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2023年10月

2023年10月25日 (水)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 3141話 百済禰軍墓誌の怪

                         2023/10/25

 今回は、誠に不思議なものを目にしたのである。「古田史学の会」関西例会の発表であるが、

 「百済禰軍(でいぐん)墓誌銘」に“日本”国号はなかった! (神戸市・谷本 茂)
 が、「新発見」/「新説」として紹介されているのが、何とも奇怪、けったいなのである。
 当記事は、既出記事と齟齬しているのである。つまり、 
第2429話 2021/04/10
百済人祢軍墓誌の「日夲」について (3)
 ―対句としての「日夲」と「風谷」―
 で、一旦意義ある指摘として、認識/納得/公開されたはずなのに、今回記事では、すっ飛んでいると見えるのである。谷本氏は「古賀達也の洛中洛外日記」記事を読んでいないと思うしかないが、当の古賀氏が失念されているのは、何とも、奇怪である。

 因みに、前記過去記事では、当ブログ2018年記事が引用紹介されているので、「古田史学の会」に限定しても、公知の先行文献だと思うのだが、どうなっているのだろうか。

 ぜひ、読みなおして、再確認いただきたいものである。

以上

2023年10月13日 (金)

新・私の本棚 番外 ブログ 刮目天一 「権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆」 1/2

~刮目天(かつもくてん)の古代史だ! 2023/10/12 
権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆                         当記事公開2023/10/13

◯はじめに
 以下に参照しているのは、かねて私淑の刮目天一氏のブログであり、国内古代史関係を主体に広範、詳細な古代史論を展開されている一連の記事の最新の「コメント」です。氏の「倭人伝」観は諸記事に散在し的を絞った批判が困難でしたが、今回凝縮して頂いたのを幸便として、一生懸命に批判を加えたものです。なお、氏の見聞された動画には、ここで言及しません。

 「権力者が作った歴史書とは、権力の根源が正統であることを示す政治文書だという理解をすれば、西晋の史官陳寿が編纂した三国志、そして三世紀の倭のことが書かれた魏志倭人伝の内容を正確に解釈できます。」

*コメント

 文章の前提は「権力者が作った歴史書とは、権力の根源が正統であることを示す政治文書だ」と提示されますが、陳寿「三国志」魏志には不正確です。中国古代の公式史書は、時の「権力者」が作ったものでないのは衆知です。
 一転、「魏志倭人伝」を「西晋の史官陳寿が編纂した」と判定されますが、直前の前提と用語が整合せず筋が通らないのです。氏は「魏志倭人伝」の局地を説き、冒頭の前提は空を切って見えますが、以下、ご高説を拝聴します。

 「この観点から、魏志倭人伝の版本に倭大夫難升米が帯方郡に行ったのは景初二年(238年)六月とありますが、景初三年の誤写であることは明らかですよ。難升米が面会した太守は劉夏だと明記されており、先に明帝が送った太守とは異なる人物なのです。」

*コメント
 古代史学者の難詰で「魏志倭人伝」は独立史書ではないので「版本」など実在しません。丁寧に、陳寿「三国志」南宋刊本紹熙本の魏書第三十巻「倭人伝」部分と示せば、紹熙本に、「倭人伝」と小見出しがあるので明快です。
 何しろ、具体的に何の話かキッチリ説明しないと通じないのです。
 氏の持論で、「景初二年」は三年の誤写が明らかと断定されますが、素人目に「明らか」/「確実」なのは、南宋刊本に書かれている文字だけです。

 「魏志倭人伝には卑弥呼の朝貢を絶賛する詔書がほぼ全文掲載されており、司馬懿が尚書省を把握したので司馬懿が書かせたものですから、陳寿は司馬懿の功績を当時の西晋の朝廷の人々に明示するために書いたのです。(2023.10.12 赤字修正)」

*コメント
 倭人伝が引用するのは、蕃王への通達であり「絶賛」は時代錯誤です。
 「賛」とは、文字の含まれない、教養の示されていない職人芸「絵画」に、意義を認める文章/詩文を添えるのであり、「絵画」は、「賛」を得て始めて「文」芸と認められるのです。中国古代史で注意の必要な「単語」の一つです。

 「倭が朝貢したのは明帝の功績ではなく西晋の宣帝と諡された司馬懿の功績だと晋書にもあります。西晋が魏から帝位を禅譲されたので、三国志では魏を正統な王朝とし、西晋の朝廷の人々に対して司馬懿の功績を称揚するために書いたのだと分かります。」

*コメント
 「晋書」は、三国鼎立時代以来数世紀の乱世を統一し、中華世界を復元した唐代に、乱世の元凶「晋朝」事績を史書としたものです。三国鼎立を統一した中原天子ながら、王族が「大乱」を起こして北方民族に滅ぼされた「司馬晋」の罪科露呈に編纂されたので、「晋書」深意が司馬懿の罪科でなく「功績」は、勘違いでしょう。

 氏ご自身の言葉を借りるなら、「晋書」を「作った」のは、唐帝であり、それを承知した上で解釈する必要があるのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 ブログ 刮目天一 「権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆」 2/2

~刮目天(かつもくてん)の古代史だ! 2023/10/12 
権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆               当記事公開 2023/10/13 追記 2023/10/15

*コメント [承前]
 対して、陳寿は、西晋健在の時代に、司馬遷「史記」、班固「漢書」を踏まえ、「倭人伝」では、時点の皇帝明帝曹叡の「功績」を語っています。
 一方、明帝が臨終で遺孤曹芳を託した司馬懿は、忠誠を誓いながら、陰謀で曹魏の実権を握り、曹芳を諡の無い廃位に追い込んだと明記されているので、むしろ、非難とみるべきです。なお、司馬懿絵姿は無用/蛇足と愚考します。

 「魏志倭人伝の行程記事や倭の風俗記事は、難升米が朝貢のために約半年滞在して劉夏と司馬懿を持ち上げるために談合して作られたのです。これは、伊都国の国名の意味から判明し、孟子を読む教養人の難升米が漢字で書いて魏に教えたものであることが判明しています(詳細は「刮目天の古代史 伊都国の意味がヒントだった?」参照)。」

*コメント
 微妙な誤解ですが、難升米は、蛮王の代理[たる下級官吏(倭大夫)]に過ぎず、「魏」(帯方郡太守)に「教える」などあり得ないことです。天下を統率する「魏」と東夷の「倭人」の立場は隔絶しています。(倭の地位が格段に低いのです。念のため)因みに、難升米が、「天子と雖も、徳を喪えば失墜する」と説いた「孟子」を熟読したかどうか、証拠がないので臆測に過ぎません。急に細かくなって、劉夏を司馬懿と並べて持ち上げているというのも、今一つ理解できません。
 ついでながら、倭人伝冒頭の「郡から倭まで」の行程記事は、大変精緻で、郡太守と倭大夫如きが相談して、半年で作れるものではないはずです。いずれにしろ、西晋史官陳寿が、[西遷した後漢/魏朝公文書を]最終的に編纂校訂したから、そのように解するのが、氏の本意のはずですが、なぜか、ここでは不本意な書き方です。続く、風俗記事は、大半が現地見聞報告で、魏使訪倭以前に、書くことはできないのです。(一部[加筆]、削除 2023/10/15)

 「これによって邪馬台国の位置も、卑弥呼の正体も、卑弥呼の墓が日本最大の円墳の宇佐市安心院町「三柱山古墳」であることも発見しました(詳細「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。」 
 「古代史に謎が多いのは、政治的な理由から文献に真実が書かれていないからなのです。」「女王の居城の平面図」は省略
 「同時代史の三国志に懲りたシナは、それ以降、ずっと後の時代に歴史書を編纂する習慣が定着したので改善されましたが、原本が残っておらず、残された写本にも誤字などがあるために様々な解釈が出るという問題があります。
 「日本の場合は、現存する最古の正史「日本書紀」以下の六国史は藤原政権下で編纂されたものですので、天皇の歴史書ではなく藤原氏の権力維持のための政治文書だったということに気付けば謎の古代史はどんどん解明できますよ。」 

*コメント
 「日本」が発言した701年以降の「日本」古代史については、全くの素人で、刮目天氏の「日本書紀」観には口を挟めないので、ここでは素朴な疑問を述べるだけです。
 ・「日本書紀」原本は、現存しているのでしょうか。(当然、存在していないはずです)
 ・「日本書紀」現存写本は、写本の際に、都度厳格に校正され、解釈を迷わせる誤字などないものなのでしょうか。(数値化して比較していただければ幸いです)
 「ずっと後の時代」に編纂された歴史書には、余り通じていないので、恥を忍んで教えを請う次第です。お手数ながら、公平のため、確認いただきたいものです。
 因みに、古代史では、「問題」には、必ず解答があるのです。
 中国「正史」には、それぞれの由来、経緯がありますが、「三国志」魏志は、[刊本となった南宋期に至るまで、]幾度かの国家事業で校訂を重ね。大変確実なのです。

*余談
 氏を含め、業界人の「倭人伝」論は、陳寿「三国志」なる中国史書が、帝国公文書を編纂した「厳格な記録文書」であることに気づいていないので、岡田英弘、渡邉義浩両巨魁に始まる、素人の「思い込み」が色濃い「誤解流」史観に帰属した「俗説」に見えるのは大変残念です。

 氏が、「俗説」と一線を劃された古代史論を展開されているのは、重々承知しているのですが、当コメントに集約された「倭人伝」観が、世上蔓延している「俗説」に感染されていると見えるのは誠に残念です。中国史料については、調べが行き届いていらっしゃらないのでしょうか。

妄言多謝。頓首頓首。死罪死罪。

追記 2023/10/15 後出し御免
 「中国史料については、調べが行き届いていらっしゃらない」とは、言葉足らずであったようです。「史料について調べる」とは、史官の教養である古代史書知識を知るために、関連資料を読んで、史官の深意を知ることにあるのです。当ブログ過去記事では、漢書「西域伝」、倭人伝に続く魚豢「魏略」西戎伝をはじめ、袁宏「後漢紀」笵曄「後漢書」西域伝を併読して、誤解流の創始者たる岡田氏の年代物の骨董品である「断言」が確たる根拠の無い思い違い/誤解であると論証しているのです。岡田氏は、後年、中国史に関する理解を深めた後は、当然、「若気の至り」について思い直されたことと思うのですが、自説の根幹にあたるので、改訂できなかったと見えます。
 そもそも、陳寿が編纂した「魏志」は、編者の意図的な曲筆などあり得ない、前代史の事実/公文書資料の再構成なので、そこに書かれていない編集意図を臆測しても、思いつきの意見を立証することは、大変困難(事実上不可能)と信じます。
 岡田氏の意見を「素人の思い込み」と断じたのは、論証として必要な立証努力が完遂されていないことに起因します。

2023年10月12日 (木)

今日の躓き石 棋士に泥を塗る「リベンジ」パンチ 毎日新聞 「将棋UP・TO・DATE」

                    2023/10/12

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版総合面の「将棋UP・TO・DATE」コラムである。と言っても、記事自体は、女流棋士のトップクラスの意欲が紙面に溢れる読み物であり、記事自体に何の罪もない。ここでわざわざ書いているのは、棋界に通じている(はずの)担当記者が、無邪気に棋士に泥を塗りつけ、それが、毎日新聞朝刊の編集過程で是正されていないからである。つまり、これは毎日新聞社の恥である。
 カトモモ、移籍で飛躍期す 無冠の現状、じくじたる思い
 
 記事の終盤に向かうところで、大ポカが炸裂していて、残念至極である。「翌年、里見にリベンジされたが、タイトルへの意欲はより増した。」
 ここで記者は、気軽に書き飛ばしているが、普通に読むと、タイトルを奪取したために相手の恨みを買い、手ひどく復讐されたという意味になる。次は、当然、仕返し/報復である。これは、テロリストの血塗られた無限連鎖と同類であり、本来、戦争/殺し合いと無縁」の将棋にふさわしいものとは言えない。

 目下、野球界を基点として蔓延している『ダイスケリベンジ』は、「負けたら/失敗したら、もう一度出直し」という軽い意味でしかないが、記者は、どうしても、血塗られた復讐しか思いつかないようである。何れにしろ、カタカナ語の語源を辿ると、忌まわしい言葉しかでてこないから、同罪なのだが、それにしても、記者として、そのような風評を掻き立てるのは、どういうものか、困ったものである。これでは、トップ棋士が、口にしたとも見えるのであり、報道の趣旨に反していると思うのである。

 ちなみに、REVENGEは、キリスト教、回教、ユダヤ教で、神によって固く禁じられているので、無信心の日本人が無頓着に言い散らすと世界の信用を無くすだけである。大変大変重い、罰当たりな言葉である。だから、良識あるメディアから、姿を消している、はずである。

 どうか、担当記者は、自分の書いている記事の意味をよくよく考えた上で世に出して欲しいものである。天下の全国紙毎日新聞の朝刊総合面記事は、万人が信頼するお手本になるのである。このような忌まわしい言葉は、深い深い地中に埋めて葬って欲しいものである。

以上

2023年10月11日 (水)

36. 「明帝の景初三年」はなかった 魏朝景初暦考 <コメント対応版>

                                                            2016/07/10 追補 2023/10/11
◯追補の弁 2023/10/11
 本件は、先行するコメントに対して丁寧に応答しているが、今般、別の方から新規コメントがあったので、今回は、丁寧にお答えする。
 正直言って、明らかに、本項の内容をほとんど理解していないと思われるので、言い方を変えて理解を仰ぐのだが、その際、コメント内容について、教育的指導を加えたことをご容赦いただきたい。コメント子の今後の考察に対して、何か有意義な貢献できれば幸いである。

◯初稿の弁
 最近、古田武彦氏の日本書紀神功記の三國志引用記事が「明帝の景初三年」としているのに対する批判について一方的に酷評する記事を見かけて、いったんは、軽く回答したのだが、ひょっとして、この論者は、中国の太陰太陽暦に沿った暦制が理解できていないのでないかと思い至って、以下、失礼を顧みず、初級者向け姿勢に立って、長文を顧みず、書き起こしたのである。

1.太陽暦と太陰太陽暦
 古代ローマの時代に、ユリウス暦が施行されて以来、途中、閏年の回数について改善されたグレゴリオ暦に切り替わったものの、太陽暦の基本構造は、一年365日、ただし、閏年あり、と言うルールであり、計算しやすいので、現代は広く行われている。
 これに対して、太陰太陽暦は、月の満ち欠け(朔望)を1カ月としているので、概して言えば、19年に7回、13カ月ある年を造って、1年365日に近い運用で、季節のずれを軽減している。
 従って、例えば、魏の景初二年が西暦何年に相当するというのは、極めて大雑把な言い方であって、いわば景初二年のかなりの部分が、ほぼ確実に西暦何年の365日からはみ出しているのである。いや、年によっては、西暦の365日が太陰太陽暦の一年を呑み込んでいるときもあることだろう。要は、一致していないと言うことである。
 一々暦を計算して書き出すのも面倒だと言うことなのだろうが、こうした食い違いは計算誤差などと言うものでなく、単に古代史論者の怠慢なのである。

2.太陰太陽暦の運用
 太陰太陽暦を実施するに際しては、19年に7回の閏月をどの年のどの月に置するか、それでなくても、毎月の大の月と小の月をどう組み合わせるかで、月々の日々と24節気で表される季節推移のずれを緩和するなどの効果が異なるので、毎年毎年取り扱いが変わるものであり、暦の専門家以外には、翌年の暦を確定できないものとなっていた。
 つまり、暦をどのように決めて、それを広く公布すると言うことは、国家権力の現れになっていた。

3.景初暦の始まり
 さて、問題の景初三年であるが、景初年間は、独特な暦制が施行された年間であり、これは、魏書明帝紀に明記されているように、関係資料を読み進めれば、当然理解を迫られる事項なので、いわば衆知の事項と思うのだが、素人の特権で、一席ぶたしていただくことにする。
 明帝紀景初元年記事として、青龍五年になるはずだったこの年の三月(いや、青龍五年二月か)、魏帝曹叡は、青龍を景初に改元すると共に、新たに、この月を新元号景初の四月とする景初暦と呼ばれる暦制を公布した。其改青龍五年三月為景初元年四月。

4.移行期の混乱
 ここで戸惑うのは、この項が、景初元年春正月と書き始められていることであるが、景初暦を遡及させて適用すれば、これは、旧制で、青龍四年12月であったはずであり、案ずるに、青龍四年は11月で終わり、続いて景初元年正月となることが、魏朝内部では公式か非公式かに行われていたものではないかと思われる。
 いや、これだけでも、現代人は頭がこんがらかってくるのである。

5.「烈祖明帝」願望~余談として
 因みに、魏朝皇帝曹叡の改元の抱負は、曹操を太祖武帝、曹丕を高祖文帝とし、創業の徳を受け継いだ曹魏第三代皇帝たる曹叡は、烈祖*帝(諡は未定だが、明帝を希望していたかも知れない)となって、創業三代それぞれが霊廟を持ち、曹魏が続く限り永代尊敬されることを望んでいて、「烈祖」にふさわしい偉業として、後漢の後継王朝でなく画期的な創業王朝を築くものとして、相応しい暦制の施行を図ったもののようである。因みに、同時代であるが、蜀漢の開祖劉備は、昭烈帝の諡を受けているから、併せて「烈」には、抜群の功績がこめられているとわかるのである。言うまでもないが、劉備は、遠く、高祖劉邦が創設した漢王朝が、曹魏を気取る曹丕によって、天下を奪われたのに対して、これを復興する志を示したのであるから、太祖、高祖とは名乗らず、烈祖と名乗ったものと見えるのである。
 曹叡は、現代風の満年齢で言うと30歳を前にした血気盛んな若者であり、それこそ、二,三十年は頑張って、天下を統一拡大する前提であり、数年後の夭逝は、当然ながら想定していなかったのである。

*明帝「厚遇」論評~2023/10/11
 明帝の「倭人」に対する厚遇は、その大志/野心を示していると見えるのであり、初見の些少な献上に対する潤沢な下賜物は、むしろ、明帝の大志に引き比べると適正であり、別に過褒ではなかったと見るものである。そのような趣旨は、陳寿によって、明帝紀に賛辞として書き込まれていて、「倭人伝」は、夭逝した明帝に対する哀悼の意を示していると見えるのである。いや、明帝紀に明記されてはいないという意見も多いようであるが、読者がその深意を解することができれば、明記されているのと同然である。
 因みに、後世東夷の一部に、『「倭人」がエビジャコでタイを釣った』とか尊大に講評する言う向きがあるが、要するに、当の評者の感性が、時代的な漢蕃管理、曹魏帝国の鴻臚の趣として、どう考えていたか、など適確に斟酌していないので、単なる「偉大な」素人考えにとどまっているのである。
 景初の訪魏倭大夫は、ほんの粗品しか携えていなかったのであるから、「朝貢」の形になっていなかったと明記されているのであり、これは、時代錯誤の「貿易」とは、全く無関係である。むしろ、至上の天子である明帝に、一方的な高邁な世界観/誤解があったと見るものではないか。
 後世東夷の素朴な心情を離れて、時代を越え同時代の明帝の内心に迫る理性で考証すると、そのように見えるのである。

コメント批判 2023/10/11
 以下、今次コメントは、当記事全体に対する読者からの批判と思われるので、何とか、当方の深意をご理解いただきたいものと丁寧に反駁するものである。それにしても、コメント子の思考が読み取れない理由は、「用語、概念の揺らぎ」(錯解)にあることを具体的に指摘するだけであり、他意はない。要するに、言葉が通じていないのであるから、当方の深意が伝わっているとはとても思えないのである。と言って、コメント氏の世界観は、この下りから、知るすべがないのである。私見であるが、凡そ、他人に意見を述べる際には、相手の「用語」に併せて、ご自身の深意を説いて頂きたいのである。特に、当方は、多大な紙数を費やして、用語を整え、論理を整頓しているので、少なくとも、明らかに、当方の容易に理解できない論法では、深意が伝わらないと自覚していただきたいというものである。

 景初暦では景初2年が景初3年になる。
 *意見
 いくら見直しても、意味不明である。景初暦は、魏の明帝の景初元年(237年)から晋(西晋/東晋)を経て南朝宋の文帝の元嘉二十一年(444年)まで運用された厳格な国家制度(Wikipedia)であり、その間、厳格な規則に従って書かれていた公文書に誤って記載されることはあり得ない。

 日本書紀はその景初暦に基づく歴史書を見た。
 *意見
 「日本書紀」は、史書、つまり、無生物であるので、何かを見ることなどあり得ない。
 「歴史書」と無責任に述べているが、ここでは、「魏志」しか該当しない。「魏志」で、景初元号が登場するのは、明帝紀及び該当「伝」である。見たのは、魏志の原本ではないのは明らかであり、三十巻全体の写本かどうかも不明である。どうやって、小見出しもない三十巻の魏志から、該当部分を見つけて、書き取ったのか不明である。そもそも、いつ時点の写本であるのかも不明である。それとも、コメント子のお手元には、正体不明の景初暦で綴られた「歴史書」が現存しているのだろうか。不可解である。
 コメント子は、ひょっとして、「梁書」などの後世史書、さらには、「太平御覧」などの後世書物を想定されているのかもしれないが、それらは、「全て」中国書籍の規則に従っているので、東夷の書物である「日本書紀」にある「明帝景初三年」のような違法な記事を書くことは「絶対に」ない。明帝は、景初三年の元日に逝去したので、景初三年を「明帝景初三年」と書くことは重罪であることは、そのような原則に無知な東夷のものしか考えられない。
 確認すると、「日本書紀」にある「明帝景初三年」は、無知な東夷のものにしか書けないものである。「倭人伝」の「景初二年」の考証の役に立たない雑情報でしかない。要するに、どう善解しても、無意味な主張であり、何の足しにもならない。

 その後、景初暦は削除され、西暦1000年頃標準暦に戻された。
 *意見
 景初暦は、新暦に移行したが、既に公文書に書かれていた景初暦に基づく記事は、一切変更されない。それが、公文書の厳格な規則である。
 また、景初暦は、運用を外れただけで、別に削除されたわけではない。公文書記録とそれに基づく「魏志」は、景初暦を採用しているので、「景初暦」は、いわば「不滅」である。 要するに、歴代公文書を遡って修正することなど不可能なのである。
 因みに、陳寿は、史官の責任で、歴代公文書に基づいて魏志を編纂しているので、原史料に景初三年と書かれているのに、景初二年と書くことはあり得ない。
 中国史料も日本史料も、西暦と無関係なので、「西暦1000年」が何なのか意図不明である。
 標準暦」が何なのか、全く意味不明である。中国史を通じて「標準暦」などあり得ない。

 よって魏志倭人伝最新版は景初2年に修正されている。
 *意見
 「よって」と無造作に言い放っているが、ここまでの説明は飛び飛びで欠落が続いているので何の理屈も付いていない。
 「魏志倭人伝」最新版が、そのような修正を受けていると主張されているが、「魏志倭人伝」という独立して管理された史書は存在しないし、「最新版」(南宋刊本のことか??)など存在しない。魏志第三十巻に対して修正を施したことになるが、歴代王朝が「国宝」として死守していた史書を修正することなど不可能である。
 陳寿没後、用意されていた「魏志」最終稿が西晋皇帝に上程され、以後、「国宝」として、厳格に継承されていたので、厳密な確認ができているのである。もちろん、ここで論じているのは、国宝級写本であり、世上出回っていたであろう「在野」の野良写本に責任を持つものではないし、そのような野良写本から抜き書き、盗みとった聞きかじり所引を書き写した外野書籍についても、責任を持つものではない。
 そのような信頼できない史料と「国宝」写本に厳格に追従している南宋刊本とを同列に論じるのが、間違っているのである。

 つまり、まずは、何のことなのか、主張、用語、概念の乱れで読み取れないので、無理に解釈しているものであり、誤解があればご容赦いただきたい。

 当方の思考、用語等は、当ブログの記事で克明に公開されているので、理解できない箇所があれば、具体的に質問いただければ良いのにと思うものである。正直言って、コメント子は、本稿を読み進み、ご理解なさった上で反論しているとは思えないのである。
 その点、大変、不満であるが、当方は、教育者でも何でもないので、当方の意見を強要するものではないのは、言うまでもないと思う。折角コメントをいただいたので、当方なりに回答するものである。

以上

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