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2023年8月23日 (水)

私の本棚 佐藤 広行 古田史学論集 第三集「周旋五千余里」論 再 2/2 補充

 倭地及び邪馬壹国の探求 「周旋五千余里」と倭地の領域の検討 (2000)
 私の見立て★★★★☆ 丁寧/着実な論考 2017/11/25 追記再掲:2021/03/27, 07/10 2022/09/26 2023/08/23

*局地解釈の勧め
 そのような状態だが、倭国が魏朝の家臣となった以上、倭人伝には何かの記事を書かざるを得ないので、まあ、あえて言うなら、氏の想定した字義に従うと、ぐるっと巡って全周五千里だと言ったと推定される、と言う提言である。
 文脈に従うとそう読める以上、特に不都合がない限り、三国志全巻を通読したり、史記、漢書を参照したりする必要は無いということである。何しろ、西晋代、帝室書庫が、残らず紙巻物になっていたという保証はなく、典拠を求める際は、簡牘巻物であった可能性が高いので、「史記、漢書を参照 」すると言うことは、荷車で引きだしてきて、その場にゴロゴロと展開することを意味するので、いくら史官が典拠を求めていても、そのような大事件は避けたと見るものである。

 大事なのは、魏朝の新参の外藩王/蕃王の領地は、韓国、高句麗同様に表現する「方*千里」と同じ広さとは言い切れないが、広がりとして大差ないということのようである。(これは、当初の意見であり、現時点では、「方里」の解釈は異なるものとしているが、本項の限界を超えているので追記しない)

駆け足概数論
 但し、「周長五千里」という解釈であると、正方形に近似すると、一辺千二百五十里という半端な数字になり、千里単位の概数で書かれている行程道里と食い違うのである。それなら、なぜ、周旋四千里と言わなかったと言うと、倭人伝の概数記法では、[千]の次は、[二、三千]、次は[五千]、[七、八千]と飛んで、[十万]でけた上がりするから、倭人伝概数で[四千]里は無いからである。
 「倭人伝」は、陳寿が率いた専門家集団が、多大な時間と労力をかけて推敲/編纂し、皇帝付近の高官読書人の批判を仰いだものだから、一目で不具合の読み取れる記法はしなかったと考えられるのである。要するに、編者と読者の間には、周旋は、面積表現などではないと了解があったと見るべきである。

 因みに、[二,三」千は、[二」千あるいは[三」千の選択となるが、比較対象となるものがないときは、「五」千に届かない範囲の数として、単に[数」千と言う、という感じで、大抵の数字は、滑らかに解釈できるように思う。
 要は、史官は、その場その場の前後関係/文脈に従って、言い方を選ぶのである。

*「悉皆」主義の限界

 一応のまとめとして、広く用例を収集して意味を探るのは、必ずしも、最善・最良の策ではないということである。
 古代史文献の用例検索の手法として、古田武彦氏が提言し、厳守している「悉皆」主義、つまり、根こそぎ、悉く文献用例を調査する行き方は、厖大な時間、つまり、関係者の労力を壮大に消費することから、好ましくない場合があることを指摘したい。特に、調査結果の評価に、多大な先入観を与えるため、慎重に適用すべきものと考える。
 本来、用例の史料批判は、ここの用例の文脈を考慮しないと不正確になるのだが、とかく、厖大な検索で、全ての用例に対して、そのような高度の新釈をする事は、人知を超えているものと思量するものである。関連性の高い文献に絞って、用例を考察するべきであると考える。

*蛇足の戸数論
 氏ほどの慧眼が、倭国総戸数が書かれていないと速断したのは、もったいない。
 「倭人伝」にかかれている「戸数」は、後世二千年後の東夷には、三カ国に対して二万、五万、七万と列記されたとも見えるが、「単純に」足すと十四万であるが、陳寿が、現代東夷のような「単純」な思考に陥っていたとするのは、「単純」に過ぎるように感じる。性急な読み飛ばしで、早合点の陥穽に墜ちないように、もっと丁寧に考察した方が良いように思われる。

 それにしても、万戸代でき採されているように見える「三国」以外、行程上の対海、一台、末羅、伊都の四ヵ国に対しては、「端数の千戸台だが、僅少と決まっている戸数で、どれだけになるかわからないが大したことない端数」を足して結局十四万とは、読者に計算を強いることになり、不首尾である。

 正史蛮夷伝の一件である「倭人伝」に求められる総戸数は、東夷列伝・倭人伝の「要件」、つまり、必要不可欠な数字であり、それほど重要な数でありながら、「倭人伝」に明記されていないと見るのは、何とも不合理である。そのような「倭人伝」は、上覧以前に不備との非難を浴びて却下されていたはずである。読者が計算して埋めろというのは、いかにも、傲岸不遜である。

 つまり、総戸数不明は、「倭人伝」として致命的な不備であるから、ここには、倭国総戸数七万戸と明記されていると、自然に解すべきであろう。

 大雑把な概数計算では、二万、五万という戸数に、三十国足らずの端数戸数を足しても、七万戸の次の概数である十万戸には遠く及ばないと判断して、七万戸、つまり、五万戸よりははっきり多いが、十万戸よりはっきり少ない数字としたのであろう。

*「倭人伝」概数論
 倭人伝に現れた一(千),二(二千),五(五千),七(七千),十(万),十二(万二千)という飛び飛びの概数に示された、とてもおおざっぱな概数に対する「深き理解」に敬服すべきだろう。

 念押しすると、倭人伝にありふれている『「定数」に「余」と書き足した表記』は、「定数」程度、あるいは、「定数」と見るべきであり、したがって、どんどん足して計算しても、端数が溜まっていかないので、合理的なのである。

 戸数で言えば、見かけ上「万戸」概数と見えても、実際は、二万余戸の次は、三,四がなくて五万余戸かも知れないのであり、もし、「余」が切り捨て表現とすると、どの程度の戸数が切り捨てされたか推定できないのである。つまり、四万近い戸数を二万余戸に丸めた可能性がある様な数字で加算を繰り返したら、どれほど見当違いになるかわからないのである。
 「余」を読み飛ばして、全体が概数表現とみる由縁である。

 いずれにしろ、万戸単位の大局的な集計に、数千戸の端数は勘定できないので、全国戸数の積算には、無縁なのである。

 算木計算の時代にどうしてと思うだろうが、数に関する感覚は、それまでの数千年の間に結構磨かれていたと思うのである。特に、正確な資料のない、おおざっぱな数字の扱いに、漢制、そして帯方郡の知恵が働いていたのではないかと思われる。

*倭人伝の特性
 原点に立ち戻って、中国史書の外夷伝である「倭人伝」の特性を認識しないと、正確な理解から遠ざかるのではないかと思う。中国史書、後に、正史と呼ばれる格式を備えた「三国志」は、三世紀当時の中国最高峰の知識人の学識に合わせて編纂されていて、以後、再三にわたって、細部に到る校閲、検証を経ているので、三世紀当時の中国最高峰の知識人の学識に照らして解釈すべきであり、無教養な後世人の思い込みで、安直に解釈すべきではないのである。まして、後世人でも、一段読解力の劣る、異郷の異人の末裔の勝手な思い込みによる解釈は、厳に戒めるべきなのである。(よくよく、考察を重ねた上で、解釈を構築すべきだというものであり、後世人には、絶対正確な読解ができないというものではない)

 あくまで素人考えであるが、素人なりに謙虚に考えると、伝統的な「倭人伝」解釈は、「倭人伝」以外の未検証史料から侵入した「思い込み」に惑わされて、「倭人伝」解釈の基点、視点がずれていて、端(はな)から正確な解釈から遠ざかっているように思うものである。

 東夷伝全体で見ても、韓国までの領域は、長年の通交で国勢が知られていたから、いわば、各国の身上書の項目を書き写せば良いのだが、「倭人伝」は、何も書かれていない身上書に、不確かな情報を書き込んでいったので、不確かさが伝わるように、あえて、不確かな書き方をしたのかと思うのである。思うに、「倭人伝」は、後漢献帝の建安年間、公孫氏が遼東郡太守に鎮座して、早々に書き付けられたと見るものである。「倭人」の対応窓口は、漢武帝以来の楽浪郡であり、「倭人」が女王を共立する以前と見るものである。従って、後に女王の居処となった「邪馬壹国」は、まだ存在していなかったと見るものである。ついでながら、帯方郡が設立されたのは、建安年間であり、公孫氏が、韓、濊と共に、新参の「倭人」を管理するために、それまで窓口楽浪郡の実務担当であった帯方県を、郡に格上げしたと見えるのである。
 こうした経緯は、後に、遼東郡が、東夷管理に無頓着な司馬懿の率いる大軍によって、公孫淵以下、官人に至るまで殲滅され、郡の公文書が残さず破壊されたため、不明瞭となってしまっていたが、「倭人」に深い興味を有していた明帝が、帯方郡を早期に接収したので、帯方郡「倭人」関連文書が洛陽に齎されたものである。

〇「倭人伝」の意義
 そのように、「倭人伝」は、独自の視点と方針で書かれていて特別扱いが必要である。してみると、安直な後世視点にとらわれて「魏書東夷伝倭人条」と言う言い方は、同時代視点に欠ける、浅薄な理解から出たものではないかと思われる。このような廃語はレジェンド(骨董)表現とすべきだと思うのである。つまり、偏見に拘わらず、『「倭人伝」はあった』のである。

*後記
 私見の余談はさておき、2000年時点で明言されていた、これほど明解な論考が余り参照されていないのは、まことに残念である。
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                                以上

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