新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」 4/14 再掲
邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~ Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
*水行談義再論
続いて水行一日の距離ですが、これはさらに難しい問題です。水行といっても大型船で玄界灘を越えている場合と、瀬戸内海や有明海のような波静かな水面を小舟で行く場合では話が違ってきます。
先ほどまでの「水行」とは別仕立てであり、「水行」を一律に扱わず、玄界灘の三度渡海と内水面を分けている点は明察です。
もっとも、「倭人伝」には、内海も内陸河川も見えないのです。また、中国史書に海を行く水行はないのです。いや、そもそも、官道を水行することは一切無いのです。海に路を敷くことなどできないのに、言葉面だけで「海路」と書き殴る、無謀な著者がいるのですが、知らないことを断言する蛮勇は、真似しない方がいいのです。このあたりは、国内史学界の周辺に蔓延したデタラメ解釈であり、是正するのに百年でも足りないのです。
当方未見の有明海は別として、「瀬戸内海」を一律に波静かな水面としているのは感心しません。今日の船舶でも、芸予諸島、備讃瀬戸の多島海の狭隘部分や関門海峡、 明石海峡、鳴門海峡の難所は、往来自在どころか、厳重に航路確認、潮流確認しないと、無事では済まないのです。知らないことを断言するとは、蛮勇です。
なお、「倭人伝」には、ここに指摘した関門海峡から芸予諸島、備讃瀬戸、鳴門/明石海峡の名うての難所は、一切書いていないのです。書かれているのは、「渡海」、つまり、向こう岸までの渡り舟なのです。中原人は、海を見たことがないので、難所のことは書いても理解できないのです。概観するに、九州島から東に渡る「水行」は、大分から四国西端の三崎半島に渡る「渡し舟」くらいしか見当たらないのです。
なお、倭人伝には、西方のことは書かれていないので、有明海は「圏外」とすべきです。
なお、無造作な「大型船」は、まさか「豪華客船」ではないでしょうが、船の大小、いや、ものの大小は、時代と環境で異なり、書き捨ては不明瞭、不用意の感を免れません。それとも、だれかの受け売りなのでしょうか。良い子は悪い子の真似をしないものです。
*船談義
以下、船の造作などについて、考察されていますが、船殻構造、動力源(漕ぎ手)などを、十分踏まえて議論しないと意味のある見通しに至らないと考えます。以下のように、素人の憶測で埋めた書籍を売りつけるとは、大した根性と言えます。
だとすれば重くて効率の悪かった当時の船でもこのくらいの速度なら十分に出せたとも考えられるわけです。
[重い]、[効率が悪い]、[このくらい]などは、単位も何もわからず、意味不明瞭、根拠不明で、読者に何も伝わらないのです。具体的に描けないのは、知識が無いからでしょうが、何も知らずに、いい加減な言い回しで大口を叩くのは、素人さんにしても困ったものです。
何より、現在、当時の玄界灘の「渡海」で常用されていた、多数の漕ぎ手、水夫を必要とした漕ぎ船の構造は不明であり、なんとも比較のしようがないのです。少なくとも、日常の用に南北を往来していた便船だったから、必要な速度は出せたはずです。何しろ、海上で一晩過ごすなどと言うことは命に関わる/ほぼ確実に死ぬので、それこそ、朝早く出て、午後明るいうちに着いていたはずです。
*道里論追求
現実とあわない邪馬壹國への道程
さて、以上より邪馬壹國への道程は次の表2のようになります。
この断定には、まずは重大な異議があります。
「次の表2」で帯方郡から狗邪韓国は「水行」七千里、三千㌔㍍としていますが、現在推定すると五百㌔㍍程度です。どうまわりみちしても、この間には入らない途方もない道里です。
氏は、このあたりの仮説は、簡単な検算すらせずに見過ごして、以降の考察に入っています。この暢気さは、誠に不思議です。
もちろん、このような「道程」は、間違いなく誤解がらみで、ダメ出しは、御免被りたいものです。
*不可解な半島沿岸行
氏は、この間を全面水行とみていますが、この行程は大河を行く河川行程では無いので、「水行」は古典書以来の用語になく、「無法」です。皇帝に上程する公式史書稿に「無法」な用語を呈していては、一発却下です。つまり、当時の常識で読むと、そんなことは書かれていないのです。
氏は、そのように「無法」な行程について、考察していません。なぜ、不安極まりない、海を選ぶのか。なぜ、安全か輸送経路として確立されている陸上経路を辿らないのか。何も、不審を感じなかったのでしょうか。
またもや、何も知らないままに、無批判で追従しているのでしょうか。
当方の考えでは、難所連発、難船必至の長丁場の半島沿岸を郡の官道としたとは思えないのです。氏が、三千㌔㍍「水行」と見たなら、なぜ、その五分の一程度の官道を陸行しなかったと判断したか不審です。
こうして見ると、本論文で、ほぼ一貫して勘違いが多発しているにしても、一応丁寧な論考が、道里行程を追いかけ始めた途端、帯方郡を出た早々に、ドンと脱調しているのは何とも不可解です。
*「倭人伝」観の確認
ここでひと息つくと、ここまでに、氏は、ご自身が「倭人伝」の記事を、適確に解釈できないのは書き方が間違っているからと高等な予断を示しましたが、本末転倒、手順齟齬です。
二千年後生の無教養な東夷の物知らずの読者の読み方が、とことん間違っているのです。背景となる事実を全く知らず、妥当な推定もできないから、読めないと言うだけです。それに気づかないというのは、まことに勿体ないと思わせるのです。
「倭人伝」は、当時の支配者層、つまり、皇帝に始まる高位高官の教養人を読者とし、その知識、教養に合わせて、と言っても、なめて書いていると思われないように、適度の「課題」を書いています。読者に却下されれば、編纂者の地位を失うので、最善の努力で、正確、明快に書いたはずです。また、解けない課題を押しつけると嫌われるので、適度の「謎」をこめていたはずです。
そして、晋帝は、そのような著作物を審査した上で、後に正史とされる高度な著作物と高く評価したのです。
現代の「だれかれ」が、自己流で読解できないから、原文の間違いに決まっていると決めつけるのは、その無知で無教養な「だれかれ」が、傲慢なのです。まずは、原典の正しい解法を探すべきであると思量します。
当書評全体で見ても、著者は現代の日本人であり、「倭人伝」の言語や世界観を読解できてないようです。
『古代中国語の言葉と文法を解しないものは、「倭人伝」論議の場から去れ』(論壇から降りろ)とする、かの張明澄氏の「暴言」が、実は、誠実な直言であり、耳に痛くても、的を射ているのです。
未完
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