私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 4/9 三掲
会稽東縣談義 1 2016/11/09 2023/05/04 2023/08/08
▢三掲の弁
冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。
*会稽東縣談義 1
陳寿「三国志」呉書及び魏書に、「会稽東縣」に関する記事がある。
依拠史料は一つであり、呉書と魏書にそれぞれ引用されたと思われる。同一の記事のはずが一致していないので、関連史料の批判として、どちらが正確な引用なのか考察を加える。
会稽は、江水と沿岸の交易から大いに繁栄したと思われる。経済活動に即して、会稽東部諸縣を監督する部署を設け課税したと推測される。そこで登場したのが、会稽東縣都尉であり、また、東呉に会稽東縣なる地区区分があったはずである。
会稽東縣 呉書
三國志 吳書二 吳主傳
(黄龍)二年春正月(中略)
遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。
亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布
會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠,卒不可得至,
但得夷洲數千人還。
呉書「呉主傳」が伝えるのは、呉主、即ち(自称)皇帝孫権が、衞溫、諸葛直の両将に指示して、兵一万人と共に、夷洲及澶洲を求めて、東シナ海に出航させた事例である。背景として、秦始皇帝時代に、方士徐福が亶洲に向けて出航し帰還しなかったが、現地で数万戸の集落に発展して、ときに、会稽に商売に来る、と挿入句風に「史実」を引用している。
「会稽」は、郡名、つまり、郡治でなく、地名の会稽を指しているとみられる。引き続いた「會稽東縣」は、明らかに、南方の「会稽郡東冶県」でなく、会稽の沿海部と見られる。但し、筑摩版正史「三国志」では、呉書呉主傳の「會稽東縣人」を「會稽郡東部の住民」と解釈しているが、以上の考察に照らすと、誤訳に近いものである。
ここで言う会稽は、南方東冶を含めた会稽郡を言うのではなく、著名な地名としての会稽の周辺なのである。
いずれにしろ、当記事は、「魏志」の依拠する魏朝公文書には存在しないので、「倭人伝」に引用されるものではないのである。
念のため再確認すると、「呉書」は、東呉の「正史」稿であったが、亡国時に司馬晋皇帝に献上され皇帝蔵書となったものであるから、魏朝公文書には、収録されていないことから、陳寿は「魏志」編纂にあたって、当該記事に依拠しなかったことが明らかである。但し、劉宋代に後漢書を編纂した笵曄は、史官ではないので、東夷列伝「倭条」の編纂に際して自由に諸資料を活用したものと見える。
未完
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