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2023年9月18日 (月)

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 4/12 里制論 三掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28, 09/18 2024/02/02 02/14

〇見過ごされた課題
 本項は、ちと問題が大きいので、改ページしました。以下、…記号は[中略]としました。
    (「てにをは」書き替えあり)文責当記事筆者

 ⑶三国志里制論 惑わされない鍵 4
*明解な結論 無用の短里論
 議論を絞ると、秦以降、秦が提示した450㍍*程度の「普通里」以外の「里」制度史料は存在しません。(*計算の便に50㍍単位で丸めたものであり、当時の実施と無関係です。一尺 25㌢㍍、一歩(ぶ) 六尺 150㌢㍍ 1.5㍍、一里 三百歩 (450㍍) の概算用体系です)

 「里」は、国家制度の基幹である土地制度に直結しているので、「里」を数倍ないしは数分の一に改変すると国家体制崩壊に繋がります。従って、「普通里」は、遙か後世まで維持され、激甚事項は、もしあれば、正史に記録されます。(記録がないということは、壊滅的な制度変更は「無かった」という事です)

 晋書「地理志」では、周代以来晋代の「里」制は、一貫して「普通里」です。周「普通里」に従った秦は、自国の「普通里」を全国里制としたのです。戦国諸国里制は、順当には周「普通里」と見えますが、秦始皇帝が各国制度を破壊して自国製に統一としたので、絶対確実というわけではありません。
 つまり、秦始皇帝は、全国度量衡を統一するに際して、日常生活に密着した「度量衡」は、物差、升、錘の原器を配布しましたが、日常生活で無用の里の原器は含まなかったと見えます。「普通里」は、「尺度」や度量衡には属さないものです。

 各国土地制度は、検地が根幹と思われ、「普通里」が各国「里」と異なれば、再検地、土地台帳新製が必要ですが、物理的、心理的に大変困難な大事業です。秦が、各国の制度の破壊をためらわなかったとすると、いずれ、農民反乱を招くものですが、秦始皇帝は、皇帝の強権を持ってすれば、平定可能とみて強行した可能性が濃厚です。このあたりは、晋書「地理志」も、自明のことは書いていないので、書いてない里制改変は無かったと見るものでしょう。
 と言うものの、天下に敷く里制が、自国里制と異なっていたはずはなく、要するに、実績のある「秦制」を天下に公布したものと見るべきです。始皇帝は、自国制度を、いわば諸国に押しつけるために、秦律、度量衡原器を抱えた官人を諸国に派遣したのですから、秦里制は、周代以来の伝統的な「普通里」だったのに間違いないのです。

*「魏晋朝短里制」はなかった
 史料を総合的に判断して、魏晋代「短里制」施行仮説は、明確な「短里制」布令の証拠を欠き、また、「里制変更に伴う、全国的な社会混乱が記録されていない」ので、本件は、さっさと棄却されるべきです。著者は、古田史学の刷り込みを受けているため、議論の矛先が鈍っていますが、ことはむしろ単純明快なのです。ついでながら、魏文帝、明帝の変革であれば、「全国」は、魏の領分だけであり、蜀漢、東呉は、漢制を引き継いだとしながら、里制を改変したとしたら、大変な非難を浴びせたでしょうから、不名誉極まる記録は残らざるを得ないのです。

*個別記事検証は不要
 また、三国志に「普通里」と異なる里長記事を見る提議は、当該記事の検証にとどまり、国家制度を論証する効力は有しえないので、全て、直ちに棄却すべきです。里制は国家制度であり、土地制度の根幹であるので、辺境といえども郡管内に徹底されたものと思われます。その証拠として、帯方郡の戸数、口数は、順当に集計されて、正史(晋書)に収録されています。

 また、各拠点間の行程道里は、到底、確たる精度を期しがたいので、公式記事の字面から制度を推定すべきではありません。つまり、いくら事例を数多く集めても、不確かな数字の収集に過ぎず「国家制度を証する効力は無い」のです。要するに、「その時、その場所で、そのような里数が施行されていたように見える」と言う「例」を示すだけであり、そもそも、国家制度が実施されていれば、あやふやな里数は通用しないのです。

*限定的に有効な「地区里」宣言(private, local)
 倭人伝道里行程記事の冒頭で、「郡から狗邪韓国まで七千里」と宣言されているのが、この際の「里長原器」であり、同記事は、「普通里」と異なる「里」で書かれているという「地区里宣言」(Localと言うのは、帯方郡管内全般という意味ではなく、「倭人伝」の其の場限りの意味です。念のため)です。つまり、どんなに懸命に国家制度を検証しても、倭人伝は別世界なのです。それが、この際の史実です。

*地区里宣言の認識

 と言うことで、丁寧に言い換えると、同記事は、「普通里」と異なる「里」で書かれているという「地区里宣言」です。つまり、どんなに懸命に国家制度を検証しても、「倭人伝」は別世界なのです。それが、この際の史実です。
 言葉の綾ですが、「地区里」とは、全国制度や郡制度でなく、「倭人伝」が、紙上で採用している「里」という意味です。魏志三十巻の末尾で適用されていても、それ以降の適用はありません前代に存在しなかったし、後代にも継承されていない「孤例」なのです。

 「従郡至倭」全区間「万二千里」は、そのような「地区里」とみるべきです。肝心なのは、倭人伝」として首尾一貫していて、二千字資料だけで読者が資料内の「道里」を検算できるということです。

 因みに「地区里」の論証ですが、簡明に述べると次の通りです。
 ⑴ この区間の「万二千里」が、一里四百五十㍍の普通里であったと「仮定」すると、「倭」は、郡から五千四百㌔㍍の彼方であり、日本列島に収まらないのは、自明です。従って、この「仮定」は棄却されます。
 ⑵ この区間の「万二千里」は、「郡から狗邪韓国まで七千里」と言う「原器」から推定すると、一里五十㍍から百二十㍍程度の範囲の独特の「里」で書かれているのは、幾何学的に妥当と思われます。

 従って、この仮定をさらに掘り下げます。
 ➀この「里」が魏代に全国制度として適用されていて、それが、景初時点で帯方郡に適用されていたとする仮定は、そのような重大な全国制度の改訂は、一切、正史に記録されていないことから、直ちに棄却されます。

*補足説明 2023/09/18
  少々書き足すと、まず、各地の行程道里は、秦漢代以来、国家制度の一環として公文書に記録され、帝室書庫に収蔵されていて、後世が改訂することはできないので、「里制」の改訂は、不可能なのです。例えば、班固「漢書」地理志に
 「樂浪郡 武帝置 雒陽東北五千里」
 「遼東郡 秦置 雒陽東北三千六百里」
と書かれていますから、それぞれに「短里」を適用して、三万里、二万一千六百里とすることは、正史改竄にあたるので、実施することができないのです。
  細かく言うと、房玄齢「晋書」地理志に引用されている漢代街道制度は、「大率十里一亭 亭有長 十亭一鄕 鄕有三老」と「亭」設置を規定していますが、「短里」を適用すれば、「六十里一亭」としなければなりませんが、これは、正史改竄にあたるので、これも実施できないのです。
  このように、いかに天子が、「短里」を強行しようとしても、国家制度に齟齬を来すので、実現できないのは明らかです。

 ②魏帯方郡に、全国制度に反する郡独自の制度が施行されていたと仮定しても、帯方郡にそのような不法な制度が施行された記録は、一切残されていないので、直ちに棄却されます。
  帯方郡は、漢武帝設置楽浪郡の下部組織、帯方縣の後身であり、漢制、後漢制、魏制に反する制度を行うことは、端から不可能です。
  つまり、当時、帯方郡が、「倭人伝」に書かれている「里」を、郡独自の制度として実施していたとする仮定は、直ちに棄却されます。

  もし、魏明帝の景初年間、遼東郡傘下であった帯方郡を回収し新任太守を派遣して皇帝直轄にしたとき、帯方郡が、魏制と異なる里制を敷いていたとすると、新任太守は直ちに皇帝に報告するので、郡から倭に至る「万二千里」は、忽ち、校正されて、例えば、「二千里」に是正されていたはずです。
  そのような是正がされていないという事は、帯方郡の里制は、漢武帝の「普通里」であったと言う事です。そのため、格別の是正はされなかったのです。また、「郡倭万二千里」は、地区に通用していた「普通里」によって較正されていない「公式道里」と見るべきなのです。

  つまり、残された可能性は、「倭人伝」の「郡倭万二千里」という道里は、帯方郡の里制と一致しない独自の「地方里」で書かれていて、それが皇帝の承認を得たため、以後是正不可能になったと言うことです。

 因みに、「従郡至倭」万二千里の記事が、後代、西晋史官陳寿の捏造によるものだという根拠の無い思い付きが、結構広く出回っていて、「陳寿曲筆」の根拠とされていますが、時代考証すれば、粗忽なでたらめとわかり、精々、大いに勘違いした浅慮と見えます。

 魏帝が「倭人」を新参東夷と認知して、魏使の派遣を指示するためには、「倭人」の身上が、最寄りの郡から提出され、専門部局である鴻臚によって認証されていることが必要です。
 つまり、倭人は、どのような身元のものであって、君主の身上、国城の名称、最寄りの郡からの道里、戸数、城数、が明らかでなければならないのです。道里は、蕃夷の格付けのために不可欠であるので、
 但し、魏使派遣の段階では、帯方郡から万二千里の道里は廃却され、都合四十日の行程日数が考慮されたものと見えます。
 大量の下賜物を送り届けるのに、片道万二千里、つまり、一日五十里として、二百四十日の行程は想定しがたいものであり、帯方郡は、倭との文書交信実績を通じて、精々四十日程度との想定ができていたものと見えます。
 また、大層な下賜物は、「万二千里」遠隔の蕃夷の処遇であり、そんな最高の賓客にしょっちゅう来られてはたまらないので、二十年一貢などの制限を施したはずです。
 一方、倭人は頻繁に遣使して追い返されていないところを見ると、鴻臚の決めた処遇は、実は近隣であるから、三年ないし五年に一貢程度と見ていたようです。但し、当初の道里「万二千里」は、明帝の承認した公文書なので、是正できなかったのです。

 以上の通り、不合理な選択肢を順次消去して、最後に残ったのは、当然、正しい選択肢であり、筋の通った説明が成り立つ以上、これを受け入れるべきだという判断に至るのです。

*「従郡至倭」の由来
 「倭人伝」の成立過程を推定すると、まず、本来、王畿から万二千里という周制に基づく「僻遠の蕃夷」里数が先にあって、道里ではない里数が書かれていたものを、新任郡太守が実道里と錯覚して魏朝皇帝に報告した失態が、晋代まで引き継がれて陳寿の元に届いたものと思われるのです。
 「倭人伝」記事は、そのような「神がかり」道里を神棚に祭り上げて、蕃夷管理の要件である文書到達日数に書き換えて見せた至芸の成果に見えます。要するに、陳寿は、魏明帝が、新参の東夷を高く評価して、魏使を大挙派遣したという想定で、「肯定的」に書きまとめたのです。
 「魏志」本紀は、当該皇帝を顕彰するのが、史伝の本旨ですから、その本紀に深く結びついて、明帝を顕彰している倭人伝は、当時、東夷との交流を強く求めた明帝の意図と意志を推進した明帝股肱の臣毋丘儉を顕彰するものであり、明帝が臨終の場で托した違命に背いて、少帝曹芳を排斥し、倭人との交流を埋没させた司馬懿の顕彰などではないのです。むしろ、史官の筆法で、司馬懿を冷笑しているのです。

*異次元排除
 因みに、「道里」は、文字通り「道のり」です。周代の「里」は、話題ごとに意味の変わる便利な文字でしたが、天下の政権が周から秦に移って、万事、成文法で統制するようにしたとき、同じ「里」に多様な意義があることは、誤解を招くとして、道の「里」は、「道里」と二字熟語としたものです。但し、世間では、素朴な「里」が残っていたので、後世人が誤解することになったのですから、二千年後世の無教養の東夷が、直感で誤解するのは、むしろ当然でしょう。

 ここに登場する面積単位「方四千里」等の「方里」は、別次元単位なので流用は禁物です。「地区里宣言」以前の高句麗、韓記事で導入され、宣言後の對海国、一大国記事のみに表れる、さらに特異な「里」ですから、道里とは別義です。
 ちなみに『「道里」が、古典用語の流用として当時の流行概念として通用していて、それが、予告無しに倭人伝で採用された』というのは、意味不明の混乱に過ぎません。「倭人伝」は、史記、漢書を継ぐ「正史」「三国志」「魏志」の掉尾を占めるものとして書かれたものであり、最終的には、皇帝の御覧を得て採用されるものですから、春秋を含めた古典書に前例のない流用など、許されるものではありません。
 但し、同時代史書と言えども、このような用語定義の行き届いていない筆者もいて、「方里」 を、一辺を里とする方形としている例もあり、油断はできません。当時にも、優等生と劣等生がいて、誤解、誤用が生き残っていることはあり得るのです。 正史編者の見識を信じるべきです。

 そうそう、別次元というと、並行世界とか連想が湧きそうですが、「道里」は、丈、尺、寸と同様、一次元単位であり、「方里」は、土地制度に由来する二次元単位(面積)ですから、混ぜ合わせて足し算、引き算はできないという意味です。単に「里」と書かれているように見えても前後関係で判断する必要があります。元来、「方里」は、農耕地の土地測量で、広範囲の土地のための単位です。

*「歩」と言う面積単位
 古代史料の「歩」(ぶ)は、農地面積測量で多用される「方歩」であり、歩(ほ)幅と無縁ですが、「俗論」では、歩幅と誤解している方が通例です。一歩は、六尺となっていますから、一尺25㌢㍍と概算して、一歩は、150㌢㍍、1.5㍍程度ですから、到底歩幅ではあり得ないのですが、なぜか、誤解の方が絶対的に有力なのです。いや、人によっては、そのような難詰を避けるために、古来、「歩」(ほ)は、複歩、つまり、左右の足を踏み出した二度の踏み出し幅だと強弁することがありますが、最初の勘違いを強弁して取り繕うのは、感心しないところです。
 事は、多数決や権威者ぶった断言で判断すべきではないという好例です。

 とは言え、「歩幅」説を持論の立脚点/枢軸としていて、ここで言う「誤解」こそ「正解」と強弁する向きもあるので、百年たっても誤解は是正されないのです。

                             この項完

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