新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」鍵1410/12 臺論6 三掲
「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義 2021/08/14 2023/08/28 2024/02/14
この書き方から見れば「南、投馬国に至る」……は行ったのではなく、……方向を示し……、「南、投馬国に至ること水行二十日」……は「邪馬壹国」への道筋……に必ずしも必要ない……のです。……この一文を除いても「邪馬壹国」への道筋に……影響が無いことになります。従って、この部分を除いて……みれば「東行不弥国に至ること百里。南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」となります。……「不弥国」に続いてその南に「邪馬壹国」がある事が明確ではないでしょうか。……距離が書いてないのは……五百里、百里、百里と来て最後はゼロだ、と……なると思います。そうして女王国の所在を示した後に、所要総日程は水行十日・陸行一月であると述べて……います。そして……郡治からの総里程が万二千余里……です。……実に簡潔で分かり易いのです。
投馬国行程の解釈は、偶々正鵠を得ているのでしょう。先だって、奴国、不弥国は、実際に通過したとしていますが、かえって、解釈がうねっているようです。行程記事は、女王国のない時代のもので、伊都国で終着しているのであり、奴国、不弥国、投馬国が、一律行程外と見る方が、筋が通っていると見えます。
ここまで、二千年後生の無教養な東夷の理解で、厳然たる正史の文章を好き放題に組み立て直し、解釈の視点をひねくり回しておいて、恐れ入谷ですが、氏の解釈のどこが「簡潔」なのか不明です。最後に、「ユーレカ」ばりに、天啓を得て、文章解釈が完成したと言いますが、素人には、何も見えてきません。大抵の「天啓」は、よくて錯覚、大抵は、論者の脳内に巣食う白アリの仕業です。
このような隅っこで、事のついでに延々と論じる話題ではないのです。
不足の里程はどこにあるのか
……「不弥国」までで合計一万七百余里でした。……「郡より女王国に至る、萬二千余里」とは差があるではないか、とする疑間が生じます。この疑問は古田氏の解読で解決することになりました。氏は魏志の行路を丹念に読む中で、陳寿が行路の途中にある「對馬国」を「方可四百除里」、「一大国」を「方可三百里」と記述している所に着目されました。陳寿は島を点としては見ずに面積を持った広がりがある所という捉え方をしており、従って理屈の上では島に上陸して島を半周して反対側に抜けたと考えたのではないかと推測されたのです。
この部分は、古田氏の解釈に、ほぼ無批判で追随して批判が困難ですが、率直に言うと、古田氏の里数計算は、概数の理屈を放念して失当であり、高柴氏が、それを根拠に端数里数をこじつけて、まことに勿体ないところです。別記事で丁寧に批判したので、ここでは結論だけですが、意見は明記しておきます。
それにしても、陳寿が、島の「国邑に広がりがあると捉えた」とは、奇想天外です。中国古代書で「國邑」は、せいぜい一千戸程度の「城郭」集落であり、城郭、隔壁は必須なのですが、「倭人」は、山島で隔離されているので、城壁が無いと言うだけです。陳寿が、古田氏と同じ世界観であるというのは、古田氏の願望であり、実際がどうかは「全く」別問題です。
そうすると、「對馬国」を半周して八百里、「一大国」を半周して六百里、合計千四百里になります。……海も島も見たことが無いと思われる陳寿のことですからやむを得ないのではないでしょうか。先の合計に千四百里を加えると一万二千百余里になります。元々余里という概数を含んだ計算ですから最後の百は省略、或は切り捨てて万二千余里としたのでしょう。……史書として……は正確な記述となっています。……陳寿は魏使の報告書等を……三国志に反映したことが伝わって来ます。惜しむらくは、陳寿が「邪馬壹国」がかなり南方にあると思い込んでいたと見られることです。
史書の書法は理解したとの自負心で、陳寿の勘違いと付け回ししています。「万二千百余里」と書いて、「もともと余里という概数を含んだ」と正しく認識していながら、千里単位の概数計算に百里単位の端数を取り込んで辻褄合わせするという事に不審を感じないのは、古田氏の誤解を継承しようと論を歪めているのです。
「海も島も見たことがない陳寿」と愚弄していますが、見たことがない渡海記事も含めて、地理記事を解釈して、海も島も見たことがない皇帝に「倭人伝」を上申するのに身命を賭していたのですから、つまらない誤解はしていないとみるべきです。つまり、狗邪韓国の前方の大海の「流れ」を中原の河流に例えて、そこに「州島」、つまり、「中之島」が浮かんでいて、これを都度渡し舟で渡るという説明で、当時の読者は、納得したのです。河流の渡し舟が、行程道里上、里数を書かれないのと同様に、渡海一回一千里で済ませているのです。
*陳寿の技巧
ということで、正史の行程記事として前代未聞の「渡海」記事を勇気を持って書き込んでいて、要するに、河水(黄河)を渡る際に中之島を渡り継ぐのと似たようなものだと説明して、恐らく「金槌」揃いの読者が納得しやすいようにしているのです。陳寿は、現代の都会人と違って、物知りであり、たっぷり時間をかけて、読者が理解できるように前例のない記事の書き方を工夫しているのですから、ご自分と同程度の知性の持ち主と侮らないことです。
同時代随一の史官が、長年推敲し、同時代の教養人が明快と評した記事を、二千年後生の無教養な東夷の素人夷人が、速断の高みから講評するのは、素人目にも僭越です。
それにしても、「惜しむらく」は、どう評すればいいのでしょうか。単に、高柴氏が、陳寿の真意を読み取れていないと言うだけであり、べつに「惜しむらくは」などと、高みから身を屈めてご謙遜いただくものではないのです。
さりげなく、蟻が富士山と相撲して、勝った勝ったと言っているとみるものでしょうか。何とも、勿体ない早計浅慮です。古人なら、とんだ「赤坂見付」としゃれのめすところです。
初学者、夷人は、分を弁え、謙虚に語るべきです。幾千万の石つぶてが還って来そうですが、つぶての数や目方/質量が勝つものではないのです。
未完
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