私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 6/6
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝
*連鎖「物流」考
九州北部から大阪湾岸までの東西五百キロメートル余りの「瀬戸内航路」を商船が一貫して往来するのは、遙か後年(何百年なのか、千年を越えるのか、皆目不得要領/いい加減)のことだというのは、法螺話ばかりが目だつ長野氏にしては、遥かに珍しく妥当な推論であろうが、それまで、瀬戸内の海上物流が一切不可能だったと断じるのは、遥かに誇大な言い過ぎであろう。
当ブログ筆者は、一素人であるから、史料も何も見ないままに想定しているのだが、瀬戸内の各地に漁民がいたように、身軽な小舟が沿岸の主要集落を繋いで物資輸送していたはずであり、航行距離は、一人が半日程度で漕ぎ通せる程度の短かいものでも、数多くの小舟の日々の行き来を繋いでいくと、図らずも数百キロに及び、難関を越えた長距離物流になったのではないかと見ているのである。もちろん、荷を担いだ行商人もいたであろうと思われる。
確かに、西の芸予諸島、東の備讃瀬戸の多島海は、時代を越えた難所であり、また、西端の関門海峡、東端の明石海峡/鳴門海峡の激流は、これに加えた時代を越えた難所であるから、これら全てを乗り切る一貫した船便は、港々での乗り継ぎがあったとしても、恐らく「書紀」に見られる法螺話を除けば、平安時代まで成立していなかったと推定しても無理は無いが、別に、難所は切れ目無く続いているわけではないので、長距離を太い鉄棒のようにつながなくとも、細く小さな鎖を連携すればよいのである。鎖が切れたら、小回りのきく小舟に積み替えて回り込むなり、陸路でつなげるなりすればよいのである。そのような、一見頼りない「連鎖する流れ」が、古代に於いては、滔々たる川の流れのような「物流」かも知れないと思うのである。
長野氏の「想像力」は、どうにも短慮/狭量で、古代史考証のあてには、全くできないように見るのであるが、恐らく、それは、地道な見聞に欠けているせいだと思われるのである。氏は、厳しい指導者に恵まれなかったのだろう。
現代の貨物船による輸送と違って、契約で着荷日程を指定されているわけでなく、はるか東方で物流の末端にいるものは、到着までに何年かかろうと知ったことではなく、舶来で、自説に応じて所望の品物が手に入ればそれでよいとみた「顧客」と思うのである。いや、そんなに矢継ぎ早に大量の物資を「纏向」に送りつけられても、そこには対価として提供できる物資が無い/乏しいのだから、むしろ、貿易途絶かと思われるほど少々の往き来で良かったのであろう。知る限り、「纏向」は「黄金郷」では、なかったように見えるのである。
*四国を「一路」貫く「ヤマ」の道 (孤説紹介)
創世期において、伊予の二名の州として、つまり一国として認知されていた四国西北部が絶海の孤島であったとは思えない。
後日思い直したのだが、九州中部から四国を貫く「中央構造線」経路は、海山越えて東西に連通していて、太古の限られた輸送形態でも、送り継ぎによる一貫輸送が可能だったと見えるのである。つまり、大分から東に渡海/水行して三崎半島に渡れば、以下、陸上だけで移動可能であり、ほどほどの難路であるが、さらに東に進めば、吉野川に沿って、鳴門海峡を越えた「小鳴門」に到着するので、海に難所続きの瀬戸内海経由に比べて、気長な送り継ぎが可能と見えるのである。以下、更に西に進むのも、さほど難事ではないはずである。
船の利用に難があったにしても、現在の大分と三崎半島の間の渡海/水行は、要するに「渡し舟」であり、東の紀淡海峡も、淡路島南端に寄港すれば、「渡し舟」二回で済むのである。
「渡し舟」は、吹きさらしでも良いし、食事の煮炊きも寝泊まりも無いから、甲板も船室もいらないのである。「渡し舟」なら、毎次漕ぎ手が入れ替わっても良いので、人並みの体力があれば、都度、入れ替わって漕ぎ手を務められるのである。
以上は、支持者の無い「孤説」であるが、時代相応のハイウェー(公路)と見ているのである。これは、あくまで、三世紀にも到らないかも知れない古代/大過去の話である。当方が勝手に言っているのは、「卑弥呼のふるさと~斜め馬のくにの一筋の道」である。
*重い使命 (Mission of Gravity)
論者は、鉄の比重(Specific Gravity)が輸送の妨げになっていたように言うが、鉄が、玉石や貴金属なみに尊重されていたのであれば、人が担げる程度の量でも十分な財産価値があると言うことであり、大量輸送の必要などない。鉄が貴金属でないのと同様に、銅は貴金属ではないが、比重8.9で、鉄に比べて一段と「重い」し、金、銀は更に「重い」が、だからといって、比重で輸送経路/輸送手段が決まったわけではないのではないか。過去も現在も、輸送手段の選択肢は、現場を見ない「空論」の徒を除けば、ごく限られているように見えるのである。あるいは、「渡し舟」のように、それしかない手段がない可能性もあるのである。
輸送する際に問題となるのは、荷物の質量(重さ Gravity)であり「比重」などではない。長野氏の一途な提言を真に受けるとして、当時、荷物を船で運ぶかどうか決める際に、荷物の中身/構成物の比重をどうやって知ったのだろうか。現代の貨物輸送のように、その都度、貨物の外寸容積(才)と重量を計測して比重を計算して運賃を決めていたのだろうか。
按ずるに、この部分の新説は、何かの錯誤/妄想であろう。そのように言われたくないなら、ご自分で再読して、ご自分で推敲すべきである。いや、氏の提言の信頼性を問われているのは、ここだけではない。あちこちと言うより、辺り一面(here, there, and everywhere)である。
*結語
と言うことで、当ブログ筆者は、ここに掲載されている記事を最後まで追いかけることはできなかった。従って、論者の主張全体を云々することはできない。
ウィンストン・チャーチルの言いぐさをもじって言うなら、ゆで卵の良し悪しを判断するのに、自分で卵を産む経験は必要ないし、ゆで卵を全部食べなければならないわけではない、となる。いや、これは冗談半分/本気半分である。
論説を最後まで読んで欲しかったら、最初の一行から、丁寧に文章を推敲・吟味して、つまらない錯誤を交えないことである。
獲れた魚をそのまま賓客に供するのでなく、ウロコを取り、はらわたも抜き、小骨まで取り除いておくのが、良き庖丁のたしなみではないか。氏、「論客」でなく「説客」を志しているようだから、なおさら、たしなみを心がけて欲しいものである。
以上
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