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2023年10月26日 (木)

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 1/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26

◯はじめに
 以下、本稿で批判する付表は、前稿に続く一部に過ぎないが、内野氏が、会長の立場で倭人伝道里の諸説を集約したと見えるので、まとめて批判を加えた。多様な誤謬は俗耳に膾炙していると見え、本稿は、卑(柄杓)の一振りで、些細な撒水を試みているのだが、広く燎火を鎮めることができれば幸せである。
 ともあれ、掲載された表は、疑問点満載で、批判内容を表内に書き込めないので、誰でも読解可能な平文に展開して逐条審議している。

大月氏国と倭国・女王国から見る魏の国内・国際情勢
◯大月氏国
記録
 「後漢書」西域伝・大月氏国の条「229年12月 明帝は大月氏波調王(ヴフースデーヴァ王)」に「親魏大月氏王」の金印

 范曄「後漢書」西域伝には、以下の記事があるのみである。後漢は、220年に魏に天下を譲ったから229年は、場違いである。

笵曄「後漢書」西域伝 中国哲學書電子化計劃
 大月氏國居藍氏城,西接安息,四十九日行,東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里。戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人。
 初,月氏為匈奴所滅,遂遷於大夏,分其國為休密、雙靡、貴霜、驸頓、都密,凡五部臓侯。後百餘歲,貴霜臓侯丘就卻攻滅四臓侯,自立為王,國號貴霜王。侵安息,取高附地。又滅濮達、罽賓,悉有其國。丘就卻年八十餘死,子閻膏珍代為王。復滅天竺,置將一人監領之。月氏自此之後,最為富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。

 して見ると、内野氏は、引用の根拠を大きく取り違えていて、正しい出典は、陳寿「三国志」魏志明帝紀と見える。もったいないことである。

陳寿「三国志」魏志 明帝紀 (太和三年十二月)
 癸卯,大月氏王波調遣使奉獻,以調為親魏大月氏王。

 魏志に「大月氏王」に「親魏王」印授が下賜された記録は見当たらない。まして、氏が謳い上げている「金印」が、古来言う「青銅印」であるか、異例の「黄金印」であるかは、正史からは、読み取れないと見える。古典的な「金印」(青銅鋳物)は、原材料が潤沢で、製造設備/技術も帝室付の製造工房である尚方に完備していたから、製造が「容易」であったため、漢代を通じ、蕃夷使節の来訪に際し、正使、副使に始まり、侯国の使人、果ては、随員に至るまで、印綬が大盤振る舞いされたとされているから、別に希少価値は無く、単に、再訪の際に、街道関所の過所(通行許可証/手形)、身分証明となったに過ぎないと見える。一部で、印綬は、国王代替わりの際に一旦返納するという説を唱えている諸兄姉があるようだが、万里の彼方から、あるいは、波濤を越えて、代替わりの報告に来いというのも、無理難題に属すると思うのである。近郊であれば、年々歳々時候の挨拶に来いということもあるだろうし、近郊であれば、対した下賜物もいらないだろうから、「歳貢」もあったろうが、それは、鴻臚が漢制に従って命じたものだろう。

 「貴霜」国なる国名について言うと、蕃夷来駕を受け付ける「鴻臚」の蕃夷/掌客台帳には、「貴霜」の文字は無く、その実態に拘わらず、大月氏国が王権伝統されているとして受け入れたのである。もちろん、本紀は、皇帝が受け付けた国書に従って、「貴霜」国としたであろうが、鴻臚の台帳は、漢武帝以来維持されていたので、更新も改竄もできず、「大月氏」として受け入れたことになっているようである。
 因みに、南北朝の分裂期を統一した隋唐は、北朝を展開した蕃夷の流れに属するので、伝統的な鴻臚の掌客の格付けがどのようになったか、調べる必要がある。
 どちらが正確な解釈であるかは、当方の素人判断の域を外れているので、断定は避けたい。
 
国内・国際状況 
 魏は西方の蜀と戦争状況の中、西方彼方の大国・大月氏国(クシャーナ朝)からの交易、同盟を目的にした遣使を歓迎した。
 司馬懿のライバルで西方経営を進めた曹氏の功績になった

 明帝紀記事は、儀礼記事であり「歓迎」したなど冗句である。このあたり、私見を付け足す悪習は、中々なくならないようであるが、論者の浅慮をむき出しにしていて、もったいないことである。

 魏は、関中を辛うじて勢力範囲内に保っていたものの、その西方、西域の入り口にあたる河西回廊は、涼州勢力が蜀漢と連携していたため、服従させられなかったので、事実上、西域への扉を閉ざされていたと見える。一方、概して蜀漢と連携していた東呉は、敦煌方面に商人を送り込んでいたことは、西域から「三国志」呉書に類する紙文書の断簡が出土していたことから、明らかである。というものの、涼州は、蜀漢に臣従していたわけではないので、涼州の帰属は不明である。
 ということで、「大月氏」が涼州勢力の目を潜って洛陽に参上したのは、あるいは、金銀玉石などの秘宝を通行料/謝礼として積んでのことかもしれない。世上、同時代の西域勢力分布が、麗々しく地図化されているのにお目にかかることがあるが、大抵は、良くある法螺話に過ぎない。

 班固「漢書」、笵曄「後漢書」に代表される正史記録から見ると、かつて、漢武帝使節に応対した大月氏は、匈奴同様の騎馬掠奪国家であった。涼州辺りに根拠を持って、北方に一大勢力を形成していたらしいが、匈奴の勃興で覇権を奪われ、遙か西方に夜逃げしたのである。但し、概して、城壁国家でなく、天幕に居住して、財貨は、金銀玉石としていたから、「全財産」を携えても、身軽であり、騎馬部隊として逃亡することが可能だったのである。全財産と軍馬をもとに、強力な騎馬軍団によって、亡命先のオアシス国家「大夏」を乗っ取り、周辺諸国を侵略、掠奪し猛威を振るったのである。
 移住当初、西の大国安息国の東方拠点を攻撃し、「国王」親征軍を大破して、国王を戦死させ、大量の財宝を奪ったと、欧州側の史書に記録されている。安息国は西方の王都が号令して、近隣諸侯を動員して復仇したが、以後、両国境界付近のオアシス都市マーブ要塞に二万の大軍を常駐させて、大月氏/「貴霜」国の再来に備えたのである。
 貴霜国は、後漢代においても、生来の掠奪/侵略志向は健在であり、東方勢力である西域都護班超に反逆し、都度鎮圧された札付きの盗賊国家である。
 後漢後期は、西域都護の撤退に乗じて西域西半を支配した時代であるから、魏代に移って「交易、同盟」とは白々しいが、西域無縁の魏朝は、「金印」下賜で体面保持でき、西域都督を常設するより随分安上がりで、善哉であったろう。

 但し、三世紀当時、西域有力勢力であった貴霜国も衰退期で、追って、西方のペルシャ領から興隆してパルティア(安息)をイラン高原の支配から追い落としたササン朝波斯に服従したと見える。陳寿が言い残したように、蛮夷の諸族王の消長は、誠に儚いものである。

 以上、ちょっとした背景説明のはずが、字数が募ったのは、国内視点で西域を眺めている諸兄姉に、現地視点の史談を試みたものである。世の中、「一刀両断」は、歴史のほんの表層を撫でるに過ぎないのであって、何も斬れていないのである。

功労者
 魏の鎮西将軍 曹真の功績。子の曹爽と司馬懿はライバル

 蜀漢勢力に西方を阻まれた窮状からすると、まさに 「棚からぼた餅」の蕃王来訪では、軍功/功績になどならない。後漢西域都護に対する反抗の数々は、明帝紀上では、云わないことにしたとしても、後漢代以来引き継いでいる鴻臚の記録には、堂々と記録されているので、この記事を持って、魏志「西域伝」を設けるなど論外に違いない。魏志第三十巻巻末に、劉宋裴松之が補追した魚豢「西戎伝」は、大部の蛮夷伝であるが、内容のほとんどすべては、西域都護が健在であった後漢代の記事を承継したものであり、後漢末期に西域都護を撤退して、「貴霜」国に西域の西半を支配された事態が魏朝に引き継がれた魏朝の失態が明らかになるから、魏志「西域伝」は魏志から割愛されたのである。
 このあたり、劉宋当時、西域伝の欠落を難詰する批判が無視できなかったため、裴松之が、論より証拠とばかり、魚豢「西戎伝」の善本を貼り込んだのだが、二千年後世の東夷は、史料を読めないために、裴松之の注釈が陳寿の「西域伝」割愛を断固支持した意義を理解できず、無意味な批判を繰り返しているのである。いや、大抵の論客諸兄姉は、陳寿の残した三国志原本に不備があったため、裴松之が補追した裴注本が三国志完成版と見ているようだが、それは、事情ののみ込めていない二千年後世の東夷の浅慮なのである。
 裴松之は、当時の劉宋皇帝を始めとする時代読者の圧力に従いつつ屈せず、大量の「蛇足」を不備を承知で付け足したものであり、それら「蛇足」の補追されていない陳寿原本が、「三国志」として完成されていると「密かに」述べているのである。いや、「密かに」と云うものの、文意を読解できる有意の読者には「自明」なので、明言したに等しいのである。
 裴注による補追の中でも、魚豢「魏略」「西戎伝」は、ほぼ原文収録されているので、一度、筑摩書房「三国志」に収録されている日本語訳を読み取っていただきたいものである。

 因みに、魚豢「魏略」「西戎伝」は、「魏志」「西域伝」ではないので、当時、洛陽の書庫に収容されていた後漢/魏公文書を収録していても、正史としての厳正さに疑義が無いわけではない。明らかに、魚豢の私見が無造作に書き足されている部分や錯簡、落簡らしいものはあっても、無造作な校訂、改竄の筆が加わっていないのは明らかである。
 因みに、東夷伝、特に「倭人伝」に関して、裴松之が、ほとんど「魏略」を起用していないところから明らかなように、陳寿の編纂は、粗略と見える魚豢の編纂の上位互換であったため、裴松之が黙殺したと見えるのである。

 もちろん、魚豢は、烈々たる魏の忠臣であり、蜀漢、特に、逆賊の首魁と目される(「敵」などと敬称を付することは無い)諸葛亮に対して、猛然たる反感を表明していても、「老獪な陰謀で魏の実権を握り、ついには、天下を簒奪した司馬一族に阿(おもね)ることはあり得ない」ので、魚豢「魏略」に世上言われるような「曲筆」はあり得ないのである。
 して見ると、こと「倭人伝」道里記事に関しても、魚豢「魏略」は、「郡から倭まで」「万二千里」と書いていたはずである。もし、それを曲筆で「二千里」と書いていたら、裴松之が、すかさず付注したはずである。

 それにしても、司馬懿は、曹操、曹丕、曹叡、曹芳四代の「幹部」であり、曹爽と同列/「ライバル」視は侮辱であろう。同年代の曹真はともかく、曹爽の如き青二才は、問題外と見ていたはずである。もちろん、当時の洛陽の高官・有司は、両者の格の違いを見ていたはずである。「ライバル」が示している「川釣りの漁場争い」などとは、別次元なのである。

 因みに、史官は、周代以来、国家官制の中で、むしろ取るに足りない卑位の官人である。また、後世の形容で「正史」と言っても、「三国志」に関して言うと、三世紀当時、写本の流通は無いに等しく、まして、全巻を所蔵する愛書家は存在したとしても、全巻熟読する読書人は、取るに足りなかったから、「正史」の影響力は希少であり、現代風に言う「政治的文書」などではなかったのであり、その意味でも、「正史」編纂に「権力者」が干渉することは皆無に等しかったのである。

 それにしても、ここでも、三世紀に存在しなかった生かじりのカタカナ語は、文意を掻き乱し品格を下げるので、ご使用を控えていただいた方が良いように思える。

                                未完

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