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2023年8月12日 (土)

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 8/9 三掲

会稽東冶談義 2                    2016/11/09 2023/05/04 2023/08/07

▢三掲の弁
 以下維持している「初稿」とは、若干論旨が変化しているが、別に転進しているわけではないのは、理解いただけると思う。
 以下の話の運びは、三国志を編纂した陳寿が、「魏志」倭人伝の編纂にあたって、「呉志」の会稽郡/建安郡記事を参照したと見た古田氏の論調に沿っているが、現在の当ブログ筆者の見解は、これに沿わないものになった。
 陳寿は、「魏志」の編纂にあたって、後漢から政権を継承した曹魏の公文書に固執しているのであり、東呉孫権政権の公文書記事が、曹魏に報告されていない以上、「呉志」の記事を利用できない、と言うか、参照しないのである。一方、「呉志」は、ほぼ全てが、東呉の史官韋昭が編纂した「呉書」が、東呉が司馬晋に降伏した際に、全巻上納されたものであるから、曹魏は「呉書」の内容を知り得なかったという「史実」が、厳然としているのである。
 と言うことで、「魏志」「倭人伝」に呉書/呉志の記事は反映していないのである。つまり、俗説に言うように、会稽郡東冶県の地理情報は、「倭人伝」に無関係なのである。

 念押しすると、陳寿は、「魏志」編纂にあたって、後漢/曹魏の公文書に記録された「史実」の継承に身命を賭していたので、曹魏の知らなかった東冶県の地理情報を書くことはなかったのである。

*笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」の不合理
 なお、笵曄「後漢書」は、先行する諸家後漢書の集約であり、本来、曹魏代の会稽郡地理情報は、収録できなかったものである。また、地理情報の典拠とすべき後漢書「郡国誌」も、会稽郡治への公式道里を示すのみであり、南方に隔絶した東冶県については、何も語っていない。また、陳寿「三国志」は、志部をもたないので、東冶県に関する記事は、呉志の本紀相当部分に書かれている分郡等の情報を記すのみであるから、東冶県の地理情報は欠けている。

 そのような史料しかないのであるが、笵曄は、史官の職務倫理に縛られない文筆家であり、「後漢書」東夷列伝「倭条」の編纂にあたって、依拠できる史料がないのに拘泥せず、陳寿「魏志」「東夷伝」を流用したのであり、その際、不注意にも、劉宋の高官として知悉していた「東冶」を採り入れたものと見えるのである。恐らく、笵曄は、禹の東治に基づく李斯の会稽「東治之山」の故事に疎く、小賢しく、「東冶」に訂正したものと見える。
 いや、史書に記録されていない「憶測」であるが、厳密に書誌考証に徹すると、魏志「倭人伝」に明記されている「会稽東治」が、笵曄「後漢書」に「会稽東冶」と誤記された原因は、合理的に絞り込まれるのである。老大家の武断とは、出来が違うので、混同しないでいただきたいものである。
 特に、笵曄が、後漢献帝期の東夷史料が存在しないにも拘わらず、「東夷列伝」「倭条」を造作した手口は、明々と示されるのである。

 以下紹介した古田武彦師の論義であるが、氏は、総じて「正史厳正」の立場に立っているので、笵曄に対して難詰していないが、当ブログ筆者は、掲題の両正史は、それぞれ、編纂者の執筆姿勢が問われるのであり、「正史厳正」と証されていない笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」に対する難詰を躊躇わないのである。

*初稿 2016/11/09 2023/05/04
 古田武彦氏の第一書『「邪馬台国」はなかった』に「東冶県」論が書かれている。古田氏説は、稽郡南部を建安郡として分離した永安三年(260年)の分郡以前は会稽郡東冶県であり、会稽となっているが、分郡以降である陳寿の執筆時点は、会稽郡東冶県でなく建安郡東冶県であるとの主張であり、ごもっともと思える。同書の後続ページで笵曄「後漢書」編纂時点では、東冶県が会稽郡に復帰していたと推定して図示している。

 まずは、この最後の指摘が、引っかかる。会稽郡が分割されたのは、会稽郡の広大な地域を郡太守が統御しきれないという事情によるものであった。つまり、後漢途中までは政治経済的に未発達だったので、何とか、郡北部である会稽から、南方の東冶を統括できたが、郡治会稽と東冶の間は、福州の険阻な山地に阻まれ、僻南の「東冶」には監督が行き届かないので、一旦「南部都尉」を設けた後、永安分郡となった。
 こうした事情で分離した「南部諸縣」を会稽郡に復元するだろうか。率直なところ、これは、根拠の無い憶測である。

 東呉時代は当然として、晋朝南遷による東晋朝以降の南朝時代にも、福州、広州は政権の基盤であり、分郡後の新設建安郡すら広すぎて晋安郡と二分するのであるからねそれ以前の時代、古田氏が書く東冶県の会稽郡復帰は無かったのである。

 また、分郡まで東冶県があったとは限らない。分郡以前に会稽郡「南部都尉」を設け、「東冶県」自身、既に「候官県」と改名され「会稽郡東冶県」はなくなっていた。古田氏指摘の呉書記事で「会稽東冶(五県)の賊」というが、「東冶県」でなく「東冶」地域の意味合いであり、五県は、建安、侯官、漢興、南平、建平である。
 というものの、いつ会稽郡南部が会稽郡太守の管轄を外れて、会稽南部都尉の管轄になったかはっきりしない。会稽南部都尉就任記事はあっても都尉新設の記事は無い。或いは、遙か以前から置かれていた可能性がある。

 また、陳寿「三国志」自体、ないしは、依拠資料の引用と見られる笵曄「後漢書」東夷伝記事以外では、東冶県は出てこない。後は、三国志呉書の記事を拾い集めるしかない。なお、陳寿は、少なくとも、後漢~魏朝公文書以外に依拠できないから、仮に、呉書記事を参考にしても、県名、郡名の考証まではせず、素材そのままなのであろう。細部に疎漏があるようである。

 端的に言うと、陳寿「三国志」魏志/魏書で、東冶県の書かれている記事は無く、いわば、「圏外」である呉志/呉書に登場するだけなのである。要するに、魏志は、雒陽の曹魏政権が支配していて、現地から、戸籍が報告され、地方機関から報告が上申されていて、魏帝が承認し、公文書に記載された事項に限定されるのである。
 つまり、魏朝にとって、東冶は、存在しない地名であるので、魏朝正史を編纂した陳寿が、倭人伝において、「倭人」の領域を雒陽読書人に報告するのに、魏代に圏外であった「東冶」を起用するはずがないのである。

 と言うことで、この下りは、古田氏の勇み足で、論証が半ば空振りに終わっているようである。いや、失敗しているのは絵解きであり、陳寿「魏志」倭人伝の記事は「会稽東治」であり、「東冶」でなかったという点は、かなり/断然分のある議論と思う。

*追記~2023/08/07
 以上の筋道は、その後、沈約「宋書」州郡志の会稽郡南方地域の地理/道里記事を確認した結果によって裏付けられたのである。
 笵曄は、劉宋の高官であったから、後漢末期以降、東晋代に到る当該地域の地理情報を十分把握していなかったにも拘わらず、暢気に会稽東冶と書いてしまったようである。笵曄にすれば、厖大な西域伝記事に比べて、内容に乏しい東夷列伝「倭条」に彩りを添えたつもりなのだろうが、それは、史官の本分に反しているのである。

             未完

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