私の意見「陳壽の見た後漢書」サイト記事批判 謝承後漢書談義 補充
〇始めに
前回記事は、通例の商用出版物の書評などではなく、「神功皇后紀を読む会」通信(主宰・福永晋三)サイトの(かなり古い)記事に対する批判であった。記事自体に署名は見て取れないが、福永晋三氏主宰サイトであるので、これらの記事は氏の書いたものであろうと言う程度のものなので、サイト記事批判とするのは避けている。単に、良くある軽率な判断の一例を点検したものである。
但し、後日(2020/03/31)確認すると、福永氏は近来、著書を公刊して世に広く訴えるのではなく、支持者を集めて講演会を開き、その内容をYouTubeに公開して、閲覧回数を積み上げることにより、広く支持/講演聴衆を集めているようだが、そうした「辻説法」活動は、氏の生計に不可欠であって、余人が容喙(業務妨害) すべきものではないとも見えるが、ちゃんとした評価を受けられないのではないかと思量する。
とにかく、YouTube動画はダウンロード禁止なので、お言葉を書き留めるか、表示資料を読み取ることを強要される。と言うことで、氏の所説について史料批判しようにも、対象と根拠を示すのが困難である。YouTube動画のURLを表記するにしても、長大な講演のどのあたりと明記するのが、大変困難である。
今回は、貴重なコメントをいただいた方の意見に従い、講演を拝聴した上で、目に付いた部分を取り出して、別記事仕立てで「率直に」批判を加えたものである。
□動画批判の理由
福永晋三氏は、それほど確信を持った主張にも拘わらず、論文形式で公刊していないため、適確な史料批判の形式で批判することができない。YouTube動画はダウンロードできないのもあって、論議の対象とすることが困難である。
福永氏の論調は、天衣無縫で、細かい確認を抜きにして、止めどなく、広範囲に暴走しているが、具体的な論点に絞って、手の届く範囲で反論すると下記のようになる。
- 陳寿が、魏志「倭人伝」編纂にあたって、「謝承後漢書」を参照したという証拠は「一切」ない
謝承「後漢書」が現れるのは、陳寿「三国志」本文ではなく、裴注であり、裴松之は、全て『謝承「後漢書」』と明記している。もちろん、裴注当時、范曄「後漢書」は、公的に認知されていなかったので、参照することはできなかった。
言うまでもないと思うのだが、陳寿の厖大な蔵書の中に、謝承「後漢書」があったとか、陳寿が、何れかの時期に謝承「後漢書」を閲読したとか、臆測を巡らしても、具体的に「引用」を立証しないと不可能であるし、また、何の意義もない感想に過ぎない。 - 裴注は、倭人伝の付注に謝承「後漢書」を参照していないので、『謝承「後漢書」に東夷傳があって陳寿が参考にした』との証拠はない
「倭人伝」記事は、あくまで、魏代事績であり、後漢代事績は、魚豢「魏略」に於いて回顧したものを引用するしかなかった。
「桓霊の間、倭国大乱」と范曄「後漢書」が書いているが、続く献帝時代、遼東太守公孫氏によって、洛陽と倭との交信が断たれていて、後漢公式記録には、これ以降、魏への政権移行まで倭との交信記録がなく、つまり、倭に関する後漢記録/公文書がないのに、謝承が「後漢書」東夷伝、特に「倭人伝」を書くとは考えられない。史書として、依拠すべき公文書がないのに、臆測によって「東夷伝」を書くのは、欺瞞である。
笵曄「後漢書」倭伝(倭条)は、唯一の東夷史料である魚豢「魏略」の東夷伝相当部分から、時代があいまいで転用/流用できそうな記事を「盗用」しただけであり、その際は、記事の年代を(魏代から)後漢代にずらして、交信断絶期間の『なかった「倭国大乱」記事』を造作したものとみられる。編者が有効と判断した史料を引用するのは、当然のことで、それ自体は、誠に正当であるが、原史料を改竄して造作するのは「盗用」と判断される。
そのため、不合理にも、卑弥呼共立は後漢代となるように「魏志倭人伝」の解釈がなし崩しにずらされ、共立後長年を経た老境になって、魏明帝景初二年に大夫二人を使節に派遣したと(創作)されたと、悪質な「誤読」が、意図的に蔓延されたと見える。
なぜか、このような後世創作の倭女王像が蔓延/林立して、陳寿「魏使」倭人伝を、「素直に」読むことができなくなっている。まことに罪深い改竄盗用である。
一方で、陳寿に対して、史実を離れて記事を造作したとの人格攻撃が漂っていて、言いたい放題の趣が感じられる。何か、批判者の自画像が世上を漂っているとも見える。世も末である。
- 「翰苑」の注記は、范曄「後漢書」と「後漢書」の二種があるだけで謝承「後漢書」はない
「翰苑」断簡写本の原本が、同時代の最善原本に厳密に忠実であったと仮定すると、「翰苑」原本が「後漢書」と略記していたということであろうが、少なくとも、「後漢書」は複数存在するのが衆知であったので、「翰苑」編者が「不注意で」謝承「後漢書」を単に「後漢書」と略記したとは思えない。「翰苑」の初期の編纂者が、無教養で不注意であったとか、校正者がいなかったとか想定するのは、無茶というものである。
「後漢書」は、遙か後世唐代に范曄「後漢書」に、李賢太子が付注し、司馬彪「続漢紀」から「志」を追加して、「正史」としたので、謝承の異本を引用するときは、「絶対に」『謝承「後漢書」』と明記しなければならないのが当然の作法(さくほう)である。 - 「翰苑」記事は、「倭人伝」の同時代原本の正確な引用でないと思われるので信を置くことができない
「翰苑」編者は、史官ではないので史官の規律に縛られず、「卑弥妖惑」を「卑弥娥惑」として「妖」を「娥」(妖の異体字)に書き替えたように、原史料引用の際に改変を加えているものと見える。
あるいは、所引/引用の際に、略字の走り書きを多用したために、略字から本字への復元に、当の担当者の教養が不足していたために、正確な復元に失敗して文字化けしたものとも見える。そして、誰も文書校正していないため、誤記/誤写/乱丁が、そのまま残ってしまった。
常識事項をことさら言い立てるのは、読者に失礼と思うが、まあ、初心者に近い読者もいるだろうということで、殊更書き立てるが、筆写の際の誤字は、原史料と丁寧に対象すれば、容易かつ確実に校正できる。翰苑写本は、そのような当然の編集過程を経ていない粗雑な引用と判断される。
何か、断簡写本作成の際に、原史料を確認できない事情でもあったのかと訝(いぶか)しい。貴重で高価な書籍の筆写であり、写本は、途方もなく高価なもののはずなのに、そのように粗雑、拙速な対応をする事情は、一千年後生の無教養な東夷には想像することすら困難である。文字校正すらできないものに、内容の校正などできるはずがない。
【一例】翰苑「高麗」(高句麗)記事が、「魏牧魏後漢書曰」と書き出されているが、これは、単なる誤字の類いを超えた深刻な問題をはらんでいる。ここで引用されているのは、「魏収」(人名)の編纂した「後魏書」(南北朝 北魏史書)であり、笵曄「後漢書」とは無関係であることは自明である。原本は、権威ある書籍であるから、「魏収後魏書曰」と書かれていた「はず」である。
案ずるに、素人同然の写本工を呼集して取り組んだ、やっつけ仕事となったため、未熟で粗忽な写本工は、いったん「魏収」と書いたのに続いて、筆の勢いで「魏書」と書こうとして、「魏」と書いたものの、「後」を書き飛ばしたのに気づき、「後」と書き足したものの、書き癖で「後漢書」と書いてしまったとでも、推定すれば良いのか。誠に、素人臭い手際で、しかも、誰の目にも誤写とわかる形で放置されているのは、後日訂正しやすいようにあえて残したとも見え、つまり、写本の途中段階の作業記録に過ぎないのであり、これが売り物になるとは見ていなかったのではないかとも思われる。要するによくわからない。
無教養な写本工には、「魏収」が人名との認識はなく、続く「後漢書」も「後魏書」も同じようなものだったか。この写本工は、字の違いに気がついたとしても、修正を加えることも目印を付けることもなくそのまま書き進め、出来上がった写本に校正の手が一切加わっていない。
他の例で言えば、宋書の記事に対して、お手本と行格が異なるために、行末の処理を誤り、前後の文章がつながらない現象を呈している。そもそも、このように、割り注に近い原本を正確に写本するためには、厳格に行格を一致させなければ、どこかで破綻する危険性があるのは、常識/自明であるが、断簡写本は、強引に文字を書き写そうとするだけで、乱脈になっている。そして、大事なのは、そのような無法な写本行程を、規律を持って指導する人材が無かったということである。
要するに、「翰苑」の最終写本工程では、無法な写本行程から生じた写本の記事は、大きな誤謬そのものである。
つまり、現存する断簡である翰苑は、史料として「一切」信頼できないものであり、現存刊本に書かれている「壹」の字を否定して「臺」と書き替える効力を一切持たない。
このように、明らかに根拠のない史料考察を根拠に、正史写本/刻本行程の誤謬を主張するのは、端から虚妄の説と断じられても反論できないと思量する。
【証明完了】
再三の蒸し直しで恐縮であるが、中々周知されないので、またもや蒸し直しとなったことをお詫びする。誤解されないように、念入りに強調したので、お耳ざわりであれば、謝罪するが、それは、誤謬に対する怒りが書かせたものであるので、御寛恕頂きたい。
以上
因みに、謝承は、後漢から東呉の時代の呉人であり、孫権正妃謝夫人の弟にあたる背景からも、謝承が「後漢書」編纂にあたり、東夷の風俗記事に拘泥するとは見えない。
▢追記 2022/12/12
以上、大変苦労して、氏の提言に根拠が無いことを主張したが、これは、本来、収益を得る営業活動に従事している福永氏がご自身で成すべき史料批判であり、このような根拠の無い「思いつき」を無造作に提言されるのは、誠に、氏の名声を傷つけるものと思量する。
氏の晩節をいたずらに穢さないように、自重されることを望むものである。
以上
▢追記 2023/09/20
後出であるが、「翰苑」現存断簡に関する史料批判(2023/07/09)を参照いただきたい。「翰苑」が格式正しく復元されれば、史料評価できるというものである。
私の所感 遼海叢書 金毓黻遍 第八集 翰苑所収「卑彌妖惑」談義
以上