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2023年8月29日 (火)

新・私の本棚 生野 眞好 陳寿が記した邪馬台国 魏晋朝短里再論 2/2 再掲

 海鳥社 2001年 7月  2019/02/08, 03/21, 08/05 2020/05/06 2021/12/12 補追 2022/01/25 2023/08/29 09/28
 私の見立て ★★★☆☆ 有力 但し、「短里」説依存は不合理

*「安本提言」について
 生野氏の論説は、短里説の事実上の創唱者で、古田氏の「魏晋朝短里説」を早々に棄却した安本氏の慧眼には、筋の通らない俗説に囚われた「憶測」と映ったのでしょう。もちろん、安本氏は全知全能でなく、時に早合点もありますが、今回は、「史学論文は史料に基づくべきだ」と言う蘊蓄に富んだ教えです。従うべきです。

*伊都国と王都談義
 生野氏の著作に示された意見で、傾聴すべき点は多々ありますが、肝心なのは、倭の「王都」が、伊都国の直ぐ南にあったという明快な意見です。女王国は、各国間係争をさばく権威を有したはずであり、近距離にある必要があるのです。

*京都(けいと)の名残り
 おそらく、伊都国は、依然として王国機構、つまり有司を抱えていて、共立した女王の「居処」は、倭の一宮(いちのみや)的存在で、氏子総代の伊都国、奴国の支持を受けていて、中でも後背地の伊都国から、食料搬送と伝令往来の容易な位置だったはずです。公的に文字がないため、盟約も、法律も、文書連絡も無い世界では、指令も報告も、伝令を送るしかなく、一ヵ月彼方の遠隔地は、到底支配できないのです。

 因みに、伊都国の戸数が存外に少ないのは、農漁村部が少なくて耕作地が少なく、一方、徴税、徴兵の対象外である官員が多く、税収や兵員動員が実人口に比して少数だったのであり、「京都」としてはむしろ当然でしょう。これも当然ですが、伊都国は戸籍が整備され、戸数に漏れや読み違いはないのです。もちろん、後世の、間違いだらけで大変不確かで、一切信頼を置けない史料「翰苑」に「万戸」とあるから「倭人伝」現行刊本を改竄するというような蛮行は論外ですが、世上、無法な暴論が幅をきかせるのは、困ったものです。

*「女王之所都」 の幻影
~2021/12/12 追記 2023/08/29 補追
まことに差し出がましいのですが、「倭人伝」で、倭王「卑弥呼」が「王都」を設(しつら)えていたというのは、大いなる誤解です。魏志は、中国正史ですから、「史記」、「漢書」以来の正史用語に従わねばなりません。漢書「西域伝」は、西域の蕃夷の国々の銘々伝を立てていますが、いずれの国も「王都」の称号を有していません。(西の果ての超大文明国安息国[パルティア] は、唯一の例外です)
つまり、「王都」は、高貴な身分である周「王」の住まうところであり、蛮夷の王は、形式的に尊称を与えられていても、中国の「王」ではないので、「王都」と称することはないのです。従って、陳寿が「女王之所都」と書くことはあり得ないのです。(「女王の所に至る。すべて水行十日、陸行一月」と句読点を打つべきなのです)史書の用語として、「在」は、高位の臣下の所であり、「居」は、下位の臣下の所なので、東夷女王の所は、せいぜい「居」であって「都」などではないのです。
 因みに、「伊都国」は、固有名詞として許してしまったものであり、以後、歴史の霧の彼方に消えてしまっています。
 「都」なる漢字は、太古以来、多様な意味で用いられていますが、「都」(みやこ)の意味で使われることは、大変少ないのです。何しろ、同一時代に、天子の住まう「都」は、一カ所しかないのであり、混同されることはないし、むしろ、憚るものなので、用例は少ないのです。
 平文で「都」と書かれているときは、そのような畏れ多い意味でないのは自明なので、それ以外の意味で解するのです。いちばん、普通なのは、「すべて」の意味であり、後世になると、「都」は、「大きなまち」の意味となっているのです。
 とかく、国内史料、史書、諸賢、諸兄姉は、まことに無造作に、軒並み「都」を使用しますが、綿密な史料考証で用語を是正しなければならないものと思うのです。
 
*成文法談義
 「倭人伝」には法を示唆する記事があり、後世の唐律令のように膨大克明でなくても、識字層が成文法で律したはずです。つまり、各国の中核には識字官僚がいたか、指導者として刺史を配し諸国の文書行政を支えたのです。

*狗邪韓談義~「エレガントな解答例」
 氏は、狗邪韓国は、弁辰狗邪国ではなく「狗邪韓」国であり、「倭人伝」文脈で、「倭」の半島における北辺であり、それ故、「従郡至倭」として倭北辺に至る七千里を書いたと提言し、それはそれで、何より求められる単純明快さを備え、かつ、安直な現代人史観を廃した「エレガントな解答例」と見ます。快刀乱麻など前々世紀の遺物です。

 但し、私見では、「歴韓国」に続き「狗邪韓国」と書く以上、やはり韓の一員と見えます。倭の一国なら韓国と誤解されない書き方があったはずです。結局、この国は、韓の一員だから狗邪韓国と名乗ったように見えます。

 また、氏の半島行程の南岸周航は、ほぼ「歴倭」~「倭岸水行」となり、なんとも不審です。何か勘違いしたのか、それとも、渋々導師の教えに従ったのでしょうか。今日、真剣に南岸周航を固持している方はいないものと思うのですが、とうに「消え」たはずの「レジェンド」(ゾンビー)が、白昼のし歩いているのでしょうか。

 と言うことで、氏のこの提言に賛成できないのです。ただし、例の如く、賛成できないと云うだけで、否定しているわけではないのはご理解頂きたいのです。

*「地理志なき三国志」談義
 「三国志」に「地理志」がないのは無理からぬ事と思います。魏は全土支配してなかったので支配外の呉、蜀の「地理志」が書けないのです。正史を編纂して、帝国の威儀を保とうとした東呉はともかく、蜀には史官が十分に整っていなかったので、「地理志」のもとになる公式記録が存在しないのです。陳寿が、蜀志の編纂に協力しても、「地理志」、「郡国志」の根幹である公文書がなくては、三国志「地理志」、「郡国志」をまとめようがなかったのです。
 因みに、時代経過で言うと、南朝劉宋の正史「宋書」は、「州郡志」なる地方郡志を整えましたが、梁代の編纂時には、三国時代の史料が乏しい上に、晋書未編纂で、晋代、特に西晋代の史料が散逸していたため、不完全となった述懐しています。
 郡制を論じると、郡分割、新設記事は、本紀に書き込まれていても、廃止や併合は、書かれていないことが多く、難航したとされています。宋書自体も、南朝が陳を最後に撲滅されたため、散佚が甚だしく、正史といえども、欠損が多いようです。

*地域短里制宣言談義などなど
 当方は、倭人伝道里行程記事の冒頭で、帯方郡管内の狗邪韓国までの(陸上)行程を七千餘里と明記したのは、海南東夷の領域まで敷衍すべき限定的な里を明確に宣言し、史官としての叡知を刻み込んだと見ます。少なくとも、今日に至るまで「日本」の一部の頑迷な牢固たる捏造説固持者を論外として除けば、倭人伝の「鉄壁」を否定しようとしたものすらいないのです。
 何しろ、「日本」は、中国の土地制度を導入せず、そのため、国家の根底を不朽不滅の「里」におく土地管理が、遂に維持されなかったので、「里」は、時代地域によって異なるなどと、いい加減な常識を持って、雑駁に中国の制度を論じているので、「倭人伝」の道里行程記事を適確に解釈することなどできないのです。

 因みに、後世、帯方郡滅亡後の三国時代以降の現地里制は不明ですが、太古以来、里制は土地制度に釘付けされているので、時代を越えて維持されたはずです。統一新羅の遣唐使が、ほぼ同一行程(宿舎が整備された一級官道)を二百回余り行き来したはずですが、当然、普通里で測量していたはずであり、いずれかの時点で、百済と新羅が全土に普通里を敷いたのでしょう。

 もちろん、統一新羅の遣唐使街道の出発点である新羅王都慶州(キョンジユ)は、帯方郡官道の終着点であった狗邪韓国から、山地を挟んだ北東方にあり、この地域で官道が利用していたと思われる洛東江街道から外れているので、当初は、遣唐使街道は並走して北上したでしょうが、結局、洛東江が中上流で随分蛇行したうえで大きく東転と見える地域で合流します。
 その後、半島の嶺東側から黄海側に出る古街道筋と思われる栄州(ヨンジュ)~忠州(チュンジュ)間の峠越えは、鞍部とは言え、結構険阻な峠のようです。峠を越えて、南漢江中流に降りた後の黄海側官道も、いずれの海港を目指すかによって南北に分岐するものの、ほぼ共通の行程と思われます。因みに、「峠」は(中国)漢字にない、蕃夷が勝手に作った字ですから、うっかり公文書に使うと鞭打ち百回ものです。
 また、現地地名は、現代のものですから、必ずしも、古代地名がこれと同じとは限りませんし、読み仮名も同様です。
 山河は、現代の治水土木工事(ダム)で変貌しているでしょうが、そこは、ある程度推定できるのです。また、Google Mapsの3Dマップ表示も、大いに参考になります。

 古代史学界でも、科学的思考を重んじる進歩派が唱える半島内全面陸行説は、古田武彦氏が第一書「「邪馬台国」はなかった」でほぼ創唱したものであるため、同書を毛嫌いする保守定説派によって頭から忌み嫌われていますが、古田氏に、時に早合点の暴走があるとしても、その提言の内容自体には、初心に返って素直に耳を傾けるのが、凡そ学問の徒の普通の務めでしょう。

*倭国総戸数七万戸~百年河清を待つ
 今回気づきましたが、安本氏が、七万戸が倭の総戸数との読みを早期に提言されたのを、当方が見落としていたのは軽率でした。陳謝します。
 言うまでもないのですが、「倭人伝」に、倭人の総戸数が明記されていないはずがないのですが、世上、「邪馬台国十五万戸」説を構成し、「そんな多数の戸数は、北九州に収容できないから、九州説は、その時点で破綻する」との言説が、前世紀に畿内説陣営の「最終兵器」として特筆されたため、陣営所属論者は、党議拘束されて、一切認めることができなかったようです。
 私見では、「邪馬台国論義」には、纏向説一党の一極集中の弊害が出ていますが、そのために、学問の自由が阻害されているのは、困ったことだと懸念しています。
 このあたりは、「倭人伝」に、郡から倭人までの所要日数が明記されていないはずがない、と言うのと同一論拠で、誠に合理的な話と思うのですが、合理的であろうとなかろうと、頑固に「一説」にこだわるのが、常態となっているのです。

                               完

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