新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」 14/14 三掲
邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~ Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02,2024/07/03
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
*里程観の行き止まり
萬二千余里とは修正道程では一二〇〇余里になります。これは㎞で表せば四八〇~六〇〇㎞になります。ここで帯方郡から邪馬壹國までの直線距離を測ってみると約六四〇㎞となって、四〇㎞ほどオーバーということにはなります。しかし当時の距離計測の方法を考えればこれは、むしろ非常によく合っていると言うべきでしょう。
古代の不確かな環境で、七㌫精度は幻影です。と言うのは、ほんとのとば口で、以下、迷走そのものです。「修正」、「正確」、「合っている」は、対象が正確に認識されている場合に言う事です。
「倭人伝」道里では、帯方郡の管理下にあった街道、つまり、陸上行程の七千里すら、帯方郡の公文書が残っていないのを良いことにあれこれ憶測されているくらいですから、どれだけ「直線距離」からうねっているのか知る方法がないのです。
まして、海上道里は、それぞれの渡海が測定しようのない「見立て」の千里ですから「直線距離」とは無関係です。あえて言うなら、五百里より長いようだが二千里よりは短いかなあ、と言う憶測です。
最後の倭地内道里も、末羅国から倭までの道里について、「倭人伝」は、里数を計算する根拠すら示さず沈黙しているので「直線距離」を知る方法がありません。三世紀当時、現地の地形図など存在しなかったのですから、目分量も憶測もありえないのです。
以上のように、具体的に里数の背景を確かめると、それぞれ大いに不確かであり、不確かさの程度がそれぞれ大きく違うので、数字を足し合わせることに意味は無く、まして、「オーバー」「合っている」と言う事が無意味であることがわかります。
「万二千里」というのは、そういう漠然たる道里であり、そもそも、所要日数を知るすべのないものであって、目的とする蕃王の住まいは、とてつもなく遠いという事しかわからないのです。ムシロ、天子のもとから途方もなく遠隔であるという表現だったと見る方が「正確」背手性。
憶測尽くしに疲れ果てて振り出しに戻ると、当時測定できなかった、陳寿が知り得なかった「直線距離」を前提とした仮定自体、無理です。一から十まで無理筋です。いや、これは、世上の議論に沿って、改善を試みているだけだというのでしょうが、無批判に他人の議論を踏まえても、それが泥沼だったら。ずっぽり、埋もれるだけだという事です。
余談になりますが、それにしても、当時、どうやって海山越えた二点間の距離を測ったのか不可解です。半島沿岸航行説の道里が見えないのと同様に、通行していない半島内経路の「当時の距離」も見えません。その点でも、「倭人伝」の道里談義、里数談義は、不可解そのものです。
*道里行程論の深意
案ずるに、魏として知りたかったのは、この蕃王に指令を送った時、何日後に、現地に文書が届くかという事であり、蕃王が返事を送った時、何日でその文書が手元に届くかという事です。
後漢霊帝没後の動乱で崩壊した後漢の諸制度を復元し、健全な国政を再開しようとした曹操が、最初に定めたのは、各地の拠点との交信日程の確立だったのです。当然、後継者である曹丕、曹叡も、その指示を継承したのです。さらには、曹操の弟子であった司馬懿も同様です。
*縄張り説~「できる」古代測量
耕作地測量の「縄」で、人手と日数をかけた百㍍程度単位の測量で一里単位計測はできたでしょうが、あえて表明しなかったと思います。里数測定は、どう工夫しても万全ではなく、海上行程のように時に不可能な部分が解決不能なので、魏使が全区間測量値を正確に知り得た可能性は、全くないのです。また、先に書いたように、特に差し迫ってない道里の確立が至上命令ではなかったのです。
*銅鏡増倍の幻影~万華鏡のはじまり
これを見てみると倭國の貢ぎ物の生口一〇人と班布二匹二丈に対してこれだけの褒賞品が与えられていて、まさにエビでタイが釣れまくっていますが、その中に「銅鏡百牧」というのが含まれています。
景初遣使で親魏倭王と認知されても、遣使は、恐らく二十年に一度です。例えば、遣唐使は、二十年に一度が義務であり、逆に、それ以外の時に押しかけてくるなと指示されていたのです。蕃客の受け入れ部門である鴻廬の典客部門は、当然、人員的にも設備的にも限界があるので、隔晩客の来訪時期を平準化する必要があったので、それぞれ、来訪間隔を定めていたのです。
と言う事で、毎年のように押しかけて、銅鏡の山を担いで還ることなど、到底できなかったのです。
氏は、誰に影響されたのか、「エビでタイ」などとゲス根性で吠えていますが、本書の読者には、がさつな書き方としか届かないのです。そもそも、天子の元には、広大な天下からふんだんな税収と貴重な産物の献上が山積しているのであり、「倭人」には、何も期待していないのです。格別の下賜物を用意したのは、殷周秦漢と続いた歴代の天子がなし得なかった、倭人参詣を得たという光栄を天下に知らせるものであり、手ごろな財貨を蕩尽するのは、べつに、これで、「倭人」を釣り上げようというものではなかったのです。
そもそも、古代における価値観はわからないし、古代でも、魏皇帝の価値観と倭の価値観は同じではないのですが、どちらがエビでどちらが退化は、二千年後生の無教養な東夷の知ったところではなかったのです。
もちろん、魏帝は、遙か彼方の蛮夷から宝ものを手に入れたわけではなく、挨拶の手土産であり、見かえりは、在庫一掃でもないでしょうが、しょせん「粗品」でしかないのです。順当に言えば、二十歳一貢、つまり、二十年に一度来てもいいというものであり、その際も、定番の粗品しか出ないのです。
当事者をあざ笑ったら、ものしらずの不届き者が何を言うか、と叱責されるでしょう。
渡邉氏は、ここでぼやかしていますが、銅鏡百枚というのも誇張、増倍で、実は一枚でなかったか。実際は、伊勢エビでめだかを釣りまくったか。倭の貢献は、生口ゼロ名、班布二尺ではなかったか。憶測はいくらでも、賢そうに/馬鹿丸出しで言えるのです。
偶々、それらしい銅鏡が多数出土しているので、流石の氏も誇張ではないようだとしているのですが、遺物考古学関係者は、今度は、それにしては、出土の枚数が「多すぎる」(いや、枚数が多いと褒めているのではない)という難題に直面しているのです。
一度、正史稿の改竄を肯定すれば、夢想にまとまりがつかないのです。当人は楽しいでしょうが、傍のものは、いい加減にしてくれて言いたいはずです。
第二節 倭國の実像
*虚像と実像
節題を見てほっとするのは、結局、氏は、対象の外面、見かけを語っていたのかということです。
光学「実像」は、どのような操作も演出も可能だから、素晴らしい見栄えも何も一種の幻覚談なのでしょうか。因みに、虚像には虚像の効用があって、この世に虚像がなければ、眼鏡のお世話になることはできないのです。何しろ、実像は、天地逆ですから、天体望遠鏡でお世話になるくらいで、眼鏡の役には立たないのです。
心ある人は、この言い回しを注意深く避けるのです。
*倭国大乱の幻影 道の果て
「佐賀から太宰府にかけてのベルト地帯は戦いが戦いを呼ぶ激戦地」と、突如「倭人伝」にない「倭国大乱」が勃発しますが、それまで慎ましくまとまった世界が、突然、逆誇張の全国動乱、覇権争奪となる理由が理解できません。死傷者が発生すれば、果てしない復讐合戦になり和平は来ないのです。
農業集団が、隣人との諍いで多数の死傷者を出せば共倒れです。水争いで、潅漑水路を破壊し合えば田地は壊滅し共倒れです。七,八十年も戦えないのです。いやも世間に多い妄想ですが、そこまでして何を争うのか、自身のゲス根性を無反省で古代人に貼り付けるのでなく、古代人の世界観を説き聞かせてほしいものです。
氏は、百年戦争を見ているようですが、十倍説で七,八年、百倍説で一年弱でないのでしょうか。二倍年歴説を載せたら、半年以下です。
以下、氏は、「倭人伝」を遠く離れて、コミック界で一世風靡している過激な夢想世界に彷徨うのですが、気弱な素人は、このあたりでお付き合いしかねます。
*総評の念押し
当書評は、倭人伝が「一里五十㍍程度の地域小里と仮定すれば見事に万事収まる」という仮説の当否も、熊本説の成否も論じていないのです。
ここで上げた批判を克服して、氏の持論が維持できたら、そのように改訂して新版を上梓すべきでしょう。
完
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