新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 1/3
2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06
〇NHKによる番組紹介
NHK特集「シルクロード第2部」、第十三集は「灼(しゃく)熱・黒砂漠~さいはての仏を求めて~」。旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠を踏破する。
シルクロードの旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠。何人も生きて越えることができないと言われた死の砂漠である。取材班はその道をトルクメンの人々の案内で踏破、チムール時代の壮大な仏教遺跡が残るメルブまでを紹介する。
〇待望の再放送~余談の山
滅多にお目にかかれないメルブ(Merv)を見ることができたのは、貴重でしたが、漢代以来、東西を繋いだメルブの意義が見逃されているのは残念です。
メルブは、漢書「西域伝」、後漢書「西域伝」で「西域」つまり漢の世界の西の果ての大国として紹介された「安息国」の国境要塞でした。例えば、漢書は、番兜城(ばんとうじょう?)、後漢書は、和櫝城(わとくじょう?)と書かれています。
そのため、漢武帝使節と後漢西域都護班超の副官甘英の97年の探検行が、西方では「パルティア」と呼ばれた「安息国」国境要塞メルブを、訪問行の西の果てとしたことの意義が見過ごされています。この地は、延々と続いた砂漠地帯を出て、カスピ海沿岸の温和な地域と見ていましたが、実際は、砂漠の中のオアシスだったようです。少なくとも、漢使甘英は、酷暑の西域都督管内ではあまり見られない冷涼の地と感じたはずです。
とは言うものの、いくら好意的な相手としても、西域に勇名を轟かせていた西域都督班超の副官が率いる、恐らく百人規模の使節団が、 大「パルティア」首都、遙か西方メソポタミアの「王都」クテシフォンに詣でて、大「パルティア」国王に謁見することは論外でした。
そのため、両代漢使はメルブで小安息国長老と会見し、無事に使命を果たしました。国都に参上せず国王に謁見しなくても、漢使の任務を果たしたのです。
「倭人伝」解釈に於いて、随分参考になる前例ですが、論争の際に紹介されていないのは、意外です。
*メルブの意義
当時、イラン高原を統轄していた大「パルティア」は、東西交易の利益を独占して当時世界一の繁栄を得ていましたが、その発祥の地でもあるメルブ(Merv)地域を東方の最重要拠点として、守備兵二万を常駐させていたのです。
安息国には、 東方から急襲した大月氏騎馬戦力の猛攻により、迎撃した国王親征部隊が壊滅して国王が戦死した経験があり、以後、大兵力を固定して、東方蛮族(大月氏)の速攻に臨戦態勢で備えていたのですが、騎馬軍団の席巻で言えば、班固「漢書」「陳湯伝」で知られる匈奴郅支単于の西方侵攻のように、月氏事件は、空前でもなければ絶後でもなかったのです。後年、欧州諸国を震撼させたフン王アッティラの由来は不明ですが、
*西方捕虜到来
因みに、大「パルティア」は、西方のメソポタミア地方では、ローマ軍の侵入に対応していて、共和制末期の三頭政治時代、シリア属州提督の地位にあった巨頭クラッスス(マルクス・リキニウス・クラッスス)の率いる四万の侵入軍を大破して一万人を超える捕虜を得て、「パルティア」は、一万の捕虜を東方国境防備に当てたとされています。(前54年)
降伏した職業軍人は、遠からず両国和平の際に和平時に身代金と交換で送還されると信じて、数ヵ月の移動に甘んじたのです。ローマ側としては、生き残った万余の兵士を無事帰国させるために、司令官クラッススを引き渡し、捕虜をいわば人質として提供したしたものです。クラッススは、パルティアの軍法に則して斬首されたとされています。
欧州側では「東北国境」と云うことで寒冷地を想定したようですが、メルブは、むしろ温暖なオアシスであり、何しろ、凶悪な敵を食い止める使命を課せられていて、ローマ兵は、捕虜とは言え、それなりの処遇を得ていたはずです。この時、一万人の捕虜を得たおかげで、一万人の守備兵を帰宅させたので、地域社会(パルティア発祥の地)に、大きな恩恵を与えたのです。
なお、ローマ正規軍には、ローマの中級市民兵士や巨頭ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が援軍として送り込んだガリア管区の兵士も含まれていたから、一時、メルブには、土木技術を有し、ギリシャ語に通じた教養のあるローマ人が住んでいたことになります。恐らく、両国軍人の会話は、ギリシャ語で進められたはずです。いや、まだ、アレキサンドロスが率いたギリシャ語圏の兵士や商人がいたかも知れません。
また、班固「漢書」西域伝に依れば、安息国人は、皮革に横書きで文字を書き付けていたようですから、共に、文明人だったのです。
後漢西域都督班超の副官甘英は、一大使節団を率いて安息国に至り、長老、つまり、安息東部都督に相当する高官と交渉したものの、具体的な盟約には到らなかったと思われます。甘英の使命は、最高機密事項でしたが、当時、安息国と締盟した上で、西域都督班超に執拗に反抗していた大月氏/貴霜を挟撃、西域都督の以降を高めたいとの願望を持っていたはずであり、「貴霜」(クシャン)を凶悪な侵略者と見る共通した視点をもっていたと思われますが、安息国は、本来商業立国であり、専守防衛を国是としていたので、貴霜国を攻撃して地域の平穏を破壊するなど論外であったと見えます。
もちろん、外交/軍事は、西方王都の国王の指示を待つ必要があったのですが、国王にとって最大の懸念事項は、至近のシリアに大軍を待機させているローマであり、東方で軍事作戦を展開する気はなかったのです。また、はるか東方の大国中国は、貴霜国と戦端を開いても、大軍派兵は大変困難と理解していたので、共同軍事作戦は割に合わないと見たようです。
最後に、安息国は、東西交易の要であり、近隣諸国と戦火を交えて、交易を阻害することを恐れたとも見えます。何しろ、東西交易は、大量の黄金の卵を齎す「にわとり」であり、これを傷つけることは、国益に反したのです。
以上、安息国の視点から、誠に割に合わない提言であり、国王の指示に従い、友好関係を損なわない程度に謝絶したものと見えるのです。
甘英は、帰任して、大事がならなかったと報告したのですが、これは、西域都督の独断だったので、一切公文書に残らず、また、貴霜国に機密が漏洩すると、不穏な事態になるので、固く隠蔽したものと思われます。
◯笵曄による甘英弾劾
世上、甘英が、西方の大国「ローマ」に到達する使命を帯びていたとする俗説が執拗に唱えられていますが、何重もの誤解に基づいていて、誠に嘆かわしい事態です。
まず第一に、後漢、魏・晋を通じ、中国の西方知識は、到達点としては安息国止まりであり、しかも、安息が、西方の敵国ローマについて、甘英に知らせることは考えられないので、精々、カスビ海の対岸であるアルメニア、條支止まりであったものと思われます。それどころか、「西方の王都クテシフォンにすら赴いていない」のとともに、王都付近メソポタミア、および、そこに到る整備された街道の有り様も、明確に伝えていない節があります。
まして、ローマ帝国が、精兵四万を常備していたシリア準州についても、一切伝えていないものと思われます。
要するに、「大秦」と書かれている正体不明の国家の風俗は、安息国の周辺諸侯、精々、カスピ海西岸「海西」の條支と隣国のものと見えるのです。
*西域都督の重大な使命
後漢西域都督は、あくまで臨時の官であって、現地に「幕府」を開いて、地域の軍事、税務の権限を与えられていましたが、万事、皇帝の勅許を仰ぐ必要があり、独断専行は許されていないのです。西域都督に与えられている任務、権限は、あくまで、漢武帝代に確立した「友好国」である「安息国」までであり、安息以西の未知の領域に勝手に進出することは許されていないのです。つまり、もし、甘英が、安息を越えて西方に進出するためには、皇帝の勅許が必要なのです。
後漢書には、そのような勅命が出されたという記録はありません。
もし、甘英が勅命によって西方進出を使命としていたら、これを達成できないまま帰還するのは、重大な違命であり、誅殺に値します。当然、西域都督も、同罪です。もちろん、笵曄「後漢書」にも、袁宏「後漢紀」にも、魚豢「魏略」西戎伝にも、そのような誅殺の記録はありません。
以上のように論理的に確認すると、甘英は、安息国まで使節/ 行人として派遣されただけであり、安息以西に進出する使命は帯びていなかったのです。
*不可能な使命
当ブログ筆者は、甘英の使命に対して私案を持っていて、要するに、西域都督班超が、独断で大月氏討伐の締盟の構想を抱いていたものと見るのです。これは、かつて、漢武帝が企てた大月氏との締盟構想と同趣旨であり、掠奪国家であって後漢の西域支配に頑強に抵抗していた大月氏を、漢~安息の挟撃で撲滅しようというものであり、安息長老の了解が得られれば、皇帝に上申して、安息王~後漢皇帝の盟約とするというものであったように推定しています。そのような軍事活動は、西域都督の使命の範疇であり、上申して勅許を得ることは、十分可能と見ていたものとおもわれます。
ただし、実際は、班固の大月氏挟撃構想は、安息国の同意を得ることができず、甘英は、安息国との友好関係を確認するにとどまったものと見えます。甘英の派遣について、特段の使命が記されていないことから、単に、友好関係の確認、強化にとどまったものであり、特に、違命がなかったため、班超も甘英も、叱責等を被っていないものと見えます。
*笵曄乱筆
そのように、使命が秘匿されたため、笵曄の疑惑を掻き立て、甘英は、無謀な冒険を試みて不達成に終わったと粉飾されたものと見えます。
笵曄は、後漢末、班超時代の後に西域都督が撤収した結果だけを見ていたため、後漢の威勢を維持できなかったというあらぬ譴責を加えたものと見えますが、それは、笵曄が、西域都督の武官としての沽券を見損ねていたものと見えます。
あるいは、西域都督班超の実兄であり、漢書を編纂した史官班固に対する引け目を、班超/甘英に押しつけたものとも見えます。要するに、漢書「西域伝」は、遠隔地を実見しない捏造だと貶めたかったものかも知れません。
ここでも、笵曄の勝手な創作が見られるのです。
未完
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