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2023年8月12日 (土)

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 3/9 三掲

会稽郡小史                       2016/11/09 2023/05/04 2023/08/08

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

*会稽郡小史
 会稽郡は、河川交通、即ち、江水(長江、揚子江)と南北の沿岸交通の要所を占めて開発が進み、ここに郡治を置いて、はるか南方辺境まで郡域に含めて管轄する体制が作られたものと見えるが、東冶県などの南部諸縣は、直線距離で四百五十公里(㌔㍍)の遠隔地である上に、会稽郡治からの陸上交通が海岸に迫る険阻な山地に阻まれ、後年に至るまで、この間の「官道」整備は進まず、交通困難であったと思われる。

*陸道無し
 笵曄、裴松之が生きていた南朝劉宋代の正史である沈約「宋書」「州郡志」は、会稽郡治相当の治所から、往時の東冶県、当時の建安県道里は、去京都水三千四十,並無陸。と明快である。「水」、つまり、河川行の道里のみ記述されていて、「陸」、つまり、陸上街道は存在しないとされている。
 恐らく、有名な蜀の桟道のように、崖面に足場を組んで、「径」(こみち)を設けて、人馬の往来はできても、街道の前提である車馬の往来は不可能で、また、騎馬の文書使の疾駆や兵馬の通行はできなかったため、街道不通となっていたと思われる。後年、延暦23年(804)の 遣唐使の第一船が福州に漂着し、長安を目指した旅途は、留学僧空海によって、「水」を経由した報告されているので、「倭人伝」の五世紀後に至っても、街道は整備されていなかったと見える。なお、沈約「宋書」「州郡志」に、建安郡の記載は無いが、晋書及び南齊書に記録があるので、宋書の写本継承の際に脱落したと見られている。

 秦、漢、魏と政権が推移しても、郡は、帝国地方行政区分の中で最上位であり、小王国と言えるほどの自治権を与えられていて、郡治は、地方政府組織を持ち、自前の軍隊も持っていた。また、管内諸縣から上納された収穫物を貯蔵していた。また、管内の治安維持のために、郡太守の権限で制圧軍を派遣することが許されていた。つまり、税務・軍務の自治があった。

 しかし、郡太守として郡内全域統治する視点では、会稽郡治は、南部諸縣との交信が不自由であり、また、遠距離で貢納収納も困難であった。何しろ、馬車の往来や、騎馬文書使の疾駆が不可能では、平時の報告/指示が滞り、また、治安維持で郡兵を派遣するにも、行程の宿泊、食料調達がおぼつかず、結局、南方諸縣は、反乱さえなければ良いと言うことで、自治に任せていたことと思う。

*建安分郡
 後漢末期に会稽に乗り込んだ孫策は、会稽太守につくと共に、江南での基盤固めのため強力に支配拡大を進めた。後に自立した東呉孫氏政権が、江南各地の開発を進めていく事態になると、会稽郡から南部諸縣を分離して、建安郡の新設(ここでは分郡と呼ぶ)が必要になった。因みに、「建安」郡は、後漢献帝建安年間のことなので、時代は「後漢」末期で、魏武帝曹操が宰相として、実質的に君臨していたと思われるので、まだ、東呉は、後漢の一地方諸公だったとも思えるが、このあたりの力関係は、後々まで不安定である。
 新設建安郡は、後に東呉皇帝直下の郡としての強い権限を与えられ、郡兵による郡内の治安維持が可能になり、また、郡内各地の開発を強力に進めることができるようになった。

 もちろん、その背景には、郡治の組織・体制を支えられるだけの税収が得られたことがある。つまり、それまでは、「建安郡」管内の産業は、郡を維持するのに十分な税収を得られる規模になっていなかったので、会稽郡の傘下にあったとも言える。

*東呉自立の時代
 念を押すと、そのような建安郡の隆盛は、あくまで、東呉国内のことであり、曹魏には、一切関知しないことだったので、「魏志」には、建安郡の事情は一切伝わらなかったのである。それは、雒陽から会稽を経て東冶に至る道里行程が不明だったことでもあり、また、東呉領内の戸数も口数も、一切伝わらなかったのである。

 何度目かの確認になるが、三国志「呉志」は、陳寿の編纂したものではなく、東呉史官であった韋昭が編纂したものであることが、「呉志」に書き留められている。陳寿は、「三国志」全体の責任編纂者であるが、「呉志」は、いわば、陳寿の同志である遺詔が心血を注いだ「正史」稿であることが顕彰されているのである。そして、韋昭をはじめとする東呉史官は、後漢末の動乱期に洛陽の統治体制が崩れ、皇帝が流亡する事態にも、漢の威光を江東の地に維持した孫権の功績を顕彰したものであり、陳寿は、その真意を重んじて、三国志に「呉志」(呉国志)の全容を確保したものである。
 言うまでもないが、「呉志」は、東呉亡国の皇帝を誹るものでもなく、東呉を下した司馬氏の威光を頌えるものでもないのである。史官の志(こころざし)は、後世東夷の量り得ないものなのである。

                  未完

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