私の本棚 佐藤 広行 古田史学論集 第三集「周旋五千余里」論 再 1/2 補充
倭地及び邪馬壹国の探求 「周旋五千余里」と倭地の領域の検討 (2000)
私の見立て★★★★☆ 丁寧/着実な論考 2017/11/25 追記再掲:2021/03/27, 07/10 2022/09/26 2023/08/23
〇再掲の弁 2022/09/26
当論考の取り組みは依然として高く評価するが、小生、つまり、当ブログ記事筆者の現在の見解では、「周旋」は、同時代用例*からみて「狗邪韓」と「倭」の「二点間往来」と見るので、佐藤氏の見解には、同意できないと明言する。(*袁宏「後漢紀」などに散見される)
倭人伝冒頭部分の「従郡至倭」と書き出された部分は、帯方郡から「倭」と書かれた「倭人」居所、ないしは、女王之所に至る主要道里、主要行程を示すものであり、倭人伝の要部である。そこでは、後に全体道里が万二千里と明示するのに先立って、郡から狗邪韓国を七千里と明示している。
続いて、行程諸国の記事が続き、それぞれ道里ないしは行程が書かれているため、記事に書かれた諸国全てが主要道里、行程であると誤解される事を懸念して、狗邪韓国と倭人居所の間の主要行程を「周旋」と明示し、これを、五千里と明示したのである。
同様に、主要行程上の要部、つまり、對海、一大、末羅、伊都が、一向に南下する行程上にあって、当然、倭人居所の北方に当たる事から、これら四ヵ国を「女王国以北」と形容したのである。世上、このような表現では、三十ヵ国に及ぶ国々を対照と誤解して、対象国が不明確だとする意見があるが、それは、倭人伝文意の取りこぼしである。ここまでに書かれているのは、主要四ヵ国に加えて、奴国、不弥国、投馬国の三国だけであり、残りの国々は、そこまでに登場していないから、明らかに対象外なのである。
以上、話すと長いが、筋の通った見解なので、話せばわかるものと思い、ここに書き込んだものである。
このように必要事項が明示された倭人伝記事であるが、氏は、「周旋」の語義を現代日本語風に断じているため、論考のすすめ方は妥当でも、一種こじつけにとどまっていると見える。
また、他国の紹介で起用された「方二千里」記法が不採用となっていて、「周旋」が類例の見つかりにくい孤立用例なのも不審である。正史の編纂においては、古典に典拠の無い用語を不意打ちに使うのは「御法度」、下手をすると厳罰の対象であったから、「周旋」は、むしろ常用されていたありふれた用法で起用されているとみるべきである。
という事で、以下の記事から、少々転換した見解になるので、ご注意いただきたい。
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〇記事再掲 ~ 目下不支持の過去ログ
本記事は、古田武彦氏が「「邪馬台国」はなかった」で行った重大な解明論考の瑕疵として「倭地の領域」が解明されていないことに不満を持ち、当論考で、是正を図ったようである。先賢の論考に弱点を見つけて、補填を図るという意味では、当記事も同趣向である。
よって、それぞれ学恩に対する謝恩であることは認めていただきたい。
氏が、古田氏の倭人伝論に於いて、倭地の地理的位置、すなわち、帯方郡からの方角、道里(道のり)及び戸数が記載がされていることを上げただけで、「倭地」の国のかたちと大きさが解明されていないのを「倭人伝」の不備と見たのであるが、そのように見た理由として、東夷伝は、全体として、諸民族の国のかたちが明記されているのに拘わらず、倭人記事では明記されていないように解釈されていることが、解釈の不備と見たものである。
ここで、氏は、倭地の領域の形と広さの書かれている記事として、「周旋五千余里」は、次の下りを言うのであり、論考は、大変丁寧に、関連史料を渉猟して考察を加え、思考の経路を整えているが、ここではその部分は飛ばして結論部分を確認する。
參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里
氏の理屈では、『「周旋」は、不定形、つまり、形のよくわからない領域を言う』らしい。と言うと、不同意と見えるかも知れない。氏の説明について行きにくいが、結論に同感を表明したものである。
当方の解釈では、倭地は、離島部分は別として、九州島上で言うと、一周五千余里相当の範囲内に収まると言うことだと思う。以下、当方の論考では、「倭国」と言うが、これは、倭人伝の対象となっている大国、つまり、三十国全体のことである。(注:当時の見解である)
*周旋の解釈~「領域」の見立て
直線的に説明すると、韓国のように東西海で限られている領域なら、南北境界を割り切って、方形(四角形)と見なすこともできる。朝鮮半島の南部以外は、古くから楽浪/帯方郡に知られていたから、領域図めいたものが知られていたと思うのである。
世上、「方」を現地地形の反映と見る向きがあるが、あくまで「見立て」であり、どの程度不確かであったかは、いくら調べてもわからないので、幾何学的に判断すべきではないのである。
倭国のように小国山盛りで、どこまでが自国か地図を描いて示すことのできない諸国が大半では、倭国全体の領域は、はっきりわからないのである。
〇「領域」図の幻想
余談であるが、太古以来、各王朝の領域が地図上に示されていることが多いが、きっちり国境線で示されるような領域が確認されていたわけではなく、特別な場合を除けば、図示された境界は虚構、つまり「ウソ」である。
各国は、領内の農地を、悉く測量/検地し、各戸に割り当てていたから、領地内の農地については、くまなく承知していたが、耕作不能で未開拓の山野がどの国に属するかは、わかりようがない。
未完
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▢方針転換のお断り 2022/09/26
冒頭に書いたように、三世紀当時の知識人の持つ語彙では、「周旋」は、二点間往来の意義と見るのが妥当と考えるに至ったので、本論に展開された氏の論考には賛同できない、との結論に到ったが、それはそれとして、氏の学術的な論考の組み立ては偉とすべきであり、素人論者として、氏の論理の建て方に賛同するという考えには変わりが無い。
なお、ここで開示した「概数論」は、倭人伝解釈の際に必須なので、あえて加筆していないものである。
以上
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