2016/07/10 追補 2023/10/11
◯追補の弁 2023/10/11
本件は、先行するコメントに対して丁寧に応答しているが、今般、別の方から新規コメントがあったので、今回は、丁寧にお答えする。
正直言って、明らかに、本項の内容をほとんど理解していないと思われるので、言い方を変えて理解を仰ぐのだが、その際、コメント内容について、教育的指導を加えたことをご容赦いただきたい。コメント子の今後の考察に対して、何か有意義な貢献できれば幸いである。
◯初稿の弁
最近、古田武彦氏の日本書紀神功記の三國志引用記事が「明帝の景初三年」としているのに対する批判について一方的に酷評する記事を見かけて、いったんは、軽く回答したのだが、ひょっとして、この論者は、中国の太陰太陽暦に沿った暦制が理解できていないのでないかと思い至って、以下、失礼を顧みず、初級者向け姿勢に立って、長文を顧みず、書き起こしたのである。
1.太陽暦と太陰太陽暦
古代ローマの時代に、ユリウス暦が施行されて以来、途中、閏年の回数について改善されたグレゴリオ暦に切り替わったものの、太陽暦の基本構造は、一年365日、ただし、閏年あり、と言うルールであり、計算しやすいので、現代は広く行われている。
これに対して、太陰太陽暦は、月の満ち欠け(朔望)を1カ月としているので、概して言えば、19年に7回、13カ月ある年を造って、1年365日に近い運用で、季節のずれを軽減している。
従って、例えば、魏の景初二年が西暦何年に相当するというのは、極めて大雑把な言い方であって、いわば景初二年のかなりの部分が、ほぼ確実に西暦何年の365日からはみ出しているのである。いや、年によっては、西暦の365日が太陰太陽暦の一年を呑み込んでいるときもあることだろう。要は、一致していないと言うことである。
一々暦を計算して書き出すのも面倒だと言うことなのだろうが、こうした食い違いは計算誤差などと言うものでなく、単に古代史論者の怠慢なのである。
2.太陰太陽暦の運用
太陰太陽暦を実施するに際しては、19年に7回の閏月をどの年のどの月に置するか、それでなくても、毎月の大の月と小の月をどう組み合わせるかで、月々の日々と24節気で表される季節推移のずれを緩和するなどの効果が異なるので、毎年毎年取り扱いが変わるものであり、暦の専門家以外には、翌年の暦を確定できないものとなっていた。
つまり、暦をどのように決めて、それを広く公布すると言うことは、国家権力の現れになっていた。
3.景初暦の始まり
さて、問題の景初三年であるが、景初年間は、独特な暦制が施行された年間であり、これは、魏書明帝紀に明記されているように、関係資料を読み進めれば、当然理解を迫られる事項なので、いわば衆知の事項と思うのだが、素人の特権で、一席ぶたしていただくことにする。
明帝紀景初元年記事として、青龍五年になるはずだったこの年の三月(いや、青龍五年二月か)、魏帝曹叡は、青龍を景初に改元すると共に、新たに、この月を新元号景初の四月とする景初暦と呼ばれる暦制を公布した。「其改青龍五年三月為景初元年四月。」
4.移行期の混乱
ここで戸惑うのは、この項が、景初元年春正月と書き始められていることであるが、景初暦を遡及させて適用すれば、これは、旧制で、青龍四年12月であったはずであり、案ずるに、青龍四年は11月で終わり、続いて景初元年正月となることが、魏朝内部では公式か非公式かに行われていたものではないかと思われる。
いや、これだけでも、現代人は頭がこんがらかってくるのである。
5.「烈祖明帝」願望~余談として
因みに、魏朝皇帝曹叡の改元の抱負は、曹操を太祖武帝、曹丕を高祖文帝とし、創業の徳を受け継いだ曹魏第三代皇帝たる曹叡は、烈祖*帝(諡は未定だが、明帝を希望していたかも知れない)となって、創業三代それぞれが霊廟を持ち、曹魏が続く限り永代尊敬されることを望んでいて、「烈祖」にふさわしい偉業として、後漢の後継王朝でなく画期的な創業王朝を築くものとして、相応しい暦制の施行を図ったもののようである。因みに、同時代であるが、蜀漢の開祖劉備は、昭烈帝の諡を受けているから、併せて「烈」には、抜群の功績がこめられているとわかるのである。言うまでもないが、劉備は、遠く、高祖劉邦が創設した漢王朝が、曹魏を気取る曹丕によって、天下を奪われたのに対して、これを復興する志を示したのであるから、太祖、高祖とは名乗らず、烈祖と名乗ったものと見えるのである。
曹叡は、現代風の満年齢で言うと30歳を前にした血気盛んな若者であり、それこそ、二,三十年は頑張って、天下を統一拡大する前提であり、数年後の夭逝は、当然ながら想定していなかったのである。
*明帝「厚遇」論評~2023/10/11
明帝の「倭人」に対する厚遇は、その大志/野心を示していると見えるのであり、初見の些少な献上に対する潤沢な下賜物は、むしろ、明帝の大志に引き比べると適正であり、別に過褒ではなかったと見るものである。そのような趣旨は、陳寿によって、明帝紀に賛辞として書き込まれていて、「倭人伝」は、夭逝した明帝に対する哀悼の意を示していると見えるのである。いや、明帝紀に明記されてはいないという意見も多いようであるが、読者がその深意を解することができれば、明記されているのと同然である。
因みに、後世東夷の一部に、『「倭人」がエビジャコでタイを釣った』とか尊大に講評する言う向きがあるが、要するに、当の評者の感性が、時代的な漢蕃管理、曹魏帝国の鴻臚の趣として、どう考えていたか、など適確に斟酌していないので、単なる「偉大な」素人考えにとどまっているのである。
景初の訪魏倭大夫は、ほんの粗品しか携えていなかったのであるから、「朝貢」の形になっていなかったと明記されているのであり、これは、時代錯誤の「貿易」とは、全く無関係である。むしろ、至上の天子である明帝に、一方的な高邁な世界観/誤解があったと見るものではないか。
後世東夷の素朴な心情を離れて、時代を越え同時代の明帝の内心に迫る理性で考証すると、そのように見えるのである。
コメント批判 2023/10/11
以下、今次コメントは、当記事全体に対する読者からの批判と思われるので、何とか、当方の深意をご理解いただきたいものと丁寧に反駁するものである。それにしても、コメント子の思考が読み取れない理由は、「用語、概念の揺らぎ」(錯解)にあることを具体的に指摘するだけであり、他意はない。要するに、言葉が通じていないのであるから、当方の深意が伝わっているとはとても思えないのである。と言って、コメント氏の世界観は、この下りから、知るすべがないのである。私見であるが、凡そ、他人に意見を述べる際には、相手の「用語」に併せて、ご自身の深意を説いて頂きたいのである。特に、当方は、多大な紙数を費やして、用語を整え、論理を整頓しているので、少なくとも、明らかに、当方の容易に理解できない論法では、深意が伝わらないと自覚していただきたいというものである。
景初暦では景初2年が景初3年になる。
*意見
いくら見直しても、意味不明である。景初暦は、魏の明帝の景初元年(237年)から晋(西晋/東晋)を経て南朝宋の文帝の元嘉二十一年(444年)まで運用された厳格な国家制度(Wikipedia)であり、その間、厳格な規則に従って書かれていた公文書に誤って記載されることはあり得ない。
日本書紀はその景初暦に基づく歴史書を見た。
*意見
「日本書紀」は、史書、つまり、無生物であるので、何かを見ることなどあり得ない。
「歴史書」と無責任に述べているが、ここでは、「魏志」しか該当しない。「魏志」で、景初元号が登場するのは、明帝紀及び該当「伝」である。見たのは、魏志の原本ではないのは明らかであり、三十巻全体の写本かどうかも不明である。どうやって、小見出しもない三十巻の魏志から、該当部分を見つけて、書き取ったのか不明である。そもそも、いつ時点の写本であるのかも不明である。それとも、コメント子のお手元には、正体不明の景初暦で綴られた「歴史書」が現存しているのだろうか。不可解である。
コメント子は、ひょっとして、「梁書」などの後世史書、さらには、「太平御覧」などの後世書物を想定されているのかもしれないが、それらは、「全て」中国書籍の規則に従っているので、東夷の書物である「日本書紀」にある「明帝景初三年」のような違法な記事を書くことは「絶対に」ない。明帝は、景初三年の元日に逝去したので、景初三年を「明帝景初三年」と書くことは重罪であることは、そのような原則に無知な東夷のものしか考えられない。
確認すると、「日本書紀」にある「明帝景初三年」は、無知な東夷のものにしか書けないものである。「倭人伝」の「景初二年」の考証の役に立たない雑情報でしかない。要するに、どう善解しても、無意味な主張であり、何の足しにもならない。
その後、景初暦は削除され、西暦1000年頃標準暦に戻された。
*意見
景初暦は、新暦に移行したが、既に公文書に書かれていた景初暦に基づく記事は、一切変更されない。それが、公文書の厳格な規則である。
また、景初暦は、運用を外れただけで、別に削除されたわけではない。公文書記録とそれに基づく「魏志」は、景初暦を採用しているので、「景初暦」は、いわば「不滅」である。 要するに、歴代公文書を遡って修正することなど不可能なのである。
因みに、陳寿は、史官の責任で、歴代公文書に基づいて魏志を編纂しているので、原史料に景初三年と書かれているのに、景初二年と書くことはあり得ない。
中国史料も日本史料も、西暦と無関係なので、「西暦1000年」が何なのか意図不明である。
「標準暦」が何なのか、全く意味不明である。中国史を通じて「標準暦」などあり得ない。
よって魏志倭人伝最新版は景初2年に修正されている。
*意見
「よって」と無造作に言い放っているが、ここまでの説明は飛び飛びで欠落が続いているので何の理屈も付いていない。
「魏志倭人伝」最新版が、そのような修正を受けていると主張されているが、「魏志倭人伝」という独立して管理された史書は存在しないし、「最新版」(南宋刊本のことか??)など存在しない。魏志第三十巻に対して修正を施したことになるが、歴代王朝が「国宝」として死守していた史書を修正することなど不可能である。
陳寿没後、用意されていた「魏志」最終稿が西晋皇帝に上程され、以後、「国宝」として、厳格に継承されていたので、厳密な確認ができているのである。もちろん、ここで論じているのは、国宝級写本であり、世上出回っていたであろう「在野」の野良写本に責任を持つものではないし、そのような野良写本から抜き書き、盗みとった聞きかじり所引を書き写した外野書籍についても、責任を持つものではない。
そのような信頼できない史料と「国宝」写本に厳格に追従している南宋刊本とを同列に論じるのが、間違っているのである。
つまり、まずは、何のことなのか、主張、用語、概念の乱れで読み取れないので、無理に解釈しているものであり、誤解があればご容赦いただきたい。
当方の思考、用語等は、当ブログの記事で克明に公開されているので、理解できない箇所があれば、具体的に質問いただければ良いのにと思うものである。正直言って、コメント子は、本稿を読み進み、ご理解なさった上で反論しているとは思えないのである。
その点、大変、不満であるが、当方は、教育者でも何でもないので、当方の意見を強要するものではないのは、言うまでもないと思う。折角コメントをいただいたので、当方なりに回答するものである。
以上