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2023年11月12日 (日)

新・私の本棚 番外 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」 別系統コメント対応

                                             2023/11/12 追記 同日 11/15 
新・私の本棚 菅谷 文則 日本書紀と邪馬台国 2/2(2023.11.11)

◯刮目天氏コメント応答の件~変則運用御免
 かねて掲示する刮目天氏から、上記本件に関して、当事者外の野次馬コメントが届いていて、若干筋違いですが、ふさわしい案件に連携して、当方の方針で、極力説明差し上げることにしていますので、以下、蒸し返しも含めて回答します。なお、目には目を、コメントには返信コメントを、が常道ですが、丁寧に論拠をこめて回答するには、コメント欄に入りきらないので、記事を立てたことの非礼をお詫びします。

◯コメント全文引用

いつも勉強させていただいていますが、今回のお話は古代史解明のカギを握っています。

大夫難升米が帯方郡を訪れたのは景初二年六月ではなく景初三年(239年)六月の誤りであることは以下のことから推理できます。

「魏書 東夷伝
韓伝」に「明帝が景初中(237~239年)に密かに楽浪郡太守鮮于嗣と帯方郡太守劉昕を送った」という記事がありますが、「東夷伝
序文」に「景初年間、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」とあります。「魏書
公孫淵伝」によれば公孫淵の死は景初二年八月ですので、明帝は公孫氏滅亡を知ってから、楽浪郡と帯方郡を攻めさせたと分かりますので、景初二年六月よりも後の話なのです。

そして難升米が帯方郡で面会した太守は明帝の送った劉昕とは全く別人の劉夏なのです。

司馬懿が明帝崩御の景初三年春正月一日の後少帝の太傅(後見人)となって尚書省の長官に就いているので、人事権も掌握し、部下の劉夏を帯方郡太守に就け、戦略上重要な場所にある倭国を朝貢させたと推理できます。倭国王への詔書は司馬懿が書かせたものだと分かります。

つまり魏志倭人伝にほぼ全文掲載された詔書は、陳寿がそのまま転載したということです。陳寿は西晋の宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を編纂したのです。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されているのですから、倭の魏への最初の遣使は明帝崩御後の景初三年六月が正しいと言えるのです。

ここが理解されないから、魏志倭人伝がコテコテの政治文書だと気づかないのです。
このため邪馬台国問題が解決しなかったのです。

従来の史料批判の考え方はそろそろ見直すべきですよ。

政治文書だと分かれば、七万戸の邪馬台国や五万戸の投馬国などホラ話だとすぐに気づきますし、帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉を挟み撃ちにする位置に計十五万戸の東夷の大国とした倭国の女王が都にするところが邪馬台国という記述も、すべて司馬懿を持ち上げるための潤色どころか大ボラだったということに気付けます。

多くの方は卑弥呼が鬼道で倭国を統治する、大集落の中に居た女王と考えていますが、本当の倭国王難升米が伊都国に居たのでは司馬懿の功績を持ち上げるには迫力不足だったから卑弥呼を女王にして騙したということなのです。

卑弥呼は倭国王よりも実力を持つ縄文海人ムナカタ族の族長赤坂比古(和邇氏の祖、魏志倭人伝の伊聲耆)の女(むすめ)イチキシマヒメだと突き止めています(宗像三女神の残り二女神は政治文書「日本書紀」のゴマカシ)。宇佐神宮・宗像大社や全国の八幡神社、厳島神社や神仏習合して弁天宮で祀られています。詳しくは拙ブログ「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」などをご参照ください。どうもお邪魔しました(;^ω^)

◯回答本文
*先行文献復習
 本件に関する論義は、近年でも、下記論考で議論されていますが、笛木氏が、周到な史料考証の果てに、誤謬をてんこ盛りにした指摘サイト記事に足を取られて、とんでもない結論に陥ったことを、当ブログで丁寧に批判し尽くし、念入りに否定されていますから、貴兄の論義は、考えちがいというか、不勉強による浅慮を根拠にしているので、この時点で「自動的に」考慮に値しない「ジャンク」となります。

 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 1/3 補追
新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 2/3 補追
新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 3/3

 笛木氏の実直な献身的努力のおかげで、それこそ、ゴミの島をかき分ける徒労は避けられるのですが、反面、玉石混淆の羅列で、資料批判が疎かになるのは免れず、笛木氏の貴重な労作は、資料解釈に紛れ込んだ妄言のたまり場と化しているのです。
 特に、資料解釈の結論部で、不意打ちで、いかがわしい意見を採り上げて、折角集積した先賢諸兄姉(当然、自身のブログ記事は尊称の対象外です。念のため)無批判で踏襲するという、大変な間違い/取り違いをしていますから、丁寧に、率直に批判しています。
 二重引用になるので、言及を避け、要するに論義の責任は、所詮、笛木氏に帰属するので、人名は明記していないが、興味のある方は、原文を参照いただきたい。

*誤解の起源
 陳寿「三国志」魏志原文の「又」が、みずほ書房版「三国志」で、学術的に正確に、「さらに」なる古典的な日本語に翻訳されているのに対して、これを、現代の無教養な論者が、「自然に」、つまり、自身の限界のある「脳内辞書」で解釈して、権威ある辞書の参照を怠ったため、魏志の真意を察することができずに「楽浪、帯方二郡の回収時期を、公孫氏滅亡後と勘違いして決め込んでいる」ものであり、貴兄も、そのような意見に操られたのは、浅慮に属するものと思われます。
 貴兄の発言にも関わらず、史料批判とは、古来、何事も、繰り返し検証するということなのです。
 「又」は、漢字一字ですが、文意解釈上の要点であり、貴兄の別コメントにあるように、字数だけ捉えて、「わずか」などと、二千年後世の無教養の東夷が安易に切り捨ててはならないものなのです。

 要するに、司馬懿の公孫氏討伐に時間的に連動せず、但し、ものの理屈から、これに「先行して/先立って、両郡を皇帝指示の少数部隊により、太守を更迭して、遼東公孫氏の指揮下から外して、明帝直轄の新任太守に無血交替した」という趣旨が見てとれていない浅慮の失錯と見えます。何しろ。両郡太守は、皇帝の指揮下にあるので、勅命の紙片一枚で、更迭できるのです。
 但し、当ブログを参照している笛木氏は、肝心の指摘を見過ごしているので、今回の指摘も、見過ごししているかも知れません。あるいは、名「解釋子」が、そのような回収は、両軍の郡兵を動員して、遼東軍攻撃に参加させるなどと、無謀な創作をしているのに影響されたものかも知れませんが、それは、とんでもない臆測も良いところで、「密かに」と当たり前の事項を、但し書きして真意を見過ごしています。
 あることないこと書き足して、蛇足まみれにする「高等」戦術家とも見えますが、見え透いているのです。

 因みに、引用者が「景初中」を237-239と見るのも、軽率の誤訳です。景初三年は皇帝のいない異例/特異な期間なので、明帝の治世と見ることは許されないのですから、史官たる陳寿が意図したのは、景初一,二年の期間であるのは自明です。景初三年を含めたと解するのは、史官に対する侮辱-警告無しに一発退場です。

 ついでながら、倭人使節は、景初三年六月に帯方郡に到着したという説であるから、数ヵ月を経て、洛陽から許可を得て発進しても、洛陽に到着するのは、さらにまた数ヵ月後という成り行きなので、自動的に、皇帝が倭使節の上書に接するのは景初三年と限らず、正始元年、ないしは、それ以降と主張していることになると思われます。其の場凌ぎの言い訳は。言うはたからボロを出す例です。

 冒頭に述べたように、論争の通則として、「明らかに誤謬である前提」に立った貴見は、自動的に、根こそぎ誤謬となりますので、以下のご意見は、いかに念入りに構築されていても、自動的に、根拠の無い臆測となります。特に、本件は、日本語訳文の解釈の齟齬なので、解釈の誤解は、みずほ書房「三国志」翻訳者の責でなく、これを「現代語」に読み替え/解釈したものの責であります。貴兄ほどの見識の持ち主は、誤謬を信用したことに対する責任も負うのです。

 時に、愛情をこめて揶揄するように、無批判の先行見解踏襲は、夕暮れに、疲れ果てた旅人が路傍の「温泉」にいきなり飛び込むのと同様で、まずは、狸に化かされていないことを入念に確認して頂く方が良いでしょう。何しろ、日本古代史の「通説」は、八百八狸の騙し芸の名所なのです。被害者は、枚挙のいとまがないのです。

 ちなみに、貴兄の近来の施政方針(ポリシー)は、全世界の全「歴史文書」(ママ) は、すべて、はなから、「権力者」(ママ) の指示によって編纂された「政治文書」(ママ)に決まっている」(普通の表現としたことは、当方文責)という実証不可能な包括的大風呂敷ですから、陳寿「三国志」魏志第三十巻の巻末の「魏志倭人伝」に関する断言は、貴兄の施政方針が予め実証されない限り、貴兄の思いつきに過ぎないことは、自動的に通用しているので、ここで、何か力んで発言しても、抵抗は無意味です。よくよく、前後関係を見定めた上で。大言壮語、断言された方が良いようです。

 貴兄ほど、多くの読者の尊敬を集める良識の持ち主は、いかに心地良くても、一刀両断の大言壮語を自省いただき、具体的に、実直に、着実に実証の努力を積み重ねることをお勧めします。

*同日追記
 どうしても気がかりな部分をとりだして、精査してみました。
・推理とネタばらし
 司馬懿が明帝崩御の景初三年春正月一日の後少帝の太傅(後見人)となって尚書省の長官に就いているので、人事権も掌握し、部下の劉夏を帯方郡太守に就け、戦略上重要な場所にある倭国を朝貢させたと推理できます。倭国王への詔書は司馬懿が書かせたものだと分かります。
 つまり魏志倭人伝にほぼ全文掲載された詔書は、陳寿がそのまま転載したということです。陳寿は西晋の宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を編纂したのです。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されているのですから、倭の魏への最初の遣使は明帝崩御後の景初三年六月が正しいと言えるのです。

*コメント
 見事な創作/解題ですが、客観的な根拠は見られません、丁寧に解説すると、太傅は、少帝のお守り役/名誉職で特に権力もありません。帝国政府は、多くの組織に分化していて、人事権も、同一組織に限られていたのです。つまり、時代錯誤なのですが、誰から教わったのでしょうか。いえ、別に、「ほら吹き童子」の名前を知りたいのでなく、実(じつ)のある根拠を示してもらいたいだけです。
 晋書は、「皇帝」が官僚に命じ司馬氏を貶めるよう編纂させた「正史」史上初の画期的な官製「ダメ史書」ですが、なぜ、貴兄の信条に反して信用されるのでしょうか。
 因みに、常識的な景初二年に従うと、帯方郡回復は遼東戦役の最中で司馬懿が任務以外の策動をすることはあり得ないのです。また、「戦略」もなかったのです。また、皇帝詔書は、高度な教養が要求されるので、担当が決まっていて、文筆に信用に無い武官の司馬懿が書くことは絶対ないのです。というか、貴説に関係しない余談でしょうから、「蛇足」でしょう。

 ということで、貴兄のお話は、本末転倒しているのです。景初遣使が三年六月を根底/出発点/大前提に、寄木細工で物語を組み立てているので、辻褄が合って見えるだけです。

 当方の意見としては、ご力説のように、三国志「魏志」が、西晋皇帝の帝詔により司馬懿に迎合するよう編纂されたとしたら、なぜ、燦然たる倭使事績が、読み人も希な巻末/隅っこの倭人伝に、「わずか二千字」で、ひっそり/わかりにくく書かれているのかということです。司馬懿を顕彰する「戦略」があったというなら、「三国志」に司馬氏の悪名が残されているくせに「司馬懿」伝がないのが、まことに不思議です。逆臣である劉備、孫権にとどまらず、族滅した毋丘儉にも、「伝」はあるのです。

 一見すると、貴兄は、脳内に、現代人が現代語の概念で蠢く「時代劇」世界を展開されているのかと愚考する次第です。そこでは、現代概念が通用しているのでしょうが、「現実」の古代世界は、大きく様相が異なるのです。
 いや、そのような個性的世界観は、開祖岡田英弘氏初め、多数の追随者がいらっしゃるので、共感の声を聞くことが多いでしょうが、それは、高名なカズオ・イシグロ氏(ノーベル文学賞受賞)の「フィクション」観と通じるものですが、『フィクション」古代世界が整合して見えても、現実の混沌たる古代とは別世界です。このあたりが理解できないで、現代語で突っ張っているとしたら、それは、中国古典文書解釈の常道を踏み外しているということです。

 要するに、土地勘の無い異世界で、なぜ、「一路」に我を張るのでしょうか。

ここが理解されないから、魏志倭人伝がコテコテの政治文書だと気づかないのです。
このため邪馬台国問題が解決しなかったのです。

*コメント
 当時西晋朝の官界に「政治文書」などないのは、ご存じないのでしょうか。
 [邪馬台国問題]は、西晋史官陳寿が想定のうるさがた読者に用意した「謎」であり、多少の努力で「解答」(正解)できたものなのです。二千年前に解決済みなのです。勘違いしてはなりません。後世、つまり、唐代止まりですが、例えば、「倭人伝」の万二千里道里が非論理的だと言われた例は、寡聞にして見当たらないのです。
 なぜ、貴兄が「火事場」の怪力を示すのか、よくわからないのです。

*追加コメントみたび 2023/11/15
 当ブログ読者には、「耳タコ」だろうという事で、飛ばしましたが、初見の方のために、説明を加えます。
政治文書だと分かれば、七万戸の邪馬台国や五万戸の投馬国などホラ話だとすぐに気づきますし、帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉を挟み撃ちにする位置に計十五万戸の東夷の大国とした倭国の女王が都にするところが邪馬台国という記述も、すべて司馬懿を持ち上げるための潤色どころか大ボラだったということに気付けます。
 七万戸の邪馬台国は、貴兄の誤読です。まあ、尊重すべき「倭人伝」を、はなから否定して「邪馬台国」と改竄して、原文が読めなくなっているのでしょうが、自然に解釈すると、女王は、精々千程度(文飾か)の端女(はしため)に傅かれていたことですが、端女は戸数に関係しないので、農耕「戸数」は無いに等しいのです。まして、女王の居城に課税することはあり得ないので、女王居所の「戸数」は無かったのです。
 「倭人伝」には、女王の居所としか書いていないので、卑弥呼が自己の居城を「都」(みやこ)としたというのも、誤解です。班固「漢書」西域伝で、蛮夷の王の居所を「都」としたのは、漢に匹敵する文明大国であった西域西端の巨大王国「パルティア」だけですから、陳寿が東夷の新参蛮夷に「都」の尊称を与えるはずが無く、簡単に誤解と分かるのです。
 なお、蛮夷の固有名詞/地名に「都」の字があっても、それ自体は、表音字となれば、「不敬」とは限らないのです。「不敬」であれば、魏志から削除されていたのです。
 計十五万戸は、従って、蜃気楼であり、実際、そのような戸数は、どこにも書かれていません。倭の全戸数は、七万戸なのです。
 書かれていない文字を虚空から読み取って、陳寿を非難するのは、筋違いです。
 五万戸の投馬国は、確かに文飾ですが、貴兄の書き漏らしている二万戸の奴国共々、貴兄が虚飾/誇張と断定する文字を書き残したのは、遼東太守時代の公孫氏であり、後世になって公文書を引き継いだ陳寿には、文書改竄はできないので、ありのままに書き残しただけです。陳寿を非難するのは、筋違いです。対海国、一大国、末羅国、伊都国と続く戸数/家数を見れば、実数は、五千戸にも満たないと見えますが、当時、一大率の指導を受けていない二国には、戸籍制度がなかったので、戸数は、推定すらできなかったと見えるのです。
 陳寿に司馬懿を高める意志があったのかどうかは、後世東夷の無教養なものには、分からないはずですから、気づいたというのは、単なる、良くある錯覚なのです。
 「帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉」は、筆が滑ったのでしょうか。魏皇帝は天子ですから、川釣りで釣果を争う「ライバル」などと呼べる相手などどこにもいないのです。(もともと、中国古代史に、生かじりのカタカナ語を持ち込むこと自体、「無法」の極みです。
 かって、匈奴は、漢高祖の親征軍を大破して、匈奴が兄、漢が弟という和睦を締結しましたから、匈奴は、漢に匹敵する尊称と言えますが、それ以外、漢魏西晋は「無敵」だったのです。ちゃんと、同時代の世界観で語らないと、大局を誤るのです。
 史料の文字を精読しないとたちまち自滅発言になるのです。
                                以上
頓首頓首死罪死罪

以上

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コメント

刮目天殿

貴信への返信回答です。

引用御免[このように「景初三年説」の理由を述べているにもかかわらず、それは完全に無視されて、「又」の一字を間違って解釈していることに気付かないようです。]
「完全に無視」した自覚は「完全に」ないのですが、当方が、折角、『世上流布していて、笛木氏が刷り込まれている「又」、「さらに」の誤解』を提示しているのに対して、反応されていないように思っただけです。誤解していたようでお詫びします。
真面目な話、貴兄は、当方の指摘以前に「さらに」の誤解に気づいていたのでしょうか。それなら、貴兄の論説にその旨明示して、世上の安直な誤解を減らすべきではないでしょうか。また、ここでも、「又」の字を「間違って解釈している」と決め付けていますが、当方は、「世上気づかれていない両義がある」ことを指摘しているのであって、これ自体は「間違い」ではあり得ないのです。ちゃんと、聞き分けて戴きたいものです。意見が合わないのは、当然であって、それが、事実認識の謬りでないことを確認していいるだけなのです。
 そして、そのような断言の「根拠」は、野次馬の少ないこの場でも、示されていないのです。

 というだけ云っておいて、貴兄は、当方が、当時の帯方郡情勢について、原文と格闘した上で、一つの定見を述べているのに対して、ご自身は、国内派の意見に染まっているらしく、何も触れていないのであり、御不満は御不満として、誠に不公平と思うのです。

 貴兄がサカナの泳ぐのを見て楽しそうだと環境を漏らし、これに対して、「おまえにサカナの心がわかるわけない」と決め付けられたとき、 「おまえに、俺がサカナの心がわかるかどうか、わかるわけはない」と反撃するようなもので、推測で不満を持たれるのは、大変迷惑です。

 因みに、「 宣帝(司馬懿)が公孫氏を討った結果、卑弥呼が朝貢したと明記されている 」とは、率直に言うと、貴兄の個性的な解釈であって、「支持者が少なくないとか、結果的に大過ないとか」が客観的な情勢かも知れませんが、ここに根拠として提示されているのは、俗に云う「超訳」であり、一般読者に対する誤解の押しつけの可能性が濃厚です。このような場合、言葉尻と言われるといやなので、大抵の場合飛ばしますが、用語表現のすり替えと独断誇張のくせは、好ましくないと思われます。
 要するに、説明にも何にもなっていないので、説得の用をなさないのです。
 因みに、当方が「晋書倭人伝の当記事」を重視しないのは、魏志倭人伝の該当部分の要約/縮約の際に、洛陽の公文書は喪失していて、帯方郡も消滅していて、「史実」が、小計されていなかったために、「後代の無教養な史官による稚拙な誤解が混入した可能性が無視できない」ので、史料としては、意識の片隅/書斎の脇に置くというものです。もちろん、晋書が、皇帝の指示により、司馬氏を誹謗するために編纂された『史上初』の『正史という名の政治文書』であったことも、低評価に影響しています。

 それにしても、小生が「研鑽」しているというのは意味不明です。深意が伝わらない/伝わると確信できない表現で断言しない方が良いようです。
 小生が、時に「自明」というのは、「自然法則や時代通念に通じている、然るべき学識のあるものが読めば、文章自体が真意を示していて、論証を要しない」というのであって、「それらに通じていない一般人が読んで、普通に理解できるという意味ではない」のです。 「然るべき学識」は、教育指導を別にすると、読書と対話を通じて補うものなので、それに気づいて戴けるよう諸兄姉に、皮肉交じりの批判をぶつけているのですが、まだ、理解いただけていないようなので、黙々と「研鑽」しているのです。

以上

>先生の「景初二年六月説」は笛木氏への反論で読んだ覚えがあります。わざわざ改めて記事にするまでもない内容の話ですので、お手を煩わせてしまい申し訳ありません。
>「その誤訳の起源」で述べられた陳寿「三国志」魏志原文の「又」の解釈は存じていますが、『要するに、司馬懿の公孫氏討伐に時間的に連動せず、但し、ものの理屈から、これに「先行して/先立って、両郡を皇帝指示の少数部隊により、太守を更迭して、遼東公孫氏の指揮下から外して、明帝直轄の新任太守に無血交替した」という趣旨が見てとれていない浅慮の失錯と見えます。』は、その後の経過、司馬懿が西晋の基礎を築き、「晋書 倭人の条」から「景初三年説」が正しいと述べているのです。
>
>翻訳するまでもないですが、宣帝(司馬懿)が公孫氏を討った結果、卑弥呼が朝貢したと明記されているのです。ここからも明帝の楽浪・帯方への占領軍派遣は公孫氏滅亡後だと明確に分かります。
>
>だから難升米の帯方郡入りは明帝の崩御後の景初三年六月なのです。
>
>このように「景初三年説」の理由を述べているにもかかわらず、それは完全に無視されて、「又」の一字を間違って解釈していることに気付かないようです。さらにお決まりのセリフで終わっているのは、せっかくの研鑽を活かしきれていないようで、いかにももったいないことです。もしも当方が差し上げた理由に間違いがあるならば、その点をお聞きしたかったのですが、とても残念です。
>
>それから、生意気なようですが、歴史の真実を残したい学者でもないような権力者が何のために歴史書を編纂するのか、もう少し深く考える必要があると思います。また、何かありましたらまた、お教えください。どうも失礼しました。

先生の「景初二年六月説」は笛木氏への反論で読んだ覚えがあります。わざわざ改めて記事にするまでもない内容の話ですので、お手を煩わせてしまい申し訳ありません。
「その誤訳の起源」で述べられた陳寿「三国志」魏志原文の「又」の解釈は存じていますが、『要するに、司馬懿の公孫氏討伐に時間的に連動せず、但し、ものの理屈から、これに「先行して/先立って、両郡を皇帝指示の少数部隊により、太守を更迭して、遼東公孫氏の指揮下から外して、明帝直轄の新任太守に無血交替した」という趣旨が見てとれていない浅慮の失錯と見えます。』は、その後の経過、司馬懿が西晋の基礎を築き、「晋書 倭人の条」から「景初三年説」が正しいと述べているのです。

翻訳するまでもないですが、宣帝(司馬懿)が公孫氏を討った結果、卑弥呼が朝貢したと明記されているのです。ここからも明帝の楽浪・帯方への占領軍派遣は公孫氏滅亡後だと明確に分かります。

だから難升米の帯方郡入りは明帝の崩御後の景初三年六月なのです。

このように「景初三年説」の理由を述べているにもかかわらず、それは完全に無視されて、「又」の一字を間違って解釈していることに気付かないようです。さらにお決まりのセリフで終わっているのは、せっかくの研鑽を活かしきれていないようで、いかにももったいないことです。もしも当方が差し上げた理由に間違いがあるならば、その点をお聞きしたかったのですが、とても残念です。

それから、生意気なようですが、歴史の真実を残したい学者でもないような権力者が何のために歴史書を編纂するのか、もう少し深く考える必要があると思います。また、何かありましたらまた、お教えください。どうも失礼しました。

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