新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」12/12 臺論8 再掲
「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義 2021/08/14 2023/08/28
*長口説~承前
現代夷人の人生観に根ざした、歴史的な根拠の無い先入観は、本来、論証には百害あって一利ない(別に、小生は、営利目的で論じていないので、「一利」は、お門違いなのですが、衛入りされている方は、商売の邪魔という趣旨で、そのように非難する)のですが、史書理解に基礎知識は不可欠です。「戸」は、中国戸籍制度に基づく数字で、当然、帯方郡が要求した物です。
千戸の国と万戸の国は別物で、単純に戸数の多少ではないのです。
千戸程度であれば、王の居所、氏神鳥居を取り巻いて、農家や市(いち)を囲む隔壁/環濠集落であり、中国古代以来の聚落国家とわかります。つまり、あれこれ説明がなくても、中原人に理解できる「国邑」なのです。
つまり、倭人伝冒頭、郡から倭への行程諸国は、山島に「国邑」を成していると紹介したのは、それぞれ、千戸単位の集落国家ということです。行程上最有力な伊都国が(僅か)千戸なのは、むしろ当然です。この点を読み過ごすと文意が読めず失格です。
万戸は、千戸単位の隔壁/環濠集落の集合体と解されますが、文字の無い時代、どのようにして統制、王統を採ったかわかりません。所詮、周旋五千里行程上の主要六国以外は「余傍」に過ぎないので、説明せずに放置したのです。
……徴税や労働力の徴発あるいは徴兵……を支える仕組みが「戸」または「家」であったと思われます。それが、異なる表記が使われていることは、女王国と言いながら制度的には必ずしも統一されたものではなく、従来からの経緯等で異なる単位(制度)が使われていたことの現れと見ることも出来るかもしれません。残念ながら、これ以上のことはわからないと言わざるを得ません。
お説の通り、中原における歴代政権の維持した制度では、一戸に一定の農地(良田)が与えられて、一定の税務、軍務、労役が課せられたと見るべきです。但し、個別の農地は、人力で耕作するものでなく、牛が牛犂なる「犂」(すき)を引くのが前提であり、その前提で、一戸あたりの農地が決定されていて、そこから、一定量の収穫が想定されていたのです。つまり、戸数は、牛の力で耕作する前提で設定されていたのであり、倭人の地のように、牛が耕作しない、人が労する土地では、一戸あたりの農地面積を加減しなければなりません。
それが、どのように運営されていたか、「倭人伝」には書かれていませんが、所詮、対海国を経た渡海船の搬送能力は、微々たるものだったので、帯方郡にとって、倭人は食糧供給源として計算できないものだったのです。つまり、「倭人伝」の戸数は、帯方郡、あるいは、遼東郡の視点では、単に見かけを綴ったものに過ぎなかったのです。
帯方郡は、景初年間に遼東郡の支配から回収され、皇帝直轄となったので、大量の郡文書が新任太守の目に入ったものと見えますが、どうも、内容を咀嚼しないままに、雒陽の魏明帝に報告したと見え、皇帝の詔には軽率な誤解が目に付くのです。
もともと、対海国から帯方郡まで、渡海千里と街道七千里の行程ですから、倭人の食糧供給能力は、計算に入っていなかったのです。
もちろん、文字の無い倭では、戸籍管理は困難ですが、それでも、先進国で千戸程度の戸籍が導入され始めていたと見るべきです。何しろ、郡の要求は、戸数を明確にせよというものですから、早急に戸籍を整備しなければならないのです。
もっとも、数万戸の国に戸籍があったはずはなく、正確な戸数は出せないが、「大国」(大きな国)として責めを負ったものと理解すべきです。そのような戸籍制度の早期導入を図るために、巡回指導者として刺史を置いたのでしょう。何しろ、文字の書ける、計算のできる小役人が大勢必要だし、木簡にしろ何にしろ、戸籍を書くための筆、硯は必要です。
ただし、女王の「居所」は、倭人伝冒頭で明記されているように、山島の「国邑」、つまり、環濠、隔壁で囲まれた聚落であるから、精々、千戸止まりであり、女王に仕える「公務員」に課税したり、労役や兵役を課することはないので、戸数を書くことは無意味なのです。
つまり、女王の直轄「国邑」が、七万戸の筈がないのです。
と言うことで、倭人伝で喧伝される「可七万余戸」は、全「倭人」戸数、つまり、各国戸数の計算上の総計とみるべきです。楽浪郡/帯方郡記録にあるような一戸単位で戸数計上するには、国内全域に戸籍整備が必須ですが、当面は、投馬国というでかい国が、戸数不明で明記できないのです。
*三国志の「戸」~古田氏の考察と早計
言い漏らしていましたが、戸籍制度に「家」はなく、つまり、ここで「家」と書いているのは、魏制の「戸」ではないということです。
従って、三国時代「魏」に属していなかった「蜀漢」は、漢制戸籍を維持していましたが、「戸」とは書けないのです。蜀志の基本となった蜀の資料には「戸」と書いていた可能性が濃厚ですが、三国志に収容する以上「戸」と書けなかったのです。つまり、当時、魏は、蜀漢所領に魏の戸籍を適用していなかった/できていなかったことの確認でもあります。魏志は、魏の公文書に基づいているので、魏の管理下にない蜀漢の戸数は、書かれていないのです。
孫氏の東呉は、少々微妙で、もともと後漢諸侯であり、呉帝を名乗ってからも、折に触れ魏に服従を申し入れていたので、東呉全土の戸籍資料を提出していた可能性があります。そうなれば、魏は東呉所領を支配していたことになるので、「魏志」に東呉支配地域の「戸」は記録されていなくても、「呉書」に「戸」を書くことができるのです。
以上は、古田氏の第一書『「邪馬台国」はなかった』で考察されていますが、氏の三国志観は、陳寿が、三篇の国志を全て魏の史官の世界観で統一したとの先入観が災いして、早計に陥り、直感的に大局を把握しながら、実戦の詰めを誤った感があります。
*基本的な問題は、最初に解決
それはさておき、ここまで書いてきて、高柴氏の論述が時に陥穽に落ちるのは、大事な事項を後回しにしたために、つけが利息付きで回ってきているように見えるのです。
このあたり、冒頭で道里行程問題と共に戸数問題を解明しておかないために、遡って読みなおす必要が出るのです。「問題」の解は先送りしない方が良いのです。
このあたり、氏の周辺には、適切な学識を有して、助言、指導する方がいなかったと見受けますが。本来、商用著書出版以前に解決すべきと思われます。
とは言え、倭人伝の解説を、書かれているなりに順を追って書くというのは、読者が大勢の中の現在地を知ることができるので、道に迷わない配慮ですが、やはり、大事な課題は、前段で解き明かしておくのが好ましいのではないかと考える次第です。
「不弥国」は「投馬国」との交通の基点であることから考えて、博多湾に面した玄関口的な国で、博多湾に面して東西方向に広がっていると考えました。それに続く遺跡群の多くは「邪馬臺國」の範囲になるのではないでしょうか。その中心部が須玖・岡本遺跡群で、ここが「女王の都」と考えてみました。「邪馬臺国」の中に女王が直轄する特別な地域があるという意味だと考えましたが、他の考え方もあると思われますので、ご意見等いただければ幸甚です。
所詮、氏の行程解釈は、氏の独自のものであり、不弥国を歴て投馬国に至るという過程が同意されなければ、以下の論理に従うことは困難です。
「邪馬臺国」は先進技術の集積地
当区分は、氏の意見の提示であり、批判対象でないので省略します。
捨て台詞でも無いのですが、「先進技術の集積地」とは、誠にトンチンカンな言い草です。「技術」は、形と嵩のある「もの」ではないので、集積することなどできるはずがありません。もっと、一字一句を大事にしてほしいものです。
完
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