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2023年11月

2023年11月29日 (水)

新・私の本棚 サイト記事批判 宝賀 寿男 「邪馬台国論争は必要なかった」 部分更新

 -邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ-   2022/01/27 改訂 2023/11/29, 12/02

〇サイト記事批判の弁~前言限定
 宝賀氏のサイト記事については、以前、懇切丁寧な批判記事を5ページ作成したが、どうも、無用の長物だったようなので、1ページに凝縮して再公開したものである。
 宝賀氏は、記事引用がお嫌いのようであるが、客観的批判は(著作権法で許容の)原文引用無しにできないのでご勘弁戴きたい。世上溢れる素人の印象批判は思い付きがめだって不公平である。岡田英弘氏の名言を借りて、自戒の念をこめて下記する。

*自称「二千年後世の無教養な東夷」
 岡田氏は、三世紀西晋の史官陳寿は、「千七百年もあとになって、この東海の野蛮人の後裔が邪馬台国ゲームを楽しむことを予想して、親切心から「倭人伝」を書いたわけ」ではないと処断しているが、どうも、読者の耳に入っていないと見えるので、ここに再掲しておく。(岡田英弘著作集 Ⅲ 日本とは何か 第Ⅱ部 倭国の時代 邪馬台国vs大月氏国)
 当方は、近来、岡田氏の大著の「山塊」に記された警句に気づかず、「二千年後世の無教養な東夷」などと警句を連打していたが、大家の警句が浸透しないのだから、当方如きの警句は聞き流されているようである。
 当方は、素人は素人であっても、極力客観的な批判を試みたのである。 

*救われない俗人
 いきなり、『俗に「信じる者は救われる」』とあるが、凡人には、なんで、誰に「救われる」のかわからない。凡人に通じない「枕」で「滑る」のは勿体ないことである。

*信念無き者達
 「信念はかえって合理的解決の妨げ」とのご託宣であるが、「不適当な信念は、かえって合理的な解決を妨げる」なら主旨明解で異論は無い。私見では、信念なしに研究するのは「子供」である。なぜ、あらぬ方に筆を撓ませるのか。滑り続けている。

*古田史観の誤解、宝賀史学の提唱
 宝賀氏の誤解はともかく、古田氏は、『「倭人伝」研究は、史学の基本に忠実に「原点」を一定に保つべきである』と言っているに過ぎない。頭から、「倭人伝」が間違っているに決まっていると思い込んでは、研究にならない』のである。つまり、志(こころざし)としては、宝賀氏と同志と見える。

 言い方を変えてみる。古田氏は、現存、最良の「倭人伝」史料を原点にする』という「学問的に当然の手順を確認している」のである。宝賀氏は、「原点」に対してはるか後世のもの(二千年後世の無教養な東夷)が改竄を加えた新「倭人伝」を自己流の「原点」として主張しているのであるが、それは、後世著作物である『新「倭人伝」』を論じているのであり、それは、古典的な史学で無く、「宝賀史学」とでも呼ぶべきものである。まことに勿体ない行き違いである。

*的外れな「倭人伝」批判
 因みに、かっこ内の陳寿批判は、『宝賀氏の不勉強』を示しているに過ぎない。(「不勉強」は、本来謙遜の自称であるが、ここは、言い間違いをご勘弁いただきたい)
 古代に於いて、許可無くして機密公文書を渉猟して史書を書くのは、重罪(死刑)であるから、陳寿の編纂行為は公認されていたのである。三国志編纂は、西晋朝公認、むしろ、使命と見るべきである。「私撰」とは、浅慮の思い過ごしでは無いか。
 「倭人伝」が雑然』とか、『陳寿が全知で無い』とは、まるで、素人の勝手な思い込みである。一度、ご自身の「信念」を自評して頂くと良いのでは無いか。
 いずれにしろ、「倭人伝」の史料としての評価は、「原点」確認の後に行うものであり、宝賀氏の咆吼は、言うならば、勘違いの手番違い、手順前後である。また、おっしゃるような「悪態」は、「倭人伝」の史料批判には、何の役にも立たないのである。却って、発言者の資格を疑わせることになる。随分、損してますよと言うことである。

*「魚豢批判」批判
 白崎氏批判は置くとして、『文典で基本となるのは、魚豢「魏略」残簡しかない』というのは極度の思い込みである。魚豢は魏朝官人であり史官に近い立場と思われるが、私撰かどうか、現代人の知ったことでない。(「魏略」は、「名は体を表す」。 「正史」でもなんでもないのである)「漢書」を編纂した班固と違い、陳寿も魚豢も、「私撰」の大罪で投獄されたりしていないのである。
 ここで、「魏略」論が、混濁/混入しているが、『「手放しで」同時代史料』とは意味不明である。
 「魏略」佚文』に誤写が多いのは、校正作業を手抜きした低級な「佚文書写」故であり、「倭人伝」基準で言えば「桁外れ」に誤写が多いのは必然である。「倭人伝」二千文字に、二十文字誤写が有ったとしたら、それでも、十分許容される一㌫であるが、『「魏略」佚文』 では、数㌫と言えない「桁違いの泥沼」と定量的に言明すべきと思うものである。「史記」基準なら、可愛いものかも知れないが、ここでは、「三国志」の基準を適用するしかない。
 史学の史料考察は、最高のものを基準とすべきなのか、許容範囲の最低のものを基準とすべきか、よくよく考えていただきたいものである。これは、室賀氏に対する個人的な批判では無い。

 三国志」は、陳寿没後、程なくして、陳寿が用意していた完成稿(の絶妙の複製)が上申され、皇帝の嘉納を得て、西晋帝室書庫に収納されたから、以後、王室継承の際などの動揺はあっても、大局的には、初稿が「健全」に維持されたのである。時に、低俗サイトで持ち出されるような「改竄」など、できようはずがない「痴人の白日夢」である。これは、室賀氏に対する個人的な批判では無い。

 全体に言えることなのでが、中国史書を論じているのに、「二千年後世の無教養な東夷」の世界観で裁いている感が、業界全体に漂っていて「和臭」が強いのは、「日本」特有の一種の風土病かも知れず、つけるクスリが無いとか言われそうなのである。もちのろん、これは、室賀氏に対する個人的な批判では無い。誰かが気づいてくれたらと思うのだが、岡田英弘氏の警鐘が効いていないのだから、ここで素人が何を言っても通じないのだろうが、近来、ここで言うことにしたのである。

 後世、特に現代の文献学者は、「三国志」には、あげつらうべき異本が無く、まことに、「飯のタネにならん」と慨嘆しているのである。「三国志」を写本錯誤の教材にしようというのは、銭湯の湯船に自慢の釣り竿の釣り糸を垂れるようなもの」であり、見当違いなのである。釣れなかったら、河岸を変えることをお勧めする。

*「倭人伝」批判再び
 「倭人伝」批判が続くが、「それだけで完全で」は、「完全」の基準なしでは氏の先入観/思い込みと見るしかない。二千字の史料が、完全無欠なはずはない。当たり前の話である。つづいて、「トータル」で整合性がない』との印象評価だが、「トータル」は古代史用例が無く意味不明である。
 氏の先入観、印象は、第三者の知ったことでないので恐れ入るしか無い。学術的に意義のあるご意見を承りたいものである。

 丁寧に言うと、「倭人伝」は、陳寿が、編纂に際して入手できた公文書史料を集成したものであり、史官が、史料を改竄するのは「死罪」ものであるから、「述べて作らず」の使命を守っているのである。そのために、素材とした史料の文体、語法などが不統一と見えても、それは、陳寿が史官の本分を遵守したことを示しているのである。
 いや、陳寿は、「正史」を「史実」/歴史的な真実の記録の集大成と見ているので、史料を割愛した例は多いと見えるが、それは、史官の信条に基づく「正義」の割愛であり、まずは、当時、その場で史官の真意を知ることができなかった後世東夷の読者、「二千年後世の無教養な東夷」としては、そのような編纂方針を甘受すべきと思われる。
 あえて無礼な言い方をすると、氏は、断じて、陳寿に比肩すべき知性、教養の持ち主であって、陳寿に取って代わって、魏志編纂を執行する抱負をお持ちなのだろうか。背比べの相手を間違えているように思うのである。

*「混ぜご飯」嫌い
 素人考えながら、持論としての古田、白崎両氏の批判だけで切りを付けて、史料批判は別稿とした方がいいのである。具の多い混ぜご飯は、好き嫌いがある。論考の強靱さは、論理の鎖のもっとも弱いところで評価されるのである。

*「魏略」再考 2023/12/02補充
 因みに、魏略」の文献評価は、劉宋史官裴松之によって、「倭人伝」後に補追されている著名な魏略「西戎伝」に尽きるのでは無いか。陳寿「三国志」「魏志」第三十巻に補追されて以降は、倭人伝」並のほぼ完全な写本継承がされているから、批判の価値がある。ということで、魏略「西戎伝」 は、権威ある「三国志」百衲本の一部となっているのである。字数も、「倭人伝」を大きく上回っている。批判しがいがあろうというものである。

 結論を言うと、魚豢は、正史を志したものではないので、史書編纂の筆の精緻さ/強靱さに於いて、陳寿に遠く及ばないのである。劉宋史官裴松之の手にあったのは、丁寧に写本継承された「善本」であったろうが、素人目にも明らかな、脱字、行単位の入れ違いなどの症状が見える。魚豢が参照した後漢西域関係公文書が、後漢末期、霊帝没後の大混乱で洛陽から長安に遷都し、後に、献帝が許昌で曹操の庇護のもと帝位を維持したものの、そうした皇帝の移動の際に、厖大な公文書がついて回ったとも見えないので、洛陽の書庫は維持されたとして、官人が動揺したのは当然であり、その間に、公文書の西夷関連部分に限っても、「脱字、行単位の入れ違いなど」の不始末が発生したようである。

 しかし、魚豢「魏略」「西戎伝」を踏まえて編纂したはずの范曄「後漢書」西域伝は、随分杜撰である。「下には下がある」のである。

〇頓首死罪
 以上、大変失礼な批判記事になったと思うが、率直な批判こそ、最大の讃辞と思う次第である。氏が追従(ついしょう)を求めて記事公開したとは思わないのである。

                                以上

2023年11月22日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞 月刊「のん」 悲しみの紙面事故 五年越しの野音【****】 聖地巡礼

                                    2023/11/22

 今回の題材は、毎日新聞大阪13面 総合・社会面の名物コラムであるが、見出しが「リベンジ」と叫んでいて、一瞬、過去の怨念が巻き起こした血なまぐさい話かと思ってしまった。本文は、ほぼ平穏であるが、記事末尾には、これまた不吉な「聖地」が出てきて、まるで、現今の「血で血を洗う中東事態を思わせる」のである。

 もちろん、ここで叫ばれているのは、血の臭いと縁の無い「ダイスケリベンジ」のだが、いくら逃げても、たまたま英語に示されている罰当たりな「Revenge」から逃げられないのであり、他に、いくらでも感じの良い言い方もあったろうに、「知らないためにこのような恥をさらした」ことは、気の毒なことだと思うのである。

 特に、ここでも歎かれるのは、歴史と権威のある全国紙であり、編集部門が絶大な権威を持っているはずの毎日新聞が、紙面を血まみれ、泥まみれにしていることである。

 こうして、特定のタレントに、「取り返しのつかない汚名を背負わせる」ので無く、「紙面編集段階で、適切な校閲によって、このような発言を発見し、然るべく指導と助言を行って是正し、読者に伝わるのを防止し、以後の事故防止、再発防止に努める」ものではないかと思うのである。

 そうで無ければ、毎日新聞の存在価値が失われていくと思うのである。

以上


今日の躓き石 毎日新聞 将棋観戦記の盗用事故「王座戦」ネット中継の「不法利用」

                           2023/11/22 追記 2023/11/24

 今回の題材は、毎日新聞2023年11月22日大阪朝刊12版のオピニオン面に掲載された「第82期名人戦 A級順位戦」 観戦記 第21局の2である。

 正直なところ、将棋棋戦は、それぞれの主催紙(時に、複数紙共催)が優先権を持っていて、第三者の報道には「当然」制約があるのだが、今回は、毎日新聞社の記事に『「王座戦第4局」のネット中継を見ての報道』が、堂々と掲載されていて、不審に思ったのである。

 まず、問題なのは、主催紙、ネット中継者について、報道年月日を含めて書かれていないことである。第三者著作物の引用に不可欠な事項が欠落している。

 次に、ネット中継の画面を見た感想のはずが、自身の報道のように書かれていることである。「取り返しのつかないミス」などと、許しがたい論評を付していて、競合誌の紙面で、主催紙の独占的な権利を大いに侵害している。言うならば、自身の観察ではないのに、臨場感を催していたのである。報道偽造である。

 ということで、明らかに、知的財産権の重大な侵害がなされているのである。観戦記者は、王座戦第5局の観戦記を担当する予定だったと言うが、それは、第5局の観戦記を、主催紙の承認のもとに主催紙に掲載する権利であり、第三者である毎日新聞に掲載することは認めていないはずである。まして、今回の記事は、観戦記依頼などしていない第4局であり、これを高言するのは、論外の暴言というしかない。いわば、職業上の秘密事項を不当に漏らしたものとも見える。念のため言い置くと、ネット中継は、中継者の著作物であり、それを、自身の見聞のように書くのは、中継者の著作権の侵害であると指摘しているのである。

 続いて、同局敗者の談話らしきものが、堂々と引用されているが、毎日新聞社が、自社の名人戦A級順位戦の観戦記で、自社主催棋戦を高め、他社主催棋戦を貶めるために、敗者談話を掲載するのは、報道倫理に悖(もと)るのではないだろうか。

 常識的に考えて、主催紙がそのような談話の取材を許しているのは、当日の観戦者、報道者であり、時点不明の後日の談話については、「勘弁してくれよ」と思っているはずであるが、談話には話者の記名はないし、談話の語られた日が、当然、失陥の後日であるとしても、いつのことか明記されていない。
 「王座戦」の価値を毀損することを恐れているはずの主催紙が、前王座が「ミス」を犯したと自認した談話が競合紙に正式掲載されることを許可したものかどうかは、不明である。

 正直言って、棋界、つまり、「世界一の順位戦A級」を占めている「棋界最高位の九段」にしてタイトル保持経歴のあるトップクラスの有力棋士が、「メンタルは他人より強いと自覚してい」たなどと、子供じみた言い方をするものではないと思うのである。「mental」(メンタル)は、体育会系のアスリートの好む恥知らずな言い回しであるが、所詮、名詞でなく形容詞であるし、形の無いものであるから、「強い」、「弱い」は、誰にも知ることができないのは、当然である。伝統的な評言としては、「体力」、「筋力」でなく、「知力」が高く評価されるものであり、「鈍感さ」を誇っていると聞こえては、甚だ不本意では無いかと思うのである。
 このあたり、他紙の観戦記で持ち出され、主催紙に不利益をもたらすと了解した上なのか、という点も、大変疑問なのである。
 問題の談話が、どのような前提で成されたものであり、どのような質問に対する回答なのか「隠されている」から、当の棋士に対して不当に厳しいかもしれないが、もし承知の上での発言、引用許諾であれば、プロ棋士としての職業倫理の根幹に関わると思えるのである。

 ついでに確認すると、「自覚」していたと言うのは、何かの資質が劣っていると自認する場合の言葉遣いであり、あいまって、知性に富んだ一流棋士の口にすべき言葉遣いでないのであり、それでは、観戦記者が棋士の知性を毀損しているのでは無いかと思われる。
 当観戦記は、毎日新聞の看板のもとに、世間に、有力棋士の失言をさらすのでないと信じるものであり、この場合、毎日新聞社としては、教育的指導すべきと見るのである。共同主催紙の朝日新聞社は、同一の談話を引用した、同一趣旨の観戦記を載せていないと思うので、困るのである。
 それとも、この程度の「行き過ぎ」は、業界相場で許容されているというのだろうか。日本経済新聞社のご意見を聞きたいものだが、この場は、毎日新聞社の責めを問うものなので、そちらはそちらで確認して欲しいものである。

 以上のように厳密に論じたのは、本日の観戦記の相当部分が、実際の観戦記でない「第三者著作物の不法利用」に占められているからである。毎日新聞編集部は、このような問題を露呈した記事を当然と見ているのだろうか。

 少なくとも、毎日新聞の一読者として、大変疑問に思うものであり、率直、かつ丁寧に「批判を加えた」のである。

以上

2023年11月20日 (月)

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 1/6

  私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23 2023/04/19 2023/11/20
「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国
 長野正孝

◯はじめに
 この論者の著作は、アマゾンで内容抜粋を読んで、とてもついて行けないとさじを投げた経緯を発表している。著者が心をこめたはずの「抜粋」が「乱脈記述」で判読不可能であれば、後は、野となれ山となれ、ほっとけば良いはずなのだが、ついつい「ムック」に精選されたらしいということで、しぶしぶ読むことにした当記事も、ついて行けない「乱脈記述」でさじを投げた。いや、かれこれ三カ月ほどどうしたものかと悩んだのである。結局、他の「書評」と同様に、筋の通らない議論は、率直に指摘することにしたのである。

*果てしない暴論
 その一つは、古代史関係で珍しくもないのだが、時代錯誤の語彙起用である。現代人の素人語感で古代記事を書くものだから、文の意味が混乱するのである。論者の脳内は、どのような構成になっているのだろうか。到底、常人の知り得ない境地なのかも知れない。いや、そんなことは、個人の「プライベート」な「奥」の世界なので、当方の知るところではないのである。論者は当記事で、その内なる世界を外部に投影して、読者に伝えようとしているはずだが、一向に、外から見える「パブリック」な「表」(おもて)に出てくれないのである。

*背景事情
 一般的な理解として、「通説」によると中国の鉄器は、戦国時代後半頃に鋳鉄による鋳物で始まったという。これに対して、論者は、意味不明の独断で紀元前三世紀頃から、九州北部への「鉄」流入が始まったと説いているが、流入した「鉄鋳物」を加工したというのであれば、そこから、鍛冶屋が「鉄器」をたたき出すことも始まったというのだろうか。言うまでないが、「鋳物製品を鍛冶屋が叩いて鍛造することなど(絶対に)できない」のである。それとも、鋳鉄を鋼鉄に吹き替える高温炉が、未開の地に造成できたというのだろうか。物は自分の「足」で遠路を越えて伝わるが、工業技術は、多数の担い手が移動しなければ、遠隔地に伝わらないのである。肝心の背景を読者に知らせずに、勝手な「ホラ話」を言い募る趣旨がよくわからない。

 それにしても、鉄に関する肝心な事項の説明がないのが不思議である。無造作に「鉄」というものの、『鋳鉄の鋳物と鋼の利器とでは、製造方法が違えば、得られる「鉄器」の用途がまるで違う』のだが、論者は何もかも一緒くたにして、読者の理解を妨げたがっているようである。

 そのような事項を放置して、二世紀頃、つまり、先の事象から四,五百年を経て、鉄器が大量に流入したと言うが、ここでもどんな「鉄」なのか語られていない。誠に、誠に杜撰である。

 更に読者を混乱させるのは、「倭人や渡来人が鉄を運んだ時代は、『日本書紀』の時代とほぼ一致する」との乱暴極まる言い切りである。突然持ち込まれた『「日本書紀」の時代』がいつのことかわからないから、読者には、同感も批判もできないはずである。普通に考えれば、「日本書紀』の時代 は、「書紀」の編纂された時代のはずであるが、著者は、大事な時代指定をごまかしたままで(いわば「ズル」して)突っ走るのである。

 氏は、「若気の至り」で、限定された、つまり、乏しい、自分なりの語彙を紡いで、ご自身の脳内に架空世界を描いて悦に入っているのだろうが、このような文書の形で公開するためには、現実世界の語彙につなぎ替えなければ、善良な一般読者に理解されないのである。言いっぱなし、書きっぱなしでは、著者の人格が疑われるのである。というか、所謂「ペテン師」として「確信」されるのである。誠に残念では無いか。

  独り相撲は、見えない神を負かすための芸であるが、論者は、どんな観衆にどんな芸を披露しているつもりなのか。

未完

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 2/6

  私の見立て☆☆☆☆☆    2017/02/23 2023/04/19 2023/11/20, 12/09
「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

*朝鮮半島鉄事情
 陳寿「三国志」「魏志」「東夷伝」が、朝鮮半島中南部の韓国領域での「鉄」産出を書いているのは、東南部の「辰韓」のあたりの部分である。例によって、陳寿「三国志」の記事は、簡にして要を得ているから、丁寧に読みほぐせば、たっぷり情報が取れるはずである。
 常識的に言えば、これは大々的な鉱山採掘ではなく、露頭に近い状態で鉄鉱石がとれたのであろう。それを、薪炭を使用して精錬し、銑鉄を取り出したと言うことだろう。あるいは、後年の(日本)中国山地の砂鉄採取、「たたら製鉄」の前身、つまり、砂鉄採取/製錬だったかも知れないが、その辺りは、当ブログ筆者の知識外である。

 國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。

 ここには、韓、濊、倭が、皆、鉄を手に入れていると書かれているが、「互いに争った」との記事は、全く存在しない。「争っていた」とすれば、それぞれの集団が派兵して鉱山支配を競うのだろうが、各集団は、大国、つまり、「韓」国、「濊」国、「倭」国というような広域国家が未形成で、あくまで「小国」であり、つまり、「韓」伝で列記された「国家」の体をなしていなかったから、「国軍」、「国益」の概念はなく、また、そこまでして産鉄地の独占支配を計るほどの価値を見いだしていなかったとみられるから、「争ってはいなかった」のだろう。
 また、「産鉄地は楽浪、帯方両郡の監督下にあった」と思われる時代なのに、両郡が鉄鉱山を管理・支配していた気配はない。単に、「両郡に鉄材を送付していた」と書かれているだけである。管理する役所も、現地に監督者を置いていないのである。遠隔なので、銭代わりに貢納したのではないか。つまり、両郡も、鉄を特に重大視していなかったと思われるのである。

*「嶺東」なる「極東」
 念のため書き足すと、朝鮮半島中南部は、小白山地が西岸近くを南下していて、東西の移動/物流が至難であり、しかも、小白山地は、北に向かって大きく東に彎行しているから、半島東南部は、西部海岸地帯の「馬韓」領域と「地理的」に隔離されているので、南北の移動/物流が至難なのである。かくして、半島東南部の弁韓、弁辰領域は「嶺東」と呼ばれる「荒地」だったのである。

 壮大な歴史図式(曼荼羅)を好む岡田英弘氏は、漢武帝が朝鮮を駆逐した後に、嶺東に「真番郡」を置いたと仮定(夢想)しているが、札付きの荒地で、ほとんど税収のない地域に、高給(粟)をとる郡太守を抱え、郡兵を常備した「郡」がなり立つはずもない。岡田氏は、大船、つまり、大型帆船を率いた漢人商船が乗り入れたと空想を物しているが、商材、つまり、買い付ける財貨が、ろくにない地域に商人が乗りこんでも、手ぶらで引き揚げるしか無く、結局、「真番郡」は、霞の彼方に消えたのである。
 いや、いくら武帝が大胆でも、往き来の困難な「嶺東」が自立できるなどとは思っていなかったが、天子は、「銭勘定」などしないのであるから、真意のほどは、知るすべが無い。

 「現実」の嶺東は、手軽な手漕ぎの渡海船で往来できる対海国、一大国を通じ、末羅国を外港とした伊都国との「市糴」で、ひっそり潤っていたのであり、小白山地を「竹嶺」で越える官道の成立により、帯方郡への物資搬送が「細々と」成立していたのである。街道として整備され、関所/宿舎が整った官道が成立すれば、小規模な民業による交易の鎖がつながり、後漢初期に辛うじて交通ができていたあと、途切れていた「倭」の文書使が、後漢献帝の「建安年間」に楽浪郡に届いたのである。
 ということで、華麗な幻想が霧散/消滅した後、公孫氏の遼東郡が成立するまで、着実で、物堅い往き来が続いていたと見るべきなのである。

 陳寿「三国志」「魏志」「東夷伝」に書かれているのは、濊、韓、倭には、中原で、全中国に通用していた「銅銭」が一向に通用していなかったので、それぞれ、「市」(いち)での通貨代わりに、「鉄」を通用させていたというに過ぎない。あるいは、郡に対する納税として、穀物、野菜、海産物を現物納入することは、物理的に困難/不可能な状態では、登録された戸数に応じた「鉄」を郡に税として納入していたかと見えるのである。

 但し、各勢力は、「戸数」に応じた税務を果たすどころで無く、ひたすら減免を願っていたことが、東夷伝/韓伝/倭人伝に明記されているから、両郡に納入した鉄材は、穏やかなものであったことも、明記されていると見えるのである。(念のため言うと、「明記」とは、当然自明の「示唆」も含まれるのである)

 倭人伝で言えば、対海国、一大国は、登録された「戸数」に比して、「方里」で示された総耕地面積は、相当に僅少であり、また「戸数」で想定される農地も、納税に値する「良田」が僅少であると特筆/念押しされているので、「倭人」からの税納は無いに等しいと明記されているのである。

 先立つ高句麗伝と韓伝では、それぞれ、異例の「方数千里」と書いていて、要するに、「国内」は山地勝ちであって、河川沿いにも耕地が取れない、即ち、纏まった農地が存在しないので、銭納しようが無い、と明記されていて、書かれている「方里」、つまり「平方里」を単位としての総耕地面積は僅少と明記され、管轄していた楽浪郡は、これを認めて、洛陽に上申しているのである。そして、洛陽に承認されたから、それぞれ「高句麗伝」と「韓伝」に記載され、「倭人伝」の先触れをしているのである。誠に練達の史官の筆は、周到である。

 世上、倭人伝」の対海国、一大国記事は、それぞれ「方数百里」とことさらに耕作地僅少を謳っている趣旨を、あっけらかんと見過ごされているが、各国の担税能力僅少を宣言するものとして、大変丁寧に書かれていることを理解すべきである。何しろ、両国は、韓半島の直下にあるので、下手をすると、ほんの目と鼻の先だと解されて、過大な物納を課せられかねないのである。

 こうして、当記事を咀嚼してみると、論者の書いた記事は、原典史料の深意を理解したものではなく、取り付きやすい、つまり、「すらりと理解できていると思い込んでいる」「いくつかの単語」を取り出して、後は、出たとこ勝負で現実離れした自身の架空世界を「書斎の安楽椅子」(Armchair)で構築し、専らそれについて語っているようだ。
 歴史的な「現実」とご自身の脳内の仮想世界の「現実」の区別がつかないのは、感心しない。論者の見ている仮想世界は、論者にしか見えないので、善良な一般読者には、語られる「ことば」が何を指しているのか見えないのである。

未完

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 3/6

  私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23 2023/04/19 2023/11/20
「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

*鉄材商人幻想

 國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。

 再掲、再説すると、論者は「倭が鉄を買い付けた」というが、記事は、「鉄は通貨代わり」だと書いているのである。つまり、価値のある財貨を現地に持ち込んで売りつけ、対価として鉄を支払って貰うという交易である。鉄を「買う」のではない。
 またしても、浅薄極まりない自説に合うように史書記事を改竄するのは、不信感をあおるだけである。或いは、共通通貨の存在しない市場で、鉄塊/鉄鋌が「価格」の指標とされたかもしれない。中国では、「銅銭」が通用していたから、市場の「商品」には、「銅銭何枚」の「値札」を付けることができたのであるが、銅銭がなければ、鉄鋌で価格を示すしか無かったのである。それが、「銅銭の代用」という意味である。決して、鉄鋌を「売買」していたのでは無いのである。
 そして、それは、「市」(いち)の場で対面売買される際の価格指標/相場として、表明されたのであって、現物交換の指標として有用であって、決して、鉄鋌をもって支払いしたのでは無いのである。

 まして、大量の鉄鋌を、当時存在しない「日本」に運んだという記事は、何かの錯覚/妄想であろう。「日本」が登場したのは、さらに四,五百年を経た後である。重大な時代錯誤というしかないどこの何者に運んだと主張しているのか。まことに、「知らないほど強いことは無い」という感じである。

 「普通」に考えれば、「倭」が、「市」(いち)に持ち込んだものの対価の差分として、鉄を入手したら本拠地に持ち帰るのである。大量に差分が出たとしたら、持ち込んだものは、大変高く売れたというものであり、そのような「利」を生み出したものがあれば、それは、時を経ることなくして、巨大な商業帝国を築き上げたのに違いない。
 それがどの地域にあったかは、この際の議論には直接関係ないが、まずは、朝鮮半島南部の拠点に届けたろうし、ものの十日ほどで届けられる九州北部に持ち帰ったのだろう。長々と続く沿岸航海なのか、それとも山河を越えてか、とにかく6か月を要しかねない遠隔地である後年の大和の地まで直接、全量を運んだとは、到底、到底思えない。素人の後学のために、証拠を提示して欲しいものである。
 それが、物の道理というものである。

*古代交易の推定
 当ブログ記事の筆者の時代感では、当時の倭は、各地に点在する「国」が、それぞれ「小国」、つまり地域聚落をなして自律的に活動しているのである。
 ものの道理として、価値を認められた「もの」は、多くあるところから少ないところに、水が低きに流れるように移動していくものである。街道もなく、船便も無く、牛馬の便もない時代であるから、バケツリレーのようで月日がかかるが、当時、「通商国家」はないし「国境なき豪商」もいないのである。あくまでも、時代相応に人手でつなぐものである。
 後年の山城あたりで出土した鉄遺物は、土地の豪族が原産地から直接買い付けたのでなく、九州北部から、例えば、瀬戸内海北岸諸国/諸港を順次通じて到着したと見るものではないか。財貨は、豊かなものの手元に貯えられるのであって、それは、水が低きに流れるように自然の理であり、いくら権威付けしようとしても、自然法則に反して、低きから高きに流れることは「絶対」に無いのである。

 鉄が「国際通貨」であれば、交易対価として鉄を受け取るのであり、財貨物ではないから、途中の諸国で「鉄」に都度関税を上乗せされることがない。数十年に亘って、そのような交易を続ければ、自然に「金庫」に鉄が溜まる。使い道が特になかったから死蔵され、豪族の埋葬に際して、副葬物となったのではないか。
 
武器などに活用されていたら、とても、死蔵も埋蔵もしないのである。
 普通に考えれば、そういうことであるが
筆者は、時代錯誤の夢想に遮二無二こじつけて、無謀な放言を重ねているのである。大丈夫であろうか。

未完

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 4/6

  私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23 2023/04/19 2023/11/20
「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

*謎の鉄器文明
 論者は、「運んだ鉄は戦いの後で発生した武器などの鉄くず」と称しているが、ここまで出回っていた「見てきたようなほら」であろう。そんな詳しいことは書かれていない。文意が取れない悪文である。
 鉄鋼利器は、当時として大変な貴重品であるから、鉄鏃は、拾い集めて再利用するし、武器が欠けたら、鍛冶屋がたたき直すのである。全体を溶かして再成形など、厖大な労作で有るが、古来、街の鍛冶屋は、手軽に再生していたのである。
 因みに、青銅製品は、たたき直すことができないが、比較的容易に溶かして鋳直すことができたから、廃材集め/再生ができたかも知れないが、鉄鋼製品はそう簡単には行かないのが、考古学の常識である/はずである。氏も、こと考古学に関しては、初学者なのだから、もっと謙虚に「勉強」されたらどうかと、衷心から思うのである。
 いっぽう、鋼製品は、鋳物にできないし、そもそも、山出しの鉄材から、大変な技術無しには、鋼製品が得られないのである。氏に言わせると、本書は、「鋼」でなく「鉄」を論じているというのだろうが、そんな恥知らずなことは言うべくもないのである。
 氏は、行きがかりからか、そのようにして得た「鉄くず」を、何者かが九州北部で鋼鉄製品に鍛冶したと言うが、何か根拠はあるのだろうか。ページ上半分になにやら真っ黒い図が貼り付けてあるが、どこでどのように発掘されどのように確認された物なのか書いていないから、場所塞ぎで無意味である。

 続いて、「一つの大きな鉄器を三つに加工」とあるが、なんのことか、まるで理解できない。
 どの程度を大きいというのかわからないが、鉄鏃を基準としているのだろうか。それぞれの「鉄器」には、その「鉄器」に託された機能があったはずであり、たとえば、一つの「鉄斧」を三つの「鉄斧」に増やす加工ができるとは思えない
 あるいは、「細かく裁断」と言うが、鉄器を、まるでカッターナイフで紙を切るように裁断できる刃物があったとは思えない。よい子は、口汚くのたくるのでなく、口を慎むものではないか。

 加工して「付加価値」をつけるというが、当時、「付加価値」と言う概念はなかったから、程度の低い「時代錯誤」と言うしかない。まして、「さらに商い」と言うが、当時どのような商業活動をしたのか示されていないので、意味不明である。それにしても、「価値」は、買い手が見立てて、値付けするのではないか。時代錯誤の諸々は、もともと信頼性の無い氏の論考の値を下げているのでは無いか。負の「付加価値」と言うしゃれなのだろうか。迂遠すぎてついて行けないのである。

 要は、現代の経済活動の用語を、それが、古代の鉄本位(?)経済に通用するかどうかお構いなしに、適当に書き殴っているのだが、それは、時代錯誤に過ぎず、意味を理解できない善良な読者は混乱する。氏や、身辺の飲み会仲間は、はやし立てるかもしれないが、世間一般に通用するには、ほど遠いと見える。

*時代錯誤の国際人説法
 とどめとして、次の小見出しには失笑する。「国境なき国際人」は、どんなつもりで書いたのだろうか当時の東夷倭人では、中国古代史で言う「国」は形成されていなかった。東夷伝の便宜上、大国、小国取り混ぜて「国」と称しているのである。
 もちろん、現代感覚で言う「国境」は、全く存在しないのである。国家がないから、「国籍」も「国際」もない。論者が、自家製の現代概念にとりつかれて、時代錯誤の泥沼にどっぷり浸かっているのが見えるが、いくら「泥パック」がお肌に良いと説かれても、お相伴するのは、ご勘弁いただきたい。

 最後のご奉仕で、もう少し批判を足す。

未完

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 5/6

  私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23 2023/04/19 2023/11/20
「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

*鉄本位経済 再説
 國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。

 再掲、再説になるが、「朝鮮半島東南部の産鉄地区に、韓、濊、倭の近傍三者が鉄を取りに来ている」と言う。この地域は、帯方郡の管轄下であるから、秩序正しく統制されていて、三者も、武力で鉄鉱山を支配する気などないのである。高句麗、扶余は仲間に入っていないから、別に鉄の調達先があったのだろう。

 論者は、二世紀頃まで鉄は「高価」であったと言うが、対価として何を想定して「高価」というのだろうか。もちろん、鋳物製品となった「鉄」と「鉄鋼利器」になった「鉄」では、求められる「価値」は別である。
 それぞれ、買い手が求めるものであれば、「売った」「買った」のかけ声で「価値」が発生するのだが、必要が無いものであれば、鉄は、すぐ錆びて朽ちてしまう、たちの悪い「悪金」なのであり、「捨て値でしか売れない」のである。氏には、何のことか理解できないかも知れないが、そのような理屈は、太古以来、引き継がれている「基本的」な経済原理なのである。

 史書は、鉄は、東夷において中国の銅銭のようだという。銅銭同様と言うほど潤沢でないにしても、広く物の値段の基準になっていたことは明らかである。いわば「鉄本位経済」であり、関係各国に、銅銭のような通貨は無いから、しかたなく「国際通貨」なのである。

 「鉄鋌」は、溶鉄を樋のような受け皿に流し込んで、自然に冷却固化させたのだろう。鉄器作りどころか、延べ棒に成形する技術もないから、成り行きで送り出したのである。大抵は、個数を数えるのであるが、いくら文字の無い世界でも、一,二,三の勘定は、漢字の横線と照合するだけであるから、通用したのである。

 必要なときは天秤などで目方の比較はできるし、所詮、「銭」の位置付けであるから、三枚ごとに縛り上げた鉄挺の束の数で、硬貨代わりにしたのであろう。まとめて縛ったときに、抜けないように、両端を幅広く鋳出しているのは、賢い工夫である。受取り手は、扱いやすい鉄鋌で良いというのであるから、この形が当時として最善なのである。
 ということで、「各種族が、高価な対価を支払って鉄を買い付けた」とは論者の錯覚/妄想であろう。

脱落談
 このあたりで、当方は、論者の説く新説幻想について行けなくなった。古代に無造作に適用された現代概念が醸し出す脈絡のない時代錯誤連発で、反射的に突っ込みさせられて、徒労なのである。新説の導入部が、導入の役をなしていないのである。

 論者は、何冊かの著書を上申していて、支持者もいるのだろうが、読者諸氏は、よほど辛抱強いのか、論証部分を無視して結論だけを支持しているのか、よくわからない。当方は、ただの読者であるが、これでは闇鍋でゴム靴をかじらされた感じである。書籍購入はご勘弁いただきたい。

 以下、話題豊富な記事の目立った話題について私見を述べておく。

未完

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 6/6

  私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23 2023/04/19 2023/11/20
「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

連鎖「物流」考
 九州北部から大阪湾岸までの東西五百キロメートル余りの「瀬戸内航路」を商船が一貫して往来するのは、遙か後年(何百年なのか、千年を越えるのか、皆目不得要領/いい加減)のことだ
というのは、法螺話ばかりが目だつ長野氏にしては、遥かに珍しく妥当な推論であろうが、それまで、瀬戸内の海上物流が一切不可能だったと断じるのは、遥かに誇大な言い過ぎであろう。

 当ブログ筆者は、一素人であるから、史料も何も見ないままに想定しているのだが、瀬戸内の各地に漁民がいたように、身軽な小舟が沿岸の主要集落を繋いで物資輸送していたはずであり、航行距離は、一人が半日程度で漕ぎ通せる程度の短かいものでも、数多くの小舟の日々の行き来を繋いでいくと、図らずも数百キロに及び、難関を越えた長距離物流になったのではないかと見ているのである。もちろん、荷を担いだ行商人もいたであろうと思われる。

 確かに、西の芸予諸島、東の備讃瀬戸の多島海は、時代を越えた難所であり、また、西端の関門海峡、東端の明石海峡/鳴門海峡の激流は、これに加えた時代を越えた難所であるから、これら全てを乗り切る一貫した船便は、港々での乗り継ぎがあったとしても、恐らく「書紀」に見られる法螺話を除けば、平安時代まで成立していなかったと推定しても無理は無いが、別に、難所は切れ目無く続いているわけではないので、長距離を太い鉄棒のようにつながなくとも、細く小さな鎖を連携すればよいのである。鎖が切れたら、小回りのきく小舟に積み替えて回り込むなり、陸路でつなげるなりすればよいのである。そのような、一見頼りない「連鎖する流れ」が、古代に於いては、滔々たる川の流れのような「物流」かも知れないと思うのである。
 長野氏の「想像力」は、どうにも短慮/狭量で、古代史考証のあてには、全くできないように見るのであるが、恐らく、それは、地道な見聞に欠けているせいだと思われるのである。氏は、厳しい指導者に恵まれなかったのだろう。

 現代の貨物船による輸送と違って、契約で着荷日程を指定されているわけでなく、はるか東方で物流の末端にいるものは、到着までに何年かかろうと知ったことではなく、舶来で、自説に応じて所望の品物が手に入ればそれでよいとみた「顧客」と思うのである。いや、そんなに矢継ぎ早に大量の物資を「纏向」に送りつけられても、そこには対価として提供できる物資が無い/乏しいのだから、むしろ、貿易途絶かと思われるほど少々の往き来で良かったのであろう。知る限り、「纏向」は「黄金郷」では、なかったように見えるのである。

*四国を「一路」貫く「ヤマ」の道 (孤説紹介)
 創世期において、伊予の二名の州として、つまり一国として認知されていた四国西北部が絶海の孤島であったとは思えない。

 後日思い直したのだが、九州中部から四国を貫く「中央構造線」経路は、海山越えて東西に連通していて、太古の限られた輸送形態でも、送り継ぎによる一貫輸送が可能だったと見えるのである。つまり、大分から東に渡海/水行して三崎半島に渡れば、以下、陸上だけで移動可能であり、ほどほどの難路であるが、さらに東に進めば、吉野川に沿って、鳴門海峡を越えた「小鳴門」に到着するので、海に難所続きの瀬戸内海経由に比べて、気長な送り継ぎが可能と見えるのである。以下、更に西に進むのも、さほど難事ではないはずである。
 船の利用に難があったにしても、現在の大分と三崎半島の間の渡海/水行は、要するに「渡し舟」であり、東の紀淡海峡も、淡路島南端に寄港すれば、「渡し舟」二回で済むのである。
 「渡し舟」は、吹きさらしでも良いし、食事の煮炊きも寝泊まりも無いから、甲板も船室もいらないのである。「渡し舟」なら、毎次漕ぎ手が入れ替わっても良いので、人並みの体力があれば、都度、入れ替わって漕ぎ手を務められるのである。

 以上は、支持者の無い「孤説」であるが、時代相応のハイウェー(公路)と見ているのである。これは、あくまで、三世紀にも到らないかも知れない古代/大過去の話である。当方が勝手に言っているのは、「卑弥呼のふるさと~斜め馬のくにの一筋の道」である。

*重い使命 (Mission of Gravity)
 論者は、鉄の比重(Specific Gravity)が輸送の妨げになっていたように言うが、鉄が、玉石や貴金属なみに尊重されていたのであれば、人が担げる程度の量でも十分な財産価値があると言うことであり、大量輸送の必要などない。鉄が貴金属でないのと同様に、銅は貴金属ではないが、比重8.9で、鉄に比べて一段と「重い」し、金、銀は更に「重い」が、だからといって、比重で輸送経路/輸送手段が決まったわけではないのではないか。過去も現在も、輸送手段の選択肢は、現場を見ない「空論」の徒を除けば、ごく限られているように見えるのである。あるいは、「渡し舟」のように、それしかない手段がない可能性もあるのである。

 輸送する際に問題となるのは、荷物の質量(重さ Gravity)であり「比重」などではない。長野氏の一途な提言を真に受けるとして、当時、荷物を船で運ぶかどうか決める際に、荷物の中身/構成物の比重をどうやって知ったのだろうか。現代の貨物輸送のように、その都度、貨物の外寸容積(才)と重量を計測して比重を計算して運賃を決めていたのだろうか。

 按ずるに、この部分の新説は、何かの錯誤/妄想であろう。そのように言われたくないなら、ご自分で再読して、ご自分で推敲すべきである。いや、氏の提言の信頼性を問われているのは、ここだけではない。あちこちと言うより、辺り一面(here, there, and everywhere)である。

*結語
 と言うことで、当ブログ筆者は、ここに掲載されている記事を最後まで追いかけることはできなかった。従って、論者の主張全体を云々することはできない。
 ウィンストン・チャーチルの言いぐさをもじって言うなら、ゆで卵の良し悪しを判断するのに、自分で卵を産む経験は必要ないし、ゆで卵を全部食べなければならないわけではない、となる。いや、これは冗談半分/本気半分である。

 論説を最後まで読んで欲しかったら、最初の一行から、丁寧に文章を推敲・吟味して、つまらない錯誤を交えないことである。

 獲れた魚をそのまま賓客に供するのでなく、ウロコを取り、はらわたも抜き、小骨まで取り除いておくのが、良き庖丁のたしなみではないか。氏、「論客」でなく「説客」を志しているようだから、なおさら、たしなみを心がけて欲しいものである。

以上

私の本棚 野田正治 「古墳と仏教寺院の位置が示す真実」 1/2

  私の見立て☆☆☆☆☆ 論外のジャンク         2016/11/28 2023/04/19 2023/11/20
  別冊宝島「古代史15の新説」  古墳と仏教寺院の位置が示す真実 野田正治

◯はじめに
 当ブログ筆者は、毎日新聞が夕刊紙上で月一連載している「歴史の鍵穴」コラムの多くの記事に「地図妄想」との批判を浴びせて、その趣旨の論証を計っている。
 つまり、『現代の地図上で、古代史に名の上がっている地点が厳密な直線上などに配置されているのは、古代においてそのような厳密な位置関係を企図して設置したからである』とする「非科学的/不合理で根拠のない憶測」を、筋の通らないデータとともに押しつけるのは、コラム筆者の根拠のない妄想であり、全く科学的ではないと丁寧に批判しているが、ここにも、同様の妄想にとらわれている論者がいるのには、憮然とするのである。ということで、趣旨は重複しているが、別のメディアの別の論者の批判である。
 筆者は、どうも、建築学における泰斗であり、斯界の専門家として、絶大な権威を持っているのだろうが、考古学に関しては、まるっきりの門外漢/素人と見える。そのような素人の不出来な考察を、なぜ、このような考古学論の場に持ち出すのか、不可解そのものである。「別冊宝島」の編集部は、論文の掲載にあたって、論文審査をしないのだろうか。困ったものである。「ムック」は、闇鍋の泥仕合、「泥レス」だと評する向きが有るが、このような無資格論文が陳列されているところを見ると、せめて、ちゃんと味見しろと言いたいところである。
 これでは、「ムック」全体が、ゴミだと受け取られてしまうのである。

*安直な妄想
 何しろ、現代の地図上で「直線配置状に見える」と言う主張は、まことに安直にできてしまうのだが、古代の建設時にそのような配置を行ったと確信するには、単なる結果論とならないように学説としての多大な検証行為が必要なのである。いや、当時、現代風の衛星地図が存在しなかったのは明らかであるから、実行も郍にも不可能であり、むしろ、動的に『妄想』と断定でき、さっさとゴミ箱入りとするのだが、いったん、断罪を保留する。

 当記事では、浅はかな「結果論」症状の現れとして、各地点の地理データの過度な精度が示されている。
 地上の特定の施設や建物の位置は、現代の技術をもってしても、ある程度の不確かさ(誤差)を避けられない数値であるが、論者は、そうした誤差含みの数値を、緯度・経度については、小数点以下五桁、つまり、角度で言えば、十万分の一(0.001%)のデータ精度を誇ってみせるのである。
 そして、計算結果である方位角では、一万分の一(0.01%級)の精度を誇示している。現実世界の測量では、千分の一(0.1%)の精度すら達成困難(事実上不可能の意味)と考える。

 10cm(100mm)の「定規」/「物差」でも、0.1mm単位の読み取りはまず無理である(絶対不可能の意味である)。最低、ノギスやマイクロメーターのお世話にならないとだめである。ノギスやマイクロメーターを使用するにしても、温度管理された恒温/測定室のような高度な測定環境や精度を保証する定期校正が必要である。もちろん、試料は、測定に先だって長時間恒温に保持され、それこそ、試料の深奥に到るまで温度が一定していていないと、測定が、全く無意味である。野田氏は、全くの素人なのか、一桁を単に数字一つのように思っているのだろうが、一桁の精度向上には、莫大な労力とそれをささえる技術が伴うのである。専門家には、常識である。

 以上のような議論は、高校生レベルの常識であるので、よく言う「文科系」が数字に弱いなどと言ういいわけに無関係な半人前の論義である。なぜ、誰も止めないのか、不審である。ということで、ここに書かれた計算結果は、元データもろとも、実測不可能であり、明らかに架空、つまり、虚偽である。
 研究偽造で、即刻更迭されてしかるべきだと思うのである。

 後に論者自身が渋々認めているように、建造物のどの場所を位置測定するかによって、緯度、経度に若干の変化があり、ここに表として示された数字は、それに伴って大きく(0.1%程度を言うなら)変わるのである。そう考えると、ここにあげられた数字は何なのだろうか。論者のもくろみに合うように選定されているのではないかと懸念される。数字だけ提示されていれば、無批判に信じるというのは、批判精神の放棄であり、誠に残念である。

 世上溢れている「ペテン」が、このように易々と公表されているのは、どうしようもなく不合理である。気の毒なことに、当記事の筆者は、不朽の悪名を掲げているのである。

以上

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私の本棚 野田正治 「古墳と仏教寺院の位置が示す真実」 2/2

  私の見立て☆☆☆☆☆ 論外のジャンク         2016/11/28 2023/04/19 2023/11/20
  別冊宝島「古代史15の新説」  古墳と仏教寺院の位置が示す真実 野田正治

 末尾の「補記」をみても、疑惑は解けない。
 論者は、飛鳥時代に高度な測量技術があった、天皇(クラスの権力者)が、(手ずから?)測量した、と楽天的に推定しているものの、いくら当時の測量技術後進国の視点では高度てあっても、以上に述べたような現代技術、当時からしたら想像するできない超絶的な技術はなかったのは論義の余地無く、明らかである。妄想もほどほどにすべきである。

 いや、論者は明示しないが、たとえば、御破裂山の位置データは、国土地理院の提供したによるものと思われる。いずれかの時点で、数多くの三角測量によって、国内の基準点との相互位置関係が確定し、後に、衛星測量などによって校正されたものと思う。ほかには、まっとうな実測測量データはないはずである。なぜ、データ出所を明記しないのだろうか。

 さて、国土地理院の公開データは、明治以降に新たに測定された値であり、それ以前は、位置測定されていなかったのである。位置測定されていなかった時代には、方位角などの計算根拠となる緯度、経度のデータは存在しないのだから、方位角などの計算は不可能なのである。もちろん、飛鳥時代に、国土地理院サイトもなかった。
 つまり、健全な古代史論義においては、ここに書かれたような計算は意味を持たないのである。

 古代においてかくかくの位置情報であったと主張するなら、何らかの裏付けを提示する義務があると考える。Google Mapにしても、古代に適用できるデータではないと言うはずである。データ利用規定に違反していと思われる。国土地理院共々、公開データの不正利用に対し、厳然と抗議すべきものと思われる。

 悪くとると、お手盛りのデータに、国土地理院なり、何なりの保証があるような虚偽の主張をしていることになる。歴然とした「犯罪行為」と思われる。

以上

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2023年11月15日 (水)

今日の躓き「医師」 毎日新聞 早川智 「偉人たちの診察室」の晩節

 「乏精子症? 跡継ぎ悩み」~「産婦人科医師」の救いがたい迷走 (毎日新聞サイト 未掲載)                            2023/11/15

◯はじめに~[タイトルのダメ出し]
 知る限り毎日新聞には、厳格な表記ルールがあるはずなのだが、見出しに難読/異様な単語「乏精子症」が、ルビ無しに出て来るのは、どんなものだろうか。

*医学専門家の迷走~「巻末魔」の粗相打ち棄て
 「戦国武将の自然死」と妄念を口走るあたりから不吉であったが、次に、断末魔ならぬ「巻末魔」。締めでとんだ「粗相」で、後始末に困るのである。「涙」不要。落とし物にせず、お持ち帰りいただきたいものである。

*産婦人科医の迷走
 要するに、いかに斯界の世界最高峰の知識の「専門家」でも、専門外の分野では、ただの素人であり、ここでは、ただの素人が、「専門家」に名案を囁いていて、「専門家」は無批判で信じ込んで、堂々と「与太話」を語っているのである。一人二役の二刀流であるが、ことの愚かしさは、同様である。

 ついでに「専門家」は専門外分野に堂々と口を挟んで、秀吉の晩年、「大阪城」の「奥」に間男を引きこむこと「など」不可能」と、賢そうに断定しているが、当時の実態を知らない後世の素人の「断言」など無意味である。恥を知るべきである。

*不合理の二段重ね
 本論「巻末」で、「専門家」は時間/空間を越えて現代医師が「秀吉」を診断/治療するとおっしゃるが、予測不能な「タイムスリップ」で、身一つで 秀吉の寝間に乗りこんでも、素手で手ぶらでは無力である。大体、言葉も何も通じないのだから、立ち所に惨殺されて、それで「おしまい」である。とんだ与太話である。
 真面目に言うと、「専門家」は、現代医療を支える厖大な「インフラストラクチャー」をお忘れのようである。
 事の始めに、最寄りの発電所、送電網無しには何もできない。続いて、医療機器、医薬品が必要である。診断/治療に訓練人員が多数必要である。総合すると、診断/治療には、不妊症「クリニック」が必要で、ライフラインもサポートスタッフもコミで、地方都市級の体制が必要である。氏は、臨床医療にあたったことがないのだろうか、といいたくなる。間男談義は、馬鹿な素人の戯言ですんでも、こちらは、本業であるから、笑って誤魔化せないのである。真剣な批判は、末尾に譲る。
 ついでながら、素人考えで申し訳ないが、氏の言う「無精子」症には、さらなる高度医療が必要と思うが、素人には何も言えない。

*増しな「代案」
 随分ましな「代案」として、「患者」が身一つで現在世界にやって来たら、「先に挙げた難点」は、ほぼ全て解消するが、自在に史上人物を拐帯する「タイムスリップ」は、産婦人科「専門家」の新発明である。責任重大である。

 氏のとるべき手段は、氏の理解できない「タイムスリップ」先行技術を動員せずに、単なるおとぎ話として、過去人物を呼び寄せて診断/治療し送り返すべきだった。それなら、単なる「寓話」で済むのである。

*「ヒストリー」の傲慢
 どのみち、時間往復移動は、古典的な「タイムパラドックス」の論理パズルがあって「もともと」(?)無理である。「秀吉」が子だくさんなら、以後の「ヒストリー」は別「ストーリー」になり、我々の時代は来ないのである。いずれにしろ、益体もない寓話でしか無い。
 全国紙に無審査掲載される特権は、もっと慎重に扱って欲しい。駄文の行数/字数稼ぎは無用としたい。
 往年のSF作家が歎いていたように、然るべき知性のないものに暴言/暴力を許すのは、大変な罪悪である。最終責任は毎日新聞にあると思う。

 教訓になるが、「誰でも、知らないことは分からない」と「謙虚」な態度をお勧めする。余談、蛇足で本体の信用を無くしては元も子もない。

◯予測される非難
 不妊治療を受けている方々が当記事を読んで、『不妊症は「手ぶら」でも簡単に診断/治療できる』という印象を与える記事に、強烈な非難が集まったとしても不思議は無い。氏の専門分野であるから、何か言い逃れを用意しているのだろうが、素人目には、不適切な言動である。

                                以上

2023年11月12日 (日)

新・私の本棚 番外 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」 別系統コメント対応

                                             2023/11/12 追記 同日 11/15 
新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 2/2(2023.11.11)

◯刮目天氏コメント応答の件~変則運用御免
 かねて掲示する刮目天氏から、上記本件に関して、当事者外の野次馬コメントが届いていて、若干筋違いですが、ふさわしい案件に連携して、当方の方針で、極力説明差し上げることにしていますので、以下、蒸し返しも含めて回答します。なお、目には目を、コメントには返信コメントを、が常道ですが、丁寧に論拠をこめて回答するには、コメント欄に入りきらないので、記事を立てたことの非礼をお詫びします。

◯コメント全文引用

いつも勉強させていただいていますが、今回のお話は古代史解明のカギを握っています。

大夫難升米が帯方郡を訪れたのは景初二年六月ではなく景初三年(239年)六月の誤りであることは以下のことから推理できます。

「魏書 東夷伝
韓伝」に「明帝が景初中(237~239年)に密かに楽浪郡太守鮮于嗣と帯方郡太守劉昕を送った」という記事がありますが、「東夷伝
序文」に「景初年間、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」とあります。「魏書
公孫淵伝」によれば公孫淵の死は景初二年八月ですので、明帝は公孫氏滅亡を知ってから、楽浪郡と帯方郡を攻めさせたと分かりますので、景初二年六月よりも後の話なのです。

そして難升米が帯方郡で面会した太守は明帝の送った劉昕とは全く別人の劉夏なのです。

司馬懿が明帝崩御の景初三年春正月一日の後少帝の太傅(後見人)となって尚書省の長官に就いているので、人事権も掌握し、部下の劉夏を帯方郡太守に就け、戦略上重要な場所にある倭国を朝貢させたと推理できます。倭国王への詔書は司馬懿が書かせたものだと分かります。

つまり魏志倭人伝にほぼ全文掲載された詔書は、陳寿がそのまま転載したということです。陳寿は西晋の宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を編纂したのです。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されているのですから、倭の魏への最初の遣使は明帝崩御後の景初三年六月が正しいと言えるのです。

ここが理解されないから、魏志倭人伝がコテコテの政治文書だと気づかないのです。
このため邪馬台国問題が解決しなかったのです。

従来の史料批判の考え方はそろそろ見直すべきですよ。

政治文書だと分かれば、七万戸の邪馬台国や五万戸の投馬国などホラ話だとすぐに気づきますし、帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉を挟み撃ちにする位置に計十五万戸の東夷の大国とした倭国の女王が都にするところが邪馬台国という記述も、すべて司馬懿を持ち上げるための潤色どころか大ボラだったということに気付けます。

多くの方は卑弥呼が鬼道で倭国を統治する、大集落の中に居た女王と考えていますが、本当の倭国王難升米が伊都国に居たのでは司馬懿の功績を持ち上げるには迫力不足だったから卑弥呼を女王にして騙したということなのです。

卑弥呼は倭国王よりも実力を持つ縄文海人ムナカタ族の族長赤坂比古(和邇氏の祖、魏志倭人伝の伊聲耆)の女(むすめ)イチキシマヒメだと突き止めています(宗像三女神の残り二女神は政治文書「日本書紀」のゴマカシ)。宇佐神宮・宗像大社や全国の八幡神社、厳島神社や神仏習合して弁天宮で祀られています。詳しくは拙ブログ「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」などをご参照ください。どうもお邪魔しました(;^ω^)

◯回答本文
*先行文献復習
 本件に関する論義は、近年でも、下記論考で議論されていますが、笛木氏が、周到な史料考証の果てに、誤謬をてんこ盛りにした指摘サイト記事に足を取られて、とんでもない結論に陥ったことを、当ブログで丁寧に批判し尽くし、念入りに否定されていますから、貴兄の論義は、考えちがいというか、不勉強による浅慮を根拠にしているので、この時点で「自動的に」考慮に値しない「ジャンク」となります。

 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 1/3 補追
新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 2/3 補追
新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 3/3

 笛木氏の実直な献身的努力のおかげで、それこそ、ゴミの島をかき分ける徒労は避けられるのですが、反面、玉石混淆の羅列で、資料批判が疎かになるのは免れず、笛木氏の貴重な労作は、資料解釈に紛れ込んだ妄言のたまり場と化しているのです。
 特に、資料解釈の結論部で、不意打ちで、いかがわしい意見を採り上げて、折角集積した先賢諸兄姉(当然、自身のブログ記事は尊称の対象外です。念のため)無批判で踏襲するという、大変な間違い/取り違いをしていますから、丁寧に、率直に批判しています。
 二重引用になるので、言及を避け、要するに論義の責任は、所詮、笛木氏に帰属するので、人名は明記していないが、興味のある方は、原文を参照いただきたい。

*誤解の起源
 陳寿「三国志」魏志原文の「又」が、みずほ書房版「三国志」で、学術的に正確に、「さらに」なる古典的な日本語に翻訳されているのに対して、これを、現代の無教養な論者が、「自然に」、つまり、自身の限界のある「脳内辞書」で解釈して、権威ある辞書の参照を怠ったため、魏志の真意を察することができずに「楽浪、帯方二郡の回収時期を、公孫氏滅亡後と勘違いして決め込んでいる」ものであり、貴兄も、そのような意見に操られたのは、浅慮に属するものと思われます。
 貴兄の発言にも関わらず、史料批判とは、古来、何事も、繰り返し検証するということなのです。
 「又」は、漢字一字ですが、文意解釈上の要点であり、貴兄の別コメントにあるように、字数だけ捉えて、「わずか」などと、二千年後世の無教養の東夷が安易に切り捨ててはならないものなのです。

 要するに、司馬懿の公孫氏討伐に時間的に連動せず、但し、ものの理屈から、これに「先行して/先立って、両郡を皇帝指示の少数部隊により、太守を更迭して、遼東公孫氏の指揮下から外して、明帝直轄の新任太守に無血交替した」という趣旨が見てとれていない浅慮の失錯と見えます。何しろ。両郡太守は、皇帝の指揮下にあるので、勅命の紙片一枚で、更迭できるのです。
 但し、当ブログを参照している笛木氏は、肝心の指摘を見過ごしているので、今回の指摘も、見過ごししているかも知れません。あるいは、名「解釋子」が、そのような回収は、両軍の郡兵を動員して、遼東軍攻撃に参加させるなどと、無謀な創作をしているのに影響されたものかも知れませんが、それは、とんでもない臆測も良いところで、「密かに」と当たり前の事項を、但し書きして真意を見過ごしています。
 あることないこと書き足して、蛇足まみれにする「高等」戦術家とも見えますが、見え透いているのです。

 因みに、引用者が「景初中」を237-239と見るのも、軽率の誤訳です。景初三年は皇帝のいない異例/特異な期間なので、明帝の治世と見ることは許されないのですから、史官たる陳寿が意図したのは、景初一,二年の期間であるのは自明です。景初三年を含めたと解するのは、史官に対する侮辱-警告無しに一発退場です。

 ついでながら、倭人使節は、景初三年六月に帯方郡に到着したという説であるから、数ヵ月を経て、洛陽から許可を得て発進しても、洛陽に到着するのは、さらにまた数ヵ月後という成り行きなので、自動的に、皇帝が倭使節の上書に接するのは景初三年と限らず、正始元年、ないしは、それ以降と主張していることになると思われます。其の場凌ぎの言い訳は。言うはたからボロを出す例です。

 冒頭に述べたように、論争の通則として、「明らかに誤謬である前提」に立った貴見は、自動的に、根こそぎ誤謬となりますので、以下のご意見は、いかに念入りに構築されていても、自動的に、根拠の無い臆測となります。特に、本件は、日本語訳文の解釈の齟齬なので、解釈の誤解は、みずほ書房「三国志」翻訳者の責でなく、これを「現代語」に読み替え/解釈したものの責であります。貴兄ほどの見識の持ち主は、誤謬を信用したことに対する責任も負うのです。

 時に、愛情をこめて揶揄するように、無批判の先行見解踏襲は、夕暮れに、疲れ果てた旅人が路傍の「温泉」にいきなり飛び込むのと同様で、まずは、狸に化かされていないことを入念に確認して頂く方が良いでしょう。何しろ、日本古代史の「通説」は、八百八狸の騙し芸の名所なのです。被害者は、枚挙のいとまがないのです。

 ちなみに、貴兄の近来の施政方針(ポリシー)は、全世界の全「歴史文書」(ママ) は、すべて、はなから、「権力者」(ママ) の指示によって編纂された「政治文書」(ママ)に決まっている」(普通の表現としたことは、当方文責)という実証不可能な包括的大風呂敷ですから、陳寿「三国志」魏志第三十巻の巻末の「魏志倭人伝」に関する断言は、貴兄の施政方針が予め実証されない限り、貴兄の思いつきに過ぎないことは、自動的に通用しているので、ここで、何か力んで発言しても、抵抗は無意味です。よくよく、前後関係を見定めた上で。大言壮語、断言された方が良いようです。

 貴兄ほど、多くの読者の尊敬を集める良識の持ち主は、いかに心地良くても、一刀両断の大言壮語を自省いただき、具体的に、実直に、着実に実証の努力を積み重ねることをお勧めします。

*同日追記
 どうしても気がかりな部分をとりだして、精査してみました。
・推理とネタばらし
 司馬懿が明帝崩御の景初三年春正月一日の後少帝の太傅(後見人)となって尚書省の長官に就いているので、人事権も掌握し、部下の劉夏を帯方郡太守に就け、戦略上重要な場所にある倭国を朝貢させたと推理できます。倭国王への詔書は司馬懿が書かせたものだと分かります。
 つまり魏志倭人伝にほぼ全文掲載された詔書は、陳寿がそのまま転載したということです。陳寿は西晋の宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を編纂したのです。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されているのですから、倭の魏への最初の遣使は明帝崩御後の景初三年六月が正しいと言えるのです。

*コメント
 見事な創作/解題ですが、客観的な根拠は見られません、丁寧に解説すると、太傅は、少帝のお守り役/名誉職で特に権力もありません。帝国政府は、多くの組織に分化していて、人事権も、同一組織に限られていたのです。つまり、時代錯誤なのですが、誰から教わったのでしょうか。いえ、別に、「ほら吹き童子」の名前を知りたいのでなく、実(じつ)のある根拠を示してもらいたいだけです。
 晋書は、「皇帝」が官僚に命じ司馬氏を貶めるよう編纂させた「正史」史上初の画期的な官製「ダメ史書」ですが、なぜ、貴兄の信条に反して信用されるのでしょうか。
 因みに、常識的な景初二年に従うと、帯方郡回復は遼東戦役の最中で司馬懿が任務以外の策動をすることはあり得ないのです。また、「戦略」もなかったのです。また、皇帝詔書は、高度な教養が要求されるので、担当が決まっていて、文筆に信用に無い武官の司馬懿が書くことは絶対ないのです。というか、貴説に関係しない余談でしょうから、「蛇足」でしょう。

 ということで、貴兄のお話は、本末転倒しているのです。景初遣使が三年六月を根底/出発点/大前提に、寄木細工で物語を組み立てているので、辻褄が合って見えるだけです。

 当方の意見としては、ご力説のように、三国志「魏志」が、西晋皇帝の帝詔により司馬懿に迎合するよう編纂されたとしたら、なぜ、燦然たる倭使事績が、読み人も希な巻末/隅っこの倭人伝に、「わずか二千字」で、ひっそり/わかりにくく書かれているのかということです。司馬懿を顕彰する「戦略」があったというなら、「三国志」に司馬氏の悪名が残されているくせに「司馬懿」伝がないのが、まことに不思議です。逆臣である劉備、孫権にとどまらず、族滅した毋丘儉にも、「伝」はあるのです。

 一見すると、貴兄は、脳内に、現代人が現代語の概念で蠢く「時代劇」世界を展開されているのかと愚考する次第です。そこでは、現代概念が通用しているのでしょうが、「現実」の古代世界は、大きく様相が異なるのです。
 いや、そのような個性的世界観は、開祖岡田英弘氏初め、多数の追随者がいらっしゃるので、共感の声を聞くことが多いでしょうが、それは、高名なカズオ・イシグロ氏(ノーベル文学賞受賞)の「フィクション」観と通じるものですが、『フィクション」古代世界が整合して見えても、現実の混沌たる古代とは別世界です。このあたりが理解できないで、現代語で突っ張っているとしたら、それは、中国古典文書解釈の常道を踏み外しているということです。

 要するに、土地勘の無い異世界で、なぜ、「一路」に我を張るのでしょうか。

ここが理解されないから、魏志倭人伝がコテコテの政治文書だと気づかないのです。
このため邪馬台国問題が解決しなかったのです。

*コメント
 当時西晋朝の官界に「政治文書」などないのは、ご存じないのでしょうか。
 [邪馬台国問題]は、西晋史官陳寿が想定のうるさがた読者に用意した「謎」であり、多少の努力で「解答」(正解)できたものなのです。二千年前に解決済みなのです。勘違いしてはなりません。後世、つまり、唐代止まりですが、例えば、「倭人伝」の万二千里道里が非論理的だと言われた例は、寡聞にして見当たらないのです。
 なぜ、貴兄が「火事場」の怪力を示すのか、よくわからないのです。

*追加コメントみたび 2023/11/15
 当ブログ読者には、「耳タコ」だろうという事で、飛ばしましたが、初見の方のために、説明を加えます。
政治文書だと分かれば、七万戸の邪馬台国や五万戸の投馬国などホラ話だとすぐに気づきますし、帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉を挟み撃ちにする位置に計十五万戸の東夷の大国とした倭国の女王が都にするところが邪馬台国という記述も、すべて司馬懿を持ち上げるための潤色どころか大ボラだったということに気付けます。
 七万戸の邪馬台国は、貴兄の誤読です。まあ、尊重すべき「倭人伝」を、はなから否定して「邪馬台国」と改竄して、原文が読めなくなっているのでしょうが、自然に解釈すると、女王は、精々千程度(文飾か)の端女(はしため)に傅かれていたことですが、端女は戸数に関係しないので、農耕「戸数」は無いに等しいのです。まして、女王の居城に課税することはあり得ないので、女王居所の「戸数」は無かったのです。
 「倭人伝」には、女王の居所としか書いていないので、卑弥呼が自己の居城を「都」(みやこ)としたというのも、誤解です。班固「漢書」西域伝で、蛮夷の王の居所を「都」としたのは、漢に匹敵する文明大国であった西域西端の巨大王国「パルティア」だけですから、陳寿が東夷の新参蛮夷に「都」の尊称を与えるはずが無く、簡単に誤解と分かるのです。
 なお、蛮夷の固有名詞/地名に「都」の字があっても、それ自体は、表音字となれば、「不敬」とは限らないのです。「不敬」であれば、魏志から削除されていたのです。
 計十五万戸は、従って、蜃気楼であり、実際、そのような戸数は、どこにも書かれていません。倭の全戸数は、七万戸なのです。
 書かれていない文字を虚空から読み取って、陳寿を非難するのは、筋違いです。
 五万戸の投馬国は、確かに文飾ですが、貴兄の書き漏らしている二万戸の奴国共々、貴兄が虚飾/誇張と断定する文字を書き残したのは、遼東太守時代の公孫氏であり、後世になって公文書を引き継いだ陳寿には、文書改竄はできないので、ありのままに書き残しただけです。陳寿を非難するのは、筋違いです。対海国、一大国、末羅国、伊都国と続く戸数/家数を見れば、実数は、五千戸にも満たないと見えますが、当時、一大率の指導を受けていない二国には、戸籍制度がなかったので、戸数は、推定すらできなかったと見えるのです。
 陳寿に司馬懿を高める意志があったのかどうかは、後世東夷の無教養なものには、分からないはずですから、気づいたというのは、単なる、良くある錯覚なのです。
 「帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉」は、筆が滑ったのでしょうか。魏皇帝は天子ですから、川釣りで釣果を争う「ライバル」などと呼べる相手などどこにもいないのです。(もともと、中国古代史に、生かじりのカタカナ語を持ち込むこと自体、「無法」の極みです。
 かって、匈奴は、漢高祖の親征軍を大破して、匈奴が兄、漢が弟という和睦を締結しましたから、匈奴は、漢に匹敵する尊称と言えますが、それ以外、漢魏西晋は「無敵」だったのです。ちゃんと、同時代の世界観で語らないと、大局を誤るのです。
 史料の文字を精読しないとたちまち自滅発言になるのです。
                                以上
頓首頓首死罪死罪

以上

2023年11月11日 (土)

新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 1/2

 日本書紀を語る講演会 第9回 高取町  2017/02/26
 私の見立て★★★☆☆ 端正な労作 細瑾のみ    2023/10/12

◯はじめに
 本稿参照の講演は、2017年当時 奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)所長 菅谷文則氏の一般講演の記録である。
 惜しむらく、氏は故人であるが、史学の進歩のため、謹んで引用批判させていただいた。公立法人成果発表の部分引用と批判は、許諾されていると信ずる。

「講演の内容
 「三国志、宋書などの中国の歴史書から、日本の歴史を組み立てることは日本の文化・歴史を蔑ろにしている」との意見が散見する。しかし、日本書紀編纂の際、年代設定の基準としたのが、三国志魏志倭人伝である。[中略]
 魏志倭人伝(三国志の一部分の略称)によると、西暦239年に邪馬台国の女王卑弥呼は、魏へ遣使した。朝鮮半島の帯方郡(韓国のソウル近郊か)を経由して都の洛陽へ向かったと記述されている。[中略]卑弥呼が魏に使者を送る1年前の238年まで、中国大陸の東北部には公孫氏が燕という国を興しており、当然、邪馬台国は朝鮮半島経由では魏に遣使できなかった。」

*コメント
 氏は、一部で声高に囁かれている「三国志、宋書などの中国の歴史書から、日本の歴史を組み立てることは日本の文化・歴史を蔑ろにしている」 との極度の妄見に対して、決然と、これを否認しているのは、氏の晩節を燦然と輝かせる箴言であるが、「馬の耳」には、一向に響いていないものと見える。

 但し、氏も人の子であるので、残念ながら、氏の「魏志」解釈は、詐話めく妄見に足元を掬われて低迷している。もったいないことである。

 「西暦239年」は魏志にない「誤解」で残念である。朝鮮半島中部帯方郡から魏「首都」洛陽への常用道里は、遼東郡を通過しないのである。魏明帝の特命により、遼東郡討伐とは別に帯方郡を魏の直轄とする作戦が完了して、新体制下、帯方郡から洛陽へ直行するのは、当然となっていた。西暦238年ならぬ景初二年六月に倭使が帯方郡に到着し、順当に洛陽に案内されたことは、当然と見える。
 ちなみに、しばしば、というか、ほぼ、常に誤解されるのだが、「公式道里」は、一度設定されたら、郡治が移動しても、改訂されないのである。
 景初三年初頭(元日)に魏の明帝が逝去したため、倭使が帯方郡に到着したのが、景初三年六月であれば、熱意を持って倭を招聘した明帝は世を去っていて、後継少帝曹芳の治世/喪中なので、精々冷淡になっていたと思われる。氏は、「当然」「できなかった」と声高に断定されているが、断定の根拠が見当たらないのである。根拠なき断定は、誠に、不合理、非科学的である。
 さらに言うと、景初三年正月は、西暦238年か239年か不確かであるから、中国古代史で、無造作な西暦談義は禁物なのである。

 [邪馬台国から朝貢を受けた魏の皇帝の詔文が魏志倭人伝に記録されている。詔文を全文記録しているのは、三国志の中では邪馬台国の遣使に対してだけである。魏が、倭との関係を重視していたことがわかる。]

*コメント
 氏は、中国史書を誤解されているが、歴代皇帝は適宜詔文を発行し、公文書として保存されたが、逐一正史に記録されていないだけである。「倭人伝」は、当代皇帝曹叡が、倭に格別の恩恵を与えたことを示すために、陳寿が特に引用したのである。つまり、明帝存命中に発せられたか、起草され、帝詔として発せられ、而して、公文書として永久保存されたと見るものかと思われる。少なくとも、一部論者が言うような少帝曹芳の自作/自筆では無いのは、確実、自明、当然至極と思われる。当然のことを知らないということは、誠に幸せである。

中略][日本書紀巻九の神功皇后紀には、魏志倭人伝を割注として引用している箇所がいくつかある。その中に、現行の魏志倭人伝では景初二年となっている(景初二年六月倭女王)が、日本書紀では景初三年と書かれている(神功皇后の卅九年。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王…)。[中略]日本では、景初三年が正しいとしているのであるが、その理由として挙げられるのが、景初二年の西暦238年は、先ほど述べたように、公孫氏の燕国があるため、魏に向かうことはできないからである。]

                     未完

新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 2/2

 日本書紀を語る講演会 第9回 高取町  2017/02/26
 私の見立て★★★☆☆ 端正な労作    2023/10/12 些末の補筆 2023/11/11

*コメント
 既説のように、『唯一無二の史料である「倭人伝」に、「明確に」景初二年六月と明記されている以上、「これを覆す絶対確実な物証がない限り、これを正解として、以下の議論を進める」のが「日本」の学問の道』である。当方は、古代史学に関しては、素人であるが、知る限り、科学的文書考証では、そのような正統的な議論が正道のはずである。
 いや、現代、思想信条の自由というものが言われているが、本件は、学術上の発言の当否を言うものであり、自由に何を言ってもいいというものではないのは、衆知/自明の通りである。

 蕭子顕「南斉書」編纂は六世紀であって、魏志から三世紀以上後世である。既に、西晋洛陽が、西晋末の大乱で北方の域外部族に蹂躙されていたため、南斉書編者は、後漢書魏晋代公文書を利用できず、世上出回っている風評魔界の史料を渉猟し、臆測したのである。「当然」「倭人伝」考証史料としての信頼できるものでなく、資料価値は桁外れに、極めて低い。これが、客観的な「真実」である。

 ちなみに、氏の参照する日本書紀は、本文すら、原本、ないしは、直接の写本は、とうに喪われていて、原本を視認した証人も、とうに死滅していて、既に、「正史」などと中国正史を謀った継承は、有名無実で、禁書扱いして継承されて久しく、写本は、奇特な寺社の特定個人の個人の自発的献身的努力によって辛うじて維持されていて、その際、個人的な識見に従って校訂されたため、中国史書に比べて承継写本の信頼度が格段に低く、まして由来不詳/不明の割注は、本文と比して、さらに信頼度が急落するものである。要するに、全く、全く信用できない。

 氏ほど絶大な見識の持ち主が、こと、「倭人伝」を「日本史料」として粗略に扱うという謬りの陥穽に墜ちているのは、誠に傷ましいものである。

 [中略]日本書紀に引用された三国志は、魏を滅ぼした晋の時代に書かれた。日本書紀が編纂される頃には、すでに日本に伝わっていたので、日本書紀編集に利用することが可能であった。][中略][そこから古墳時代の始まりが4世紀とし、ひいては日本国家が形成されたとされていた。]

*コメント
 氏は慎重に言葉を選んで「可能であった」(はずである)とぼかしているが、かくなる論証に不可欠なのは、『日本書紀編纂者が、「三国志」魏志の信頼できる写本「善本」を「実際に」参照した』との確証であるが、そのような裏付けは、全く存在しない。
 むしろ、三国志ならぬ魏志」をも本文内に適確に引用することもできず、形式不定の割注に留めているのは、渡来していたと推定している「魏志」写本を確認できなかったため、編纂時に校正されていない、つまり、根拠不明の衍入と見える。
 要するに、氏が一定の信を置いている「日本書紀」編纂の公的集団の偉業ではなく、個人的な後付けの加筆であるから、一段も二段も、あるいはそれ以上に格落ちなのである。史書編纂の信頼性は、組織的な基準が適用されない、不規則な手順/基準外れとなっているときは、格別の低評価になるのである。「明帝景初三年」なる不法字句が排除されていないという一点で、「書紀」編纂の信頼性は、全体として地に墜ちるのである。

 既説の如く、日本書紀例文は、極めて不正確であり、「善本」引用でないことは自明であり、恐らく、誤写満載の断片所引と思われる。編纂者が、中国史書に適格な知識を持ち適格な史料批判を行っていれば、「明帝景初三年」なる不正確な資料の引き写しとして、訂正したはずである。手短に言うと、信頼性の備わっていない史料は、一切、魏志(に限らず史料批判の)考証に採用できない。誤って、立論の根拠とすると、立論全体が道連れになって、「自動的に」崩壊する。

 [しかし、纏向遺跡の研究を起爆剤として全国各地で行われた土器の研究から、古墳時代の始まりは220年~250年頃まで遡ることになる。そうなると、天皇系譜と卑弥呼との関係が複雑になる。冒頭に述べたような日本の歴史から中国の歴史書を外そうとする一因にもなっているのではないだろうか。]

*コメント
 ここで、氏の本音が吐露している。氏の職掌に相反しない緩やかな指摘にとどまるが、素人考えでは、近年の纏向遺跡考証が巻き起こした土器年代考証の付け直しに対し、倭人伝が大きな(最大の?)妨げである」との意見と思われる。
 素人考えでは、国内古代史/考古学成果と「倭人伝」を連携させること自体が、古代史学に対して古典的な禁忌に触れたため「学問的不合理」を巻き起こしていたのだが、「近年の纏向遺跡考証」は、その不合理を一段と強調/進化させたと見える。
 素人の自由な立場から発言させていただくと、纏向遺跡と倭人伝の連携」を策動することを放棄すれば、万事解決すると見える。互いに縁がないのであれば、互いに邪魔/妨げ/百害あって一利の無い存在になることはないのである。

 要するに、「邪馬台国」を纏向に誘致する地殻変動的なこじつけを止めさえすれば、「倭人伝が大きな妨げ」という固執は消え去ると思うのであるが、もちろん、氏は立場上、職責に反する発言は一切できないから、あえて無理を承知で率直に忠言するならば、何れかの時点でそのような不合理の流れを堰き止め、日本に健全な史学を復元していただきたかったと思う。とは言え、それは、古来、「望蜀」と呼ばれる「無理」なのである。

 日本書紀1300年に向けて、もう一度改めて日本書紀とその時代を、魏志倭人伝や中国の歴史書も併せて研究していかねばならないと思うのである。]

*コメント
 かくのごとく穏やかな口調であるが、一部論客の声高な発言に対して軽挙を戒める至言である。

◯まとめ
 以上、氏の講演の中国史書に関わる部分は、氏の情報源の素朴な反映と見えるので、遺跡/遺物を考証した考古学学究の瑕瑾となっていることを延々と述べたものであり、氏の本分/本領に対して何ら批判を加えたものではないことは了解いただきたい。
 
                                以上

2023年11月 7日 (火)

新・私の本棚 糸高歴史部 季刊「邪馬台国」137号 記念エッセー 第二席

 創刊40周年記念号 糸高歴史部座談会 ~邪馬台国はどこにある~
 「定説」「通説」の軛(くびき)を負う「痩せ馬」(疾走者)の自画像     2023/11/07

◯はじめに
 記念稿が、『「魏志倭人伝」の文章が間違っている』と書き出すのは、諸先輩の遺産を負わされた不幸と思う。
 もっとも、「遺産」呼ばわりには、「まだ生きとるわい」の罵声の波が予想されるので「時期未定」とする。

*「遺産」の書き出し
 真面目に言うと、掲載誌季刊「邪馬台国」の40周年記念号の記念エッセイで第二席を占める栄誉ある「エッセイ」(小論文、作業仮説)は、世評が高いとみられる「福岡県立糸島高等学校歴史部」の多年の部活動成果を示したものと見られるので、いきなり「魏志倭人伝」誤謬風聞で書き出すのは、実は、不幸な星の嘆きと見える。

 要するに、数世紀に及ぶ「邪馬台国」論争が、『挙って原史料を「間違っている」との風評を談じている」ことの不条理適確に認識していて、しかも、是正していないのが「傷ましい」というものである。

 「倭人伝」誤記文書呼ばわりの根拠なき風評(groundless rumor)に対する反論は、本来は、「邪馬台国」なる虚構国名であり、続いて、其の国が「大国」との誤解/幻想なのだが、前者は、掲載誌が本誌「邪馬台国」なので誌上で主張できないから、当小論文は、後者への反論を浮かびださせるものであり、「壹国」(いちこく)ならぬ「伊都国」(いつこく)が、北に行程を逆行する行程三国を「一大率」(倭大善大率)の巡察によって「指導」していた図式が読み取れるように思う。(私見付け足し御免)。総じて、よくよく読み解けば、随分、健全な意見と見える。
 ネットで跋扈している不出来な陳寿誹謗風説の暴論と一線を劃しているのは、見事である。

*「倭人伝」を尊重する解釈
 それにしても、以下、冒頭提言に縛られつつ、「魏志倭人伝」の『現代東夷流解釈、つまり、本質的な「誤解」』に基づいていても、原史料を離れない地味な議論が進むのは、ある意味、誠に傷ましいとのであった。それにしても、「間違っている」との「通説」に、これほど世上の注目を集める栄えある場で、ある意味堂々と背くのは、良い度胸と言える。立ち上がって、ただ一人拍手喝采(Standing Ovation)である。
 糸高歴史部の誰かが、ここに示された達観を追求していくことを望むだけである。

*禁じられた質問
 もちろん、正直に筋を通すと、国内史学界で生存できないので、素人論でしか述べられないのだが、どうして『「魏志倭人伝」の文章が間違っている』と断定できるのか、素朴に初心を追求するのが、生活のかかっていない高校生の史学研究の第一歩のように思うのである。

◯まとめ
 国内史学分野の底辺/後尾/残泥から延々と巻き起こる「陳寿」罵倒論は、どうも、高校生の初学レベルでも感じ取れる「陋習」のようだが、それが業界相場であってみれば、これに逆らうと、国内史学界での生計に支障が出るので、大人は擁護/追随/固執せざるを得ないとも見えるのである。
 それが、浮世の習いというもので、誠に嘆かわしいのだが、その点、当方のように、一介の素人で生活のかかっていない小人しか、筋を通せないと思うので、このような拙文を残しているのである。おかげで、こてこての業界人に「おれたちの商売の邪魔をする奴」と言う趣旨で、「一利なし」と誹られているが、素人であるから、別に、他人の儲けがどうなろうと関心ないのである。

 樹木は、芽生えて根ざす土地を選べない、とは、古人の箴言であるが、長大/成人は樹木ではないので、率直/正直に自分の立脚点を変えられると考えるのである。

                                以上

2023年11月 1日 (水)

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 序論

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く                        2023/10/24
1.魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く邪馬台国時代の年代論

 邪馬台国時代100年を俯瞰してみれば日本古代の全体像が見えてくる。

私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品      2023/10/24 補追2023/11/01, 02

*はじめに
 本講演は、安本美典師が主催する月例講演会の「レジュメ」前半部に対する批判であるが、主催者の見識を前提にしていると見えるので、ここに率直に批評する。
 なお、ここに言及できなかった付表の詳細な批判を、下記別稿で公開しているので、ぜひご高覧いただきたい。(補追2023/11/01)
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 1/4
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 2/4
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 3/4  
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 4/4

 大抵の場合、このようなお話は、他愛のない「夢語り」/法螺話である。「日本」が、八世紀以降しか存在しないのは衆知である。言うまでもないが、「邪馬台国」は、(遺跡遺物を論じる)考古学にも記紀神話にも一切登場しないから、話にならない。「邪馬台国時代100年」も、意味/根拠不明である。
 現代は、通りすがりの無学な野次馬でも、もっともらしい格好の「新説」をぶち上げられるご時世である。会長の任にある内野氏の個人的な権威がどのように評価されているのか、素人の門外漢/部外者である当方には分からないが、かつて、安本美典師が、季刊「邪馬台国」編集長就任の際に抱負として宣言した、然るべき「論文審査」を経ていない「無審査」の私見であれば、一介の読者/聴衆として「話が違う」と思うものである。(補追2023/11/01)

内野9つの仮説
①倭国大乱の原因・・(タウポ火山大噴火181年→気候変動→黄巾の乱184年) 黄巾の乱が倭国の乱190年前後につながる
*コメント (補追2023/11/02)
 衆知であるが「倭人伝」に「倭国大乱」はない。「倭人伝」は、何かの事情で、洛陽への情報が途絶えたと言うだけである。それでなくても、洛陽は、大乱の渦中であった。蛮夷のことなど、構っていられなかった。
 「黄巾の乱」自然災害起因説は、「倭人伝」に無関係で、杜撰な「蛇足」である。「倭国の乱」は、新規の概念であるから、紹介/高言するのは、不適切である。
 いきなり、大すべりしていては、後段を読んでもらえないものである。聴衆が、一斉退席しなかったのは不思議である。

②卑弥呼の年齢を推理・・通説は180年に15歳で共立248年没83歳だが、210年15歳共立 魏への使節44歳 死53歳頃
*コメント (補追2023/11/02)
 「卑弥呼の年齢 」論は、二千年後世の東夷の浅慮から「日本」古代史学分野で氾濫している『「通説」無根拠』の好例。史料を「大胆に」改竄している「通説」は論外だが、突発した新たな推測/憶説も、魏志「倭人伝」の正確な解釈から隔絶していて、何ら根拠のない「思いつき」である。史料改竄趣味が、「蔵付き酵母」の如く「伝家のお家芸」になっているのは、世も末である。
 いくら新規/新奇でも、卑弥呼が「魏への使節」となったというのは、根拠の無い、大胆/無謀な意見である。結末だけ、「頃」(土地面積単位)がぶら下がるのも奇異である。

③長里・短里説は司馬懿への忖度から・・洛陽から大月氏国16000里、洛陽から邪馬台国まで17000里と5倍引き延ばし説
*コメント (補追2023/11/02)
 「忖度」は、主語がない暴言、粗雑な暴論である。「倭人伝」時代に存在せず、二千年後世の無教養の東夷「後世人」が創造した「長里・短里説」が、三世紀の司馬懿に対する「後世人」 の「忖度」によって生じたなどと言う摩訶不思議な「思いつき」は、早急に撤回した方が良いと思われる。
 それはさておき、根拠なし、意図不明の思いつきである「5倍引き延ばし説」は、「倭人伝」道里を、現存地名間の行程に投影した、簡潔、明快、反論不可能な金石文と言える安本美典師の不朽の提言に堂々と背いている。世も末である。

④ニニギ天孫降臨物語は狗奴国の戦いが神話化・・不毛の地、南薩摩へ降臨への疑問と日向・延岡経由の戦略的側面攻撃説
*コメント
 「倭人伝」に無縁である。場違い圏外の法螺話である。手前味噌も、大概にして欲しいものである。

⑤狗奴国は熊本県北・中部に位置する・・筑後平野の南、球磨川の北の熊本平野に存在し、九州南部は異種(後の熊襲)
*コメント
 「倭人伝」に無根拠の法螺話である。もし、位置付けが正しかったとして、何が「異種」なのか、何が「同種」なのか、意味不明である。

 アマテラス(卑弥呼)スサノオの誓約と天岩戸は30年の差・・誓約[うけい](出産)は高天原建国期で日食神話は晩年の死の時期
*コメント
 「倭人伝」に無根拠である。場違い、圏外である。アマテラス(卑弥呼)スサノオの誓約」とは、何の夢想であろうか。独り合点の思いつきは、早々に引き下がるべきである。

⑥高天原神話、出雲神話、日向神話は順番完結ではない・・同時並行型神話で、出雲の国譲りは台与の時代のできごと
*コメント  (補追2023/11/02)
 「倭人伝」に無根拠である。中国史書「倭人伝」に「臺與」も「台与」もない。場違い、圏外、無縁の法螺話である。

⑦記紀の父子継承率100%は疑問・・古代天皇の父子継承率は10%前後、神話からの父子継承は垂仁天皇、成務天皇(13代)
*コメント
 「記紀」は、「倭人伝」にとって異次元/無縁である。場違い、圏外である。

⑧3世紀の「大和・纒向」時代は後進国、4世紀に大発展した・・崇神、垂仁、景行の纒向時代に領土拡大
*コメント
 「倭人伝」に、場違い、圏外、無縁の法螺話である。「後進国」を先導した「先進国」とは、何なのか。

まとめ
 「仮説」は、論証された根拠に立脚しなければ、「仮説」となり得ない単なる「個人的な思いつき」である。即刻、「ゴミ箱」直行である。
 以下、氏の「夢語り」が展開するが、論証がないから根拠が見られず、単なる思いつきの積層に過ぎない。

 誤解されると困るのだが、当方は、安本美典師の偉功に心服しているのだが、かくも奔浪のように論考の態を成していない「思いつき」が、安本美典師の峨々たる業績である月例講演会の前座に供されたのは、誠に傷ましいと思うのである。(補追2023/11/02)

                                以上

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