「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 改訂・付記 3/3
2015/11/01 再追加 2022/01/12 付記 2023/09/16
〇「臺」論再考 再付記 2022/01/12
当付記は、以上の論議が崩れそうになるので、静かに語ることにする。
別に新発見でもないのだが、「春秋左氏伝」に、古田師の「臺」至高論の対極の「臺」卑称用例があるので、諸兄姉のご参考までにここに収録するのである。
白川勝師の字書「字通」の「臺/台」ではなく、「儓」(ダイ)にひっそりと書かれている。白川師の字書について、世上、師の老齢を種に公に誹謗する向きが(少なくとも一名)あって、度しがたい迷妄に呆れたりするのだが、ここは「春秋左氏伝」の引用であり、師は特に関与していない。
[字通] 儓 タイ、ダイ しもべ けらい …..〔左伝、昭七年]に「天に十日有り、人に十等有り」として、「王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は阜を臣とし、阜は輿僕を臣とし、輿僕は隷を臣とし、隷は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は臺を臣とす」とあって、臺は第十等、〔玉篇〕にこの文を引いて臺を儓に作る。奴僕の乏称として用いる。…
つまり、「臺」は、本来、つまり、周制では、王、公、大夫から大きく下った文字を知らない隸、僚、僕、「奴隷」、「奴僚」、「奴僕」と続く最下等のどん尻である。官位などであれば、最下位は官人であるから、官位外に下があるが、臺はその限りを越えている。
後世、これでは蔑称の極みであり、「臺」の公文書使用に対して大変な差し障りがあるので、たまりかねて、人偏をつけて字を変えたと言うことのようである。
陳寿にとって、春秋左氏伝の用語は、史官教養の基幹であり、明瞭に脳裏に記録されていたから、周礼の片鱗をうかがわせる東夷「倭人」王の居処を呼ぶについて「邪馬臺」と書くことはなかったように思うものである。逆に、蛮夷の王の居処を「都」(みやこ)と呼ぶこともなかったのである。史官に於いて、尊卑のけじめは峻烈だったということである。
念のため言うと、南朝劉宋代に先人の後漢書を美文化した、当時一流の文筆家であった笵曄は、史官としての訓練を歴ていないし、西晋崩壊によって、中原文化の価値観が地に落ちた時代を歴ているので、「左伝」の用語で縛られることはなかったと見るのである。いや、教養として知っていて、東夷列伝の「其大倭王居邪馬臺國」に、「左伝」由来の卑称を潜めたかも知れない。范曄については、まことに、真意を推定するだけの資料がないから、東夷「大倭王」を蔑視していなかったという確証はない。
*朦朧たる笵曄後漢書「倭条」 余談
因みに、笵曄「後漢書」が言及することを許されていたのは、後漢代と言っても霊帝までが下限であり、献帝治世、中でも、曹操の庇護のもとに帝制を維持していた建安年間は、魏志の領分であるので、遼東に公孫氏が君臨していた時代のことは、書けないのである。そこで、笵曄は、女王共立の事態を、桓帝霊帝の時代にずり上げて、東夷伝に「倭」に関する一条を設けたのである。そのように、意図的に時代考証を混濁しているので、「其大倭王居邪馬臺國」 の一事も、
女王共立以後の「女王国」を指すというわけではなく、それ以前の伊都国僭上時代とも取れるようにしていると見えるのである。笵曄は、本来、朦朧とした記事を心がけていたものではない「文筆家」と自負していたから、女王が邪馬臺国を居処としていたと確信していたら、そのように明記したはずであるから、このような朦朧記事を書いたのは、後漢書東夷列伝「倭条」の根拠が不足していたと見えるのである。世上、魏志「倭人伝」記事が明解に解釈されたら、自説に不利なので、とにかく、朦朧とさせる「異説」が幅をきかせているが、その明源は、笵曄の朦朧とした記事に起源があるように見えるのである。
閑話休題
「臺」は、古典書以来の常識では、「ダイ」であり「タイ」ではない。俗に、「臺」は「台」で代用されたが、正史は、そのような非常識な文字遣いが許される世界ではない。
*百済漢字論考 余談
百済は、馬韓時代から早々(はやばや)と漢土と交流していたから、当然、漢字を早々に採り入れたが、自国語との発音、文法の違いに苦労して、百済流漢字、つまり、「無法な逸脱」を色々発明したようである。その中には、漢字に無い「国字」の発明や発音記号の創出が行われていたと見えるが、早々に中国側に露見し、撤廃させられたようである。つまり、中国側が、中国文化の違反として厳しく是正したものであり、百済では、すべて禁止事項となったが、「無法な逸脱」は、ふりがな記号、国字、「臺」「台」代用も含めて、百済から、海峡を越えた「倭人」世界に伝わったようである。但し、このような伝達が起こりえたのは、遙か後世の唐代であり、当ブログの守備範囲外、「倭人伝」の圏外であるので、あくまで、臆測に過ぎない。
以上は、「やまだい」と呼ぶしかない「邪馬臺国」が、「やまと」と読める「邪馬台国」に変貌したと言う無茶な変遷論と相容れないので、国内の古代史学界では言及されないように思えるのである。以上は、古田師すら、これには気づいていなかったと見えるから、「古田史学」は、「全知全能」「無謬」ではないのである。
*三国志統一編集の幻影 2023/09/16 余談
因みに、従来、つまり、「倭人伝」素人研究の開始当初、当ブログ筆者は、陳寿「三国志」の中で、「呉志」、「蜀志」の「用語」用例を、「魏志」の「用語」用例と同等の重みを持ってみていたが、丁寧に見ていくと、陳寿は、「魏志」以外の「用語」については、それぞれの「志」の原文をとどめているように見えるので、項目によっては、論調によっては、論議の矛を収めることがあることを申し上げておくものである。
因みに、陳寿は、「呉志」編纂において、東呉史官韋昭等が東呉公文書をもとに編纂した「呉国志」が、東呉降服の際に献呈された西晋皇帝によって嘉納されていたので、つまり、晋朝公認文書となったので、「呉志」において、孫堅、孫策、孫権を、東呉天子と見立てた不敬は是正したものの、それ以外は、原史料を温存しているのであり、曹魏君主を天子とした編集の筆を加えていないものと見えるのである。また、「蜀志」については、三国志の体を整えるために、蜀漢遺稿を集成させたものであり、ここにも、曹魏君主を天子とした編集の筆を加えていないものと見えるのである。
つまり、「三国志」というものの、それぞれの「国志」は、古来、「国志」として自立していたものと見るべきなのである。従って、三件の「国志」を統一した「通志」編纂は、行われていないと見るべきなのである。
このあたりの論義は、「倭人伝」解釈の躓き石になっているようで、近来蔓延(はびこ)っている暴言/誣告は、『陳寿は、その時次第で、思いつきの「ウソ」を書き散らす問題人である」と言うものであり、誰かの受け売りで、そのような暴言を書き散らしている著者を見かけると、後世に不滅の悪名を遺しているのに大変気の毒に思うのである。何しろ、電子書籍の初学者向け資料でコミックタッチであるからわかりやすく俗耳に訴え、その結果、取り消しようのない汚名が残っているのである。
*史官「立ち往生」 2023/09/16 余談
さらに敷衍すると、陳寿は、「魏国志」の編纂においても、原史料である後漢/曹魏公文書に編集の筆を加えず、原史料温存に努めたものと見るべきなのである。そのため、主として、遼東郡太守公孫氏の束の間の君臨と滅亡によって、一貫した史料集成が不可能であった「倭人伝」では、各時点の史料源の視点、価値観、世界観がまちまちであることが糊塗されていないので、とかく、継ぎ接ぎ(つぎはぎ)との評言が齎されているのである。つまり、「倭人伝」の二千字程度の記述においても、それぞれの部分の由来、出所の丁寧・地道な評価が必要・不可欠である。
ところが、従来は、具体的な論証無しに軽薄な臆測をもとに、陳寿に対して、「東夷伝」に曲筆を加えたとの極言/誣告が、事情に通じていない部外の「大家」から与えられていて、素人読者として困惑するのである。文献を全面的に精査せずに、「ぱっと見」で、あるいは、「食いかじり」で、印象評価するのは、困ったものであるが、俗耳には「大言壮語」が痛快に聞こえて、粗雑な悪評が世に蔓延る(はびこる)困った事態なのである。
陳寿は、あくまで、天職である史官の職務に忠実であって、正史の編纂を通じて天下に教訓を垂れるという尊大な意識は無く、あくまで、謙虚な「史官」の職掌に殉じたのであるが、高名で尊大な後世人集団によって、寄って集(たか)って、虚像、つまり、芝居の背景のように華麗な絵姿を押しつけられて立ち往生しているように見えるが、どうであろうか。
*結語 2023/09/16
と言うことで、ここでは、タイトルにも拘わらず、古田武彦師の「倭人伝」観に、いわば、一矢を報いているのであるが、あくまで、史観の一隅の瑕疵をつついているのであり、靴に砂粒が入った程度の不快感にもならないかもしれない。
以上
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