「後漢書」の良好な写本を所持していたのであり、採否はいずれかとして「見た」などと侮るべきではありません。唐李賢太子は、笵曄「後漢書」を当時残存していた後漢史書の中で最善と判断したのですが、当然、各史書を熟読した上の判断と見るべきです。近来疎かとは言え、「史料批判」は、太古以来行われていたのです。
 これに対して、近年は、ごみ同然の佚文を、長年検証された正史と同等に見て正史を改竄する「奇矯」軽薄、大胆な議論が、正史考証の基本を外しています。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」鍵14 6/12 臺論2 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28 2024/02/14

 ……陳寿も范曄も斐松之も李賢も……「謝承後漢書」を見たと思います。

 裴松之が付注に参照した史料は明記されています。裴松之補注は、陳寿が割愛した諸史料を、あえて良否/清濁を合わせて、蒸し返した例が多く、「二千年後生の無教養な東夷」が、身のほど知らずに、安易に論じるべきではありません。また、裴松之は、自身が、信を置いていなかったと見える謝承「後漢書」から好んで補追したとは見えません。
 また、「陳寿が不勉強で謝承後漢書を知らなかった」と速断しては、軽率と言われるでしょう。福永氏は、随分「尊大不謹慎」と見えますが、「高柴氏の引用錯誤」も想定されるので、原文要確認です。

 なお、四先哲は同時代人でなく、「陳寿」と「裴松之及び笵曄」は、百年以上離れていて、同時に読むはずはありません。まして、李賢太子は、唐代で、はっきり別時代です。それぞれ、「見たからどうだ」というのかと、反発必至です。

 福永氏は「翰苑」高麗条に引用された雍公叡註三種の後漢書の内、最初のものは……「魏牧魏後漢書」で、次が……「苑嘩後漢書」、三番目の無名の「後漢書」が「謝承後漢書」である可能性を……見出され、「翰苑」の史料としての価値……を指摘しておられます。

 翰苑「高麗」(高句麗)記事は、「魏牧魏後漢書曰」と書き出しますが、単なる誤字を超えた深刻な問題をはらんでいます。
 本来は、「魏収」(人名)編纂「後魏書」(南北朝 北魏史書)が書名であり、ここでも、「翰苑」断簡は、誤記連発混乱多発です。つまり、想定される「翰苑」原本の「魏収後魏書曰」を粗忽な(素人か)写本工は、「魏牧」と誤記したのに続いて「魏」と書いて「後」を飛ばしたのに気づき、付記の後、書き癖で「後漢書」と書いたのでしょうか。高貴な書物の筆写で弁明不可能な不手際の弁明できない連発です。

 気の毒な写本工には「魏収」が人名との認識はなく、「後漢書」も「後魏書」も同じようなものだったのでしょうか。この写本工は、誤記に気づいても修正も目印付けもせず、出来上がった写本には、大事な「校正」がされていないのです。校正の無い写本がどうなるのか、見事な標本となっています。一度、このような写本が発生すると、ここから起こす写本は、回復不能なゴミと化すのです。
 「翰苑」断簡は、文書の格式が乱れていて、一行当たりの文字数は成り行き任せであり、本来格式の定まった原本を参照して写本していないためでしょう、諸所に齟齬を生じています。粗忽な走り書きの連鎖とも見えます。
 つまり、「翰苑」断簡は、書家が珍重する「国宝」文化財であっても、文書史料として全く信頼できない文字資料であり、「魏志」現存刊本「倭人伝」に明記されている「壹」を否定して「臺」と書き替える効力を一切持たないのです。

 それ以外で、単に「後漢書」とあるのが、謝承、笵曄いずれの欠落なのか不明ですが、常識的には高名な范曄「後漢書」と見るものでしょう。「翰苑」は、文筆家のための文例集であることから、編者は、文筆家として高く評価された范曄の美文を優先したと思われますが、確認してないのでしょうか。

 いずれにしろ、このように不注意な誤記が放置され信頼できない史料の無批判な考察を根拠に、信頼すべき史料の誤記を主張するのは虚妄の極みです。
 そのような史料錯誤に気づかないのは福永氏の粗忽に過ぎません。「翰苑」転けて「福永氏」転けて、そして、と言う誤解の連鎖は、いつ停まるのでしょうか。小生が、ことさら指摘する意味は、おわかりいただけるでしょう。

*校訂済み「翰苑」
 因みに、翰苑断簡が初めて公開されたとき、《遼海叢書》本《翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本》として整然たる校訂済み叢書が刊行されているので、可能な限りの是正が施された最善史料が「中国哲學書電子化計劃」サイトに公開されているので、心ある研究者は、校訂されていない史料でなく、校訂済史料を参照して論ずるべきでしょう。

もとの三国志では「邪馬臺国」となっていた
 以上を踏まえて問題の「邪馬壹国」の部分を見ればどのようなことが判明するのでしょうか。

 以上のような「地雷」を踏んでも平気だというのでしょうか。勿体ないことです。何しろ、簡単な事柄に対して筆が泳ぐのは困ったものです。
 この鍵は、既に無効と判断されていますが、事のついでに追いかけます。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」鍵14 7/12 臺論3 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2024/02/14

 謝承後漢書」では「邪馬壹国」……范曄も「邪馬臺国」と記した可能性が……あります。……斐松之が、「邪馬壹国」の部分だけは見過ごしたとは考え難いと思います。と見れば斐松之が見た「三国志」では「邪馬臺国」となっていた可能性が……浮上します。

 謝承「後漢書」に、「東夷列伝」「倭伝」を「見る」のは、根拠の無い幻想です。正史「三国志」「魏志」で、東夷の一国名は些事です。裴松之が特段の関心を持ったとは思えません。論議に値しない「可能性」は、さっさと廃棄すべきです。

 ……「三国志」……原本は残っておらず、「三国志」が……刊行された……北宋……南宋となった以降にも……刊行されています。後の時代に……「邪馬壹国」と書き換えられた可能性があるのでしょうか。その場合、……意図があって書き換えられた……ように思われます。

 世上出回っている「妄言」「謬見」の最たるものが、物々しく示されていますが、何所のどなたの受け売りなのか、つまらないことを云うものです。三世紀の陳寿完成稿の原本も、百五十年後の劉宋史官裵松之が付注した加筆版典本も、現存していないのは、むしろ当然です。それは、別に、陳寿「三国志」に限ったことでは無く、批判の根拠とされている諸史料も、軒並み同列です。「翰苑」は、写本の末裔が、たまたま、日本に将来されていて、断簡が残っていますが、無惨な残骸であって、原本などではありません。
 続いて、途轍もない言いがかりが述べられていて、合わせて、高柴氏に、消せない汚名を残しています。もったいないことです。
 「何らかの意図」は、不思議です。「印刷工房」所蔵の版木を改竄しても流通刊本は手つかずなので、不法行為は、早晩露見します。正史改竄は、本当に命がけで、露見すれば(英語で言えば、仮定の問題である「IF」でなく、その時どうするという「WHEN」です)、共犯一同斬首で首が飛び、連座妻子は、首が繋がっても、奴隷、宮刑、果ては娼家に売られ「ただでは済まない」のです。誰がそんなことをするのでしょうか。
 もちろん、刊本は、印刷本なので、同時に多数あり、手書きで全数を書き換えるなど、無理も良いところです。そして、いくら刊本を書き換えても、版木が健在であれば、次回刊行すれば、原文が復活するのです。何とも、筋の通らない話です。

 近年、強引な説法として、「陳寿原本が、本来(筆者の)「自説」通りだったのが、後世、原本改竄されて今の刊本になった」との救いようのない「ホラ話」がありますが、皇帝蔵書をどのようにして改竄するのかという疑問を置いたとしても、「どの史書のどの文字も、盆本に手を入れれば思いのままに改竄可能」とは、底なしの泥沼論です。氏が、無根拠、無法の「思い付き」株病原体に感染していなければ幸いです。
 ついでに言うと、何者かが史書の一部の文字を差し替えるとしたら、字数をあわせて跡を残さない高度な技巧が必要であり、それこそ、実行不可能となるのは、目に見えています。いや、史料が紙資料なのか、簡牘巻物なのか、紙資料としても、袋綴じの冊子なのか、裏打ちした巻物かでも、手口は、まるで異なります。

 これからは推測になりますが、一つの可能性として考えられるのが中央公論社「歴史と人物」昭和五十年九月号に掲載された薮田嘉一郎氏の「『邪馬台国』と『邪馬壹国』」と題する一文です。……三国志の校定者が「邪馬臺」や「臺與」の「臺」という文字を似たような字画(字形)である「壹」と書き改めた可能性があると……述べておられます。

 首を傾げて、ここまで、「丸ごと推測」では無かったのかと言いたくなりますが、それは置くとして、僻諱で、似た字形の代字を選んだとは、安直な素人考えの与太話です。因みに、正史筆頭三史「後漢書」の「臺」は、なぜ見過ごされたのでしょうか。まことに不思議極まりないホラ話を信じる方も信じる方です。後世正史の「臺」も、残らず生き延びています。
 因みに、「三国志の校定者」などと苦し紛れの思いつきを述べていますが、「三国志」は、国宝級の貴重書であり、もし、校訂するとしたら、当代最高の人材が合議して校勘するものであり、独断、無根拠では手出しできず、また、正史校訂は、それこそ一字ごとに記録を残すのであり、ますます、個人が好き勝手にできるものではないのです。
 とは言え、ことの責任を、欠席裁判で薮田氏に押しつけて済む問題ではないでしょう。誰でも、何か「妄想の虫」に取り付かれる事はあったとしても、客観的に評価されていれば、「却下」です。存在しない「可能性」など、無意味です。
 このように著書に書き込むには、証人審査した上で取り上げるべきです。

 ……南宋の時代に……帝の居所を意味する……「臺」の字を東夷の国名に使うことは許されないとする考え方があったとする……、薮田氏の推測は正鵠を射ているように思われます。……はじめに倭人伝の間違いは多くないとしましたが、「臺」の字だけは「壹」と書改められたと見た方が良いようです。

 「三国志」改竄論は「世も末」です。「三国志」南宋刊本は、多数の学者が議論して校勘したのであり、個人的な思いつきで版木改竄の大罪を犯すことはあり得ないのです。
 無知な方は無限の妄想を逞しくできてうらやましい限りですが、「二千年後生の無教養な東夷」の推測されるように、陳寿「三国志」「魏志」の「臺」の「筆禍」で趙宋代の誰かが処刑されることはないのです。「筆禍」は、あくまで当代王朝、今上帝に対する大逆罪です。刊刻の際に、当代、先代の皇帝の実名を憚ることはあっても、帝の居処は、時代に応じて変遷して、一々付き合っていられないのです。
 無学、無知な現代人(二千年後生の無教養な東夷)の無責任な(妻子や両親の「首」のかかっていない)発言は、無視すべきです。「正鵠」は、物知らずの物言いです。
 倭人伝」に誤字は希としながら、ここで一字の誤記/改竄に、ここまで執拗にこだわるのは、断然不合理です。先人は、何らかの錯誤でそうなったに違いないと決めつけているだけです。一度、顔を洗って、ご自分の書いた文字を見なおしていただきたいものです。

*史家の気骨
 再確認ですが、劉宋士人の笵曄は、左遷先を訪れた友人から皇帝退位陰謀を聞かされて不同意でも密告しなかった、これは、陰謀加担と見なされて、連座した嫡子共々斬首されました。密告して免罪に与る保身策に訴えなかったのは、士人の志を堅持したのです。
 笵曄は、史記「司馬遷」はもとより、漢書「班固」、三国志「陳寿」も、厚遇どころか迫害/処刑された先例は承知していたのです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」鍵14 8/12 臺論4 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28 2024/02/14

 以上のことから、……、原文で「邪馬臺国」である[あった]ことは疑い難い……ので、本書では以後「邪馬台国」は原文を参照する場合は「邪馬壹国」とし、それ以外の場合は「邪馬臺国」と……します。

 粗雑な論拠に依拠して、原典改竄を確信するのは合理的ではありません。ぜひ、困難を乗り越えて、疑うべきものは疑っていただきたいものです。簡単に騙されるとの評判が世間に立つと、次々に騙り屋が押しかけてくるのが世のならいです。歴代皇帝の宝物として継承された正史を、命がけで書き換える」ということ自体、到底あり得ないので、そのような暴挙の動機、理由を詮索するのは、時間のむだです。
 そもそも、正史(三国志)の一隅のその又一隅に過ぎない東夷の国名を、れっきとした中国官人が、命がけで書き換える意味が不明です。自国を過大視する自大錯視でしょうか。
 因みに「台」(たい)は、「臺」(だい)とは別の字であり、便宜的に代用されただけです。もともと、「やまだい」だったのでしようか。ご自分の想像力の欠如、勇気の阻喪を、「疑い難い」などと壮語するというのは、どうかと思います。

何故「南」は「東」の間違いなのか
 さて、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」の部分も読み方の論が分かれる所です。……陳寿は三国志で里程については途中の里程を示しながら最後に合計としての総里程を示し、併せて所要総日程を示……しているのです。……つまり、倭人伝の行程記事は前半は里程で書いてあり、後半は日程で書いてあるとして、最後の「水行十日・陸行一月」を読み解くことが鍵だとされます。……全体の行程を里程と日程の両方を書いて確認するのであれば理解できますが(三国志はその書き方です)、前半と後半を里程と日程に分けて書いて、里程と日程という全く別のものを合わせることで目的地を示す事ができるとするのが通説……と思います。

 比喩が的外れで、足を引っ張っています。真っ直ぐ書けない理由がわかりません。そもそも、道里行程記事の解釈は、「倭人伝」論冒頭に論じ尽くすべきであり、このような場であたふたと論ずべきことではありません。

 ……「郡より女王国に至る、萬二千余里」と書いてあるのですから、これが帯方郡から女王国までの総里程であることは疑問の余地はありません。不弥国までで、既に総里程一万二千余里の内一万七百余里が消化されています。残りは千三百余里しかありません。……残った里程に「水行十日・陸行一月」も掛かる理由が説明されることも無いようです。……倭人伝……[を素直/普通に]読んだのでは……[必達目標である]「邪馬臺國」にたどり着かないので、前半は里程で後半は日程として全体を引き延ばし、それだけでも納まらないので南は東の間違いと修正する、ということだと思われます。
 直感[思い付き]……は検証して立証することが求められます。……[直感]が結論に直結するのでは学問の看板が泣くのではないでしょうか。

 必要な見識のあるものの「直感」には、価値がある可能性がありますが、無知な素人(二千年後生の無教養な東夷)の「直感」は、「蓋然性」どころか、考えるだけ時間の無駄です。
 但し、そのような評価は、凡人の埒外です。およそ、諸兄姉所説は、「直感」に始まっても、検証、考察の果てに世に問うものです。誰も見ていない地の果てで、史学の「看板」は、既に涙が涸れるほど泣いているはずです。

 因みに、氏は、他人の提言を「直感」と排斥しますが、発表に先立ち、どれだけ知恵を絞ったか、とか、「直感」を契機にどれだけ汗をかいて思案したか、とか、ご自分の行程を振り返って、何か感慨はないのでしょうか。相手は、背中を振り返って何の看板も背負っていないと歎くでしょう。

 肝心なのは、「敵を作って攻撃して納得させられる」ものかどうかでしょう。論争は、論敵を説得するものなのです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」鍵14 9/12 臺論5 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28 2024/02/14

 前にも述べましたように魏使は魏帝の命令により女王に贈物を届けにやって来て、その役目を果たし、女王の礼状を預かって帰ったのです。……女王の礼状が都に届いたことは倭人伝に「倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す」とあることから明らかです。陳寿……は簡潔……、キッチリと行程を述べています。……途中に経過する主な地点を示し、……所要日数[里数か]を書き、最後に合計日数を示すのが今まで見て来た陳寿のやり方です。……つまり、「女王の都する所」で一旦文は終わり、続けて所要総日数が「水行十日・陸行一月」であると述べているのです。

 折角の卓見が、伊都国以降「奴国、不弥国、投馬国」は、通過国か脇道国かの岐路が未解決のため、各論輻輳、喧々囂々と見えます。
 陳寿は、泥沼史書を上申稿としたのでしょうか。ここでは、総日数を確定し、その裏付けとなる行程諸国を列記したのではないでしょうか。「通過国以外(余傍)は略記、狗邪韓国-倭は(周旋=往来)五千里」との注記は無視するのでしょうか。

 因みに、東夷の蛮夷とのやりとりは、帯方郡が行うのであり、至尊の皇帝天子が蕃王に使節を派遣することなどありません。氏の世界観は、大分傾いているようです。それにしても、「女王の都する所」とは、随分乱雑な解釈です。魏晋代、特に、西晋代は、王族の「王」はいたものの、それは、群太守と同格の臣下であり、「都」などと称することはなく、まして、「蕃王に都などない」のです。よく顔を洗って、読みなおしてほしいものです。別稿で示したように、訳文が、字句の区切りを取り違えているのです。

 初めに述べましたように東夷伝の序文で陳寿は、今まで良く知られていなかったが、東夷の国々はきちんと先祖の祭りを行っている礼儀正しい国で、中国で礼儀が失われた時には見習う事がある……国々であり、今まで……知られていなかったそれらの(礼儀正しい)国々を(初めて)順次紹介する……東夷伝を書き、その締めくくりとして倭人伝を記述しているのです。

 原文の文意を誤解していますが、そもそも「国々」(複数?)と解するのは勘違いです。ここで礼賛されているのは、ただ一つの「倭人」です。高句麗、韓は、反乱を起こして討伐されていて賞賛されるはずがありません。ここぞとばかり「自大」論をぶつべきです。

「不弥国」の南にあった「邪馬壹国」
 さて、倭人伝では「不弥国」に続いて「投馬国」の方向を示した後、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」とあることで、「不弥国」に続いてその南に「邪馬壹国」……と述べました。……「邪馬壹国」の所在地探求は……分かり易いものだと思っております。それを難しくしているのは予定(想定)した場所にたどり着かないと考える人達によって、ねじ曲げた解釈が繰り返されて複雑な様相を示し、それをそのまま受けて、岨噌せずに流すメディアによって拡散されたからだと言わざるを得ないのです。

 近来希な、正確な感想ですが、「不弥国」の南に「邪馬壹国」と思い込んでいる』のが、不可解です。それは、校訂道里記事の、一解に過ぎないのですが、要するに、検証されていない「思いつき」でしかないのです。

 メディアは、「鵜」の親戚で「早のみこみ」の拡散が商売で、鳥類には、歯が無いので咀嚼できないのです。それを咎めても、メディアの反感を買うだけで、事態は是正されないのです。
 批判すべきは、未検証の「新説」を、報道各社に公平にプレスレリース資料を配布せず、独占的にばらまいて餌付けして、提灯持ちさせている小数の研究機関です。見当違いなところにつけを回さない方が無難です。

 「不弥国」に続く「南、投馬国に至ること水行二十日」の一文の解釈に論の余地があることは述べました。しかしながら、今まで見て来た通り、「至」には方向だけを示す場合と実際にそちらに行く場合とがあることがあり、実際に行く場合は始めに進みだす方向を示し……たと思っております。

 素人目には、原文の文意を適確に理解したとの「思い込み」が、本来明解な文意を撓めていると見えます。文意は、まずは、文書自体に聞くべきです。
 奴国、不弥国、投馬国記事は、「伊都国起点の道案内」だけで、「倭人伝」行程に関係無いとする「明解な」見方が一顧だにされてないのは残念です。行程道里は、郡文書使の周旋行程の所要日数と初見以前に提出された概念的道里が要点とご留意いただきたい。
 「邪馬台国」論義にしばしば見られる魏使行程、場違いな時代錯誤の観光案内、サラには、サラリーマンの出張報告は、ここには、一切、書かれてないのです。真面目に取り合うのも、時間の無駄なのですが、俗耳に受け入れやすい俗論は、往々にして「定説」に祭り上げられ、「レジェンド」と化するのです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」鍵1410/12 臺論6 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28 2024/02/14

 この書き方から見れば「南、投馬国に至る」……は行ったのではなく、……方向を示し……、「南、投馬国に至ること水行二十日」……は「邪馬壹国」への道筋……に必ずしも必要ない……のです。……この一文を除いても「邪馬壹国」への道筋に……影響が無いことになります。従って、この部分を除いて……みれば「東行不弥国に至ること百里。南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」となります。……「不弥国」に続いてその南に「邪馬壹国」がある事が明確ではないでしょうか。……距離が書いてないのは……五百里、百里、百里と来て最後はゼロだ、と……なると思います。そうして女王国の所在を示した後に、所要総日程は水行十日・陸行一月であると述べて……います。そして……郡治からの総里程が万二千余里……です。……実に簡潔で分かり易いのです。

 投馬国行程の解釈は、偶々正鵠を得ているのでしょう。先だって、奴国、不弥国は、実際に通過したとしていますが、かえって、解釈がうねっているようです。行程記事は、女王国のない時代のもので、伊都国で終着しているのであり、奴国、不弥国、投馬国が、一律行程外と見る方が、筋が通っていると見えます。

 ここまで、二千年後生の無教養な東夷の理解で、厳然たる正史の文章を好き放題に組み立て直し、解釈の視点をひねくり回しておいて、恐れ入谷ですが、氏の解釈のどこが「簡潔」なのか不明です。最後に、「ユーレカ」ばりに、天啓を得て、文章解釈が完成したと言いますが、素人には、何も見えてきません。大抵の「天啓」は、よくて錯覚、大抵は、論者の脳内に巣食う白アリの仕業です。
 このような隅っこで、事のついでに延々と論じる話題ではないのです。

不足の里程はどこにあるのか
 ……「不弥国」までで合計一万七百余里でした。……「郡より女王国に至る、萬二千余里」とは差があるではないか、とする疑間が生じます。この疑問は古田氏の解読で解決することになりました。氏は魏志の行路を丹念に読む中で、陳寿が行路の途中にある「對馬国」を「方可四百除里」、「一大国」を「方可三百里」と記述している所に着目されました。陳寿は島を点としては見ずに面積を持った広がりがある所という捉え方をしており、従って理屈の上では島に上陸して島を半周して反対側に抜けたと考えたのではないかと推測されたのです。

 この部分は、古田氏の解釈に、ほぼ無批判で追随して批判が困難ですが、率直に言うと、古田氏の里数計算は、概数の理屈を放念して失当であり、高柴氏が、それを根拠に端数里数をこじつけて、まことに勿体ないところです。別記事で丁寧に批判したので、ここでは結論だけですが、意見は明記しておきます。
 それにしても、陳寿が、島の国邑に広がりがあると捉えた」とは、奇想天外です。中国古代書で「國邑」は、せいぜい一千戸程度の「城郭」集落であり、城郭、隔壁は必須なのですが、「倭人」は、山島で隔離されているので、城壁が無いと言うだけです。陳寿が、古田氏と同じ世界観であるというのは、古田氏の願望であり、実際がどうかは「全く」別問題です。

 そうすると、「對馬国」を半周して八百里、「一大国」を半周して六百里、合計千四百里になります。……海も島も見たことが無いと思われる陳寿のことですからやむを得ないのではないでしょうか。先の合計に千四百里を加えると一万二千百余里になります。元々余里という概数を含んだ計算ですから最後の百は省略、或は切り捨てて万二千余里としたのでしょう。……史書として……は正確な記述となっています。……陳寿は魏使の報告書等を……三国志に反映したことが伝わって来ます。惜しむらくは、陳寿が「邪馬壹国」がかなり南方にあると思い込んでいたと見られることです。

 史書の書法は理解したとの自負心で、陳寿の勘違いと付け回ししています。「万二千百余里」と書いて、「もともと余里という概数を含んだ」と正しく認識していながら、千里単位の概数計算に百里単位の端数を取り込んで辻褄合わせするという事に不審を感じないのは、古田氏の誤解を継承しようと論を歪めているのです。

 「海も島も見たことがない陳寿」と愚弄していますが、見たことがない渡海記事も含めて、地理記事を解釈して、海も島も見たことがない皇帝に「倭人伝」を上申するのに身命を賭していたのですから、つまらない誤解はしていないとみるべきです。つまり、狗邪韓国の前方の大海の「流れ」を中原の河流に例えて、そこに「州島」、つまり、「中之島」が浮かんでいて、これを都度渡し舟で渡るという説明で、当時の読者は、納得したのです。河流の渡し舟が、行程道里上、里数を書かれないのと同様に、渡海一回一千里で済ませているのです。

*陳寿の技巧
 ということで、正史の行程記事として前代未聞の「渡海」記事を勇気を持って書き込んでいて、要するに、河水(黄河)を渡る際に中之島を渡り継ぐのと似たようなものだと説明して、恐らく「金槌」揃いの読者が納得しやすいようにしているのです。陳寿は、現代の都会人と違って、物知りであり、たっぷり時間をかけて、読者が理解できるように前例のない記事の書き方を工夫しているのですから、ご自分と同程度の知性の持ち主と侮らないことです。

 同時代随一の史官が、長年推敲し、同時代の教養人が明快と評した記事を、二千年後生の無教養な東夷の素人夷人が、速断の高みから講評するのは、素人目にも僭越です。

 それにしても、「惜しむらく」は、どう評すればいいのでしょうか。単に、高柴氏が、陳寿の真意を読み取れていないと言うだけであり、べつに「惜しむらくは」などと、高みから身を屈めてご謙遜いただくものではないのです。
 さりげなく、蟻が富士山と相撲して、勝った勝ったと言っているとみるものでしょうか。何とも、勿体ない早計浅慮です。古人なら、とんだ「赤坂見付」としゃれのめすところです。

 初学者、夷人は、分を弁え、謙虚に語るべきです。幾千万の石つぶてが還って来そうですが、つぶての数や目方/質量が勝つものではないのです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」鍵1411/12 臺論7 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28 2024/02/14

〇陳寿誹謗の悪習
 陳寿に、海も島も知らない無知、無学と謂れのない非難を浴びせていますが、引き合いに出した海南島は、漢代以来知られていた「海島」ですから、この非難は「二千年後生の無教養な東夷」の認識不足です。ろ覚えの聞きかじりで、陳寿の知識を限定するのは不合理です。なぜ、陳寿の無知を確信できるのか、不思議です。

 「倭人伝」で多用されている「概数」について賢察されていて、道里に関して検算するときに、百里程度は、無視してよいとするのは、「鄙には希な」見識ですが、実際は、千里単位でなく、千,三千,七千,一万二千と「跳んで」いるさらに目の粗い概数なので、「一千里に届かない程度は無視してよい」というものです。
 「理屈の上では正確」などと呪文に頼らず、同時代常識で丁寧に見極めて欲しいものです。そこまで踏み込めば島巡りの半周航行などと古田氏の意味不明な思い込みを信奉する必要はないのです。

*道里の数え方
 丁寧に言うと、「国邑」から「国邑」までの道里は、それぞれの国主居所という「点」が起点/終点であり、古田氏が、苦吟の末に編み出した二島「半周航行」は、渡海千里に織り込み済みです。それが合理的というものではありませんか。
 氏は、古田氏に何か遠慮しているのでしょうか。
 要するに、倭人伝」各国道里は、郡を発した文書がそれぞれの道里をそれぞれの日数で進んで、各国国王、ないしは、国主に届くという日程保証のためのものなので、総じて、郡倭道里/日数が、どこかに書かれていると見るべきなのです。この点は、当時の全ての読者が、当然承知しているので、わざわざ書いていないのですが、それは、明々と書かれているのと同様なのです。それが、二千年後生東夷の無教養な「読者」には見て取れないので、意味不明と騒動が起きているのです。
 いずれにしろ、史官は、その叡知で「都(すべて)水行十日、陸行一月」、つまり全行程四十日と明記しているので、氏の想定する「思い込み」は、専ら氏の「思い込み」に過ぎません。

 また、古田氏について惜しむらくは、「奴国」の場所を示されず、「奴国」は通過していないとされたことです。地形を踏まえた倭人伝の読み方において、今一歩の踏み込みがあればもう少し明確な論となっていたと思われます。

 以下の須玖・岡本論は、ほぼ、古田氏の第一書の提言であり、何も批判するものではありません。ついでながら、当面の議論は、圏外情報を排除して、信頼できる要点に絞って、明解にするというものであり、周辺から、雑情報を採り入れるのは、愚策です。議論で、決定的に不利になったら、周辺から雑情報を採り入れて、混沌とさせるのが、論争敗者が敗北を先延ばしにする最後の隠れ家です。真似てはいけません。

*筑前須玖史前遺跡の研究
 京大文学部が昭和初頭に行った須玖・岡本遺跡発掘の報告書*は、小生の十数年来の愛読書であり、同遺跡後方高台の熊野神社こそ卑弥呼の墓所というのが、小生の初期提言です(2013年)。(*「筑前須玖史前遺跡の研究」京都帝國大学文學部考古学研究報告 第十一刷(昭和三年~昭和五年)

 因みに、発掘時の現地農家の事情聴取で、それまで農地耕作の際に露呈した甕棺は、たたき割り、粉砕した人骨と共に人知れず処分したとなっていて、江戸時代以来の伝承でしょうが、隔世の感を禁じ得ないものです。
 要するに、小生の初期の愛読書が、京大文学部の須玖岡本遺跡報告書であり、そこに示された遺跡後方の丘の上の熊野神社が、往年の卑弥呼の居所であり、後の墓所となった(のではないか)というのが、2013年当ブログ発表記事です。

 「邪馬壹国」の中心地は現在の「奴国の丘歴史公園」
 「戸」と「家」
 倭人伝では「不弥国」は「千余家有り」……「邪馬壹国」は「七万余戸なる可し」……です。「家」と「戸」が区別して書かれている意味はよく解りません……対馬国(千余戸)、一大国(三千余家)、末慮国(四千余戸)、伊都国(千余戸)、奴国(二万余戸)、不弥国(千余家)、投馬国(五万余戸)、邪馬壹国(七万余戸)です。……「邪馬臺國」と投馬国が……大国……です。また、一大国と不弥国だけが「家」……で、ほかは「戸」……です。

 「戸」は、古代国家の根幹で、隅っこで論じる事項ではありません。基本の基本が頭にないのは、「中国史に無知」と公言しているのと同然であり、云うならば「不勉強」です。

*中国古代史~知識の泉
 情報源として、貝塚茂樹、宮崎市定両師の著書は必読です。漢字の意味は、白川静師の著書に頼るべきです。無知を誇ってはならないのです。
 いや、これは、高柴氏独創の誤謬でなく、おしなべて、俗説論客に「普通」の見当違いですが、中国史書を、二千年後生の無教養な東夷、つまり、現代東夷の常識で解釈してそれで良しとして、折角の折に、見識を広げようとしないのは、勿体ないことです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」鍵14 12/12 臺論8 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28 2024/02/14

*長口説~承前
 現代夷人の人生観に根ざした、歴史的な根拠の無い先入観は、本来、論証には百害あって一利ない(別に、小生は、営利目的で論じていないので、「一利」は、お門違いなのですが、「邪馬台国」で営利されている方にすると、通説への異議は商売の邪魔という趣旨で、そのように非難する)のですが、史書理解に基礎知識は不可欠です。

*「倭人伝」の起源考察
 おそらく、「倭人」が最初に、楽浪郡なり、遼東郡に身上を申告し、「倭人伝」稿が書かれた際に、「道里万二千里」、「戸数七万」という報告があったのでしょう。ところが、時は、桓帝/霊帝と括られるように、後漢末期の動乱事態であったため、建安年間で云えば、「公孫氏から皇帝への報告がなかった」とされていて、曹魏明帝時景初年間に公孫氏が滅亡したときに、司馬懿が郡高官諸共、公文書一切を焼き払ったので、「倭人伝」稿は、灰塵に帰したのです。
 ただし、予め/それとは別に、明帝の指示で楽浪/帯方両郡に帝詔を告諭して、「密かに」、つまり無血で皇帝指揮下に回収したときに得られた「両郡文書」に残されていた「倭人伝」稿に基づく、不正規の道里、戸数が、明帝に公認されてしまったという事のようです。

 そのような、堂々たる「倭人伝」ですが、「正始魏使」派遣直前に、郡倭を周旋する帯方郡官人によって、對海國、一大国、末羅国、伊都国の「戸数」は、せいぜい数千戸と知れていたため、全戸数七万戸のツケを、奴国、不弥国、投馬国に押しつけたものとみえます。

 このあたり、「倭人伝」新稿では、余傍の国々は、「女王に報告が届いていないので実態がよくわからない」とうまく言い逃れしているものと見えます。桁違いの戸数を有する大国の戸数が、二万戸、五万戸とは、いい加減なものです。恐らく、二大国には、戸籍も何も無いと言うことなんでしょうが、筋の通らない話ですから、そのように由来を推定するものです。他にも、説明は付くかも知れませんが、まだ、明快な意見を聞いていないで、評価のしようがないのです。

 戸数千戸程度であれば、「國邑」の定義に沿っていて、中原人の理解では、王の居所、「氏神の鳥居」を取り巻いて、農家や市(いち)を囲む隔壁/環濠集落であり、城壁が無いのは不法ですが、集落の規模としては、中国太古以来の聚落国家とわかります。つまり、あれこれ説明がなくても、中原人に理解できる「国邑」なのです。
 つまり、倭人伝冒頭、郡から倭への行程諸国は、山島に「国邑」を成していると紹介したのは、それぞれ、千戸単位の集落国家ということです。行程上最有力な伊都国が(僅か)千戸なのは、むしろ当然です。この点を読み過ごすと文意が読めず失格です。
 万戸の戸数を標榜する二大国は、千戸単位の隔壁/環濠集落の集合体と解されますが、文字の無い時代、どのようにして統制、王統を採ったかわかりません。所詮、周旋五千里行程上の主要六国以外は「余傍」に過ぎないので、説明せずに放置したのです。

 ……徴税や労働力の徴発あるいは徴兵……を支える仕組みが「戸」または「家」であったと思われます。それが、異なる表記が使われていることは、女王国と言いながら制度的には必ずしも統一されたものではなく、従来からの経緯等で異なる単位(制度)が使われていたことの現れと見ることも出来るかもしれません。残念ながら、これ以上のことはわからないと言わざるを得ません。

 お説の通り、中原における歴代政権の維持した制度では、一戸に一定の農地(良田)が与えられて、一定の税務、軍務、労役が課せられたと見るべきです。但し、個別の農地は、人力耕作でなく、牛が牛犂なる「犂」(すき)を引くのが前提で、一戸あたりの農地面積が決定されていて、そこから、一定量の収穫が想定されていたのです。
 つまり、戸数は、牛の力で耕作する前提で設定されていたのであり、「倭地」のように、牛が耕作しない、人が労する土地では、一戸あたりの農地面積を加減しなければなりません。
 それが、どのように運営されていたか、「倭人伝」には書かれていませんが、所詮、対海国を経た渡海船の搬送能力は、微々たるものだったので、帯方郡にとって、倭人は食糧供給源として計算できないものだったのです。つまり、倭人伝」の戸数は、帯方郡、あるいは、遼東郡の視点では、単に見かけを綴ったものに過ぎなかったのです。

*誤解の由来
 帯方郡は、景初年間に遼東郡の支配から回収され、皇帝直轄となった時点で、大量の郡文書が新任太守の目に入ったものと見えますが、どうも、内容を咀嚼しないままに、雒陽の魏明帝に報告したと見え、皇帝の詔には軽率な誤解が目に付くのです。
 もともと、対海国から帯方郡まで、小舟で渡る三度の渡海、計「三千里」と郡内街道「七千里」の行程ですから、「倭人」の食糧供給能力は、計算に入っていなかったのです。

 重複御免で丁寧に説明すると、文字の無い「倭」では戸籍管理は困難/不可能ですが、それでも、先進国で千戸程度の戸籍が導入され始めていた程度と見るべきです。何しろ、郡の要求は、当然、戸数の根拠を明確にせよというものですから、早急に戸籍を整備しなければならないのです。
 もっとも、数万戸の二大国に、正式の戸籍があったはずはなく、従って、正確な戸数は出せないが、「大国」(大きな国)として責めを負ったものと理解すべきです。そのような戸籍制度の早期導入を図るために、巡回指導者として刺史を置いたのでしょう。何しろ、文字の書ける、計算のできる小役人が大勢必要だし、木簡にしろ何にしろ、戸籍を書くための筆、墨、硯、書卓が必要です。

*女王居処の話
 ただし、女王の「居所」は、「倭人伝」冒頭で明記されているように、山島の「国邑」、つまり、環濠、隔壁で囲まれた聚落であるから、精々、千戸止まりであり、女王に仕える「公務員」に課税したり、労役や兵役を課することはないので、戸数を書くことは無意味なのです。従って、戸数は、書かないのです。
 要するに、女王の直轄「国邑」が、七万戸の筈がないのです。

 と言うことで、倭人伝」で喧伝される「可七万余戸」は、全「倭人」戸数、つまり、各国戸数の計算上の総計とみるべきです。楽浪郡/帯方郡記録にあるような一戸単位で戸数計上するには、国内全域に戸籍整備が必須ですが、当面は、投馬国というでかい国が、戸数不明で明記できないのです。

*三国志の「戸」~古田氏の考察と早計
 言い漏らしていましたが、戸籍制度に「家」はなく、つまり、ここで「家」と書いているのは、魏制の「戸」ではないということです。
 従って、三国時代「魏」に属していなかった「蜀漢」は、後漢の後継王朝として、漢制戸籍を維持していましたが、「戸」とは書けないのです。蜀志の基本となった蜀の資料には「戸」と書いていた可能性が濃厚ですが、三国志に収容する以上「戸」と書けなかったのです。つまり、当時、魏は、蜀漢所領に魏の戸籍を適用していなかった/できていなかったことの確認でもあります。「魏志」は、曹魏公文書に基づいているので、曹魏管理下にない「蜀漢」の戸数は、書かれていないのです。

 孫氏の東呉は、少々微妙ですが、もともと後漢の太守であり、呉帝を名乗ってからも、折に触れ魏に服従を申し入れていたので、東呉全土の戸籍資料を提出していた可能性があります。そうなれば、曹魏は東呉所領を支配していたことになるので、「魏志」に東呉支配地域の「戸」は記録されていなくても、「呉書」に「戸」を書くことができるのです。

 以上は、古田氏の第一書『「邪馬台国」はなかった』で考察されていますが、氏の「三国志」観は、早計、早合点であり、陳寿が、三篇の国志を全て魏の史官の世界観で統一したとの先入観が災いして、早計に陥り、直感的に大局を把握しながら、実戦の詰めを誤っ感があります。

*基本的な問題は、最初に解決
 それはさておき、ここまで書いてきて、高柴氏の論述が時に陥穽に落ちるのは、大事な事項を後回しにしたために、つけが利息付きで回ってきているように見えるのです。
 このあたり、冒頭で道里行程問題と共に戸数問題を解明しておかないために、遡って読みなおす必要が出るのです。「問題」の解は先送りしない方が良いのです。
 このあたり、氏の周辺には、適切な学識を有して、助言、指導する方がいなかったと見受けますが、本来、商用著書出版以前に解決すべきと思われます。

 「倭人伝」の解説を、書かれているなりに順を追って書くというのは、読者が大勢の中の現在地を知ることができるので、道に迷わない配慮ですが、やはり、大事な課題は、前段で解き明かしておくのが好ましいのではないかと考える次第です。ご再考いただきたいものです。

 「不弥国」は「投馬国」との交通の基点であることから考えて、博多湾に面した玄関口的な国で、博多湾に面して東西方向に広がっていると考えました。それに続く遺跡群の多くは「邪馬臺國」の範囲になるのではないでしょうか。その中心部が須玖・岡本遺跡群で、ここが「女王の都」と考えてみました。「邪馬臺国」の中に女王が直轄する特別な地域があるという意味だと考えましたが、他の考え方もあると思われますので、ご意見等いただければ幸甚です。

 所詮、氏の行程解釈は、氏の独自のものであり、不弥国を歴て投馬国に至る」という過程が同意されなければ、以下の論理に従うことは困難です。時代考証すると、当時、博多湾は、ドロドロの沖積低地であり、海港の用は為していなかったと見えます。とにかく、海船が入港しようにも、浅瀬だらけであり、仮に、嘴のように硬い土地が、海中に突き出していても、荷役できる桟橋は設けようが無いので、まとまった荷下ろしができず、倉庫も設けられないのであり、また、海市も設けられないですから、誌の構想する不弥国は、砂上の楼閣ならぬ、泥沼の惨状となっていたはずです。現代地図で夢想するので無く、筋の通った考証の上に、時代構想を描くべきでは無いでしょうか。要するに、博多湾港湾盛況は、泥沼の固まりかけた、数世紀後になるでしょう。

「邪馬臺国」は先進技術の集積地

 当区分は、氏の意見の提示であり、批判対象でないので省略します。
 捨て台詞でも無いのですが、「先進技術の集積地」とは、誠にトンチンカンな言い草です。「技術」は、形と嵩のある「もの」ではないので、集積することなどできるはずがありません。もっと、一字一句を大事にしてほしいものです。

                                完

2023年8月24日 (木)

私の本棚 佐藤 広行 古田史学論集 第三集「周旋五千余里」論 再 1/2 補充

 倭地及び邪馬壹国の探求 「周旋五千余里」と倭地の領域の検討 (2000)
 私の見立て★★★★☆ 丁寧/着実な論考 2017/11/25 追記再掲:2021/03/27, 07/10 2022/09/26 2023/08/23

〇再掲の弁 2022/09/26
 当論考の取り組みは依然として高く評価するが、小生、つまり、当ブログ記事筆者の現在の見解では、「周旋」は、同時代用例*からみて「狗邪韓」と「倭」の「二点間往来」と見るので、佐藤氏の見解には、同意できないと明言する。(*袁宏「後漢紀」などに散見される)

 倭人伝冒頭部分の「従郡至倭」と書き出された部分は、帯方郡から「倭」と書かれた「倭人」居所、ないしは、女王之所に至る主要道里、主要行程を示すものであり、倭人伝の要部である。そこでは、後に全体道里が万二千里と明示するのに先立って、郡から狗邪韓国を七千里と明示している。
 続いて、行程諸国の記事が続き、それぞれ道里ないしは行程が書かれているため、記事に書かれた諸国全てが主要道里、行程であると誤解される事を懸念して、狗邪韓国と倭人居所の間の主要行程を「周旋」と明示し、これを、五千里と明示したのである。

 同様に、主要行程上の要部、つまり、對海、一大、末羅、伊都が、一向に南下する行程上にあって、当然、倭人居所の北方に当たる事から、これら四ヵ国を「女王国以北」と形容したのである。世上、このような表現では、三十ヵ国に及ぶ国々を対照と誤解して、対象国が不明確だとする意見があるが、それは、倭人伝文意の取りこぼしである。ここまでに書かれているのは、主要四ヵ国に加えて、奴国、不弥国、投馬国の三国だけであり、残りの国々は、そこまでに登場していないから、明らかに対象外なのである。

 以上、話すと長いが、筋の通った見解なので、話せばわかるものと思い、ここに書き込んだものである。

 このように必要事項が明示された倭人伝記事であるが、氏は、「周旋」の語義を現代日本語風に断じているため、論考のすすめ方は妥当でも、一種こじつけにとどまっていると見える。

 また、他国の紹介で起用された「方二千里」記法が不採用となっていて、「周旋」が類例の見つかりにくい孤立用例なのも不審である。正史の編纂においては、古典に典拠の無い用語を不意打ちに使うのは「御法度」、下手をすると厳罰の対象であったから、「周旋」は、むしろ常用されていたありふれた用法で起用されているとみるべきである。

 という事で、以下の記事から、少々転換した見解になるので、ご注意いただきたい。

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〇記事再掲 ~ 目下不支持の過去ログ
 本記事は、古田武彦氏が「「邪馬台国」はなかった」で行った重大な解明論考の瑕疵として「倭地の領域」が解明されていないことに不満を持ち、当論考で、是正を図ったようである。先賢の論考に弱点を見つけて、補填を図るという意味では、当記事も同趣向である。
 よって、それぞれ学恩に対する謝恩であることは認めていただきたい。

 氏が、古田氏の倭人伝論に於いて、倭地の地理的位置、すなわち、帯方郡からの方角、道里(道のり)及び戸数が記載がされていることを上げただけで、「倭地」の国のかたちと大きさが解明されていないのを「倭人伝」の不備と見たのであるが、そのように見た理由として、東夷伝は、全体として、諸民族の国のかたちが明記されているのに拘わらず、倭人記事では明記されていないように解釈されていることが、解釈の不備と見たものである。

 ここで、氏は、倭地の領域の形と広さの書かれている記事として、「周旋五千余里」は、次の下りを言うのであり、論考は、大変丁寧に、関連史料を渉猟して考察を加え、思考の経路を整えているが、ここではその部分は飛ばして結論部分を確認する。
 參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里

 氏の理屈では、『「周旋」は、不定形、つまり、形のよくわからない領域を言う』らしい。と言うと、不同意と見えるかも知れない。氏の説明について行きにくいが、結論に同感を表明したものである。
 当方の解釈では、倭地は、離島部分は別として、九州島上で言うと、一周五千余里相当の範囲内に収まると言うことだと思う。以下、当方の論考では、「倭国」と言うが、これは、倭人伝の対象となっている大国、つまり、三十国全体のことである。(注:当時の見解である)

*周旋の解釈~「領域」の見立て
 直線的に説明すると、韓国のように東西海で限られている領域なら、南北境界を割り切って、方形(四角形)と見なすこともできる。朝鮮半島の南部以外は、古くから楽浪/帯方郡に知られていたから、領域図めいたものが知られていたと思うのである。
 世上、「方」を現地地形の反映と見る向きがあるが、あくまで「見立て」であり、どの程度不確かであったかは、いくら調べてもわからないので、幾何学的に判断すべきではないのである。
 倭国のように小国山盛りで、どこまでが自国か地図を描いて示すことのできない諸国が大半では、倭国全体の領域は、はっきりわからないのである。

〇「領域」図の幻想
 余談であるが、太古以来、各王朝の領域が地図上に示されていることが多いが、きっちり国境線で示されるような領域が確認されていたわけではなく、特別な場合を除けば、図示された境界は虚構、つまり「ウソ」である。

 各国は、領内の農地を、悉く測量/検地し、各戸に割り当てていたから、領地内の農地については、くまなく承知していたが、耕作不能で未開拓の山野がどの国に属するかは、わかりようがない。
                                未完

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▢方針転換のお断り 2022/09/26
 冒頭に書いたように、三世紀当時の知識人の持つ語彙では、「周旋」は、二点間往来の意義と見るのが妥当と考えるに至ったので、本論に展開された氏の論考には賛同できない、との結論に到ったが、それはそれとして、氏の学術的な論考の組み立ては偉とすべきであり、素人論者として、氏の論理の建て方に賛同するという考えには変わりが無い。

 なお、ここで開示した「概数論」は、倭人伝解釈の際に必須なので、あえて加筆していないものである。

以上

2023年8月23日 (水)

私の本棚 佐藤 広行 古田史学論集 第三集「周旋五千余里」論 再 2/2 補充

 倭地及び邪馬壹国の探求 「周旋五千余里」と倭地の領域の検討 (2000)
 私の見立て★★★★☆ 丁寧/着実な論考 2017/11/25 追記再掲:2021/03/27, 07/10 2022/09/26 2023/08/23

*局地解釈の勧め (後に撤回)
 そのような状態だが、倭国が魏朝の家臣となった以上、倭人伝には何かの記事を書かざるを得ないので、まあ、あえて言うなら、氏の想定した字義に従うと、ぐるっと巡って全周五千里だと言ったと推定される、と言う提言である。
 文脈に従うとそう読める以上、特に不都合がない限り、三国志全巻を通読したり、史記、漢書を参照したりする必要は無いということである。何しろ、西晋代、帝室書庫が、残らず紙巻物になっていたという保証はなく、典拠を求める際は、簡牘巻物であった可能性が高いので、「史記、漢書を参照 」すると言うことは、荷車で引きだしてきて、その場にゴロゴロと展開することを意味するので、いくら史官が典拠を求めていても、そのような大事件は避けたと見るものである。

 大事なのは、魏朝の新参の外藩王/蕃王の領地は、韓国、高句麗同様に表現する「方*千里」と同じ広さとは言い切れないが、広がりとして大差ないということのようである。(これは、当初の意見であり、現時点では、「方里」の解釈は異なるものとしているが、本項の限界を超えているので追記しない)

駆け足概数論
 但し、「周長五千里」という解釈であると、正方形に近似すると、一辺千二百五十里という半端な数字になり、千里単位の概数で書かれている行程道里と食い違うのである。それなら、なぜ、周旋四千里と言わなかったと言うと、倭人伝の概数記法では、[千]の次は、[二、三千]、次は[五千]、[七、八千]と飛んで、[十万]でけた上がりするから、倭人伝概数で[四千]里は無いからである。
 「倭人伝」は、陳寿が率いた専門家集団が、多大な時間と労力をかけて推敲/編纂し、皇帝付近の高官読書人の批判を仰いだものだから、一目で不具合の読み取れる記法はしなかったと考えられるのである。要するに、編者と読者の間には、周旋は、面積表現などではないと了解があったと見るべきである。
 因みに、[二,三」千は、[二」千あるいは[三」千の選択となるが、比較対象となるものがないときは、「五」千に届かない範囲の数として、単に[数」千と言う、という感じで、大抵の数字は、滑らかに解釈できるように思う。
 要は、史官は、その場その場の前後関係/文脈に従って、言い方を選ぶのである。

*「悉皆」主義の限界

 一応のまとめとして、広く用例を収集して意味を探るのは、必ずしも、最善・最良の策ではないということである。
 古代史文献の用例検索の手法として、古田武彦氏が提言し、厳守している「悉皆」主義、つまり、根こそぎ、悉く文献用例を調査する行き方は、厖大な時間、つまり、関係者の労力を壮大に消費することから、好ましくない場合があることを指摘したい。特に、調査結果の評価に、多大な先入観を与えるため、慎重に適用すべきものと考える。
 本来、用例の史料批判は、ここの用例の文脈を考慮しないと不正確になるのだが、とかく、厖大な検索で、全ての用例に対して、そのような高度の新釈をする事は、人知を超えているものと思量するものである。関連性の高い文献に絞って、用例を考察するべきであると考える。

*蛇足の戸数論
 氏ほどの慧眼が、倭国総戸数が書かれていないと速断したのは、もったいない。
 「倭人伝」にかかれている「戸数」は、後世二千年後の東夷には、三カ国に対して二万、五万、七万と列記されたとも見えるが、「単純に」足すと十四万であるが、陳寿が、現代東夷のような「単純」な思考に陥っていたとするのは、「単純」に過ぎるように感じる。性急な読み飛ばしで、早合点の陥穽に墜ちないように、もっと丁寧に考察した方が良いように思われる。

 それにしても、万戸代でき採されているように見える「三国」以外、行程上の対海、一台、末羅、伊都の四ヵ国に対しては、「端数の千戸台だが、僅少と決まっている戸数で、どれだけになるかわからないが大したことない端数」を足して結局十四万とは、読者に計算を強いることになり、不首尾である。

 正史蛮夷伝の一件である「倭人伝」に求められる総戸数は、東夷列伝・倭人伝の「要件」、つまり、必要不可欠な数字であり、それほど重要な数でありながら、「倭人伝」に明記されていないと見るのは、何とも不合理である。そのような「倭人伝」は、上覧以前に不備との非難を浴びて却下されていたはずである。読者が計算して埋めろというのは、いかにも、傲岸不遜である。

 つまり、総戸数不明は、「倭人伝」として致命的な不備であるから、ここには、倭国総戸数七万戸と明記されていると、自然に解すべきであろう。

 大雑把な概数計算では、二万、五万という戸数に、三十国足らずの端数戸数を足しても、七万戸の次の概数である十万戸には遠く及ばないと判断して、七万戸、つまり、五万戸よりははっきり多いが、十万戸よりはっきり少ない数字としたのであろう。

*「倭人伝」概数論
 倭人伝に現れた一(千),二(二千),五(五千),七(七千),十(万),十二(万二千)という飛び飛びの概数に示された、とてもおおざっぱな概数に対する「深き理解」に敬服すべきだろう。

 念押しすると、倭人伝にありふれている『「定数」に「余」と書き足した表記』は、「定数」程度、あるいは、「定数」と見るべきであり、したがって、どんどん足して計算しても、端数が溜まっていかないので、合理的なのである。

 戸数で言えば、見かけ上「万戸」概数と見えても、実際は、二万余戸の次は、三,四がなくて五万余戸かも知れないのであり、もし、「余」が切り捨て表現とすると、どの程度の戸数が切り捨てされたか推定できないのである。つまり、四万近い戸数を二万余戸に丸めた可能性がある様な数字で加算を繰り返したら、どれほど見当違いになるかわからないのである。
 「余」を読み飛ばして、全体が概数表現とみる由縁である。

 いずれにしろ、万戸単位の大局的な集計に、数千戸の端数は勘定できないので、全国戸数の積算には、無縁なのである。

 算木計算の時代にどうしてと思うだろうが、数に関する感覚は、それまでの数千年の間に結構磨かれていたと思うのである。特に、正確な資料のない、おおざっぱな数字の扱いに、漢制、そして帯方郡の知恵が働いていたのではないかと思われる。

*倭人伝の特性
 原点に立ち戻って、中国史書の外夷伝である「倭人伝」の特性を認識しないと、正確な理解から遠ざかるのではないかと思う。中国史書、後に、正史と呼ばれる格式を備えた「三国志」は、三世紀当時の中国最高峰の知識人の学識に合わせて編纂されていて、以後、再三にわたって、細部に到る校閲、検証を経ているので、三世紀当時の中国最高峰の知識人の学識に照らして解釈すべきであり、無教養な後世人の思い込みで、安直に解釈すべきではないのである。まして、後世人でも、一段読解力の劣る、異郷の異人の末裔の勝手な思い込みによる解釈は、厳に戒めるべきなのである。(よくよく、考察を重ねた上で、解釈を構築すべきだというものであり、後世人には、絶対正確な読解ができないというものではない)

 あくまで素人考えであるが、素人なりに謙虚に考えると、伝統的な「倭人伝」解釈は、「倭人伝」以外の未検証史料から侵入した「思い込み」に惑わされて、「倭人伝」解釈の基点、視点がずれていて、端(はな)から正確な解釈から遠ざかっているように思うものである。

 東夷伝全体で見ても、韓国までの領域は、長年の通交で国勢が知られていたから、いわば、各国の身上書の項目を書き写せば良いのだが、「倭人伝」は、何も書かれていない身上書に、不確かな情報を書き込んでいったので、不確かさが伝わるように、あえて、不確かな書き方をしたのかと思うのである。思うに、「倭人伝」は、後漢献帝の建安年間、公孫氏が遼東郡太守に鎮座して、早々に書き付けられたと見るものである。「倭人」の対応窓口は、漢武帝以来の楽浪郡であり、「倭人」が女王を共立する以前と見るものである。従って、後に女王の居処となった「邪馬壹国」は、まだ存在していなかったと見るものである。ついでながら、帯方郡が設立されたのは、建安年間であり、公孫氏が、韓、濊と共に、新参の「倭人」を管理するために、それまで窓口楽浪郡の実務担当であった帯方県を、郡に格上げしたと見えるのである。
 こうした経緯は、後に、遼東郡が、東夷管理に無頓着な司馬懿の率いる大軍によって、公孫淵以下、官人に至るまで殲滅され、郡の公文書が残さず破壊されたため、不明瞭となってしまっていたが、「倭人」に深い興味を有していた明帝が、帯方郡を早期に接収したので、帯方郡「倭人」関連文書が洛陽に齎されたものである。

〇「倭人伝」の意義
 そのように、「倭人伝」は、独自の視点と方針で書かれていて特別扱いが必要である。してみると、安直な後世視点にとらわれて「魏書東夷伝倭人条」と言う言い方は、同時代視点に欠ける、浅薄な理解から出たものではないかと思われる。このような廃語はレジェンド(骨董)表現とすべきだと思うのである。つまり、偏見に拘わらず、『「倭人伝」はあった』のである。

*後記
 私見の余談はさておき、2000年時点で明言されていた、これほど明解な論考が余り参照されていないのは、まことに残念である。
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                                以上

2023年8月20日 (日)

今日の躓き石 MLBの蕃習か NHKBSが報復を煽る「リベンジ」

                            2023/08/20 
 本日の題材は、NHKBSのスポーツ番組 「ワースポMLB」の暴言である。

 無名氏の語りによれば、千賀投手は、前回登板時の復讐に燃えて「リベンジ」したとされているが、そんなことを公共放送が報道して良いのだろうか。
 大リーグでは復讐として死球を浴びせるらしいのだが、前回乱打された相手全員にぶつけたのだろうか。困ったものである。

 いや、冗談はそこまでにすると、NHKともあろうものが、このような途方も無い、救いようのない暴言を野放しにしているのはどうしたことなのだろうか。放送前に、セリフ合わせはしないのだろうか。出演者は、何も自省しないのだろうか。そんないい加減な番組制作で、受信料を堂々と受け取れるのだろうか。何しろ、高品位が売り物のBS放送なのである。つまらない冗談は、楽屋止まりにして貰いたいものである。

以上

2023年8月13日 (日)

今日の躓き石 不屈の努力に泥を塗る 毎日新聞得意の「リベンジ」 反社会的な「REVENGE99」

                   2023/08/11,/13 

 本日の題材は、毎日新聞大阪14版「スポーツ」面のどえらい汚点である。何しろ栄光ある「もっと社会人野球」コラムに、でかでかと『最後の「リベンジ」』と書き立てられては、本人もたまるまいと思うのである。

 『三度目の「リベンジ」」を誹られた上に、これでは、30歳を目前にして、今度こそ人生の末期と罵られていると見える。これで、逆恨みの復讐心人生になすべき目標も、これを最後に種切れとは、何とも、心許ない「泣き言」と思うのだが、何も、それを全国紙で「でかでか」と書き立てることはないのではないか。毎日新聞の報道姿勢が問われるのではないか。

 これが、『今一度の「チャレンジ」』と言うなら、それなりに意味が通るし、これでダメでも、また出直す」という闘志が見えるのだが、よりによって、この上なく根性曲がりで、どぎたない「リベンジ」を口走るとは、どうにもこうにも救いがたいのである。
 すがりつかれた全知全能の神様も、正義の刃で「悪」を倒したくても、手を出しようがないのではないかと愚考する。神様は、願掛けされる度に走り回る「使い走り」ではないのである。

 それにしても、全国紙たる毎日新聞にこのような邪悪な言葉が出回るのはどうしたことだろうか。これでは、言いたい放題のネットメディアと変わらないではないか。このように良心のない報道が幅をきかすようでは、全国紙の存在価値は、霞んでいくのではないか。

*罰当たりなチーム名の横行
 もっとも、「REVENGE99」などと罰当たりの命名をした何者かが、途轍もなく悪いのだろう。このように反社会的で、流血テロを礼賛するようなチーム名が、堂々とまかり通っているのは、同チームの所属協会に「良心」も「倫理」も存在しないためなのだろうか。困ったものである。

 この「社会の敵」は、全国紙でもなければ、公共放送でもないので、たちの悪い、人前で口にできない、ハレンチな命名に対して、当閑散ブログで一言文句を言うにとどまる。当ブログ筆者は、聞く耳のない輩を、本気で相手にしないのである。
 それにしても、ご丁寧に英語で世界に恥をさらすとは、大した根性であるが、何事も下には下があるという事か。

以上

2023年8月12日 (土)

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 1/9 三掲

會稽東治考 1 「東治之山」               2016/11/09 2023/05/04,/24,  三掲 2023/08/07

□三掲の弁
 当ページ末尾付近で、「念押しの議論」と称して、念には念を入れているが、一向に反響がないので、最後のお願いに挑んでいるものである。

◯はじめに
 定説と呼ばれる「俗説」では、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」の「會稽東治」には典拠がなく、「会稽東冶」の誤写とあるが、そう簡単な話では無いと思う。
 「會稽東治」とは、司馬遷「史記」夏本紀の「或言禹會諸侯江南,計功而崩,因葬焉,命曰會稽。」と言及している歴史的な事跡に因む、由緒来歴のある會稽「東治之山」を指すものであり、「東治之山」とは、具体的には会稽山をさすものと考える。

*「会稽之山」
 「水経注」および「漢官儀」で、秦始皇帝が創設した「会稽郡」名の由来として書かれている記事があるが、現在「東冶之山」と作っている写本が見られる。
 秦用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡,或以列國,陳、魯、齊、吳是也;
 或以舊邑,長沙、丹陽是也;或以山陵,太山、山陽是也;或以川源,西河、河東是也;或以所出,金城城下有金,酒泉泉味如酒,豫章章樹生庭中,鴈門鴈之所育是也;
 或以號令,禹合諸侯,大計東冶之山,會稽是也。

 では、「東冶」が正しいのかと思いたくなるが、会稽郡名の由来に「東冶之山」が登場する謂われはなく、禹の事績に因んで「東治之山」と校勘した写本を採用するべきと考える。

 また、中国の地名表記で、「会稽東冶」は、「会稽」(地域)と「東冶」(地域)と読むのであり、会稽郡の東冶県をさす場合は、「会稽東冶県」と明記する。これらの書きわけは、笵曄「後漢書」倭条(傳)に揃って現れているが、笵曄は、魏志「倭人傳」の「会稽東治」の本来の意義を理解できずに「東治」は地名にないから、劉宋の領土内の地名である「東冶」の誤記と即断して校勘したものと思われる。

 更に念押しするなら、ここで書かれている各郡命名は、秦始皇帝の全国統一の際に、重臣である李斯が決定したものであり、その時点、漢(前漢)に命名された「東冶」なる地名は存在しないので、ここに「東冶」と書くのは、時代錯誤なのである。「水経注」と「漢官儀」は、「倭人伝」から見ると後世の編纂であるが、李斯の提言の記録なので、その由来は、遠く秦代に遡るのである。
 丁寧に時代考証すると、異議を挟む余地はないように思うがどうであろうか。

*念押しの議論~2023/05/24
 因みに、三国時代、「東冶」は、曹魏の領域外である東呉孫権の領域内であって、魏には、一切現地情報が届いていなかったのである。
 また、先立つ後漢代、会稽郡治から東冶に至る経路は、崖に階梯を木組みした桟道すら通じていなかったから、「街道」は途絶していて、その間の道里は未設定であり、東呉すら知ることができなかったと思われ、まして、敵国である魏の公文書に記載されることはなく、従って、「魏志」に東冶がどこに在るなどと書くことはできなかったのである。そもそも、「東冶」の属する東呉建安郡が、古来の会稽郡から分郡されて創立されたのすら、東呉が、壮語を継承した司馬晋に対して降服した際に上納された「呉書」(呉志)で知るだけであり、陳書の編纂した「魏志」は、最後まで敵国東呉を参照しなかった魏の公文書に全面的に依拠しているから、そのように判断されるのである。
 この際の結論として、「魏志」を編纂した陳寿の厳正な態度から見て、「倭人伝」において、倭に至る道里が雒陽から会稽東冶に至る道里と比較してどうであるというのは、一切あり得ないのである。

 因みに、「会稽東治」が書かれている部分は、気候風俗の記事内容から見て、かなり南方であって暑熱の狗奴国の視察報告、それも、後日の張政一行の早書きと思われるので、正体不明の会稽東冶と対比することに大した意義はなく、古来周知の「会稽東治之山は、その地の西方に当たるようだ」という風聞記事を付け足したと見た方が良いのではないか。これは、続いて「倭地温暖」と書き出された記事が、倭の盟主であって女王を擁立した伊都国の存在する北九州のものと思われるのと、一線を劃しているのである。(「評釈 魏志倭人伝」 {新装版}水野祐 ㈱雄山閣 平成16年11月新装刊)

 いや、陳寿がいかに知恵を絞っても、東夷の地理について、議論の視野を広げ、さらに遠隔の霞の彼方の地を論じると、議論がぼやけるのだが、その意味でも、いわば、正史夷蕃伝で、倭の最果ての地から会稽東冶なる具体的縣名を遠望したとは思えないのである。

*異議の史料批判~証人審査~2023/05/24
 いや、現に史料に明記されている字句が誤伝であると主張する「俗説」には、厳重に審査された資料の提示が必須であり、単なる臆測で言い立てるのは、素人の野次馬論に類するものであり、史学においては、本来論外なのである。
 一説では、近年公刊された公式資料に「東冶」と書かれているらしいが、根拠不明である上に「誤植」、「誤解」の可能性が否定できないので、耳を貸す必要はないと思量するのである。
 つまり、ここで展開している議論は、本来不要であるから、これに対して、異議を言い立てるのは、無法なのである。

*初学者への指導事項
 ちょっと厳しすぎる議論になりそうだが、正直言って、漢字の「さんずい」(水)を、ちょっと間違えて「にすい」(火)に書いてしまうのは、実際上、それほど、珍しいことではなく、時に、通字になって辞書に堂々と載っているくらいである。

 ただし、それは、「さんずい」の漢字を「にすい」にした「字」がなくて、誤字にならないと言うことが前提である。「東治」と「東冶」のように、「さんずい」と「にすい」で字義が異なる場合は、きっちり書き分け、読み分けしなければならない。

 漢字解釈の「イロハ」を知らずに高々と論じるのが、国内古代史学界の通例/悪弊であり、榎一雄師や張明澄師の夙に指摘しているところであるが、頑として是正されないようである。

 近来に至っても、在野の研究者から三国志の解釈に於いて、定説気取りの国内論者の通弊/誤解を是正すべく、中国史料としての善解を促す健全な提言があっても、権威者気取りの論者は、かかる提言に一顧だにせず、つまり、原史料に立ち戻って「再考」することなく、「大胆」の一言で片付けて、保身する安易な対応がはびこっていて、やんぬるかな、「百年河清を待つ」と言う感じであるのは、大変残念である。

 どうか、史学の原点に立ち返って、原史料と「和解」していただきたいものである。それが、晩節というものではないだろうか。 

未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 2/9 三掲

會稽東治 2 禹の東治                  2016/11/09 2023/05/04 2023/08/08

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

*字義解釈の洗練

 現代東夷には一見意味不明な禹の「東治」であるが、漢字学の権威として、中国でも尊崇されている白川静氏の著書に啓発されて、以下のように解しているのである。

 「治」とは、殷周から秦漢にいたる中国古代にあっては、文字通り「治水」の意であり、後に、水を治める如く人を治めることを「治世」と表したのではないか。或いは、郡太守の治所を、「郡治」と呼んだように、東治の中心地を言うものかも知れない。いずれにしろ、高度な存在を語る言葉である。
 よって、河水(黄河)の治水にその治世の大半を過ごし、「水」を治めるものとして尊崇を集めた禹が、晩年に至って東行して江水(長江、揚子江)下流、会稽に至り、長江流域からも諸侯を集め、治水の功績を評価したのではないかと言う推定が有力となる。
 禹は、元来、江水流域に勢力を持っていたという伝承もあり、続いて、河水の「治水」をも極めたことから、中原、河水流域にとどまらず、九州(当時で言う、「中国」全土)が禹の威光の下に統一されたと評価されたのではないか。

 いや、この記事は、伝説の治水の君主としての禹を頌えるものであり、現実に「九州」全土をその権力の及ぶ範囲としたことを示したものではないことは言うまでもない。また、禹の時代、当然、「九州」の範囲は、かなり狭いものであり、河水流域の周辺に限定されていたと見るものである。
 例えば、禹の行脚を語るとされている「陸行水行」論でも、河岸の泥を進む橇行が語られているから、禹の天下は、河水河岸にほぼ限定されていたように見えるのである。

 ちなみに、白川氏は、禹には、治水を極めた夏王朝創業者としての顔と、それ以前の伝説で洪水神として畏れられる顔とがあると語るが、史書・経書は、もっぱら、夏王朝の始祖、河水の治水者禹を語っている。

 ここでは、東治と「東」の字が用いられて二字であるが、江水下流地域は江東と呼ばれていて、その意味の「東治」であろう。
 会稽郡を命名した李斯は、その教養として、禹伝承を把握していて、河水上流で西に偏した咸陽の秦の支配力を、遙か東方の会稽に及ばせ、東方治世の拠点としたのではないか。

 白川氏によれば、「治」の旁(つくり)である「台」は、耕作地に新たに農耕を開始する儀礼であり、古代音は「イ」であったとのことである。「さんずい」のついた「治」も、本来、水によって台を行う、つまり、水を統御して農耕を行う意味であり、やはり、古来「イ」と発音したように思うのである。
 太古の当時、「臺」とは、完全に別の字であったが、後に、台が臺(春秋左氏伝によれば、華夏文明の最下級)の「通字」となり、タイ、ダイと発音されるのが通例となったが、怡土郡(イド)の発音などに「イ」音の名残が感じられるかもしれない。
 世上、日本古代史視点の中国史料解釈では、このあたりの思惟の都合の良いところだけ掬い上げる強弁が横行しているが、一種の「雑技」(現代中国語)「曲芸」であり、正道ではないように見える。

  いや、何分、太古のことであり、後世の東夷が「当然」とした解釈が「当然」でないのである。

以上

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 3/9 三掲

会稽郡小史                       2016/11/09 2023/05/04 2023/08/08

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

*会稽郡小史
 会稽郡は、河川交通、即ち、江水(長江、揚子江)と南北の沿岸交通の要所を占めて開発が進み、ここに郡治を置いて、はるか南方辺境まで郡域に含めて管轄する体制が作られたものと見えるが、東冶県などの南部諸縣は、直線距離で四百五十公里(㌔㍍)の遠隔地である上に、会稽郡治からの陸上交通が海岸に迫る険阻な山地に阻まれ、後年に至るまで、この間の「官道」整備は進まず、交通困難であったと思われる。

*陸道無し
 笵曄、裴松之が生きていた南朝劉宋代の正史である沈約「宋書」「州郡志」は、会稽郡治相当の治所から、往時の東冶県、当時の建安県道里は、去京都水三千四十,並無陸。と明快である。「水」、つまり、河川行の道里のみ記述されていて、「陸」、つまり、陸上街道は存在しないとされている。
 恐らく、有名な蜀の桟道のように、崖面に足場を組んで、「径」(こみち)を設けて、人馬の往来はできても、街道の前提である車馬の往来は不可能で、また、騎馬の文書使の疾駆や兵馬の通行はできなかったため、街道不通となっていたと思われる。後年、延暦23年(804)の 遣唐使の第一船が福州に漂着し、長安を目指した旅途は、留学僧空海によって、「水」を経由した報告されているので、「倭人伝」の五世紀後に至っても、街道は整備されていなかったと見える。なお、沈約「宋書」「州郡志」に、建安郡の記載は無いが、晋書及び南齊書に記録があるので、宋書の写本継承の際に脱落したと見られている。

 秦、漢、魏と政権が推移しても、郡は、帝国地方行政区分の中で最上位であり、小王国と言えるほどの自治権を与えられていて、郡治は、地方政府組織を持ち、自前の軍隊も持っていた。また、管内諸縣から上納された収穫物を貯蔵していた。また、管内の治安維持のために、郡太守の権限で制圧軍を派遣することが許されていた。つまり、税務・軍務の自治があった。

 しかし、郡太守として郡内全域統治する視点では、会稽郡治は、南部諸縣との交信が不自由であり、また、遠距離で貢納収納も困難であった。何しろ、馬車の往来や、騎馬文書使の疾駆が不可能では、平時の報告/指示が滞り、また、治安維持で郡兵を派遣するにも、行程の宿泊、食料調達がおぼつかず、結局、南方諸縣は、反乱さえなければ良いと言うことで、自治に任せていたことと思う。

*建安分郡
 後漢末期に会稽に乗り込んだ孫策は、会稽太守につくと共に、江南での基盤固めのため強力に支配拡大を進めた。後に自立した東呉孫氏政権が、江南各地の開発を進めていく事態になると、会稽郡から南部諸縣を分離して、建安郡の新設(ここでは分郡と呼ぶ)が必要になった。因みに、「建安」郡は、後漢献帝建安年間のことなので、時代は「後漢」末期で、魏武帝曹操が宰相として、実質的に君臨していたと思われるので、まだ、東呉は、後漢の一地方諸公だったとも思えるが、このあたりの力関係は、後々まで不安定である。
 新設建安郡は、後に東呉皇帝直下の郡としての強い権限を与えられ、郡兵による郡内の治安維持が可能になり、また、郡内各地の開発を強力に進めることができるようになった。

 もちろん、その背景には、郡治の組織・体制を支えられるだけの税収が得られたことがある。つまり、それまでは、「建安郡」管内の産業は、郡を維持するのに十分な税収を得られる規模になっていなかったので、会稽郡の傘下にあったとも言える。

*東呉自立の時代
 念を押すと、そのような建安郡の隆盛は、あくまで、東呉国内のことであり、曹魏には、一切関知しないことだったので、「魏志」には、建安郡の事情は一切伝わらなかったのである。それは、雒陽から会稽を経て東冶に至る道里行程が不明だったことでもあり、また、東呉領内の戸数も口数も、一切伝わらなかったのである。

 何度目かの確認になるが、三国志「呉志」は、陳寿の編纂したものではなく、東呉史官であった韋昭が編纂したものであることが、「呉志」に書き留められている。陳寿は、「三国志」全体の責任編纂者であるが、「呉志」は、いわば、陳寿の同志である遺詔が心血を注いだ「正史」稿であることが顕彰されているのである。そして、韋昭をはじめとする東呉史官は、後漢末の動乱期に洛陽の統治体制が崩れ、皇帝が流亡する事態にも、漢の威光を江東の地に維持した孫権の功績を顕彰したものであり、陳寿は、その真意を重んじて、三国志に「呉志」(呉国志)の全容を確保したものである。
 言うまでもないが、「呉志」は、東呉亡国の皇帝を誹るものでもなく、東呉を下した司馬氏の威光を頌えるものでもないのである。史官の志(こころざし)は、後世東夷の量り得ないものなのである。

                  未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 4/9 三掲

会稽東縣談義 1                    2016/11/09 2023/05/04 2023/08/08

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

*会稽東縣談義 1
 陳寿「三国志」呉書及び魏書に、「会稽東縣」に関する記事がある。

 依拠史料は一つであり、呉書と魏書にそれぞれ引用されたと思われる。同一の記事のはずが一致していないので、関連史料の批判として、どちらが正確な引用なのか考察を加える。

 会稽は、江水と沿岸の交易から大いに繁栄したと思われる。経済活動に即して、会稽東部諸縣を監督する部署を設け課税したと推測される。そこで登場したのが、会稽東縣都尉であり、また、東呉に会稽東縣なる地区区分があったはずである。

会稽東縣 呉書
三國志 吳書二 吳主傳
 (黄龍)二年春正月(中略)
 遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。
 亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布
 會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠,卒不可得至,
 但得夷洲數千人還。

 呉書「呉主傳」が伝えるのは、呉主、即ち(自称)皇帝孫権が、衞溫、諸葛直の両将に指示して、兵一万人と共に、夷洲及澶洲を求めて、東シナ海に出航させた事例である。背景として、秦始皇帝時代に、方士徐福が亶洲に向けて出航し帰還しなかったが、現地で数万戸の集落に発展して、ときに、会稽に商売に来る、と挿入句風に「史実」を引用している。

 「会稽」は、郡名、つまり、郡治でなく、地名の会稽を指しているとみられる。引き続いた「會稽東縣」は、明らかに、南方の「会稽郡東冶県」でなく、会稽の沿海部と見られる。但し、筑摩版正史「三国志」では、呉書呉主傳の「會稽東縣人」を「會稽郡東部の住民」と解釈しているが、以上の考察に照らすと、誤訳に近いものである。

 ここで言う会稽は、南方東冶を含めた会稽郡を言うのではなく、著名な地名としての会稽の周辺なのである。

 いずれにしろ、当記事は、「魏志」の依拠する魏朝公文書には存在しないので、「倭人伝」に引用されるものではないのである。
 念のため再確認すると、「呉書」は、東呉の「正史」稿であったが、亡国時に司馬晋皇帝に献上され皇帝蔵書となったものであるから、魏朝公文書には、収録されていないことから、陳寿は「魏志」編纂にあたって、当該記事に依拠しなかったことが明らかである。但し、劉宋代に後漢書を編纂した笵曄は、史官ではないので、東夷列伝「倭条」の編纂に際して自由に諸資料を活用したものと見える。

                 未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 5/9 三掲

会稽東縣談義 2                    2016/11/09 2023/05/04 2023/08/08

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

会稽東縣談義 2
 陳壽は、曹魏資料に依拠して魏志東夷伝をまとめたが、その際に、呉書に存在した東鯷人と夷洲及澶洲の記事を呉主傳から引用したかとも思われるが、そうであれば、あくまで例外である。あるいは、後漢が健在な時代に雒陽に齎されていた蛮夷記事かもしれない。いずれにしろ、不分明である。

三國志 魏書三十 東夷傳
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

 東鯷人に関する記事の考察は、別項に譲るが、それ以外、魏書記事の「會稽東冶縣」と呉書記事の「會稽東縣」は、同一資料の解釈が異なったものであろう。

 同一編者の史書内の二択であるが、呉書の呉主傳は君主の列伝記事であって、本来の呉由来の史料を直接引用していると思われる。これに対して、魏書「東夷伝」記事は、この呉書記事を転用したものとも見え、そうであれば、その際に省略と言い換えが発生したもののようである。
 この判断に従うと、もともと「會稽東冶縣」はなかったのである。
 まして、陳寿にとって、「魏書」編纂に際して、魏朝公文書でないと思われる「呉書」を利用するのは、本来、禁じ手に近いのだが、時に、そのような引用もあったのかも知れない。もちろん、そうした推定は、あくまで「推定」であり、正確な事情は不明である。

後漢書 東夷列傳:   
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

*『笵曄「三国志」』の限界
 陳寿「三国志」記事を利用したと思われる笵曄「後漢書」を忖度する。笵曄「三国志」など無かったのは承知の挑発である。

 笵曄が後漢書を編纂したのは、劉宋首都でなく太守で赴任した宣城(現在の安徽省 合肥附近か?)である。流刑でないので蔵書を伴ったろうが、利用できた「三国志」写本は、門外不出の帝室原本から数代の写本を経た「私写本」と思われる。笵曄は、劉宋史官の職になかったから、あくまで、後漢書編纂は「私撰」であり、西晋末に亡失したと推定される雒陽帝室書庫の後漢代公文書を直接参照したものではなく、先行する諸家後漢書を総括したものであり、また「三国志」を参照したとしても、帝室原本などではなく「私写本」であったのは言うまでもない。従って、官制写本工房による公式写本と異なり、私的な写本工房に過ぎないから、前後の校閲は成り行きであり、また、正字を遵守した「写本」でなく、草書体に繋がる略字を起用した速写の可能性もある。何しろ、実際の速写工程を見聞きしたものはいないから、どこがどう誤写されたか、推定すら不可能である。
 と言うことで、陳寿「三国志」は、笵曄から見て一世紀半前の公認史書、つまり、正史であるが、百五十年後の劉宋代に笵曄が依拠した「三国志」写本は、帝室原本に比較的に近い善本に由来したとは言え、西晋崩壊時の戦乱の渦中を経た後であり、個人的写本の継承中に、「達筆」の草書写本が介在した可能性もあり、それ故に、諸処で誤写や通字代用があったと懸念される。国宝扱いの帝室原本の厳正さとほど遠かった可能性が高いのである。

*笵曄造作説
 笵曄が後漢書を編纂する際の手元に、相互参照して校勘できる別資料があれば、笵曄は、当然是正したであろうが、こと、後漢代末期桓帝、霊帝期の東夷記事には、ほぼ完全に継承されている袁宏「後漢紀」、以外の散佚史書は、名のみ高い謝承「後漢書」、諸家後漢書を含めても知りようが乏しく、特に、東夷伝については、手元の陳寿「三国志」写本の後漢代参照記事に依存したと思えるのである。

 何しろ、劉宋当時の規制で、後漢献帝建安年間の記事は、「魏志」に属すると区分が決定していたので、後漢書「東夷列伝」「倭条」(倭伝)に書くことはできなかったのであり、「倭国大乱」の時代を霊帝代にずらし、卑弥呼共立をそれに合わせ、せいぜい前倒しすることで、辛うじて、霊帝代として収容できたのである。

 そのために、魏志倭人伝の記事が曲解され、魏明帝景初年間に、卑弥呼は途方も無い高齢とされたのであり、要するに、笵曄「後漢書」倭条の変節のために、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」の解釈が曲がったのであるから、笵曄の罪科は深いと言える。

 この点、ほぼ同時代に、劉宋皇帝の勅命で「三国志」原本に注釈を施した裴松之が、ほぼ厳密に写本校正され継承された帝室/官蔵写本を参照し、史官として最善の努力を奮って冷静な解釈に努めたと思われるのと大きく異なるものである。

*美文、転載、節略の渦
 因みに、笵曄「後漢書」の本文である本紀、列伝部分は、諸家後漢書が残存していたので、これを整備し、美文とすることができたから、笵曄の文名は高いのだが、後漢書「西域伝」は、後漢雒陽の記録文書に対して大幅な改編を被っていることが、「魏志」巻末に完本が収録されている魚豢「西戎伝」との対比から明らかである。
 また、東夷列伝、特に、「韓伝」(韓条)、「倭伝」(倭条)は、陳寿「三国志」東夷伝を原典としていると見抜かれないように、原形をとどめない所引文になっているのである。

未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 6/9 三掲

会稽東縣談義 資料                   2016/11/09 2023/05/04

         出所 中国哲学書電子化計劃
論衡 遭虎 東漢 80年 王充著
 會稽東部都尉禮文伯時,羊伏廳下,其後遷為東萊太守。

三國志 吳書八 張紘傳:
 建安四年,策遣紘奉章至許宮,留為侍御史。曹公聞策薨,欲因喪伐吳。紘諫,以為乘人之喪,旣非古義,若其不克,成讎棄好,不如因而厚之。曹公從其言,即表權為討虜將軍,領會稽太守。曹公欲令紘輔權內附,出紘為會稽東部都尉。

三國志 吳書十二 虞翻傳:
 翻與少府孔融書,并示以所著易注。融荅書曰:「聞延陵之理樂,覩吾子之治易,乃知東南之美者,非徒會稽之竹箭也。又觀象雲物,察應寒溫,原其禍福,與神合契,可謂探賾窮通者也。」會稽東部都尉張紘又與融書曰:「虞仲翔前頗為論者所侵,美寶為質,彫摩益光,不足以損。」

三國志 吳書十五 全琮傳
 全琮字子璜,吳郡錢唐人也。父柔,漢靈帝時舉孝廉,補尚書郎右丞,董卓之亂,棄官歸,州辟別駕從事,詔書就拜會稽東部都尉。

三國志 吳書十六 潘濬傳
 玄字文表,丹楊人。父祉,字宣嗣,從孫堅征伐有功,堅薦祉為九江太守,後轉吳郡,所在有聲。玄兄良,字文鸞,隨孫策平定江東,策以為會稽東部都尉,卒,玄領良兵,拜奮武中郎將,以功封溧陽侯。

三國志 吳書三三 孫亮傳:
 二年春二月甲寅,大雨,震電。乙卯,雪,大寒。以長沙東部為湘東郡,西部為衡陽郡,會稽東部為臨海郡,豫章東部為臨川郡。

 王充「論衡」は、一世紀後半の完成のようであるから、會稽「東部都尉」の職は、少なくとも前漢末期まで遡るものと思われる。「都尉」は、県単位で置かれるものだから、その時点で、會稽「東部都尉」の所管する「會稽東部」なる、県に相当する行政区画が存在していたことになる。後に、「會稽東部」は昇格して「臨海郡」となったとのことである。
 言うまでもないが、「都尉」は、当時の京師や東都の「みやこ」(都)を管轄していたものではない。郡太守の補佐役で、諸事を総ていた「地区総督」に過ぎない。「都」の字義は、「すべて」と解するのが常道なのである。

後漢書 東夷列傳
 倭在韓東南大海中,依山島為居,凡百餘國。自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。
 樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。

 陳寿「三国志」魏志「倭人伝」が、郡から狗邪韓国を経て、大海中の洲島を順次渡り越えて、末羅国に上陸し、以下、一つの島を往くと、理路整然と「倭」にいたっる行程を示しているのに対して、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、要を得ない節略を被っている。大倭王の居処を「邪馬臺国」と言い切り、其の国を楽浪郡の檄(南界)を去ること万二千里と書きつつ、楽浪郡檄の西北界は、狗邪韓国を去ること七千里と、誤解を招く視点の動揺である。因みに、「大倭王」と言うからには、「大倭」なる蛮夷が紹介された上でなければならないのだが、何の予告もされていないのであるから、不審極まりない。
 武帝創設の楽浪郡は、数世紀を経た後漢朝後期に到るまで、ほぼ一貫して東夷主管拠点であったから、このように、だれの眼で見ても混乱したと見て取れる報告を提出したとは思えないので、笵曄は、魏志「倭人伝」の剽窃という非難を免れるために、意図して、混乱して理解困難な記事としたと見えるものである。

*蔑称としての「臺」
 「邪馬臺国」の「臺」は、史家の聖典である春秋左氏伝によれば、大変な蔑称であり、笵曄の東夷蔑視を示しているものとも思われる。世上、笵曄の真意がこめられた蔑称を読み取り損ねているのは、不吉である。

後漢書 東夷列傳
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

 脈略なく書かれているのは、断片的な風聞/伝聞記事であり、信ずるに足りないホラ話と見える。
 冷静に地図を見れば分かるように、確かに、会稽の東方は広大な東シナ海であるが、南に下った「東冶」の東方至近には、巨大な台湾の島影があり、なぜ、このような身近な異郷を見捨てて、その向こうの蛮夷である、国名も王名も方位も所要日数も不明、つまり、音信のない「夷洲及澶洲」に行こうとするのか不審である。

*揺蕩う「東夷」の心象
 むしろ、秦代の東夷は、山東半島東莱から見て、眼前に横たわる「海中山島」である朝鮮半島を指しているとも見えるのである。孔子の発言として伝わる「筏で浮海して到る東夷」にふさわしいのは、海船を要しない近場と見えるものである。「東夷」なる地理概念は、時代に応じて移動しているので、慎重な解釋が必要である。
 

未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 7/9 三掲

会稽東冶談義 1                    2016/11/09 2023/05/04

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

会稽東冶談義 1
 「冶」と言う漢字は、比較的珍しいものであり、今日でも、「冶金」と言う熟語で使用されている程度である。鉱石を焼いて精錬して金属を得るとか、鉄材を火で焼いて鍛錬して鋼材にするとか、「冫」(ニスイ)の示す通り、火の試錬(「試練」ではない)を伴う。

 「通典」の説くところでは、「東冶」は、「閩越」と呼ばれる地域で、秦時代は閩中郡とされた。漢の高祖がここに閩越国を設けて無諸を(劉氏ではない異姓の)王としたが、後に(他の異姓と同様に)滅ぼされた。住民が逃亡して荒廃したので、会稽郡の管轄下で「冶県」として再建を図った。「冶」とは、春秋時代末期西南の覇者となった越王(勾践及びその後継者)が、この地で鉱山開発して金属精錬を行ったことによる。後に、県名を二字にして「東冶県」と改めた。後漢は、この地域を会稽郡「侯官都尉」(総じて管轄)とした。その際、合わせて、東冶県を廃して侯官県としたかも知れない。

*宋書「州郡志」確認
 班固「漢書」には「地理志」があり、司馬彪「続漢紀」には「郡国志」があって、それぞれ大部の資料に漢代、後漢代の全国諸郡・県の改廃、統合、分離の異同が詳しく記録されているが、後漢末期の献帝代以降を記録する陳寿「三国志」は、同様の「志」を欠くため、会稽郡の動向については、呉書本紀から異同を知るしかない。但し、本紀は、各皇帝の治世を書き残しているのであるから、「異同」と言っても、郡の新設が大半であり、それ以外は不確かである。
 劉宋代の正史である沈約「宋書」州郡志が補填している面もあるが、劉宋代は、西晋の滅亡時の壊滅的な混乱で、雒陽に集積されていた歴代王朝の公文書が散佚してしまったので、「宋書」州郡志と言えども欠落が多いのである。
 いずれにしろ、これら「志」が貴重な情報源となっている。

 後に、会稽郡の南部を会稽南部都尉(管轄)とした。一旦会稽東部都尉の管轄となった後、会稽南部都尉と改定したと書かれている例もあるが、会稽東部は、後に臨海郡となった会稽東部地域という可能性が強い。

 後漢末期の建安年間、会稽郡が新興の孫策配下に入ったような戦乱期であり、中央政府も董卓の暴政/遷都騒動で混乱して、記録に乱れがあったようであり、確かなことは不明である。

 更に、会稽郡は、建康を首都とする孫権東呉の支配下に入ったが、中国の政権交代時の例に従えば、郡治以下の地方組織は、公文書類もろともに継承されたはずである。特に、東呉の場合は、後漢地方拠点が、そっくり自立したので、書類継承は、万全だったはずである。
 会稽郡の管轄地域変遷の経緯が判然としないのは、当時の正史たる後漢書にこのあたりの記事がないためである。

 肝心の「東冶県」すら、笵曄「後漢書」東夷列伝以外は、列伝の一箇所に、「東冶」と書かれているだけで、「東冶県」は見当たらない。正史に書かれていないのでは事情不明となるが、「会稽郡東冶県」と後漢の公文書に明記されていないのは、不審である。
 笵曄「後漢書」東夷列伝の「倭」記事が、後漢代の原史料によるものでなく、陳寿「三国志」東夷伝原史料の引き写しとすると、「後漢書」独自記事に「東冶県」は無いのではないか。
 と言うことで、元来、東冶は、建安郡の一区画であったが、劉宋代に県名でなくなったもののようである。
 
追記:                       (2016/11/15)
 都尉は、秦朝各郡に郡太守に次いで設置された「郡尉」が、漢景帝時に名称変更になったものである。帝国中心部諸郡では、各郡に都尉一名だが、会稽郡のような辺境の諸郡では、郡の東西南北を担当する都尉四名、例えば東部尉などを置いたとのことである。

 都尉は、官制で種々設けられていて「雑号」の感があるが、郡都尉が本来の「都尉」である。
 従って、上記会稽「南部都尉」は、漢時代以来続いていた衆知の官位のようである。
 案ずるに、東冶県あたりは、会稽郡治から見ると、峨々たる福建山塊に隔てられて、陸道を敷くことのできない遠隔の山系僻地であったので、半ば独立していたようで、郡の配下の県と言うより、ほとんど郡に近い状態であったと思われる。
 因みに、後世、唐代に、福州付近に「漂着」した遣唐使船の一行は、遠く京師(長安)に至る前段の会稽行路として、河川行「街道」を許可されたので、これを採用せざるを得なかったようである。一行に加わっていた空海(弘法大師)の残した記録で、河川行の経過を詳しく知ることができるようである。

未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 8/9 三掲

会稽東冶談義 2                    2016/11/09 2023/05/04 2023/08/07

▢三掲の弁
 以下維持している「初稿」とは、若干論旨が変化しているが、別に転進しているわけではないのは、理解いただけると思う。
 以下の話の運びは、三国志を編纂した陳寿が、「魏志」倭人伝の編纂にあたって、「呉志」の会稽郡/建安郡記事を参照したと見た古田氏の論調に沿っているが、現在の当ブログ筆者の見解は、これに沿わないものになった。
 陳寿は、「魏志」の編纂にあたって、後漢から政権を継承した曹魏の公文書に固執しているのであり、東呉孫権政権の公文書記事が、曹魏に報告されていない以上、「呉志」の記事を利用できない、と言うか、参照しないのである。一方、「呉志」は、ほぼ全てが、東呉の史官韋昭が編纂した「呉書」が、東呉が司馬晋に降伏した際に、全巻上納されたものであるから、曹魏は「呉書」の内容を知り得なかったという「史実」が、厳然としているのである。
 と言うことで、「魏志」「倭人伝」に呉書/呉志の記事は反映していないのである。つまり、俗説に言うように、会稽郡東冶県の地理情報は、「倭人伝」に無関係なのである。

 念押しすると、陳寿は、「魏志」編纂にあたって、後漢/曹魏の公文書に記録された「史実」の継承に身命を賭していたので、曹魏の知らなかった東冶県の地理情報を書くことはなかったのである。

*笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」の不合理
 なお、笵曄「後漢書」は、先行する諸家後漢書の集約であり、本来、曹魏代の会稽郡地理情報は、収録できなかったものである。また、地理情報の典拠とすべき後漢書「郡国誌」も、会稽郡治への公式道里を示すのみであり、南方に隔絶した東冶県については、何も語っていない。また、陳寿「三国志」は、志部をもたないので、東冶県に関する記事は、呉志の本紀相当部分に書かれている分郡等の情報を記すのみであるから、東冶県の地理情報は欠けている。

 そのような史料しかないのであるが、笵曄は、史官の職務倫理に縛られない文筆家であり、「後漢書」東夷列伝「倭条」の編纂にあたって、依拠できる史料がないのに拘泥せず、陳寿「魏志」「東夷伝」を流用したのであり、その際、不注意にも、劉宋の高官として知悉していた「東冶」を採り入れたものと見えるのである。恐らく、笵曄は、禹の東治に基づく李斯の会稽「東治之山」の故事に疎く、小賢しく、「東冶」に訂正したものと見える。
 いや、史書に記録されていない「憶測」であるが、厳密に書誌考証に徹すると、魏志「倭人伝」に明記されている「会稽東治」が、笵曄「後漢書」に「会稽東冶」と誤記された原因は、合理的に絞り込まれるのである。老大家の武断とは、出来が違うので、混同しないでいただきたいものである。
 特に、笵曄が、後漢献帝期の東夷史料が存在しないにも拘わらず、「東夷列伝」「倭条」を造作した手口は、明々と示されるのである。

 以下紹介した古田武彦師の論義であるが、氏は、総じて「正史厳正」の立場に立っているので、笵曄に対して難詰していないが、当ブログ筆者は、掲題の両正史は、それぞれ、編纂者の執筆姿勢が問われるのであり、「正史厳正」と証されていない笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」に対する難詰を躊躇わないのである。

*初稿 2016/11/09 2023/05/04
 古田武彦氏の第一書『「邪馬台国」はなかった』に「東冶県」論が書かれている。古田氏説は、稽郡南部を建安郡として分離した永安三年(260年)の分郡以前は会稽郡東冶県であり、会稽となっているが、分郡以降である陳寿の執筆時点は、会稽郡東冶県でなく建安郡東冶県であるとの主張であり、ごもっともと思える。同書の後続ページで笵曄「後漢書」編纂時点では、東冶県が会稽郡に復帰していたと推定して図示している。

 まずは、この最後の指摘が、引っかかる。会稽郡が分割されたのは、会稽郡の広大な地域を郡太守が統御しきれないという事情によるものであった。つまり、後漢途中までは政治経済的に未発達だったので、何とか、郡北部である会稽から、南方の東冶を統括できたが、郡治会稽と東冶の間は、福州の険阻な山地に阻まれ、僻南の「東冶」には監督が行き届かないので、一旦「南部都尉」を設けた後、永安分郡となった。
 こうした事情で分離した「南部諸縣」を会稽郡に復元するだろうか。率直なところ、これは、根拠の無い憶測である。

 東呉時代は当然として、晋朝南遷による東晋朝以降の南朝時代にも、福州、広州は政権の基盤であり、分郡後の新設建安郡すら広すぎて晋安郡と二分するのであるからねそれ以前の時代、古田氏が書く東冶県の会稽郡復帰は無かったのである。

 また、分郡まで東冶県があったとは限らない。分郡以前に会稽郡「南部都尉」を設け、「東冶県」自身、既に「候官県」と改名され「会稽郡東冶県」はなくなっていた。古田氏指摘の呉書記事で「会稽東冶(五県)の賊」というが、「東冶県」でなく「東冶」地域の意味合いであり、五県は、建安、侯官、漢興、南平、建平である。
 というものの、いつ会稽郡南部が会稽郡太守の管轄を外れて、会稽南部都尉の管轄になったかはっきりしない。会稽南部都尉就任記事はあっても都尉新設の記事は無い。或いは、遙か以前から置かれていた可能性がある。

 また、陳寿「三国志」自体、ないしは、依拠資料の引用と見られる笵曄「後漢書」東夷伝記事以外では、東冶県は出てこない。後は、三国志呉書の記事を拾い集めるしかない。なお、陳寿は、少なくとも、後漢~魏朝公文書以外に依拠できないから、仮に、呉書記事を参考にしても、県名、郡名の考証まではせず、素材そのままなのであろう。細部に疎漏があるようである。

 端的に言うと、陳寿「三国志」魏志/魏書で、東冶県の書かれている記事は無く、いわば、「圏外」である呉志/呉書に登場するだけなのである。要するに、魏志は、雒陽の曹魏政権が支配していて、現地から、戸籍が報告され、地方機関から報告が上申されていて、魏帝が承認し、公文書に記載された事項に限定されるのである。
 つまり、魏朝にとって、東冶は、存在しない地名であるので、魏朝正史を編纂した陳寿が、倭人伝において、「倭人」の領域を雒陽読書人に報告するのに、魏代に圏外であった「東冶」を起用するはずがないのである。

 と言うことで、この下りは、古田氏の勇み足で、論証が半ば空振りに終わっているようである。いや、失敗しているのは絵解きであり、陳寿「魏志」倭人伝の記事は「会稽東治」であり、「東冶」でなかったという点は、かなり/断然分のある議論と思う。

*追記~2023/08/07
 以上の筋道は、その後、沈約「宋書」州郡志の会稽郡南方地域の地理/道里記事を確認した結果によって裏付けられたのである。
 笵曄は、劉宋の高官であったから、後漢末期以降、東晋代に到る当該地域の地理情報を十分把握していなかったにも拘わらず、暢気に会稽東冶と書いてしまったようである。笵曄にすれば、厖大な西域伝記事に比べて、内容に乏しい東夷列伝「倭条」に彩りを添えたつもりなのだろうが、それは、史官の本分に反しているのである。

             未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 9/9 三掲

会稽東冶談義 3                   2016/11/09 2023/05/04 2023/08/08

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

*会稽東冶談義 3
 本筋に戻って、「会稽東冶」談義であるが、洛陽首都の魏朝及び西晋朝時代の史書としては、過誤と言うほどのものでなく、排除できないと思うのである。ただし、 「会稽東治の東」と書かれている史料を、「東治」の由来を知らないからと言って、そして土地勘があるからと言って、「会稽東冶」と書き換えた笵曄「後漢書」東夷列伝は、粗雑である。

*「首都」の起源
 因みに、「首都」は、魏文帝の詔書に基づく「造語」である。文帝曹丕は、後漢末の動乱期に、後漢皇帝が、雒陽、長安と移動し、以後、鄴、許都と曹操の庇護下に有ったこともあって、皇帝の詔勅が、これらの「帝都」に発していることから、魏帝国において、過去の「帝都」は依然として有効と認めるものの、あくまで『「首都」は雒陽である』と宣言したことに由来しているものである。
 つまり、「帝都」とは、皇帝の宣詔に書かれる発信地点であり、時に、雒陽は「東京」(とうけい)と呼ばれていることから、長安を「京師」、「京都」(けいと)と呼び続けたかどうかは別として、中国の底流に周制が生き続けていたとわかるのである。それが、「禅譲」の意味である。

*笵曄「後漢書」再考
 以下、史料批判として邪道であるが、「三国志」に投げかけられた疑惑との公平を期すために「後漢書」の危うさを指摘する。
 劉宋時代に編纂された笵曄「後漢書」は、「反逆の大罪」で実子共々死刑に処せられた大罪人の著作であり、唐代章懐太子の注と集大成を得て正史の一角に浮上するまで、南朝に限っても、劉宋、南斉、梁、陳と進み、続いて、統一王朝隋に取り込まれるまで、時の変遷に伴い、「私撰」史書が個人的に写本、継承されていく中で、絶対正確に書写されたかどうか不明である。

 特に、東晋に始まる六朝時代は、西晋期まで維持されていた「書写の伝統」が、南方への逃避の際に壊滅的に損傷した可能性があり、かたや、細部が省略された草書風の「略字体」が実務面で普及していたので、個人的な写本は、さほど厳格に行われなかったのではないかと、大いに懸念される。

 章懐太子の注釈時には、整然とした「正字体」写本が供されたであろうが、一度、「略字体」で写本されて、細部が変質したとすれば、正字体に戻したとしても、原文は復元できないのである。
 笵曄「後漢書」原文は、最終的に、唐章懐太子の注釈、集大成の際に廃棄され、笵曄原本どころか写本といえども残っていないので、実態はわからない。(結局、現存する誰も「笵曄原本」を目にしてはいないし、史上「笵曄原本」の登場する姿は、書き残されていない。これは、三国志の「陳寿原本」と根本的に異なる)

 またまた念押しだが、当ブログ筆者は、笵曄に深い敬意を表しているのだが、それ故に、笵曄「後漢書」の難点を率直に指摘し、火と水の「試錬」に供するのである。

この項終わり

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