新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」 8/14 三掲
邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~ Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02,2024/07/03
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
*また一つの与太話 国淵(字子尼)伝
破賊文書は、旧、一を以って十と為す
さて、数値改竄の動機は魏の戦略以外にも見つかります。(中略)魏志(中略)に「破賊文書は、旧、一を以って十と為す」という記述があるのです。(中略)通常、賊を破ったときの報告は人数を一〇倍に(中略)報告の水増しがごく普通に行われていたことが分かります。読む方もそのつもりで読んでいたので(中略)す。もちろん倭国は賊ではありませんが、(中略)魏から見たら夷狄(野蛮な異民族)の類であったことは否定しようもありません。(中略)相手が強力であればあるほど魏の威信は高まり、関わった者の実績にもなるわけです。従って記者が国や皇帝の威光を高めるためにそうしたのかもしれないし、倭国を見てきた使者がその小国っぷりに失望して、自身のキャリアアップのために水増しした可能性さえあるのです。
散漫で、余計な部分は取りのぞいたのですが、それにしても、依然として筋の通らない話です。証言者はただ一人で、しかも、皇帝たる曹丕が、裁断していないので、どこまで正確な意見か不明です。
「動機」は犯罪の原動力を意味しますが、「破賊文書」なる武官の武功誇張とは、なんの関連もない文官の蛮夷来貢記事の捏造とは無茶な話もあったものです。「自身のキャリアアップのために水増しした」などは、現代人の「動機」を無造作に古代に投影した与太話もいいところです。当時、「キャリアアップ」などいい加減なカタカナ言葉は無かったのですから、時代錯誤/状況錯誤もいい加減にしてほしいものです。それにしても、武官の武勲の誇張法が、文官の蛮夷来貢の誇張に適用できるとは、まことに、超絶技巧と見えますが、正史にどんな先例があるのでしょうか。
学術的な論考に、時代錯誤、状況不整合な与太話を取り出すのは、当然、発言者の破滅につながるはずなのですが、それが当然でないのが、古代史論の中でも、異様と見える「倭人伝」論の風土なのです。
また、「水増し」は、江戸時代、居酒屋などで、樽買いした酒に水を足して供したことを揶揄したものであり、喉の渇いたときに水代わりに煽られた当時の飲酒習慣で酒毒を抑える売り方で、ある程度常態化していたものでしょう。特に高度な技巧を要しないので、中国でも、古代以来出回っていた手口のように思えます。対する客の苦情は「水くさい」として出回っています。
できの悪い冗談/ギャグは、大滑りして観客を白けさせるだけです。
繰り返しになりますが、拾い食いは、身体に悪いですよ。
*手柄話三千年の伝統
古来、軍功が、軍人の昇進、褒賞の源泉ですから、手柄話は大げさに言い立てるものですが、大抵は、お目付役が同道していて、お手盛りの自慢話など通らなかったのです。手柄話の常で、世間相場の粉飾はあったでしょうが、「十倍」水増しが当然とは、軍人も宰相も甘く見られたものです。曹丕は、曹操ほど規律重視でなかったとしても、若くして実戦を体験して、軍人を指揮したので、実戦知らずの皇帝と見て騙す将軍など、早晩斬首になるのがオチです。
と言うことで、氏は、こうした水増し話を紹介することで、「正史記事など、所詮でっち上げで、里数十倍、戸数百倍の増倍が日常茶飯事」と読者を説き伏せようとしたのでしょうが、夜郎自大の傲慢さで、中国文化を見損なっています。
例えば、後漢書、晋書記事の戸数計算では、数百万戸が一の位まで計算されています。新来蛮夷の戸数、里数は、この基準を認識した上で、集計、報告されているのであり、「はなから誇張」、改竄などとんでもないことです。
物知らずの放言も、ほどほどに願いたい。
このように、総じて、この部分の寄せ集めは、氏の諸般の理解不足が災いして、甚だ説得力に欠け、自縄自縛、書くほど瑕疵が現れる感もあります。どこから拾ってきた与太話かわかりませんが、当分野に良くある「新発見」で、古代史論読者には、広く資料を渉猟して見識を蓄え、批判的な眼で読み取るものも少なくないので、これでは氏の不見識の責任になり、もったいない話です。
何しろ、よろず新説の九十㌫は「ジャンク」と決まっています。もちろん、当説も、新説の一つです。
追記:2022/01/17
近来のテレビ番組などを見ると、「破賊文書」談義は、「倭人伝」題材の論争で、中国史料全般、ひいては、その一例である「倭人伝」記事がこうした誇張の産物であるとの歴博教授の主張の根拠として常用されていると見えます。
いや、纏向説など畿内説論は、「倭人伝が信用できないと言わないと忽ち棄却されてしまう」ので、懸命に「レジェンド」(前代遺物)を持ち出しているようですが、このようにヒビの入った、サビだらけの骨董にもならない与太話を担ぎ出すのは、いよいよ、「土壇場」で進退に窮したと思わせます。これ以外にも、李白漢詩の「白髪三千丈」など、俗耳に訴える、つまり、子供だましの「説話」が出回っていますが、よい子は、見え透いた手口に騙されない目と耳を持ってほしいものです。
中国史上最高の詩人の最高の名作が単なるホラ話だとは、よほど、無神経、無知でないと持ち出せない与太話です。
それとも、纏向説は、この手の与太話を種麹として醸成されていているのかと思わせるほどです。
「歴博教授」 の名言は、「不滅」なのでしょうか。
追記2: 2024/07/03
当ブログの開設以来、与太話が随分出回っているのに呆れているのですが、その根本は、史料破壊の動きが見えています。
普通に考えると、「郡から倭まで一万二千里」という道里は、遼東郡太守として自立した公孫氏が設定したものであり、その時点、つまり、後漢献帝の建安年間は、権力の頂点にいた曹操が、各地諸侯の平定に謀殺されていた曹魏「草創期」であって、東夷については、公孫氏に任せる放任時代であったため、公孫氏も「倭人」を配下に置いたことから報告していなかったものと見えます。何しろ、魏志「東夷伝」には「草創期」の記事があっても、笵曄「後漢書」「献帝紀」には、東夷記事らしいものが無く、また、笵曄後漢書に付設されている「郡国紀」に、帯方郡は記録されていないのです。ということで、笵曄「後漢書」「東夷列伝」倭条は、精確な資料なしに創作したものと見えるのです。
それはさておき、「倭人伝」の記事は、曹魏の天下になって、明帝が、ひそかに兵を発して、樂浪、帯方の二郡を平定した際に届いた情報と見えます。したがって、「郡から倭まで一万二千里」の亀茲は、滅びた遼東郡の内部資料で武帝曹操も文帝曹丕も知らなかったものであり、明帝曹叡に媚びたものでも無いので、与太話に過ぎない「破賊文書」など無関係なのです。
未完
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