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2023年8月12日 (土)

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 6/9 三掲

会稽東縣談義 資料                   2016/11/09 2023/05/04

         出所 中国哲学書電子化計劃
論衡 遭虎 東漢 80年 王充著
 會稽東部都尉禮文伯時,羊伏廳下,其後遷為東萊太守。

三國志 吳書八 張紘傳:
 建安四年,策遣紘奉章至許宮,留為侍御史。曹公聞策薨,欲因喪伐吳。紘諫,以為乘人之喪,旣非古義,若其不克,成讎棄好,不如因而厚之。曹公從其言,即表權為討虜將軍,領會稽太守。曹公欲令紘輔權內附,出紘為會稽東部都尉。

三國志 吳書十二 虞翻傳:
 翻與少府孔融書,并示以所著易注。融荅書曰:「聞延陵之理樂,覩吾子之治易,乃知東南之美者,非徒會稽之竹箭也。又觀象雲物,察應寒溫,原其禍福,與神合契,可謂探賾窮通者也。」會稽東部都尉張紘又與融書曰:「虞仲翔前頗為論者所侵,美寶為質,彫摩益光,不足以損。」

三國志 吳書十五 全琮傳
 全琮字子璜,吳郡錢唐人也。父柔,漢靈帝時舉孝廉,補尚書郎右丞,董卓之亂,棄官歸,州辟別駕從事,詔書就拜會稽東部都尉。

三國志 吳書十六 潘濬傳
 玄字文表,丹楊人。父祉,字宣嗣,從孫堅征伐有功,堅薦祉為九江太守,後轉吳郡,所在有聲。玄兄良,字文鸞,隨孫策平定江東,策以為會稽東部都尉,卒,玄領良兵,拜奮武中郎將,以功封溧陽侯。

三國志 吳書三三 孫亮傳:
 二年春二月甲寅,大雨,震電。乙卯,雪,大寒。以長沙東部為湘東郡,西部為衡陽郡,會稽東部為臨海郡,豫章東部為臨川郡。

 王充「論衡」は、一世紀後半の完成のようであるから、會稽「東部都尉」の職は、少なくとも前漢末期まで遡るものと思われる。「都尉」は、県単位で置かれるものだから、その時点で、會稽「東部都尉」の所管する「會稽東部」なる、県に相当する行政区画が存在していたことになる。後に、「會稽東部」は昇格して「臨海郡」となったとのことである。
 言うまでもないが、「都尉」は、当時の京師や東都の「みやこ」(都)を管轄していたものではない。郡太守の補佐役で、諸事を総ていた「地区総督」に過ぎない。「都」の字義は、「すべて」と解するのが常道なのである。

後漢書 東夷列傳
 倭在韓東南大海中,依山島為居,凡百餘國。自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。
 樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。

 陳寿「三国志」魏志「倭人伝」が、郡から狗邪韓国を経て、大海中の洲島を順次渡り越えて、末羅国に上陸し、以下、一つの島を往くと、理路整然と「倭」にいたっる行程を示しているのに対して、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、要を得ない節略を被っている。大倭王の居処を「邪馬臺国」と言い切り、其の国を楽浪郡の檄(南界)を去ること万二千里と書きつつ、楽浪郡檄の西北界は、狗邪韓国を去ること七千里と、誤解を招く視点の動揺である。因みに、「大倭王」と言うからには、「大倭」なる蛮夷が紹介された上でなければならないのだが、何の予告もされていないのであるから、不審極まりない。
 武帝創設の楽浪郡は、数世紀を経た後漢朝後期に到るまで、ほぼ一貫して東夷主管拠点であったから、このように、だれの眼で見ても混乱したと見て取れる報告を提出したとは思えないので、笵曄は、魏志「倭人伝」の剽窃という非難を免れるために、意図して、混乱して理解困難な記事としたと見えるものである。

*蔑称としての「臺」
 「邪馬臺国」の「臺」は、史家の聖典である春秋左氏伝によれば、大変な蔑称であり、笵曄の東夷蔑視を示しているものとも思われる。世上、笵曄の真意がこめられた蔑称を読み取り損ねているのは、不吉である。

後漢書 東夷列傳
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

 脈略なく書かれているのは、断片的な風聞/伝聞記事であり、信ずるに足りないホラ話と見える。
 冷静に地図を見れば分かるように、確かに、会稽の東方は広大な東シナ海であるが、南に下った「東冶」の東方至近には、巨大な台湾の島影があり、なぜ、このような身近な異郷を見捨てて、その向こうの蛮夷である、国名も王名も方位も所要日数も不明、つまり、音信のない「夷洲及澶洲」に行こうとするのか不審である。

*揺蕩う「東夷」の心象
 むしろ、秦代の東夷は、山東半島東莱から見て、眼前に横たわる「海中山島」である朝鮮半島を指しているとも見えるのである。孔子の発言として伝わる「筏で浮海して到る東夷」にふさわしいのは、海船を要しない近場と見えるものである。「東夷」なる地理概念は、時代に応じて移動しているので、慎重な解釋が必要である。
 

未完

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