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2023年8月28日 (月)

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」鍵14 12/12 臺論8 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28 2024/02/14

*長口説~承前
 現代夷人の人生観に根ざした、歴史的な根拠の無い先入観は、本来、論証には百害あって一利ない(別に、小生は、営利目的で論じていないので、「一利」は、お門違いなのですが、「邪馬台国」で営利されている方にすると、通説への異議は商売の邪魔という趣旨で、そのように非難する)のですが、史書理解に基礎知識は不可欠です。

*「倭人伝」の起源考察
 おそらく、「倭人」が最初に、楽浪郡なり、遼東郡に身上を申告し、「倭人伝」稿が書かれた際に、「道里万二千里」、「戸数七万」という報告があったのでしょう。ところが、時は、桓帝/霊帝と括られるように、後漢末期の動乱事態であったため、建安年間で云えば、「公孫氏から皇帝への報告がなかった」とされているので、曹魏明帝時景初年間に公孫氏が滅亡したときに、司馬懿が郡高官諸共、公文書一切を焼き払ったので、「倭人伝」稿は、灰塵に帰したのです。
 ただし、予め/それとは別に、明帝の指示で楽浪/帯方両郡に帝詔を告諭して、「密かに」、つまり無血で皇帝指揮下に回収したときに得られた「両郡文書」に残されていた「倭人伝」稿に基づく、不正規の道里、戸数が、明帝に公認されてしまったという事のようです。

 そのような、堂々たる「倭人伝」ですが、「正始魏使」派遣直前に、郡倭を周旋する帯方郡官人によって、對海國、一大国、末羅国、伊都国の「戸数」は、せいぜい数千戸と知れていたため、全戸数七万戸のツケを、奴国、不弥国、投馬国に押しつけたものとみえます。
 このあたり、「倭人伝」新稿では、余傍の国々は、「女王に報告が届いていないので実態がよくわからない」とうまく言い逃れしているものと見えます。桁違いの戸数を有する大国の戸数が、二万戸、五万戸とは、いい加減なものです。恐らく、二大国には、戸籍も何も無いと言うことなんでしょうが、筋の通らない話ですから、そのように由来を推定するものです。他にも、説明は付くかも知れませんが、まだ、明快な意見を聞いていないで、評価のしようがないのです。

 戸数千戸程度であれば、「國邑」の定義に沿っていて、中原人の理解では、王の居所、「氏神の鳥居」を取り巻いて、農家や市(いち)を囲む隔壁/環濠集落であり、城壁が無いのは不法ですが、きぼとしては、中国太古以来の聚落国家とわかります。つまり、あれこれ説明がなくても、中原人に理解できる「国邑」なのです。

 つまり、倭人伝冒頭、郡から倭への行程諸国は、山島に「国邑」を成していると紹介したのは、それぞれ、千戸単位の集落国家ということです。行程上最有力な伊都国が(僅か)千戸なのは、むしろ当然です。この点を読み過ごすと文意が読めず失格です。
 万戸の戸数を標榜する二大国は、千戸単位の隔壁/環濠集落の集合体と解されますが、文字の無い時代、どのようにして統制、王統を採ったかわかりません。所詮、周旋五千里行程上の主要六国以外は「余傍」に過ぎないので、説明せずに放置したのです。

 ……徴税や労働力の徴発あるいは徴兵……を支える仕組みが「戸」または「家」であったと思われます。それが、異なる表記が使われていることは、女王国と言いながら制度的には必ずしも統一されたものではなく、従来からの経緯等で異なる単位(制度)が使われていたことの現れと見ることも出来るかもしれません。残念ながら、これ以上のことはわからないと言わざるを得ません。

 お説の通り、中原における歴代政権の維持した制度では、一戸に一定の農地(良田)が与えられて、一定の税務、軍務、労役が課せられたと見るべきです。但し、個別の農地は、人力耕作でなく、牛が牛犂なる「犂」(すき)を引くのが前提で、一戸あたりの農地面積が決定されていて、そこから、一定量の収穫が想定されていたのです。
 つまり、戸数は、牛の力で耕作する前提で設定されていたのであり、「倭地」のように、牛が耕作しない、人が労する土地では、一戸あたりの農地面積を加減しなければなりません。
 それが、どのように運営されていたか、「倭人伝」には書かれていませんが、所詮、対海国を経た渡海船の搬送能力は、微々たるものだったので、帯方郡にとって、倭人は食糧供給源として計算できないものだったのです。つまり、「倭人伝」の戸数は、帯方郡、あるいは、遼東郡の視点では、単に見かけを綴ったものに過ぎなかったのです。

*誤解の由来
 帯方郡は、景初年間に遼東郡の支配から回収され、皇帝直轄となった時点で、大量の郡文書が新任太守の目に入ったものと見えますが、どうも、内容を咀嚼しないままに、雒陽の魏明帝に報告したと見え、皇帝の詔には軽率な誤解が目に付くのです。
 もともと、対海国から帯方郡まで、小舟で渡る三度の渡海、計「三千里」と郡内街道「七千里」の行程ですから、「倭人」の食糧供給能力は、計算に入っていなかったのです。

 重複御免で丁寧に説明すると、文字の無い「倭」では戸籍管理は困難/不可能ですが、それでも、先進国で千戸程度の戸籍が導入され始めていた程度と見るべきです。何しろ、郡の要求は、当然、戸数の根拠を明確にせよというものですから、早急に戸籍を整備しなければならないのです。
 もっとも、数万戸の二大国に、正式の戸籍があったはずはなく、従って、正確な戸数は出せないが、「大国」(大きな国)として責めを負ったものと理解すべきです。そのような戸籍制度の早期導入を図るために、巡回指導者として刺史を置いたのでしょう。何しろ、文字の書ける、計算のできる小役人が大勢必要だし、木簡にしろ何にしろ、戸籍を書くための筆、墨、硯、書卓が必要です。

*女王居処の話
 ただし、女王の「居所」は、「倭人伝」冒頭で明記されているように、山島の「国邑」、つまり、環濠、隔壁で囲まれた聚落であるから、精々、千戸止まりであり、女王に仕える「公務員」に課税したり、労役や兵役を課することはないので、戸数を書くことは無意味なのです。従って、戸数は、書かないのです。
 要するに、女王の直轄「国邑」が、七万戸の筈がないのです。

 と言うことで、倭人伝」で喧伝される「可七万余戸」は、全「倭人」戸数、つまり、各国戸数の計算上の総計とみるべきです。楽浪郡/帯方郡記録にあるような一戸単位で戸数計上するには、国内全域に戸籍整備が必須ですが、当面は、投馬国というでかい国が、戸数不明で明記できないのです。

*三国志の「戸」~古田氏の考察と早計
 言い漏らしていましたが、戸籍制度に「家」はなく、つまり、ここで「家」と書いているのは、魏制の「戸」ではないということです。
 従って、三国時代「魏」に属していなかった「蜀漢」は、後漢の後継王朝として、漢制戸籍を維持していましたが、「戸」とは書けないのです。蜀志の基本となった蜀の資料には「戸」と書いていた可能性が濃厚ですが、三国志に収容する以上「戸」と書けなかったのです。つまり、当時、魏は、蜀漢所領に魏の戸籍を適用していなかった/できていなかったことの確認でもあります。「魏志」は、曹魏公文書に基づいているので、曹魏管理下にない「蜀漢」の戸数は、書かれていないのです。

 孫氏の東呉は、少々微妙ですが、もともと後漢の太守であり、呉帝を名乗ってからも、折に触れ魏に服従を申し入れていたので、東呉全土の戸籍資料を提出していた可能性があります。そうなれば、曹魏は東呉所領を支配していたことになるので、「魏志」に東呉支配地域の「戸」は記録されていなくても、「呉書」に「戸」を書くことができるのです。

 以上は、古田氏の第一書『「邪馬台国」はなかった』で考察されていますが、氏の「三国志」観は、早計、早合点であり、陳寿が、三篇の国志を全て魏の史官の世界観で統一したとの先入観が災いして、早計に陥り、直感的に大局を把握しながら、実戦の詰めを誤っ感があります。

*基本的な問題は、最初に解決
 それはさておき、ここまで書いてきて、高柴氏の論述が時に陥穽に落ちるのは、大事な事項を後回しにしたために、つけが利息付きで回ってきているように見えるのです。
 このあたり、冒頭で道里行程問題と共に戸数問題を解明しておかないために、遡って読みなおす必要が出るのです。「問題」の解は先送りしない方が良いのです。
 このあたり、氏の周辺には、適切な学識を有して、助言、指導する方がいなかったと見受けますが、本来、商用著書出版以前に解決すべきと思われます。

 「倭人伝」の解説を、書かれているなりに順を追って書くというのは、読者が大勢の中の現在地を知ることができるので、道に迷わない配慮ですが、やはり、大事な課題は、前段で解き明かしておくのが好ましいのではないかと考える次第です。ご再考いただきたいものです。

 「不弥国」は「投馬国」との交通の基点であることから考えて、博多湾に面した玄関口的な国で、博多湾に面して東西方向に広がっていると考えました。それに続く遺跡群の多くは「邪馬臺國」の範囲になるのではないでしょうか。その中心部が須玖・岡本遺跡群で、ここが「女王の都」と考えてみました。「邪馬臺国」の中に女王が直轄する特別な地域があるという意味だと考えましたが、他の考え方もあると思われますので、ご意見等いただければ幸甚です。

 所詮、氏の行程解釈は、氏の独自のものであり、不弥国を歴て投馬国に至る」という過程が同意されなければ、以下の論理に従うことは困難です。時代考証すると、当時、博多湾は、ドロドロの沖積低地であり、海港の用は為していなかったと見えます。
 とにかく、海船が入港しようにも、浅瀬だらけであり、仮に、嘴のように硬い土地が、海中に突き出していても、荷役できる桟橋は設けようが無いので、まとまった荷下ろしができず、倉庫も設けられないのであり、また、海市も設けられないですから、誌の構想する不弥国は、砂上の楼閣ならぬ、泥沼の惨状となっていたはずです。現代地図で夢想するので無く、筋の通った考証の上に、時代構想を描くべきでは無いでしょうか。要するに、博多湾港湾盛況は、泥沼の固まりかけた、数世紀後になるでしょう。

「邪馬臺国」は先進技術の集積地

 当区分は、氏の意見の提示であり、批判対象でないので省略します。
 捨て台詞でも無いのですが、「先進技術の集積地」とは、誠にトンチンカンな言い草です。「技術」は、形と嵩のある「もの」ではないので、集積することなどできるはずがありません。もっと、一字一句を大事にしてほしいものです。

                                完

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