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2023年10月

2023年10月26日 (木)

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 1/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26

◯はじめに
 以下、本稿で批判する付表は、前稿に続く一部に過ぎないが、内野氏が、会長の立場で倭人伝道里の諸説を集約したと見えるので、まとめて批判を加えた。多様な誤謬は俗耳に膾炙していると見え、本稿は、卑(柄杓)の一振りで、些細な撒水を試みているのだが、広く燎火を鎮めることができれば幸せである。
 ともあれ、掲載された表は、疑問点満載で、批判内容を表内に書き込めないので、誰でも読解可能な平文に展開して逐条審議している。

大月氏国と倭国・女王国から見る魏の国内・国際情勢
◯大月氏国
記録
 「後漢書」西域伝・大月氏国の条「229年12月 明帝は大月氏波調王(ヴフースデーヴァ王)」に「親魏大月氏王」の金印

 范曄「後漢書」西域伝には、以下の記事があるのみである。後漢は、220年に魏に天下を譲ったから229年は、場違いである。

笵曄「後漢書」西域伝 中国哲學書電子化計劃
 大月氏國居藍氏城,西接安息,四十九日行,東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里。戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人。
 初,月氏為匈奴所滅,遂遷於大夏,分其國為休密、雙靡、貴霜、驸頓、都密,凡五部臓侯。後百餘歲,貴霜臓侯丘就卻攻滅四臓侯,自立為王,國號貴霜王。侵安息,取高附地。又滅濮達、罽賓,悉有其國。丘就卻年八十餘死,子閻膏珍代為王。復滅天竺,置將一人監領之。月氏自此之後,最為富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。

 して見ると、内野氏は、引用の根拠を大きく取り違えていて、正しい出典は、陳寿「三国志」魏志明帝紀と見える。もったいないことである。

陳寿「三国志」魏志 明帝紀 (太和三年十二月)
 癸卯,大月氏王波調遣使奉獻,以調為親魏大月氏王。

 魏志に「大月氏王」に「親魏王」印授が下賜された記録は見当たらない。まして、氏が謳い上げている「金印」が、古来言う「青銅印」であるか、異例の「黄金印」であるかは、正史からは、読み取れないと見える。古典的な「金印」(青銅鋳物)は、原材料が潤沢で、製造設備/技術も帝室付の製造工房である尚方に完備していたから、製造が「容易」であったため、漢代を通じ、蕃夷使節の来訪に際し、正使、副使に始まり、侯国の使人、果ては、随員に至るまで、印綬が大盤振る舞いされたとされているから、別に希少価値は無く、単に、再訪の際に、街道関所の過所(通行許可証/手形)、身分証明となったに過ぎないと見える。一部で、印綬は、国王代替わりの際に一旦返納するという説を唱えている諸兄姉があるようだが、万里の彼方から、あるいは、波濤を越えて、代替わりの報告に来いというのも、無理難題に属すると思うのである。近郊であれば、年々歳々時候の挨拶に来いということもあるだろうし、近郊であれば、対した下賜物もいらないだろうから、「歳貢」もあったろうが、それは、鴻臚が漢制に従って命じたものだろう。

 「貴霜」国なる国名について言うと、蕃夷来駕を受け付ける「鴻臚」の蕃夷/掌客台帳には、「貴霜」の文字は無く、その実態に拘わらず、大月氏国が王権伝統されているとして受け入れたのである。もちろん、本紀は、皇帝が受け付けた国書に従って、「貴霜」国としたであろうが、鴻臚の台帳は、漢武帝以来維持されていたので、更新も改竄もできず、「大月氏」として受け入れたことになっているようである。
 因みに、南北朝の分裂期を統一した隋唐は、北朝を展開した蕃夷の流れに属するので、伝統的な鴻臚の掌客の格付けがどのようになったか、調べる必要がある。
 どちらが正確な解釈であるかは、当方の素人判断の域を外れているので、断定は避けたい。
 
国内・国際状況 
 魏は西方の蜀と戦争状況の中、西方彼方の大国・大月氏国(クシャーナ朝)からの交易、同盟を目的にした遣使を歓迎した。
 司馬懿のライバルで西方経営を進めた曹氏の功績になった

 明帝紀記事は、儀礼記事であり「歓迎」したなど冗句である。このあたり、私見を付け足す悪習は、中々なくならないようであるが、論者の浅慮をむき出しにしていて、もったいないことである。

 魏は、関中を辛うじて勢力範囲内に保っていたものの、その西方、西域の入り口にあたる河西回廊は、涼州勢力が蜀漢と連携していたため、服従させられなかったので、事実上、西域への扉を閉ざされていたと見える。一方、概して蜀漢と連携していた東呉は、敦煌方面に商人を送り込んでいたことは、西域から「三国志」呉書に類する紙文書の断簡が出土していたことから、明らかである。というものの、涼州は、蜀漢に臣従していたわけではないので、涼州の帰属は不明である。
 ということで、「大月氏」が涼州勢力の目を潜って洛陽に参上したのは、あるいは、金銀玉石などの秘宝を通行料/謝礼として積んでのことかもしれない。世上、同時代の西域勢力分布が、麗々しく地図化されているのにお目にかかることがあるが、大抵は、良くある法螺話に過ぎない。

 班固「漢書」、笵曄「後漢書」に代表される正史記録から見ると、かつて、漢武帝使節に応対した大月氏は、匈奴同様の騎馬掠奪国家であった。涼州辺りに根拠を持って、北方に一大勢力を形成していたらしいが、匈奴の勃興で覇権を奪われ、遙か西方に夜逃げしたのである。但し、概して、城壁国家でなく、天幕に居住して、財貨は、金銀玉石としていたから、「全財産」を携えても、身軽であり、騎馬部隊として逃亡することが可能だったのである。全財産と軍馬をもとに、強力な騎馬軍団によって、亡命先のオアシス国家「大夏」を乗っ取り、周辺諸国を侵略、掠奪し猛威を振るったのである。
 移住当初、西の大国安息国の東方拠点を攻撃し、「国王」親征軍を大破して、国王を戦死させ、大量の財宝を奪ったと、欧州側の史書に記録されている。安息国は西方の王都が号令して、近隣諸侯を動員して復仇したが、以後、両国境界付近のオアシス都市マーブ要塞に二万の大軍を常駐させて、大月氏/「貴霜」国の再来に備えたのである。
 貴霜国は、後漢代においても、生来の掠奪/侵略志向は健在であり、東方勢力である西域都護班超に反逆し、都度鎮圧された札付きの盗賊国家である。
 後漢後期は、西域都護の撤退に乗じて西域西半を支配した時代であるから、魏代に移って「交易、同盟」とは白々しいが、西域無縁の魏朝は、「金印」下賜で体面保持でき、西域都督を常設するより随分安上がりで、善哉であったろう。

 但し、三世紀当時、西域有力勢力であった貴霜国も衰退期で、追って、西方のペルシャ領から興隆してパルティア(安息)をイラン高原の支配から追い落としたササン朝波斯に服従したと見える。陳寿が言い残したように、蛮夷の諸族王の消長は、誠に儚いものである。

 以上、ちょっとした背景説明のはずが、字数が募ったのは、国内視点で西域を眺めている諸兄姉に、現地視点の史談を試みたものである。世の中、「一刀両断」は、歴史のほんの表層を撫でるに過ぎないのであって、何も斬れていないのである。

功労者
 魏の鎮西将軍 曹真の功績。子の曹爽と司馬懿はライバル

 蜀漢勢力に西方を阻まれた窮状からすると、まさに 「棚からぼた餅」の蕃王来訪では、軍功/功績になどならない。後漢西域都護に対する反抗の数々は、明帝紀上では、云わないことにしたとしても、後漢代以来引き継いでいる鴻臚の記録には、堂々と記録されているので、この記事を持って、魏志「西域伝」を設けるなど論外に違いない。魏志第三十巻巻末に、劉宋裴松之が補追した魚豢「西戎伝」は、大部の蛮夷伝であるが、内容のほとんどすべては、西域都護が健在であった後漢代の記事を承継したものであり、後漢末期に西域都護を撤退して、「貴霜」国に西域の西半を支配された事態が魏朝に引き継がれた魏朝の失態が明らかになるから、魏志「西域伝」は魏志から割愛されたのである。
 このあたり、劉宋当時、西域伝の欠落を難詰する批判が無視できなかったため、裴松之が、論より証拠とばかり、魚豢「西戎伝」の善本を貼り込んだのだが、二千年後世の東夷は、史料を読めないために、裴松之の注釈が陳寿の「西域伝」割愛を断固支持した意義を理解できず、無意味な批判を繰り返しているのである。いや、大抵の論客諸兄姉は、陳寿の残した三国志原本に不備があったため、裴松之が補追した裴注本が三国志完成版と見ているようだが、それは、事情ののみ込めていない二千年後世の東夷の浅慮なのである。
 裴松之は、当時の劉宋皇帝を始めとする時代読者の圧力に従いつつ屈せず、大量の「蛇足」を不備を承知で付け足したものであり、それら「蛇足」の補追されていない陳寿原本が、「三国志」として完成されていると「密かに」述べているのである。いや、「密かに」と云うものの、文意を読解できる有意の読者には「自明」なので、明言したに等しいのである。
 裴注による補追の中でも、魚豢「魏略」「西戎伝」は、ほぼ原文収録されているので、一度、筑摩書房「三国志」に収録されている日本語訳を読み取っていただきたいものである。

 因みに、魚豢「魏略」「西戎伝」は、「魏志」「西域伝」ではないので、当時、洛陽の書庫に収容されていた後漢/魏公文書を収録していても、正史としての厳正さに疑義が無いわけではない。明らかに、魚豢の私見が無造作に書き足されている部分や錯簡、落簡らしいものはあっても、無造作な校訂、改竄の筆が加わっていないのは明らかである。
 因みに、東夷伝、特に「倭人伝」に関して、裴松之が、ほとんど「魏略」を起用していないところから明らかなように、陳寿の編纂は、粗略と見える魚豢の編纂の上位互換であったため、裴松之が黙殺したと見えるのである。

 もちろん、魚豢は、烈々たる魏の忠臣であり、蜀漢、特に、逆賊の首魁と目される(「敵」などと敬称を付することは無い)諸葛亮に対して、猛然たる反感を表明していても、「老獪な陰謀で魏の実権を握り、ついには、天下を簒奪した司馬一族に阿(おもね)ることはあり得ない」ので、魚豢「魏略」に世上言われるような「曲筆」はあり得ないのである。
 して見ると、こと「倭人伝」道里記事に関しても、魚豢「魏略」は、「郡から倭まで」「万二千里」と書いていたはずである。もし、それを曲筆で「二千里」と書いていたら、裴松之が、すかさず付注したはずである。

 それにしても、司馬懿は、曹操、曹丕、曹叡、曹芳四代の「幹部」であり、曹爽と同列/「ライバル」視は侮辱であろう。同年代の曹真はともかく、曹爽の如き青二才は、問題外と見ていたはずである。もちろん、当時の洛陽の高官・有司は、両者の格の違いを見ていたはずである。「ライバル」が示している「川釣りの漁場争い」などとは、別次元なのである。

 因みに、史官は、周代以来、国家官制の中で、むしろ取るに足りない卑位の官人である。また、後世の形容で「正史」と言っても、「三国志」に関して言うと、三世紀当時、写本の流通は無いに等しく、まして、全巻を所蔵する愛書家は存在したとしても、全巻熟読する読書人は、取るに足りなかったから、「正史」の影響力は希少であり、現代風に言う「政治的文書」などではなかったのであり、その意味でも、「正史」編纂に「権力者」が干渉することは皆無に等しかったのである。

 それにしても、ここでも、三世紀に存在しなかった生かじりのカタカナ語は、文意を掻き乱し品格を下げるので、ご使用を控えていただいた方が良いように思える。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 2/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26

方角
 西方シルクロードの彼方の国

 貴霜国は、後世、遙か西方「ローマ」に延びていたとされる「シルクロード」の傍路であり、西インド方面に勢威を振るっていた。方角違いである。因みに、古代中国に「シルクロード」の概念は無い。

人口
 都10万戸 カニシカ王時代(在位(144~171)
 倭とは比較にならないほどの大国。

 班固「漢書」西域伝、笵曄「後漢書」西域伝、共に、大月氏に「都」は無いとしている。「王都」が認められたのは、西方の「超大国」安息国であり、同国は、宿場を備えた街道網を完備し、皮革紙に横書きする「文化」を有し、漢使が訪問した東方国境部から西方メソポタミアの国都まで、騎馬の文書使が往来することによって、今日で言う「軍事」「外交」の全権を与えていたのであるから、漢に勝るとも劣らない「法と秩序」の実質を認められていたのである。
 氏の云う「人口」は、西域伝「口数」のことか。「倭人伝」に「口数」は無いから、比較しようがない。また、遠隔の地の「人口」など、「国力」として評価できないのは明らかである。
 中国古代史では、「大国」は不属の「主権国家」であるが、「大月氏」は、少なくとも一度は、戸数、口数、道里を西域都督に申告して服属したから、「大国」定義を外れ、「倭人」と同格である。それにしても、「倭とは比較にならないほど」は、弱小対象物を予告するものである。

距離
 魏の都、洛陽より大月氏国まで1万6千370里
 記録16000里X434m=6944㌔ 実測4000㌔(長里の実数に近い)

 笵曄「後漢書」西域伝では、「大月氏國,居藍氏城,... 東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里」であり、どこから万六千里とされたか、根拠が見当たらない。要するに、一万六千里は「実測」などされていない。勘違いであろう。又、当然ながら当時の概念で「距離」は、無意味である。「長里」「実数」は、意味不明である。
 明らかに、当時の「貴霜国」王の居処は、 大月氏の藍氏城とはかけ離れていて、当然、道里は異なるが、「公式道里」は、当初のままだったのである。これは、漢魏代に限らず、当然であった。
 勘違いと意味不明では、論拠にならない。いや、この「駒」の話に限ったことではない。

国力
 中央アジアの大国、クシャーナ朝・カニシカ王時代最盛期、後漢と接す。東西貿易で栄える。軍騎10万

 内野氏の云う「国力」の尺度が不明では、読者として、評価検証も、大小比較もしようがない。倭人伝に「軍騎」はない。
 笵曄「後漢書」西域伝は、「戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人」と登録していて、耕作地を付与された「戸」が十万、つまり、収穫が十万戸に対して、十万の兵がいたとしているが、これは、常備軍とは見えないのである。それとも、各戸は、四人と見られる戸内から、一名の成人兵士を出しても、平然と農耕に勤しんでいたのだろうか。何れにしろ、この数字は、西域都護に対する申告/登録数であり、百年を経て、貴霜国に大成した時点では、これらの数字は現実離れしていたのであるが、更新はされていないのである。
 「後漢と接し」たと云うが、後漢は、西域都督に折衝させていたのであり、格落ちの相手と見なしていたのである。
 前記の如く、大月氏は、後漢西域都護と角逐して屈服していたのである。又、西方は、一度侵略/掠奪に成功したパルティア侵略が、以後撃退され、大きく反撃/侵入を許している。
 どの時点の国力を評価するかと言えば、貴霜国の盛時であろうが、それは、後漢書に記録されていないし、いずれにしても、儚いものである。
 「貴霜」国繁栄の起源は、インダス川流域文明を活用した南方の商材を多としていたはずであり、「東西貿易」で栄えたとは、浅慮と見える。

 本当に貿易立国であれば、大量の軍騎は不要である。西方の安息国は、自衛のために二万人を境界部に貼り付けていたが、貿易相手を侵略して、掠奪する意志は皆無であったから、常備軍は、僅少であった。

 三世紀当時、どこにも「中央アジア」の概念は無い。また一つの時代錯誤である。ギリシャ流に云えば、「アジア」は、地中海東岸地域である。勘違いしてはいけない。

距離・説
 ほぼ実数に近い

 この「駒」も、何の話やら、皆目分からない。各駒が意味不明では、表にして対照する意味が無いように思われる。古来、史学論で、作表して、読者を煙に巻く手法は、学問的に無法と見える。読者が、一定の理解をしない提言は、眩惑志向であり、学術的に無意味である。

 以上、大変な不勉強で、ここに「仮説」を提示できるものではないと見える。

◯倭国・女王国
記録
 [魏志倭人伝]倭人の条「239年倭の女王卑弥呼に「親魏倭王」金印を仮綬する」(過分なる恩賞、好意的)

 「魏志倭人伝」と書いて、「倭人の条」は、無意味である。「」内の記事は、見当たらない。正史の記録文に、「過分」とか「好意的」とか、私見を書き足すのは、稚拙と言われかねない。

 遼東の大国・公孫淵には「楽浪王」のみ。

 「遼東の大国」と虚名を課されている公孫淵(人名である)は、後漢/魏の遼東郡太守である。「大国」など、見当違いである。
 漢制の郡太守は、帝国の根幹をなす大身であり、国王に等しい高官であり、国王は、漢・魏代、皇族にしか許されない格別の称号である。因みに、「親魏倭王」は、漢制の王などではない「蕃王」であり、単なる髪飾りである。
 
国内・国際状況
 司馬懿は朝貢した倭を呉の背後と位置し、皇帝に呉の海上支配に対抗する大国と報告し司馬懿自らの功績を高めるために金印を仮綬させた。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 3/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26

国内・国際状況 (承前)
 司馬懿は、遼東郡を撲滅した際に、官吏、公文書もろとも、破壊し尽くしていて、とても、東夷管理」の継続、拡大を志していたとは見えない。また、当時、司馬懿は、魏の最高権力者ではなかった。
 帯方郡は、司馬懿遼東征伐とは別に、明帝の勅命で、公孫氏の任じた郡太守は更迭され、新任太守のもと、帯方郡は、平和裏に皇帝指揮下に回収され、倭人に対して、「すぐさま」参上を指示できたと考えるのが、自然な成り行きではないか。

 郡の太守弓遵と使者梯儁は大月氏國に匹敵する同等な国とすべく距離、人口を報告した。

 帯方郡太守にとって、関心の的は、洛陽の意向であり、西方の大月氏などは無縁で、何も知らされていない/分からないから、「匹敵」など考えようもない。とんだ白日夢である。
 「倭人伝」に、距離・人口は書かれていない。史料にない事項を言い立てるのは、内野氏の白日夢であろうか。誰か、覚醒してあげないのか。

 郡太守と官人使者(行人)は、身分違いで対等ではないから、結託して策動することは不可能である。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。新参の蛮夷への使者は、時として、いきなり斬首されるから、大臣の官人は任用されないものである。

 そもそも、新任の郡太守には、使節団の現地報告を「捏造」する動機は、全く無い。「こと」が露見すれば、一族皆殺しである。また、洛陽での評価を上げようにも、当然、このようなつまらない事項に、命をかけるはずがない。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。
 官人使者にしても、行人の大命を受けて、艱難辛苦の果てに大過なく往還したのに加えて、意味不明な指示を受けて報告を捏造して、それが功名になるのかどうか、皆目不明だから、命をかけるはずがない。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。

 何しろ、いくら粉飾しても、何れは、郡倭の間で使者の往来が復活するから、「道里」「戸数」は、知れるのであり、この時点で、ことさら必死で粉飾しても、早晩露見するのは、明らかである。郡太守は、子供ではないから、その程度の分別は有していたはずである。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。

 それにしても、明帝の手元には、生前に帯方郡の「」倭人公文書が、大挙将来されていたのであるから、「倭人」の身上は、とうに知れていたのである。公孫氏のもとで、長年東夷管理に従事していた郡太守が更迭され、新米に入れ替わっていたから、史料継承に難があったにしても無理のないところだが、最終的に、使節団派遣までには、倭までの行程は四十日程度と知れたのである。
 経過を振り返ってみると、「道里」「口数」の数字は、公孫氏の公文書遺物が、明帝に無批判で採り入れられた結果と見るのが、もっとも自然であろう。そうではないと主張するのであれば、半仮睡の臆測で無く、具体的な根拠を示すべきである。 

 どう考えても、内野氏の提案は、とんでもない言いがかりでは無いかと思われる。それとも、現代の古代史研究機関は、そのような捏造が日常茶飯事なのだろうか。とんだ、時代錯誤の幻想である。

功労者
 魏の大将軍 司馬懿の東方経営を進めた功績とすべく皇帝に強く上奏した。

 創作された司馬懿の「東方経営」は、時代錯誤の無意味な概念である。従来、司馬懿は、西方の蜀漢侵攻に対する「抑え」であったから、利用東方面に関しては、白紙に近かったと見える。もちろん、何の功績も立ててはいない。
 仮に、司馬懿が「東夷」情勢を評価したとしても、地域の「交易」は、遼東半島から山東半島を往き来する渡海船が主力であり、また、遼東郡太守公孫氏は、勢力拡大に際しては、南方/西方との交易が盛んであった山東半島青州地域の支配に尽力したのであり、帯方郡の管轄する「荒地」は、意識の片隅にしかなかったのである。当然、司馬懿の意識した「東方」は、高句麗の支配地域であったと見えるのである。氏の意見は、随分方向感覚が、ずれているように見える。

 帯方郡の管理した韓、穢、倭は、札付きの貧乏諸国/荒地であり、経営しようがない。漢武帝が朝鮮国撲滅後に、強引に四郡を創設したが、半島東南部諸郡は、設立されたとしても、忽ち「経営破綻」して引き払っているのである。残ったのは、半島中部以北の楽浪郡、そして、玄菟郡である。
 それにしても、誰がどのように「強く上奏」した証拠があれば提示いただきたい。内野氏の私見では、当時、司馬懿が最高権力者だったのだから、別に誇張の必要は無く単に上奏すれば良いのである。

 因みに、半島の三韓諸国は、晋代以降、高句麗が公孫氏の軛を免れて大挙南下したこともあって、百済と新羅の自立に進んで、高句麗共々帯方郡の支配を跳ね返し、帯方郡は、楽浪郡共々撤退したのである。ことは、司馬懿が、遼東郡の東夷管理体制を丸ごと破壊して、「東方経営」など放念したことから来ているのである。

方角
 東南の大海の中、会稽東冶の東、呉の背後の国。南方的記述。

 どこの「東南」か、意味不明である。「大海」の方角ではないはずである。恐らく、氏の語彙にある「大海」は、倭人伝の説く「大海」と大きくずれていると思われるが、氏は迷言しないので、何も伝わらないままである。
 当時の中原人の世界観で、「呉の背後」 は、交址(ベトナム)、緬甸(ミャンマー)と思われる。
 「南方」も、どこから見て南方なのか不明である。「帯方郡から見て南方」と言うなら、狗邪韓国も、壱岐、対馬も「南方」である。とんだ呪文である。
 時の皇帝は、恐らく少帝曹芳であろう。さらに疑問を掻き立てる「呉の背後」については、後述する。

人口
 女王国の都7万戸(35万人)倭国15万戸(75万人)日本人口(鬼頭宏)59~75万人。あまりに少ない数字。
 推測200~300万人と多めに見て九州30~45万人、倭国15万人)

 三世紀当時「人口」は、無意味な概念である。とんだ時代錯誤である。戸数から、現代流の「人口」を換算するのは、各戸の内情が不明である以上、無謀である。
 当時、倭人に戸籍簿はなく、従って、「人口」を数える制度はなく、精々、推測/臆測した「戸数」集計である。戸籍が記帳されていた証拠はない。存在したのは、各戸に対する耕作地割り当ての記録であり、これは、国制の根幹であるから、厳重に維持されたが、各戸構成は、維持されていたと見えない。当時、早世、夭逝はざらであり、各戸の内実を調べ立てる口数、「人口」に大した意味は無いから、これを言い立てるのは、三世紀「倭人」世界の情勢を知らないことを露呈している。

 蕃王に「都」はないから、「女王国の都」は錯誤/空文である。女王居処「國邑」は数千戸規模と見えるが、当然、直轄地は無税が常識であり、官人、奴婢が多数を占めていれば、農民は希少であったろうから、ことさら「戸数」を言うのは不遜である。
 倭国15万戸は、根拠の無い憶測である。二千年後の東夷の「世界観」の呪縛を振り払って、三世紀人の「世界観」まで降りていかないと、「倭人伝」の描いている「世界」は、わからないのである。「人口」論は、氏の白日夢であろう。
 三世紀時点未生の「日本」の「人口」は、重ね重ね、時代不明、根拠/対象領域不明の「ごみ情報」である。後世、恐らく、八世紀あたりで戸籍制度が確立されて、以後、少なからぬ紙情報が残存しているのだろうが、「鬼頭宏」なる「専門家」の立論手法は不明である。提言、仮説、断言の何れにしろ、前提や条件付けが欠落して、数字だけが、ポツンと一人歩きしていては、単なる法螺話とされかねない、個人攻撃になっているのである。
 恐らく、八世紀近辺の時点の豊富な史料を根拠とした折角の推計情報を、根拠とできる情報が一切存在しない三世紀に転用されて、「あまりに少ない」などと手厳しく批判/非難されるのは、当人にして見ると、妄想と云われかねない「濡れ衣」ものであり、そのような悪名は、圏外に排除いただきたいと願っているはずである。

距離
 都洛陽から帯方郡まで5000里 帯方郡より女王国1万2千余里 計1万7千里。
 記録12000里×434m=5200㌔ インドネシア方面まで行ってしまう。短里80m 960㌔実数相当 九州圏内

 帯方郡は、後漢末建安年間の設立であり、笵曄「後漢書」に収容された司馬彪「郡国志」には、洛陽からの公式道里は記録されていない。「魏志」に公式道里記事は無く、後年の宋書にも無く、晋書にもない。内野氏は、何を根拠に存在しない公式道里を標榜しているのか、不審で、不合理である。
 「基本的」確認であるが、「倭人伝」が明記しているのは「郡から倭まで」「万二千里」であり、「帯方郡より女王国」とは書いていない。魏志に書かれていない数字を、臆測で足し合わせても、臆測の段積みでは、「虚妄に過ぎない」と言われそうである。誠に不合理である。

 ついでながら、「倭人伝」に「郡から狗邪韓国まで七千里」と起用されている里数の根拠が、誤解の余地無く明示されているのを無視して、単純に、二千年後世の東夷の臆測で、全行程普通里で目的地を想定するのは、非科学的で、不合理である。非科学的な思考は、早く一掃していただきたいものである。倭人伝道里に対して、魏、晋、南北朝、隋、唐、宋に到る期間、伝統的に何ら公式の異議は立てられていないのである。
 現代で云えば、安本美典師も、伝統的な解釈に従っているのである。一度、教えを請うべきでは無いか、と愚考する。

 ついでながら、当時、「公的制度としての短里」など、「どこにも存在しなかった」とみるべきである。内野氏が、「短里説」を支持するのは、如何なものか。当然、意義の成り立たない「長里」も、存在しないのである。単に、「里」と云えば済むのである。現に、正史には、そのような「里」が書かれているのであり、唯一の例外は、「倭人」に関する万二千里由来の記事である。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 4/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26

国力
 東の果ての小国、海外(呉)への武力攻撃などの能力はない。小国30か国の連合体

 「国力」が正体不明、その評価は不可能である以上、資料に忠実に解釈を進めるべきである。
  当時、現代紛いの「連合体」など存在し得ない。「国」の態を成していたのは、対海、一大、末羅、伊都の4国であり、それ以外の名のみの「国」の事情を論じるのは、「白日夢」であろう。
 因みに、倭人伝は、「更に東」諸国を描いているので、倭人は、「東の果て」などではない。何かの錯覚であろうか。因みに、「倭人」が、三十ヵ国の連合であるとすれば、それは「小国」などではない。何しろ、「倭人」の領域は、把握されていないのだから、領域の広さは論じられないのである。
 因みに、当時の中国に「海外」の概念は無い。またもう一つの時代錯誤であろうか。それとも、氏の視点が錯乱していて、ここは、東夷の眼で見ているのであろうか。読者に超人的な理解力を要求するような「無理/難題」を言ってはならないと思うのである。

距離・説
 ①古い時代の短里説 ②誇張説 ③政治的忖度説

 無意味な列記である。「古い時代」の制度など幻影である。「誇張」は、計算の根拠が必要である。まして、当時「政治的忖度」などあり得ない。全て、虚偽/虚妄である。

◯内野説(5倍説)
 魏から外国に贈られた金印は大月氏国と倭国の二国のみであるが、大月氏国と倭国との国力は大きく違うのに金印付与されたのが謎とされる。

 当時「国力」は無意味で、ここで問われるのは、新参蛮夷の格付けである。当時の天子の評価は、当時の天子にしかわからないのであり、二千年後世の東夷に分かるはずが無い。最善の努力を払っても、誰にも解答が出せないのは、「問題」でも「謎」でも無い。
 
 卑弥呼は司馬懿が公孫氏を滅亡させた翌年の239年にすぐさま使者を魏に送った。倭からの朝貢は司馬懿の功績を宣伝するためには格好であった。

 「格好」「すぐさま」と云いつつ、「翌年」、おもむろに遣使とは、不審である。そのような解釈は、たいへんな勘違いと自覚するべきである。

 翌240年官吏梯儁は倭国に派遣され倭国に至るまでの行程、国情、政治など詳細に調査し報告した。

 無造作に「官吏」だが、下級吏人の筈はなく、帯方郡官人建中校尉梯儁である。
 魏帝が、国情/行程不明のまま下賜のお荷物を担いだ遣使を送り出すとは不審である。子供の近所へのお使いにしても不都合である。当然、使節団の発進以前に、「郡から倭まで万二千里」と知れていたし、さらには、実務的に必須の所要日数も知れていたはずである。
 当然の事項なので、「倭人伝」から割愛されていても、当然の手順は、当然執り行われているはずである。またもや当然であるが、発進以前に、行程各地に使節団の到着予定を通達し、各地責任者から、確認を得ていたはずである。当然、そのような交信の所要日数は、使節団の所要日数設定の参考となったはずである。
 以上は、魏帝国という法治国家では、当然の手順であるから、「倭人伝」から割愛されているとしても「行われなかった」と主張するには、相当確固たる反証が必要である。

 が、帰国後、太守弓遵等は司馬懿の功績を高めるため距離、人口、位置は呉の背後の会稽東冶の東で1万7千里(5000里+12000里)大月氏国に匹敵する遠方の国で数十万の大国として報告を作成した。ゆえに朝鮮半島と倭国は人口と距離が5倍ほど水増しされた。陳寿や魚豢(魏略)はその記録を踏襲した。

 その時期、不遇であった「司馬懿の功績」なぞ、どうでも良かったはずである。
 繰り返しになるが、「倭人伝」に、「距離」「人口」は、一切書かれていない。「位置」は、初耳であるから返事に窮する。それにしても、「数十万」は、冗談がきつい。
 「呉の背後」と言い切っているが、「会稽」は呉の中心部であり、その南部の東冶は裏庭に過ぎない。氏は、漢数字が読めないのだろうか。二千年後の東夷の地理感覚を、根こそぎ洗い直して、史料解釈に臨んで欲しいものである。別に「中国語が自力で発音できなくても」、つまり「読めなくても」関係ない。当時の実務を想定すれば、史官の深意は、行間や紙背から読み取れるはずである。
  
 因みに、公孫淵と孫権は、数次の書簡往復があり、実務として、遼東公孫氏の臣下「倭人」の素性は、東呉に既知であったと見える。

 それにしても、帰還して万里捏造」は、時代錯誤である。皇帝報告後に報告「作成」は不可能であろう。「万里」往復に要する日数は、氏の臆測の五分の一程度であろうから整合しない。古代史の泰斗である岡田英弘氏は、既に、「万二千里」を後世西晋代の「陳寿の創作」と断じていて、それはそれで、無根拠、臆測の随分軽率な断言であるが、内野氏は、高名な岡田氏の提言を、無断で改竄しているのだろうか。それとも、盗用、パクリの際の手違いなのだろうか。

 端的に言うと、陳寿は、「魏志倭人伝」の編纂にあたって、史官の「職務に殉じる」覚悟で、洛陽の各部門に所蔵されていた公文書の記載内容を遵守したが、無謬の天子である明帝が犯したと見える「道里」に関する「錯誤」を、文書交信の所要日数によって「事実上」是正し、当時の高官諸賢の同意/正解を得たのだが、二千年後世の東夷は、無教養で偏見に満ちているため、「魏志」に書かれていない風評/裏話を、寄って集(たか)ってでっち上げて、挙(こぞ)って誤読/誤解していると見えるのである。反面があるなら、文書史料を提示して、反駁していただきたいものである。

 因みに、少帝曹芳の最初の十年間、司馬懿はむしろ逼塞し、老妄を擬態して最高権力から遠ざかっていたから、もし、曹爽が司馬懿の野心を察知して、大権を駆使して司馬懿一族を誅殺するとなると、司馬懿に阿諛追従した報告者一族も、自動的に連座して皆殺しだから、ヘタな策謀はしなかったと見える。何しろ、漢書を編纂した班固は、史官として中立的な立場にありながら、絶対的な最高権力者であった大将軍竇憲が、時の皇帝によって誅伐された際に連座/刑死していて、有力者に追従するのは、ときに、死に至る近道だったのである。
 因みに、陳寿の司馬懿評価は冷徹で、司馬懿は、多年の功労で列侯とされながら、「魏志」に「伝」を立てられていない「不名誉」に浴している。
 一方、明帝没後、司馬一族の専横に抵抗した毋丘儉は、司馬懿が尊重することを誓約した曹芳を廃位するに及んで、反乱蹶起/敗死し、一族は全滅したが、「魏志」に伝を設けられていて、制約のある伝の真意を読み取れば、明帝曹叡の信任が格別に厚かった毋丘儉が、当時、遼東を管轄する幽州刺史として、公孫淵の上位者であり、西方戦線から臨時に起用されて与力した、現地事情に通じていない司馬懿と並ぶ副将として遼東平定に大きな功績を果たしたと理解できる。特に、公孫氏滅亡後の遼東の空白を突いて南下しようとした高句麗を、玄菟郡太守王頎に命じて長駆大破した功績は明らかであるが、西晋政権下で編纂された「魏志」には、明記できなかったのである。

 ついでに言うと、帯方郡太守弓遵は、いわば「国王」に等しい高貴な身分であり、「等」で括り付けられるような同格の人物は、登場していない。軽率である。それとも、内野氏は、玄菟郡太守王頎が「黒子」として参画したというのだろうか。

◯まとめ
 総括すると、内野氏は、世上流布しているらしい、不出来な/理解できない元史料を、不出来に切り刻み、逐一味見しないままに盛り付けて、席上に提示しているが、実際は、一場の「ごみ史料」と化しているから、とても、食するわけには行かないのである。当方は、そのような率直な指摘を言いがかりと言われないように、大量の根拠を示して批判している。文句があれば、キッチリ反論して欲しいものである。
 総括すると、氏は、中国史料を読解する能力がないのに、それを周囲に対して認められないままでいるようである。周囲は、氏を適切に支援する努力をしていないようである。困ったものである。

 内野氏の発表が素人ブログの片隅であれば雑情報として見過ごせるが、安本美典師主宰講演会の資料は、「邪馬台国の会」会長の絶大な権威もあって、世間の注目と信頼を集めるので、年代物の誤解の伝播を防ぐために公開書評せざるを得ないのである。
 ここに示されたような「誤解放置」は、氏の玉稿をだれも真剣に批評していないのが原因と危惧される。おかげで、部外者の素人が、憎まれ役を引き受けざるを得ない。

 ぜひ一度、ご自身の思考過程を、一歩一歩確認/ご自愛いただきたいものである。一度、公開してしまえば、それは、不滅の業績なのである。是非とも、自重いただきたいものである。

 冒頭に「ひび割れた骨董品」と悪態をついているが、ひび割れた焼き物は、「金継ぎ」すれば、ひび割れる前より遥かに高い価値を得ることができるのである。

                                以上

2023年10月25日 (水)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 3141話 百済禰軍墓誌の怪

                         2023/10/25

 今回は、誠に不思議なものを目にしたのである。「古田史学の会」関西例会の発表であるが、

 「百済禰軍(でいぐん)墓誌銘」に“日本”国号はなかった! (神戸市・谷本 茂)
 が、「新発見」/「新説」として紹介されているのが、何とも奇怪、けったいなのである。
 当記事は、既出記事と齟齬しているのである。つまり、 
第2429話 2021/04/10
百済人祢軍墓誌の「日夲」について (3)
 ―対句としての「日夲」と「風谷」―
 で、一旦意義ある指摘として、認識/納得/公開されたはずなのに、今回記事では、すっ飛んでいると見えるのである。谷本氏は「古賀達也の洛中洛外日記」記事を読んでいないと思うしかないが、当の古賀氏が失念されているのは、何とも、奇怪である。

 因みに、前記過去記事では、当ブログ2018年記事が引用紹介されているので、「古田史学の会」に限定しても、公知の先行文献だと思うのだが、どうなっているのだろうか。

 ぜひ、読みなおして、再確認いただきたいものである。

以上

2023年10月13日 (金)

新・私の本棚 番外 ブログ 刮目天一 「権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆」 1/2

~刮目天(かつもくてん)の古代史だ! 2023/10/12 
権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆                         当記事公開2023/10/13

◯はじめに
 以下に参照しているのは、かねて私淑の刮目天一氏のブログであり、国内古代史関係を主体に広範、詳細な古代史論を展開されている一連の記事の最新の「コメント」です。氏の「倭人伝」観は諸記事に散在し的を絞った批判が困難でしたが、今回凝縮して頂いたのを幸便として、一生懸命に批判を加えたものです。なお、氏の見聞された動画には、ここで言及しません。

 「権力者が作った歴史書とは、権力の根源が正統であることを示す政治文書だという理解をすれば、西晋の史官陳寿が編纂した三国志、そして三世紀の倭のことが書かれた魏志倭人伝の内容を正確に解釈できます。」

*コメント

 文章の前提は「権力者が作った歴史書とは、権力の根源が正統であることを示す政治文書だ」と提示されますが、陳寿「三国志」魏志には不正確です。中国古代の公式史書は、時の「権力者」が作ったものでないのは衆知です。
 一転、「魏志倭人伝」を「西晋の史官陳寿が編纂した」と判定されますが、直前の前提と用語が整合せず筋が通らないのです。氏は「魏志倭人伝」の局地を説き、冒頭の前提は空を切って見えますが、以下、ご高説を拝聴します。

 「この観点から、魏志倭人伝の版本に倭大夫難升米が帯方郡に行ったのは景初二年(238年)六月とありますが、景初三年の誤写であることは明らかですよ。難升米が面会した太守は劉夏だと明記されており、先に明帝が送った太守とは異なる人物なのです。」

*コメント
 古代史学者の難詰で「魏志倭人伝」は独立史書ではないので「版本」など実在しません。丁寧に、陳寿「三国志」南宋刊本紹熙本の魏書第三十巻「倭人伝」部分と示せば、紹熙本に、「倭人伝」と小見出しがあるので明快です。
 何しろ、具体的に何の話かキッチリ説明しないと通じないのです。
 氏の持論で、「景初二年」は三年の誤写が明らかと断定されますが、素人目に「明らか」/「確実」なのは、南宋刊本に書かれている文字だけです。

 「魏志倭人伝には卑弥呼の朝貢を絶賛する詔書がほぼ全文掲載されており、司馬懿が尚書省を把握したので司馬懿が書かせたものですから、陳寿は司馬懿の功績を当時の西晋の朝廷の人々に明示するために書いたのです。(2023.10.12 赤字修正)」

*コメント
 倭人伝が引用するのは、蕃王への通達であり「絶賛」は時代錯誤です。
 「賛」とは、文字の含まれない、教養の示されていない職人芸「絵画」に、意義を認める文章/詩文を添えるのであり、「絵画」は、「賛」を得て始めて「文」芸と認められるのです。中国古代史で注意の必要な「単語」の一つです。

 「倭が朝貢したのは明帝の功績ではなく西晋の宣帝と諡された司馬懿の功績だと晋書にもあります。西晋が魏から帝位を禅譲されたので、三国志では魏を正統な王朝とし、西晋の朝廷の人々に対して司馬懿の功績を称揚するために書いたのだと分かります。」

*コメント
 「晋書」は、三国鼎立時代以来数世紀の乱世を統一し、中華世界を復元した唐代に、乱世の元凶「晋朝」事績を史書としたものです。三国鼎立を統一した中原天子ながら、王族が「大乱」を起こして北方民族に滅ぼされた「司馬晋」の罪科露呈に編纂されたので、「晋書」深意が司馬懿の罪科でなく「功績」は、勘違いでしょう。

 氏ご自身の言葉を借りるなら、「晋書」を「作った」のは、唐帝であり、それを承知した上で解釈する必要があるのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 ブログ 刮目天一 「権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆」 2/2

~刮目天(かつもくてん)の古代史だ! 2023/10/12 
権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆               当記事公開 2023/10/13 追記 2023/10/15

*コメント [承前]
 対して、陳寿は、西晋健在の時代に、司馬遷「史記」、班固「漢書」を踏まえ、「倭人伝」では、時点の皇帝明帝曹叡の「功績」を語っています。
 一方、明帝が臨終で遺孤曹芳を託した司馬懿は、忠誠を誓いながら、陰謀で曹魏の実権を握り、曹芳を諡の無い廃位に追い込んだと明記されているので、むしろ、非難とみるべきです。なお、司馬懿絵姿は無用/蛇足と愚考します。

 「魏志倭人伝の行程記事や倭の風俗記事は、難升米が朝貢のために約半年滞在して劉夏と司馬懿を持ち上げるために談合して作られたのです。これは、伊都国の国名の意味から判明し、孟子を読む教養人の難升米が漢字で書いて魏に教えたものであることが判明しています(詳細は「刮目天の古代史 伊都国の意味がヒントだった?」参照)。」

*コメント
 微妙な誤解ですが、難升米は、蛮王の代理[たる下級官吏(倭大夫)]に過ぎず、「魏」(帯方郡太守)に「教える」などあり得ないことです。天下を統率する「魏」と東夷の「倭人」の立場は隔絶しています。(倭の地位が格段に低いのです。念のため)因みに、難升米が、「天子と雖も、徳を喪えば失墜する」と説いた「孟子」を熟読したかどうか、証拠がないので臆測に過ぎません。急に細かくなって、劉夏を司馬懿と並べて持ち上げているというのも、今一つ理解できません。
 ついでながら、倭人伝冒頭の「郡から倭まで」の行程記事は、大変精緻で、郡太守と倭大夫如きが相談して、半年で作れるものではないはずです。いずれにしろ、西晋史官陳寿が、[西遷した後漢/魏朝公文書を]最終的に編纂校訂したから、そのように解するのが、氏の本意のはずですが、なぜか、ここでは不本意な書き方です。続く、風俗記事は、大半が現地見聞報告で、魏使訪倭以前に、書くことはできないのです。(一部[加筆]、削除 2023/10/15)

 「これによって邪馬台国の位置も、卑弥呼の正体も、卑弥呼の墓が日本最大の円墳の宇佐市安心院町「三柱山古墳」であることも発見しました(詳細「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。」 
 「古代史に謎が多いのは、政治的な理由から文献に真実が書かれていないからなのです。」「女王の居城の平面図」は省略
 「同時代史の三国志に懲りたシナは、それ以降、ずっと後の時代に歴史書を編纂する習慣が定着したので改善されましたが、原本が残っておらず、残された写本にも誤字などがあるために様々な解釈が出るという問題があります。
 「日本の場合は、現存する最古の正史「日本書紀」以下の六国史は藤原政権下で編纂されたものですので、天皇の歴史書ではなく藤原氏の権力維持のための政治文書だったということに気付けば謎の古代史はどんどん解明できますよ。」 

*コメント
 「日本」が発言した701年以降の「日本」古代史については、全くの素人で、刮目天氏の「日本書紀」観には口を挟めないので、ここでは素朴な疑問を述べるだけです。
 ・「日本書紀」原本は、現存しているのでしょうか。(当然、存在していないはずです)
 ・「日本書紀」現存写本は、写本の際に、都度厳格に校正され、解釈を迷わせる誤字などないものなのでしょうか。(数値化して比較していただければ幸いです)
 「ずっと後の時代」に編纂された歴史書には、余り通じていないので、恥を忍んで教えを請う次第です。お手数ながら、公平のため、確認いただきたいものです。
 因みに、古代史では、「問題」には、必ず解答があるのです。
 中国「正史」には、それぞれの由来、経緯がありますが、「三国志」魏志は、[刊本となった南宋期に至るまで、]幾度かの国家事業で校訂を重ね。大変確実なのです。

*余談
 氏を含め、業界人の「倭人伝」論は、陳寿「三国志」なる中国史書が、帝国公文書を編纂した「厳格な記録文書」であることに気づいていないので、岡田英弘、渡邉義浩両巨魁に始まる、素人の「思い込み」が色濃い「誤解流」史観に帰属した「俗説」に見えるのは大変残念です。

 氏が、「俗説」と一線を劃された古代史論を展開されているのは、重々承知しているのですが、当コメントに集約された「倭人伝」観が、世上蔓延している「俗説」に感染されていると見えるのは誠に残念です。中国史料については、調べが行き届いていらっしゃらないのでしょうか。

妄言多謝。頓首頓首。死罪死罪。

追記 2023/10/15 後出し御免
 「中国史料については、調べが行き届いていらっしゃらない」とは、言葉足らずであったようです。「史料について調べる」とは、史官の教養である古代史書知識を知るために、関連資料を読んで、史官の深意を知ることにあるのです。当ブログ過去記事では、漢書「西域伝」、倭人伝に続く魚豢「魏略」西戎伝をはじめ、袁宏「後漢紀」笵曄「後漢書」西域伝を併読して、誤解流の創始者たる岡田氏の年代物の骨董品である「断言」が確たる根拠の無い思い違い/誤解であると論証しているのです。岡田氏は、後年、中国史に関する理解を深めた後は、当然、「若気の至り」について思い直されたことと思うのですが、自説の根幹にあたるので、改訂できなかったと見えます。
 そもそも、陳寿が編纂した「魏志」は、編者の意図的な曲筆などあり得ない、前代史の事実/公文書資料の再構成なので、そこに書かれていない編集意図を臆測しても、思いつきの意見を立証することは、大変困難(事実上不可能)と信じます。
 岡田氏の意見を「素人の思い込み」と断じたのは、論証として必要な立証努力が完遂されていないことに起因します。

2023年10月12日 (木)

今日の躓き石 棋士に泥を塗る「リベンジ」パンチ 毎日新聞 「将棋UP・TO・DATE」

                    2023/10/12

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版総合面の「将棋UP・TO・DATE」コラムである。と言っても、記事自体は、女流棋士のトップクラスの意欲が紙面に溢れる読み物であり、記事自体に何の罪もない。ここでわざわざ書いているのは、棋界に通じている(はずの)担当記者が、無邪気に棋士に泥を塗りつけ、それが、毎日新聞朝刊の編集過程で是正されていないからである。つまり、これは毎日新聞社の恥である。
 カトモモ、移籍で飛躍期す 無冠の現状、じくじたる思い
 
 記事の終盤に向かうところで、大ポカが炸裂していて、残念至極である。「翌年、里見にリベンジされたが、タイトルへの意欲はより増した。」
 ここで記者は、気軽に書き飛ばしているが、普通に読むと、タイトルを奪取したために相手の恨みを買い、手ひどく復讐されたという意味になる。次は、当然、仕返し/報復である。これは、テロリストの血塗られた無限連鎖と同類であり、本来、戦争/殺し合いと無縁」の将棋にふさわしいものとは言えない。

 目下、野球界を基点として蔓延している『ダイスケリベンジ』は、「負けたら/失敗したら、もう一度出直し」という軽い意味でしかないが、記者は、どうしても、血塗られた復讐しか思いつかないようである。何れにしろ、カタカナ語の語源を辿ると、忌まわしい言葉しかでてこないから、同罪なのだが、それにしても、記者として、そのような風評を掻き立てるのは、どういうものか、困ったものである。これでは、トップ棋士が、口にしたとも見えるのであり、報道の趣旨に反していると思うのである。

 ちなみに、REVENGEは、キリスト教、回教、ユダヤ教で、神によって固く禁じられているので、無信心の日本人が無頓着に言い散らすと世界の信用を無くすだけである。大変大変重い、罰当たりな言葉である。だから、良識あるメディアから、姿を消している、はずである。

 どうか、担当記者は、自分の書いている記事の意味をよくよく考えた上で世に出して欲しいものである。天下の全国紙毎日新聞の朝刊総合面記事は、万人が信頼するお手本になるのである。このような忌まわしい言葉は、深い深い地中に埋めて葬って欲しいものである。

以上

2023年10月11日 (水)

36. 「明帝の景初三年」はなかった 魏朝景初暦考 <コメント対応版>

                                                            2016/07/10 追補 2023/10/11
◯追補の弁 2023/10/11
 本件は、先行するコメントに対して丁寧に応答しているが、今般、別の方から新規コメントがあったので、今回は、丁寧にお答えする。
 正直言って、明らかに、本項の内容をほとんど理解していないと思われるので、言い方を変えて理解を仰ぐのだが、その際、コメント内容について、教育的指導を加えたことをご容赦いただきたい。コメント子の今後の考察に対して、何か有意義な貢献できれば幸いである。

◯初稿の弁
 最近、古田武彦氏の日本書紀神功記の三國志引用記事が「明帝の景初三年」としているのに対する批判について一方的に酷評する記事を見かけて、いったんは、軽く回答したのだが、ひょっとして、この論者は、中国の太陰太陽暦に沿った暦制が理解できていないのでないかと思い至って、以下、失礼を顧みず、初級者向け姿勢に立って、長文を顧みず、書き起こしたのである。

1.太陽暦と太陰太陽暦
 古代ローマの時代に、ユリウス暦が施行されて以来、途中、閏年の回数について改善されたグレゴリオ暦に切り替わったものの、太陽暦の基本構造は、一年365日、ただし、閏年あり、と言うルールであり、計算しやすいので、現代は広く行われている。
 これに対して、太陰太陽暦は、月の満ち欠け(朔望)を1カ月としているので、概して言えば、19年に7回、13カ月ある年を造って、1年365日に近い運用で、季節のずれを軽減している。
 従って、例えば、魏の景初二年が西暦何年に相当するというのは、極めて大雑把な言い方であって、いわば景初二年のかなりの部分が、ほぼ確実に西暦何年の365日からはみ出しているのである。いや、年によっては、西暦の365日が太陰太陽暦の一年を呑み込んでいるときもあることだろう。要は、一致していないと言うことである。
 一々暦を計算して書き出すのも面倒だと言うことなのだろうが、こうした食い違いは計算誤差などと言うものでなく、単に古代史論者の怠慢なのである。

2.太陰太陽暦の運用
 太陰太陽暦を実施するに際しては、19年に7回の閏月をどの年のどの月に置するか、それでなくても、毎月の大の月と小の月をどう組み合わせるかで、月々の日々と24節気で表される季節推移のずれを緩和するなどの効果が異なるので、毎年毎年取り扱いが変わるものであり、暦の専門家以外には、翌年の暦を確定できないものとなっていた。
 つまり、暦をどのように決めて、それを広く公布すると言うことは、国家権力の現れになっていた。

3.景初暦の始まり
 さて、問題の景初三年であるが、景初年間は、独特な暦制が施行された年間であり、これは、魏書明帝紀に明記されているように、関係資料を読み進めれば、当然理解を迫られる事項なので、いわば衆知の事項と思うのだが、素人の特権で、一席ぶたしていただくことにする。
 明帝紀景初元年記事として、青龍五年になるはずだったこの年の三月(いや、青龍五年二月か)、魏帝曹叡は、青龍を景初に改元すると共に、新たに、この月を新元号景初の四月とする景初暦と呼ばれる暦制を公布した。其改青龍五年三月為景初元年四月。

4.移行期の混乱
 ここで戸惑うのは、この項が、景初元年春正月と書き始められていることであるが、景初暦を遡及させて適用すれば、これは、旧制で、青龍四年12月であったはずであり、案ずるに、青龍四年は11月で終わり、続いて景初元年正月となることが、魏朝内部では公式か非公式かに行われていたものではないかと思われる。
 いや、これだけでも、現代人は頭がこんがらかってくるのである。

5.「烈祖明帝」願望~余談として
 因みに、魏朝皇帝曹叡の改元の抱負は、曹操を太祖武帝、曹丕を高祖文帝とし、創業の徳を受け継いだ曹魏第三代皇帝たる曹叡は、烈祖*帝(諡は未定だが、明帝を希望していたかも知れない)となって、創業三代それぞれが霊廟を持ち、曹魏が続く限り永代尊敬されることを望んでいて、「烈祖」にふさわしい偉業として、後漢の後継王朝でなく画期的な創業王朝を築くものとして、相応しい暦制の施行を図ったもののようである。因みに、同時代であるが、蜀漢の開祖劉備は、昭烈帝の諡を受けているから、併せて「烈」には、抜群の功績がこめられているとわかるのである。言うまでもないが、劉備は、遠く、高祖劉邦が創設した漢王朝が、曹魏を気取る曹丕によって、天下を奪われたのに対して、これを復興する志を示したのであるから、太祖、高祖とは名乗らず、烈祖と名乗ったものと見えるのである。
 曹叡は、現代風の満年齢で言うと30歳を前にした血気盛んな若者であり、それこそ、二,三十年は頑張って、天下を統一拡大する前提であり、数年後の夭逝は、当然ながら想定していなかったのである。

*明帝「厚遇」論評~2023/10/11
 明帝の「倭人」に対する厚遇は、その大志/野心を示していると見えるのであり、初見の些少な献上に対する潤沢な下賜物は、むしろ、明帝の大志に引き比べると適正であり、別に過褒ではなかったと見るものである。そのような趣旨は、陳寿によって、明帝紀に賛辞として書き込まれていて、「倭人伝」は、夭逝した明帝に対する哀悼の意を示していると見えるのである。いや、明帝紀に明記されてはいないという意見も多いようであるが、読者がその深意を解することができれば、明記されているのと同然である。
 因みに、後世東夷の一部に、『「倭人」がエビジャコでタイを釣った』とか尊大に講評する言う向きがあるが、要するに、当の評者の感性が、時代的な漢蕃管理、曹魏帝国の鴻臚の趣として、どう考えていたか、など適確に斟酌していないので、単なる「偉大な」素人考えにとどまっているのである。
 景初の訪魏倭大夫は、ほんの粗品しか携えていなかったのであるから、「朝貢」の形になっていなかったと明記されているのであり、これは、時代錯誤の「貿易」とは、全く無関係である。むしろ、至上の天子である明帝に、一方的な高邁な世界観/誤解があったと見るものではないか。
 後世東夷の素朴な心情を離れて、時代を越え同時代の明帝の内心に迫る理性で考証すると、そのように見えるのである。

コメント批判 2023/10/11
 以下、今次コメントは、当記事全体に対する読者からの批判と思われるので、何とか、当方の深意をご理解いただきたいものと丁寧に反駁するものである。それにしても、コメント子の思考が読み取れない理由は、「用語、概念の揺らぎ」(錯解)にあることを具体的に指摘するだけであり、他意はない。要するに、言葉が通じていないのであるから、当方の深意が伝わっているとはとても思えないのである。と言って、コメント氏の世界観は、この下りから、知るすべがないのである。私見であるが、凡そ、他人に意見を述べる際には、相手の「用語」に併せて、ご自身の深意を説いて頂きたいのである。特に、当方は、多大な紙数を費やして、用語を整え、論理を整頓しているので、少なくとも、明らかに、当方の容易に理解できない論法では、深意が伝わらないと自覚していただきたいというものである。

 景初暦では景初2年が景初3年になる。
 *意見
 いくら見直しても、意味不明である。景初暦は、魏の明帝の景初元年(237年)から晋(西晋/東晋)を経て南朝宋の文帝の元嘉二十一年(444年)まで運用された厳格な国家制度(Wikipedia)であり、その間、厳格な規則に従って書かれていた公文書に誤って記載されることはあり得ない。

 日本書紀はその景初暦に基づく歴史書を見た。
 *意見
 「日本書紀」は、史書、つまり、無生物であるので、何かを見ることなどあり得ない。
 「歴史書」と無責任に述べているが、ここでは、「魏志」しか該当しない。「魏志」で、景初元号が登場するのは、明帝紀及び該当「伝」である。見たのは、魏志の原本ではないのは明らかであり、三十巻全体の写本かどうかも不明である。どうやって、小見出しもない三十巻の魏志から、該当部分を見つけて、書き取ったのか不明である。そもそも、いつ時点の写本であるのかも不明である。それとも、コメント子のお手元には、正体不明の景初暦で綴られた「歴史書」が現存しているのだろうか。不可解である。
 コメント子は、ひょっとして、「梁書」などの後世史書、さらには、「太平御覧」などの後世書物を想定されているのかもしれないが、それらは、「全て」中国書籍の規則に従っているので、東夷の書物である「日本書紀」にある「明帝景初三年」のような違法な記事を書くことは「絶対に」ない。明帝は、景初三年の元日に逝去したので、景初三年を「明帝景初三年」と書くことは重罪であることは、そのような原則に無知な東夷のものしか考えられない。
 確認すると、「日本書紀」にある「明帝景初三年」は、無知な東夷のものにしか書けないものである。「倭人伝」の「景初二年」の考証の役に立たない雑情報でしかない。要するに、どう善解しても、無意味な主張であり、何の足しにもならない。

 その後、景初暦は削除され、西暦1000年頃標準暦に戻された。
 *意見
 景初暦は、新暦に移行したが、既に公文書に書かれていた景初暦に基づく記事は、一切変更されない。それが、公文書の厳格な規則である。
 また、景初暦は、運用を外れただけで、別に削除されたわけではない。公文書記録とそれに基づく「魏志」は、景初暦を採用しているので、「景初暦」は、いわば「不滅」である。 要するに、歴代公文書を遡って修正することなど不可能なのである。
 因みに、陳寿は、史官の責任で、歴代公文書に基づいて魏志を編纂しているので、原史料に景初三年と書かれているのに、景初二年と書くことはあり得ない。
 中国史料も日本史料も、西暦と無関係なので、「西暦1000年」が何なのか意図不明である。
 標準暦」が何なのか、全く意味不明である。中国史を通じて「標準暦」などあり得ない。

 よって魏志倭人伝最新版は景初2年に修正されている。
 *意見
 「よって」と無造作に言い放っているが、ここまでの説明は飛び飛びで欠落が続いているので何の理屈も付いていない。
 「魏志倭人伝」最新版が、そのような修正を受けていると主張されているが、「魏志倭人伝」という独立して管理された史書は存在しないし、「最新版」(南宋刊本のことか??)など存在しない。魏志第三十巻に対して修正を施したことになるが、歴代王朝が「国宝」として死守していた史書を修正することなど不可能である。
 陳寿没後、用意されていた「魏志」最終稿が西晋皇帝に上程され、以後、「国宝」として、厳格に継承されていたので、厳密な確認ができているのである。もちろん、ここで論じているのは、国宝級写本であり、世上出回っていたであろう「在野」の野良写本に責任を持つものではないし、そのような野良写本から抜き書き、盗みとった聞きかじり所引を書き写した外野書籍についても、責任を持つものではない。
 そのような信頼できない史料と「国宝」写本に厳格に追従している南宋刊本とを同列に論じるのが、間違っているのである。

 つまり、まずは、何のことなのか、主張、用語、概念の乱れで読み取れないので、無理に解釈しているものであり、誤解があればご容赦いただきたい。

 当方の思考、用語等は、当ブログの記事で克明に公開されているので、理解できない箇所があれば、具体的に質問いただければ良いのにと思うものである。正直言って、コメント子は、本稿を読み進み、ご理解なさった上で反論しているとは思えないのである。
 その点、大変、不満であるが、当方は、教育者でも何でもないので、当方の意見を強要するものではないのは、言うまでもないと思う。折角コメントをいただいたので、当方なりに回答するものである。

以上

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