« 新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 3141話 百済禰軍墓誌の怪 | トップページ | 新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 1/2 »

2023年11月11日 (土)

新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 2/2

 日本書紀を語る講演会 第9回 高取町  2017/02/26
 私の見立て★★★☆☆ 端正な労作    2023/10/12 些末の補筆 2023/11/11

*コメント
 既説のように、『唯一無二の史料である「倭人伝」に、「明確に」景初二年六月と明記されている以上、「これを覆す絶対確実な物証がない限り、これを正解として、以下の議論を進める」のが「日本」の学問の道』である。当方は、古代史学に関しては、素人であるが、知る限り、科学的文書考証では、そのような正統的な議論が正道のはずである。
 いや、現代、思想信条の自由というものが言われているが、本件は、学術上の発言の当否を言うものであり、自由に何を言ってもいいというものではないのは、衆知/自明の通りである。

 蕭子顕「南斉書」編纂は六世紀であって、魏志から三世紀以上後世である。既に、西晋洛陽が、西晋末の大乱で北方の域外部族に蹂躙されていたため、南斉書編者は、後漢書魏晋代公文書を利用できず、世上出回っている風評魔界の史料を渉猟し、臆測したのである。「当然」「倭人伝」考証史料としての信頼できるものでなく、資料価値は桁外れに、極めて低い。これが、客観的な「真実」である。

 ちなみに、氏の参照する日本書紀は、本文すら、原本、ないしは、直接の写本は、とうに喪われていて、原本を視認した証人も、とうに死滅していて、既に、「正史」などと中国正史を謀った継承は、有名無実で、禁書扱いして継承されて久しく、写本は、奇特な寺社の特定個人の個人の自発的献身的努力によって辛うじて維持されていて、その際、個人的な識見に従って校訂されたため、中国史書に比べて承継写本の信頼度が格段に低く、まして由来不詳/不明の割注は、本文と比して、さらに信頼度が急落するものである。要するに、全く、全く信用できない。

 氏ほど絶大な見識の持ち主が、こと、「倭人伝」を「日本史料」として粗略に扱うという謬りの陥穽に墜ちているのは、誠に傷ましいものである。

 [中略]日本書紀に引用された三国志は、魏を滅ぼした晋の時代に書かれた。日本書紀が編纂される頃には、すでに日本に伝わっていたので、日本書紀編集に利用することが可能であった。][中略][そこから古墳時代の始まりが4世紀とし、ひいては日本国家が形成されたとされていた。]

*コメント
 氏は慎重に言葉を選んで「可能であった」(はずである)とぼかしているが、かくなる論証に不可欠なのは、『日本書紀編纂者が、「三国志」魏志の信頼できる写本「善本」を「実際に」参照した』との確証であるが、そのような裏付けは、全く存在しない。
 むしろ、三国志ならぬ魏志」をも本文内に適確に引用することもできず、形式不定の割注に留めているのは、渡来していたと推定している「魏志」写本を確認できなかったため、編纂時に校正されていない、つまり、根拠不明の衍入と見える。
 要するに、氏が一定の信を置いている「日本書紀」編纂の公的集団の偉業ではなく、個人的な後付けの加筆であるから、一段も二段も、あるいはそれ以上に格落ちなのである。史書編纂の信頼性は、組織的な基準が適用されない、不規則な手順/基準外れとなっているときは、格別の低評価になるのである。「明帝景初三年」なる不法字句が排除されていないという一点で、「書紀」編纂の信頼性は、全体として地に墜ちるのである。

 既説の如く、日本書紀例文は、極めて不正確であり、「善本」引用でないことは自明であり、恐らく、誤写満載の断片所引と思われる。編纂者が、中国史書に適格な知識を持ち適格な史料批判を行っていれば、「明帝景初三年」なる不正確な資料の引き写しとして、訂正したはずである。手短に言うと、信頼性の備わっていない史料は、一切、魏志(に限らず史料批判の)考証に採用できない。誤って、立論の根拠とすると、立論全体が道連れになって、「自動的に」崩壊する。

 [しかし、纏向遺跡の研究を起爆剤として全国各地で行われた土器の研究から、古墳時代の始まりは220年~250年頃まで遡ることになる。そうなると、天皇系譜と卑弥呼との関係が複雑になる。冒頭に述べたような日本の歴史から中国の歴史書を外そうとする一因にもなっているのではないだろうか。]

*コメント
 ここで、氏の本音が吐露している。氏の職掌に相反しない緩やかな指摘にとどまるが、素人考えでは、近年の纏向遺跡考証が巻き起こした土器年代考証の付け直しに対し、倭人伝が大きな(最大の?)妨げである」との意見と思われる。
 素人考えでは、国内古代史/考古学成果と「倭人伝」を連携させること自体が、古代史学に対して古典的な禁忌に触れたため「学問的不合理」を巻き起こしていたのだが、「近年の纏向遺跡考証」は、その不合理を一段と強調/進化させたと見える。
 素人の自由な立場から発言させていただくと、纏向遺跡と倭人伝の連携」を策動することを放棄すれば、万事解決すると見える。互いに縁がないのであれば、互いに邪魔/妨げ/百害あって一利の無い存在になることはないのである。

 要するに、「邪馬台国」を纏向に誘致する地殻変動的なこじつけを止めさえすれば、「倭人伝が大きな妨げ」という固執は消え去ると思うのであるが、もちろん、氏は立場上、職責に反する発言は一切できないから、あえて無理を承知で率直に忠言するならば、何れかの時点でそのような不合理の流れを堰き止め、日本に健全な史学を復元していただきたかったと思う。とは言え、それは、古来、「望蜀」と呼ばれる「無理」なのである。

 日本書紀1300年に向けて、もう一度改めて日本書紀とその時代を、魏志倭人伝や中国の歴史書も併せて研究していかねばならないと思うのである。]

*コメント
 かくのごとく穏やかな口調であるが、一部論客の声高な発言に対して軽挙を戒める至言である。

◯まとめ
 以上、氏の講演の中国史書に関わる部分は、氏の情報源の素朴な反映と見えるので、遺跡/遺物を考証した考古学学究の瑕瑾となっていることを延々と述べたものであり、氏の本分/本領に対して何ら批判を加えたものではないことは了解いただきたい。
 
                                以上

« 新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 3141話 百済禰軍墓誌の怪 | トップページ | 新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 1/2 »

倭人伝随想」カテゴリの記事

新・私の本棚」カテゴリの記事

コメント

いつも勉強させていただいていますが、今回のお話は古代史解明のカギを握っています。
大夫難升米が帯方郡を訪れたのは景初二年六月ではなく景初三年(239年)六月の誤りであることは以下のことから推理できます。

「魏書 東夷伝 韓伝」に「明帝が景初中(237~239年)に密かに楽浪郡太守鮮于嗣と帯方郡太守劉昕を送った」という記事がありますが、「東夷伝 序文」に「景初年間、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」とあります。「魏書 公孫淵伝」によれば公孫淵の死は景初二年八月ですので、明帝は公孫氏滅亡を知ってから、楽浪郡と帯方郡を攻めさせたと分かりますので、景初二年六月よりも後の話なのです。

そして難升米が帯方郡で面会した太守は明帝の送った劉昕とは全く別人の劉夏なのです。

司馬懿が明帝崩御の景初三年春正月一日の後少帝の太傅(後見人)となって尚書省の長官に就いているので、人事権も掌握し、部下の劉夏を帯方郡太守に就け、戦略上重要な場所にある倭国を朝貢させたと推理できます。倭国王への詔書は司馬懿が書かせたものだと分かります。

つまり魏志倭人伝にほぼ全文掲載された詔書は、陳寿がそのまま転載したということです。陳寿は西晋の宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を編纂したのです。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されているのですから、倭の魏への最初の遣使は明帝崩御後の景初三年六月が正しいと言えるのです。

ここが理解されないから、魏志倭人伝がコテコテの政治文書だと気づかないのです。
このため邪馬台国問題が解決しなかったのです。

従来の史料批判の考え方はそろそろ見直すべきですよ。

政治文書だと分かれば、七万戸の邪馬台国や五万戸の投馬国などホラ話だとすぐに気づきますし、帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉を挟み撃ちにする位置に計十五万戸の東夷の大国とした倭国の女王が都にするところが邪馬台国という記述も、すべて司馬懿を持ち上げるための潤色どころか大ボラだったということに気付けます。

多くの方は卑弥呼が鬼道で倭国を統治する、大集落の中に居た女王と考えていますが、本当の倭国王難升米が伊都国に居たのでは司馬懿の功績を持ち上げるには迫力不足だったから卑弥呼を女王にして騙したということなのです。

卑弥呼は倭国王よりも実力を持つ縄文海人ムナカタ族の族長赤坂比古(和邇氏の祖、魏志倭人伝の伊聲耆)の女(むすめ)イチキシマヒメだと突き止めています(宗像三女神の残り二女神は政治文書「日本書紀」のゴマカシ)。宇佐神宮・宗像大社や全国の八幡神社、厳島神社や神仏習合して弁天宮で祀られています。詳しくは拙ブログ「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」などをご参照ください。どうもお邪魔しました(;^ω^)

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 3141話 百済禰軍墓誌の怪 | トップページ | 新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 1/2 »

お気に入ったらブログランキングに投票してください


2024年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

カテゴリー

  • YouTube賞賛と批判
    いつもお世話になっているYouTubeの馬鹿馬鹿しい、間違った著作権管理に関するものです。
  • ファンタジー
    思いつきの仮説です。いかなる効用を保証するものでもありません。
  • フィクション
    思いつきの創作です。論考ではありませんが、「ウソ」ではありません。
  • 今日の躓き石
    権威あるメディアの不適切な言葉遣いを,きつくたしなめるものです。独善の「リベンジ」断固撲滅運動展開中。
  • 倭人伝の散歩道 2017
    途中経過です
  • 倭人伝の散歩道稿
    「魏志倭人伝」に関する覚え書きです。
  • 倭人伝新考察
    第二グループです
  • 倭人伝道里行程について
    「魏志倭人伝」の郡から倭までの道里と行程について考えています
  • 倭人伝随想
    倭人伝に関する随想のまとめ書きです。
  • 動画撮影記
    動画撮影の裏話です。(希少)
  • 古賀達也の洛中洛外日記
    古田史学の会事務局長古賀達也氏のブログ記事に関する寸評です
  • 名付けの話
    ネーミングに関係する話です。(希少)
  • 囲碁の世界
    囲碁の世界に関わる話題です。(希少)
  • 季刊 邪馬台国
    四十年を越えて着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。
  • 将棋雑談
    将棋の世界に関わる話題です。
  • 後漢書批判
    不朽の名著 范曄「後漢書」の批判という無謀な試みです。
  • 新・私の本棚
    私の本棚の新展開です。主として、商用出版された『書籍』書評ですが、サイト記事の批評も登場します。
  • 歴博談議
    国立歴史民俗博物館(通称:歴博)は歴史学・考古学・民俗学研究機関ですが、「魏志倭人伝」関連広報活動(テレビ番組)に限定しています。
  • 歴史人物談義
    主として古代史談義です。
  • 毎日新聞 歴史記事批判
    毎日新聞夕刊の歴史記事の不都合を批判したものです。「歴史の鍵穴」「今どきの歴史」の連載が大半
  • 百済祢軍墓誌談義
    百済祢軍墓誌に関する記事です
  • 私の本棚
    主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です。
  • 纒向学研究センター
    纒向学研究センターを「推し」ている産経新聞報道が大半です
  • 西域伝の新展開
    正史西域伝解釈での誤解を是正するものです。恐らく、世界初の丁寧な解釈です。
  • 邪馬台国・奇跡の解法
    サイト記事 『伊作 「邪馬台国・奇跡の解法」』を紹介するものです
  • 陳寿小論 2022
  • 隋書俀国伝談義
    隋代の遣使記事について考察します
無料ブログはココログ