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2023年9月

2023年9月25日 (月)

新・私の本棚 瀧音 能之 邪馬台国論争の現在地 歴史人10 1/3

OCT 2023  「日本の古代史が変わる!?」 ABC アーク
私の見立て★★☆☆☆ ひび割れた骨董品 学問劣化に警鐘か 2023/09/25

〇はじめに
 速攻すると、瀧音能之氏は、本誌が委嘱する以上、「殿堂」物の権威ある古代史論者だろうが、「日本の古代史が変わる」雑誌で今どきの熱々の学説を語るのはお門違いではないだろうか。文字史料解釈に疎いのは困る。つまり、専門外の史料解釈をどなたから聞いて受け売りしているのか分からないが、ちゃんと裏付けを取る義務があると思うのである。

▢邪馬台国論争の現在地
 冒頭で「骨董品」と絶賛し、ヒビを埋め戻しているが、当評言は、ピアノ界不世出の巨匠ウラジミール・ホロヴィッツ最晩年の来日公演に呈された苦言であり、趣旨を酌み取って欲しいものである。

*数値化無き図形化の怪
 今回創出かどうかは分からないが、編集部制作年表は、研究史を縦書き表で、全体が右から左に流れるのは奇観というか、むしろ、古文書の流れに即していて適切か。さらに奇観は、「畿内vs九州勢力グラフ」なる波打つ色分けが、どんな統計数値からグラフ化したか不明である。中央線の位置付けも神がかり、鬼道か。なぜ、こんなものに金を払わないといけないのか。いや、「歴史人」氏は、世評の信頼の篤い媒体なので、編集部の手際に対して採点が辛いのである。他意はない。

 それにしても、段末の「近年は畿内説の支持が多い」とは、誠にいい加減である。「近年」とは、いつ頃からのことなのか、「支持」とは、支持者の頭数か、質量か、筋力か。「多い」とは単純多数か、何と比較したか。非論理的非科学的である。まして、「畿内説が優勢」とは、誰が誰に「惑わ」されたのか。
 
▢所在地論争の元凶!? 曖昧な記述も多い1級史料を読み解く
中国史書が描く「邪馬台国はこんな国」
[最新の定説はこれだ!]
*戦国時代だった倭国大乱の後30の国が集まる邪馬台国連合に
 氏は、班固「漢書」地理志から始めて、笵曄「後漢書」東夷伝の後漢初期記事に続いて「倭国大乱」の文字を取り出し「列島戦国」時代としている。
 当時、列島全体が、戦国時代の群雄割拠という記事は、後漢書にも「魏志倭人伝」にもない。単に、57,107年に代表者が遣使したのに、以後、百年にわたり定期的参上を怠ったのは、王(主)が無かったからである。笵曄は、美文愛好誇張趣味で、同時代人には読みやすいが、それを額面通り受け止めるのは楽天的に過ぎる。
 そのあとに、初めて格上の一級史料「魏志倭人伝」紹介で、「倭が互いに争い数千人が殺されたとある」とは、史料に根拠が無く、世間の野次馬から、錯乱されたのかと批判を招くように見える。
 関連記事は、以下二件であり、氏の根拠は不明である。氏自身が自覚しているように、「倭人伝」なる高度な教養を要求される文書に対して、氏の古代中国語文書理解力が「妖しい」のに「曖昧な記述も多い」とは困ったものである。「多い」とは、どの程度の数、分量、位置付けを言うのだろうか。「曖昧」とは、誰の意見なのだろうか。とにかく、「風評」、「臆測」が出回るのは、なぜだろうか。
1 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。(笵曄[後漢書]倭条:倭國大亂,更相攻伐,歷年無主)
2 卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。
 卑弥呼を、複数の国主が妥協して卑弥呼を王に立て、国々が収まったのは1の後か。その結果、「邪馬台国連合」ができたとは奇態で、根拠不明である。因みに、当時の中国の辞書に「連合」はないから、定義無しに持ち込んでは、「時代錯誤」と言われかねないのである。
 ちなみに、一度敵対した諸国が「連合」を締盟するには、全代表者が集いて血書連判/誓約する必要があるが、言葉が通じたとしても、文字が無く、共通「法」のない状態で、どのようにして「連合」できたのか不可解である。因みに、主要な国以外は、国に王がいないから、代表者の盟約がどの程度有効なのか不明であるし、当座の代表者が結盟しても、構成国が代替わりした後は、締盟が有効かどうか、誰も責任を持てない。そんな約束など無意味ではないか。余程の確証がない限り、そのような「思いつき」は、学術的に支持されないと見るものである。

 氏は、以上のように、どなたかが後世の歴史資料から拾い集めた概念を捏ね上げて「倭人伝」解釈に塗りたくっているように見受けられるが、どの項目を取っても、何の根拠も示されていないので、これでは、氏の憶測となるのである。

                                未完

新・私の本棚 瀧音 能之 邪馬台国論争の現在地 歴史人10 2/3

OCT 2023  「日本の古代史が変わる!?」 ABC アーク
私の見立て★★☆☆☆ ひび割れた骨董品 学問劣化に警鐘か 2023/09/25

*「魏志」倭人伝に記載された不明瞭な邪馬台国の位置
 氏は、楽天的に、邪馬台国の位置と言うが、学問的に主張するには、「魏志倭人伝」に「邪馬台国」はなかったのを、まず克服すべきである。重大な怠慢である。
 帯方郡を「植民地」と決め付けるが、魏は帯方に屯田していない。韓諸国が、水田稲作に適さない土地であるから、取り立てられる穀物は乏しいのである。また、貴石、宝石、玉などが出たとも書いていない。何かの勘違いであろう。
 帯方郡から行程諸国までの距離・方角などが見られるとは、深刻な勘違いである。書かれているのは各国経由して目的地までの行程である。
 「倭人伝」を勝手に解釈した上で、『「記載通り」に追っていくと一路南下』と解しているが、誰の解釈に追従しているのか知らないが、それで 明らかな不合理が露呈するなら、「そのような解釈が不正確」という証左である。
 過去の研究者達諸兄姉は、「倭人伝」の記事と自身の思い込みが整合しないのを「矛盾」と見ているらしいが、言葉の意味を知らない無教養を暴露していることになる。局面を眺めれば分かるように、別に、対等の両者が攻防しているわけではない。蟻が「富士山」に背比べを挑んでいるのであって、足下にも及ばないのである。この比喩は、つまらない、低次元、子供じみた勘違いである。

 「倭人伝」は、最高峰の学者が切磋琢磨して確認した正史文書であり、現代東夷の無教養な研究者が間違っているに過ぎない。題意を理解できずに回答不能で自分好みに改竄するのはとびきり愚行としか言いようがない。

▢「魏志」倭人伝に記された邪馬台国までの行程
 当図出典は不明だが、まずは、帯方郡狗邪韓国行程が原文改竄で、伊都国到達後行程が誤解と見え「記述通り」との断定は余りに楽天的である。
 「放射説」を採用すると、「邪馬台国」は伊都国近傍であり、本図は無意味となるから、徒労であり、「倭人伝」解釈を仕切り直すべきではないか。

絹織物の生産
 図示の織機が存在したなら九州説は、決定的に有利になるのではないか。
 なお、女性素潜りは、誤解と思われる。水人は男性である。沈没は潜水では無いと思われる。誤解が誤解を呼ぶ。もちろん、「水」は淡水である。

 畿内説、九州説の論義は飛ばす。

▢卑弥呼の「真説」
 意味不明の風評だが、業界「定説」は、「俗説」、「巷説」である。「呪術的能力」が、いかなる能力か、不合理に論じては纏まらない。記紀に卑弥呼が登場しない以上、「倭人伝」は、中国史料専属で「日本古代史」無関係と見るものではないのか。

▢有力な候補者三人との共通点を考察
 卑弥呼とは一体誰なのか。?
*卑弥呼=女王の概念は、古代中国が広げたもので、国内では、「姿を見たものは、ほぼいなかった。姫御児」などの敬称で呼ばれていた
 コメント 構文錯乱だが、「卑弥呼=女王の概念」は時代錯誤で、特に「=」はあり得ない。「古代中国」が広げたとは妄想である。倭人伝に存在しない「姫御児」の造語を三世紀に持ち込んで「定説」としたのは誰か。いつから、女王は童「児」になったのだろうか。

*魏の使者が二百五年頃に倭を訪れた時点で、三十代後半で夫はいなかった。
 コメント ボロに困惑する。魏創業は二百二十年で、二百五年は後漢建安年間である。下賜物を携えた使節が倭を訪れたのは二百四十年あたりである。なぜ、誰も、注意してあげなかったのか不可解である。
 主語欠落の不出来な文章であるが、女王に配偶者がいないだけで、三十代は著者臆測であり、「定説」は老婆である。
 誰も氏の玉稿を校正しなかったのだろうか。これでは、氏が、後世に恥をさらすことになる。

*倭迹迹日百襲姫命・倭姫命・神功皇后が有力な候補で、倭迹迹日百襲姫命であった可能性が高い
 コメント 誠に不可解である。書紀は、三世紀記録でなく、後世の合理的な後付けがされていない以上、「卑弥呼」と全く無関係と見るのが合理的な判断である。

 ここでも、著者の解釈は、錯乱しているように見える。書紀編者が、卑弥呼を神功皇后に擬えていたと言いながら、「神功皇后は非実在」と断罪しては意味不明である。

                                未完

新・私の本棚 瀧音 能之 邪馬台国論争の現在地 歴史人10 3/3

OCT 2023  「日本の古代史が変わる!?」 ABC アーク
私の見立て★★☆☆☆ ひび割れた骨董品 学問劣化に警鐘か 2023/09/25

□卑弥呼はどんな祭祀を行ったのか?
 「シャーマン」なる俗説で超能力者に擬されているが、「倭人伝」に明記されているのは、卑弥呼は生涯不婚の巫女であり、求めに応じて父祖の助言を仰いだのである。「人々を思いのままに導いた」と著者は糾弾するが冤罪である。滅多に重臣諸侯に臨見せず、口頭のお告げであるから、どんな意志をいだいて、どのように意志を徹底できたのだろうか。
 そもそも、卑弥呼は有力氏族の一員で、父祖は、父方母方双方と見え、両家/両王が従うのは、卑弥呼が鎹(かすがい)なのだろう。もう少し、理性的に解釈し、三世紀人が知らない「シャーマン」など、持ち出すべきでは無いと思われる。
 それにしても、卑弥呼天照大神説は廃棄されてしまったのだろうか。

▢卑弥呼はどんな生活を送っていたのか
【最新の定説はこれだ!】
*宮室に住み、高殿で祭祀を行った。
コメント 宮室かどうかは知らないが、少なくとも、地べたから離れて、床の上にいたはずである。床下に風を通さないと、雨水が浸入して、かびが生え、ネズミが巣を作って、たまらなかったはずである。特に、冬季、地べたに藁を敷くようでは、寒くてたまらないと見るのである。

*弟と巫女の内弟子数十人が仕え、姿を見たものはほぼいなかった。
コメント 誤解に誤解を重ねて、戯画になっている。「姿を見たものは、ほぼいなかった」とは、ものを知らない誤解であり、女王として臨見、接見したものはほとんどいないというだけである。奴婢が身辺の世話をする「奧」では、大勢が姿を見たはずである。独身でも単身でなく、両親も兄弟姉妹がいたはずである。

*動きやすい麻の服を着用し、民衆同様の食生活を送っていた。
コメント この項も戯画尽くしである。
 倭人に麻があったとは初耳である。麻が栽培されて普及していたら、強靱な帆布、麻縄が調達でき、早々に帆船が整っていたはずである。

 被服を動きやすくするには、「仕立て」と「着付け」が不可欠であり、ゴワゴワとされる麻布だから、着心地が良いというものではない。高貴な身分の女王は、長袖長裾で、動きにくかったはずである。下戸は、布地を縮めて、ツンツルテンで、膝あたりまでのホットパンツになっていたかもしれない。
 当時、「民衆」がいたとは聞かない。大家は豪勢な暮らしをしたろうが、小人は、稲作で玄米を蒸して食しても、副食は市(いち)で買い付けたのか。女王は、お供えで食卓を賑わし、「民衆」と同列とは、侮辱ではないか。
 念押しするが、同時代、掘り下げた地面の上で生活していたとしても、床がなかったと言われるのは、決めつけすぎである。せめて、簀の子の上に、藁茣蓙としなければ、四季を過ごせなかったと思われる。

◯閉店の弁
 くたびれてここで打ち切ったが、総じて、現場・現地に密着した丁寧な考察が不足していると見える。特に、これっきりしかない「倭人伝」解釈が、軽率な黒子の受け売りとは感心しないし校閲が無いのも感心しない。

 いや、ここだけ臨時「フラット」で音程を下げて調子外れになったかもしれないが、全体に、古代史論で場違い、時代錯誤の言い回しが多い。(数えてもいい)あちこちで、「最新」「定説」と言われても、いつ、どこで、誰が、どんな根拠で「説」を提案し、どんな権威者がどのように審査して「定説」としたのか、「可視化」公示していただきたいものである。もちろん、異議/コメント公募も不可欠である。そうでない「お手盛り」は食えない。

                               以上

2023年9月23日 (土)

私の所感 遼海叢書 金毓黻遍 第八集 翰苑所収「卑彌妖惑」談義

                        2023/07/09 2023/09/23 史料参照/評価追加

*翰苑史料評価更新のお勧め

 以下、「中国哲學書電子化計劃」所蔵「翰苑」史料を参照する。太宰府天満宮所蔵「翰苑」断簡の影印を、校訂/校勘しているので論考で参照すべきものと思われる。
 翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本
*出典:遼海叢書 金毓黻遍 第八集 「翰苑一巻」 唐張楚金撰
 據日本京都帝大景印本覆校 
 自昭和九年八月至十一年三月 遼海書社編纂、大連右文閣發賣 十集 百冊

卑彌妖惑翻葉群情臺與幼齒方諧眾望
後漢書曰 安帝永初元年有倭面上國王師升等獻生口百六十人願請見至 桓靈間倭國大亂更相攻伐歷年無主 有一女子名曰卑彌呼 事鬼神道能以妖惑眾於是共立為王 宗女臺與年十三為王 國中遂定其國官首曰支馬次曰彌馬升次曰彌馬僕次曰奴佳鞮之也
按宗女以下漢書未載

 当ブログにて世上の「卑弥娥惑」との解釈が不適切であると述べているが、実は、百年近い昔に校訂済みであった。不明をお詫びする。

 記事部分は、「後漢書」と称しているが笵曄「後漢書」「東夷列伝」倭条所引である。世上、「倭伝」と称しているが、「伝」の体裁をなしていないので、単に「倭条」と呼ぶことにする。
 内容は、ほぼ「倭条」構文となっているが、末尾は、笵曄「後漢書」を「漢書」と呼び捨てていて味わい深い。
 翰苑編者は、配下書生に蔵書「後漢書」から卑彌呼に因む所引を命じて得た本文を書き出したものの、「漢書」(笵曄「後漢書」)に「宗女」以下の字句はない(書き落としている)ので、陳寿「三国史」魏志倭人伝から所引して繋ぎ合わせて復元したと察している。要するに「漢書」(笵曄「後漢書」倭条)所引に続いて、断りなく魏志を所引しているが、翰苑編者は、原典が「倭人伝」に移っているのを隠蔽しているようである。あるいは、当時の常識として、笵曄「後漢書」東夷伝倭条と陳寿「三国史」魏志倭人伝のつながった創作資料を、「漢書」倭国条と称していたのかもしれない。時には、これを「魏志曰」として流用していたのかもしれない。

 後世正史や類書に、笵曄「後漢書」倭条の「邪馬臺国」が横行して「邪馬壹国」が見えない原因は、このあたりの(杜撰な)編纂手法にあるように思える。百科全書の類いである「類書」の内容が、厖大な分野に渡り、史料としてみると遠大な年月を包括しているから、手っ取り早いやり口に出したとしても、咎められないのである。「倭人伝」の考察にあたって肝要なのは、類書や後代資料を、正史と同一の信頼性を有する厳密な資料と見ないことである。手短に言うと、史学の基本の基本として、史料批判、資料審査が不可欠なのである。

 世上、「翰苑」断簡写本が、安直に、上級史料として参照されているのを見ると、素人なりに苦言を呈したくなるのである。

憑山負海鎮馬臺以建都
後漢書曰 倭在韓東南大海中依山島為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使譯通於漢者三十許國國皆稱王 其大倭王居邪馬臺國樂浪郡徼去其國萬二千里 其地大較在會稽東冶之東與珠崖儋耳相近
魏志曰  倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑 炙問倭地絕在海中洲島之山 或絕或連周旋可五千餘里四面俱抵海 自營州東南經新羅至其國也
按炙問以下魏志未載
 「倭条」、「倭人伝」に続いて、不明の後代史料から「自營州東南經新羅至其國也」と所引した上で、「炙問」(参問)以下は「魏志」に無いと決め付けている。この部分は、現存刊本で確認できるものであり、何かの勘違いだろうか。それとも、この部分は、「後漢書」の記載漏れだというものだろうか。浅学には、判別できない。

 それにしても、後漢書「倭条」所引に依拠して「其大倭王」は「邪馬臺國」に居す、と決め付けていて、魏志「倭人伝」に明記されている「邪馬壹国」を無視している。
 ここでは、後漢書(暗黙、当然の笵曄「後漢書」)「倭条」と魏志(陳寿「三国志」)「倭人伝」が、区別されているように見えるが、「魏志曰」の後半は、錯乱していて、落第答案になっている。
 ここでも、編者は、苦言を呈しているだけで、是正していない。史料の厳密さは、大した関心事ではなかったと見える。

*まとめ
 現代研究者諸兄姉は、原典確認/史料批判を怠らないが、「翰苑」所引編集担当者は、何ともぞんざいで、「三史」笵曄「後漢書」所引の不足を魏志「倭人伝」で補填する姿勢である。

 全体として、当時の諸事情も有ってのことであろうが、手軽な流通写本に依拠して、同時代に帝室等に継承されていた貴重書/最善本を原典確認しなかったため、資料錯誤に陥ったと見え、寓話「伝言ゲーム」の誤写累積を、図らずも露呈していると見える。

*史料再評価の提言
 諸兄姉は、後世正史や類書の「邪馬臺国」が、同時代の「魏志」から所引されたと断じているようだが、以上に露呈している後世正史や類書の編纂過程の雑然さにお気づきで無いようである。少なくとも杜撰史料は、それ相応な史料評価が先決と思う。

 当然極まりないと思うのだが、国宝級の貴重書として厳正に写本継承された現存刊本「魏志」粗雑な所引佚文を同等評価するのは、深刻な勘違いではないかと思量するものである。
 貴重書の末裔である現存刊本に誤伝がある(無欠点ではない)ことは間違いない/否定できないが、「厳正」や「厳密」とほど遠い、無造作、粗略な「野良写本」「走り書き所引」の成れの果ての粗雑史料と同列に扱うのは、科学的な態度ではないと思うものである。

 世上、侃々諤々の論義に勤しんでいる諸兄姉は、後世の非難を浴びないように、よくよく考え直して頂きたいものである。

                               以上

2023年9月20日 (水)

私の意見「陳壽の見た後漢書」サイト記事批判 謝承後漢書談義 補充

                     2020/03/31 追記 2020/07/27 2023/09/20 
 私の見立て ★★★☆☆ 誤解、誤読の反面教材

〇始めに
 前回記事は、通例の商用出版物の書評などではなく、「神功皇后紀を読む会」通信(主宰・福永晋三)サイトの(かなり古い)記事に対する批判であった。記事自体に署名は見て取れないが、福永晋三氏主宰サイトであるので、これらの記事は氏の書いたものであろうと言う程度のものなので、サイト記事批判とするのは避けている。単に、良くある軽率な判断の一例を点検したものである。

 但し、後日(2020/03/31)確認すると、福永氏は近来、著書を公刊して世に広く訴えるのではなく、支持者を集めて講演会を開き、その内容をYouTubeに公開して、閲覧回数を積み上げることにより、広く支持/講演聴衆を集めているようだが、そうした不正規の「辻説法」の活動は、氏の生計に不可欠であって、余人が容喙(業務妨害) すべきものではないとも見えるが、ちゃんとした評価を受けられないのではないかと思量する。
 とにかく、YouTube動画はダウンロード禁止なので、お言葉を書き留めるか、表示資料を読み取ることを強要される。と言うことで、氏の所説について史料批判しようにも、対象と根拠を示すのが困難である。YouTube動画のURLを表記するにしても、長大な講演のどのあたりと明記するのが、大変困難である。

 今回は、貴重なコメントをいただいた方の意見に従い、講演を拝聴した上で、目に付いた部分を取り出して、別記事仕立てで「率直に」批判を加えたものである。

▢動画批判の理由
 福永晋三氏は、それほど確信を持った主張にも拘わらず、論文形式で公刊していないため、適確な史料批判の形式で批判することができない。YouTube動画はダウンロードできないのもあって、論議の対象とすることが困難である。

 福永氏の論調は、天衣無縫で、細かい確認を抜きにして、止めどなく、広範囲に暴走しているが、具体的な論点に絞って、手の届く範囲で反論すると下記のようになる。

  1. 陳寿が、魏志「倭人伝」編纂にあたって、「謝承後漢書」を参照したという証拠は「一切」ない。
    謝承「後漢書」が現れるのは、陳寿「三国志」本文ではなく、裴注であり、裴松之は、全て謝承「後漢書」と明記している。もちろん、裴注当時、范曄「後漢書」は、公的に認知されていなかったので、参照することはできなかった。
    言うまでもないと思うのだが、陳寿の厖大な蔵書の中に、謝承「後漢書」があったとか、陳寿が、何れかの時期に謝承「後漢書」を閲読したとか、臆測を巡らしても、具体的に「引用」を立証しないと不可能であるし、また、何の意義もない感想に過ぎない。

  2. 注は、倭人伝の付注に謝承「後漢書」を参照していないので、「謝承後漢書に東夷傳があって陳寿が参考にした」とする証拠はない。
    「倭人伝」記事は、あくまで、魏代事績であり、後漢代事績は、魚豢「魏略」に於いて回顧したものを引用するしかなかった。
    「桓霊の間、倭国大乱」と范曄「後漢書」が書いているが、続く献帝時代、遼東太守公孫氏によって、洛陽と倭との交信が断たれていて、後漢公式記録には、これ以降、魏への政権移行まで倭との交信記録がなく、つまり、倭に関する後漢記録/公文書がないのに、謝承が「後漢書」東夷伝、特に「倭人伝」を書くとは考えられない。史書として、依拠すべき公文書がないのに、臆測によって「東夷伝」を書くのは、欺瞞である。

    笵曄「後漢書」倭伝(倭条)は、唯一の東夷史料である魚豢「魏略」の東夷伝相当部分から、時代があいまいで転用/流用できそうな記事を「盗用」しただけであり、その際は、記事の年代を(魏代から)後漢代にずらして、交信断絶期間の『なかった「倭国大乱」記事』を造作したものとみられる。編者が有効と判断した史料を引用するのは、当然のことで、それ自体は、誠に正当であるが、原史料を改竄して造作するのは「盗用」と判断される。

    そのため、不合理にも、卑弥呼共立は後漢代となるように「魏志倭人伝」の解釈がなし崩しにずらされ、共立後長年を経た老境になって、魏明帝景初二年に大夫二人を使節に派遣したと(創作)されたと、悪質な「誤読」が、意図的に蔓延されたと見える。
    なぜか、このような後世創作の倭女王像が蔓延/林立して、陳寿「魏使」倭人伝を、「素直に」読むことができなくなっている。まことに罪深い改竄盗用である。

    一方で、陳寿に対して、史実を離れて記事を造作したとの人格攻撃が漂っていて、言いたい放題の趣が感じられる。何か、批判者の自画像が世上を漂っているとも見える。世も末である。
     
  3. 「翰苑」の注記は、「范曄後漢書」と「後漢書」の二種があるだけで「謝承後漢書」はない。
    「翰苑」断簡写本の原本が、同時代の最善原本に厳密に忠実であったと仮定すると、「翰苑」原本が「後漢書」と略記していたということであろうが、少なくとも、「後漢書」は複数存在するのが衆知であったので、「翰苑」編者が「不注意で」謝承「後漢書」を単に「後漢書」と略記したとは思えない。「翰苑」の初期の編纂者が、無教養で不注意であったとか、校正者がいなかったとか想定するのは、無茶というものである。
    「後漢書」は、遙か後世唐代に范曄「後漢書」に、李賢太子が付注し、司馬彪「続漢紀」から「志」を追加して、「正史」としたので、謝承の異本を引用するときは、「絶対に」「謝承後漢書」と明記しなければならないのが当然の作法(さくほう)である

  4. 「翰苑」記事は、「倭人伝」時代原本の正確な引用でないと思われるので信を置くことができない。
    「翰苑」編者は、史官ではないので史官の規律に縛られず、「卑弥妖惑」を「卑弥娥惑」として「妖」を「娥」(妖の異体字)に書き替えたように、原史料引用の際に改変を加えているものと見える。
    あるいは、所引/引用の際に、略字の走り書きを多用したために、略字から本字への復元に、当の担当者の教養が不足していたために、失敗して文字化けしたものとも見える。そして、誰も、文書校正していないため、誤記/誤写/乱丁が、そのまま残ってしまった。

    常識事項をことさら言い立てるのは、読者に失礼と思うが、まあ、初心者に近い読者もいるだろうということで、殊更書き立てるが、筆写の際の誤字は、原史料と丁寧に対象すれば、容易かつ確実に校正できる。翰苑写本は、そのような当然の編集過程を経ていない、粗雑な引用と判断される。
    何か、断簡写本作成の際に、原史料を確認できない事情でもあったのか。貴重で高価な書籍の筆写であり、写本は、途方もなく高価なもののはずなのに、そのように粗雑、拙速な対応をする事情は、後世の東夷には想像することすら困難である。文字校正すらできないものに、内容の校正などできるはずがない。

    【一例】翰苑「高麗」(高句麗)記事が、「魏牧魏後漢書曰」と書き出されているが、これは、単なる誤字の類いを超えた深刻な問題をはらんでいる。ここで引用されているのは、「魏収」(人名)の編纂した「後魏書」(南北朝 北魏史書)であり、笵曄「後漢書」とは無関係であることは自明である。原本は、権威ある書籍であるから、「魏収後魏書曰」と書かれていた「はず」である。

    案ずるに、素人同然の写本工を呼集して取り組んだ、やっつけ仕事となったため、未熟で粗忽な写本工は、いったん「魏収」と書いたのに続いて、筆の勢いで「魏書」と書こうとして、「魏」と書いたものの、「後」を書き飛ばしたのに気づき、「後」と書き足したものの、書き癖で「後漢書」と書いてしまったとでも、推定すれば良いのか。誠に、素人臭い手際で、しかも、誰の目にも誤写とわかる形で放置されているのは、後日訂正しやすいようにあえて残したとも見え、つまり、これは、写本の途中段階の作業記録に過ぎないのであり、これが売り物になるとは見ていなかったと見える。
    無教養な写本工には、「魏収」が人名との認識はなく、続く「後漢書」も「後魏書」も同じようなものだったか。この写本工は、字の違いに気がついたとしても、修正を加えることも目印を付けることもなくそのまま書き進め、出来上がった写本に校正の手が一切加わっていない
    他の例で言えば、宋書の記事に対して、お手本と行格が異なるために、行末の処理を誤り、前後の文章がつながらない現象を呈している。そもそも、このように、割り注に近い原本を正確に写本するためには、厳格に行格を一致させなければ、どこかで破綻する危険性があるのは、常識/自明であるが、断簡写本は、強引に文字を書き写そうとするだけで、乱脈になっている。そして、大事なのは、そのような無法な写本行程を、規律を持って指導する人材が無かったということである。
    要するに、無法な写本行程から生じた写本の記事は、大きな誤謬そのものである。

 つまり、現存する断簡である翰苑は、史料として「一切」信頼できないものであり、現存刊本に書かれている「壹」の字を否定して「臺」と書き替える効力を一切持たない
 このように、明らかに根拠のない史料考察を根拠に、正史写本/刻本行程の誤謬を主張するのは、端から虚妄の説と断じられても反論できないと思量する。

 【証明完了】

 再三の蒸し直しで恐縮であるが、中々周知されないので、またもや蒸し直しとなったことをお詫びする。誤解されないように、念入りに強調したので、お耳ざわりであれば、謝罪するが、それは、誤謬に対する怒りが書かせたものであるので、御寛恕頂きたい。

以上

 因みに、謝承は、後漢から東呉の時代の呉人であり、孫権正妃謝夫人の弟にあたる背景からも、謝承が「後漢書」編纂にあたり、東夷の風俗記事に、拘泥するとは見えない。
 
▢追記 2022/12/12
 以上、大変苦労して、氏の提言に根拠が無いことを主張したが、これは、本来、収益を得る営業活動に従事している福永氏がご自身で成すべき史料批判であり、このような根拠の無い「思いつき」を無造作に提言されるのは、誠に、氏の名声を傷つけるものと思量する。
 氏の晩節をいたずらに穢さないように、自重されることを望むものである。

以上

▢追記 2023/09/20
 後出であるが、「翰苑」現存断簡に関する史料批判(2023/07/09)を参照いただきたい。「翰苑」が格式正しく復元されていれば、史料として評価できるというものである。
 私の所感 遼海叢書 金毓黻遍 第八集 翰苑所収「卑彌妖惑」談義

以上

2023年9月19日 (火)

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 番外 「春日市の王墓 -惑わされない鍵15」 

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2023/09/18

*番外編の弁 2023/09/19 直言批判の試み
 「春日市の王墓 -惑わされない鍵15」 百六十八㌻
    参照元  私の意見 須玖岡本遺跡 春日熊野神社随想

*原典隠蔽
 高柴氏は、全般的に本書内容に出典を示していないため、氏が、古田師第一書『「邪馬台国」はなかった』に触れるだけで、古田師のそれ以降の著書をどの程度引用しているか、一般読者には不明であり、原典を隠蔽しているため、下記公知の著作物の盗用、剽窃と見られてしまうではないかと懸念するものです。

 「よみがえる卑弥呼」 (古田武彦 朝日文庫 1992年)の第6篇 「邪馬壹国の原点」-「よみがえる卑弥呼:日本国はいつ始まったか」 (古田武彦・古代史コレクション 7) 単行本 – 2011/9/30 ミネルヴァ書房

*無批判追従の弊
 因みに、高柴氏は、福永晋三氏の「調査」になぜか共鳴し、福永氏の講演の所感を述べた後で『「魏志倭人伝」には、もともと「邪馬臺国」と書かれていた』という「異説」に帰順したように見えますが、当方が福永氏のネット上公開記事を見た限り、福永氏の論考は、聞きかじりの継ぎ接ぎに氏の臆測を塗りつけたものであり、「倭人伝」の確たる記事に対する有効な「異議」となり得ないものと見えます。

 現に、高柴氏は、福永氏講演の自己流解釈に「独り合点」してべったりと紹介しているだけであり、首肯するだけで検証した形跡がなく、かつ、福永氏の文字資料を原典参照していないのですから、一般読者が本書本項に対して疑問を呈しても、結局、本書で確認できるのは、高柴氏が、あくまで個人的にそのように理解して心情に共鳴したと言うだけで、福永氏の意見自体を追検証できないので、甲斐のないことなのです。

 要するに、紹介されている限り、福永氏は『「倭人伝」の「邪馬壹国」が、陳寿原本で「邪馬臺国」であった』と論証していない/できていないと見えるので、高柴氏の回心は、非論理的・不合理で、不審そのものです。それが、高柴氏の紹介の不手際なのか、福永氏の所説開示が杜撰なのかの追求は、ますます圏外なので、ここでは述べません。高柴氏には、少なくとも、福永氏の所感の『史料批判』/「証人審査」として、最低限、的確な引用紹介をする義務があると感じるだけです。

 ちなみに、福永氏は、何らかの事情で古田師に怨恨の情を抱いたようで、古田師死去の報道に対して、死者を罵倒する言説をネット上で公開されましたが、福永氏に共鳴した高柴氏も、同様に怨恨の情がお有りだったのでしょうか。とにかく、最早反論できない論敵を攻撃するのは、感心しないこと甚だしいと感じたものです。まことに勿体ないことです。

*「盗まれた」王墓
 斯くして、高柴氏は、感情的に古田師の論考を敬遠し、本件に関しても、古田師の公刊された/つまり、衆知の論考に言及していない失態を示しているのですが、なぜか、本書では、堂々と「春日市の王墓 -惑わされない鍵15」として、詳しく述べられています。確かに、氏の論説は、須玖岡本遺跡の発掘成果を、中山平次郎博士の「報告書」に続いて、梅原末治博士の「報告書」を紹介していますが、結局、梅原博士と原田大六氏の所見が相克して、両者他界されたという事態を述べるだけであり、氏ほどの見識の方の論考にしては、締まり/詰めがなく、大変疑問に感じる態度です。

 そのあと、氏の論義は、隣接している大南遺跡に、水壕めいた断簡があるのを、大規模な環濠の一部とこじつけ、同遺跡は、大規模な環濠集落と見立てていて、締まりの無い見解に終わっています。
 「倭人伝」は、冒頭で、倭人首長の居城を「國邑」と形容することによって、太古以来の中原の伝統である「城壁」(石積みの隔壁、防壁)が必須であったことを想起させ、そのような「規律」に対して、行程上の対海国、一支国は、大海の州島なので、海水を城壁として略式として認められていると述べるだけであり、末羅国以南の陸地「國邑」が、城柵だけで城壁を有しない、守備の面で、大いに失格であると「明らかに」示唆していますが、その際ですら、環濠を言い訳として述べてないので、氏の引用は「親魏倭王」居城として正当化できないのです。
 ついでながら、太古の「國邑」に擬えるしかない女王居処は、そもそも蛮夷の王に「都」があり得ないのと相俟って、大変不適切な解釈になっています。高柴氏の周囲には、そのような当然の指摘を苦言として提示するする方はいないのだなと思う次第です。大変もったいないことです。(異例の勉強家である古田師も、このような格式の次第を見落としているので、別に、高柴氏が、特段に不見識と言っているのではないのです)

 総体として、素人目には、先行する古田師の成果の上に、いたずらに虚構を打ち立てているように見えるのですが、氏が、先行文献を紹介し、克服する手順を踏んでいないので、意図してか、しなくてか、結果として「盗用」しているように見えるのです。

 高柴氏には、高柴氏の言い分があるのでしょうが、古田師の論考を無視して、自己の創唱の如く書きまとめるのは、大変感心しない所業と見ます。
 と言うことで、本項に限定で、高柴氏の論調に対して、率直な意見(「星無し」相当)を述べた次第です。

以上

私の意見 須玖岡本遺跡 春日熊野神社随想

               初掲 2013/12/31 再掲 2023/09/19
*再掲の弁
 今般、常々参考にさせていただいている
 「古賀達也の洛中洛外日記」 第3114話 2023/09/15 『筑前国続風土記拾遺』で探る卑弥呼の墓
 に、掲題神社に関する新たな論考が示されたので、懐旧の念をこめて再掲いたします。
 また、別途書評している高柴 昭「邪馬臺国は福岡平野にあった」に於いて、須玖岡本遺跡と春日熊野神社 について、一項が割かれていて女王の墓所と示されていることは、取り扱いがむつかしいので、先送りしたのですが、別記事を参照することとしました。
 新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 番外 「春日市の王墓 -惑わされない鍵15」 

*初稿再掲
 初心者時代に、近場の古書店店頭で立ち読みして、早速購入したものであり、第一印象に近いものですが、春日熊野神社は、倭國王墓の守りではないかとの感慨があります。これは特に、根拠のない思いつきで、「倭人伝」記事に直接関係するものではありません。
 下記参考資料「筑前須玖史前遺跡の研究」 京都帝國大学文學部考古学研究報告
(原本 昭和五年発行)
は、福岡県春日市岡本町に現存する須玖・岡本遺跡(岡本遺跡)の発掘報告であり、当然、学術的な史料であって、簡単に論評できるものではないのですが、所収の発掘現場パノラマ写真(圖版第二 岡本遺跡地展望(西方より望む) )と周辺地図(圖版第三 岡本発掘地點及び附近地形圖)を見ると感慨が浮かんできます。
 なお、本史料は、古書店でよく見かけるとは言え、参照困難と思いますので、ここでは、つなぎ合わせた圖版第二を下掲します。

・発掘地点は、古代の墓地であったようで、甕棺と副葬物が発掘され、この報告書になっています。
・発掘地点の東南の方角にこんもりした岡があって、その頂上に熊野神社が安置されています。

 現地を実地確認したわけでもないのに、色々言うのは僭越そのものなのですが、このようなこんもりした岡は、高貴な人の墓所にふさわしく、墓址の真上に礼拝所を設けたのが、そのままの位置で熊野神社となったという気がしてきます。いや、当時、一の宮として尊崇されていた「神社」が、後世「熊野社」とされたのかも知れません。
 高貴な人が亡くなったときに、墳墓を造成して盛り上げるのは、古墳時代になってから発展したものであり、それ以前は、小高い岡の頂を掘り下げ、被葬者を副葬品と共に埋葬して軽く盛り土し、岡の周辺に供え物を並べて、墓所としたのではないかと思っています。
 特に、生前に墓作りをする風習がなければ、没後に新たに工事して間に合う程度の墓所作りになっていたかと思います。特に、被葬者が、若くして亡くなった場合は、備えができていないのではないでしょうか。

 当報告書を見ると、須玖遺跡は、低地に、それほど高貴ではない人たちの墓所を、岡の中腹には、そこそこ高貴な人たちの墓所を、それぞれ設ける階層式になっていたのではないかと想像します。
 当報告書に書かれた京都帝大文学部の発掘以後、豊かな副葬品を備えた「王墓」が発掘されているようですが、ここに葬られている「高貴な人」は、王以上の存在だろうと想像しています。何しろ、一番高いところに、厳重に護られて眠っているのですから。

 当報告書によれば、報告書の発掘の以前に、岡の中腹部の崖崩れで甕棺が露出したことがあったようですが、熊野神社と鎮守の森とはその真下に眠る人たちを丁寧に護っていて、今日まで、穏やかに過ごしているものと思います。
 して見ると、熊野神社は、特別な墓所を、後世の盗掘から防いでいたとも思います。

 なお、ここが、定説として奴国遺跡とされていることについては、諸論、異論があるようなので避けて通ります。

 因みに、同様に由緒を感じる場所として思い出すのは、倉敷市阿知の阿智神社です。往時は、海の近くにあって、海を望む小高い岡であったことが、そのように思わせるのです。同地は、小生の敬愛する将棋15世名人大山康晴氏の出身地であり、また、観光名所「倉敷市景観地区」の守り神でもあるようです。

 以上の憶測が、現地の方にご迷惑をかけたら、ごめんなさい。

*参照資料
 「筑前須玖史前遺跡の研究
  京都帝國大学文學部考古学研究報告 第十一刷 (昭和三年から昭和五年)
    株式会社 臨川書店刊 昭和五十一年九月復刊  (原本 昭和五年発行)
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*追記
 以上の私見をまとめ上げて、ほんの数日して、「よみがえる卑弥呼」 (古田武彦 朝日文庫 1992年)の第6篇 「邪馬壹国の原点」で同様な推定が公刊されていることを知りました。(よみがえる卑弥呼:日本国はいつ始まったか (古田武彦・古代史コレクション 7) 単行本 – 2011/9/30)
 多分、上記参考資料に触発された点で共通したものがあるのでしょうが、本論は(新発見の)主張では無く、あくまで、素人の感慨をしめすものなので、特に取るに足りないものと思い、予定通り発表します。
 何にしろ、二番煎じは、感心しないのですが、ほぼ独力で想定した内容なので、ここに残します。

以上

2023年9月18日 (月)

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 4/12 里制論 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28, 09/18 2024/02/02 02/14

〇見過ごされた課題
 本項は、ちと問題が大きいので、改ページしました。以下、…記号は[中略]としました。
    (「てにをは」書き替えあり)文責当記事筆者

 ⑶三国志里制論 惑わされない鍵 4
*明解な結論 無用の短里論
 議論を絞ると、秦以降、秦が提示した450㍍*程度の「普通里」以外の「里」制度史料は存在しません。(*計算の便に50㍍単位で丸めたものであり、当時の実施と無関係です。一尺 25㌢㍍、一歩(ぶ) 六尺 150㌢㍍ 1.5㍍、一里 三百歩 (450㍍) の概算用体系です)

 「里」は、国家制度の基幹である土地制度に直結しているので、「里」を数倍ないしは数分の一に改変すると国家体制崩壊に繋がります。従って、「普通里」は、遙か後世まで維持され、激甚事項は、もしあれば、正史に記録されます。(記録がないということは、壊滅的な制度変更は「無かった」という事です)

 晋書「地理志」では、周代以来晋代の「里」制は、一貫して「普通里」です。周「普通里」に従った秦は、自国の「普通里」を全国里制としたのです。戦国諸国里制は、順当には周「普通里」と見えますが、秦始皇帝が各国制度を破壊して自国製に統一としたので、絶対確実というわけではありません。
 つまり、秦始皇帝は、全国度量衡を統一するに際して、日常生活に密着した「度量衡」は、物差、升、錘の原器を配布しましたが、日常生活で無用の里の原器は含まなかったと見えます。「普通里」は、「尺度」や度量衡には属さないものです。

 各国土地制度は、検地が根幹と思われ、「普通里」が各国「里」と異なれば、再検地、土地台帳新製が必要ですが、物理的、心理的に大変困難な大事業です。秦が、各国の制度の破壊をためらわなかったとすると、いずれ、農民反乱を招くものですが、秦始皇帝は、皇帝の強権を持ってすれば、平定可能とみて強行した可能性が濃厚です。このあたりは、晋書「地理志」も、自明のことは書いていないので、書いてない里制改変は無かったと見るものでしょう。
 と言うものの、天下に敷く里制が、自国里制と異なっていたはずはなく、要するに、実績のある「秦制」を天下に公布したものと見るべきです。始皇帝は、自国制度を、いわば諸国に押しつけるために、秦律、度量衡原器を抱えた官人を諸国に派遣したのですから、秦里制は、周代以来の伝統的な「普通里」だったのに間違いないのです。

*「魏晋朝短里制」はなかった
 史料を総合的に判断して、魏晋代「短里制」施行仮説は、明確な「短里制」布令の証拠を欠き、また、「里制変更に伴う、全国的な社会混乱が記録されていない」ので、本件は、さっさと棄却されるべきです。著者は、古田史学の刷り込みを受けているため、議論の矛先が鈍っていますが、ことはむしろ単純明快なのです。ついでながら、魏文帝、明帝の変革であれば、「全国」は、魏の領分だけであり、蜀漢、東呉は、漢制を引き継いだとしながら、里制を改変したとしたら、大変な非難を浴びせたでしょうから、不名誉極まる記録は残らざるを得ないのです。

*個別記事検証は不要
 また、三国志に「普通里」と異なる里長記事を見る提議は、当該記事の検証にとどまり、国家制度を論証する効力は有しえないので、全て、直ちに棄却すべきです。里制は国家制度であり、土地制度の根幹であるので、辺境といえども郡管内に徹底されたものと思われます。その証拠として、帯方郡の戸数、口数は、順当に集計されて、正史(晋書)に収録されています。

 また、各拠点間の行程道里は、到底、確たる精度を期しがたいので、公式記事の字面から制度を推定すべきではありません。つまり、いくら事例を数多く集めても、不確かな数字の収集に過ぎず「国家制度を証する効力は無い」のです。要するに、「その時、その場所で、そのような里数が施行されていたように見える」と言う「例」を示すだけであり、そもそも、国家制度が実施されていれば、あやふやな里数は通用しないのです。

*限定的に有効な「地区里」宣言(private, local)
 倭人伝道里行程記事の冒頭で、「郡から狗邪韓国まで七千里」と宣言されているのが、この際の「里長原器」であり、同記事は、「普通里」と異なる「里」で書かれているという「地区里宣言」(Localと言うのは、帯方郡管内全般という意味ではなく、「倭人伝」の其の場限りの意味です。念のため)です。つまり、どんなに懸命に国家制度を検証しても、倭人伝は別世界なのです。それが、この際の史実です。

*地区里宣言の認識

 と言うことで、丁寧に言い換えると、同記事は、「普通里」と異なる「里」で書かれているという「地区里宣言」です。つまり、どんなに懸命に国家制度を検証しても、「倭人伝」は別世界なのです。それが、この際の史実です。
 言葉の綾ですが、「地区里」とは、全国制度や郡制度でなく、「倭人伝」が、紙上で採用している「里」という意味です。魏志三十巻の末尾で適用されていても、それ以降の適用はありません前代に存在しなかったし、後代にも継承されていない「孤例」なのです。

 「従郡至倭」全区間「万二千里」は、そのような「地区里」とみるべきです。肝心なのは、倭人伝」として首尾一貫していて、二千字資料だけで読者が資料内の「道里」を検算できるということです。

 因みに「地区里」の論証ですが、簡明に述べると次の通りです。
 ⑴ この区間の「万二千里」が、一里四百五十㍍の普通里であったと「仮定」すると、「倭」は、郡から五千四百㌔㍍の彼方であり、日本列島に収まらないのは、自明です。従って、この「仮定」は棄却されます。
 ⑵ この区間の「万二千里」は、「郡から狗邪韓国まで七千里」と言う「原器」から推定すると、一里五十㍍から百二十㍍程度の範囲の独特の「里」で書かれているのは、幾何学的に妥当と思われます。

 従って、この仮定をさらに掘り下げます。
 ➀この「里」が魏代に全国制度として適用されていて、それが、景初時点で帯方郡に適用されていたとする仮定は、そのような重大な全国制度の改訂は、一切、正史に記録されていないことから、直ちに棄却されます。

*補足説明 2023/09/18
  少々書き足すと、まず、各地の行程道里は、秦漢代以来、国家制度の一環として公文書に記録され、帝室書庫に収蔵されていて、後世が改訂することはできないので、「里制」の改訂は、不可能なのです。例えば、班固「漢書」地理志に
 「樂浪郡 武帝置 雒陽東北五千里」
 「遼東郡 秦置 雒陽東北三千六百里」
と書かれていますから、それぞれに「短里」を適用して、三万里、二万一千六百里とすることは、正史改竄にあたるので、実施することができないのです。
  細かく言うと、房玄齢「晋書」地理志に引用されている漢代街道制度は、「大率十里一亭 亭有長 十亭一鄕 鄕有三老」と「亭」設置を規定していますが、「短里」を適用すれば、「六十里一亭」としなければなりませんが、これは、正史改竄にあたるので、これも実施できないのです。
  このように、いかに天子が、「短里」を強行しようとしても、国家制度に齟齬を来すので、実現できないのは明らかです。

 ②魏帯方郡に、全国制度に反する郡独自の制度が施行されていたと仮定しても、帯方郡にそのような不法な制度が施行された記録は、一切残されていないので、直ちに棄却されます。
  帯方郡は、漢武帝設置楽浪郡の下部組織、帯方縣の後身であり、漢制、後漢制、魏制に反する制度を行うことは、端から不可能です。
  つまり、当時、帯方郡が、「倭人伝」に書かれている「里」を、郡独自の制度として実施していたとする仮定は、直ちに棄却されます。

  もし、魏明帝の景初年間、遼東郡傘下であった帯方郡を回収し新任太守を派遣して皇帝直轄にしたとき、帯方郡が、魏制と異なる里制を敷いていたとすると、新任太守は直ちに皇帝に報告するので、郡から倭に至る「万二千里」は、忽ち、校正されて、例えば、「二千里」に是正されていたはずです。
  そのような是正がされていないという事は、帯方郡の里制は、漢武帝の「普通里」であったと言う事です。そのため、格別の是正はされなかったのです。また、「郡倭万二千里」は、地区に通用していた「普通里」によって較正されていない「公式道里」と見るべきなのです。

  つまり、残された可能性は、「倭人伝」の「郡倭万二千里」という道里は、帯方郡の里制と一致しない独自の「地方里」で書かれていて、それが皇帝の承認を得たため、以後是正不可能になったと言うことです。

 因みに、「従郡至倭」万二千里の記事が、後代、西晋史官陳寿の捏造によるものだという根拠の無い思い付きが、結構広く出回っていて、「陳寿曲筆」の根拠とされていますが、時代考証すれば、粗忽なでたらめとわかり、精々、大いに勘違いした浅慮と見えます。

 魏帝が「倭人」を新参東夷と認知して、魏使の派遣を指示するためには、「倭人」の身上が、最寄りの郡から提出され、専門部局である鴻臚によって認証されていることが必要です。
 つまり、倭人は、どのような身元のものであって、君主の身上、国城の名称、最寄りの郡からの道里、戸数、城数、が明らかでなければならないのです。道里は、蕃夷の格付けのために不可欠であるので、
 但し、魏使派遣の段階では、帯方郡から万二千里の道里は廃却され、都合四十日の行程日数が考慮されたものと見えます。
 大量の下賜物を送り届けるのに、片道万二千里、つまり、一日五十里として、二百四十日の行程は想定しがたいものであり、帯方郡は、倭との文書交信実績を通じて、精々四十日程度との想定ができていたものと見えます。
 また、大層な下賜物は、「万二千里」遠隔の蕃夷の処遇であり、そんな最高の賓客にしょっちゅう来られてはたまらないので、二十年一貢などの制限を施したはずです。
 一方、倭人は頻繁に遣使して追い返されていないところを見ると、鴻臚の決めた処遇は、実は近隣であるから、三年ないし五年に一貢程度と見ていたようです。但し、当初の道里「万二千里」は、明帝の承認した公文書なので、是正できなかったのです。

 以上の通り、不合理な選択肢を順次消去して、最後に残ったのは、当然、正しい選択肢であり、筋の通った説明が成り立つ以上、これを受け入れるべきだという判断に至るのです。

*「従郡至倭」の由来
 「倭人伝」の成立過程を推定すると、まず、本来、王畿から万二千里という周制に基づく「僻遠の蕃夷」里数が先にあって、道里ではない里数が書かれていたものを、新任郡太守が実道里と錯覚して魏朝皇帝に報告した失態が、晋代まで引き継がれて陳寿の元に届いたものと思われるのです。
 「倭人伝」記事は、そのような「神がかり」道里を神棚に祭り上げて、蕃夷管理の要件である文書到達日数に書き換えて見せた至芸の成果に見えます。要するに、陳寿は、魏明帝が、新参の東夷を高く評価して、魏使を大挙派遣したという想定で、「肯定的」に書きまとめたのです。
 「魏志」本紀は、当該皇帝を顕彰するのが、史伝の本旨ですから、その本紀に深く結びついて、明帝を顕彰している倭人伝は、当時、東夷との交流を強く求めた明帝の意図と意志を推進した明帝股肱の臣毋丘儉を顕彰するものであり、明帝が臨終の場で托した違命に背いて、少帝曹芳を排斥し、倭人との交流を埋没させた司馬懿の顕彰などではないのです。むしろ、史官の筆法で、司馬懿を冷笑しているのです。

*異次元排除
 因みに、「道里」は、文字通り「道のり」です。周代の「里」は、話題ごとに意味の変わる便利な文字でしたが、天下の政権が周から秦に移って、万事、成文法で統制するようにしたとき、同じ「里」に多様な意義があることは、誤解を招くとして、道の「里」は、「道里」と二字熟語としたものです。但し、世間では、素朴な「里」が残っていたので、後世人が誤解することになったのですから、二千年後世の無教養の東夷が、直感で誤解するのは、むしろ当然でしょう。

 ここに登場する面積単位「方四千里」等の「方里」は、別次元単位なので流用は禁物です。「地区里宣言」以前の高句麗、韓記事で導入され、宣言後の對海国、一大国記事のみに表れる、さらに特異な「里」ですから、道里とは別義です。
 ちなみに『「道里」が、古典用語の流用として当時の流行概念として通用していて、それが、予告無しに倭人伝で採用された』というのは、意味不明の混乱に過ぎません。「倭人伝」は、史記、漢書を継ぐ「正史」「三国志」「魏志」の掉尾を占めるものとして書かれたものであり、最終的には、皇帝の御覧を得て採用されるものですから、春秋を含めた古典書に前例のない流用など、許されるものではありません。
 但し、同時代史書と言えども、このような用語定義の行き届いていない筆者もいて、「方里」 を、一辺を里とする方形としている例もあり、油断はできません。当時にも、優等生と劣等生がいて、誤解、誤用が生き残っていることはあり得るのです。 正史編者の見識を信じるべきです。

 そうそう、別次元というと、並行世界とか連想が湧きそうですが、「道里」は、丈、尺、寸と同様、一次元単位であり、「方里」は、土地制度に由来する二次元単位(面積)ですから、混ぜ合わせて足し算、引き算はできないという意味です。単に「里」と書かれているように見えても前後関係で判断する必要があります。元来、「方里」は、農耕地の土地測量で、広範囲の土地のための単位です。

*「歩」と言う面積単位
 古代史料の「歩」(ぶ)は、農地面積測量で多用される「方歩」であり、歩(ほ)幅と無縁ですが、「俗論」では、歩幅と誤解している方が通例です。一歩は、六尺となっていますから、一尺25㌢㍍と概算して、一歩は、150㌢㍍、1.5㍍程度ですから、到底歩幅ではあり得ないのですが、なぜか、誤解の方が絶対的に有力なのです。いや、人によっては、そのような難詰を避けるために、古来、「歩」(ほ)は、複歩、つまり、左右の足を踏み出した二度の踏み出し幅だと強弁することがありますが、最初の勘違いを強弁して取り繕うのは、感心しないところです。
 事は、多数決や権威者ぶった断言で判断すべきではないという好例です。

 とは言え、「歩幅」説を持論の立脚点/枢軸としていて、ここで言う「誤解」こそ「正解」と強弁する向きもあるので、百年たっても誤解は是正されないのです。

                             この項完

新・私の本棚 「九章算術」新考 方田と里田~「方里の起源」1/2

 古代の教科書を辿る試み~中國哲學書電子化計劃による 2021/01/24 2023/09/18

〇はじめに
 古代中国の算数教科書を読み解いて、倭人伝「方里」の起源を探ります。
 農地測量の「方田里田」表現を確認し、「方里」は面積単位と明示します。

〇「九章算術」とは
 本書は、「東アジア」最古の数学書と紹介されますが、当時、中国周辺世界で文明があったのは「中国」だけで、西方エジプト、メソポタミア、ギリシャとは交信がなかったから「世界最古」でいいのです。当時、「アジア」はエーゲ海に面した地中海東岸の狭い世界であり、「東アジア」などなかったのです。

 古代史学者は、「東アジア」という用語を、大変注意深く使っていますが、悪乗りして混乱した世界観を持ちかけてくる論者がいるので注意が必要です。古代史に、生かじりの現代語を持ち込むのは、大抵、苦し紛れの逃げ口上です。

 それはさておき、本稿の対象は、冒頭部だけであり、かつ、「数学」論でないことをおことわりしておきます。また、目的は、古代史書、就中「魏志倭人伝」の用語、用字の解明であり、中国語独特の文法を理解しなくても読み解けるので現代語訳を付けていません。
 但し、中国の単位体系は、現代日本と異なるので、随時説明を加えます。

▢記事紹介
*「問題」山積による問答紹介、術紹介付き
㈠ 方田例題
今有田廣十五步,從十六步。問為田幾何?
 答曰:一畝。
又有田廣十二步,從十四步。問為田幾何?
 答曰:一百六十八步。
方田術曰:廣從步數相乘得積步。以畝法二百四十步除之即畝數。百畝為一頃。

 冒頭の「方田」例題です。いきなり「問」、「問題」を突きつけられて、総毛立つ「サプライズ」と勘違いしそうですが、パニックを起こさず読み進めると、すぐさま、「答」が示されるので、心の負担にはならないでしょう。大体、試験問題とは、予想外でなければ意味がないのです。
 本来、各例題は問答で完結だったのでしょうが、それでは勉強にならないので、解答に至る手順の「術」、解法が示されています。

*「歩」の起源考察
 「歩」は、農地面積単位であって、恐らく「ぶ」であり、歩幅定義でなく、耕作具の幅基準と思われます。なお、日常単位との関係は一歩六尺です。

 「廣」は農地の幅、「従」は縦、農地の奥行きです。農地を牛犂で耕すとき、歩は犂幅であり、奥で反転して引き返すので、農地は矩形で造成されます。つまり、農地の開墾・整理は、「歩」を単位に、各戸に当てて縄張り区画したと見えます。農地は、あぜ道と水路、そして、農道で区分されていたはずです。
 ここに提示された農地は一「畝」(むう)の定義で、幅十五歩、縦十六歩です。面積単位には百畝の「頃」があり、農地は「頃」-「畝」で表現されます。

*面積単位としての「歩」
 続く例では、「廣」・「従」が、「歩」、面積も「歩」で書かれています。答は、単に百六十八「歩」で、術では、周知の一畝 二百四十歩を明記します。

 方田術曰と書かれているのは、恐らく、後世の解説者の追記であり、原題には、「幅が歩、縦が歩なら、面積は積歩」とは書いていなかったはずです。

 「廣從步數相乘得積步」は、縦横の「歩」を掛けると面積の「歩」が出ると言うだけで、「九章算術」全体でも、単位「積歩」を示していないようです。

                                未完

新・私の本棚 「九章算術」新考 方田と里田~「方里の起源」2/2 増補

 古代の教科書を辿る試み~中國哲學書電子化計劃による 2021/01/24 2023/09/18

㈡「里田」例題
今有田廣一里,從一里。問為田幾何?
 答曰:三頃七十五畝。
又有田廣二里,從三里。問為田幾何?
 答曰:二十二頃五十畝。
里田術曰:廣從里數相乘得積里。以三百七十五乘之,即畝數。

 続いて、広い範囲の土地の縦横/廣従と面積の「里田」例題が提示されます。
 行政区画が県へと広がると、{頃-畝}で収まらないので里で表現します。
 一里三百歩なので、縦横一里の面積一「里」は九万「歩」、三頃七十五畝です。十進法でないのは、太古、元々別の単位系として成立したからです。

*広域集計という事
 「里田」は、頃-畝単位系から里単位系への面積換算を規定していて、これは、国家里制、度量衡により一意的なので、両制度に従います。
 以降で、一見不規則な形状の農地の「検地」が提起されますが、これは、地方吏人が測量実務で直面する可能性のある例外的な事例への対応に備えて、現代で言う「幾何学」な多様性に対応する算法を説いているものであって、国家事業として開梱された正規農地、つまり、定寸矩形の農地の面積計算には必要ないのです。
 諸賢は、「方田」関連の多様な形状の農地に関する「例題の数の多さ」に幻惑されるようですが、農地が台帳登録されると、後は数字計算です。九章算術の残る部分は、面積数字を計算するものです。重要性は、例題の数の多少で評価するものではないのです。

 冷静に見ていただければ、農地を造成するときは、矩形が常道であり、常道から多少形が崩れたとしても、農地の従横のそれぞれ平均値が把握できていれば、厳密に矩形でなく、台形でも、平行四辺形でも、歩(ぶ)単位であれば、精々、二桁の従横の掛け算で農地台帳の記載するに足る農地面積の概要は得られるという「鉄則」が書かれていると見るべきです。何しろ、厖大な件数の農地測量ですから、方法は簡便であり、計算は、並の(数字に弱い)官人でこなせる明快なものでなければならなかったのです。
 広域集計は、件数が少なく、高位の(数字に強い)計算官僚が時間をかけて実務担当するので、桁数が大きくても実行可能だったのです。

*道里の里、方里の里
 道のり、道里の単位「里」は、一里三百歩で、度量衡の「尺」と厳格に連携しますが、一方、一辺一里の方形の面積「方一里」は三百七十五「畝」であり、こちらはこちらで厳格に連携します。何しろ、長さと広さは、単位の次元が違うので、混同しないように弁別しなければならないのです。
 以上は、必ずしも史書想定読者全員に自明ではないので、陳寿は、「道里」は、百里と書くものの「面積の里」は、「方百里」と書いて混同を避けたようです。

*面積単位のあり方   (余談)
 近代メートル法国際単位が敷かれたとき、身近の面積は平方㍍、広域の面積は平方㌔㍍であっても、百万倍の違いはとてつもなく大きく、農地面積には、十㍍四方を単位とした㌃や百㍍四方を単位とした㌶が常用されています。
 面積は二次元単位なので、一次元単位を十倍にすると百倍になり、数字の桁外れが起きるので、SI単位系の例外として常用単位で埋めたのです。

*東夷伝「方里」の解釈
 東夷伝の事例で、例えば、韓国「方四千里」と一大国「方四百里」が登場しますが、一辺里数で領域面積を表現したとすると、十倍の大小関係と見えて、面積は自乗関係で百倍の大差では、読者たる高官の誤解を招くので不都合です。
 一辺里数でなく全周里数とみても、自乗関係に変化が無いので、韓国は一大国の百倍であり、実態を裏切る、無意味な比較になるのです。
 あるいは、遼東郡の北の大国高句麗が、南の小国韓国の四半分の国土と読めては、高官の判断を誤らせるので、不合理なのです。
 ということで、同時代でも通用する「合理的な解釈」が残ります。
 東夷伝で、遠隔、未開の国「方里」は、それぞれの農地測量・検地された台帳記事の集積で、収穫・徴税と直結し、国力指標として最も有効です。しかし、台帳で把握されている「耕作地」は、全土のごく一部に過ぎず、大半は、山野、渓谷、荒れ地、海浜など測量されない非耕作地です。
 過去、当記事の主張と同様な提言があったとしても、国土全域の表現と見ると、余りに狭小なので、間違いとされたことでしょう。それは、後世の世界観で、「国土の全面積が測量可能であるとか、その面積に意義があるとか、時代錯誤の先入観」を抱いていたためです。
 あるいは、「方里」と「道里」の安直な混同を招いたためです。三国志」は、現代日本人、つまり、陳寿にしてみたら未知の二千年後の無教養な東夷蕃人の先入観を満たすために書かれたものではないのです。

*まとめ 2023/09/18 補充
 ということで、陳寿が、東夷伝の道里記事に寄り添うように、「方里」記事を書き連ねた意義を理解すれば、「方里」の「里」は、「道里」の「里」と異なる次元のものであると明記した陳寿の真意を察することができるはずです。諸兄姉には、承知の事項のはずですが、所定の領域の農業生産力、即ち、「国力」を示す指標は「戸数」です。各「戸」は、所定の面積の農地の耕作を許可されていて、その代償として、所定の穀物を「納税」することで、帝国の根幹が成り立っているのです。
 但し、そのような関係が成り立つのは、各戸が、牛犂による農耕を維持していて、適正な農務を維持できるのが前提であり、所定の領域に、牛犂が存在しない場合、つまり、人力による農作業に頼っているとすれば、各「戸」が耕作可能な農地は、中原基準の面積でなく、その地域に通用する縮小された面積となり、従って、各「戸」の農業生産力は、応分に減少します。つまり、現地の「国力」は、戸数から想定されるものより縮小するのです。
 そのような事情の片鱗は、「倭人伝」の對海国記事に見えていて、同国は、良田が少ないと申告しています。つまり、中原基準で「良田」と格付けされる収穫量が得られる農地を割り当てられないという趣旨であり、つまり、戸数から計算される納税ができていないとの申告と見られるのです。
 陳寿は、東夷なる地方は、そもそも、農耕可能な土地が少なく、郡が各戸に割り当てられる土地も、各戸が労力不足で制約される、つまり、戸数から想定される国力は過大評価となることを東夷伝記事に埋め込んでいるのです。

 「倭人に牛馬がいない」というのは、現地は、夷蕃の統治する「荒地」であるから、国政の定める、農耕に必須の牛犂が整っていないという趣旨で書かれているので、誠に、万全の配慮と言えます。
 何しろ、史官は、国法を定める立法機関ではないし、そもそも、周制以来の祖法を改定することはできないので、かくのごとく「東夷伝」に要件を書き込んでいるのです。

 本稿は、論証と言うより、合理的な考証と思うものです。否定されるのなら、不確かな実証論でなく論証をいただきたいものです。

                               以上

2023年9月16日 (土)

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 3 宋書の「昔」について 再掲

                                 2015/11/5 2023/09/16
 ここでは、故古田武彦師の遺した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。

「古代は輝いていた Ⅱ 日本列島の大王たち」(古田武彦古代史コレクション20として ミネルヴァ書房復刊)「参照書」)の219ページからの『「昔」の論証』とした部分では、「宋書」に書かれている倭国王「武」の上表書に書かれている「昔」に対して、考察が加えられている。

 古田師は、持論に従い、こうした特定の言葉の意義は、同時代の文書、ここでは、宋書において「昔」の用例をことごとく取り出して点検するという手法を採っている。
 現時点のように、電子データ化されたテキストが、インターネットのサイトに公開されていて、誰でも、全文検索できる便利な時代でなく、宋書全ページを読み取って検索したものと思われ、その労苦に敬意を表する次第である。

 さて、ここは、論考の場ではなく、私人の感慨を記す場であるから、参照書の検索と考察の内容は後に送り、ここでは、まずは個人的な意見として、以下の推測を記すのである。

 日本語でも、「今昔の感」と言うように、「」と言うときは、「今」と対比して、万事が現在と大きく異なった時代を懐古、ないしは、回顧するものであり、往々にして、「古き良き時代」と呼ばれることが多い。
 では、南朝の宋(劉宋)にとって、古き良き時代とはいつを指すのか。それは、劉宋時代の中国の形勢を見れば、さほど察するのは困難ではないと思われる。劉宋は、亡命政権東晋を継いで、長江(揚子江)下流の建康(現在の南京)を首都とし、中国全土の南半分を領土としているが、中国の中核とされる中原の地は、北方から進入してきた異民族政権の領土であった。中国人にとってこの上もなく大切な、故郷の父祖の陵墓は、墓参を許されない嘆かわしい事態になっている。
 もと中原の住民は、大事な戸籍を故郷に残し、今の住まいを避難先の仮住まいと称していたのである。

 こうして考えると、宋書でいう「昔」とは、その時代で言う「中国」が、その時代の天子の治世下で太平に保たれていて、季節に応じて、故郷の風物を楽しみ、墓参に努めることのできた古き良き時代、言うならば中華の世紀である。

 なべて言うなら、古くは、史記に記録されていて、半ば伝説と化した夏殷周代であるが、その中核は、儒教の称える周公の時代を想定していたのかも知れない。
 周朝の制覇、王朝創業の間もなく、広大な天下が平らげられて戦乱がなくなったことを伝え聞いて、遙か遠隔の地から、越裳と倭人が捧げ物を届けたという、そういう周の遺風が「昔」と言わせるのであろう。

 そして、より生々しい秦・漢の時代は、これもまた天下を平らげたことから、古き良き時代として「昔」と懐かしんだものと思われる。

 更に時代を下った魏・西晋の時代は、天下太平と言うには、物足りないものがあるが、それにしても、中原領域を制定していたことから、今の状勢と比較して、「昔」と懐かしんだものと思われる。

 さて、肝心なのは、倭王武の上表文で、「昔」と言っているのは、どの時代を指しているのかと言うことである。古田師は、宋書に登場した「昔」の用例を総点検した結論は、宋書に於ける「昔」とは、古くは、「夏殷周」、近くは、「漢魏」、時代の下限として「西晋」を含むこともある、と言うことであり、上に挙げた個人的な推察と同じ結論に至っている。

 つまり、上表文作者の想定したのは、劉宋時代の中国教養人と同様の意義であり、『古くは、「夏殷周」、近くは、「漢魏」、時代の下限として「西晋」を含む』時代を指しているようである。
 倭王武の上表文の主たる意味づけは、魏・西晋時代にあるようであるが、「昔」の一文字で、周・漢両朝での倭人貢献を想起させる修辞力は大したものである。

 一部先賢は、倭王武の上表文について、当時の倭国に、このように高度な漢文記事を書く教養があった証拠にはならない、どうせ、建康の代書屋に書かせたものだろうと、倭国作成説を切り捨てている。

 しかし、代書屋に倭国の故事来歴の情報はないはずであり、代書するにとしても、大体の材料を与えられ、色々と注文を付けられて書いたものであり、大筋は、倭国側の練り上げた文書であることは、間違いないと思われる。

 もっとも、別項で述べたように、国王名義の上書には、国王名の自署と国王印が不可欠であり、倭国使節が、建康まで署名捺印だけで内容白紙の上書原稿を持参して、代書屋に内容を書かせ、出来上がった国書を国王が確認すること無しに宋朝に提出したという想定は、あり得ない手順と思われるのであるが、大家の説く所見であるから、言下に否定するのはおこがましいのであろう。

 閑話休題
 古田師の遺風として、生じた疑問を解き明かすのに、推測ではなくデータをもとにした考察を怠らない点は、学問・学究に努めるものとして学ぶべきものと思うのである。いや、これは、当ブログ筆者たる小生の個人的な感想であるので、当然、各個人毎に感想は異なるのであるから、別に、貴兄、ないしは貴姉から、意見が合わないと怒鳴り込まれても、お相手しかねるのである。特に、ここで論じているのは、古田師の遺風に関する小生の感想であるから、凡そ議論は成り立たないのである。

以上

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 改訂・付記 1/3

             2015/11/01 再追加 2022/01/12 2023/09/16
〇はじめに
 ここでは、故古田武彦師の遺した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。
 因みに、本稿が当初「」なしの古田史学と書いたのに対して、早速、古田史学なるものは無法な評言であるから、撤回すべきとのコメントがあり、一応、固有名詞扱いで「」付きにしたが、コメント子からの応答はないので、趣旨に沿っているのかどうか不明である。
 因みに、コメント子は、明らかに古田武彦師の流儀を認識していて、それ故に敵意を抱いているということのようだが、文句があるなら、当人を論破して欲しかったものである。あるいは、古田氏の支持者、後継者を「打破」して欲しいものである。第三者に付け回しするのは、ご勘弁いただきたい。

〇『「邪馬台国」はなかった』
 『「邪馬台国」はなかった』は、「古田武彦古代史コレクション」の緒巻として、2010年にミネルヴァ書房から復刊されたので、容易に入手可能な書籍(「参照書」)として参照することにする。

 ここで展開されている「臺」と言う文字に関する議論で、「思想史的な批判」は、比較的採り上げられることが少ないと思われるので少し掘り下げてみる。

 「思想史的な批判」は、参照書55ページから書き出されている「倭国と魏との間」と小見出しされた部分に説かれている。
 この部分の主張を要約すると、次のような論理を辿っているものと思われる。

    1. 倭人伝記事の対象となっている魏朝、および、その直後に陳寿が三国志を編纂した西晋朝において、「臺」と言う文字は、天子の宮殿を指す特別な文字であった
    2. 三国志において、三国それぞれに対して「書」が編纂されているが、正当とされるのは魏朝のみであり、そのため、「臺」の使用は、魏朝皇帝の宮殿に限定されている
    3. 倭国は、魏朝の地方機関である帯方郡に服属する存在である。
      魏朝がそのように位置づけている倭国の国名に、天子の宮殿を意味する「臺」の文字を使用することは、天子の権威を貶める大罪であり、三国志においてあり得ない表記である。

 因みに、倭人伝の最後近くに「詣臺」(魏朝天子に謁見する)の記事があり、「臺」の文字の特別な意義を、倭人伝を読むものの意識に喚起している。つまり、三国志魏書の一部を成す倭人伝においても、「臺」の文字は、専ら天子の宮殿の意味に限定して用いるという使用規制の厳格なルールである。

 古田氏も念押ししているように、このような「臺」に関する厳格な管理は、比較的短命であり、晋朝の亡国南遷により東晋が建国されて以後効力を失ったものと見られる。

 たまたま、手っ取り早く目に付いた資料と言うことで、かなり後代になるが、隋書「俀国伝」に、隋使裴世清の来訪を出迎えた人物として冠位小徳の「阿輩臺」なる人名が記録されている。隋書が編纂された唐朝時代には「臺」なる文字の使用規制は失われていたのである。

 南朝劉宋の時代に後漢書を編纂した笵曄は、笵曄「後漢書」「東夷列伝」の「倭条」に、「邪馬臺國」と書き記しているが、当時最高の教養人とは言え、陳寿のような純正の史官ではなかったので、語彙の中に時代限定の観念はなかったのである。

 と言うことで、以上のように辿ってみると、「古田史学」の水脈は支流といえども滔々として遮りがたいものである。

                                            未完

 

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 改訂・付記 2/3

             2015/11/01 再追加 2022/01/12 2023/09/16

付記 2015/11/01
 語気の鋭い主張ほど、例外に弱いものである。特に、一部の稚拙な反対論者は、細瑾を持って「致命的」と称する稚拙な攻撃法を取っている。「一点でも誤謬があれば、学説全体が崩壊する」と決め付ける稚拙な手口であるが、つまり、口先の勢いしか、武器がないという「窮鼠」の最後の悪足掻きなので、相手にしないで良いのである。「例外のない法則は無い」というものである。

 陳寿は、三国志の編纂に当たって、天子の宮殿、ないしは、離宮の類いのみに「臺」の使用を規制したと思われるが、人名は正しきれなかったと思われる。例えば、著名な人物で「孫堅字文臺」とあるように、何人かの人名で「臺」が使われているのが見受けられる。

 このように、三国志を全文検索すると、魏の支配下になかった人物や魏朝の成立以前に「字」(あざな)を付けた人物、言うなら、曹操の同時代人および曹操以前の人物の「字」を書き換えてはいないようである。ちなみに、孫堅伝は、あくまで、東呉史官韋昭が編纂し、東呉君主に奉献した呉書が、東呉滅亡の際に、西晋皇帝に献上し、嘉納された史書が、帝室書庫に所蔵されていたものを、陳寿が、皇帝承認の史料として、ほぼそのまま「呉国志」として、「三国志」の要諦として鼎立させたものである。 
 三国志本文に限っても、「陳宮字公臺」(魏書 張邈傳)、「王觀字偉臺」(魏書 王觀傳)、「孫靜字幼臺,堅季弟也」(呉書 孫靜傳)の用例が見られる。
 古田氏は、「臺」を「神聖至高の文字」とまで口を極めているが、これは言い過ぎであろう。「臺」の使用規制は、天子の実名を諱として避ける厳格さまでには至っていないのである。

 なお、呉書諸葛恪傳に「故遣中臺近官」の記述があり、呉書および蜀書においては、魏書におけるほど、厳格に「臺」の使用を規制していないものと思われる。つまり、呉書だけでなく、蜀書も、曹魏書記官/史官の編纂した史書ではないので、用語基準が異なるのであり、陳寿は、両国志に編纂の手を加えていないので、魏書の用語の用例としては、不適当な場合が多いと懸念される。いや、魏書に限定しても、曹魏書記官/史官が精査した本紀部の用語/構文と異なり、夷蕃伝、特に、新参の「倭人」に関する「伝」は、一貫した編集/構成が存在しないと見え、陳寿も、魏志夷蕃伝の編纂にあたって、原史料の用語/後世に、改竄、と言うか、史官校閲の手を加えていないと見えるので、必ずしも、一貫した考証が容易とは見えないのである。
 この論義は、古田武彦師の学問の道と軌を一にしていないので、本稿タイトルと蹉跌をなしていると見えるかもしれないが、小論は、古田武彦師の史学の道は、首尾一貫していて、後生によって維持されていると評したものであり、小論は、古田師の論義に無批判に追従しているのではない。よく聞き分けていただきたいものである。

 当付記を書くについては、中国哲学書電子化計劃が公開している国志テキストデータを全文検索させていただいたが、「臺」の用例として「邪馬臺國」はヒットしない。この事実認識を「倭人伝論」の出発点としていただきたいものである。

                                  未完

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 改訂・付記 3/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12 付記 2023/09/16

〇「臺」論再考 再付記 2022/01/12
 当付記は、以上の論議が崩れそうになるので、静かに語ることにする。
 別に新発見でもないのだが、「春秋左氏伝」に、古田師の「臺」至高論の対極「臺」卑称用例があるので、諸兄姉のご参考までにここに収録するのである。
 白川勝師の字書「字通」の「臺/台」ではなく、「儓」(ダイ)にひっそりと書かれている。白川師の字書について、世上、師の老齢を種に公に誹謗する向きが(少なくとも一名)あって、度しがたい迷妄に呆れたりするのだが、ここは「春秋左氏伝」の引用であり、師は特に関与していない。

[字通] 儓  タイ、ダイ しもべ けらい …..〔左伝、昭七年]に「天に十日有り、人に十等有り」として、「王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は阜を臣とし、阜は輿僕を臣とし、輿僕は隷を臣とし、隷は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は臺を臣とす」とあって、臺は第十等、〔玉篇〕にこの文を引いて臺を儓に作る。奴僕の乏称として用いる。…

 つまり、「臺」は、本来、つまり、周制では、王、公、大夫から大きく下った文字を知らない隸、僚、僕、「奴隷」、「奴僚」、「奴僕」と続く最下等のどん尻である。官位などであれば、最下位は官人であるから、官位外に下があるが、臺はその限りを越えている。
 後世、これでは蔑称の極みであり、「臺」の公文書使用に対して大変な差し障りがあるので、たまりかねて、人偏をつけて字を変えたと言うことのようである。

 陳寿にとって、春秋左氏伝の用語は、史官教養の基幹であり、明瞭に脳裏に記録されていたから、周礼の片鱗をうかがわせる東夷「倭人」王の居処を呼ぶについて「邪馬臺」と書くことはなかったように思うものである。逆に、蛮夷の王の居処を「都」(みやこ)と呼ぶこともなかったのである。史官に於いて、尊卑のけじめは峻烈だったということである。

 念のため言うと、南朝劉宋代に先人の後漢書を美文化した、当時一流の文筆家であった笵曄は、史官としての訓練を歴ていないし、西晋崩壊によって、中原文化の価値観が地に落ちた時代を歴ているので、「左伝」の用語で縛られることはなかったと見るのである。いや、教養として知っていて、東夷列伝の「其大倭王居邪馬臺國」に、「左伝」由来の卑称を潜めたかも知れない。范曄については、まことに、真意を推定するだけの資料がないから、東夷「大倭王」を蔑視していなかったという確証はない。

*朦朧たる笵曄後漢書「倭条」 余談
 因みに、笵曄「後漢書」が言及することを許されていたのは、後漢代と言っても霊帝までが下限であり、献帝治世、中でも、曹操の庇護のもとに帝制を維持していた建安年間は、魏志の領分であるので、遼東に公孫氏が君臨していた時代のことは、書けないのである。そこで、笵曄は、女王共立の事態を、桓帝霊帝の時代にずり上げて、東夷伝に「倭」に関する一条を設けたのである。そのように、意図的に時代考証を混濁しているので、「其大倭王居邪馬臺國」 の一事も、
女王共立以後の「女王国」を指すというわけではなく、それ以前の伊都国僭上時代とも取れるようにしていると見えるのである。笵曄は、本来、朦朧とした記事を心がけていたものではない「文筆家」と自負していたから、女王が邪馬臺国を居処としていたと確信していたら、そのように明記したはずであるから、このような朦朧記事を書いたのは、後漢書東夷列伝「倭条」の根拠が不足していたと見えるのである。世上、魏志「倭人伝」記事が明解に解釈されたら、自説に不利なので、とにかく、朦朧とさせる「異説」が幅をきかせているが、その明源は、笵曄の朦朧とした記事に起源があるように見えるのである。

閑話休題
 「臺」は、古典書以来の常識では、「ダイ」であり「タイ」ではない。俗に、「臺」は「台」で代用されたが、正史は、そのような非常識な文字遣いが許される世界ではない。

*百済漢字論考 余談
 百済は、馬韓時代から早々(はやばや)と漢土と交流していたから、当然、漢字を早々に採り入れたが、自国語との発音、文法の違いに苦労して、百済流漢字、つまり、「無法な逸脱」を色々発明したようである。その中には、漢字に無い「国字」の発明や発音記号の創出が行われていたと見えるが、早々に中国側に露見し、撤廃させられたようである。つまり、中国側が、中国文化の違反として厳しく是正したものであり、百済では、すべて禁止事項となったが、「無法な逸脱」は、ふりがな記号、国字、「臺」「台」代用も含めて、百済から、海峡を越えた「倭人」世界に伝わったようである。但し、このような伝達が起こりえたのは、遙か後世の唐代であり、当ブログの守備範囲外、「倭人伝」の圏外であるので、あくまで、臆測に過ぎない。

 以上は、「やまだい」と呼ぶしかない「邪馬臺国」が、「やまと」と読める「邪馬台国」に変貌したと言う無茶な変遷論と相容れないので、国内の古代史学界では言及されないように思えるのである。以上は、古田師すら、これには気づいていなかったと見えるから、「古田史学」は、「全知全能」「無謬」ではないのである。

*三国志統一編集の幻影 2023/09/16 余談
 因みに、従来、つまり、「倭人伝」素人研究の開始当初、当ブログ筆者は、陳寿「三国志」の中で、「呉志」、「蜀志」の「用語」用例を、「魏志」の「用語」用例と同等の重みを持ってみていたが、丁寧に見ていくと、陳寿は、「魏志」以外の「用語」については、それぞれの「志」の原文をとどめているように見えるので、項目によっては、論調によっては、論議の矛を収めることがあることを申し上げておくものである。

 因みに、陳寿は、「呉志」編纂において、東呉史官韋昭等が東呉公文書をもとに編纂した「呉国志」が、東呉降服の際に献呈された西晋皇帝によって嘉納されていたので、つまり、晋朝公認文書となったので、「呉志」において、孫堅、孫策、孫権を、東呉天子と見立てた不敬は是正したものの、それ以外は、原史料を温存しているのであり、曹魏君主を天子とした編集の筆を加えていないものと見えるのである。また、「蜀志」については、三国志の体を整えるために、蜀漢遺稿を集成させたものであり、ここにも、曹魏君主を天子とした編集の筆を加えていないものと見えるのである。
 つまり、「三国志」というものの、それぞれの「国志」は、古来、「国志」として自立していたものと見るべきなのである。従って、三件の「国志」を統一した「通志」編纂は、行われていないと見るべきなのである。

 このあたりの論義は、「倭人伝」解釈の躓き石になっているようで、近来蔓延(はびこ)っている暴言/誣告は、『陳寿は、その時次第で、思いつきの「ウソ」を書き散らす問題人である」と言うものであり、誰かの受け売りで、そのような暴言を書き散らしている著者を見かけると、後世に不滅の悪名を遺しているのに大変気の毒に思うのである。何しろ、電子書籍の初学者向け資料でコミックタッチであるからわかりやすく俗耳に訴え、その結果、取り消しようのない汚名が残っているのである。

*史官「立ち往生」 2023/09/16 余談
 さらに敷衍すると、陳寿は、「魏国志」の編纂においても、原史料である後漢/曹魏公文書に編集の筆を加えず、原史料温存に努めたものと見るべきなのである。そのため、主として、遼東郡太守公孫氏の束の間の君臨と滅亡によって、一貫した史料集成が不可能であった「倭人伝」では、各時点の史料源の視点、価値観、世界観がまちまちであることが糊塗されていないので、とかく、継ぎ接ぎ(つぎはぎ)との評言が齎されているのである。つまり、「倭人伝」の二千字程度の記述においても、それぞれの部分の由来、出所の丁寧・地道な評価が必要・不可欠である。
 ところが、従来は、具体的な論証無しに軽薄な臆測をもとに、陳寿に対して、「東夷伝」に曲筆を加えたとの極言/誣告が、事情に通じていない部外の「大家」から与えられていて、素人読者として困惑するのである。文献を全面的に精査せずに、「ぱっと見」で、あるいは、「食いかじり」で、印象評価するのは、困ったものであるが、俗耳には「大言壮語」が痛快に聞こえて、粗雑な悪評が世に蔓延る(はびこる)困った事態なのである。

 陳寿は、あくまで、天職である史官の職務に忠実であって、正史の編纂を通じて天下に教訓を垂れるという尊大な意識は無く、あくまで、謙虚な「史官」の職掌に殉じたのであるが、高名で尊大な後世人集団によって、寄って集(たか)って、虚像、つまり、芝居の背景のように華麗な絵姿を押しつけられて立ち往生しているように見えるが、どうであろうか。

*結語 2023/09/16
 と言うことで、ここでは、タイトルにも拘わらず、古田武彦師の「倭人伝」観に、いわば、一矢を報いているのであるが、あくまで、史観の一隅の瑕疵をつついているのであり、靴に砂粒が入った程度の不快感にもならないかもしれない。

以上

2023年9月 6日 (水)

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 1/3

                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06
〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十三集は「灼(しゃく)熱・黒砂漠~さいはての仏を求めて~」。旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠を踏破する。
 シルクロードの旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠。何人も生きて越えることができないと言われた死の砂漠である。取材班はその道をトルクメンの人々の案内で踏破、チムール時代の壮大な仏教遺跡が残るメルブまでを紹介する。

〇待望の再放送~余談の山
 滅多にお目にかかれないメルブ(Merv)を見ることができたのは、貴重でしたが、漢代以来、東西を繋いだメルブの意義が見逃されているのは残念です。
 メルブは、漢書「西域伝」、後漢書「西域伝」で「西域」つまり漢の世界の西の果ての大国として紹介された「安息国」の国境要塞でした。例えば、漢書は、番兜城(ばんとうじょう?)、後漢書は、和櫝城(わとくじょう?)と書かれています。
 そのため、漢武帝使節と後漢西域都護班超の副官甘英の97年の探検行が、西方では「パルティア」と呼ばれた「安息国」国境要塞メルブを、訪問行の西の果てとしたことの意義が見過ごされています。この地は、延々と続いた砂漠地帯を出て、カスピ海沿岸の温和な地域と見ていましたが、実際は、砂漠の中のオアシスだったようです。少なくとも、漢使甘英は、酷暑の西域都督管内ではあまり見られない冷涼の地と感じたはずです。
 とは言うものの、いくら好意的な相手としても、西域に勇名を轟かせていた西域都督班超の副官が率いる、恐らく百人規模の使節団が、 大「パルティア」首都、遙か西方メソポタミアの「王都」クテシフォンに詣でて、大「パルティア」国王に謁見することは論外でした。
 そのため、両代漢使はメルブで小安息国長老と会見し、無事に使命を果たしました。国都に参上せず国王に謁見しなくても、漢使の任務を果たしたのです。
 倭人伝」解釈に於いて、随分参考になる前例ですが、論争の際に紹介されていないのは、意外です。

*メルブの意義
 当時、イラン高原を統轄していた大「パルティア」は、東西交易の利益を独占して当時世界一の繁栄を得ていましたが、その発祥の地でもあるメルブ(Merv)地域を東方の最重要拠点として、守備兵二万を常駐させていたのです。
 安息国には、 東方から急襲した大月氏騎馬戦力の猛攻により、迎撃した国王親征部隊が壊滅して国王が戦死した経験があり、以後、大兵力を固定して、東方蛮族(大月氏)の速攻に臨戦態勢で備えていたのですが、騎馬軍団の席巻で言えば、班固「漢書」「陳湯伝」で知られる匈奴郅支単于の西方侵攻のように、月氏事件は、空前でもなければ絶後でもなかったのです。後年、欧州諸国を震撼させたフン王アッティラの由来は不明ですが、

*西方捕虜到来
 因みに、大「パルティア」は、西方のメソポタミア地方では、ローマ軍の侵入に対応していて、共和制末期の三頭政治時代、シリア属州提督の地位にあった巨頭クラッスス(マルクス・リキニウス・クラッスス)の率いる四万の侵入軍を大破して一万人を超える捕虜を得て、「パルティア」は、一万の捕虜を東方国境防備に当てたとされています。(前54年)
 降伏した職業軍人は、遠からず両国和平の際に和平時に身代金と交換で送還されると信じて、数ヵ月の移動に甘んじたのです。ローマ側としては、生き残った万余の兵士を無事帰国させるために、司令官クラッススを引き渡し、捕虜をいわば人質として提供したしたものです。クラッススは、パルティアの軍法に則して斬首されたとされています。

 欧州側では「東北国境」と云うことで寒冷地を想定したようですが、メルブは、むしろ温暖なオアシスであり、何しろ、凶悪な敵を食い止める使命を課せられていて、ローマ兵は、捕虜とは言え、それなりの処遇を得ていたはずです。この時、一万人の捕虜を得たおかげで、一万人の守備兵を帰宅させたので、地域社会(パルティア発祥の地)に、大きな恩恵を与えたのです。

 なお、ローマ正規軍には、ローマの中級市民兵士や巨頭ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が援軍として送り込んだガリア管区の兵士も含まれていたから、一時、メルブには、土木技術を有し、ギリシャ語に通じた教養のあるローマ人が住んでいたことになります。恐らく、両国軍人の会話は、ギリシャ語で進められたはずです。いや、まだ、アレキサンドロスが率いたギリシャ語圏の兵士や商人がいたかも知れません。
 また、班固「漢書」西域伝に依れば、安息国人は、皮革に横書きで文字を書き付けていたようですから、共に、文明人だったのです。

 後漢西域都督班超の副官甘英は、一大使節団を率いて安息国に至り、長老、つまり、安息東部都督に相当する高官と交渉したものの、具体的な盟約には到らなかったと思われます。甘英の使命は、最高機密事項でしたが、当時、安息国と締盟した上で、西域都督班超に執拗に反抗していた大月氏/貴霜を挟撃、西域都督の以降を高めたいとの願望を持っていたはずであり、「貴霜」(クシャン)を凶悪な侵略者と見る共通した視点をもっていたと思われますが、安息国は、本来商業立国であり、専守防衛を国是としていたので、貴霜国を攻撃して地域の平穏を破壊するなど論外であったと見えます。

 もちろん、外交/軍事は、西方王都の国王の指示を待つ必要があったのですが、国王にとって最大の懸念事項は、至近のシリアに大軍を待機させているローマであり、東方で軍事作戦を展開する気はなかったのです。また、はるか東方の大国中国は、貴霜国と戦端を開いても、大軍派兵は大変困難と理解していたので、共同軍事作戦は割に合わないと見たようです。
 最後に、安息国は、東西交易の要であり、近隣諸国と戦火を交えて、交易を阻害することを恐れたとも見えます。何しろ、東西交易は、大量の黄金の卵を齎す「にわとり」であり、これを傷つけることは、国益に反したのです。

 以上、安息国の視点から、誠に割に合わない提言であり、国王の指示に従い、友好関係を損なわない程度に謝絶したものと見えるのです。
 甘英は、帰任して、大事がならなかったと報告したのですが、これは、西域都督の独断だったので、一切公文書に残らず、また、貴霜国に機密が漏洩すると、不穏な事態になるので、固く隠蔽したものと思われます。

◯笵曄による甘英弾劾
 世上、甘英が、西方の大国「ローマ」に到達する使命を帯びていたとする俗説が執拗に唱えられていますが、何重もの誤解に基づいていて、誠に嘆かわしい事態です。
 まず第一に、後漢、魏・晋を通じ、中国の西方知識は、到達点としては安息国止まりであり、しかも、安息が、西方の敵国ローマについて、甘英に知らせることは考えられないので、精々、カスビ海の対岸であるアルメニア、條支止まりであったものと思われます。それどころか、「西方の王都クテシフォンにすら赴いていない」のとともに、王都付近メソポタミア、および、そこに到る整備された街道の有り様も、明確に伝えていない節があります。
 まして、ローマ帝国が、精兵四万を常備していたシリア準州についても、一切伝えていないものと思われます。
 要するに、「大秦」と書かれている正体不明の国家の風俗は、安息国の周辺諸侯、精々、カスピ海西岸「海西」の條支と隣国のものと見えるのです。

*西域都督の重大な使命
 後漢西域都督は、あくまで臨時の官であって、現地に「幕府」を開いて、地域の軍事、税務の権限を与えられていましたが、万事、皇帝の勅許を仰ぐ必要があり、独断専行は許されていないのです。西域都督に与えられている任務、権限は、あくまで、漢武帝代に確立した「友好国」である「安息国」までであり、安息以西の未知の領域に勝手に進出することは許されていないのです。つまり、もし、甘英が、安息を越えて西方に進出するためには、皇帝の勅許が必要なのです。
 後漢書には、そのような勅命が出されたという記録はありません。
 もし、甘英が勅命によって西方進出を使命としていたら、これを達成できないまま帰還するのは、重大な違命であり、誅殺に値します。当然、西域都督も、同罪です。もちろん、笵曄「後漢書」にも、袁宏「後漢紀」にも、魚豢「魏略」西戎伝にも、そのような誅殺の記録はありません。
 以上のように論理的に確認すると、甘英は、安息国まで使節/ 行人として派遣されただけであり、安息以西に進出する使命は帯びていなかったのです。

*不可能な使命
 当ブログ筆者は、甘英の使命に対して私案を持っていて、要するに、西域都督班超が、独断で大月氏討伐の締盟の構想を抱いていたものと見るのです。これは、かつて、漢武帝が企てた大月氏との締盟構想と同趣旨であり、掠奪国家であって後漢の西域支配に頑強に抵抗していた大月氏を、漢~安息の挟撃で撲滅しようというものであり、安息長老の了解が得られれば、皇帝に上申して、安息王~後漢皇帝の盟約とするというものであったように推定しています。そのような軍事活動は、西域都督の使命の範疇であり、上申して勅許を得ることは、十分可能と見ていたものとおもわれます。

 ただし、実際は、班固の大月氏挟撃構想は、安息国の同意を得ることができず、甘英は、安息国との友好関係を確認するにとどまったものと見えます。甘英の派遣について、特段の使命が記されていないことから、単に、友好関係の確認、強化にとどまったものであり、特に、違命がなかったため、班超も甘英も、叱責等を被っていないものと見えます。

*笵曄乱筆
 そのように、使命が秘匿されたため、笵曄の疑惑を掻き立て、甘英は、無謀な冒険を試みて不達成に終わったと粉飾されたものと見えます。
 笵曄は、後漢末、班超時代の後に西域都督が撤収した結果だけを見ていたため、後漢の威勢を維持できなかったというあらぬ譴責を加えたものと見えますが、それは、笵曄が、西域都督の武官としての沽券を見損ねていたものと見えます。
 あるいは、西域都督班超の実兄であり、漢書を編纂した史官班固に対する引け目を、班超/甘英に押しつけたものとも見えます。要するに、漢書「西域伝」は、遠隔地を実見しない捏造だと貶めたかったものかも知れません。
 ここでも、笵曄の勝手な創作が見られるのです。
 
                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 2/3

                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06
*ローマ・パルティア戦記
 因みに、敗戦には必ず復仇するローマで、三頭政治末期の内戦を制して最高指揮官の地位に就いたカエサルは、パルティア遠征を企てたが、暗殺に倒れ、カエサル没後の内乱期、エジプトを支配したアントニウスは、カエサル遺命として、前36年にエジプト軍と共にパルティア遠征したが、あっけなく敗退しています。
 初代皇帝として、ローマ帝国を創業したアウグストゥス帝の前21年、本格的な講和が成立し捕虜返還を交渉しましたが、敗戦抑留以来30年を要したため、捕虜は、全て世を去っていたといいます。余談ですが、初代皇帝アウグストゥスは、中国の秦始皇帝と大きく異なり、元老院の支持のもと密やかにローマの共和制に終止符を打ちましたが、表向きは、元老院の首席議員の立場にとどまり、専制君主を名乗らなかったのです。

*シリア準州駐屯軍
 ローマ-パルティア間に講和が成立しても、ローマ側では、共和制時代から維持してきたメソポタミア侵略の意図は堅持され、ローマ属州のシリアに総督を置き、四万人を常駐させたのです。

*あり得ない漢使シリア訪問~余談
 范曄は、『後漢使甘英が安息の「遙か西方の條支」まで足を伸ばした』と「創作」したので、「條支」を「シリア」(現在のレバノンか)と見る解釈がありますが、街道整備のパルティアの国土を縦走する行程は、延延百日を要する遠路であり、異国軍人のそのような長途偵察行が許されるはずはなく、まして、その果てに敵国との接触は論外でした。

 いくら、「安息」の名に恥じない専守防衛の国であって、常備軍を廃していても、侵略を撃退する軍備を擁していたのです。

 甘英の本来の使命は、安息国との締盟であって、援軍派兵を断られた以上、往復半年はかかる探査行など論外と見るべきです。西の王都まで数千里の長途であることは、武帝使節の報告で知られていたのです。
 いや、もし、実際に君命を奉じて、(范曄が安息西方と見た)厖大な日数と資金を費やして「條支」まで足を伸ばしたのなら、いかなる困難に直面しても、君命を果たすしかなかったのです。西域と塗膜の副官たる軍人甘英が、使命を果たさずに逃げ帰ったら、そのような副官に使命を与えた上官班超共々、軍律に従い厳しく処断されるのですが、そのような記録は一切残っていません。笵曄は、文官であったため、軍律の厳しさを知らなかったのでしょうが、それにしても、西域都護副官を臆病者呼ばわりするのは、非常識そのものです。
 因みに、班超は、勇猛果敢な軍人ですが、漢書を編纂した班固の実弟であり、文官として育てられたので、教養豊かな文筆家/蔵書家であり、笵曄は、そのような偉材に喧嘩をふっかけたことになるのです。
 いや、当ブログ筆者の意見では、條支は、途方もない西方の霞の彼方などではなく、甘英の視界にある巨大な塩水湖、大海(カスピ海)のほんの向こう岸と信じているので、范曄の意見は、誤解の積み重ねに無理筋を通した暴論に過ぎないのですが、なぜか、范曄の著書は俗耳に訴えるので、筋の通った正論に耳を貸す人はいないのです。

 いや、またもや、長々と余談でした。

*東西交流の接点
 と言うことで、メルブは、「ジュリアス・シーザー」が象徴する西のローマと「武帝」が象徴する東の漢の接点になったのです。さすがに、時代のずれもあって、東西両雄が剣を交えることはなく、「安息長老」(おそらく、当方安息国の国主)が、漢人の知りたがる西の果ての世界に関してローマの風聞を提供したように見えます。

*西域都護班超と班固「漢書」
 改めて言う事もない推測ですが、甘英の西域探査行の詳細にわたる報告は、西域都護班超のもとから、後漢帝都の洛陽にもたらされたものと思われます。また、先に触れたように、班超は漢書を編纂した班固の実弟であり、当然、漢書西域伝の内容は、班超のもとに届いたと思われます。つまり、漢書西域伝は班超座右の書であり、西域都護にとって無駄な探査行など意図しなかったと見ます。

 恐らく、都督府の壁には「西域圖」なる絵図を掲げていたでしょう。(魚豢西戎伝が「西域旧圖」に言及しています)

*范曄「後漢書」の「残念」~余談/私見
 西域探査功労者甘英は、笵曄に「安息にすら行っていないのにホラ話を書いた」と非難され「條支海岸まで行きながら怖じ気づいて引き返した」と軍人として刑死に値する汚名を被っていますが「後漢紀」に依れば、班超が臨んだ「西海」は、メルブにほど近い「大海」、塩水湖「裏海」です。よって、魚豢「魏略西戎伝」でも明らかなように、甘英の長途征西は、笵曄の作文と見ます。

 因みに、魚豢「魏略」は、諸史料所引の佚文が大半であるため、信用されない傾向があるのですが、「魏略」西戎伝は、范曄同時代の裴松之が「三国志」に全篇追加したので、三国志本文と同様に確実に継承され、紹熙本/紹興本も、当然、その全容を伝えているので、今日でも、容易に読むことができます。(筑摩書房刊の正史「三国史」にも、当然、全文が翻訳収録されています)

*笵曄の限界と突破
 魚豢、陳寿は、曹魏、西晋で、後漢以来の帝都洛陽の公文書資料の山に接する権限がありましたが、笵曄は、西晋が崩壊した後の江南亡命政権東晋の官僚だったので、参照できたのは「諸家後漢書」など伝聞記事だったのです。諸家後漢書の中で出色の袁宏「後漢紀」は、ほぼ完本が継承されているので、容易に全文に触れることができ、部分訳とは言え、日本語訳も刊行されていて、原文を含めて確認することができます。

                               未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 3/3

                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06

*幻の范曄原本
 先に挙げた、後漢書夷蕃列傳は「笵曄の誤解に基づく勝手な作文」満載なる私見は、魚豢が後漢朝公文書を直視した記述と笵曄が魏略を下敷きに潤色した記述とを対比して得た意見であり、先賢の評言にも見られる「定説」です。

 編者范曄が、重罪を得て嫡子共々処刑され家が断絶したため、范曄「後漢書」遺稿が、著作として決定稿であったかどうか、確実に知ることができません。陳寿「三国志」は、陳寿の手で最終稿まで仕上げられていて、没後、西晋朝の官人が、一括写本の手配を行ったことが記録されています。いわば、三国史の陳寿原本、と言うか、確定稿を、数人ならぬ数多くの関係者や読者が、つぶさに確認しているのです。
 これに対して、范曄後漢書は、いつ、誰が、遺稿を整えたのか不明です。隋唐統一以前、数世紀にわたる南北朝乱世をどのように写本、継承され、唐代に正史に列することになったのか、不明の点が多いのです。従って、范曄原本が存在したのか、関係者が体裁を整えたものなのかすらわからないのです。その意味で言うと、笵曄「後漢書」の范曄原本は、誰も知らないのです。また、現行刊本は、司馬彪「続漢書」の志部/資料編をとじ合わせているので、笵曄後漢書と形式が異なるものとなっています。

 このような事態は、史上最高の文筆家を自認したであろう范曄には大変残念な結果と思います。

*袁宏「後漢紀」西域条
 袁宏「後漢紀」は、百巻を超えて重厚な漢書、後漢書と異なり、皇帝本紀主体に三十巻にまとめた、言うならば準正史です。正史でないため、厳格な継承がされず、誤字が目立ちますが、佚文ならぬ善本が継承されています。
 列伝を持たないため、「西域伝」は存在しませんが、本紀に、西域都護班超の功績を伝える記事が残されていて、甘英派遣の成果も残されています。つまり、後漢紀は、西域伝や東夷伝を本紀内に収容したと言えます。

 魚豢「西戎伝」に続き、范曄「後漢書」西域伝の先駆となる小「班超伝」ですが、范曄が遺した「おとぎ話」は見えません。范曄が、魚豢に続いて袁宏まで無視した意図は、後世人には知る由もありません。

 范曄は、「後漢書」編纂に際して、諸家の後漢書稿を換骨奪胎したと言いますが、史書として、最も参考になったのは「後漢紀」と思われるので、いわば笵曄の手口を知る手がかりとなるものもあります。

*余談の果て
 と言うことで、番組紀行がメルブを辿ったことから、種々触発された余談であり、これほど現地取材するのであれば、両漢紀の西域探査の果てという見方で、掘り下げていただければ良かったと思うのです。

 また、共和制末期、帝政初期のローマとパルティアの角逐、と言うか、ローマの侵略欲を紹介していただければ、いらぬ幻想は影を潜めていたものと思うのです。

*再取材の希望
 と言うことで、メルブは、仏教布教の西の果てという意義も重要ですが、東西に連なる三大文明世界の接点との見方も紹介して欲しかったものです。
 いや、遠い過去のことはさておき、再訪、再取材に値すると思うのです。西方は、ローマ史に造詣の深い塩野七生氏の役所(やくどころ)に思うのですが、東方は、寡聞にして、陳舜臣氏を継ぐ方に思い至らないのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」(陳寿「三国志」魏志 裴松之補追)、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」


                               以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 1/3

       2021/02/03   追記 2021/04/15 訂正追記 2021/11/26 2023/09/06
〇NHKによる番組紹介
NHK特集「シルクロード第2部」、第十四集は「絹と十字架~コーカサスを越えて~」。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。
カスピ海の西岸モシチェワヤ・バルカで唐代の中国製絹が発見された。絹の出土地としては最西端にあたる。中国とローマを結ぶ絹交易は、税金の高いササン朝ペルシャを避け、カスピ海北岸をう回、コーカサス地方を縦断して行なわれていた時代がある。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。

〇ささやかな誤解
 当番組の時代考証では、ペルシャを代名詞としているイラン高原の勢力を回避した「もう一つのルート」を考察していますが、『「交易ルート」がコーカサスの高嶺を越えた』と見ているのは、大胆な着眼としても、今回の番組で立証されたと見るのは、どうかと思います。また、南北に伸びたカスピ海の北岸は、冬季寒冷であり、通年して、交易路にならなかったのは明らかです。
 アルメニアの交易路は、カスピ海東岸中央部であり、カスピ海北岸など経由していなかったのです。
 因みに、ササン朝ペルシャはいざ知らず、古来、イラン高原の交易は、それぞれの地域勢力が仲介して多額の利益を上げる商業形態であり、通過する商人に課税したものではないのです。

*訂正
 今回再放送を確認したところ。番組が取り上げていたのは、ササン朝時代の状況であり、漢代/後漢代-バルティア時代の視点にとらわれて誤解した点をお詫びします。
 パルティア時代、当地を支配していたのは「アルメニア王国」であり、裏海-黒海の分水嶺の尾根を占拠していたアルメニア人が、東西の海港をも支配し、東西交易から収益を確保していた上に、政治的には、西のローマに対する牽制として、パルティアから親戚扱いされていた事から、こそこそ抜け道を迂回する必要はなかったのです。
 しかし、西のローマは、パルティア攻略の前提として、アルメニア王国の攻略を行い、強力な攻城兵器とシリア準州で臨戦体制を続けていた四万の常備軍に近隣諸国の援軍を加えた不敗の体制で、各地の山城をことごとく陥落させて、ローマ帝国の属国とし、パルティア東部への攻勢を見せて、メソポタミア領域の攻略に出たのです。
 結果、パルティアは、王都を攻略されて厖大な財宝を全て奪われて、全土を統制する威勢を喪い、東南方のペルシャ勢力に王国を奪われたのです。結果、ササン朝帝国が誕生しましたが、同帝国は、コンスタンティノープルの東ローマ帝国に移行した「ローマ」と対立を続け、ユーフラテス川流域の帰属を争ったために、アルメニアの黒海貿易を、高率の関税を課す事によって、厳しく規制したものと見えます。

 つまり、当番組は、西の東ローマ帝国との交易を事実上禁じられたアルメニアの苦肉の策して、コーカサス越えの「禽鹿径」交易を描いたものであり、同時代、及びそれ以後の時代考証としては正確と思われますが、交易への規制は、時代によって異なるので、何とも言えないのです。

 以上、大づかみな時代区分を誤った、見当違いの批判を書いた事をお詫びします。

*條支に至る道~魏略「西戎伝」
 ササン朝時代の前である、後漢代に安息国を訪ねた甘英は、西の大海カスピ海の中部を横断する「海路」を確認し、その報告は、三国魏の魚豢編纂の魏略「西戎伝」(陳寿「三国志」の魏書第三十巻巻末に全文収録)に記録されています。

 往年の安息(パルティア)東部要塞メルブから北上した海東の港から、大海の西岸である海西、今日のアゼルバイジャンのバクーにあたる半島(大海海中の島)に至ります。裏海(カスピ海)は塩水で水の補給が課題と言っても、帆走数日で着くので難路でもなんでもありません。

 地域の地形を確認すると、「大海」の南岸は低湿地である上に、地域勢力である「メディア」(中の国)の勢力範囲であったために、両国間の行程として常用していなかったのかも知れません。西戎伝には、「大海」南岸に安息と條支の国境があって、條支側の城から海岸沿いに遡って北に行く陸路行程が書かれているから、場合によっては、こちらを陸行したのかも知れません。

 このあたり、後漢の使節団が踏破したかどうか不明ですが、途中の渡河も含めて、行程記事は、まことに丁寧です。何しろ、目前の隣国で安息長老(公国の国王か)は、使節団を率いた甘英に対して懇切丁寧に絵解きしたはずです。

◯西域「海西」の正体~大海西岸の大国「條支」
 海西は、対外的には、「裏海」岸から「黒海」岸に至るアルメニア王国として、ギリシャ、ローマに知られていたとしても、裏海側はアゼルバイジャン民族、黒海側はグルジア(現ジョージア)民族が、それぞれ支配する高度な自治の状態だったかも知れません。イラン高原を含め、当該地域の各国は、中央集権ではなかったので、各国の内情はわかりませんが、現在の現地状勢からそう見ているのです。

 ともあれ、アルメニアは、当ブログ筆者の孤独な「新説」によれば、西域伝で安息長老が「條支」と呼んだ西の大国であり、イラン高原を含めた地域の歴史から見ると、安息国成立のはるか以前から、黒海-裏海間の要地を占めて東西交易を仕切っていたとみるのです。何しろ、北のコーカサスは、急峻な壁であり、よほどの事情がない限り、大規模な交易路とはなり得なかったと思われるのです。

 安息国は、アケメネス朝ペルシャ時代、ないしは、それ以前と見える建国の当初、條支に師事していたとの風聞が残されています。つまり、條支としては、東方物産の仕入れ先として利用したと見えるのです。
 その時点では、西方のイラン高原は、メディアないしはペルシャの巨大勢力が占拠していたので、安息は、大勢力のいいなりにならないために、條支交易を利用したものと見えます。
 西方のペルシャは、強力な支配者でしたが、西方ギリシャ勢力と地中海東部の覇権を争い、再三、陸海の大軍をもってギリシャ侵攻したため、ギリシャを糾合したマケドニアのアレキサンドロス三世軍の報復を受け、決戦に大敗して一気に壊滅し、ペルシャ地域は、大規模な破壊を被ったので、支配の緩んだ状況下で、東の小勢力、パルティアが台頭し、諸勢力の支持を集めて、アレキサンドロス亡き後のイラン高原を支配したものです。
 という事で、関係諸国の関係を概観しただけでも、支配-被支配の力関係は、時代時代のものであり、また、必ずしも、武力が国益に繋がるものでない事が見えてくるものと思います。
                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 2/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15 2023/09/06

*「條支」という国~私見連投
 「條支」は字義から「分水嶺、分岐路を占めた大国」との趣旨のようですが、地理上、北は峻嶺コーカサス山地が遮断し、南は強力なパルティアやペルシャが台頭して国境越えの交易を管制していたでしょうから、東西交易に専念した街道だったようです。パルティア時代、表立って漢と交際できなかったが、條支が漏らしたと見える「安息は、買値の十倍で売って巨利を博している」との風聞が記録されています。こうした貴重な現地情報を残した後漢西域都督使節甘英を顕彰したいものです。

 なお、「條支」も、当然、当該ルートでは東西貿易独占で巨利を博したから、コーカサスを越える往来希な山道の密貿易も横行したようですが、あくまで、脇道です。「條支」が巨利を博したからこそ、抜け道の危険は十分報われたのです。

 当番組は、南道と見えるイラン高原経由をシルクロード本道と見て、中南道とでも言うべき、裏海~黒海道、「條支」経由を軽視したように見えます。確かに、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア(現ジョージア)の各地で取材はされていますが、それが、「シルクロード」の有力な支流だったとの説明は無いように思います。

 取材された事例が、後漢代から、五百年から一千年過ぎた時代の話ですから、研究者の時代感覚が違うのかも知れませんが、太古以来、商材は変わっても、極めて有力な脇道であった事情に変わりはないのではないかと思うのです。高名な「トロイア」は、この東西交易の黒海下流で、巨利を博していたかも知れないと思うのです。もちろん、ここで述べられた歴史観は、多分、取材班が、地域の旧ソ連圏の研究者から学んだものでしょうが、中国西域としての視点が欠けているのは、何とも残念です。

◯白鳥西域史学の金字塔
 何しろ、中国側には、漢書、後漢書の盛時以降、魏晋南朝代の閉塞も、北魏、北周の北朝時代に回復し、隋唐の西域進出に繋がる豊富な史料が、正史列伝に継承されていて、世界初の西域史学の創設者と言える白鳥庫吉(K. Shiratori)師が、これら全ての西域伝を読み尽くして、一連の労作を構築されているので、欧州研究者は、まず、白鳥氏の著作を学び、次いで、原典である諸正史を学んでいます。

◯魏略「西戎伝」の金字塔
 特に、魚豢「魏略」西戎伝は、それ自体正史ではありませんが、正史「三国志」に綴じ込まれているので正史なみに適確に継承され、スヴェン・へディンなどの中央アジア探検行の最高の指南書とされています。それにしても、NHKが「シルクロード」特集を重ねても、一貫して中国史料を敬遠しているのは、不可解です。

○「後生」笵曄の苦悩
 因みに、范曄は、後生の得で、袁宏「後漢紀」の本紀に挿入された西域都護班超に関わる記事と魚豢「魏略西戎伝」の大半を占める後漢代記事とを土台にして、後漢書「西域伝」をまとめ上げたのです。つまり、魏代以来、中国王朝は、西域とほぼ断交していて、魏晋朝と言うものの、西晋崩壊の際に洛陽の帝国書庫所蔵の公文書が壊滅したため、南朝劉宋高官であった笵曄は、西域伝の原史料は得られず、代々の史官ならぬ文筆家の余技であったので自家史料も乏しかったのです。

 そのため、笵曄は、魏略「西戎伝」後漢代記事の転用に際して、知識不足で史料の理解に苦しみましたが、建康に在って西域の事情を知るすべはなく、結局素人くさい誤読・誤解のあげくに、創作(虚構)の目立つ「西域伝」を書き上げた例が幾つか見られ、史料としての評価は随分落ちるのです。

 以上の事情は、遼東郡太守公孫氏の自立による東夷関係史料の欠落にも共通していて、笵曄は、後漢末献帝期の東夷史料欠落/空白を、氏一流の創作で満たしていて、特に、「倭」に関する小伝は、俄然創作に耽っていると見えます。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 3/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15 補足 2021/11/26 2023/09/06
閑話休題

○ローマ金貨の行方
 オアシス諸国だって「巨利」では負けてなかったはずで、二倍、三倍と重ねていたとすると、消費地ローマでの「価格」は、原産地中国の「原価」の一千倍でも不思議はありません。(世界共通通貨はなかったから、確認のしようはないのですが)

 西の大国ローマは、富豪達の絹織物「爆買い」で、金貨の流出、枯渇を怖れたようですが、厖大なローマ金貨は、パルティア、ペルシャを筆頭に行程途中の諸国、諸勢力の金庫に消え、原産地中国に届いていません。

 行程諸国が、山賊、掠奪国家の暴威も、死の砂漠も、ものともせず、東西交易を続けたわけです。何しろ、原産地と消費地が交易の鎖で繋がっていたから、さながら川の流れのように、ローマの富が絶えることなく、東に広く流れ下ったのです。

 ローマ帝国は、後年、積年の復讐として、投石機などの強力な攻城兵器を擁した大軍で、メソボタミアに侵攻し、パルティア王城クテシフォンを破壊し国庫を掠奪して、度重なる敗戦の「憂さ晴らし」としたのです。
 勝ち誇るローマ軍は、意気揚々と、当時の全世界最大と思える財宝を担いで凱旋し、一方、権力の源泉である財宝を失ったパルティア王家は、東方から興隆したペルシャ勢力(ササン朝)に王都を追い出されて、東方の安息国に引き下がったのです。

 ローマは、地中海近くのナバテア王国を圧迫したときは、砂漠に浮かぶオアシス拠点、ペトラの「暴利」を我が物にするために「対抗する商都」を設けてペトラ経由の交通を遮断し、その財源を枯渇させましたが、イラン高原全土に諸公国を組織化していたパルティアの場合は、さすがに、代替国家を設けることはできず、また、いわば、黄金の卵を産み続ける鵞鳥は殺さず、太った鵞鳥を痛い目に遭わせるのにとどめたのです。

 ローマ帝国は、賢明にも、『古代帝国アケメネス朝ペルシャを粉砕して、東西交易の利を確保しようとしなかったアレキサンドロスの「快刀乱麻」』は踏襲しなかったのです。結局、アレキサンドロス三世は、ペルシャ全土に緻密に構築された「集金機構」を壊しただけで、ギリシャ/マケドニア本位に組み替える事もせず、大王の死によって武力の奔流が絶えた後は、ペルシャ後継国家が台頭しただけであり、要は、鵞鳥が代替わりしただけでした。

◯まとめ
 シルクロードは、巨大な「ビジネスモデル」です。

*補足
 以上の記事の主旨を理解いただいていない読者があるようなので、若干補足します。
 
 まず、NHK特集「シルクロード第2部」は、大昔の番組ですが、最近再放送があったので、目にする方が多いと見て、注釈を加えたのです。
 「再放送」は、デジタル時代にあわせて、リマスターされたものの、内容は初回放送当時そのままであり、それ以来の時間経過を含めて、批判しておくべきと考えたものです。
 また、この地帯の再度の取材による「新シルクロード」が制作されていますが、当然、ここで展開された歴史観は踏襲されていて、依然として、大変大きな影響力を示しているので、その意味でも批判が必要と見たのです。

 以上の批判が今後のNHKの番組制作に反映するかどうかは、当ブログ筆者、当方の知るところではないのですが、いわば「サカナ」にして当方の愚見を披瀝したものです。もちろん、読者諸兄姉の熟知していることでしたら、読み飛ばして頂ければ結構です。

*第2部の偏倚
 一番、不満なのは、第1部が、中国史料と中国現地取材が結びついた堅実な時代考証に基づいていたのに対して、第2部は、ロシア、中央アジア系と思われる西寄りの史料に傾倒していて、中国史料を棄てている点です。それが、特に顕著なのは、漢書、後漢書などに見られる「安息国」及びそれ以西の世界に関する考察が無い点であり、大変不満に思えるのです。

 つまり、漢代中国史料の西域記事は、当時の中原から想像した、西の果てにある世界でさらにその西を見たおとぎ話が多く、あちこちに茶番めいた失態がありますが、この場で、それらの突き合わせをする事で、「ローマと漢を結んだ」「シルクロード」交易なる歴史浪漫の幻像が是正されると見たのですが、未だに満たされていないのです。

 また、先立つ回で無造作に描写されているマーブ(Merv)要塞が、漢代、パルティア王国が、東の守りであり、二万の守備兵に、一時、一万のローマ兵捕虜が加わっていたという大変興味ある挿話に触れていないのは、大変、大変勿体ないのです。
 何しろ、中国涼州付近の大勢力であった大月氏騎馬兵団が、新興の匈奴に駆逐されて西への逃亡の挙げ句、貴霜国を乗っ取り、さらに、西方の安息国に侵入して、国王親征軍を大破して莫大な財宝を奪った爪痕が広く遺されていて、安息国は、西方諸侯の後援を得て再興されたものの、以後、二万の大軍を常備して、東の盗賊国家貴霜国の奇襲に備えていたのです。

 ローマ兵捕虜の由来は、不敗を誇っていた共和制ローマ軍が、三頭政治の一角であったクラッススを総帥とし、もう一人の三頭であるカエサルが援助した総勢四万人の必勝態勢で臨みながら、敵地での会戦で大敗して総帥を喪い、大軍の半ばを捕虜とされ、講和したもののローマ兵一万を戦時捕虜として貢献せざるを得なかったことは、ローマ史における屈辱の大事件であり、欧州史書に明記されているのですが、それについて何も触れていないのは、何とも、もったいないことだと思うのです。

 何しろ、東方千数百㌔㍍の彼方に一万の捕虜を護送するのは、安息国が、交渉可能な文明大国であったことを物語っていて、ローマ兵も、いずれ、ローマ本国の雪辱戦によって送還されるものと信じて、服従したものとしたものと思われます。ところが、その後、共和制ローマは、三頭政治の崩壊で、ポンペイウスとカエサルの対決、内戦状態となり、勝者カエサルは、パルティア遠征軍を組織している段階で、暗殺の刃に倒れ、と言った具合で、ローマとパルティアの交渉/交戦が成立しなかったため、ローマ兵は、帰還できないまま、マーブの地で一生を終えたと言うことです。
 なお、パルティア侵攻に踏み切れなかったローマは、地中海岸のシリアを属州化し、シリア総督の下に四万の兵を常駐し、パルティアを仮想敵としていたとのことですから、パルティアにとって、帝制に移行したローマは、巨大な仮想敵という事だったのでしょう。

 また、兵士を主体に百人を要したと思われる漢武帝使節団が到達した「安息」は、安息国の西の王都でも無ければ、地域の居城であるカスビ海岸の旧都でもなく、マーブ要塞だったという事も取り上げる価値があったと思うのです。突然切り捨てられた中国史料の視点が、大変残念なのです。

 確かに、当番組は、東西交易を隊商の駱駝の列が往来していたサラセン時代以降を主眼としているように見えますが、かたや、漢代シルクロード浪漫を言い立てているので、大変不満が募るのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」(陳寿「三国志」魏志 裴松之補追)、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」

                                以上

2023年9月 2日 (土)

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  1/14 再掲

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*総評
 本書は、まことに丁寧な論述ですが、その本質的な問題点は、「おわりに」として末尾に置かれた主張に現れています。
邪馬壹國について語る場合、魏志倭人伝の原文のなにが間違っているかを仮定することが議論の出発点になります。

 率直なところ、この主張は、「自分が正しくて倭人伝が間違っている」という、論証不十分な予断/思い込み/偏見の帰結であり、勉強不足の「独善」/傲慢との非難を免れないものです。
 この断定に至る考察は、当然、本書に綿々と書かれていますが、それにしても、早計による唐突な偏見の感は免れません。「出発点」を求めるとしたら、史料自身から始めるべきではないでしょうか。

 とても大事なことですが、ひとたび、自説に合う原文を仮定して、それにしても「計画的な史料改竄」が加えられて、現在の「倭人伝」が生成されたという暴言を肯定したとき、反論のすべはなく、さらなる改竄が無かったと断定もできず、果てしない迷路に落ち込んでしまいます。
 当方は、本書評で、そのような無意味な連鎖を否定するものです。


*各停批判
 以下、できるだけ丁寧に、各駅停車風に、長々と氏の断言の背景を確かめていくと氏の語彙の揺らぎや語彙錯誤に躓き続けます。そうした難点を一々指摘するについては、同様の「勉強不足」は認識してもらうしかないと見ました。
 いくら言葉を費やしても、言葉が裏切っていれば、言わない方がましで、それが無効なものであれば、かえって、信用をなくすわけです。

 従来は、出版社の編集部が文書校閲して、このような低次元の不具合が紙面に露呈することは無かったのですが、個人編集電子出版でない、一流出版社まで、本書と大差ない無校正に近い出版物を上梓しているので、そのために、渡邊氏が、商用出版物の品格を誤解したので無ければ幸いです。要は、金を取るには、取るに恥じない自律的な規制が必要なのです。

*「道程論」宣言
これは〝道程論〟―――すなわち倭人伝に記述されている道順を実際に辿っていくという手法です。
ところがこの方法は間違いなく幾百人幾千人の人に試されていて、それでもなお結果を出せていないやり方です。それゆえに道程論で邪馬台国の位置を決めるのは不可能だとさえ言われています。(中略)しかし本書は、実はそれが不可能などではなく〝適切な仮定〟さえ立ててやれば倭人伝の道程は無理なく辿ることができて、日本のとある地点に自然に行きつくことを示したものです。

 「間違いなく」と断定しても、早計を当然としていては前提になりません。どうやって先人の数を数え、その諸論を極め、何と比較して間違っていると断定したのか。誠に、虚妄の痴夢と言えます。「無理なく」「自然に行きつく」とは、過去の失敗例里上塗りに過ぎないと受け止められてしまうので。勿体ないことです。
 (望む)「結果」は、現代風誤用で、他説を打倒する「効果」とでも言うべきです。三世紀「道順を実際に辿」るのも、どえれえ(途方もない)ほら話です。他説提唱者は、見果てぬ夢の「実証」でなく、理性に訴える「論証」の里程論に自信を持っているのです。自分の狭い了見で、広い世間を測ってはならいのです。

 古代史論は、「正しければ、真理が自然に世界制覇する」のでなく、要するに、読者に聞く耳が無ければ、それこそ、キリスト教の寓話で、聖人が、鳥や魚に説教するようなものです。それを徒労と感じない者だけが、説き続けることができるのです。

 それこそ、どこの誰かは知らないが、よほどえらい「さる方」のご託宣の丸写しなのでしょうが、「さる方も」、よくぞ、幾百幾千の諸説を余さず検証したものです。一覧表を掲示していただいたら、随分勉強になるのですが、このままでは、単なるホラ話であり、単に、一覧表の末尾に連なるものにすぎません。「証拠を見ない限り信じがたい」と言ったら失敬でしょうか。「無理が通れば道理が引っこむ」の実証に努めているのでしょうか。自虐、自爆は、珍しくもないので、いい加減にしてもらいたいものです。 

                              未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  2/14 再掲

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*敗れざる人たち
 他説の信奉者にも、拘りや保身があり、自説が「負けた」と頑として「納得」しないから、「結果」は見えないのです。氏自身、山程ある先行文献を論破しつくしたわけで無く、誰かの独善に悪乗りしていると思うのです。
 いずれにしても、いくら氏が力説しても孤説は孤説で、「結果」は「絶対」出ないのです。氏の言う「不可能」とは、そのような不可能性なのです。
 以下、氏の「自然」も現代語で、「自然」な「結果」は、本来の自然法則が自然に導き出すものではなく、客観性のない主観的なもので、「自然」に他を制圧できないのです。独特の、手前味噌の「自分科学」にとらわれ誤認しているようです。

*現代語彙の弊害
 用語にこだわるのは、氏の「語彙」が古代人の時代語彙でないだけでなく、古代史「語彙」からも外れて見えるからです。当たり前の話ですが、主張の趣旨が、語彙の食い違いで読者に伝わらなければ、著作の意味が無いのです。
 そもそも、文献語彙の確保なしに、正しいも間違いも言えないのです。

 いや、これは、氏だけの弱点ではなく、近来の新書等で見かける多くの古代史論で見かけるものなので、あえて、言い立てるものです。

*計量史的批判
 当時の中国の〝一里〟の長さは〝三〇〇歩〟と決められていました。一歩の長さは約一•四mなので、一里の長さは約四二〇mということになります。
 ただこれがそこまで厳密だったかどうかは分かりません。単位名が〝歩〟とあるように当時の距離計測の手段が歩測だったことは明らかです。実際、一•四mというのは普通の成人男性の複歩(歩測の際に二歩を一歩と数える方法)の一歩ととほぼ一致します。

 取り敢えず、倭人伝論で中々見られない概数観と見えます。

*癒やせない「歩」幅幻想
 ただし、根拠不明の断定(思い込み)は、まことに不届きです。独断ではないでしょうが、根拠不明の「複歩」で測量したとは、まことに華麗な提言で、恐れ入ります。例えば、陳寿が、そのような「複歩」観を持っていたとの証明はできるのでしょうか。証明できない「作業仮説」は、個人的な思い込みにとどめるべきです。

 既に論じ尽くされているように「一歩六尺、一里三百歩」の原則は、古代の周制を秦が継承して全国に施行し、四世紀に亘る漢を歴て、最前の魏まで引き継がれ、いわば、不変不朽の制度です。何しろ、全国全戸の農耕地が、「歩」に基礎を置いているので変えようがないのです。
 目前の懸案は、倭人伝が、そのような里制に従っているかどうかであり、この一点で、倭人伝里制観が大きく分かれているのです。

 しかし歩幅というのは個人差があります。(中略)一歩が一•四~一•六mとすれば一里は四二〇~四八〇mですが、ここでは計算を楽にするためにもうすこし大雑把に一里は四〇〇~五〇〇mとしておきます。

 いくら「古代史」分野で幅をきかしていても、「歩」(ぶ)を歩幅とみるのは不適切(大いなる勘違い)です。
 里の下位単位「歩」は、歩幅や足の大きさに基づくものではないのです。農地面積測量の際に常用された「基本単位」であり、時に、「面積単位」にもなっていたのです。勘違いを防ぐためにも「歩」(ぶ)と呼ぶのが順当でしょう。

 また、「歩」を当時の距離計測単位と普遍的に言い切るのは間違いで、百里単位、ないしは、その上の桁の遠距離は、現代人が考える測量とは別の発想になっていたはずです。このあたり、大小、長短によって様子が変わるので、一概に決め付けるのは、無理です。

 一方、日常の尺度は、国家「度量衡」で常用されている「尺」が基準であり、発掘例のように標準尺原器を配布して、広く徹底していました。何しろ、日常の商取引で参照するので、出番が多く、悪用もされやすいので、絶えず、更新が必要だったのです。

 実用的に見ても、度量衡に属する「尺」と度量衡に属さない「歩」は、単位として別世界に属するものであり、「里」は、さらに別世界です。「里」「歩」は、度量衡には属さないのです。ただし、例えば、里の標準器は作りようがないので、以下に述べる手間をかけるのでなければ、精密に確定できなかったのです。

 つまり、里の測量というものの、実は、「歩」が基盤であって、里は、一里三百歩という「歩」との関係をもとに、各地で、里に渡る測量を行う際には、「里」原器にかわる「里縄」など測定基準を作成したでしょうか。
 その際のばらつきと測定のばらつきが相まって、おおきくばらつくのですが、「里」は、一里単位の精密な測量はされず、十里、百里、千里という、上位単位の「推定」に供されたものと見えるので、一里三百歩、千八百尺、ただし、里の長さは大まかで良い、と言う実際的な運用をしていたはずです。つまり、歩や里は、個体差と無関係ですが、実務で、道のりを歩測したとしたら、それは別儀です。

*人海戦術の測量案
 ついでながら、約25㌢㍍の「尺」原器を基に、いきなり千八百倍して約450㍍の「里」を得るのは、論外と言うか実行不可能であり、一旦六尺約1.5㍍を「歩」の基準としてから、例えば、「歩」十倍を二回繰り返して百倍に達した後、さらに三倍して三百倍になったら、ようやく、約450㍍の「里」を得るのです。「里」は尺度でない、度量衡の一部ではないと言われる由縁です。

 最初は、積木細工としても、大変な重労働と頭の体操の果てに「一里」を得て、例えば、その長さを縄に写して四百五十㍍の「一里縄」とし、「一里縄」十本で「十里」四千五百㍍、4.5㌔㍍、百本で「百里」四万五千㍍、45㌔㍍と言った感じで、なんとか、高度な計算のいらない、助手/吏人以下の人材の人海戦術でもできる手順で、黙々と準備をするのが精々で、例えば、一千里の標準器は、作りようがなければ、準備のしようがないと見るべきです。
 と言うのは、高度な計算の可能な官人は、ごくごく限られているので、そのような賢い官人が、簡単な指示を出し、多数の吏人を各地に派遣して、それぞれが測量したのを集計するとしたら、なんとか、百里を越える区間の測量ができるでしょうが、県単位ならともかく、郡単位となると、終わるのは、いつになるやらという感じです。
 つまり、そこまで、正確な測量にこだわるのでなければ、百里を越える区間の測量はせず、歩測なりで手早く測量して、各地区間の百里単位の里数を出し、郡県単位で集計したものと思うのです。

 世上、三世紀当時存在していなかったと思われる、幾何学的な測量を想定している方もあるでしょうが、高度な測量は、図上の空論であり、実在しなかったと見るものです。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  3/14 再掲

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*陸行談義
そうすると一日何時間ぐらい歩けるかが問題になりますが、例えば江戸時代には東海道を江戸から京まで約二週間で歩いていました。ここから当時の人は一日に三五~四〇㎞は歩いていて、時間に換算すれば一日約一〇時間になります。

 まず、古代中国で、公式の旅は、乗馬が前提です。特に、官人は、自らの脚を労する前提ではありません。
 「一日何時間ぐらい歩けるかが問題」と複雑高度な課題を投げ与えますが、一日行程は、古代に解決済みです。唐代規則は一日(最低)五十里(20㌔㍍)と規定しています。現代的な考察は無用です。因みに、これは、おそらく、秦時代以来の自明事項であり、唐代に始めて明記されたと考えられます。

 江戸時代、「週」はなく、江戸(日本橋)から京(三条大橋)の道中、名古屋から桑名は渡船なので、半月間歩き通すことは不可能です。
 二「週間」という7日単位の概念は、周代前半にあっただけで、後は、「旬」(10日)単位だったので、古代史に関しては、禁句としたいものです。
 氏の江戸時代談義(途轍もない時代錯誤です)につきあうと、当時十時間などという「時間」は概念も無ければ、時刻の概念も無かったのです。
 何しろ、当時の「時」は、日の出日の入りが基準なので、「一日」の長さ、つまり、明けの七つから暮れの七つまでの「日」(ひ)のある時間帯は、季節次第で変動するのです。今でも、冬は「日が短い」と言うことがあるでしょう。
 一日の旅は、「お江戸日本橋」の歌にあるように、夜明け前の暗がりで提灯点けて、日本橋を七つ立ち、しばらく歩いて、高輪あたりで夜明けたところで提灯を消すという感覚が普通でした。未知の土地の夜道は避けるので、明るいうちに宿場に足を止めるのでしょう。
 古代中原であれば、「町」/「国」は、隔壁で囲まれていて、日暮れが近くなるまえに定刻で、門番が閉門、施錠するので、遅参したら、否応なしに野宿です。隔壁は、野獣、野盗への防御なので、野宿したら、身の安全など保証されるはずはありません。

 ということで、江戸時代なら五十三次の宿場は閉門しないにしても、早立ちして、一日歩き続けて、暗くなったらその場で立ち止まって夜を過ごすというような無謀な旅は、想定外です。と言うことで、古代中原では、所定の宿駅で足を止めるのが一日行程なので、公的な行程では、勝手に行程を決めるわけにはいかないのです。逆に、連日歩行しても維持できる速度が規則になっていて、大半の旅人は、規則に縛られる公用の旅なのです。規則ずくめに良いところはあって、公用なら、宿賃も、替え馬も、公費であり、途中の関所で関守に謝礼をむしられることもなかったのです。
 江戸時代の制度は、旧暦(太陰太陽暦)と相俟って、現代より、むしろ、中国古代に近いのかも知れません。

 と言うことで、安易に現代感覚を持ち込んで、多少事情が知れていると思い込んでいて、実は、随分誤解している江戸時代を介して、古代人に強制するのは無法です。

*渡河談義
大きな川では(中略)渡った後には確実に濡れた体を乾かさなければならなかったことでしょう。特に大きな川ならば渡し船があったかもしれません。(中略)道標があったかどうかも分かりません。(中略)泊めてもらえる集落がなけれなければ野宿することになります。(中略)持参の食糧が尽きてしまったら、食べ物の確保まで自前で行う必要が出てくるかもしれません。

 これまで見かけない、まことに丁寧な考証で、とんでもないホラ話の連鎖ですが、至る所、ずいぶん的外れです。以下、名だたる官道、公道の整備された「普通」の状態を想定しています。

 「大きな川」とは、長江、黄河のような川を言うのでしょうか。知る限り、こうした、現代日本人の感覚で言うと「途方もない大河」を、士人、つまり、お供をつれたご主人様が、「泳いで(?)」渡るなど聞いたことがありません。大勢の旅人が往き来するから、橋の架かっていない街道の渡しには、必ず、渡し舟があったのです。
 そもそも、大半の中国中原の人士は、泳げなかったはずです。また、士人は荷物を担がず、また、裾の長い衣裳が正装だったので、脚もとを絡げて、脛を濡らすことさえもっての外だったのです。

 また、一日の行程で、十分余裕が撮れる程度の間隔で、必ず宿舎はあったのです。朝は、早立ちでも、午後には、次の宿場に着く設定だったのです。何しろ、官命の旅ですから、文箱、状箱やら貴重な品物を持っていて、必ず、宿で食事を買ったのです。
 そのような計画した旅で「野宿」とは、まさか、農地に入って泥棒する前提だったのでしょうか。随分、無茶苦茶な話しですが、当時、あちこちに「国」、いや、その時代に応じた区画である「縣」や「郷」があって、互いに往き来していたことをどう思っているのでしょうか。

 丁寧に言うと、「倭人伝」で「国」が、「国邑」として散在していて、「国」と「国」の間に里数が書かれているのは、南北の市糴(交易)や文書通信使の往来に常用された「公道」里数であり、宿舎、渡し舟、小橋、船橋が整備されて、毎次宿駅があったのであり、野宿自炊前提の公道はあり得ないのです。

 三世紀中頃の倭人世界の「公道」は、世紀初頭以前から維持されていたはずです。相互に往来できない相手に対して、食糧武器手持ちで峠越えの強行は論外だったのです。

*「渡河」~川を渡る
 中国古典を参照するまでも無く、渡河は、水深として「くるぶし」から「すね」、つまり、裾をからげるまでが限度で、水が腰まで来ると、衣類が濡れ、水の抵抗と足元の悪さで大変な難業、と言うか、命がけでした。今でも、着衣水泳は、危険なのです。
 いや、当時の士人は、衣裳を纏っていて、言わば、袴を履いていることが必須だったので、衆目のあるところで、裾をからげるのすら、面目を失するのです。
 因みに、衣裳の下の「裳」を脱ぐのは、中原では「裸」とされていて、もっての外の重罪でした。つまり、倭人伝に言う「夏后少康の子が会稽に封じられた」という故事で、「水人」と称して水中に入るのは「裸」国に入るという事であり、被髪文身以前に、華夏文化から排斥される行動だったのです。
 陳寿が、倭人の風俗を紹介する前に、夏后の子の故事を詳解したのは、倭の水人の裸体は、野蛮として排斥できないというものです。

 皆泳の現代と違い、漁民など以外は、泳げなかったから、途中で深みにはまったり、転んだりすれば命取りでした。いや、公務のお役人が、そんな無謀なことをすることはないのです。文箱で公文書を携帯していたら、水しぶきを浴びることすら、御法度だったはずです。想定が、ずれていますから、何の参考にもならないのです。

 因みに、古代、淡水を泳いで渡る強者もいたようですが、倭人伝のように、「沈没」と書いていたとして、水面を泳いでも「潜水」と見えたのかも知れません。別に、水中に潜ってとか言う事ではなく、頭だけ見えて身体は水中ということを言うのでしょう。倭人伝の情景が、海辺であれば、別儀ですが。

 渡し舟は、現代に至っても、街道の渡河手段としてほぼ必須ですが、水量豊かで、岩瀬でないものです。そして、大河、特に、河水は、両岸が氾濫で荒れて浅瀬になっていたので、特に造成した船着き場がないと漕ぎ寄せられないのです。

*道談義
 「倭人伝」の悪路記事は、物資輸送に車が常用されてないので、道幅が狭く、凹凸だらけで、轍も見えなかったのでしょう。近年まで、輸送形態として広範に維持されていたような、小分けの荷を背負っての往来であれば、轍はできないのです。それが、「倭人伝」に即したものの見方です。
 「禽鹿径」と書いているのは、「道」とも「路」とも書いていないので、なだらかなつづら折れでなく、近道の抜け「径」だったのかも知れません。誰かが、「けものみち」と訳語を付けていますが、正しい解釈ではないと見えます。

 いや、ここまでの議論は、現代人が未開地を歩いて、どれだけ行けるかなどの的外れの憶測が充満し、未開地とは言え国家として公道整備し、里程、日程を規定したとの視点が、全くと言って良いくらい欠けているのが、まことに不用意です。
 二千年後世の東夷の蛮人ですから、簡単に理解できないのは当然であり、理解できないのを自慢するように、物知らず、不勉強な見方を曝しているのは、物知らずを自慢しているのでしょうか。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  4/14 再掲

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私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*水行談義再論
続いて水行一日の距離ですが、これはさらに難しい問題です。水行といっても大型船で玄界灘を越えている場合と、瀬戸内海や有明海のような波静かな水面を小舟で行く場合では話が違ってきます。

 先ほどまでの「水行」とは別仕立てであり、「水行」を一律に扱わず、玄界灘の三度渡海と内水面を分けている点は明察です。

 もっとも、「倭人伝」には、内海も内陸河川も見えないのです。また、中国史書に海を行く水行はないのです。いや、そもそも、官道を水行することは一切無いのです。海に路を敷くことなどできないのに、言葉面だけで「海路」と書き殴る、無謀な著者がいるのですが、知らないことを断言する蛮勇は、真似しない方がいいのです。このあたりは、国内史学界の周辺に蔓延したデタラメ解釈であり、是正するのに百年でも足りないのです。

 当方未見の有明海は別として、「瀬戸内海」を一律に波静かな水面としているのは感心しません。今日の船舶でも、芸予諸島、備讃瀬戸の多島海の狭隘部分や関門海峡、 明石海峡、鳴門海峡の難所は、往来自在どころか、厳重に航路確認、潮流確認しないと、無事では済まないのです。知らないことを断言するとは、蛮勇です。

 なお、「倭人伝」には、ここに指摘した関門海峡から芸予諸島、備讃瀬戸、鳴門/明石海峡の名うての難所は、一切書いていない
のです。書かれているのは、「渡海」、つまり、向こう岸までの渡り舟なのです。中原人は、海を見たことがないので、難所のことは書いても理解できないのです。概観するに、九州島から東に渡る「水行」は、大分から四国西端の三崎半島に渡る「渡し舟」くらいしか見当たらないのです。
 なお、倭人伝には、西方のことは書かれていないので、有明海は「圏外」とすべきです。

 なお、無造作な「大型船」は、まさか「豪華客船」ではないでしょうが、船の大小、いや、ものの大小は、時代と環境で異なり、書き捨ては不明瞭、不用意の感を免れません。それとも、だれかの受け売りなのでしょうか。良い子は悪い子の真似をしないものです。

*船談義
 以下、船の造作などについて、考察されていますが、船殻構造、動力源(漕ぎ手)などを、十分踏まえて議論しないと意味のある見通しに至らないと考えます。以下のように、素人の憶測で埋めた書籍を売りつけるとは、大した根性と言えます。

だとすれば重くて効率の悪かった当時の船でもこのくらいの速度なら十分に出せたとも考えられるわけです。

 [重い]、[効率が悪い]、[このくらい]などは、単位も何もわからず、意味不明瞭、根拠不明で、読者に何も伝わらないのです。具体的に描けないのは、知識が無いからでしょうが、何も知らずに、いい加減な言い回しで大口を叩くのは、素人さんにしても困ったものです。

 何より、現在、当時の玄界灘の「渡海」で常用されていた、多数の漕ぎ手、水夫を必要とした漕ぎ船の構造は不明であり、なんとも比較のしようがないのです。少なくとも、日常の用に南北を往来していた便船だったから、必要な速度は出せたはずです。何しろ、海上で一晩過ごすなどと言うことは命に関わる/ほぼ確実に死ぬので、それこそ、朝早く出て、午後明るいうちに着いていたはずです。

*道里論追求
現実とあわない邪馬壹國への道程
 さて、以上より邪馬壹國への道程は次の表2のようになります。

 この断定には、まずは重大な異議があります。
 「次の表2」で帯方郡から狗邪韓国は「水行」七千里、三千㌔㍍としていますが、現在推定すると五百㌔㍍程度です。どうまわりみちしても、この間には入らない途方もない道里です。
 氏は、このあたりの仮説は、簡単な検算すらせずに見過ごして、以降の考察に入っています。この暢気さは、誠に不思議です。
 もちろん、このような「道程」は、間違いなく誤解がらみで、ダメ出しは、御免被りたいものです。

*不可解な半島沿岸行
 氏は、この間を全面水行とみていますが、この行程は大河を行く河川行程では無いので、「水行」は古典書以来の用語になく、「無法」です。皇帝に上程する公式史書稿に「無法」な用語を呈していては、一発却下です。つまり、当時の常識で読むと、そんなことは書かれていないのです。

 氏は、そのように「無法」な行程について、考察していません。なぜ、不安極まりない、海を選ぶのか。なぜ、安全か輸送経路として確立されている陸上経路を辿らないのか。何も、不審を感じなかったのでしょうか。
 またもや、何も知らないままに、無批判で追従しているのでしょうか。

 当方の考えでは、難所連発、難船必至の長丁場の半島沿岸を郡の官道としたとは思えないのです。氏が、三千㌔㍍「水行」と見たなら、なぜ、その五分の一程度の官道を陸行しなかったと判断したか不審です。
 こうして見ると、
本論文で、ほぼ一貫して勘違いが多発しているにしても、一応丁寧な論考が、道里行程を追いかけ始めた途端、帯方郡を出た早々に、ドンと脱調しているのは何とも不可解です。

*「倭人伝」観の確認
 ここでひと息つくと、ここまでに、氏は、ご自身が「倭人伝」の記事を、適確に解釈できないのは書き方が間違っているからと高等な予断を示しましたが、本末転倒、手順齟齬です。

 二千年後世の東夷の物知らずの読者の読み方が、とことん間違っているのです。背景となる事実を全く知らず、妥当な推定もできないから、読めないと言うだけです。それに気づかないというのは、まことに勿体ないと思わせるのです。

 倭人伝」は、当時の支配者層、つまり、皇帝に始まる高位高官の教養人を読者とし、その知識、教養に合わせて、と言っても、なめて書いていると思われないように、適度の「課題」を書いています。読者に却下されれば、編纂者の地位を失うので、最善の努力で、正確、明快に書いたはずです。また、解けない課題を押しつけると嫌われるので、適度の「謎」をこめていたはずです。
 そして、晋帝は、そのような著作物を審査した上で、後に正史とされる高度な著作物と高く評価したのです。

 現代の「だれかれ」が、自己流で読解できないから、原文の間違いに決まっていると決めつけるのは、その無知で無教養な「だれかれ」が、傲慢なのです。まずは、原典の正しい解法を探すべきであると思量します。

 当書評全体で見ても、著者は現代の日本人であり、「倭人伝」の言語や世界観を読解できてないようです。
 『古代中国語の言葉と文法を解しないものは、「倭人伝」論議の場から去れ』とする、かの張明澄氏の「暴言」が、実は、誠実な直言であり、耳に痛くても、的を射ているのです。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  5/14 再掲

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*一律増倍論
 ここで、氏は、「倭人伝」の里数、戸数が、一律増倍されたとの説に忽然と覚醒し、先の郡から狗邪までの「郡狗官道」は七百里とし、以下、一貫して里数は十分の一、戸数は百分の一として残る考察を進めます。言い換えると、倭人伝里は四十五㍍小里という新説です。戸数は、それ自体根拠不明なので、明快ではありません。
 要は、本書の論議は、誇張論の一変種で、「自分流に読替えれば自分に明快」との議論が、また一つ増えたのです。また一つの「百面相」で、特に説得力は無いのです。

*十倍、百倍の美点
 氏の提言した里数十倍、戸数百倍の増倍は、当時の算数では、極めて簡便です。
 当時、最上位一桁を算木操作したので、百里単位を千里単位にしても計算は同じです。紙上では、百を千に、千を万に訂正するだけで、修行中の子供さんでもできるのです。
 これに対して、世上見られる短里説の六倍説などは、高度なかけ算が必要な上に数字並びが変わり、末端の担当者には、一切計算処理ができないので事実上換算書き替え不能です。

*また一つの改竄説
 氏の説は、またひとつの「倭人伝改竄」説ですが、陳寿編纂時に原文を増倍したとの説で、原本すり替えの難業は含まれないものです。
 但し、当改竄は歴史の正確な記録を信条とし、時に、命をかけて守り通す誇り高き史官陳寿が、安直な改竄をしたという弾劾です。当方は、推定無罪を信奉していて、一部権威者が公言している「史官は全て嘘つき」との暴論には断じて同意しないのです。また、魏志は、陳寿が一人で編纂したものではないので、周囲が止めなかったはずもなく、正史改竄の罪は、当人の死罪だけでは済まないと思われます。つまり、共犯を免れるには、密告するしかないのです。また、陳寿の原稿を読むことのできた同時代読書人が、そのような粗雑な改竄に気づかないというのも、無謀な思い込みです。「正史」は、公文書の集成であり、典拠を求められれば、原資料を示さなければならないのです。二千年後世の東夷を騙すことはできても、同時代の読書人を騙すのは、ほとんど不可能なのです。

 それにしても、天下の史官陳寿が、「三国志」の中でも、魏志巻末の端っこにぶら下がっていて、大抵の読者は読み飛ばすに決まっている「倭人伝」を、手間暇かけて改竄し、命がけで本来の「倭人伝」と差し替えるなど、子供の夢物語にもない法螺話です。

 ともあれ、氏が遵守する読解で、直線行程の果ての「邪馬壹国」は、熊本県内に比定され、そこに到る道程は大変丁寧に確認されています。先に結論を出して、それに合わせた仮想倭人伝道里を創作しているので、誂えもののガラスの靴は、足にピッタリ合うのです。

 当方は、現地事情に通じていないので、この部分は、ノーコメントです。

*地図データの適正使用
 忘れないうちに付記すると、氏は、掲載された地図類を書き上げるのに、国土地理院のデータベースと明記し、古代史論であまり見かけない、まことに適正な態度と感心します。と言うのは、例えば、毎日新聞の夕刊歴史関係コラムで、出典不明の地図に勝手な加工を施したものが複数回見られて、不正使用だと非難したことがあったからです。この悪習は、同コラム筆者の独創ではなく、新書版安直本にも、しばしば見られます。

 但し、一般論として、国土地理院が公開しているのは、現代でのみ正確さを保証されている地図データであり、古代に於いて、同様に正確だという保証は一切していないのです。国土地理院 は、適正な使用条件管理を要求していて、これを勝手に別の条件で利用した上で、国土地理院が 古代に適用できると保証したような印象を与えたとすると、それは不正使用になります。ここでは、国土地理院の承認を得たデータ転用なのか、明記されていないのは、不穏当です。

*魏の遠交近攻策
 ここで、氏は、正史改竄を正当化するため、当時の「世間話」を持ち出しますが、いい加減な聞きかじりで、信用を落としています。

(中略)この時代のことは三国志演義という現在でも人気がある物語でよく知られているところでしょう。劉備、関羽、張飛、それに諸葛孔明という名は興味のない人でも聞いたことくらいはあるはずです。その彼らの最大の宿敵が、魏の曹操でした。

 このような不正確なだぼらは減点要素です。そもそも、「三国志演義」は、元明代に、町場の講釈師が書き崩したホラ話なので、ここに持ち出すのは、不適当です。そこに、著者の勝手な曲解が反映されていては、何が何やらわからないのです。
 丁寧に言い直すと、次のようになります。
 曹操は、後漢最後の献帝の建安年間に後漢国政を支配したものの、終生後漢の宰相、精々「魏公」、「魏王」であり、魏は、武帝と諡された曹操の死後に誕生したのですから、「魏の曹操」は無法な指名です。
 また、「最大の宿敵」は意味不明です。蜀漢皇帝となった劉備の仇敵は、既に世を去っていた曹操でなく、義弟関羽を殺した孫権でした。だから、帝位に就くやいなや、東に大軍を進めたのです。そのとき、関羽だけでなく、張飛も世を去っていたのです。但し、在世中の関羽にとって、曹操は、敗残で孤立していた身を高く評価して、陣営の客将に迎えてくれた恩人であり、決して宿敵とはならなかったのです。そして、関羽を殺したのは、孫権の命によるものでした。だから、孫権こそが、劉備の仇敵の資格十分なのです。
 また、諸葛亮にとって、曹操は後漢朝廷から皇叔劉備を放逐した大罪人であり、同格の存在を意味する「敵」などではなかったのです。

 どこで拾ってきた「常套句」か知りませんが、無批判な追従は、路傍の「落とし物」を見境無く食いかじるようなもので、大抵は、つまり、90㌫以上、「落とし物」は、馬や鹿の落としたものばかりです。

                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  6/14 再掲

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私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*魏の遠交近攻策 (承前)
 引き続き、散漫な演義談義で、引用できずカット不可避ですが、総じて不確かな印象に過ぎず、正史改竄を正当化する根拠は見られないのです。
卑弥呼が最初の朝貢を行ったのが景初二年(西暦二三八年)です。(中略)当時の魏王(ママ)は孫の曹叡でしたが、その後見人が司馬懿(字は仲達)でした。(中略)あの名軍師、諸葛孔明の好敵手として描かれている人です。(中略)最終的にはこの司馬懿が魏の全権を掌握して、(中略)さてその景初二年(西暦二三八年)ですが、四年前の五丈原の戦いでは蜀の諸葛孔明が病没し、遼東半島(ママ)での公孫氏の叛乱も鎮圧して、魏にとって目下最大の敵は長江流域の大国、呉という時期でした。魏も呉も国力に大差はなく、また地形的要因もあって北方の魏は侵攻しづらいところです。(中略)すなわち単なる力押しではなかなか相手を倒すことができず、お互いに睨み合っているという状況になっていたのです。さてそのとき、もしその呉の東海上に〝倭〟なる大国があって、そこが魏と結んだとなればどうでしょうか。


 魏は、公孫氏のように、地続きの境地に大軍を擁した勢力を完全に撲滅していたから、海の向こうの幻を怖れる必要など無いのです。恐らく、どこかの森の魔女からお告げがあったのでしょうか。魏という国は、そのような迷信や妄想は、一切相手にしなかったのです。

 中略部で、司馬氏台頭の原因として「曹操の子孫たちは互いの権力闘争に明け暮れた」と無造作に総括しますが、曹操、曹丕二代の後継は、水面下の暗闘で闘争は記録されず、二代皇帝曹叡急死による三代曹芳擁立にも、後継闘争は無かったのです。一度、まじめに読みなおしていただきたい。
 ひょっとすると、氏は、後年、西晋を破壊した司馬氏一族の重大な内紛と取り違えたのでしょうか。勉強不足は信用を無くすだけです。

 むしろ、少帝曹芳の後見争いで、いったん後見人に任じられた司馬懿が閑職に落とされた後、クーデター、奪権闘争、つまり、曹叡の遺託に反する悪辣な陰謀を巡らして、少帝周辺の曹氏や譜代衆を一掃し、後に曹芳を退位させるなど独裁したのです。更に後には、司馬氏が皇帝を粛正した事例まであります。司馬氏も、曹操の教えを継いで力で敵を制する取り組みだったのです。
 そして、陳寿は司馬氏を顕彰などしていないのです。何か迷信や妄想の類いなのでしょう。

 以上、氏は、事態を把握できていないようです。倭人伝を正しく理解するためには三国志全巻を読めという、三国志権威の至言の深意を味わうべきです。

*「明帝の景初三年」はなかった
 景初二年貢献時の魏王ならぬ魏皇帝は曹叡、そして、景初三年元日に明帝が逝去し継嗣が直ちに即位したものの、元号は継続したので、「某帝の景初三年」ということはできないのです。また、新帝曹芳は、司馬氏に退位させられたので「*帝」と言う諱はありません。

 ついでに史実を押さえると、文帝逝去時、司馬懿は、曹叡の補佐役の一人として重用されたものの、明帝曹叡は成人に達していたので、後見人などではなかったのです。後見人が必要だったのは明帝後継の少帝曹芳です。何か、勘違いしたか、うろ覚えで書いたものが、そのまま世に出たようです。
 著者が、史料をちゃんと読んでいないこと、誤記しても、誰も訂正してくれないこと、など、不手際が重なって、信用をなくしています。

 因みに、畿内説論者は、景初二年六月では遣使の派遣が到底間に合わないので、頑として、景初三年の誤記に決まっていると、「倭人伝」誤記を主張するのです。いわば、景初二年か三年かの二択ではなく、景初三年が譲れない一択なので、「倭人伝」に信用が集まっては困る纏向派がヤジを言い立て、付与雷同、つまり、とにかく騒動好きな野次馬まで巻き込まれて、『「倭人伝」には、誤記がざらにある』という年代物で、ヒビの入った骨董品、ホラ話を書き立てているのです。この辺り、畿内説、特に、「纏向説」論者は、ちゃんと史料が読めていない/読もうとしないとみられる由縁です。

*呉の国力評価詳細
 江南状勢というと、孫権率いる呉は、長江流域を支配していたわけではなく、江東と呼ばれる中下流域にとどまっていて、上流は蜀漢の支配下にありました。また、魏が江南侵攻を控えたのは、蜀漢の関中領域への北伐侵入が続いていて、侵入志向が控え目の江東は後回しにしていたのです。また、呉の国力評価は難物ですが、動員可能兵力の面で見て、中原を支配した魏に遠く及ばなかったものの、中原の農業資源が荒廃していたため、魏としては、総動員を要する全面戦争は不可能だったのです。
 そして、漠然と地形と言うより、要するに、北からの攻勢は、長江で進軍を遮られ、強引に渡河しても、長江槽運が支配できない限り、大軍の兵站を維持できないから、長期戦が維持できない、つまり、魏としては、強引な南下渡河は、大敗必至と見ていたようです。

 総括すると、魏は、天下の「中原」を後漢朝から継承支配して国家組織、つまり、徴兵、徴税組織を構築していたのです。南の東呉は、後漢の臣下であった辺境守護なので、支配力も、人口配置も大違いです。歴史地図で、呉の領域が、遥か南に延びているのを見て、大国と誤解したもののようですが、単なる誤解です。
 
ただし、呉は長江を長城として、時に心服を見せて誅滅を避けた上で、弱者の立場を自覚していて、小競り合いしか仕掛けなかったのです。
 結局、魏の国力は、呉を大きく上回っていても、魏から総力戦の攻防を展開すれば、最終的に敵に勝っても、その過程で、自身も重大な損害を避けられないので、特に切迫した状態にないことから、いずれ、孫権が去り、呉の体制が衰退、崩壊するのを想定して、静観していたのです。曹操は、まずまずの後継者曹丕を、宿老が支える体制を整備していたので、東呉の方は、後継者に難があると見て孫権が去るのを期待していたようです。

*呉の亶州調査 
 同様に遠交近攻策は魏の専売特許ではありませんでした。魏と敵対している呉にとっても当然の戦略です。西暦二三〇年、呉の孫権が衛温、諸葛直という将軍を派遣して、夷州と亶州という場所を調査させたのですが、彼らは夷州から数千人の住民を連れ帰っただけだったので、処罰されて翌年に獄死するという話があります。辺境の探検がうまくいかなかったから投獄というのも少々極端な話です。いったい呉の孫権は何を考えていたのでしょうか?

 まず、「専売特許」は死語です。現代では、知財権の中でも、「特許権」ならぬ「著作権」となりそうですが、国策に著作権は無く「パクリ」放題です。呉は、魏を飛び越えて遼東公孫氏と結ぼうとしましたが、別に、挟撃して魏を攻め滅ぼそうというわけではなかったのです。
 そうそう、「遠交近攻」は、戦国時の雄、秦の創唱した天下統一の戦略です。先行例があっては「専売特許」になどならないのです。

                未完

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*呉の亶州調査 (承前・再掲)
同様に遠交近攻策は魏の専売特許ではありませんでした。魏と敵対している呉にとっても当然の戦略です。西暦二三〇年、呉の孫権が衛温、諸葛直という将軍を派遣して、夷州と亶州という場所を調査させたのですが、彼らは夷州から数千人の住民を連れ帰っただけだったので、処罰されて翌年に獄死するという話があります。辺境の探検がうまくいかなかったから投獄というのも少々極端な話です。いったい呉の孫権は何を考えていたのでしょうか?

 肝心なのは、遠交近攻は、戦国時代末期の秦という強国の全国制覇戦略ですから、優勢の魏の取る政策としても、相手は、不倶戴天の敵と見なしている蜀漢しかないのです。また、鼎立状態で、劣勢の呉のとれる戦略でもないということです。

 呉にとって、連合に値するのは蜀漢に過ぎないのです。世上、公孫氏を第四の存在と持ち上げる例がありますが見当違いの極みです。皇帝なら、袁紹が既に僭称しています。

 なお、派遣隊の両指揮官が、きつく処罰されたのは当然の帰結です。
 国力増強のための蛮人拐帯が目的で、皇帝の大命を受けて巨大な新造海船を連ねたのに、数千の帯同兵士を失った代償が、言葉の通じない、戦闘訓練のできていない蛮人の獲得では、使命を裏切る大敗であり、敗軍指揮官に対する、自殺を許さない処刑は、別に「極端」な話でなく、当然そのものです。
 斬刑となれば、親族連座の筈ですから投獄に止めたのでしょうが、当時、必然的に拷問を伴う投獄は即ち獄死、生き延びれば、いずれ斬刑です。以上、軍法として妥当であり、劣勢を自覚していた孫権の悪足掻きと見るものでしょう。
 反りにしても、氏は、余談を活用する常識を有しないようです。
 いずれにしろ、三国志編纂時、呉はとうに滅びていて、はばかって、正史を改竄する動機は無いのです。

*赤壁幻影(銀幕上のイリュージョン)
 氏は、ドラマや映画に影響されているようです。史学論議では、劇的な潤色を振るい落とし、史料の紙面から、以下のように読みなおす必要があります。

*曹丞相南征紀
 赤壁故事は、後漢丞相率いる官軍が長江中流の荊州の平定後、荊州水軍に指示して寄寓していた謀反人劉備の逃亡を追尾し、孫権に劉備引き渡しと後漢への帰順を迫ったものです。丞相曹操は、荊州刺史劉表討伐の勅許だけで孫権討伐の命は受けていなかったので、宣戦布告はできず、精々、帰順勧告であり、にらみ合いになったものです。
 孫権は、あくまで、後漢の会稽太守であり、曹操に反発しても皇帝への反逆はできず、北岸の官軍、曹操部隊に対抗できる陸上軍も持たず、退陣を続ける荊州艦隊を焼き討ちするにとどまったのです。
 魏志に従う限り、曹操は官軍の面目を保ちつつ、疫病蔓延を口実に北帰したのです。

 三国志編纂時、陳寿は、東呉の国史を回顧した「呉書」稿を呉国志の史料とし、ほぼ温存したので、創業前夜の英雄「周瑜伝」は、東呉の劇的勝利を描いて顕彰しています。このお国自慢に対し魏志に大敗記事が無いことからも、三国志は、魏の国史としての画一的編纂はされていないのがわかります。
 因みに、三国史に裴松之が注を加えた際、つまり、「周瑜伝」では生ぬるいとみた読者、劉宋皇帝の厳命で、さらに華麗な勝利を描いた「江表伝」なる、民間文書が追加されています。
 官軍が大敗したとしたら曹操は厳罰を受け、斬首の刑を受けたでしょうが、魏志武帝紀にその記事は無く、孫権は官軍反抗の大罪で断罪はされていないのです。
 これが、陳寿が後世に残した三国鼎立前夜の「実像」なのです。

 いや、実際はどうであったかまで言っているのではありません。魏志に公式記録としてそのように示されたと言う事です。呉志「周瑜伝」は、魏の公式記録ではなく、まして、後世の裴松之が、蛇足として付け加えた「江表伝」は、「倭人伝」、さらには、魏志の史学考察の対象ではありません。
 但し、現代人一人一人にとって大事なのは、外観、つまり「倒立実像」なのです。

                                未完

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*また一つの与太話 国淵(字子尼)伝
破賊文書は、旧、一を以って十と為す
さて、数値改竄の動機は魏の戦略以外にも見つかります。(中略)魏志(中略)に「破賊文書は、旧、一を以って十と為す」という記述があるのです。(中略)通常、賊を破ったときの報告は人数を一〇倍に(中略)報告の水増しがごく普通に行われていたことが分かります。読む方もそのつもりで読んでいたので(中略)す。もちろん倭国は賊ではありませんが、(中略)魏から見たら夷狄(野蛮な異民族)の類であったことは否定しようもありません。(中略)相手が強力であればあるほど魏の威信は高まり、関わった者の実績にもなるわけです。従って記者が国や皇帝の威光を高めるためにそうしたのかもしれないし、倭国を見てきた使者がその小国っぷりに失望して、自身のキャリアアップのために水増しした可能性さえあるのです。

 散漫でカットしましたが依然として筋の通らない話です。証言者はただ一人で、曹丕が論評してないので、どこまで正確な意見か不明です。

 「動機」は犯罪の原動力を意味しますが、「破賊文書」なる武功誇張とは、なんの関連もない蛮夷来貢記事捏造とは無茶な話もあったものです。「自身のキャリアアップのために水増しした」などは、現代人の「動機」を無造作に古代に投影した与太話もいいところです。当時、「キャリアアップ」などいい加減なカタカナ言葉は無かったのですから、時代錯誤/状況錯誤もいい加減にしてほしいものです。

 また、「水増し」は、江戸時代、居酒屋などで、樽買いした酒に水を足して供したことを揶揄したものであり、喉の渇いたときに水代わりに煽られた当時の飲酒習慣で酒毒を抑える売り方で、ある程度常態化していたものでしょう。特に高度な技巧を要しないので、中国でも、古代以来出回っていた手口のように思えます。対する客の苦情は「水くさい」として出回っています。
 できの悪い冗談/ギャグは、観客を白けさせるだけです。

 繰り返しになりますが、拾い食いは、身体に悪いですよ。

*手柄話三千年の伝統
 古来、軍功が、軍人の昇進、褒賞の源泉ですから、手柄話は大げさに言い立てるものですが、大抵は、お目付役が同道していて、お手盛りの自慢話など通らなかったのです。手柄話の常で、世間相場の粉飾はあったでしょうが、「十倍」水増しが当然とは、軍人も宰相も甘く見られたものです。曹丕は、曹操ほど規律重視でなかったとしても、皇帝をバカにして騙す将軍など、早晩斬首になるのがオチです。

 と言うことで、氏は、こうした水増し話を紹介することで、「正史記事など、所詮でっち上げで、里数十倍、戸数百倍の増倍が日常茶飯事」と読者を説き伏せようとしたのでしょうが、夜郎自大の傲慢さで、中国文化を見損なっています。
 
例えば、後漢書、晋書記事の戸数計算では、数百万戸が一の位まで計算されています。新来蛮夷の戸数、里数は、この基準を認識した上で、集計、報告されているのであり、「はなから誇張」、改竄などとんでもないことです。
 物知らずの放言も、ほどほどに願いたい。

 このように、総じて、この部分の寄せ集めは、氏の諸般の理解不足が災いして、甚だ説得力に欠け、自縄自縛、書くほど瑕疵が現れる感もあります。どこから拾ってきた与太話かわかりませんが、当分野に良くある「新発見」で、古代史論読者には、広く資料を渉猟して見識を蓄え、批判的な眼で読み取るものも少なくないので、これでは氏の不見識の責任になり、もったいない話です。

 何しろ、よろず新説の九十㌫は「ジャンク」と決まっています。もちろん、当説も、新説の一つです。

追記
:2022/01/17
 近来のテレビ番組などを見ると、「破賊文書 」談義は、「倭人伝」題材の論争で、中国史料全般、ひいては、その一例である「倭人伝」記事がこうした誇張の産物であるとの歴博教授の主張の根拠として常用されていると見えます。
 いや、纏向説など畿内説論は、「倭人伝が信用できないと言わないと忽ち棄却されてしまう」ので、懸命に「レジェンド」(前代遺物)を持ち出しているようですが、このようにヒビの入った、サビだらけの骨董にもならない与太話を担ぎ出すのは、いよいよ、「土壇場」で進退に窮したと思わせます。これ以外にも、李白漢詩の「白髪三千丈」など、俗耳に訴える、つまり、子供だましの「説話」が出回っていますが、よい子は、見え透いた手口に騙されない目と耳を持ってほしいものです。
 中国史上最高の詩人の最高の名作が単なるホラ話だとは、よほど、無神経、無知でないと持ち出せない与太話です。
 それとも、纏向説は、この手の与太話を種麹として醸成されていているのかと思わせるほどです。

                               未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  9/14 再掲

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*巨大な前車の後ろ影か
 この辺り、氏が範を求めたと思われる岡本健一氏の「邪馬台国論争」(同書)の弱点を「忠実に」継承した感じで、一人前の研究者は、ここまで律儀に前車の轍を辿らなくてもいいように思います。せめて、前車の行く末が天上楽土なのか、堕地獄なのか、よくよく確かめてから追従した方が良いでしょう。古来言われる、「レミング」現象に陥っていると言いたいところですが、実在の野生動物であるレミングが、実際にそのように行動しているという確証を見ていないので、なんとか自制します。

*自由創作の悪例踏襲
 就中、渡邊氏は、岡本氏の「読み下し文」に依拠していますが、倭人伝岡本本は、既に原典不明確で、和田清・石原道博両氏、山尾幸久氏などの読み下し文を総合的に勘案し、最終的に、「岡本氏の気ままな手前味噌」としています。成分、処方不明の手造りブレンドでは、検証にほとほと困るのです。

 渡邊氏は、そのような岡本本闇鍋史料を引用し、論考の基礎としていて、その当否は、既に混沌としていて、検証には、このように同書の批判に手を付けなければならないのも、本書の史料批判上の難点と考えます。
 言うまでもないですが、倭人伝解釈は、倭人伝史料に厳重に立脚していなければ、まがい物なのです。現代改竄私家本は、現代の創作文芸であり、峻別して遠ざけるべきです。
 同書は紹凞刊本の写真版(影印版)を掲載していますが、どの程度依拠し、どう改編したか触れてないので、影印版掲載の意義が不明です。

*読み下し文の著作権
 言うまでもなく、一私人の私見ですが、原則として、漢文古文読み下しは、著作権の消滅した古代資料の文字列を明快な規則に従って日本語として字句を並べ替え、最低限のかなを補う著作であるので、新たに芸術的な創作はされず、従って著作権はないものと思います。

 もちろん、読み下しの労力は尊敬すべきであり、引用に際して出典明記が必要ですが、著作権の配慮は必要ないと解します。また、各氏の読み下し文は、公共の用に供するために公開されていて、適切な引用は、予め許諾されていると感じます。

 つまり、岡本氏が、それほどまで手の内を隠して、個性的な手前味噌を捏ねる意図が理解困難です。独自創作のつもりでしょうか。史学論で、自由創作とは、不可解そのものです。いや、このあたりは、岡本氏批判ですから、本書の批判そのものではないのです。

 なお、いわゆる現代語文は、多大な追加と読み替えを注ぎ足した上で創作された現代著作物であり、著作権が生じるものと考えます。逆に言うと、現代語文は、現代人の新たな創作であり、史料そのものではないのですが、そのような趣旨は滅多に見かけず、ひたすら、原典に忠実とか、自然にとか、言いくるめているのは不可解です。

*岡本氏の逃げ業(余談)
 ついでながら、岡本氏批判の続きとして、同書最後に「陳寿のイメージ」と銘打ち、「聖人陳寿の肖像画」出土かと「惑い」ます。なぜ、ちゃんとした言葉で書かないのでしょうか。どうせ、読者は俗耳の持ち主ばかりだと、なめてかかっているのでしょうか。

 岡本氏
は、畿内説擁護に窮した時も、土俵を割ったと認めず、意味不明なカタカナ語、情緒表現、果ては、講談ネタの与太話の影に逃げ込みますが、これでは異様な見出しの不意打ちを記事で補足しない三流ジャーナリストの手口満載と思わせます。
 実際は、「倭人伝」里程論が不首尾で、洛陽の抱く「イメージ」と食い違う、との難癖ですが、氏は算数に弱いので視線が泳ぐのです。

 この点、渡邊氏は、健全な算術を会得していて、簡単にドブ泥にはまらないようです。そのように、無批判な追従は避け、悪例の欠陥を真似しないでいただきたいものです。

 ことのついでに、同書の概観をまとめると、示された道程観は、世にある諸説の闇鍋を、誰も期待していない氏の自説の匙でかき混ぜて混沌とする使命を果たしただけで、論争を鳥瞰、平定できていないので、同書を、学会の最先端、最高峰と見てはならないのです。

 また、同書の主要部は、銅鏡 魏鏡説擁護に空費され、痛々しいのです。

 と言うことで、渡邊氏は、不用意にも、その立論の基礎に、不確かなあてにならない礎石を置いたと見えます。氏ほどの見識があれば、「木は生える土地を選べないが、鳥は泊まる木を選べる」のではないでしょうか。

                               未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」 10/14 再掲

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
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*用語混乱
続いて出てくる『一大國』ですが、これはどう見ても『一支國』すなわち壱岐の誤記と考えられます。そのため一般には一支國と呼ばれることが多いようですが、本書においては原文どおり一大國と記述することにします。

 氏の独自語彙(口癖)なのか、「どう見ても」とは、随分暢気です。一部に、縦書き一大国は「天国」の誤記かという説がありますが、その意味でしょうか。それとも、天地倒立する部の字形が見えるのでしょうか。因みに、わざわざ「壹大」でなく、「一大」と書いている趣旨は、理解すべきです。眼鏡の度はあっているのでしょうか。ウロコは落ちたのでしょうか。「『一支國』すなわち壱岐 」とは、何かの錯乱でしょうか。

 それはそれとして、有力刊本に「一大國」と定まっているのを、憶測で「誤記」と断じる根拠は見当たらないのです。氏の言う「一般」は意味不明ですが、「誤読」者が氏の身辺に多いからだとしたら、それは、「諸人挙って」の間違いです。氏の提言は、「原文どおり」のはずです。原文がどの版なのかは、一部陣営の党利党略で混沌としていて、不明、正解の出ない「問題」ですが、この際は論外/むろん/もちろんの一択です。

さらに続く『奴國』ですが、博多周辺はかつてそう呼ばれていて、今でも那津という地名が残っています。

 三世紀当時の議論で「博多周辺はかつてそう呼ばれていて」とする根拠が見当たりません。「通説」と見えても、文書史料に明記されていないから推定に過ぎません。

*用語混乱再発
倭人伝では途中まで、すなわち帯方郡から不彌國までの距離は里程で記述されていますが、不彌國から先は日程で記述されています。この理由についても古来より取りざたされてきたポイントなのですが、本書においてはその中で最もスタンダードな解釈をします。

 ここで、突然「ポイント」(クーポンネタか?)「スタンダード」(「公共規格」か?)と、カタカナ語連打ですが、古代史論では「タブー」(香水か?)でしょう。まして、「最もスタンダードな」とは、文法無視、規格外の奇天烈な言い回しで、「懐メロ」(着メロの誤記か?)名曲とでも言いたいのでしょうか。誤解を避けるためのカタカナ語の規範すら踏み外しているのです。
 氏は、史学論で期待/要求されている用語を踏み外して、一般読者、研究者を通じた見知らぬ読者に何を伝えようとしているのでしょうか。不可解そのものです。本書は、編集過程を経ていない、手作りの「書いて出し」ものなのでしょうか。
 
いや、確かに、本書は、「出版物」でなく、そうした内容を予想させるKindle本ではあるのですが、代金支払いを伴う商用出版物相当品なので、一言愚痴りたくなるのです。

当時の日本には長さの絶対的な単位の概念がなく、距離を表すときは歩いて○○日、船で○○日、といったように時間で表していたということです。

 引用では「当時」が意味不明ですが、いずれにしろ、「日本」は八世紀以降の概念であり、三世紀では論外です。良くある時代錯誤の現れです。注意したいものです。
 「長さの絶対的な単位の概念がなく」は、無知による暴言で、少なくとも、交流している帯方郡には、「尺」なる日常不可欠な概念どころか、尺度物差なる「絶対的」原器があったのです。交易とは、何か形のあるものを、相応の値段で売ることですから、たとえば、布の幅について、互いの理解できる表現がなければ取引が成立しません。一番簡単なのは、両者で同じ「尺」を備えることです。
 「尺」が決まれば、一歩(ぶ)六尺、一里三百歩の原理で「里」も千八百尺と 、キッチリ決まりますから、「里」の絶対的原器もあったと見るべきです。文明の働きを侮るのは、二千年後世東夷無教養人の自滅表現です。当ブログでは、概算計算の便に適した、有効数字の少ない、一尺25㌢㍍、一里450㍍の利用をお勧めしています。
 それとも、氏は、尺度、度量衡の適用範囲を勘違いしているのでしょうか。冒頭で、独自里制を提唱しているにしては、何とも、不用意です。

 但し、二地点間の距離、当時の「道のり」を「里」で計測する「道里」制が夷蕃にまで行き届いていなかったので、測量実務の手が回らない道里(道のり)に代えて移動日程を「時間」ならぬ日数で表したかというものです。いくら東夷でも、「距離」を所要日数で代用すると言うことはありません。因みに、東夷ならぬ本家中国正史の地理志などで、所要日数表示はざらです。

*「短里説」馬耳東風
 それにしても、かなり広く認知されている倭人伝「短里説」に一切触れないのは不吉です。多分、氏の器量では論破できないので、無視したのでしょうが、「倭人伝」里程論で、「絶対」避けて通れない議題と思量します。

 里数十倍増倍説を妥当と見せたければ、以上で説明した一里一千八百尺の通説を無視するのではなく、有力な先行論者を取り上げて論破/克服する必要があります。俗説論者が何万人いようと無視してよいとしても、大事なのは、有力な一説への対応です。
 論戦で、「敵前逃亡」したら、敵を論破できず、「結果」も「数字」も出ません。類は友を呼ぶと言いますが、同じ語彙文化の者同士で語り合い、「敵の」批判に耳を塞いだら論議は深まらないのです。

                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」 11/14 再掲

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
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*「大らか」(?)な日程主義
従って記述に正確を期したい場合はもっと客観的な基準、すなわち絶対的な距離の尺度が必要になってきます。しかし当時の倭人はそういう点についてはまだまだ大らかだったのです。

 まず大事なのは、「倭人」伝で言う「倭人」は、今日言う「日本人」と同様に当の国の民衆を言うのではなく、「倭」と称している集団の公式名だということです。この書き方では、そのような語彙なのかどうか不明確です。

 なお、納税や派兵のような期限付き命令の期限設定には、所要日数が明文で規定されていなければならないのです。日常の定期報告のような文書通信の期限設定も、所要日数の「客観的な規定」があればこそです。「一尺25㌢㍍の「絶対的」尺度で、数千里にもなる道里を距離計測する」というような、途方もない夢物語は、とても客観的、正確な測定はできないに等しいのです。

 たとえば、日数規定抵触は即「厳罰」であり、おおらかではないのです。(クビというのは、首を切り落とすことを言うのです)
 法と秩序の世界で、これほど、客観的な規定はないでしょう。よくよく、お考えいただきたいものです。

*歩測論再び
当時は歩測で距離を測っていましたが、使者が目的地に向かう際に歩数までをいちいち記録していたとは思えません。また海路となると舟の速度は一定ではなく、こうなると距離の計測はもっと難しいことになります。従って報告の正確を期するなら変に里程に換算するよりは、かかった時間をそのまま記述する方が誠実なやり方だったとも言えるわけです。

 当時、里数は歩測したが目的地への移動中は歩測しなかったとの個人的断定に、読者は納得しないでしょう。魏使には、副使と書記役がいて、初見の地で歩測は優先任務ですから、取りこぼし指摘は重大な非難です。大体、中国では、士と呼ばれる高官は手仕事を一切しないのですから、使節が補足することはぜったい無いのです。

 「変に里程に換算する」とか「誠実なやり方」というものの、何が「変」で、何が「誠実」かは個人差があり、無責任な放言です。「誠実」とは、方便として嘘を混じえてでも話を丸めるのか、馬鹿正直に筋を通すのか、ということです。

 要は、氏は、三世紀当時普遍的だった「普通」の観点を理解せず、ご自身の観点、世界観を、二千年前の著作「倭人伝」に押しつけて、意味が通じるようにしようと改竄しているものであり、それは、いくら声を大にして押しつけても、学問的に受け入れられないのです。

*重箱の果て
 氏の好著の重箱つつきは、以下に続きますが、一旦総括します。

 少し言い方を変えてみると、氏は、「後世知識」人の高邁な立場から、古代人の稚拙な行動や言動を指弾して論じても、実は、古代人の言葉、即ち文化を理解しないまま、自身の持ち合わせた言語で誤解したまま「無教養人」として判断しているのであり、これは、現代の古代史論者の通り相場、普通、自然の世界観とは言え、本書の意欲的な論議のあり方として大変不出来です。ぜひ、この難詰を直視していただければ、幸いです。

 ついでながら、この場所が空いたので書き記すと、壹与の、「弱冠」の意図らしい「若干十三歳」の誤認は、誤変換・誤記だけでないのです。男子加冠儀礼は「年十三」ですが、幼女には全く無縁です。また一つの不見識です。

*お説教
 長丁場の息継ぎで書くと、当ブログ筆者が、個人的な意見としているのは、一古代人が、別の、大切な古代人のために、最善の努力を注いで書き上げた畢生の著作は、当該古代人と同じ地平に立って、最善の努力で読解しようとすべきだという考えです。耳にたこと言われるので、用語を変えていますが、言っている主旨は、一貫しています。

                               未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」 12/14 再掲

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*またまた時代錯誤
この距離というものですが、単純なようで解釈の仕方によってずいぶん変わってくるものです。この場合も二通りの考え方ができて、一つは実際に旅した距離、すなわち航路の延長距離(中略)(もう一つは)直線距離として見る考え方です。

 古代に「直線距離」は時代錯誤です。「倭人伝」は距離と書いてないので、これは既に曲解していて、正しくは、道里(道のり)と解するべきでしょう。
 また、「実際に旅した距離」のあとに「すなわち航路の延長距離」と繋いでいるのも時代錯誤です。当時、航路はなく、「航路」の「距離」など、測定する方法もなかったし、測定されていない距離を、どんな方法で増大「延長」するのかも不明です。
 とにかく、用語、文型が揺らいでいて厄介です。

 そして、肝心なのは、「晋書」地理志などで引用されている周制で、王幾と遠隔の蕃夷との間の「里」を規定しているのは、距離や道のりを規定しているのでなく、通交の格付けのためであり、万里の蕃夷と百里の蕃夷では、参上頻度の義務づけに差があり、その際のもてなしやお土産にも歴然たる差があるのです。遠隔の蕃夷は、王幾まで攻め寄せることはないので防衛を固める必要はなく、また、貢ぎ物を取り立てるのも困難であり、参上を怠ったからと言って遠征して誅伐することもないので、万里の来貢に際しては、大いに称揚するだけで十分なのです。おだてるだけで、辺境の安寧が保てればいいのです。
 一方、近在の蕃夷は、いつ攻め込んでくるかわからないので、頻繁に呼び寄せ、人質を取り、相応の接待と境界部に兵力の貼り付けが必要という事です。近隣では、高句麗の侵入を頑固に防御していた公孫氏を滅ぼしたため、魏帝は、高句麗討伐の遠征を余儀なくされ、最後は、楽浪、帯方両郡から撤退して、東夷の占拠を認めざるを得なくなったのです。

 こうした蕃夷管理は、鴻廬の「客」管理政策体系の反映であり、後世人の思い込みを押しつけるのでなく、時代感覚を読み取ってほしいものです。

*最初の一歩
 漢城(ソウル)なり、仁川(インチョン)を起点として、洛東江河口付近までの経路は、陸上経路で五百㌔㍍程度でしょう。特に難関はないはずです。当時、魔法の絨毯も孫悟空の觔斗雲もなく、画面上/紙面上の直線距離に意義はないのです。
 また、半島西南岸水行の行路を易々と図示しても、無寄港、つまり、睡眠を摂らずに易々と多島海を移動したとする根拠が示されていません。
 「この場合記者の頭の中にどちらのイメージがあったかは不明」と言いますが、ここに描かれた図柄(画像イメージ)が三世紀人に見えたはずはなく、とんでもない神がかりです。それとも、古代人の脳裏に神の絵姿「image」が浮かんだのでしょうか。
 そこで、「一般に」まずは直線距離を答えると言いますが、それは、現代人の意見であって、問題としている古代人の「一般」ではなく、時代錯誤の連発です。
 
後ほど出て来る「合理的」も、同様に無効です。氏の論理ならぬ強弁は神がかりで、古代人の理解を絶していますから、説得は不可能でしょう。顔を洗って出直すべきでしょう。

 本書で丁寧に追求される議論は、時代錯誤の前提で「倭人伝」記事を好き放題に解釈した上に立脚しているので、遺憾ながら「論拠」として無意味です。如何に精巧な議論も、立論の前提や適用方法が誤ったら、まっしぐらに無意味な結論に至るという好例で、もったいない話です。
 当方は、行きがかりで本書の論文審査、文書校閲にのめり込んでしまったので、この勢いが続く限りこのまま進みます。

*魏使のおもてなし
しかも受け入れる側の倭にとって魏使というのは超VIPです。現在のように首脳外交などのない時代、国使というのはその国の代表者で、最大限の敬意を以て扱われるのが当然です

 まず、魏使と言っても、実態は帯方郡の倭人担当者であり、初見の土地としても、それまでに、戸数や収量の報告を提出させていたから、目に付く範囲の数値にとらわれたはずはないのです。
 氏の言うように、「倭」にとっての視点を強要されても、何の文献記録もないのでは推定のしようがありません。ついでに言うと、後世、隋使の来訪の際に、受け入れ側は、隋使を「蕃客」(野蛮人)扱いしていて、まことに、言葉の意味を知らないでとは言うものの、はたから見下して侮辱しているのです。後に、「鴻廬館」などと銘打った蕃客宿舎に迎えていますから、素知らぬ顔で「対等外交」どころか、野蛮人扱いしていたのかも知れませんが、これは、数世紀の後世のことです、

 ついでに「理科」の世界のことを言うと、帯方郡でも、夏場の日の出は真東を外れているのであり、別に、後世人に方向違いと見くびられる謂れはないのです。また、倭地温暖というのも、冬季寒冷の厳しい帯方郡の感覚で言うのであり、別に気温何度といっているのでないのです。

 ついでのついでに言うと、倭人での食事は、香辛料のない野蛮な生食と非難されていて、その極みが、野蛮な女王体制ですが、陳寿は、そうした形容に対する偏見を抑制して、この蕃人は、持て成すに値すると書き残しているのです。
 このあたり、当たり前の分別が、時として見過ごされるのは、「倭人伝」解釈の特異な点です。

 現代に於いても、首脳外交は形式・儀式です。異国に旅することが命がけだった古代、元首が旅に出るのは論外の暴挙です。これが、まず第一の難点です。古来、最高儀礼として派遣される全権大使、国使が重要人物であったのは確実ですが、夷蛮の国への遣使となると、道中の遭難の危険以外に、中国から来た使者を殺すのが挨拶代わりの国まであるので、重要人物にも程があります。

 記録が残っている隋唐代を見ても、下級官人が派遣されている例が結構多いのです。また、蕃客慣れしている部署である鴻廬のものとも限らないのです。要は、いくらでもかわりのある人員という事情であったようです。危険な大任を無事果たした使者は、昇進となったでしょう。

 但し、毎度ながら、氏の言葉遣いは軽率で「超VIP」は意味不明と言わざるをえません。VIPのVが既に「超」ですから、これに「超」を重ねるのは、「おおボケ」です。よく見極めて場に持ち出すのが最低限の用心であり、本来は、このようなつまらない軽薄、低俗な冗談は避けるべきです。
 これほど現代語理解が不十分では、古代中国人の言葉が理解できているとは、誰も思わないでしょう。

                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」 13/14 再掲

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私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*魏使のおもてなし 承前
 続けて、離船上陸時に、「貴人」を歩かせたと決め込んでいますが、乗り物、車にも輿にも駕籠にも橇にも乗せず、膝栗毛させたと断定する根拠が不明です。中国で、貴人は自分の脚を地面に下ろさないのが当然としたら、倭地でも同様だったから何も書いていないと見るべきでしょう。

 中国には、太古殷代から戦車があり、周代には公道を走る四頭立て馬車があったのに、倭人に車がなかったと決めつけるのは理解できません。「牛馬なし」と言っても、一切飼育されていなかったと断言すべきものではなく、大人が馬車を活用しなかったとは早計のようです。
 例えば、魏使到着に合わせて、半島から馬車を送り込むことも可能だった筈です。超超重要人物なら、その程度の「最大限のおもてなし」も「おかしくない」はずです。いや、別に大受けして笑えと言っているのではないのですが。

これはもう魏という国に対する屈辱ととられても仕方がない行為です。
 重大発言ですが、賓客を歩かせても「屈辱」などではなく、馬代わりに踏みつけられた時にでも「屈辱」を感じたら良いのです。
 古代士人にとって、恥辱は命を顧みずに晴らすべきものでしたから、その時は、殿中で勅使に切りつけるのか、接待指南役に切りつけるのか、いずれにしても、逆上して仕損じず「必殺」してほしいものです。
 もっとも、魏の側では、現地で死ぬことまで想定して、帯方郡官人を魏使として送り込んでいるのです。漢代以来、西域に送り込まれた、各百人規模の使節団ですが、派遣先で、いきなり使節の首を斬った国もあるのです。それも、一度に限らずです。その地では、敵対の可能性のある使節は、まず、使節を斬首するものだったようです。そのような惨事を起こさないために、軍を通じて身元調査し、伊都国に精鋭の先遣隊を送って魏使の安全を確保したでしょうが、それにしても、数万戸の戸数がある、つまり、数万人の動員力の有る蕃夷ですから、百人を送り込んでも、安全の保証にならないのです。

対馬國や一大國でも同様なことは行われていました。(中略)そんないつ沈んでもおかしくないものに生活を依存するのは間違いなく危険でした。
 船がいつ沈んでもおかしくないと杞憂に耽ると、海峡渡海も南北市糴も成り立たず、半島沿岸長途航行は論の外の極みです。何かの「間違い」でしょう。
 因みに、運搬や移動に船を利用できないとしたら、島人は皆餓死してしまうのです。無責任な放言です。多少、分別を働かせていただきたいものです。例えば、年間、多数の死傷者が出ている「自動車」ですが、「いつ死者が出るか知れない」としても、万人の生活はそのような移動手段に依存しているのです。ものごとは、白黒両断でなく、価値評価して採否を決めるべきです。


 それにしても、「半島沿岸長途航行」を絶対否定するのにここまで待っていたとすると、氏は、中々食わせ物ということになります。

*独り合点の記
すなわち一律数値誇張仮説が正しければ、邪馬壹國は熊本市南部地域であるということが事実をもって示されたのです。
ところが実際には一〇倍といういかにも不自然な倍率のときにかぎり、たった一つだけ矛盾のない経路が存在していたのです。

 仮定は仮定、結果は結果、どこに論理がつながるのか示すべきです。
 「実際」「事実」は、氏の意見であり、史書に一切示されていない
ので、何が自然で何が「不自然」か、読者には理解できません。
 善良な読者には、矛も盾も見えていません。多分、氏の脳内世界の備品なのでしょう。
 
別に述べたように、当時の算数能力では、十倍以外のかけ算は大変むつかしく、十以外の割り算はとてつもなくむつかしいのです。十だけは、単位の付け替えだけで計算が要らないので「自然」なのです。

もし(中略)サイコロを振って(中略)たまたま上手くいく場合があったにしても、それがこんなにぴったりした倍率になるなど確率的にあり得ません。
すなわち―――魏志倭人伝の距離が一〇倍に誇張されていたというのはほぼ一〇〇パーセント確実なのです。

 結果論に負けは無いとしても、「倭人伝の行程道里が間違っている」という論証はされず、また、史官が信条を放棄し、同僚も併せて家族共々刑死する危険を冒して万事を増倍し、史書稿を改竄した動機は、示されていないのです。まして、史官が史書をサイコロ博打で決めていたとも思えないのです。それを言うなら、筮竹、おみくじの「神頼み」とでも言うのでしょうか。

 原則として、事は、論理で決するべきでは無いでしょうか。

*縁起担ぎ
 松本清張氏を初め、倭人伝に登場する数字が、奇数の大変多い偏ったものになっていることを重大視して、縁起担ぎで、奇数が多い、作った数字に書いたと断じている例がありますが、それは考えが浅いというものです。

 蛮夷の地の道里や戸数のように、憶測でしかない概数を扱う時は、ずらりと敷き詰めた数字を使うのでなく、切り良くするために、一,三,五,七,十、十二と言った具合に、階段のように飛び飛びにして、概数の目を、事態相応に粗くするのも、史料に憶測の介入を防ぐ、大切な行き方なのです。
 史書の僅かな記事から、このような現象を見出す眼力は尊敬にあたいしますが、僅かな資料から、飛び飛びの数字の背景まで見通せなかったとしても、それは仕方ないことです。

*陳寿擁護
 陳寿は史官であり理知の人ですから、公式史書に、何の方針もなしに実態と関係ない「虚構」を書いたとは思えません。
 書いたとすれば、緻密な「増倍」戦略によって十倍としたはず
で、確率論は意味ないのです。どんな方針があっても、勅命があっても、虚構のための虚構は書かないと信じますが、それはそれとして、無意味な虚構を書くと思えないのです。
 史官の使命感は、後世人の遊び半分の数字遊びには関係ないのです。
 「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」、重責にある者の倫理観を後世の安穏な者が安易に語るべきではないのです。

 しかして、論理にも何にもなっていない、空虚な行が続いています。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」 14/14 再掲

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私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*里程観の行き止まり
萬二千余里とは修正道程では一二〇〇余里になります。これは㎞で表せば四八〇~六〇〇㎞になります。ここで帯方郡から邪馬壹國までの直線距離を測ってみると約六四〇㎞となって、四〇㎞ほどオーバーということにはなります。しかし当時の距離計測の方法を考えればこれは、むしろ非常によく合っていると言うべきでしょう。

 古代の不確かな環境で、七㌫精度は幻影です。と言うのは、ほんとのとば口で、以下、迷走そのものです。「修正」、「正確」、「合っている」は、対象が正確に認識されている場合に言う事です。
 「
倭人伝」道里では、帯方郡の管理下にあった街道、つまり、陸上行程の七千里すら、帯方郡の公文書が残っていないのを良いことにあれこれ憶測されているくらいですから、どれだけ「直線距離」からうねっているのか知る方法がないのです。

 まして、海上道里は、それぞれの渡海が測定しようのない「見立て」の千里ですから「直線距離」とは無関係です。あえて言うなら、五百里より長いようだが二千里よりは短いかなあ、と言う憶測です。

 最後の倭地内道里も、末羅国から倭までの道里について、「倭人伝」は、里数を計算する根拠すら示さず沈黙しているので「直線距離」を知る方法がありません。

 以上のように、具体的に里数の背景を確かめると、それぞれ大いに不確かであり、不確かさの程度がそれぞれ大きく違うので、数字を足し合わせることに意味は無く、まして、「オーバー」「合っている」と言う事が無意味であることがわかります。

 「万二千里」というのは、そういう漠然たる道里であり、そもそも、所要日数を知るすべのないものであって、目的とする蕃王の住まいは、とてつもなく遠いという事しかわからないのです。

 憶測尽くしに疲れ果てて振り出しに戻ると、当時測定できなかった、陳寿が知り得なかった「直線距離」を前提とした仮定自体、無理です。一から十まで無理筋です。いや、これは、世上の議論に沿って、改善を試みているだけだというのでしょうが、無批判に他人の議論を踏まえても、それが泥沼だったら。ずっぽり、埋もれるだけだという事です。

 余談になりますが、それにしても、当時、どうやって海山越えた二点間の距離を測ったのか不可解です。半島沿岸航行説の道里が見えないのと同様に、通行していない半島内経路の「当時の距離」も見えません。その点でも、「倭人伝」の道里談義、里数談義は、不可解そのものです。

*道里行程論の深意
 案ずるに、魏として知りたかったのは、この蕃王に指令を送った時、何日後に、現地に文書が届くかという事であり、蕃王が返事を送った時、何日でその文書が手元に届くかという事です。
 後漢霊帝没後の動乱で崩壊した後漢の諸制度を復元し、健全な国政を再開しようとした曹操が、最初に定めたのは、各地の拠点との交信日程の確立だったのです。当然、後継者である曹丕、曹叡も、その指示を継承したのです。さらには、曹操の弟子であった司馬懿も同様です。

*縄張り説~「できる」古代測量
 耕作地測量の「縄」で、人手と日数をかけた百㍍程度単位の測量で一里単位計測はできたでしょうが、あえて表明しなかったと思います。里数測定は、どう工夫しても万全ではなく、海上行程のように時に不可能な部分が解決不能なので、魏使が全区間測量値を正確に知り得た可能性は、全くないのです。また、先に書いたように、特に差し迫ってない道里の確立が至上命令ではなかったのです。

*銅鏡増倍の幻影~万華鏡のはじまり
れを見てみると倭國の貢ぎ物の生口一〇人と班布二匹二丈に対してこれだけの褒賞品が与えられていて、まさにエビでタイが釣れまくっていますが、その中に「銅鏡百牧」というのが含まれています。

 景初遣使で親魏倭王と認知されても、遣使は、恐らく二十年に一度です。例えば、遣唐使は、二十年に一度が義務であり、逆に、それ以外の時に押しかけてくるなと指示されていたのです。蕃客の受け入れ部門である鴻廬の典客部門は、当然、人員的にも設備的にも限界があるので、隔晩客の来訪時期を平準化する必要があったので、それぞれ、来訪間隔を定めていたのです。
 と言う事で、毎年のように押しかけて、銅鏡の山を担いで還ることなどできなかったのです。

 「エビでタイ」などとゲス根性で吠えていますが、 中国が、定例使節に数百枚の銅鏡を下賜するのは、それ自体あり得ない「妄想」です。
 まして、
古代における価値観はわからないし、古代でも、魏皇帝の価値観と倭の価値観は同じではないのです。当事者をあざ笑ったら、ものしらずの不届き者が何を言うか、と叱責されるでしょう。
 渡邉氏は、ここでぼやかしていますが、銅鏡百枚というのも誇張、増倍で、実は一枚でなかったか。実際は、伊勢エビでめだかを釣りまくったか。倭の貢献は、生口ゼロ名、班布二尺ではなかったか。憶測はいくらでも、賢そうに言えるのです。

 偶々、それらしい銅鏡が多数出土しているので、誇張ではないようだとしているのですが、関係者は、今度は、それにしては、出土の枚数が多すぎるという難題に直面しているのです。
 一度、正史稿の改竄を肯定すれば、夢想にまとまりがつかないのです。当人は楽しいでしょうが、傍のものは、いい加減にしてくれて言いたいはずです。

第二節 倭國の実像
*虚像と実像
 節題を見てほっとするのは、結局、氏は、対象の外面、見かけを語っていたのかということです。
 光学「実像」は、どのような操作も演出も可能だから、素晴らしい見栄えも何も一種の幻覚談なのでしょうか。因みに、虚像には虚像の効用があって、この世に虚像がなければ、眼鏡のお世話になることはできないのです。何しろ、実像は、天地逆ですから、天体望遠鏡でお世話になるくらいで、眼鏡の役には立たないのです。
 心ある人は、この言い回しを注意深く避けるのです。

*倭国大乱の幻影 道の果て
 「佐賀から太宰府にかけてのベルト地帯は戦いが戦いを呼ぶ激戦地」と、突如「倭人伝」にない「倭国大乱」が勃発しますが、それまで慎ましくまとまった世界が、突然、逆誇張の全国動乱、覇権争奪となる理由が理解できません死傷者が発生すれば、果てしない復讐合戦になり和平は来ないのです。
 農業集団が、隣人との諍いで多数の死傷者を出せば共倒れです。水争いで、潅漑水路を破壊し合えば田地は壊滅し共倒れです。七,八十年も戦えないのです。いやも世間に多い妄想ですが、そこまでして何を争うのか、自身のゲス根性を無反省で古代人に貼り付けるのでなく、古代人の世界観を説き聞かせてほしいものです。
 氏は、百年戦争を見ているようですが、十倍説で七,八年、百倍説で一年弱でないのでしょうか。二倍年歴説を載せたら、半年以下です。

 以下、氏は、「倭人伝」を遠く離れて、コミック界で一世風靡している過激な夢想世界に彷徨うのですが、気弱な素人は、このあたりでお付き合いしかねます。

*総評の念押し
 当書評は、倭人伝が「一里五十㍍程度の地域小里と仮定すれば見事に万事収まる」という仮説の当否も、熊本説の成否も論じていないのです。
 ここで上げた批判を克服して、氏の持論が維持できたら、そのように改訂して新版を上梓すべきでしょう。

                                完

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