2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11, 17 2024/01/21
2.古田武彦氏の説のウソ
2-1 景初3年が正しい理由
2.京都(けいと)往還
さて、陳寿「三国志」魏志の飜訳を読んでも、「景初二年六月に倭大夫が帯方郡に来て魏の天子に拝謁したいと申し入れた」と書いてはいるが、それを受けて、即日、洛陽に送り出したわけでないのは自明である。
以下、魏志の少ない文字をじっくり噛みしめてみると、「景初二年遼東事態」(東夷来)の姿が見えてくるのである。
案ずるに、司馬懿は遼東遠征に周到な構想を持っていて、景初二年の春先早々に、ひそかに、海路、山東半島付近から帯方郡に向けて征討軍を派遣し、楽浪、帯方両郡をあっさり攻略した後、直ちに、新たな郡治を設定し、郡太守および副官等の随員をおいたはずである。
(付注 「実際」は、前ページに書いたように明帝曹叡の戦略である。又、景初二年事態と決め付けたのも、当方の浅慮であった)
新たな郡太守は、魏朝の一機関を統轄して、郡の民生を安定・掌撫するものであり、現地軍の編成などにより現地人の戦力を把握すると言う遠征軍務の一環となる任務と共に、遼東平定後の半島南部やその向こうの東夷の教化(文明化)も必要である。
郡太守は、「王」と同格であり、絶大な権限を委ねられていて、多額の俸給(粟)を得るとともに、郡治として城郭を構え、管内を取り仕切る郡兵を擁し、管内で徴税、徴兵などの大権を持ち、事実上、辺境に於いて、「幕府」ないしは「都督府」を開いていたのである。ただし、公孫氏が後漢の郡太守であった時代、遼東郡は、いわば、一級郡であったが、楽浪郡、帯方郡は、その配下の二級郡であり、俸給も権限も制約された「格下」であったのである。それが、明帝の指示で、一級郡に格上げされ、「韓濊倭都督」と言うべき大きな権限を与えられたと見るのである。
合わせて、過去、公孫氏が山東半島の「齊」を占拠した際に活躍した楽浪郡も、皇帝直轄の一級郡となり、公孫氏は、山東半島への輸送経路を喪ったのである。
楽浪/帯方郡は、一級郡となったものの、あくまで、郡太守は皇帝の配下であり、少なくと、月次の活動報告を欠かすことはできず、業績評価自体で、一片の帝詔で更迭、馘首することができたものである。何しろ、山東半島経由とは言え、雒陽との間は、騎馬の文書使が速報するから、国内の諸郡と等しい管理体制にあったのである。
以下、私見を述べると、遼東への速攻体制を確保したのは、前回紹介した中原状勢への配慮もさることながら、遼東での戦闘が長期化して、現地の早い冬が来ると、冬将軍には勝てずに撤退が予想されたのも大きく影響しているものと思われる。
それでは、司馬懿の地位が危ういどころではなく、敗戦とみられると一族もろとも死刑、一族滅亡となるのである。軍人は、敵に殺される危険だけでなく、味方からも命を狙われていて、命がけである。
もちろん、司馬懿は、小心を装って、戦の責任が一身に降りかからないように、しばしば、洛陽に急使を送って、作戦行動の許可を求めていたが、皇帝に責任を転嫁するということは、敗戦の際、皇帝が非難されるのであり、公孫氏討伐の失敗が繰り返された果ての大軍派遣であるから、明帝自身、多大な責任を負っていたことになる。と言うことで、司馬懿軍の進軍と並行して、両郡回収を図ったのは、天子たる明帝曹叡の当然の大局的戦略と推定できる。
ともあれ、皇帝の秘策であった楽浪/帯方両郡の収容により、遼東に向けて北上する部隊は、後方から襲われる不安がなくなり、遼東挟撃に大きく寄与したと思われるのである。
そのような新体制「帯方郡」の初夏に、海・山、つまり、海峡渡海と竹嶺の難所を含む内陸街道を越えて倭使が到着したわけである。
定説では、倭使派遣は、公孫氏滅亡の知らせを受けたものと見られているが、そのような超時代的な情報収集能力を想定するよりは、帯方郡から、新体制確立の告知と共に、自発的な遣使を求めた/指示/厳命したものと見る方が、随分、随分自然である。
当然、知らせには「遅れて至るものは討伐する」程度の威嚇は含んでいたであろう。そうでないと、重大な使節にしては、倭国遣使の貧弱な献上品と手薄な使節陣容がうまく説明できないのである。まして、長年、遼東の支配下にあって、中国本土との交信が閉ざされていたのに、いきなり、魏朝の天子に会わせろ、と進言したというのも、奇妙な話である。これも、魏朝側から、「洛陽に飛んでこい、謁見した上で褒美をやる」と呼びつけたとみる方が、随分自然である。いや、事の流れを見ると、単に、郡治まで出頭せよと指示しただけで、洛陽で天子に拝賀できるなどと言っていなかったとも見える。正史の記事として書いていることが、そのまま、事実の報告とは限らないのである。
ともあれ、太守の初仕事でもないだろうが、洛陽の魏朝に「倭国」の来歴、女王と大夫の身元確認などを報告して、東夷使節の魏都訪問、拝謁を賑々しく稟議し、太守自身の功名を盛り立てると共に、上京、謁見の可否を問い合わせたはずであり、皇帝の裁可を得て、魏朝側から旅程の通行許可証と各宿駅での宿舎の提供を認める通知が届いたはずである。
恐らく、「倭人」召喚は、明帝曹叡の意図であり、従って、迅速な通知となったはずである。
最速で折り返したとしても、郡の通知から使節の郡治到着までには数ヵ月かかったと見た方が良いのではないか。その頃であれば、残敵掃蕩も終わり、遅滞なく洛陽まで移動できたと思われる。「倭人伝」には、郡倭行程は、片道四十日程度と書かれているが、これは、文書の送達日数であるので、倭使の参上には、これより日数がかかったかもしれない。ただし、倭が筑紫であれば、さほど無理のない行程と見える。
もともと、倭使の行程は、遼東を一切経由せず、黄海を渡船で渡って山東半島東莱に上陸し、以下官道を急行したのであり、一部軽薄な論者が言うように、遼東の混戦に巻き込まれることなどなかったのである。帯方郡太守が、戦地に向かって北上させ、大きく行程を迂回させるような無謀な指示を出すことはあり得ないと、一人前の研究者であれば、言われなくてもわかりそうなものである。早々に撤回しないと、本件のように、無辜の素人が惑わされるし、一部にある「明智光秀談義」まで持ち出す論者が出るのである。
受け入れ側にしても、皇帝の厳命があったとは言え、急遽、拝謁儀礼を確認し、詔書や土産物の準備に着手したはずである。
巷説に因れば、その間に、従来の銅鏡に数倍する「質量」(重さ)、(多大の労作である異例の)斬新な意匠の銅鏡を百枚新作し、堂々と「輸出梱包」したことになっているが、そんなことは、少し考えれば「論外」とわかるはずである。いくら、先帝の遺命と言えども、度外れた厚遇にも限度がある。
*大「銅鏡」制作の想定~余談
なお、俗説には、途方も無いホラ話があって、倭使の雒陽来訪の度に、百枚の新意匠の銅鏡が新作/下賜されたと決め込んでいる向きがあるが、厚遇は初回のみであり、特段の厚意を示した明帝の没後、初回同等の下賜物などあり得ない。又、遠隔の東夷は、二十年に一度の
来貢が定則であり、「倭人伝」に書かれているような頻繁な往来は、正式のものではない。
このあたり、「倭に数百枚の魏鏡が齎されたに違いない」という「願望」ばかり語られている例があって、困惑するのであるが、誰も是正しないところを見ると、本件に対する「自浄機能」は存在しないようである。いや、つまらないことに字数を費やしたが、関係ない論者は、さっさと読み飛ばして頂きたいものである。
銅鏡を新作するのであれば、魏朝の尚方(官営の美術工芸品製造部門)は、原材料、燃料の調達、鋳型工、鋳造工急募、本作にかかるまでの試作の繰り返し、長距離水陸運搬に耐える木箱の量産、搬送する人夫の確保、等々、商売繁盛を極めたはずであるが、それには、数年を要するものである。何しろ、後漢末に、一度、洛陽の諸機関は、長安に移動していて、曹操が、建安年間に雒陽の尚方を復興させたにしろ、まだまだ弱体であったはずである。まして、景初年間、明帝が、大規模な新宮殿造営を命じていたから、装飾の銅器を多数制作するのに、全力を費やしていたと見るべきである。
当時の記録を確認すれば、未曽有の大銅鏡の多数(未曽有の大判鏡の百枚は、途方も無い数と見える)新作など、(絶対に)あり得ないとすぐわかるのである。いや、これは、一部、不勉強な論者に対する非難であって、本件に関しては、余談である。
因みに、新宮殿造営は、景初三年初頭の明帝急逝によって、撤回されていて、魏朝は新帝曹芳の下、服喪に入ったのである。
そうした情勢下、景初倭使が景初三年六月に帯方郡に参上したとすると、それは、先帝が熱意をこめた東夷招請の余韻に過ぎず、新来の東夷として厚遇された見込みは乏しいと思うのだが、「倭人伝」記事は、大量の下賜物、好意的な帝詔を含め、熱烈歓迎の姿勢である。また、明帝没後の招請とみても、六月到来とは、随分ゆるゆる参上したはずなのに、薄謝と見える細(ささ)やかな手土産の意義が不明なのである。丁寧に説明戴きたいものである。
*「定説」の分別-不合理
按ずるに、「定説」は、『魏志は、「景初二年六月」に始まる文字列に続いて「郡太守が、倭国大夫を京都(首都雒陽)に送り届けた」と書いている』が、『それは公孫氏討伐の最中の上京であり極めて困難であり、また、遼東陥落、平定後、八月以降になって、はじめて帯方郡を攻略したと書かれているから、「景初三年六月」でなければならない、時間的に到底無理と断じる』と「根拠無しに思い込んでいる」が、以上のように、慎重に読み解くと、そもそも、「定説」のような「景初二年遼東事態」の読み取りは、不合理(人の暮らしの理屈に合わない)である。
陳寿「三国志」「魏志」の記事に戻ると、「景初二年遼東事態」発生以降、事象の発生時点が明確に書かれているのは、同年十二月に詔書を賜ったという記事だけである。倭国使節である「倭大夫」の帯方郡治到着からの六カ月のどの時点に上京したかは書かれていない。
サイトの論者は、以下、綿々と自説を補強するように、地道な考察を重ねているが、肝心の基本資料の解釈で、頼りにした翻訳文の解釈に齟齬があれば、いくら丹念にその字面を追って考証しても、「証」(言偏に正しい)とならず、切ない自己弁護、見方を変えれば、ウソの上塗りに他ならない。
*「又」、「さらに」の考察~翻訳者顕彰
またまた私見を補足すると、「翻訳文」の解釈が、翻訳者の深意を外している可能性も無視できない。論者の日本語文読解力に疑念を呈する次第である。
按ずるに、翻訳者が「又」を「高度な日本語」に「飜訳」したのに気づかず、素人考えで、つまり、現代語感覚で安易に読解した可能性を感じる。此の際の経緯を見ると、原文から翻訳文に齎された深意が理解されず、論者の思い込みが(化粧品の「コンシーラー」のように装わせ)「糊塗」されたために斯くの如き誤解が生じたと見えるのである。
多くの支持者に識見を求められている論者は、より高い品格を求められていると思うのである。
権威のある国語辞典「辞海」の「さらに」、「又」の項には、これらの言葉が、それまでの事項(甲)を受け、「それとはべつに」と新たな事項(乙)に繋ぎ、甲乙並記と解釈することができると示されていて、漢文の「又」の語義を丁寧に引き継いでいるとわかる。本件に関して、翻訳者に、非は一切なく、論者の錯誤と見える次第である。いや、「引き続き」の意を強くもっているのを否定しているのではない。だからといって、「端(はな)から決め込んではならない」という戒めである。
*忍び寄る原文改訂
この件に限らず、後世史料は、原著者の緻密な推敲を読めないための後世知の推測による改訂の影響を免れず、もともと不確かさを含むとは言え一級史料を、更に不確かさの深まった二級史料を根拠に否定するという、一種、学界に蔓延した悪弊に染まったものと感じる。
いや、陳寿「三国志」「魏志」の文意を追求すると、原史料の原文が中間段階で善解されて「美しく」整形されて正史編者に伝わった様子が見える例が珍しくないのである。
*「ウソ」と非難する責任
論者が非難する『古田氏の「ウソ」』も、大抵は、こうした牽強付会の行為と思われる。最初の一歩に間違いがあったのに気づかないでいると、それ以降の強引な考証は、全て自説の誤りを上塗りする「ウソ」になってしまうのである。自縄自縛という例である。
ただし、そのような悪弊は、論者の独占事項ではなく、古代史世界に限っても、他ならぬ古田氏を始め、類例が山成すほどの普遍的なものである。論者は、暗がりの人影を大敵と断じて激烈に攻撃しているが、人影はご自身の鏡像であり、攻撃は鏡面に反射して自滅になっているのである。
ここまで書いてきて、念押しするのは、以上の解釈は、絶対の必然ではないということである。論者が、閻魔の代わりに「ウソ」と決めつけて、致命的な大罪と一方的に断罪・裁定しているから、そのような告発は冤罪ではないかと正義の裁きを訴えているのである。
同サイト論者のように、「ウソ」を断罪するのに性急となり、「俺がやらなきゃ、誰がやる」とばかり、正義の味方を気取って斬りまくるのは、往年のチャンバラ時代劇のパロディーのようである。因みに、その主人公は、「公方」様であるから、斬るのでなく峰打ちであるが、護衛のお庭番は、ざくざく斬ったから、正義(成敗/Justice)もいい加減である。
それにしても、当ブログ筆者も同病の患者であるので、全貌に目の届くような些末事項の批判にとどめて、余り踏み出さないのである。
言うまでもなく、「古田氏の著書の読者は、書かれている全てが正確な論考だと信じ込んでいるものばかりではない」と思うのである。反対者も、同断である。それにしても、論者は、「古田氏の著書」全巻を、余さず読み尽くして論じているのであろうか。それは、大変、大変、大変ご苦労なことである。 して見ると、一言で論じることなどできないと理解されていると思うののである。大変もったいないことである。
一度、早計な感情論を鎮めて、せめてお手元に蔵書されている原資料の読み返しをされたらよいと思う。
氏の令名故か、同サイト論者 氏の論義を引用している近例があるから、後世に悪名を残さないように、是非、御再考いただきたいと思うのである。随分ご無沙汰の本稿に手を入れたのは、近来、参照されている通行人がいらっしゃるからである。
以上