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2024年1月

2024年1月27日 (土)

新・私の本棚 原田 実 季刊「邪馬台国」40周年記念号 1  1/1 再掲

                         2019/12/03 2024/01/27
 私の見立て ★★★★★ 必読

□「邪馬台国論争の経緯と展望」
 氏の記事は、本記念号の要諦であり、大所高所の賢者の意見のようですが、「また一つの偏見」に思えます。

 まず、地名は、邪馬台国比定の決定的根拠とはならないとのご託宣ですが、言いっぱなしです。「有力な根拠となり得る」あるいは、「比定説批判への強力な反論論拠となる」との側面が、店ざらしになっています。

 世上、「地名」言及はそうした台所事情によるのです。私見では、近説で、本号にも書かれている井上よしふみ氏の比定論も、自説防衛のために誤字論を唱えています。いや、別に格別の非難でなく、手近の一例を挙げただけです。

*所信表明への異論
 記事引用 また、魏志倭人伝には朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国までの詳細な行程里程記事があるが、それを現実の朝鮮半島から日本列島にまたがる地理に当てはめようとすると何らかのアクロバチックな操作を伴わずにはいられない。
 これは、本紙記念号の晴れ舞台である特集記事冒頭に堂々と披瀝した氏の所信と思うので、当記事に関しては、所信への疑義を唱えさせていただくものです。

*「詳細」記事の幻影
 「魏志倭人伝には朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国までの詳細な行程里程記事がある」とありますが、素人目には、極度に切り詰めた簡略な記事と見えます。むしろ、一般的に、「倭人伝」記事は、「過度に簡潔である」と批判されているのに対して、あえて「詳細」と言う根拠を伺いたいものです。
 少なくとも、われわれ無教養人がそのように(詳細と)解するのは、陳寿の本意に「大いに」反していると見ます。氏ほどの識見の持ち主にしては、まるで論理的でなく、不合理な判断と思われます。ここで「倭人伝」原文を確認すると、陳寿の真意は明らかになっています。
 自女王國以北、其戶數道里可得略載、其餘旁國遠絕、不可得詳。
 つまり、女王国以北の諸国、狗邪韓国を経て倭に至る直行区間の対海国、一大国、末羅国の行程諸国は、郡との間で文書が往来していたので、何とか要件項目を「略載」できたのであり、文書往来の無い奴国、不弥国、投馬国に関しては、詳しいことは、まるで分からない、と明言しているのですから、当記事を「詳細」と理解するのは、素朴な誤解にほかならないと思われるのですが、氏が、明言以外の何を根拠にしているのか、不審です。そのような「幻影」を追いかけていては、百年、二百年議論しても、明快な見解が得られないものと思います。
 いや、それは、国内視点で倭人伝を解釈する諸兄姉に共通した「普通の」勘違いと見えるのであり、別に、氏に対する個人的な批判ではないのですが、氏ほどの率直な研究者は、早く「幻影」を振り払って、世に蔓延る「普通の」勘違い「誤解」論を「是正」していただけないものかと、苦慮しているものです。

 「現実の朝鮮半島から日本列島にまたがる地理」と称しても、三世紀当時の「現実」は、現代人の知らないものであり、いかにも当てはめられないと見えます。逆に言うと、「倭人伝」は、氏の保有している明確な地理常識を有していなかったので、不明確な地理常識で、「倭人伝」記事を欠いたのであり、「詳細」な記事など欠こうとしていなかったと見るのです。
 また、氏の発言は、先行の「朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国まで」と齟齬して、冗長かつ字数空費の構文不都合です。折角の晴れ舞台で、所作が乱れています。
  このあたり、氏は、史料の文意を読み解く面で、いろいろ勘違いをする芸風のようです。

 「何らかのアクロバチックな操作を伴わずにはいられない」とのご託宣ですが、何を辛抱しきれなかったのでしょうか。「アクロバチック」とは、宙返りのような曲芸の離れわざでしょうが、そのような「名人芸」、「芸術活動」が、本件とどう関わるのか。いかにも、説明不足です。
 アクロバットは、フィジカル、つまり、身体物理特性、肉体鍛錬の生む至芸と賞賛され、「報酬」を与えられますから、これは「絶賛」とも取れます。これを、場違いなメンタル、つまり、知的な論理構築の分野に持ち出すのは不用意です。

 つまり、氏の所信は、一般読者には、独りよがりで独善的と誤解されかねないのです。本誌の原稿査読で異議はなかったのでしょうか。本記事は、寄稿された玉稿でなく、内部のものなので、編集過程で遠慮なしに推敲するものではないでしょうか。

*学問的疑義
 折角なので、疑義を唱えると、『「倭人伝」行程記事は、当時の洛陽教養人士が熟考し解読する「問題」』として構想され、記述されたものであり、従って、最小限の手掛かりしか与えられていないから、二千年後生東夷の無教養人」が、容易に正解できないのは、むしろ当然と見るべきではないかと考えるからです。
 これまで、多数の研究者が、営々と「行程記事」の「新」解釈を試みていますが、「問題」の解釈すらおぼつかないのに辛抱できず、短気を起こして快刀乱麻しようとする暴挙ですから、万人納得の解釈とならず、十把一絡げで氏の冷笑を浴びているのです。(この比喩は、アクロバットの比喩より、大分理性的ではないでしょうか

 本論には、以下、氏の絞り出した賢明な指摘事項が多々あり、「よく言ってくれた」と思う下りが沢山ありますが、氏の所信に問題認識の齟齬がある限り、具体的指摘は、単なる異見としか見なされないのです。要は、ご自身の所信不備に気づかないのに、その所信に立って「大所高所から」他人の意見を云々するのか、となるのです。

 以上、ご本人にはご不快でしょうが、氏が、「邪馬台国」論義の動向に、本誌誌上で大変大きな影響力を持っているとみて、敢えて、率直な意見を述べるものです。

                                以上

2024年1月21日 (日)

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』古田武彦批判 三新 1/6

                    2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11,17 2024/01/21
◯三新の弁
 当記事は、不適当と認めた特定サイトの記事批判であるが、特に、史学者批判にかこつけた陳寿「三国志」「魏志」改竄記事が一部研究者に無批判に採用されているため、あえて、再掲したものであり、特に、変心したものではない。

◯始めに~個人サイト批判の弁
 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」の(血なまぐさい)様相に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。

 同サイト管理者の攻撃手法には、拙い誤解と非難すべき反則技が多く、却って、論考の信頼性を大きく損なっているので、ほっておけないと感じたのである。また、この場で、学界のお歴々と並んで批判されるだけの価値ありとの位置付けをしているのでもある。

 さて、同サイト管理者は「古田武彦氏の説のウソ」と誹謗、中傷口調で書き出しているが、語調の「きつさ」、「えげつなさ」の割には、根拠が不明であり、また、内容が的外れである。

 周知のごとく、古田武彦氏の提唱した説は、こと古代史に限定しても、広汎、多岐であり、全体をウソと断じたものか、特定の説にウソがあるのか、論旨が不明である。物事を明解に表現しない/できないのは、論者が未熟/不熟なせいと苦笑するしかないのだろうか。今日のように、裸の王様を大勢見かけると、声をかけるのが難しいのである。
 総じて、「ウソ」の一言でご自身を正当化するのは、相当劣悪な品性の持ち主と見るのである。言うならば、「暴言」は、論争弱者の最後の隠れ家であり、大抵、隠れ家になっていないのである。

 また、書き出しに2-1と銘打って、後続続々と布石しているが、どうなったのだろうか。まさか、ネタ切れではないだろうに。

 さて、記事書き出しを見た限りでは、古田氏の一書「古代は輝いていたⅢ」で堪忍袋の緒が切れたようであるが、ここまで当方には、一切お怒りの事情が伝わらないので、お説を伺うとする。
 ということで、冒頭の切り出しであるが、どうも、不用意な取り上げ方と言わざるを得ない。

*因みに、同サイトは、2016年時点で、誤謬が露呈している「ジャンクサイト」と判断したので、以後、参照していない。現時点で、ここで指摘した誤謬が是正されているとしても、別に連絡を戴いていないので、当方の知るところではない。

 2.古田武彦氏の説のウソ
 2-1 景初3年が正しい理由
 当記事の書き出しは、陳寿「三国志」「魏志」という堅実無比の有名史料を根拠にしているが、史料が誤っているとの未検証の「思い込み」を前提としているので、文献批判の一種としても、端から、信じがたいものになっている、と申し上げておく。

*根拠とならない風評資料~「理由」にならないこじつけ (補充 2023/03/17)
 要するに、良好な資料が確実に継承されている「魏志」の「倭人伝」には、はっきりと、間違いようのない「景初二年六月」の文字が維持されているのであるから、これを「景初三年六月」の誤記と断じるのには、「魏志」「倭人伝」と同等以上に良好な資料を提示する必要がある、と言うか、そうでなければ、無効な異議である。これが、世界の常識である。
 氏は、そのような「真っ当な」手順を無視して、景初三年と書かれているわけでもない「魏志」東夷伝内の別資料を提示しているが、同記事は、「倭人伝」記事本文解釈の視点から見ると「圏外」であり、しかも、年月の明示されていない雑情報であり、端から、門前払いとなりそうなものである。とは言え、一応評価に値するとして検討するが、基本的な資格不足は、念頭に置くべきである。

 氏は、論証にあたって、原文を当たることなく筑摩書房版の翻訳文を採用しているのが無節操で困ったものである。
 せめて、読み下し文を見ていれば、原文の趣旨が察しられるのだが、翻訳の場合は、翻訳者が理解した文意に沿って粉飾加工されるので、翻訳者の理解に誤解があれば、ほぼ必然的に誤訳になってしまう「危険」を(取れたてのふぐのように、ほぼ確実に)含んでいる、というのが、定説中の不動の定説である。
 本例で言えば、翻訳者が、高度な教養を要する読者を想定して高度な構文を呈しているのに、無教養な現代読者が、安直な誤解に陥っているのは、翻訳者の責任ではないのである。丁寧に言い直すと、漢文の「又」を日本文の「さらに」と滑らかに飜訳しているのに、「時間的に遅れた」と書いているように速断しているのは、無教養な現代読者の不勉強な浅読みであり、翻訳者には、何の責任も無いのである。

1.両郡攻略/回収
 この場合、翻訳者は、魏の遠征軍は、まず、遼東の公孫氏を滅ぼし、「次いで」南下して、公孫氏の支配下にあった楽浪、帯方の両郡を攻略したとの根拠不明の先入観(思い込み)を持っていて、その先入観を書き込んでいるが、原文には、そのような粉飾表現は書かれていないと考えたが、これは、後世読者(当ブログ筆者の素人考え)、勘違いであったことがわかった。過ちは自分で糺すのが、最低限の責務と考えて、訂正を書き加えているのである。

 原文(漢文)は、「又」としているが、これは、多くの先賢が折々に触れているように、別に、時間的前後関係を言うとは限らず、単に、「それとは別に」というに過ぎないと見るのが、手堅いのである。何しろ、雒陽史官に、遼東の大規模軍事行動と両郡の「密かな活動」のどっちが先でどっちが後か、厳格に確認できるわけも無いから、「ついで書き」したと見るべきではないだろうか。

 さほど入手困難と思えない原文に当たると、「誅淵」(公孫淵を誅殺した)と書いた後に「直ちに続けて」、「又潜軍浮海」(また、潜(ひそかに)に軍を海路送って、と言うのは、別に潜水艦を駆使したわけでは無い)楽浪、帯方の両郡を(皇帝の傘下に)収めたと書かれている。これを、初稿では、『「さらに」と、時間の流れを込めて書き足したのは、翻訳者のやり過ぎと見た。単なる「又」には、時間的な前後は込められていないと見るものではないかと思った。』と書いてしまったが、その時点では、そう感じたので、初稿は、率直に論じたことに間違いはない。以下、反省しているのは、追い追い読み取れるはずである。

*浅慮の誤釈~自己批判の弁
 因みに、つい、当方の素人考えで、浅慮を示してしまったが、自身の乏しい学識に頼らず虚心に国語辞書を熟読すれば、翻訳文の「さらに」も、別に、時間的前後関係を言うとは限らず、絶妙な飜訳と理解できるのである。つまり、「二千年後生の無教養な東夷の後裔の読者」が、無教養で自身の限られた語彙にしがみついては、練達の翻訳者の絶妙な配慮も、水泡に帰すという一例である。
 当方は、遅ればせながら、自身の浅慮に気づいたので、ここに訂正している。

 要するに、「又」の字義には、両様があって確定できないので、文献の前後関係、「文脈」から読解くのである。

*高度な読解
 もし、ことが、遼東攻略の後であれば、何も、「ひそかに」、渡海上陸し進軍する必要はないから、両郡攻略は遼東攻撃の前に行われたとみるべきではないだろうか。現に、そう判断する論者も多いのである。(多いというのは、この際、一人、二人ではないということであり、何億人いるという事ではない)

 この辺り、長駆進軍している遠征軍主力による西方、と言うか、西南方からの一方的な攻撃は、大軍であっても、遼東に広く勢力を張った公孫氏の待ち受けているものであり、迅速な攻略は困難と予想できる。東方、と言うか、東南方からの分遣隊による挟撃が必須と見た司馬懿の周到な軍略が見て取れると思うのである。(付注 わかりやすいように、司馬懿に花を持たせたが、原文では、明帝が指示したとあり、正確ではない。当方の「粉飾」であった。反省するが、当記事では修正は加えないことにした)

 三国志に書かれているように、この当時、曹魏は、『長江(揚子江)上流域域から関中、長安付近への蜀漢軍からの執拗な「北伐」の攻撃に耐えていた』と共に、長江下流域では孫権率いる東呉孫権指揮下の大軍と対峙していて、孫権は、戦況が確実に有利とみたら、じんわりと、分厚い攻勢を取るから、遼東遠征軍は、速攻、かつ、確実に遼東を確保する必要があった。つまり短期決着の確実な挟撃作戦を採ったと見るものである。つまり、この時期、蜀漢は、宰相諸葛亮の没後で逼塞していたが、後継した姜維の指揮の下、体勢を整えて再度北伐するかも知れなかったのである。
 法外と見えるほどの大軍を派遣したのも、その一環である。現地滞在が長期化すれば、食料の消耗が激しくなる上に、中国では、大規模な戦闘での敗戦責任は、将軍の一家/一族族滅である。理由は何にしろ「絶対負けられない」のである。

 なら、ここに作戦内容を明確に書くべきではないかという抗議が聞こえそうだが、東夷伝」の役目は、『遠征軍が「誅淵」した一方で、両郡を皇帝直属とすることにより、東夷を直属させたと明記する』のが主眼なのであり、それ以外の軍事行動は、付録に過ぎないから、この程度で良いのである。本当に、司馬懿の軍功を高々と顕彰するのであれば、明帝本紀に書くものであり、こんな閑静な場所にひっそり書くものではない。いや、これほどの軍功にも拘わらず、「魏志」に司馬懿の伝は無いのである。

 ちなみに、翻訳者は、両郡攻略について、原文の「収」(収めた)という平穏な表現を粉飾して「攻め取った」と強い言葉で書いている。その意識としては、健在であった遼東政権から「攻め取った」と見ているのである。これが、遼東政権が崩壊した後であれば、攻め取るのではなく、魏朝傘下に収めたとでも言いそうなものである。漢文翻訳の怖さである。

 丁寧に読み解くと、実際に起こったのは、魏朝皇帝の勅命で、公孫氏が勝手に任命していた現地の郡太守が更迭され、新任郡太守が取って代わって着任したものであり、単なる人事異動と組織変更、つまり、両郡を、一片の帝詔により、遼東郡から切り離して皇帝直轄とするものであって、その際、戦闘があったとは書いていない。皇帝の命令が実施されたに過ぎない。まさしく「密かに」である。
 遼東では、公孫氏の撲滅に連座して、官人が殲滅され、死骸の山になったという。当然、公孫氏の残した公文書も、焼き尽くされたのであり、公孫氏が、高句麗はじめ、諸蛮夷を服従させた経緯は、消え失せたのである。爾後、高句麗は、公然と、新体制に反抗したのであるから、司馬懿が、東夷管理の深謀遠慮を持っていなかった「無遠慮」であったのは、明らかである。明帝は、腹心の毋丘儉に、楽浪/帯方郡管理下の東夷、濊、韓、倭人を統轄させる構想であったから、司馬懿に干渉/指示しなかったとも見える。
 いや、司馬懿は、西方で蜀漢の侵入を防ぐ「鍋蓋」に過ぎず、蜀漢が衰退したので、別の鼠賊に向けたのに過ぎないと言える。

 翻訳者は、厖大な三国志全体の正確な飜訳に多大な労を費やし、不滅の功績を成し遂げている。「細瑾」、細かい行き違いがあったとしても、とがめ立てするべきではなく、単に訂正すれば良いだけである。特に、当事例では、軽率な後生読者が気づかないだけで、万全の配慮がされているのだから、謹んで、この点に関しては、拙論を取り下げたのである。

 それにしても、これほど重大な誹謗記事を公開するに先立って、氏は、原文、つまり、「魏志」の関連記事全体の趣旨を確認することなく、結果として翻訳者を責めているのは、誠に氏の不明を公然と示すものであり、素人目にも感心しない。

未完

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』古田武彦批判 三新 2/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11, 17 2024/01/21
 2.古田武彦氏の説のウソ
     2-1 景初3年が正しい理由

2.京都(けいと)往還
 さて、陳寿「三国志」魏志の飜訳を読んでも、「景初二年六月に倭大夫が帯方郡に来て魏の天子に拝謁したいと申し入れた」と書いてはいるが、それを受けて、即日、洛陽に送り出したわけでないのは自明である。
 以下、魏志の少ない文字をじっくり噛みしめてみると、「景初二年遼東事態」(東夷来)の姿が見えてくるのである。
 案ずるに、司馬懿は遼東遠征に周到な構想を持っていて景初二年の春先早々にひそかに、海路、山東半島付近から帯方郡に向けて征討軍を派遣し、楽浪、帯方両郡をあっさり攻略した後、直ちに、新たな郡治を設定し、郡太守および副官等の随員をおいたはずである。
(付注 「実際」は、前ページに書いたように明帝曹叡の戦略である。又、景初二年事態と決め付けたのも、当方の浅慮であった)

 新たな郡太守は、魏朝の一機関を統轄して、郡の民生を安定・掌撫するものであり、現地軍の編成などにより現地人の戦力を把握すると言う遠征軍務の一環となる任務と共に、遼東平定後の半島南部やその向こうの東夷の教化(文明化)も必要である。

 郡太守は、「王」と同格であり、絶大な権限を委ねられていて、多額の俸給(粟)を得るとともに、郡治として城郭を構え、管内を取り仕切る郡兵を擁し、管内で徴税、徴兵などの大権を持ち、事実上、辺境に於いて、「幕府」ないしは「都督府」を開いていたのである。ただし、公孫氏が後漢の郡太守であった時代、遼東郡は、いわば、一級郡であったが、楽浪郡、帯方郡は、その配下の二級郡であり、俸給も権限も制約された「格下」であったのである。それが、明帝の指示で、一級郡に格上げされ、韓濊倭都督」と言うべき大きな権限を与えられたと見るのである。

 合わせて、過去、公孫氏が山東半島の「齊」を占拠した際に活躍した楽浪郡も、皇帝直轄の一級郡となり、公孫氏は、山東半島への輸送経路を喪ったのである。
 楽浪/帯方郡は、一級郡となったものの、あくまで、郡太守は皇帝の配下であり、少なくと、月次の活動報告を欠かすことはできず、業績評価自体で、一片の帝詔で更迭、馘首することができたものである。何しろ、山東半島経由とは言え、雒陽との間は、騎馬の文書使が速報するから、国内の諸郡と等しい管理体制にあったのである。

 以下、私見を述べると、遼東への速攻体制を確保したのは、前回紹介した中原状勢への配慮もさることながら、遼東での戦闘が長期化して、現地の早い冬が来ると、冬将軍には勝てずに撤退が予想されたのも大きく影響しているものと思われる。
 それでは、司馬懿の地位が危ういどころではなく、敗戦とみられると一族もろとも死刑、一族滅亡となるのである。軍人は、敵に殺される危険だけでなく、味方からも命を狙われていて、命がけである。

 もちろん、司馬懿は、小心を装って、戦の責任が一身に降りかからないように、しばしば、洛陽に急使を送って、作戦行動の許可を求めていたが、皇帝に責任を転嫁するということは、敗戦の際、皇帝が非難されるのであり、公孫氏討伐の失敗が繰り返された果ての大軍派遣であるから、明帝自身、多大な責任を負っていたことになる。と言うことで、司馬懿軍の進軍と並行して、両郡回収を図ったのは、天子たる明帝曹叡の当然の大局的戦略と推定できる。

 ともあれ、皇帝の秘策であった楽浪/帯方両郡の収容により、遼東に向けて北上する部隊は、後方から襲われる不安がなくなり、遼東挟撃に大きく寄与したと思われるのである。
 そのような新体制「帯方郡」の初夏に、海・山、つまり、海峡渡海と竹嶺の難所を含む内陸街道を越えて倭使が到着したわけである。

 定説では、倭使派遣は、公孫氏滅亡の知らせを受けたものと見られているが、そのような超時代的な情報収集能力を想定するよりは、帯方郡から、新体制確立の告知と共に、自発的な遣使を求めた/指示/厳命したものと見る方が、随分、随分自然である

 当然、知らせには「遅れて至るものは討伐する」程度の威嚇は含んでいたであろう。そうでないと、重大な使節にしては、倭国遣使の貧弱な献上品と手薄な使節陣容がうまく説明できないのである。まして、長年、遼東の支配下にあって、中国本土との交信が閉ざされていたのに、いきなり、魏朝の天子に会わせろ、と進言したというのも、奇妙な話である。これも、魏朝側から、「洛陽に飛んでこい、謁見した上で褒美をやる」と呼びつけたとみる方が、随分自然である。いや、事の流れを見ると、単に、郡治まで出頭せよと指示しただけで、洛陽で天子に拝賀できるなどと言っていなかったとも見える。正史の記事として書いていることが、そのまま、事実の報告とは限らないのである。

 ともあれ、太守の初仕事でもないだろうが、洛陽の魏朝に「倭国」の来歴、女王と大夫の身元確認などを報告して、東夷使節の魏都訪問、拝謁を賑々しく稟議し、太守自身の功名を盛り立てると共に、上京、謁見の可否を問い合わせたはずであり、皇帝の裁可を得て、魏朝側から旅程の通行許可証と各宿駅での宿舎の提供を認める通知が届いたはずである。
 恐らく、「倭人」召喚は、明帝曹叡の意図であり、従って、迅速な通知となったはずである。

 最速で折り返したとしても、郡の通知から使節の郡治到着までには数ヵ月かかったと見た方が良いのではないか。その頃であれば、残敵掃蕩も終わり、遅滞なく洛陽まで移動できたと思われる。「倭人伝」には、郡倭行程は、片道四十日程度と書かれているが、これは、文書の送達日数であるので、倭使の参上には、これより日数がかかったかもしれない。ただし、倭が筑紫であれば、さほど無理のない行程と見える。

 もともと、倭使の行程は、遼東を一切経由せず、黄海を渡船で渡って山東半島東莱に上陸し、以下官道を急行したのであり、一部軽薄な論者が言うように、遼東の混戦に巻き込まれることなどなかったのである。帯方郡太守が、戦地に向かって北上させ、大きく行程を迂回させるような無謀な指示を出すことはあり得ないと、一人前の研究者であれば、言われなくてもわかりそうなものである。早々に撤回しないと、本件のように、無辜の素人が惑わされるし、一部にある「明智光秀談義」まで持ち出す論者が出るのである。
 受け入れ側にしても、皇帝の厳命があったとは言え、急遽、拝謁儀礼を確認し、詔書や土産物の準備に着手したはずである。
 巷説に因れば、その間に、従来の銅鏡に数倍する「質量」(重さ)、(多大の労作である異例の)斬新な意匠の銅鏡を百枚新作し、堂々と「輸出梱包」したことになっているが、そんなことは、少し考えれば「論外」とわかるはずである。いくら、先帝の遺命と言えども、度外れた厚遇にも限度がある。

*大「銅鏡」制作の想定~余談
 なお、俗説には、途方も無いホラ話があって、倭使の雒陽来訪の度に、百枚の新意匠の銅鏡が新作/下賜されたと決め込んでいる向きがあるが、厚遇は初回のみであり、特段の厚意を示した明帝の没後、初回同等の下賜物などあり得ない。又、遠隔の東夷は、二十年に一度の
来貢が定則であり、「倭人伝」に書かれているような頻繁な往来は、正式のものではない。
 このあたり、「倭に数百枚の魏鏡が齎されたに違いない」という「願望」ばかり語られている例があって、困惑するのであるが、誰も是正しないところを見ると、本件に対する「自浄機能」は存在しないようである。いや、つまらないことに字数を費やしたが、関係ない論者は、さっさと読み飛ばして頂きたいものである。

 銅鏡を新作するのであれば、魏朝の尚方(官営の美術工芸品製造部門)は、原材料、燃料の調達、鋳型工、鋳造工急募、本作にかかるまでの試作の繰り返し、長距離水陸運搬に耐える木箱の量産、搬送する人夫の確保、等々、商売繁盛を極めたはずであるが、それには、数年を要するものである。何しろ、後漢末に、一度、洛陽の諸機関は、長安に移動していて、曹操が、建安年間に雒陽の尚方を復興させたにしろ、まだまだ弱体であったはずである。まして、景初年間、明帝が、大規模な新宮殿造営を命じていたから、装飾の銅器を多数制作するのに、全力を費やしていたと見るべきである。
 当時の記録を確認すれば、未曽有の大銅鏡の多数(未曽有の大判鏡の百枚は、途方も無い数と見える)新作など、(絶対に)あり得ないとすぐわかるのである。いや、これは、一部、不勉強な論者に対する非難であって、本件に関しては、余談である。

 因みに、新宮殿造営は、景初三年初頭の明帝急逝によって、撤回されていて、魏朝は新帝曹芳の下、服喪に入ったのである。
 そうした情勢下、景初倭使が景初三年六月に帯方郡に参上したとすると、それは、先帝が熱意をこめた東夷招請の余韻に過ぎず、新来の東夷として厚遇された見込みは乏しいと思うのだが、「倭人伝」記事は、大量の下賜物、好意的な帝詔を含め、熱烈歓迎の姿勢である。また、明帝没後の招請とみても、六月到来とは、随分ゆるゆる参上したはずなのに、薄謝と見える細(ささ)やかな手土産の意義が不明なのである。丁寧に説明戴きたいものである。

*「定説」の分別-不合理
 按ずるに、「定説」は、『魏志は、「景初二年六月」に始まる文字列に続いて「郡太守が、倭国大夫を京都(首都雒陽)に送り届けた」と書いている』が、『それは公孫氏討伐の最中の上京であり極めて困難であり、また、遼東陥落、平定後、八月以降になって、はじめて帯方郡を攻略したと書かれているから、「景初三年六月」でなければならない、時間的に到底無理と断じる』と「根拠無しに思い込んでいる」が、以上のように、慎重に読み解くと、そもそも、「定説」のような「景初二年遼東事態」の読み取りは、不合理(人の暮らしの理屈に合わない)である。

 陳寿「三国志」「魏志」の記事に戻ると、「景初二年遼東事態」発生以降、事象の発生時点が明確に書かれているのは、同年十二月に詔書を賜ったという記事だけである。倭国使節である「倭大夫」の帯方郡治到着からの六カ月のどの時点に上京したかは書かれていない。

 サイトの論者は、以下、綿々と自説を補強するように、地道な考察を重ねているが、肝心の基本資料の解釈で、頼りにした翻訳文の解釈に齟齬があれば、いくら丹念にその字面を追って考証しても、「証」(言偏に正しい)とならず、切ない自己弁護、見方を変えれば、ウソの上塗りに他ならない。

*「又」、「さらに」の考察~翻訳者顕彰
 またまた私見を補足すると、「翻訳文」の解釈が、翻訳者の深意を外している可能性も無視できない。論者の日本語文読解力に疑念を呈する次第である。
 按ずるに、翻訳者が「又」を「高度な日本語」に「飜訳」したのに気づかず、素人考えで、つまり、現代語感覚で安易に読解した可能性を感じる。此の際の経緯を見ると、原文から翻訳文に齎された深意が理解されず、論者の思い込みが(化粧品の「コンシーラー」のように装わせ)「糊塗」されたために斯くの如き誤解が生じたと見えるのである。
 多くの支持者に識見を求められている論者は、より高い品格を求められていると思うのである。

 権威のある国語辞典「辞海」の「さらに」、「又」の項には、これらの言葉が、それまでの事項(甲)を受け、「それとはべつに」と新たな事項(乙)に繋ぎ、甲乙並記と解釈することができると示されていて、漢文の「又」の語義を丁寧に引き継いでいるとわかる。本件に関して、翻訳者に、非は一切なく、論者の錯誤と見える次第である。いや、「引き続き」の意を強くもっているのを否定しているのではない。だからといって、「端(はな)から決め込んではならない」という戒めである。

*忍び寄る原文改訂
 この件に限らず、後世史料は、原著者の緻密な推敲を読めないための後世知の推測による改訂の影響を免れず、もともと不確かさを含むとは言え一級史料を、更に不確かさの深まった二級史料を根拠に否定するという、一種、学界に蔓延した悪弊に染まったものと感じる。
 いや、陳寿「三国志」「魏志」の文意を追求すると、原史料の原文が中間段階で善解されて「美しく」整形されて正史編者に伝わった様子が見える例が珍しくないのである。

*「ウソ」と非難する責任
 論者が非難する『古田氏の「ウソ」』も、大抵は、こうした牽強付会の行為と思われる。最初の一歩に間違いがあったのに気づかないでいると、それ以降の強引な考証は、全て自説の誤りを上塗りする「ウソ」になってしまうのである。自縄自縛という例である。
 ただし、そのような悪弊は、論者の独占事項ではなく、古代史世界に限っても、他ならぬ古田氏を始め、類例が山成すほどの普遍的なものである。論者は、暗がりの人影を大敵と断じて激烈に攻撃しているが、人影はご自身の鏡像であり、攻撃は鏡面に反射して自滅になっているのである。

 ここまで書いてきて、念押しするのは、以上の解釈は、絶対の必然ではないということである。論者が、閻魔の代わりに「ウソ」と決めつけて、致命的な大罪と一方的に断罪・裁定しているから、そのような告発は冤罪ではないかと正義の裁きを訴えているのである。

 同サイト論者のように、「ウソ」を断罪するのに性急となり、「俺がやらなきゃ、誰がやる」とばかり、正義の味方を気取って斬りまくるのは、往年のチャンバラ時代劇のパロディーのようである。因みに、その主人公は、「公方」様であるから、斬るのでなく峰打ちであるが、護衛のお庭番は、ざくざく斬ったから、正義(成敗/Justice)もいい加減である。

 それにしても、当ブログ筆者も同病の患者であるので、全貌に目の届くような些末事項の批判にとどめて、余り踏み出さないのである。
 言うまでもなく、「古田氏の著書の読者は、書かれている全てが正確な論考だと信じ込んでいるものばかりではない」と思うのである。反対者も、同断である。それにしても、論者は、「古田氏の著書」全巻を、余さず読み尽くして論じているのであろうか。それは、大変、大変、大変ご苦労なことである。 して見ると、一言で論じることなどできないと理解されていると思うののである。大変もったいないことである。
 一度、早計な感情論を鎮めて、せめてお手元に蔵書されている原資料の読み返しをされたらよいと思う。

 氏の令名故か、同サイト論者 氏の論義を引用している近例があるから、後世に悪名を残さないように、是非、御再考いただきたいと思うのである。随分ご無沙汰の本稿に手を入れたのは、近来、参照されている通行人がいらっしゃるからである。

以上

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』安本美典批判 三新 3/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11 2024/01/21
◯始めに
 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。
 また、この議論は、すでに公開した古田武彦氏に関する議論より先にまとめたのだが、ここで打ち出されているのは、安本氏の論説に対して誤りと言い立てるものであるのに対して、古田武彦氏に対しては、「嘘つき」との糾弾であり、そちらの公開を先行したものである。  

 安本氏の「数理歴史学」の誤り

 前回記事も含めて、この場で述べたいのは、学術的な「論争」のあり方というものである。
 世の中には、様々な個人的世界観、ものの見方の基準があって、その基準が一致していないと、正誤、適否の議論は成り立たないと言うことである。まして、対手を、罵倒、つまり、誹謗中傷するのは、到底許容されないのであるが、古代史学では、さながら冬空のオリオン星座のように「馬頭星雲」ならぬ「罵倒星雲」が邪悪な光芒を示しているので、大変、勿体ないと思うのである。

 いや、そうした議論が、論争相手(論敵)を論破して意見を改めさせることであれば、意味がある。しかし、その際に、自身の論理の当否に目を配ることなく、勢いよく主張するのが最善策ではない。大半の場合、論争とは、検証可能な主張を積み重ねて、小さな勝利を積み重ねるのが正道と思う。
 陳腐な一般論であるが、論争で、相手の立脚している論理を頑強に否定するだけであれば、それは、単なる言い争いであって、大局的に不毛であると考えている。当人にも不毛と思うのだが、それは、当人の問題なので当方は干渉しない。

*批判の対象
 ここでは、論者たるサイト管理者(論者)が、安本美典氏を論破しようとしている、その足取りと口ぶりに対して批判を加えたい
 毎度のお断りであるが、当ブログ筆者は、批判対象となる記事の内容に対して、素人の知識をもとに反論しているので、その範囲は、ここにあげた記事の範囲にとどまっている。

 さて、切り出しでは、文芸春秋氏の座談会記事に於ける安本氏の発言を引用して批判のにしたいようである。しかし、これは「原文引用」なのか、論者の要約なのか不明であり、当記事に反論するのに不便である。
 また、当の雑誌記事は、もともと、座談会録音のテープ起こしであろうが、ここから感じ取れる口調や論理性は、安本氏の論そのものとは言いがたいものがあり、テープ起しの際の編集と感じるのであるが、確証はない。

 引用の直後に示されている数理統計学的年代論」のエッセンス」というのは、論者の意見であり、安本氏ほどの権威の言葉遣いが揺らいでいるのではない、つまり、当人の発言ではないように見えるのが気がかりである。

 安本氏も、いくら持論の発露とは言え、座談会記録を、自身の信念というか持論のエッセンス、決定版とみなして、反論できない弾劾、斬られ役に持ち出すのは、勘弁してくれよと言いたいところであろう。

*弾劾の迷走
 その直後に、サイト管理者たる論者は、「安本氏の四つの過誤」(と、便宜上呼ぶことにする)を書き立てて、従って、安本氏の主張は、「数理統計学」とは「無縁」であると断言している。仰々しく掲題しておきながら、安本氏の主張の誤りを論証するのではないと言う。随分、杜撰である。

 ここまでの一瞥で、古代史学で、健全な議論のお手本を探し求めている当ブログ筆者は、論者は無縁の衆生として、きびすを返しても良いところである。以下は、当人の言いたいままにほっといたらいいようなものであるから、色々意見するのは、単なる余計なお節介である。

 さて、この4項目に書かれている主張を論破するのが、論者の目的と宣言しているものなのだろうか。「被告」と「罪状」が明らかにならなければ、「陪審員」も意見を出しようがないのである。

 さらに戸惑うのだが、本論は、「安本氏の「数理歴史学」の誤り」を論証するようにと題付け(仰々しく掲題)されているのではないか。論者は、どのような視点から安本氏の「数理歴史学」と数理統計学」との有縁、無縁(非科学的な論争用語ではないか)を言い立てているのだろうか

*とんだとばっちり
 続いて、今度は、安本氏が旧著で、自身の提唱した論考のあらましが、先人である栗山周一氏の著書にすでに同趣旨の年代論が発表されていたことを知って嘆息したという記事を参照して、嘲笑に似た批判を行っている。
 しかし、安本氏の論理の誤りを追究するはずの論説で、安本氏の感慨吐露をを、他人の視点から勝手に推察して批判するというのは、論争の余談として、まことに不適切である。
 個人的な意見や感慨は、その個人の世界観を示すものであり、個人個人の世界観はその個人の自由なものであるが、広く共感を求めるために書き記すのであれば、広く通じる論理に限定すべきではないだろうか。

 ちなみに、安本氏の記事の引用の後に、「栗山氏の時代には、コンピューターはおろか、電卓もありません」と先人の知識、技能の欠落を嘲笑する文字が綴られているが、昭和初期にも、算盤はあったし、数値の四則計算に始まって、対数、三角関数表など、科学技術計算の手段は整っていたのである。
 江戸時代の算額の例を見ても、当世の素人の知り得ない高度な数学理論が生きていたのである。
 古代史分野では、直感的断定法(安楽椅子探偵)が優越し往々にして無視されるが、不確かさ含む断片的データに立脚する論理的思考法も、整っていたのである。

 「栗山氏が洞察、大局的な着眼によって見出し、着々と辿った論旨を、後生の安本氏が、コンピューターと統計学を駆使して、そうとは知らずに辿っていた」との感慨は、先人の叡知を称えると共に、そのようにして論理的に辿られた主張が、学界の大勢に正しく評価されることなく、地に埋もれていたことに対する嘆きであるように思うのである。

 未踏の秘境と思っていたら、先人の足跡が知られないままに残されていた事例は、皆無ではない。概して、謙虚な後人の姿を描くものである。
 本論部分ほど精査されていない余談部分に論者の理性の限界が現れるというのは、一種の真理のようである。

 さて、「嘆息」の無様さの非難に続いて、論者が展開する下記「安本氏の四つの過誤」(繰り返すが、これは当ブログ筆者の造語である)論の第一項が展開される。
 (イ)奈良7代70年と吹聴する誤り
 (ロ)天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り
 (ハ)天照大神を用明天皇より35代前とする誤り
 (ニ)35代前が推測できるとする誤り

未完

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』安本美典批判 三新 4/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11 2024/01/21
 安本氏の「数理歴史学」の誤り

承前
 さて、「嘆息」の無様さの非難に続いて、論者が展開する下記「安本氏の四つの過誤」(繰り返すが、これは当ブログ筆者の造語である)論の第一項が展開される。
 (イ)奈良7代70年と吹聴する誤り
 (ロ)天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り
 (ハ)天照大神を用明天皇より35代前とする誤り
 (ニ)35代前が推測できるとする誤り

「(イ) 奈良7代70年と吹聴する誤り」
 と、なぜかひねくった言い方である。これでは、安本氏がえらそうに吹聴するのが悪い、という不作法の指摘となってしまう。この項のどこが、批判対象である安本氏の持論であるか、不明確なのである。なぜ、真っ直ぐに論理の不備を指摘しないのか、不可解である。当ブログ筆者は、安本氏と面談した経験はないが、氏は、それほど不作法なのだろうか。
 ちなみに、論者は項目で「誤り」と糾弾していながら、本文では、「よくない」といやに軟弱になっている。怒鳴った後、猫なで声というのは、うさんくさいものがある。

 また、論者が、重大な論拠として参照するのは、誰が見ても場違いな中国諸王朝の歴代皇帝の在位年数であり、これは、いったい何だと言いたいところである。

 更に続けて、4王朝通じて、38代395年が平均10年になっているとした後、個々の王朝を見ると、平均10年になっていないと指摘をしている。それがどうしたと言いたいところである。

 更に更に続けて、従って、奈良7代70年というのは、たまたまであって、その点を「吹聴」するのは、一種「ペテン」であると非難している。
 「たまたま」であろうとなかろうと、歴史的事実であり考察の材料となるデータである。
 こうした一連の駆け足の論理が、「安本氏の提唱が誤っている」ことの論証になっていないのは明白である。

 まして、「吹聴」という、いわば当然の行為を誤りと主張したり、果ては、一種の「ペテン」である、つまり、安本氏はペテン師(嘘つき)である、と非難しても、何ら、科学的な議論に寄与しないことは明白である。

「(ロ) 天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り」
 今度は、比較的真っ直ぐに、安本氏の論理の誤りを問うものになっている。
 と言うものの、安本氏が「必然性」を主張したと糺しているのは、見当違いというものである。「と仮定すると」と明言されていても、引き続いて、一々の断り無しに書き連ねていると、結論が「一致している」と断定しているようにみえるものの、仮定を承けているので、実際は、「ように見えます」と付け足して読むのが、解読の常道のように思う。

 ということで、安本氏の主張は、全て、統計学的なものであり、ぼんやり読むと断定しているように見えても、すべて「確かさ」(不確かさ、すなわち誤差)の込められたものであって、「必然」を主張しているものでないのは明らかである。
 特に、統計学は、知的な裏付けのある「臆測」の学問であり、「断定」「独善」でないのは、常識ではないかと思われる。

 同時代の日本人の著述を、適確に読解できないとしたら、古代史史料の読解など覚束ないと見るのである。つまり、論者は、自分で自分の品格を落としているのである。くれぐれも、ご自愛頂きたいものである。

 論者は、ここで、知る人ぞ知る半島古代史史料「三国史記」を援用して、三国の王の平均在位年数が、「奈良時代の平均10年」を大きく超えているから、「安本氏の推計」(断定と言っていない以上、安本氏の言い分は読めているように思うのだが)が無意味であることは、議論の余地がない、と言い切っている
 しかし、大事な論証で、そんなに性急に断定して、糾弾に走るべきすべきではなく、何事も、まずは、当人と議論すべきだと考える。

 この項目について言えば、双方が依拠している史料は、それぞれ「ある程度」の信頼に耐える程度のものであり、それぞれの推論の立て方に客観的に異論がある以上、議論は必須と考える。
 「三国史記」が信頼に耐えるかどうかは、史料批判への疑問であり、それは、「日本書紀」等への史料批判を問うから、実に多大な論義が派生して収拾が付かないので、ここでは言及しない。

未完

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』安本美典批判 三新 5/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11 2024/01/21
 安本氏の「数理歴史学」の誤り

承前
 こうして四大項目の最初の二項目で論者の荒っぽい、と言うか、論者の荒れ狂った言い分の是正にくたびれてきたので、以下の項目については批判しないが、素人目にも、それぞれ「誤り」を指摘されている項目は、安本氏が、自身の採用した仮定とその展開の帰結を表明しただけではないかと思われる。
 推論の展開に使用した仮定に同意できない(気にくわない)と言って、採用手法を否定するのは、お門違いである。まして、ペテン呼ばわりは、いただけない。ご自身に、たっぷりとおつりの返ってくるものである。

 『「安本氏の議論は独善、従って、一顧だにすべきではない」と言いたい』のであれば、自身は、それに、自家製の手前味噌の独善で対抗するのでなく、筋の通った、客観的な論理を貫くべきだと考える。
 特に、「独善」、つまり「孤説」であることをもって、その節の当否を判断するのであれば、世の論客は、論者自身はもちろん、当ブログ筆者を含めて、全員ゴミ箱直行である。「一顧だにすべきではない」と断定しているが、論者のご提案の趣旨は、貴重な意見であるが、その正鵠については、深く読解した上で広く確認する自由を持ちたいものである。「また一つの独善」とまでは言わないとしても、

 例えば、締めの部分で、『たとえ古代天皇の平均在位年数が10年であったとしても、特定の天皇から35代前の年代を推定することは意味をなさないのです。   この事実を無視した安本氏の年代論は、邪馬台国ファンを惑わす、「似非数理統計学的年代論」と弾ぜざるをえません。』と痛打を加えようとしているように見える。
 しかし、素人目にも、統計学的手法によって、既知の年代のデータをその範囲外に適用する「外挿法」による推定は、元々、法外に不確かなものである。公の場で提唱されるのは、有効であると自信のある場合だけであろうから、大抵の場合は、推定不発、それも、極めつけの大外れになるものである事は、自明であろう。

 しかし、元々、古代史にまつわる諸説は、おおむね不確かであるとしても、一部に何らかの確かさを含んでいるから、はなから否定することはできないものである。そういうものである。

 それでなくても不確かさを含む推定を、遠く時代を遡って、推定の対象となる天皇に至るまでの遡及代数が増えれば、推定に含まれる不確かさが急速に増大するのは、一般論という名の常識的な推定である。ただし、一般論は、それ自体、ある程度の不確かさを含むものであり、絶対普遍の必然ではない。
 都合の良いときだけ、当てにならない一般論を振りかざして、「安本氏の年代論」の全体を否定するのは、無理(物事の道理に反する)というものである。

 結論として、当論考は、安本氏の主張、ないしは採用手法を誤りとする命題を掲げながら、それを論証するものでなく、単なる持論の披瀝にとどまっていると考える。それなら、自滅に近い誹謗は、止めて行いた方が賢明というものである。

 論者には、性急な断定を誇るのではなく、自制を促したいと思う。
 安本氏の年代論を専門的に精査した上で、「似非数理統計学的年代論」と異端視するのであれば、論者の言う正統派の「数理統計学的年代論」を披瀝いただきたい
ものである。

 一介の素人である読者としては、学術的な議論、討論を、言葉や論理を駆使する公開格闘技試合になぞらえるなら、反則技の多発する格闘は、趣味ではないので、ご勘弁いただきたいのである格闘技ファンなら、場外乱闘や反則技も楽しめるかも知れないが、観客は、そうした感性の持ち主ばかりではないのである。

 言うまでもないが、当ブログ筆者は、安本氏の言い立てる年代論に全面的に賛成しているものではない。
 いや、安本氏が編集した雑誌「邪馬台国」の掲載記事や安本氏が主催するサイト記事に対して、不満、不安を感じることが、しばしばあるが、あくまで、個別の記事の誤りや論理の部分的なほころびを指摘するだけである。
 一方、不確かさを含む資料を利用して極力不確かさの露呈しない推定を組み立てる論説の進め方には、基本的に賛成している。

 世の中には、自身の気に入らない主張を打ち出している論考は、論考の結論に反対するだけでなく、論証仮定に採用された技法まで、丸ごと否定する向きもあるようだが、それは、「ファン」としての感情論であって、科学的な思考ではない。

 ちなみに、論者のサイトには、色々、古代史分野に於ける糾弾記事が多数掲示されている。費やされた労力と時間、そして、それを支える使命感に対しては、賛嘆を惜しまないが、掲示されている記事が、悉く、数回の記事を費やして批判したような、思い込みで書かれた、論拠の不確かな、無用に攻撃、断罪する記事でないかと推定される。折角の労作が、ただの「猫またぎ」になりかねないのである。

 となると、そうした記事を解読しようとするのは、時間と労力の無駄なので、以下、科学的議論とは「無縁の衆生」として「一顧だにしない」事になる。いや、ネットの世界には、サイトの記事の「味見」をしただけで、余りの独善さと棘の多さに辟易したサイトも多々あるから、別に、ここにあげたサイトだけ別待遇というわけではない。

以上

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』小松左京批判 三新 6/6

                          2016/08/18 補充 2022/12/14 2023/03/11 2024/01/21
◯始めに
 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。

***引用開始****
第一部 邪馬台国ファンを惑わす誤り
 2.古田武彦氏の説の誤り
  2-2 古田氏によるミスリード 

角川文庫に収められた、古田武彦氏の著書『「邪馬台国」はなかった』のカバーには、「古代史論争の盲点をつく快著」と題する、作家小松左京氏の推薦文が載っています。

古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を最初に強くすすめてくれたのは、
文化人類学者の梅棹忠夫先生だった。
―― 一読して、これまでの論議の盲点をついた問題提起の鮮やかさ、
推理の手つづきの確かさ、厳密さ、それをふまえて思い切って大胆な仮説を
はばたかせるすばらしい筆力にひきこまれ、読みすすむにつれて、何度も唸った。
何よりも、私が感動したのは、古田氏の、学問というものに対する「志操」の高さである。
初読後の快く充実した知的酩酊と、何とも言えぬ「後味のさわやかさ」は、
今も鮮やかにおぼえている。

こういうのを、絶賛というのでしょうが、小松氏は、まんまとごまかされたのです。
***引用終わり***

 いや、説得しても聞き入れてもらえない状態で、言い足すのも何なのだが、やはり、人の道として見過ごしに出来ないので、付け足すものである。所詮、個人の意見は多種多様、言論の自由、表現の自由もあるので、当方の意見を聞き入れよと言うつもりはないが、率直な批判をさせて頂くのである。
 言うまでもないが、当方にこの件に対する反論をコメントで寄せられても、対応、公開は、保証しないことを申し上げておく。

 当ブログ筆者が、何か言わずに言われなかったのは、古田氏著書に小松左京氏の推薦文が入っていたことについて、小松左京氏の見識を誹謗するサイト記事だからである誹謗中傷は、学術的議論に於いて、断然、排除されるべきであると考えるのである。

 それでなくても、一般論として、自分の理解を超えた意見について、十分理解することなしに、嘘つきとか詐欺師とか、度を超えて誹謗・罵倒するのは、好ましくないのは自明と思うが、「小松氏」が「古田氏」の著書に対して、趣旨を十分に理解し、共感を示す個人的な感想を述べているのに、第三者が「小松氏は、まんまとごまかされた」などというのは、誰が考えても行きすぎと思う。

 小松氏は、サイト管理人と古田氏の「私闘」に直接関係のない局外者である。推薦したとは言え「腰巻き」をネタに個人攻撃されてはたまるまい。また、故人となって久しいので、当人には反論も出来ないのである。

 当方の知る限り、小松左京氏は、博識で万事に豊かな見識を持っていて、他人の所説に対して上っ面の感触だけでのめり込む人ではなかった。年来の知人であっても、社交辞令に美辞麗句を連ねる人ではなく、著書に不満の点があれば、相手の逆鱗に触れるのを怖れず率直に批判する人であったと思う。不審であれば、小松左京氏の著作を熟読してほしいものである。

 古田武彦氏の「邪馬一国の道標 」(ミネルヴァ書房 2016年1月復刊版)の巻末に両氏の対談が収録されているので、それぞれの見識を確認されたらどうだろう。小松左京氏と古田武彦氏は、それこそ長年の同志であり、互いに相手の内面を知り抜いている間柄だったのである。聞きかじりでどうこう言っていたのではないのである。

 当ブログ筆者は、知識、見識、向上心の全ての面で、二人の域には大分というか到底というか及ばない。二人とも故人となっても、後進のものに到底追いつけない先駆者と思うのだが、もちろん、その意見を押しつける意図で言っているのではない。一度、自分の意見が妥当なものかどうか、よく考えて欲しいと言うだけである。

 ついでのついでだが、小松氏共々、だまされたことになっている「文化人類学者の梅棹忠夫先生」は、未知、ないしはそれに近い、往々にして未開の人間社会に入り込んで、大量の現場情報を採取し、それに基づいて、当該社会の「文化」を読取り、絵解きする学問分野「文化人類学」の大家であり、生のデータの山から「事実」を読み取るかたであった。古代史学の先入観を押しつける姿勢と対極の人であった。

 我々一般人はともかく、梅棹、小松の両氏ほどの知的な巨人達ををだますのは、とてもとてもできないことだと思うが、そう思わないと言われたら何も言い足すことはない。付ける薬がないのである。

 思うに、この部分を削除してもサイト記事の威容を損なうものではないので、削除した方が良いのではないか。
 いや、当方如き素人が、あれこれ指図することはできないのだが、

以上

*誤字訂正など     2018/01/09

2024年1月17日 (水)

今日の躓き「医師」 毎日新聞 早川智 「偉人たちの診察室」の迷妄

自身を鼓舞する赤の効果                            2024/01/17

 当記事は、本日付毎日新聞大阪朝刊13版「総合」面の囲み記事「偉人たちの診察室」の批判である。
 不思議なことに、当記事は、毎日新聞ウェブサイトの下記記事と大きく重複しているが、当方は、同日近傍の新聞記事を保存していないので、どうなっているのか不審である。

偉人たちの診察室 赤備えは男性更年期対策になったか 真田幸村
早川智・日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授 2023年12月7日

◯はじめに 誰の診察室?
 今回は、コラムタイトルの不審を糺すところから始まる。
 「偉人たちの診察室」と書かれていると、ふつう、「偉人たち」が診察する診察室と見える。
 早川氏は、医師免許をお持ちなのだろうが、読者が気づかないのを良いことに、ご自身を「偉人」と称しているのだろうか。随分、不用意である。宮沢賢治の「注文の多い料理店」ではないが、食うか、食われるか、えらい違いである。

 次いで、「早川診察室」の医療行為であるが、実際に患者がやってくるわけでも無く往診するわけでも無く、患者の病状を知る根拠は、大した根拠のない風聞に近いものであるから、ある意味、氏は、姿見の前に立って、ご自身の鏡像を診断しているとも見える。これは、正当な医療行為なのだろうか。当方には、医者を選ぶ権利があるので、患者のプライベートな事項をしたり顔で全国紙に書き散らす医師は、ご遠慮したいものである。

*根拠なき放言の羅列
 氏は、学術的な根拠と擬態した風聞をもとにもっともらしく診断しているが、科学的に「無意味」(不合理)では無いかと思われる。
 『2004年アテネ オリンピックにおける「レスリング、ボクシング、テコンドー」においてウエア(ママ)の色彩と勝敗に相関関係があった』という趣旨であるが、なぜ、柔道が無いのか、卓球、バドミントン等が無いのか、不審である。
 氏は、大上段に「統計的に有意」と称しているが、随分偏った少数の事例であり、しかも、前後の大会でどうだったか検証もされていない。「統計的に有意」がどんな根拠で主張されているのか不審である。

 素人考えだが、「ウエア」の色彩は、ほぼ、相手方のものが目に付くのであり、見当違いの仮説を見当違いの手法で検証した可能性が高い。このような仮説は、先に言ったもの勝ちで、検証も、反論もされないのだろうか。世上の噂では、凡そ、どんな分野でも、新説の90㌫以上が、「フェイク」ないし「ジャンク」であり、誰か奇特な方が、毒味した後で、様子を見て取り組んだ方が良いということである。

 世間は、早川氏のように、目新しい仮説に無批判に飛びつく奇特な方ばかりではないと思うのだが、どうなのだろうか。当方は、道端の「落とし物」にかぶりつく趣味はないので、どうにも、非科学的な放談と見える。「おとといおいで」である。

 以下、氏の議論は、不気味なほど「男性専科」であり、「戦意を高めて、理性を曇らせるのは男性のみ」と決め付けていて、性的な公平性に欠ける。問題発言である。して見ると、先ほどの貴重な実証データは、男性なのか、女性なのか、両性を含むのかも、触れられていない。何とも、不用意であるが、毎日新聞に掲載される以上、これは、全国紙としてのコンプライアンス上、問題ないというのだろうか。
 
 現代風に言うと、西洋と東洋では、宗教的な影響もあって、色彩に対する心理的な受容性は大いに異なると思量する。まして、氏が無造作に、「赤」(red?)「青」(blue?)と称しているが、科学的に見て同一の「色」では無いと思われる。随分、杜撰、粗忽で、この上なく非科学的な意見と見える。
 なお、日本国内だけ捉えても、21世紀の若者の色彩感覚と、17世紀戦国末期の「もののふ」の色彩感覚/生死観は、どこが同じで、どこが違うのか、分からない。

*もののふの心意気
 最後に、当の真田信繁が、大坂夏の陣の際、いかなる心意気でいたか、無責任な現代人に分かるはずが無い。端的に言うと、対徳川という戦歴から言っても、「二度の対戦は、それぞれ、非勢の不利な戦であり、勝算は、乏しいものだったに違いない」が、敢然と戦って、勝利したのである。敗死していれば、後生の野次馬に無謀とあざ笑われたはずである。
 少なくとも、真田信繁が、大坂の陣で、氏が素人考えで絶望的と決め付けた戦(いくさ)に挑んだと思うのは、この上も無く失礼である。

 さらに、信繁が赤備えに「陶酔」して、無謀な戦に挑んだというのは、「ドーピング」紛いの狂気の沙汰の中傷/非難であり、これもまた失礼であろう。氏ご自身の「合理」性を、信繁に押しつけるのは、何とも無謀である。確かに、早川氏がいくら全国紙の紙面で誹謗中傷を叩きつけても、信繁から反撃されることは無いのだから、絶対不敗、言いたい放題なのだろうが、「現実に」氏の診察室に信繁を迎えて、このように侮辱を連ねる度胸はあるだろうか。

*早川式「タイムスリップ」待望論
 是非とも、氏の好む「早川式時滑り(タイムスリップ)」で、世界に類例のない氏独自の超技術で時間/空間座標を精密に同調させて、夏の陣冒頭の信繁の陣屋に、ピッタリ乗り込んで欲しいものである。素っ裸なのか、フル装備なのか、電気動力含めて、到着後の顛末は、知る由もない。
 どのみち、「タイムスリップ」は、片道切符であるから、現地で成敗されようが、当世では知るすべは無いのである。「滑り」の果ては、Good Luck, Good-byeで終えておく。

*六文銭の人~往きて還らず
 真田信繁は、身内に本音でぼやくときはともかく、心底の覚悟は、戦場で倒れたときは、「いずれ渡るべき三途の川を、身につけていた六文銭で渡る」という死生観であり、悔いなどなかったと言うべきである。それを「満足」などというのは、後生の野次馬の小賢しい見方に過ぎない。伝統的には、「女々しい」「sissy」と言ったものだが、現今、禁句なので控えただけである。むしろ、「可愛い」、「誠に小人である」と言うべきかも知れないが、当方は他人のPhysicalを論じる趣味はないので撤回する。

以上

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