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2023年9月18日 (月)

新・私の本棚 「九章算術」新考 方田と里田~「方里の起源」2/2 増補

 古代の教科書を辿る試み~中國哲學書電子化計劃による 2021/01/24 2023/09/18

㈡「里田」例題
今有田廣一里,從一里。問為田幾何?
 答曰:三頃七十五畝。
又有田廣二里,從三里。問為田幾何?
 答曰:二十二頃五十畝。
里田術曰:廣從里數相乘得積里。以三百七十五乘之,即畝數。

 続いて、広い範囲の土地の縦横/廣従と面積の「里田」例題が提示されます。
 行政区画が県へと広がると、{頃-畝}で収まらないので里で表現します。
 一里三百歩なので、縦横一里の面積一「里」は九万「歩」、三頃七十五畝です。十進法でないのは、太古、元々別の単位系として成立したからです。

*広域集計という事
 「里田」は、頃-畝単位系から里単位系への面積換算を規定していて、これは、国家里制、度量衡により一意的なので、両制度に従います。
 以降で、一見不規則な形状の農地の「検地」が提起されますが、これは、地方吏人が測量実務で直面する可能性のある例外的な事例への対応に備えて、現代で言う「幾何学」な多様性に対応する算法を説いているものであって、国家事業として開梱された正規農地、つまり、定寸矩形の農地の面積計算には必要ないのです。
 諸賢は、「方田」関連の多様な形状の農地に関する「例題の数の多さ」に幻惑されるようですが、農地が台帳登録されると、後は数字計算です。九章算術の残る部分は、面積数字を計算するものです。重要性は、例題の数の多少で評価するものではないのです。

 冷静に見ていただければ、農地を造成するときは、矩形が常道であり、常道から多少形が崩れたとしても、農地の従横のそれぞれ平均値が把握できていれば、厳密に矩形でなく、台形でも、平行四辺形でも、歩(ぶ)単位であれば、精々、二桁の従横の掛け算で農地台帳の記載するに足る農地面積の概要は得られるという「鉄則」が書かれていると見るべきです。何しろ、厖大な件数の農地測量ですから、方法は簡便であり、計算は、並の(数字に弱い)官人でこなせる明快なものでなければならなかったのです。
 広域集計は、件数が少なく、高位の(数字に強い)計算官僚が時間をかけて実務担当するので、桁数が大きくても実行可能だったのです。

*道里の里、方里の里
 道のり、道里の単位「里」は、一里三百歩で、度量衡の「尺」と厳格に連携しますが、一方、一辺一里の方形の面積「方一里」は三百七十五「畝」であり、こちらはこちらで厳格に連携します。何しろ、長さと広さは、単位の次元が違うので、混同しないように弁別しなければならないのです。
 以上は、必ずしも史書想定読者全員に自明ではないので、陳寿は、「道里」は、百里と書くものの「面積の里」は、「方百里」と書いて混同を避けたようです。

*面積単位のあり方   (余談)
 近代メートル法国際単位が敷かれたとき、身近の面積は平方㍍、広域の面積は平方㌔㍍であっても、百万倍の違いはとてつもなく大きく、農地面積には、十㍍四方を単位とした㌃や百㍍四方を単位とした㌶が常用されています。
 面積は二次元単位なので、一次元単位を十倍にすると百倍になり、数字の桁外れが起きるので、SI単位系の例外として常用単位で埋めたのです。

*東夷伝「方里」の解釈
 東夷伝の事例で、例えば、韓国「方四千里」と一大国「方四百里」が登場しますが、一辺里数で領域面積を表現したとすると、十倍の大小関係と見えて、面積は自乗関係で百倍の大差では、読者たる高官の誤解を招くので不都合です。
 一辺里数でなく全周里数とみても、自乗関係に変化が無いので、韓国は一大国の百倍であり、実態を裏切る、無意味な比較になるのです。
 あるいは、遼東郡の北の大国高句麗が、南の小国韓国の四半分の国土と読めては、高官の判断を誤らせるので、不合理なのです。
 ということで、同時代でも通用する「合理的な解釈」が残ります。
 東夷伝で、遠隔、未開の国「方里」は、それぞれの農地測量・検地された台帳記事の集積で、収穫・徴税と直結し、国力指標として最も有効です。しかし、台帳で把握されている「耕作地」は、全土のごく一部に過ぎず、大半は、山野、渓谷、荒れ地、海浜など測量されない非耕作地です。
 過去、当記事の主張と同様な提言があったとしても、国土全域の表現と見ると、余りに狭小なので、間違いとされたことでしょう。それは、後世の世界観で、「国土の全面積が測量可能であるとか、その面積に意義があるとか、時代錯誤の先入観」を抱いていたためです。
 あるいは、「方里」と「道里」の安直な混同を招いたためです。三国志」は、現代日本人、つまり、陳寿にしてみたら未知の二千年後の無教養な東夷蕃人の先入観を満たすために書かれたものではないのです。

*まとめ 2023/09/18 補充
 ということで、陳寿が、東夷伝の道里記事に寄り添うように、「方里」記事を書き連ねた意義を理解すれば、「方里」の「里」は、「道里」の「里」と異なる次元のものであると明記した陳寿の真意を察することができるはずです。諸兄姉には、承知の事項のはずですが、所定の領域の農業生産力、即ち、「国力」を示す指標は「戸数」です。各「戸」は、所定の面積の農地の耕作を許可されていて、その代償として、所定の穀物を「納税」することで、帝国の根幹が成り立っているのです。
 但し、そのような関係が成り立つのは、各戸が、牛犂による農耕を維持していて、適正な農務を維持できるのが前提であり、所定の領域に、牛犂が存在しない場合、つまり、人力による農作業に頼っているとすれば、各「戸」が耕作可能な農地は、中原基準の面積でなく、その地域に通用する縮小された面積となり、従って、各「戸」の農業生産力は、応分に減少します。つまり、現地の「国力」は、戸数から想定されるものより縮小するのです。
 そのような事情の片鱗は、「倭人伝」の對海国記事に見えていて、同国は、良田が少ないと申告しています。つまり、中原基準で「良田」と格付けされる収穫量が得られる農地を割り当てられないという趣旨であり、つまり、戸数から計算される納税ができていないとの申告と見られるのです。
 陳寿は、東夷なる地方は、そもそも、農耕可能な土地が少なく、郡が各戸に割り当てられる土地も、各戸が労力不足で制約される、つまり、戸数から想定される国力は過大評価となることを東夷伝記事に埋め込んでいるのです。

 「倭人に牛馬がいない」というのは、現地は、夷蕃の統治する「荒地」であるから、国政の定める、農耕に必須の牛犂が整っていないという趣旨で書かれているので、誠に、万全の配慮と言えます。
 何しろ、史官は、国法を定める立法機関ではないし、そもそも、周制以来の祖法を改定することはできないので、かくのごとく「東夷伝」に要件を書き込んでいるのです。

 本稿は、論証と言うより、合理的な考証と思うものです。否定されるのなら、不確かな実証論でなく論証をいただきたいものです。

                               以上

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