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2024年2月

2024年2月27日 (火)

私の意見 「いたすけ古墳」の史跡 世界遺産から除外提言

                        2019/05/30 2024/02/27

◯「名残」の異物排除の提案 2024/02/27
 同異物は、「現在も濠の中に残されている橋げたは、土取り工事が行われようとしたときの名残です」とされているので、依然として、改善/是正されていない/今後とも改善/是正されないものと見て、苦言を再提案するものです。

*当初公開記事 追記あり
 当記事は、世界文化遺産への登録が勧告されている「百舌鳥・古市古墳群」の中で、「いたすけ古墳」が不適格であることを指摘し、除外すべきと考える理由を述べるものです。

 今回、丁寧に新聞、テレビから情報を収集しましたが、「いたすけ古墳」に、現代の工事用橋の遺物が包含されているのは、世界文化遺産の趣旨に反しているので、一国民として、少なくとも、当該異物は直ちに取り除くべきだと考えます。本来、史跡から排除すべき異物を含めて「史跡」としていることに問題があるのです。

 NHKの番組「歴史秘話 ヒストリア」で、当該古墳の宅地開発事業を差し止めし、史跡としての保存に繋いだ功労者である宮川徏氏が橋異物を保存した趣旨が語られていて、声を上げざるを得ないと感じたものです。いや、番組を製作したNHKが、発言をそのまま報道しているということは、NHKはその主旨に賛同しているのでしょうが、当方は、一納税者として一視聴者として正直に「反対」と言います。

 当時、「遺跡として保存することは不要」とされていた広大な土地に宅地造成する事業は、何ら不法な行為ではなく、そのような大規模な事業投資で、地域振興に貢献しようとした事業者は、公正な視点で見て、むしろ頌えられるべきです。

 結果として、「いたすけ古墳」が保存の価値のある史跡と新たに認定されたとしても、もともと非難すべき理由のなかった純然たる開発行為を、こともあろうに、アメリカ合衆国トルーマン大統領の戦争犯罪(ドナルド・トランプ前大統領の公式発言)』(2024/02/27追記)である)「原爆投下」に例える趣旨で世界文化遺産の一部として後世に残すのは、大変な見当違いであり、例えた方も例えられた方も大変具合が悪いと思います。

 精一杯和らげて言うと、この発言を聞いた原爆関係者は、同古墳群の話題に接する度に、激しいこころの痛みを覚えるのではないかと危惧されます。それ以外にも、この発言は無用の痛みをまき散らします。

 個人的には、そのような意見は脇に置いて、「いたすけ古墳」は「百舌鳥・古市古墳群 」全体の品格を毀損するものであり、少なくとも、史跡でない後世のガラクタは速やかに撤去すべきである』と思うのです。今が最後の機会と思うのですがもはや手遅れかも知れません。その場合は、これが過ちによるものであって、世界文化遺産の一部でないことを示すべきです。

 手短に要約すると、このような現代遺物/異物を取り除く当然の義務を怠っている「いたすけ古墳」は、正統な古代史跡とは言えないので、世界文化遺産登録から排除すべきではないかと考えるものです。

以上

アメリカ合衆国トルーマン大統領の戦争犯罪(ドナルド・トランプ前大統領の公式発言)』 は、とんでもない不法な発言であり、現職大統領の職務上の犯罪は、その時点で、つまり在職中に自動的に免責されるというトランプ前大統領の発言は、せいぜい、合衆国憲法による、言わば国内規定であり、国際法で裁かれる戦争犯罪に対して無効であり、逆に、現職大統領が軍事上の最高責任者として下した決断は、合衆国連邦法によって罪科を問われることはないという程度の一説でしかないのです。いずれにしろ、法的な判断は、賈人が勝手に決断できるものではなく、当然、合衆国司法省の審議が不可欠です。其れが、英語で言う「Justice」なのです。

 「免責」されるとは「推定有罪」の前提であり、原爆投下の最終判断を下した、当時のトルーマン大統領は、後世のトランプ前大統領によって「永遠に反論できない状態で断罪されている」のです。 まことに困ったものですが、この場では、これ以上論義しません。

以上

今日の躓き石 毎日新聞 将棋観戦記の盗用事故「王座戦」ネット中継の「不法利用」 追記

                2023/11/22 追記 2023/11/24 2024/02/27

 今回の題材は、毎日新聞2023年11月22日大阪朝刊12版のオピニオン面に掲載された「第82期名人戦 A級順位戦」 観戦記 第21局の2である。
 正直なところ、将棋棋戦(タイトル戦)の報道は、それぞれの主催メディア(時に、複数メディア共催)が、最優先権を持っていて、第三者の報道には「当然」制約があるのだが、今回は、毎日新聞社の記事に『「王座戦第4局」のネット中継を見ての報道』が、堂々と掲載されていて、不審に思ったのである。

 まず、問題なのは、同棋戦の主催紙、ネット中継者について、報道年月日を含めて書かれていないことである。第三者著作物の引用に不可欠な事項が欠落している。

 次に、ネット中継の画面を見た感想のはずが、観戦記者自身の報道のように書かれていることである。「取り返しのつかないミス」などと、許しがたい論評を付し競合誌の紙面で、主催紙の独占的な権利を大いに侵害している。言うならば、自身の観察ではないのに、臨場感を催していたのである。報道偽造である

 ということで、明らかに、知的財産権の重大な侵害がなされているのである。観戦記者は、王座戦第5局の観戦記を担当する予定だったと言うが、それは、第5局の観戦記を主催紙の承認のもとに主催紙に掲載する権利であり、第三者である毎日新聞に掲載することは認めていないはずである。まして、今回の記事は、観戦記依頼など受けていない第4局であり、これを高言するのは、論外の暴というしかない。いわば、職業上の秘密事項を不当に漏らしたものとも見える。念のため言い置くと、ネット中継は、中継者の著作物であり、それを、自身の見聞のように書くのは、中継者の著作権の侵害であると指摘しているのである。

 続いて、同局敗者の談話らしきものが、堂々と引用されているが、毎日新聞社が、自社の名人戦A級順位戦の観戦記で、自社主催棋戦を高め、他社主催棋戦を貶めるために、敗者談話を掲載するのは、報道倫理に悖(もと)るのではないだろうか。

 常識的に考えて、主催紙がそのような談話の取材を許しているのは、当日の観戦者、報道者であり、時点不明の後日の談話については、「勘弁してくれよ」と思っているはずであるが、談話には話者の記名はないし、談話の語られた日が、当然、タイトル失陥の後日であるとしても、いつのことか明記されていない。
 「王座戦」の価値を毀損することを恐れているはずの主催紙が、前王座が「ミス」を犯したと自認した談話が競合紙に正式掲載されることを許可したものかどうかは、不明である。

 正直言って、棋界、つまり、「世界一の順位戦A級」を占めている「棋界最高位の九段」にしてタイトル保持経歴のあるトップクラスの有力棋士が、「メンタルは他人より強いと自覚してい」たなどと、子供じみた言い方をするものではないと思うのである。「mental」(メンタル)は、体育会系のアスリートの好む恥知らずな言い回しであるが、所詮、名詞でなく形容詞であるし、形の無いものであるから、「強い」、「弱い」は、誰にも知ることができないのは、当然である。
 伝統的な評言としては、「体力」、「筋力」でなく、「知力」が高く評価されるものであり、『「鈍感さ」を誇っている』と聞こえては、甚だ不本意では無いかと思うのである。
 このあたり、他紙の観戦記で持ち出され、主催紙に不利益をもたらすと了解した上なのか、という点も、大変疑問なのである。
 問題の談話が、どのような前提で成されたものであり、どのような質問に対する回答なのか「隠されている」から、当の棋士に対して不当に厳しいかもしれないが、もし承知の上での発言、引用許諾であれば、プロ棋士としての職業倫理の根幹に関わると思えるのである。

 ついでに確認すると、「自覚」とは、何かの資質が劣っていると自認する場合の卑下した言葉遣いであり、あいまって、知性に富んだ一流棋士の口にすべき言葉遣いでないのであり、それでは、観戦記者が棋士の知性を毀損しているのでは無いかと思われる。
 当観戦記は、毎日新聞の看板のもとに、世間に、有力棋士の失言をさらすべきものでないと信じるものであり、この場合、毎日新聞社としては、教育的指導すべきと見るのである。共同主催紙の朝日新聞社は、同一の談話を引用した、同一趣旨の観戦記を載せていないと思うので、困るのである。
 それとも、この程度の「行き過ぎ」は、業界相場で許容されているというのだろうか。日本経済新聞社のご意見を聞きたいものだが、この場は、毎日新聞社の責めを問うものなので、そちらはそちらで確認して欲しいものである。

 以上のように厳密に論じたのは、本日の観戦記の相当部分が、実際の観戦記でない「第三者著作物の不法利用」に占められているからである。毎日新聞編集部は、このような問題を露呈した記事を当然と見ているのだろうか。
 少なくとも、毎日新聞の一読者として、大変疑問に思うものであり、率直、かつ丁寧に「批判を加えた」のである。

以上

追記: 2024/02/27
 当ブログ記事を閲読したと報せがあったので、思いきって、続報めいたものを書くことにした。
 別の対局者の対戦の観戦記であるが、第一譜がとんでもないものになっていたのである。全面的に一方対局者の談話らしきものになっていて、観戦記者は、署名しているものの、記事内容としては、同談話を引用符で囲んでいるだけなのである。報道の原則として、引用符で囲んだ部分は、発言内容の忠実なベタ引用であるので、文責は、全面的に発言者にかかるのである。観戦記者は、「無責任」なのである。
 まず第一に、このように一方対局者の談話をベタで掲載するのは、観戦記として当然のことなのだろうか。通常、読者に対して断りがあるはずなのだが、なにもない。つまり、同対局者が「手づから」執筆したことになっている。つまり、この回の観戦記の著作権は、当然同対局者に帰属するはずである。そのような「観戦記」に対して、掲載紙は、普通に原稿料を支払ったのであろうか。同対局者には、「観戦記執筆」に対する謝礼を支払ったのだろうか。

 つぎに問題になるのは、同対局者は、そもそも、このような形式での談話掲載について了解しているのだろうかという疑問である。談話に署名がないから、無断掲載「とか」も思われるのである。談話内容は、素人目にもかなりの不振と見える当期順位戦の成績について後悔とか泣き言を言っているのではないと思うが、それにしても、道半ばで、言い訳めいたものと取られかねない談話を公開するのが、本意とは見えないのである。

 いや、観戦記者が、目下の星の具合や席上発言について「勝手な」解説を述べるのは、ある程度「飯のタネ」で仕方ないのだろうが、それとこれとは、別義である。それにしても、相手方対局者の談話は、なぜ掲載されなかったのだろうか。何とも、面妖な観戦記である。
 同観戦記は、朝刊に掲載され、毎日新聞社ネット記事でも公開されていたから、当方の指摘が、的外れであったら、反駁いただいて結構である。

 この場で観戦記者名など書かないのは、武士の情けである。当方は、一介の読者であるので、断罪などできないのである。

 いや、同観戦記者は、以前にも、その時点の名人を差し置いて、「目前のA級順位戦勝者が、棋界の最高峰である」という様な書き方で、当ブログの批判を浴びているのである。目立った失態として、すくなくとも三度目であるから、ぼちぼち、ご勇退頂いた方が良いのではないかと思量する次第である。

以上

 

新・私の本棚 糸高歴史部 季刊「邪馬台国」137号 「糸高歴史部座談会~」

 創刊40周年記念号 記念エッセー 第二席 「糸高歴史部座談会 ~邪馬台国はどこにある~」
 短評:「定説」「通説」の軛(くびき)を負う「痩せ馬」(疾走者)の自画像  2023/11/07 2024/02/27

◯はじめに
 記念稿が、『「魏志倭人伝」の文章が間違っている』と書き出すのは、諸先輩の遺産を負わされた不幸と思う。もっとも、「遺産」呼ばわりには、「まだ生きとるわい」の罵声の波が予想されるので、「諸先輩の遺産 (時期未定)とするのが、妥当かもしれない。

*「遺産」の書き出し
 真面目に言うと、掲載誌 季刊「邪馬台国」の40周年記念号の記念エッセイで、栄えある「第二席」を占める「エッセイ」(小論文、作業仮説)は、世評が高い「福岡県立糸島高等学校歴史部」の多年の部活動成果、つまり、諸先輩の尽力の積み重ねを踏まえて、その場に立っている姿を示しものと見られるので、いきなり「魏志倭人伝」誤謬風聞で書き出すのは、実は、不幸な星の嘆きと見える。

 要するに、数世紀に及ぶ「邪馬台国」論争が、挙(こぞ)って『原史料を「間違っている」との風評を談じている』ことの不条理適確に認識していて、しかも、是正していないのが「傷ましい」というものである。

 「倭人伝」誤記文書呼ばわりの根拠なき風評(groundless rumor)に対する反論は、本来は、「邪馬台国」が虚構国名であり、続いて、其の国が「大国」との誤解/幻想が元凶であると「つぶさに」指摘すべきなのだが、前者は、掲載誌が本誌「邪馬台国」なので誌上で主張できないから、当小論文は、後者への反論を浮かびださせるものであり、「壹国」(いちこく)ならぬ「伊都国」(いつこく)が、北に行程を逆行/周旋する行程三国を「一大率」(例えば、難升米は、倭官名で「倭大善中郎將」の巡察/巡回指導によって官制整備していた図式が読み取れるように思う。(私見付け足し御免)。総じて、よくよく読み解けば、随分、健全な意見と見える。

 ネットや俗悪「新書」で、跳梁跋扈している不出来な「陳寿誹謗風説」の暴論と一線を劃しているのは、見事である。

*「倭人伝」を尊重する解釈
 それにしても、以下、冒頭提言に縛られつつ、「魏志倭人伝」の『現代東夷流解釈、つまり、本質的な「誤解」』に基づいていても、原史料を離れない地味な議論が進むのは、ある意味、誠に傷ましいものであった。それにしても、間違っている」との「通説」に、これほど世上の注目を集める栄えある場で、ある意味堂々と背くのは、良い度胸と言える。立ち上がって、ただ一人拍手喝采(Standing Ovation)である。
 糸高歴史部の誰かが、ここに示された達観を追求していくことを望むだけである。

*禁じられた質問
 もちろん、正直に筋を通すと、国内史学界で生存できないので、素人論でしか述べられないのだが、うして『「魏志倭人伝」の文章が間違っている』と断定できるのか、素朴に初心を追求するのが、生活のかかっていない高校生の史学研究の第一歩のように思うのである。

◯まとめ
 国内史学分野の底辺/後尾/残泥から延々と巻き起こる「陳寿」罵倒論は、どうも、高校生の初学レベルでも感じ取れる「陋習」のようだが、それが業界相場であってみれば、これに逆らうと、国内史学界での生計に支障が出るので、大人(おとな)は擁護/追随/固執せざるを得ないとも見えるのである。
 それが、浮世の習いというもので、誠に嘆かわしいのだが、その点、当方のように、一介の素人で生活のかかっていない小人(こもの)しか筋を通せないと思うので、このような拙文を残しているのである。

 おかげで、こてこての業界人に「おれたちの商売の邪魔をする奴」と言う趣旨で「一利なし」と誹られ、堂々と妨害工作を仕掛けられているが、非営利の素人であるから、利害を問われるのは単に不快なだけであり、別に、他人の儲けがどうなろうと関心ないのである。

 樹木は、芽生えて根ざす土地を選べない、とは、古人の箴言であるが、長大/成人は樹木ではないので、率直/正直に自分の立脚点を変えられると考えるのである。各位に於いては、所属組織の目先の利害に囚われることが、本当に、ご自身の使命なのか、再考いただきたいものである。いや、これは、「糸高歴史部」の現役部員を問い詰めているものではない。世に出た諸先輩の姿を示しているだけである。

                                以上

2024年2月26日 (月)

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 1/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行   初出 2020/04/10 補充 2020/06/23 2024/02/26
 私の見立て ★★★★★ 豊穣の海、啓発の嶺

〇はじめに
 以下は、古代史における不朽の名著の裳裾の解れを言い立てているに過ぎません。多年に亘り広範な史料を渉猟し、雄大な構想のもとに展開された歴史観ですから、一介の素人は、その一部すら考証する力を有さず、たまたま、氏の学識の辺境に、思い違いを見つけて指摘するだけです。
 本記事は、単に、氏が陳寿の東夷観の由来と見た漢書西域観の勘違いを言うものです。

 いうまでもないと思いますが、巨大な山塊に蟻の穴があっても、山塊の堅固さに何の影響も無いように、ここに挙げた「突っ込み」は、氏の名著の価値をいささかも減じるものではありません。

 「余談」としたのは、氏の見解に関係しない勝手な余談論議です。

〇漢書西域観
 後漢の史官班固が編纂した漢書は、「西域伝」を設けて、高祖から王莽に至る歴代の西域交渉を、国別に、いわば小伝を立て、主要国については、小伝内に年代記として描いています。漢書「西域伝」の書法は、陳寿「三国志」のお手本であり、後世人も、大いに学ぶところがあるのは、言うまでもありません。

〇「東夷伝」序文考
 氏は、「東夷伝」序文を引用したあと、漢書「西域伝」の言として、「安息国長老」の言を漢書から引用しています。しかし、「東夷伝」序文に、魏代事績として再々奉献と列記された西域大国に「安息」の名はありません。ちぐはぐです。

 序文を少し戻ると、武帝が張騫を西域に派遣した結果、西域諸国との交通が開き、各国に百人規模の使節団を派遣して、服属ないしは通交を求めたため、得られた各国情報が漢書に記されたとしています。よくよく考えると、漢書に魏代記事があるはずは無く、陳寿の知識がどこから来たものか、一瞬戸惑います。東夷伝を見ると、当時、後漢代史官記録は、いまだ公式集成されていなかったと見えます。そんな状況で、「東夷伝」序文の出典として注目されるのが、末尾の魚豢「魏略」西戎伝です。
 劉宋史官裴松之が、陳寿「魏志」に全文を補注したのでわかるように、魚豢「魏略」は公式史書に準ずる権威が認められ、陳寿も、序文を書くに際して参照したと見られるのです。

〇印綬下賜談義 余談
 「通典」収録の漢代記録によると、漢朝は、反匈奴勢力拡大のためか、来朝使節の低位者にも印綬を下賜したと言います。ということは、漢朝を再興した後漢朝が、地域を代表する大国以外に、付随する小国にまで印綬を下賜した可能性はあり、その後継たる魏朝も、闊達に下賜したようです。
 というものの、陳寿が、「東夷伝」序文に挙げた魏代西域交流が事実なら、魏志特筆の大月氏への黄金印下賜は場違いです。漢武帝時代以来欠かさず遣使していたお馴染みが、長年ご無沙汰(絶)としていた後、忽然と洛陽に顔を出したのなら、本来過度の厚遇は不要です。

 総合すると、実は、序文記事は、史官として苦心の粉飾で、桓・霊以来、西域との音信不通、交通遮断の魏朝にとって、この来訪は干天慈雨だったのでしょうか。としても、さすがの陳寿も、この一件だけでは、魏志「西域伝」の書きようがなかったのでしょう。

*金か「金」か 余談
 多発されたのが、黄金の金印か青銅印か不明ですが、大半は、太古以来「金」と呼ばれていた青銅でしょう。皇帝付きの尚方工房は、大物も交えた精巧な青銅器を日々鋳造していたから、印面はともかく、四角四面の角棒に紐飾程度の作品は、茶飯事でしょう。材料は倉庫に山積みだったでしょうし。
 それはさておき、「陳寿は漢書を意識した」の段落には、これまで取り上げられなかった、魏略「西戎伝」の影響の再評価が必要です。何しろ、魏志「夷蕃伝」に対する裴松之付注、「裴注」の主力を成しているのですから。

                                未完

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 2/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行     初出 2020/04/10 補充 2020/06/23 2024/02/26

〇安息の国「パルティア」にまつわる誤解
 先ず第一には、古田氏が、安息国を「ペルシャ」と解しているのは誤解です。「ペルシャ」は、太古以来、今日に至るまで、イラン高原のペルシャ湾岸沿い高地の一地域です。当該地域の政権が興隆して、イラン高原全体を支配したのは、古代のアケメネス朝と後世のササン朝の二度に亘っていて、それぞれ、メソポタミアからエジプトにまで勢力を広げ、東地中海にまで進出したこともあって、ギリシャ、ローマの史書に名を残していますが、安息国(パルティア)は、それとは別の地域から興隆し、一時、地域を支配した王国なのです。ペルシャなどもっての外です。
 ちなみに、中東アラブ諸国では、「ペルシャ湾」と言う事はありません。同様に、「トルココーヒー」も禁句です。現地に出向かれるときは、大事なところで口走らないように、口に巾着を掛ける必要があります。
 それはさておき、安息国、パルティアは、たしかに、西は、メソポタミアを包含して、広くイラン高原全域を支配し、後年「シルクロード」と呼ばれるようになった東西交易の要路を頑固に占拠し、交易の利益の大半を得ていたのです。
 其の国都「クテシフォン」は、大「王国」西端のメソポタミアにありましたが、漢使が五千里の彼方の国都に赴いたはずは無く、安息国内情報を取材したのは、全て、カスピ海東岸の「安息」の周辺だったのです。

 パルティアは、この地の小国(班固「漢書」西域伝で紹介され、范曄「後漢書」西域伝の言う「小安息」)から起こって、イラン高原を西に展開し、アレキサンドロスが宏大なアケメネス朝ペルシァを破壊した後、早々に没した後に、旧帝国の中心部を支配した「セレウコス」朝王国が、西方での共和政ローマの将軍ポンペイウスによって指揮された大軍の侵攻で大敗したのを受けて、同国を駆逐して、イラン高原全域を支配しましたが、西の王都クテシフォンは、バグダード付近にあったのです。当然、「安息」(パルティア)と称していたと共に、発祥の地である旧邦も引き続き「安息」(パルティア)としていたのです。

 東西両地域間には、北のメディア、南のペルシャの地方勢力の支配した地域が介在しましたが、安息(パルティア)は、中央集権で圧政を敷いていたわけではないのです。このあたり、漢/後漢は、しばしば混同していたし、西のローマは、帝制紀に入ってしばしば侵入してきましたが、こちらは、東方辺境の小安息のことなど、とんとご存じなかったのです。

*小安国の世界観 余談
 漢使の取材に応じた安息の長老は、うるさく言うと小国安息の代表者/国主であり、その世界観は、地域的なものだったのです。従って、ここで言う「西海」は、目前の「大海」、カスピ海であり、條支は、その西岸の大国、「海西」だったのですが、して見ると、そこに到るのに、「大海」を百日航海するというのは、何らかの錯誤でしょう。西戎伝で見る限り、安息西境から條支国都まで、十日とかからなかったようです。

 この際、中国から見た西域の地理認識を是正すると、古代史書に表れる「大海」は、今日想定されるような「海洋」などではなく、辺境に広がる塩水湖であったようです。最初は、ロプノールを、塩っぱい水に満ちていたことから、あえて「西海」と呼んだのですが、次第に、西方の地理が分かってくると、更に西方に、更に巨大な塩水湖があるのに気づいて、「大海」と呼ぶことになったのです。大海の東岸にあたる安息が、漢/後漢の到達した西の果てであり、安息の西の王都どころか、大海の西岸「海西」の條支すら、実見できていなかったので、噂話にとどまったのです。このあたりは、どんどん余談が広がるので、後ほど、解説できるでしょうか。
 少なくとも、後漢書、魏略西戎伝に至るまでの史書で、西の大海がカスピ海でなく、地中海、黒海、ペルシャ湾などが「大海」であったと論証するのは、大変困難(不可能)と思われます。何しろ、そのような「大海」は、中国関係者が実見したものではないので、地平の彼方の霞の世界ですから、明確に特定できるものでもないのです。

*條支の西
 條支の先は、黒海から地中海ですが、安息長老は、旅行記を取り次いだ程度と思われます。條支から西に行くには、「地中海」航路もあれば、黒海に出てアドリア海を渉る「渡船」もあり、また、その北の陸地を、コーカサスの難関を越えて渉る陸上行程も知られていたようです。圏外になりますが、ギリシャ、ローマ側の記録は、結構豊富なのです。
 ともあれ、後漢朝史官が史実の報告として史書に掲載したのは、安息、大月氏までであり、笵曄「後漢書」によれば、条支以西は実見していないので風聞の採録に止まったのです。

*謝承「後漢書」考 余談
 謝承「後漢書」なる断片史書が外夷伝を備えたと伝わっていて、その東夷伝が魏志「東夷伝」の原史料との主張が見られます。憶測の風聞が、現行刊本の信頼性を毀損するのは、無法なことです。亡失資料に関して確実なのは、謝承が後漢公文書(漢文書)を閲覧できなかったことです。謝承は、後漢末から三国の呉人であって、洛陽で史官の職に就いてないから、書庫に秘蔵の公文書は閲覧不可能でした。できたのは、先行史料の引用だけですから、本紀/列伝に関しては、なんとか史料を収集して書き上げたとしても、夷蕃伝は、公文書が不可欠なので、大したことは書けなかったのです。

*魚豢「魏略」考 余談
 魏略を編纂した魚豢は、史官ないしは準じる官職にあったと見られる魏朝官人であり、魏の首都雒陽に蓄積されていた漢代公文書を制約無しに閲覧し「魏略」に収録できたと見えます。「魏略」、特に「西戎伝」には、漢代史料が豊富に引用されていて、魚豢が漢代公文書から取り込んだものと見えます。

 因みに、古来、史書執筆の際に先行資料に依拠するのは史官の責務であったので、陳寿はじめ各編者は、魚豢「魏略」を、(必要に応じて、断り無く)利用したものと見ます。裴松之も、魚豢「魏略」が史書として適確と知っていたから、魏略「西戎伝」を丸ごと補追したのです。

 世の中には、范曄「後漢書」が、正体不明の先行史書を引用したと推定しているものがありますが、いかに、史官の責務に囚われない范曄にしても、それは無謀というものです。笵曄「後漢書」西域伝で、笵曄は、先行資料の筋の通った解釈ができない風聞は割愛したと述べているほどです。范曄なりの史料批判に怠りはなかったのです。

〇条支国行程
 古田氏は、條支に至る行程について、班固「漢書」西域伝の解釈を誤っています。
 班固「漢書」は、西域の果ての諸国の位置を書くのに、帝都長安からの距離に従い順次西漸しています。条支は、安息の東方にあったと思われる「烏弋」(うよく)山離から百日余の陸上行程であり、安息は、烏弋と條支の間なので、安息~條支間は、陸上百日よりかなり短いはずです。

 いや、以上のような批判は、よほど西域事情について考察しないと判明しないのであり、洋の東西を問わず、ほぼ、全学会が、條支行程について誤解しているので、古田氏が世にはびこる誤解に染まったとしても、無理からぬ事です。
 地中海に、中国史書における西域事情の考証は、白鳥庫吉氏が、世界に先駆けて確立したものであり、古田氏が、白鳥庫吉氏の著書を参照していないと見えるのは、まことに残念です。いや、これは、氏に限ったことではなく、兎角、国内史料に偏重している国内古代史学界に共通の認識不足です。

                                未完

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 3/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行   初出 2020/04/21 補充 2020/06/23 2024/02/26

〇漢書安息記事
 「王治番兜城,去長安萬一千六百里」なる班固「漢書」西域伝の安息地理情報は、本来明解です。
 安息は、現地にいる漢使にとって、目前の番兜(ばんとう)城を治所とする「大国」であり、大月氏や烏弋山離のすぐ西の隣国となっています。ところが、それに続いて、安息は、方数千里の「超大国」であり、「国都」は西方数千里の彼方、とあるので、長安帝都の関係者は混乱したようです。この混乱は、順当に後続史書に受けつがれます。ちなみに、班固「漢書」西域伝で「王都」は、ほぼ安息国だけの敬称です。

史官の務め色々
 言いきってしまうと、誤解を招くかとも思うのですが、ここでは史官の務めを確認したいのです。史官は、手元の史書、資料に混乱があると見えても、勝手な解釈から小賢しい是正を加えてはならないということです。混乱していると見えても、是正せずに継承していれば、あるいは、後世、無理のない是正ができるかも知れないのです。棄てず作らずと言うことです。

 ただし、後世に史官の務めを知らない、小賢しい輩が現れて気に入らない原史料を棄ててしまったら、後世にはその勝手な解釈による改竄結果しか残らないのです。
 ここで言うなら、西域記事に関しては、范曄「後漢書」西域伝が、大々的な是正を加えているので、危うく歴史改竄がまかり通っていたのです。幸い、原史料が、劉宋史官裴松之によって魏書第三十巻に収録された魚豢「魏略」西戎伝に温存されているので、劉宋だの歴史家であった笵曄「後漢書」が、何を消してしまったかわかるのです。
 とすると、後漢末(桓帝、霊帝、献帝)から魏(武帝、文帝、明帝)にかけての東夷伝記事で、范曄と陳寿のどちらを信じるべきか、はっきりしてくるように思います。
 いや、このような両史家の資質評価は、古田氏の持論とも一致するので、ここに書いても許されるように思った次第です。

*混乱解決の手掛かり
 この際の混乱の由来を整理すると、安息は、大王国の国名であると同時に、王国東端の小安息で漢使を応対した「長老」にしてみたら自国の国名なのです。小安息は方千里程度なので、近隣諸国と比肩できます。

 このように認識すれば混乱は解消するのです。特に、漢使到着の時点は、大安息西方の大発展、イラン高原統一が完了した時点なので、まだまだ、安息と言えば、長年王国を維持してきた全天下の地理観、世界観が通用していたように見ます。
 と言うことで、漢使の安息到着以来、二千年を越えようかという條支比定の課題は、にわかには、 解決しないでしょう。
 それはさておき、條支は、安息から見て、国境~国境で数日程度の隣国です。

 後の魚豢「魏略」西戎伝に依れば、條支は、安息と大海カスピ海を挟んだ隣国で、大海(南部)を横断する行程と共に、南岸を経巡る訪問行程が描かれています。條支王都は、安息人が「海西」と通称するように大海の西岸ですが、そこから西に百余日河川遡行しても、西方の山地を越え、黒海なり、今日の小アジア(トルコ)に出る程度で、その認識は、今日のヨーロッパに届いていないのです。
 「條支」は、字面から言うと、分かれ道、川の支流ということのようですが、当時、東のカスピ海と西の黒海の狭間で双方と通じていた「アルメニア」王国を指すようです。今日の「アルメニア」は、カスピ海岸の「アゼルバイジャン」と黒海岸の「ジョージア」(かつての「グルジア」)に介在する内陸国ですが、当時は、両国を支配していたようです。(これは、少数意見です)
 安息を等身大に解釈するだけで、大半の混乱は解消するのです。

*「西方」観の相違 余談
 漢人の西方は、西王母の住む仙境であって、こころのふるさとなのですが、安息人には、西は交易相手の隣国が在るというだけで、格別の感興はないのです。現世の思いとして、漢人に西方諸国を知られると、安息迂回の貿易路を開設されて巨利を失う危険があることから、とぼけ通したとも見えます。

*西の狼、東の虎 余談
 現実には、メソポタミアの向こうの地中海東岸シリアには、強力な軍備のローマの大軍四万人が駐屯していて、往年のアレキサンドロス大王ばりの侵略を企てていると見られるので、安息国は、東方の大国をローマと交流させるわけにはいかなかったのです。
 何しろ、漢武帝は、東方オアシス国家を支配した北の匈奴の排斥戦略として安息の仇敵大月氏と同盟を企てた事が知られているので、せめて、「漢との同盟を拒否して敵対した」と解されないように、つまり、敵に回さないで、敬遠したかったはずです。何しろ、大月氏にこの企てが知れたら、何をするかわからないと言う危惧もあったと思われます。
 と言うことで、安息国の長老、おそらくは、小安息の国王と側近は、漢人の聞きたい西方幻想譚を示唆しただけに止めたのでしょう。

〇まとめ
 以下、率直に、本書に示された古田武彦氏の西域観の瑕瑾を指摘して、本記事を終わります。
 1.漢書西域伝から読み取った安息、條支の地理情報が誤解されています。
   そのために、漢書、後漢書の西域観を読み損ねています。
 2.東夷傳序文に示された陳寿の漢魏西域交流総括が軽視されています。
   それが、氏の東夷伝解釈に反映していて不満です。

〇謝辞
 以上の素人考えの背景は、主として、以下の諸書によるものです。

 白鳥庫吉 白鳥庫吉全集 岩波書店
  第六巻 西域史研究 上 第七巻 西域史研究 下

  史記に始まり唐書に至る正史西域伝に残された漢文明と西域との交流の歴史解明と欧州文書など大量の資料を基盤とした考察は、世界的に先進かつ最高峰として高評価を受けていて、後世の素人に、大変貴重な労作の高峰です。

 塩野七生 ローマ人の物語
 東方のペルシャ帝国を打倒したアレキサンドロス三世の偉業を慕うローマにとって、「ヨーロッパによるアジア制覇」は国民的願望として、共和制末期を飾るポンペイウスのセレウコス帝国打倒、続く、クラッススによるパルティア遠征と破綻、皇帝ネロの和平構築、等の出来事が、時に応じて丁寧に紹介され、ローマ視点のパルティア観を明らかにしていて大変貴重です。
 東西超大国の狭間でしたたかに生き続けたアルメニア王国の姿は、ここ以外では、中々読めないものです。

 本記事筆者は、西域伝/西戎伝に現れる大国「條支」は、数世紀に亘り両大国の緩衝地帯となった大国アルメニア王国に違いないと確信しています。

 なお、漢代西域展開の極致は、後漢西域都督班超が派遣した副官甘英が、長年西域支配を画策している「大月氏」(貴霜)打倒のための同盟工作を極秘裏にに展開した安息国の東方拠点であり、その隣国條支にすら、足を伸ばしていないのです。

*「大秦」の幻影払拭 2024/02/27
 魚豢「魏略」西戎伝及び笵曄「後漢書」西域伝に言及されている「大秦」記事は、疑いを挟む余地無く、「條支」、ないしは、その近辺の「小国」の風聞であり、パルティアを越えた地中海圏にまでその所在の検索を求めるのは、砂漠に蜃気楼の「逃げ水」を追い掛けているものです。
 魚豢「魏略」「西戎伝」は、参照した後漢代史料の錯簡により後世史家が誤解していますが、とかく誤解が蔓延っている「大秦」は、前世で、アラル海付近にいたと特定されている黎軒が、「海西」、つまり、大海西岸の條支国付近に移住したものであり、あくまで、近隣なのです。袁宏「後漢紀」考明帝紀は簡潔明瞭であり、康居、大月氏、安息、大秦、烏弋と並んだ諸国の中で、比較的西の方としています。

 後漢西域都督班超の派遣した副使甘英は、大海の岸辺/東岸に到達して、海西に渡ろうとしたものの、「安息の塩水の大海は渡海困難」の説明で説得されて断念したとされていますが、思うに、西方探索は、甘英の本来の使命ではないので、安息高官の説得に応じて條支、大秦の究明を断念しても、違命でも何でもなく、使命に忠実な甘英として不思議はないのです。
 
 「後漢紀」 によれば、大秦は、太古、中国「秦」の西方にいた騎馬/遊牧の民であり、大月氏同様に、何かの機会で身軽に西方に移住したのであり、転々と移住を重ねた挙げ句、安息の一隅を占めて、従って、中国由来の「大秦」を名のっていたらしいのです。
 このあと、記事は、宏大で文書行政を施された大国の風情を収めた「大秦」記事と解釈されているが、常識として、これは、安息の記事が、錯簡されたものと見えます。何しろ、当時の夷蕃伝は「其国」として書き継いでいたので、綴じ紐がちぎれて簡牘が交錯したものを臆測で復元したとみるのが自然です。
 これは、魚豢「魏略」西戎伝でも見られる交錯であり、條支について語るはずの記事が、突然、大秦国の所在とその風土、風物を語り始めているように見えるのは、「素人読み」として「普通」なのですが、少し考えれば、簡短な錯誤による取り違えと分かるのです。魚豢「魏略」「西戎伝」は、魏志第三十巻の巻末に安住していることから、写本継承の際の錯誤は最小ですが、劉宋史官裴松之が確保していた帝室蔵書の時代善本といえども、後漢公文書原史料の錯簡などに由来する誤謬は避けられないのであり、丁寧に考証することが求められるのです。いや、魚豢「魏略」「西戎伝」も、孤立している史料と見え、また、魏志本文と同様、異本が事実上存在しないので、校勘は至難ですが、それでも、文書史料自体の整合性を追求すれば、原史料の想定は可能と思われるのです。と言うことで、くわしくは、当ブログの別記事に述べているので、御参照いただきたいのです。
 端的に言うと、本来、詳細を究めるべき安息事情が希少で、初見の大秦事情が豊富であるとする解釈は、そのような誤謬を是正し損ねた、錯覚の産物に見えるのです。
 このあたり、二千年近い錯覚の継承が山を成しているので、原資料から出発する丁寧な考証が不可能になっていると見えます。いや、何処かで聞いた話のような気がしたら、それは、空耳です。

*安息の機密保持~東西交易の「中つ道」
 それはさておき、「状況証拠」として明快、かつ有力なのは、東西交易、さらには、南方交易で「ローマが羨む世界一の巨利」を博している安息としては、暴威を極めている大月氏の同類としか見えない漢の使節甘英が何と言おうと、国内事情を詳しく教えるどころか、遙か西方の敵国ローマ準州に接触を許すはずがないのです。何しろ、班超は、第三国に使者として滞在しているときに、匈奴使節団の滞在を知り、暗夜奇襲してこれを葬ったという蛮勇の持ち主であり、百人程度の少数でも、厳重警戒が必要なのです。
 何しろ、目下沈静化しているとは言え、大月氏は、東方から亡命したと称しながら、突如、騎馬軍団で、安息王都を急襲して、「国王親征軍」を大破して、王都の財宝を掠奪し尽くしたという前歴があり、西方からの援軍で、大月氏軍を押し返し報復したとは言え、以後、国境部に二万の常備兵を置いたほど、警戒しているのであり、漢月共々、一切信用できないのです。そんな物騒な輩に、国内通行を許すことは有り得ないのです。
 さらには、安息の交易ルートの北方に脇道を設けている條支と接触することすら、商売の上で、もっての外だったのです。もっとも、西戎伝には、條支商人の述懐として、安息は、東西交易で厖大な利益を得ていて、売価が、仕入れの五倍十倍は当たり前だとしていましたが、それは、大月氏制圧を、喫緊の使命としていた漢使の知ったことではないのです。

*莉軒「大秦」の比定
 というような「常識的」な考察を歴て、大秦の居住地は、かなりの可能性で現在のイランテヘラン周辺、太古の「メディア」の後裔地域であり、「メディア」の語意を得て、「中つ国」、「中国」、転じて「大秦」と名乗ったと見えるのです。ちなみに、以後、さすらいの莉軒がどうなったかは、不明です。

袁宏「後漢紀」復権
 袁宏「後漢紀」は、「黎軒」が、「印度北部のヒマラヤ中腹の細道を歴て、益州、つまり、蜀漢の地に至り、更に、交址に下りる細々としていても、確実な経路を確保していた」と見ていて、これは、張騫が西域諸国で傍見した中国物品の渡来につながるようです。
 そして、これが、後年、「ローマ皇帝」使節の漢都到達という年代物の理解/誤解につながったようです。砂漠の道、海の道以外に、細々とは言え、酷暑、瘴癘、乾燥と無縁の「山辺の道」があったのです。

 いや、魚豢「魏略」「西戎伝」の該当部分の行程記事は、常人の読み解けるものではないように見えます、見る人が見れば、要点を見抜けるものです。

 以上、どこにも飛躍やこじつけのない「エレガント」な仮説ですが、どうしても、世間さまでは、「大秦」=「ローマ」の無理やりの決め込みが解けないようである。くり返して念押ししますが、これを何処かで聞いた話と思ったら、それは、空耳です。

*ローマの残照
~帰らざる安息のローマ軍団
 西方蛮夷の風聞の源流を求めるなら、ローマ共和制末期の「クラッスス」の遠征譚であり、四万の遠征軍が、パルティア正規軍と会戦して大敗/壊滅したため、不敗のローマ軍団が全面降服を余儀なくされ、一万人の戦時捕虜がパルティアに引き渡され、「組織を保ったローマ軍団が東部国境に到達して、安息国兵士一万人とともに国境警備の任に就いた」とされているので、当該捕虜から聞いたローマの風聞が伝説化していたかもしれないのですが、それにしても、ローマ兵捕虜は、帝政以前のユリウス・カエサル時代の共和制ローマ市民であり、「国王」の執務など知りようがなかったと見えるのです。
 そして、結局、ローマとパルティアの和平が長年成立しなかったため、ローマ兵捕虜は、全員が異境の土に帰ったのです。常識的な期間内に和平が成立していれば、ローマ兵捕虜は、当時の国際法に従い、身代金と交換に帰郷できたのですが、ローマ側の混乱で、それは実現しなかったのです。
 まず、ローマは、ポンペイウスによる、ユリウス・カエサル誅滅が、カエサルの反撃によって挫折して、広範な地域でポンペイウス追悼戦が続き、ポンペイウスの死で決着したものの、カエサルが企てたパルティア遠征が、カエサル暗殺で頓挫し、以下、エジプトを支配下に置いたアントニウスのパルティア遠征は、惨敗に終わり、といった具合で、時はひたすら空転し、帝制に移行して久しい皇帝ネロの英断で、両国間に和平が成立したときには、パルティアの東北辺境、メルブのオアシスで望郷の念を紡いでいたローマ兵捕虜は、全員が自然死を遂げていたのです。
 パルティアのために弁明すると、一万の統制されたローマ兵捕虜は、一万のパルティア兵とともに、重要な国境防衛に専念していたので、それなりの厚遇をえていたものと思われるのです。そして、ローマ兵捕虜は、当然、和平による捕虜交換がいずれは実現するものと、不敗の大国、共和制ローマの再来を信じていたのです。

 いやはや、風聞、錯覚の弁護をするのは、何とも、古代ロマンの風に曝されるものです。

 この項 2024/02/26~28追記
                                以上

2024年2月21日 (水)

新・私の本棚 番外 あおき てつお 邪馬台国は隠された(改) 1/2

 漫画家が解く古代ミステリー~」 Kindle版 初版、改定年次不明、版元不明の野良
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◯総評~出版物でない雑資料 「(改)なし単行本」2022/1/23
 本書を短評すれば、著者の頭の中が混乱していて、そのために、資料の理解もできていないし、正しい表現で書くこともできていないので、せめて、小学校に入り直していただかないと世間に誤解を振り撒きます。

◯出典不明で無礼
 「本書」は、権威ある出版社編集部の校正を経ていない上に、いつ、誰が「出版」したのか明記されていないので、単なる「紙屑」等しいのです。確かに、ネット記事は、当ブログを含めて、根拠とできない「紙屑」ですが、本書は、出版物を擬態/標榜しているだけ、重大な紙屑です。因みに、出版社編集部は、自社名で世に出すので、自社の信用を維持するために、れ原稿内容を精査し、時に、検証/訂正を要求した上で、「助言と同意」のもとに、社名を表示して出版するのですが、本書は、一切それが無いので、商用出版物、つまり、売り物としては、詐称に近いものです。
 因みに、一流出版社の出版物であっても、著者が、強引に編集未了の不完全な書籍を出版した例がありますが、当該出版社「講談社」は、光栄/伝統ある社名に不滅の悪名を刻んでいるのです。
 すくなくとも、本書が、論説の新規性を主張したくても、日付(タイムスタンプ)無しでは、何の足しにもならないのです。

◯駆け足御免~「ダメ山塊」
 本書は、走り読みしただけでも、ほぼ各行/複数個の「迷言」乱発で、一々かかずり合っていては先に進まないので、駆け足とさせていただくので、他は、推して知るべしという事です。手元資料には、テキストに対して、ほぼ数文字毎の(?)が書き込まれていて、つまり、全体に「ゴミ」(Junk)の山ですが、当方に指導義務はないので、守備範囲である「道里」記事の限定ダメ出しを見ていただいて、無根拠の非難でないと理解いただきたいのです。
 と言いつつ、理解できていないのに、キラキラと絵解きするのは重症です。

*混乱発露の自爆発言
 断然最大の誤解は、『陳寿は”事実は書いていないが嘘も書いていない”という高等テクニックを駆使して記述した』と意味不明の迷言です。現代日本語すら正しく読み書きずに二千年前の専門家を批判するなど、千年早いのです。

*道里記事失態
 著者失態の根源は、史料の読み解きができていないことです。著者は、狗邪以南の渡海水行記事に道里は存在しないと理解していながら、全体の読み解きに失敗した混乱のツケを、陳寿に持ち込んで無様なのです。
 陳寿は、当時、天下最高の専門家であり、「倭人伝」編纂に職責/身命をかけ、先輩、上司の批判を克服していますが、著者は無責任に言い捨てます。

*概数観の混沌
 投馬道里記事で、往き来していないから不詳と明記しているのに、「里数が欠けている」、里数が日数に切り替わるのはけしからんと云う発言です。そこまでが、七千余里、千余里と千里単位で、たいへん大雑把なのに、日数は、せいぜい十日単位で明確なのを見すごしています。著者は、ずいぶん、数字に弱いようですが、自覚して修行すれば、改善されるかもしれません。

*再出発のお勧め
 先ほど、小学校に入り直すよう戯れ言したのは、今日の小学校算数には、概数が含まれているので、修行し直したらどうかというものです。
 因みに、小学校課程をお勧めするのには、もう一つ恥かきが在るからです。土地土地の南北東西は、著者も知る竹竿日時計で、立ち所に確定でき、取り違えないのです。小学校の理科実験、夏休み宿題で身につくことで、本書のように勘違いを公開することはないのです。氏は、高校生に講義する設定のようですが、精々、生徒なる後生に馬鹿にされないように勉強すべきです。

*情報審査の不備
 また、氏の欠点の「一つ」は、参考文献に散在の札付き「ゴミネタ」に見境なく食いつくことです。「倭人伝」談義は、大学「先生」まで不勉強でいい加減な発言をする例が少なくないので、検証してから他人に勧めるべきです。
 近来、一段と、読み囓り、書き飛ばしが氾濫している「倭人伝」巷説ですが、仲間受けすれば良いというものではないでしょう。
 なお、中国語で「先生」は、単に呼び捨てでない「おっさん」という意味であり、教授や教師と敬称しても、「先生」呼ばわりは、むしろ不名誉の極みです。

                               未完

新・私の本棚 番外 あおき てつお 邪馬台国は隠された(改) 2/2

 漫画家が解く古代ミステリー~」 Kindle版 初版、改定年次不明
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*基本の見落とし 
 著者は、道里記事の大事な「分かれ道」に対して、『榎一雄先生は「倭人伝の道のりは一直線に読むのでなく、伊都国まで来たらそこを中心に放射状に読み取るべき」と主張された』と勘違いして大局を見失ったと見えます。
 要するに、中原なら、四頭立ての馬車で行く「周道倭遅」ですが、馬車も乗馬もない倭地ですから「郡道が伊都で完結」する徒歩行と見るものであり、以後、奴不彌投馬三国は、万二千里に無関係の脇道であり、行く必要は無いのです。これら三国とは、「余り往き来していないので、不詳」と明記しているのに、長々と論義しては、読者を混乱させるのです。あるいは、時間の無駄として読み飛ばされてしまうのです。

 実態不明の脇道の後に、『伊都国の直南に女王の住まう「邪馬壹国」があり、必要日数は、[都]全て、海上十日と陸上三十日、計四十日』まことに明快です。
 それ以外、女王以北狗邪まで「周旋」五千里と検算していて、重ね重ね誤解できないはずですが、それでは早々に黒星が付いて敗退と決まる「定説」派が猛然と攪乱しているのです。
 そんな攪乱に対して、著者は、まれに冷静な理解をしますが、すぐに言葉が動揺して混乱するのです。

*誤解の始まり提起
 いや、本論は、著者の論旨を追うのが主目的/主題ですから、本書の狗邪韓国あたりから論義を始めていますが、ここで、始点に戻ると、著者は、早々に、分かれ道の選択を誤っていて、回復困難な破局を、以後、一貫して、無頓着に踏み渡っている糊塗を、確認する手順となりました。本来、間違った分かれ道の先は、一切論義する必要は無いのですが、ここでは、著者の勘違いを正すために、あえて、無効とわかっている筋道を辿っているのです。ご容赦ください。
 さて、著者は、大抵の論者と同罪であり、勝手に早合点していますが、道里行程記事は、正始魏使の道中報告などではなく、明帝が、魏使派遣に先立って把握していた行程道里なのです。前提部分で、重大な錯誤があれば、即却下して、出直してもらう所ですが、それでは、指導にならないので、丁寧に面倒を見ているのです。
 従って、重大な懸案と見える脇道の三国は、「倭人伝」の要件であって、肝心な「伊都までの所要日数」に全く関係なく、従って、陳寿の関心外なのですから、陳寿が見たことも聞いたことも無い現代地図と照合して、無理やり辻褄合わせしても、陳寿の知ったことではないのです。何とも、意味の無い「徒労」記事です。

*箴言再生 
 当方は、高名な歴史学者岡田英弘氏の箴言をもとに、『三国志から二千年後世の無教養な東夷が、孤高の歴史書である三国志を非難するのは見当違いとしている』のです。但し「無教養」は、単に、もの知らずで読み書きができない「状態」であり、勉強で「無教養」でなくなるとの「自戒」です。
 古人曰「後生畏るべし」、先に生まれた「先生」が偉いのでなく、「後生」に乗り越えられるとの言葉があり、心ある関係者は、失礼にならないように「先生」と云わないことです。

*遣隋使談義の暇つぶし
 著者は、「隋書」を読めていない所から、何の参考にもならない後世談、余談を話し始めます。隋帝のもとに参集した蛮夷は、それぞれ「遅参はきつく処罰する」と、新規統一王朝の隋から、半ば脅されて参上していて、それを追い返すなどあり得ないのです。
 そもそも、無知、無礼は、蛮夷の真髄ですから、承知の上であり、そのような蛮夷を、厚遇して招待し、とことん「おもてなし」して、手なずけるために「鴻廬寺」が儲けられているのであり、接客実務の担当として、掌客部署があるのです。「客」は、蕃夷が耳にして怒り出さないように、美称している(外交辞令のリップサービス/口先だけのお愛想)です。
 もし、手違いで賓客を追い返しなどしたら、以後、辺境に侵入、掠奪して、たんまり仕返しされるので、豪勢に歓待していたのです。いや、追い返すと、歓待した状況を、腹ぺこ、野宿で引き返すので、怒り倍倍増で、掠奪暴行必至です。蕃夷の機嫌を損じた「鴻廬寺掌客」は、軽くて免職、さらには、鞭打ち、大抵は、斬首/死罪のはずです。

*権威者の妄言
 そのような事情紹介の後に続いて『この事情に関しては三国志研究の権威・早稲田大学教授の渡邉義浩先生の提唱を参考に説明します』ですが、読者は、遣隋使など無関心です。
 以下、記事に戻り、魏が「倭人」記事に色を付けたのは、西方蛮族との見合いとしますが、それは無茶で、「大月氏」記事は、後漢支配下の西域に反乱と掠奪を繰り返した悪者を、西域に無力な魏が「おもてなし」した中国文飾を見すごした岡田英弘氏の「新説」に渡邉氏が追従したのに気づくべきです。
 東夷談義に戻ると、倭人来貢は、司馬懿の公孫氏撲滅後、来なければ同様に叩き潰すと脅されて恐懼参上したものです。司馬懿は、公孫氏一味を大量虐殺し、公文書も焼き尽くしているので、倭人は、震え上がったはずです。

*明帝明敏
 時の明帝曹叡は、司馬懿の魔の手が伸びなかった帯方郡から倭人事情を知らされていたので、急遽持ち込まれた(仮想)帯方郡「倭人伝」が「郡から倭まで万二千里」と恰好を付けていても、片道四十日あれば、往来できると承知していたので、確実に大量のお土産を送りつけられると理解していたのです。つまり、「呉の沖合」などとは、まるっきり思っていなかったのです。陳寿は、西域を含めて、諸蛮夷事情を熟知していたので、子供だましにもならない戯言は書いてないのです。そうそう、陳寿は、三国史「呉志」の大部分を、東呉が降伏の際に上程され、皇帝が享受した韋昭「呉書」をそのまま採用しているので、東呉が、東夷と交通していたなどとは、思ってもいなかったし、曹魏自体、そのような報告を記録していないので、魏志に、そのようなウソ八百の記事は無いのです。

*不朽の失言か
 そのように、三世紀当時は、衆知であった、つまり、関係者に当たり前のことを見過ごした「権威」の与太話は困ったものです。まして、明帝も知る「倭人事情」を、陳寿が、晋皇帝のご機嫌取りで創作したなど、見当違いも甚だしいのです。現代人でも暫く調べれば気づく迷言を言い放っているのは、ご自身を「二千年後世の無教養な東夷」と自嘲されているのかと訝しいほどです。
 因みに、当時の晋皇帝は、天下唯一の権力者と云っても、史上著名な暗君であり、「倭人伝」など意識外であり、そもそも、魏志自体、読めもしないので、大して気に留めていなかったのです。なにしろ、この権力者は、政治に無関心な上に、唯一無二の皇太子を廃嫡して死なせるのですから、名も知らない史官の編纂している「正史」など、どうでも良かったのです。
                                以上

2024年2月19日 (月)

新・私の本棚 笛木 良三 季刊 邪馬台国 136号 「魏志倭人伝は本当に短里..」三次稿 1/1

 「魏志倭人伝は本当に短里で書かれているのか?」 2019/07刊行
私の見立て ★★★☆☆ 不毛の論争の朴訥な回顧 2019/07/11 2020/04/06, 09/28改訂 2024/02/19

〇愚問愚答
 本誌一九八八年春号「里程の謎」は「古典」であり、掲題は愚直です。
 三国志に、はなから「短里」なる用語と概念は存在しないから、『三国志に「短里」はなかった』のです。史学論文は、用語錯誤に注意すべきです。
 このような批判は、同誌掲載に際し、編集責任者によって論文審査されていると信じるからです。論者も十分な見識を有し、率直な指摘に耐えるとみました。

*無駄なおさらい
 古田武彦氏創唱「魏晋朝短里説」論議は先行論文参照で事足ります。紙数の無駄は悪しき先例となります。
 本誌131号掲載の受賞論文、塩田泰弘氏の「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」の広範で確実な論考を参照しないのは不用意です。学術論文は先行論文を克服すべきです。重ね重ね不用意です。

*見過ごされた「宣言」
 ここで、肝心なのは、先賢諸兄姉は、揃って「倭人伝」記事を読み違えているのです。
 「韓人、倭人は中国本土と異なる里数を使用し」の要約は、多重錯誤です。「里数」でなく「里」の論議なのです。また、「中国本土の里」、つまり、一里が現代単位の五百㍍程度と見える「普通里」の里数と六倍程度異なるとみえる里数を提示したのは、諸韓国や倭人の者でなく帯方郡の者となります。夷蕃は官制を知らないのです。不用意な用語選択です。つまり、因みに、愚見では、倭人伝に「韓人」は、登場しないはずです。宜しく。ご確認賜りたく。
 「地域里」の「倭人伝」編纂時、「普通里」でない里数を採用せざるを得ず、後世検証できるように「宣言」したと解するのが、後世読者の務めと感じます。明白な宣言を見過ごして「三国志」本文の「雑記事」をもとに泥仕合したから、掲題設問に三十年を経て解答が出せていないと思量します。

 追記:2024/02/19
 以後の考察で、ここに示した表現は、若干浅慮の粗忽であったと反省していますが、そのまま残します。
 つまり、倭人伝に示された「郡から倭まで一万二千里」の提言は、遅くとも、遼東郡太守公孫氏が、後漢献帝建安年間に、当時の「倭人伝」稿に書き記したものと見ます。陳寿は、史官の責務に従い、「魏志」編纂にあたって、原「倭人伝」(「倭人伝稿」)を蹈襲したものです。漢制の施行されていた、つまり、「普通里」の道里が知られていた区間を、あえて、「郡から狗邪まで七千里」と明示したのは、それ以降、倭人伝に限って臨時の「里」を適用しているとの宣言なのです。「倭人伝」の眼目/(必須)要件は、郡を発した文書が何日で「倭」に届くかという規定の確立であり、それが、「総じて四十日」であると規定したのが、正史夷蕃伝における「都水行十日陸行一月」の意義なのです。(「都」は、はなから蕃王居処に使える文字でないので「論外」であり、一も二も無く「すべて」と解すべきなのです)
 史官の教養の持ち合わせのない東夷が、このあたり、自明の理を見逃していたのは、まことに不明でした。深く反省しています。

*図の錯解
 以下、氏は、意義不明の「図」の概念で論じますが、「図」は非論理的で、読者の感性に向けて、自身の幻想を押しつけるものなので、論拠になりません。
 ただし、機械製図のように、一定の工学規則に沿って作図解釈される「図」は、規則を学べば一意的解釈が成立し、論拠たりえますが、それは例外です。
 論者は、根拠無く三世紀の陳寿が見た「世界図」を論じますが、全て論者の脳内図式で第三者に何の意味も無い夢物語は、紙数の無駄です。

*迷走の果て
 最後に、論者は、我に返って史料を直視しますが、史料が読み解けないと、長々と夢想にふけったことの反省があるのかどうか。

 結局、論者は史料を直視せず、他人の意見を丸呑みしています。陳寿が、漢制の施行されていた区間を明示した「郡から狗邪まで七千里」の「原器」を渡海一千里で、すこし曲げていますが、「渡海」は本来、日数勘定であって、実距離と連動しないと見定めたのを忽然と抛棄します。そのような右顧左眄の論証は信用できません。

 また、実測でない、不確かな「里数」の換算に高精度計算を施すのは、時代錯誤です。不確かな数値は不確かなまま扱うのが「合理的」、「科学的」です。

*まとめ
 すべて読み通して、合理的な推論手順を外れた、何十年の堂々巡りが実績として浮かびます。
 先賢諸兄姉の厖大な論考によって、「正解を得られないと証された不毛な論議」は捨てるべきです。「本当に」などと、空疎な常套句に貴重なタイトルの三文字を空費している余裕などないはずです。

                               以上

2024年2月15日 (木)

新・私の本棚 宮﨑 照雄 「邪馬台国の最終定理ー理系学者が読み解く… 1/2

 『魏志』倭人伝と邪馬台国の所在地」(22世紀アート) Kindle版  2022/11
 私の見方 ★☆☆☆☆ 前車の轍にのめり込み、前途遼遠 2024/02/15 

◯総評
 「理系学者が読み解く」との盛大な惹句と違い、氏は、現代のネット環境に溢れる「風聞」をこね回して「文学作品」を物しているのである。
 
*異郷の新参論義
 氏の限界は、古来、文学部が管轄している「史学」、「考古学」なる「歴史科学」、「人文科学」の特性/論理に通じていないことである。「史学」論考は、現地/現物を訪ねて「追試」できないことを見落としてはならない。

 世上に溢れる「現代語」史学文芸は、あくまで外野であり、検証、追試されていない「思いつき」が大半で、書棚で巻き込まれている「通説」系の「内野」論考共々、文献批判では、史料原文に立ち戻って考証する必要がある。

 氏の本稿は、大半が不確かな通説の改作と見え、宙空を高々と歩んでいて、ほぼ無根拠の架空論義になっている。史学分野では、「温故知新」の金言を噛みしめ/踏みしめていただきたいものである。後生は、先生を易々と飛び越えることができるが、それは、進歩でも何でもないのである。

*偏った参考文献
 「参考文献」の大半を占めるネット情報が、氏の論考の足元を掬っている。かたや道里論の先行/基礎論考である安本美典、古田武彦両氏の諸著作を漏れていて、提言を克服できていないのは、重大な失態と見える。通りがかり、外野のやじうまの言い草ならともかく、氏のように、真剣に主張を展開する大いなる志をお持ちの方は、先賢諸兄姉の主張を把握した上で、峨々たる問題点を指摘し、これを克服するという困難極まる「道」を、実直にふみしめていただきたいものである。つまり、未検証の山である「参考文献」を「羅列」するのに満足せずに、それら文献の要点の引用関係を明らかにして、論理の筋道を明らかにして欲しいものである。

 また、氏が愛好されているネット上の風聞については、氏自身が、厳重に「ファクトチェック」した上で、責任を持って引用して欲しいものである。そうで無いなら、ご自身の出自、見識を誇示するのをやめ、一介の素人、門外漢として、謙虚に自説を開示すべきである。

 氏の依存情報の曖昧さは、後述の「目次」に露呈している。「倭人伝」は、原書、手書きの稿本が、手書き筆写されて、累世承継されたものである。現存南宋刊本は、版木印刷で、活字本でないから、「誤植」は失当である。いや、いずれかの先輩著作が穴に落ちているのに追従したものと見える。迂闊である。

 現代の活版印刷は電算写植であり「誤植」は絶滅している。あるのは、原稿段階の誤記、改竄、あるいは、遡って、原文誤解、勝手な改竄であり、これは、既に論義されていても、不撓不屈で存続し、戒めなければならない。

*論考失格
 と言うことで、氏の労作は、「日本」の古代史文芸であり、創作として、中々、迫力があるが、史学「論文」としては、憶測、誤謬盛りで、失格である。

*批判の背景
 当方は、電気工学の分野で基礎訓練を受け、職について実務に長く従事したが、ついには、特許、契約の法務審査などで、文献解釈の実務に勤しんだから、氏が、自称する「理学系」の思考の底流は理解できるが、ぜひ、氏ほどの権威者も、異質の「歴史科学分野」に置いては、新参者としての審査を受けていただきたいと思う。
 「郷に入れば…」である。

◯結語に替えて
 以下、国内古代史論が大いに盛り上がるが、本稿の目的外なので割愛する。むしろ、氏の当著作の本旨を逸脱しているのではないかと愚考する。著作のタイトルは、読者に書籍対価の見合った著作であることの「保証」を与えているものであるはずだから、大量の異物を混ぜ込むのは、一種、背信行為と見られかねないのである。読者は、不要部分を返品して、返金を求めることはできないから、言わば、抱き合わせ商法に憤慨してしまうのでは無いかと、危惧される。

 以上のような、丁寧な批判が唯一の「取り柄」である当ブログでの素人書評であるが、氏に、苦言受容の度量が無ければ徒労なので減縮した。ご容赦いただきたい。

 当方の論拠は、「またか」と揶揄されながら、当ブログで延々開示している。

                               未完

新・私の本棚 宮﨑 照雄 「邪馬台国の最終定理ー理系学者が読み解く… 2/2

 『魏志』倭人伝と邪馬台国の所在地」(22世紀アート) Kindle版 2022/11
 私の見方 ★☆☆☆☆ 前車の轍にのめり込み、前途遼遠 2024/02/15 

◯駆け足審査~目次に倣うコメント入り
はじめに
第一章 魏の答礼遣使団の来訪
   天子が蛮人に答礼とは、けったいそのものである。
  補考 魏の一里は何メートルか?
   中国史料の解釈を誤っている。
   史料の裏付けの無い「魏の一里」は、不合理であり、棄却すべきである。

第二章 「順次読み」の筆法

   伊都国に終着する道里記事構成を読み取れていない。
   行程は、目的地まで順次読むしかない。圏外/場外は、論外である。

第三章 「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一日」

   世上溢れている「誤読」、「誤解」に陥って、袋小路にのめり込んでいる。

第四章 女王の都する所の「邪馬壹(臺)國」を考える

   二重誤釈である。魏志に「邪馬台国」は、存在しない。
   「女王の都する所」も、誤解である。

  (一)「邪馬」を考える(二)「臺」を考える(三)『魏志』倭人伝の「邪馬壹」を考える
   先行文献に基づかない「オリジナル」な主張は、無意味である。

第五章 「邪馬臺國」へのアプローチ

 (一)侏儒国の解明補考 侏儒国と隼人の墓制を考える
    道里記事解釈とは別件である。後日別審議すべき題材である。

 (二)「倭地」「周旋可五千餘里」を解く
    見当違いの誤釈に陥るのは、文意が読めてないからである。

第六章 「邪馬臺國」はここだ!

   魏志に「邪馬台国」は、存在しない。
   道里記事に対し誤釈が続いているから、無意味な議論である。

第七章 黒歯国はどこか?

   道里記事解釈とは別件である。後日別審議すべき題材である。

第八章 「自郡至女王國萬二千餘里」・「計其道里當在會稽東治之東」を読み解く

   「自郡至女王國萬二千餘里」  公孫氏の深意を見誤らないことである。
   「計其道里當在會稽東治之東」 道里記事は、伊都国で完結している。

  補考 「會稽東治」は「会稽郡東冶県」の誤記ではない
   根拠なき史料改竄は、支持できないと言えば、一言で十分である。

第九章 「計其道里當在會稽東治之東」と邪馬台国在畿内説


第十章 「南至投馬國水行二十日」

   道里記事解釈とは別件である。後日別審議すべき題材である。
   「水行」の解釈は、特別な注意が必要である。

第十一章 『魏志』倭人伝の一箇の誤植を了解すれば、邪馬台国に確実に到れる

   一箇所自説に合わせて改竄/創作すれば「オリジナル」な「正解」を得る
   という論法は、「読み解く」ものでなく、はなから「不正解」である。

                                以上

2024年2月13日 (火)

新・私の本棚 海戸 弓真 「邪馬台国は四国だった」 女王卑弥呼の都は松山 1/4 補充再掲

 eブックランド (アマゾン) 2018/09/11
 私の見立て★★☆☆☆ 労作 前途遼遠    2023/09/22 2024/02/13

◯はじめに
 本書は、五年前に出版されていて、小生が気づかなかったのは「不明」ですが、諸兄姉の書評がなかったからです。何しろ、「邪馬台国」本は星の数ほどあるから、存在価値が見えないと手に取ってもらえず、掃き溜めに埋もれていると見えます。
 一つには、以下触れるように、古代史論の書籍としての体裁/構成が整っていない、論点の根拠の適確に示されていない、推定臆測の山は、相手にしてもらえないなど、とりあってもらえないものなのです。また、世上はやっている「駅前邪馬台国」、つまり、邪馬台国比定地を既に決めている論者は、持論と異なる地名が出ていては、端から論外なのです。

◯不吉な出会い、不幸な出発
 本書の構想に際しては、是非とも先行諸兄姉の著作を参考にしてほしかったのです。つまり、「邪馬台国」論義で不可欠なのは、参照する「倭人伝」版本と「日本語訳」の品定めですが、遺憾ながら、著者の取り憑かれた田中俊明氏訳文は、素人受けする流麗なものでしょうが、ここに例示された「邪馬臺国」「可七万餘戸」「周旋」が、出所不明、あからさまな誤解誤訳で、一発落第、退場ものです。もっとも、当方は、田中氏に教育的指導するのは、到底、力の及ぶところではないのです。それにしても、田中俊明氏は、調べの付いた限りでは中国史書の専門家でなく、「倭人伝」現代語訳は、器量に余るはずなのですが、どうも、ご自身の理解できない原文を、無理矢理どこかの訳文に似せて、「飜訳」しているのかと疑われます。それとも、誰かを影武者にしたのでしょうか。しょせん、出版社編集部の眼鏡違い、当て外れの畑違いのようにみえます。もちろん、田中氏の「暴走」は、善良な一読者である著者に責任は無いのですが、本署を草するに当たって、無雑作に巻き込まれているのは、もったいないのです。
 それにしても、著者は、束の間、田中版「倭人物語」に言及したのち、夢想世界に遊びます。これでは、大抵の読者は、呆れて放りだすでしょう。書店店頭で立ち読み開始早々に「却下」するところで、アマゾンではそれも成らず、辛抱して読み通した次第です。

 次に不吉なのは、著者は、田中氏の名訳に触発されて、なぜか、四国地図を持ち出して、地図上に思いを馳せていることです。要するに、以下は、著者の想像世界であり、「倭人伝」の「文字」は、ほとんど登場しないのです。余り、良いお手本に恵まれなかったようです。

第二章邪馬台国への行程
 魏志倭人伝を書いた使者が書き残した自らの行程

 この小見出しには、どっとずっこけるのですが、「倭人伝」原文二千字は多くの人の史料原稿を集成した編纂物であり、以下著者が論じる「行程」が、誰か一人の手に依ったものか、何人かが書き足したのか、慎重に調べなければ決まらないのです。私見では、これは、遅くとも使節発進の事前資料であり、行程の概略が分かっていたので、所要期間、所要資材などが分かっている内容を上申して、皇帝の許可が得られたと見るものです。
 それはそれとして、田中俊明氏は、ご自分の解釈で、日本語の文章を書き連ねているようですが、見かける限り、原文の理解に(大変)難が多いので、原文と同趣旨かどうか疑問です。(平たく言うと、あらかた間違っているとの評価です)
 大事な書き物は、基礎資料を、しっかり、丹念に、石橋を叩くように踏み固めてないと、しばしば落とし穴にはまるのです。せめて、二種以上の資料を比較吟味すべきです。

 著者は、いきなり、「使者は大変旅慣れた」人と決め付けていて、以下、滔々と書いているのですが、どう見ても、「倭人伝」原文には、影も形もない空想連発です。どうして、そのように理解したのか、誠に不思議です。相談する相手を間違えたのでなければ、幸いです。

 いや、このような大事な使節には、現地出張経験のある有能な官人を選んだに違いないというのは、著者の見識であれば、同感したいところですが、最近まで、帯方郡は、謀反人だった公孫氏の支配下にあったので、司馬懿が指揮した遠征軍が、遼東郡の関係者全員を処刑したのを見ると、帯方郡の関係者が、一緒に(連座して)処罰/処刑されなかったのは、不思議なのです。
 と言うものの、発想自体は大変貴重なものです。

 大事な点ですが、著者は、「使者」が、ベタに出張行程を書き連ねたと決め付けても、かねて疑問集中の投馬国行程は、消化しきれず、後日改めて」二十日かけて往来したとして、予告を踏み外していて、誠に、想像力豊かな読み解きですが、困ったものです。
 「倭人伝」の編集責任者である陳寿は、奴国、不弥国、投馬国の三国は、行程外であり、報告/連絡が乏しいので事情がよくわからない、公文書に書いているから残しているが、要するに、意味不明である」と断りを入れているのです。

 と言うことで、なぜか「邪馬壹国」ならぬ「邪馬臺国」は、著者の解釈に依れば、不弥国の南にあって、本来、明快に行程を書いているはずなのに、著者の解釈では、なぜか「その周囲を船で巡ると十日、歩いて回ると一ヵ月かかる」としていて、全く、筋の通らないのですが、もはや、立ち止まることはできないようです。
 また、後続諸国は、使者が実地調査し踏破した行程となっています。使節団の正使、副使は、雑用/肉体労働などしない身分の高い方々で、自分の脚で歩くことなどないのですが、どうやって、そんな長丁場をこなしたのでしょうか。また、使節団の任務は、下賜物、お土産の送達であり、そのような地理調査は、一切命じられていないのですから、著者がこだわるのは、随分に奇怪です。

 そして、著者は、「倭人伝」から「帯方郡から女王国まで一万二千余里」と確認していますが、太古以来、一里は、「尺」(25㌢㍍程度)を基準に一定の関係[一里は三百歩(ぶ)であり、一歩は六尺、つまり1.5㍍程度なので、普通の一里(普通里)は、450㍍程度に決まっている]から、どう見ても、「普通里」と「倭人伝」に書かれている「里」には、六倍程度の違いがあるのに、何の感慨も示していないのです。
 使者の行程を、片道四十日、往復八十日としたら、それは、普通里で片道二千里程度でしかないのが簡単に計算できるのです。これが、普通里で一万二千里であれば、往復五百日になるのです。いかがお考えでしょうか。

 ここで、突然口調が変わって、以上は、著者が、多大な思考を費やして得た解読としていて、不意打ちに愕然とします。根拠は、前置きするものなのです。分かっていたら、読み飛ばして後で戻るところです。

第三章 「漢字源」を水先案内にして
 この章の行き届かないところは、解読を国産漢和辞典「漢字源」に頼った上に、結構、国産辞典「スーパー大辞林」に頼っていて、さらには、原文ならぬ中国語に疎いと見える田中氏の解釈/飜訳に頼ったのですが、冷蔵庫の食材にこれしかなかったのかも知れないものの、著者の折角の研究の頼りにするのは、誠にもったいないと言わざるを得ません。
 以下、「水先案内」が行程に疎いのか、訊き方を間違えたのか、とにかく、船が山に登っているように見えるのは、素人老人の眼鏡の度が狂っているのでしょうか。確かに、「漢字源」は、古代以来の中国漢字文献の用例を取りこぼしていないようですが、「倭人伝」解釈に専念しているわけではないので、「水先案内」 として限界があるのです。目前の海の様子の案内が不確かのようでは、頼り切って乗り出せないのです。

 「倭人伝」原文は、古代中国人が、古代中国人に献上したものであり、現代日本人(無学な東夷)の辞書や見当違いの飜訳頼りでは理解できないのです。過去、諸兄姉が、解釈を誤っているのは、こうした事態に陥ったからと見えるのですが、著者は、同じ道を辿ったようで、誠に、もったいないのです。

                                未完

新・私の本棚 海戸 弓真 「邪馬台国は四国だった」 女王卑弥呼の都は松山 2/4 補充再掲

 eブックランド (アマゾン) 2018/09/11
 私の見立て★★☆☆☆ 労作 前途遼遠    2023/09/22 2024/02/13

*世界観の齟齬
 早速提示されているのが、「州」島解釈ですが、なぜか「スーパー大辞林」の現代用例らしいものにしがみついて「州」は「大陸」の意味としていますが、「倭人伝」時代、中国人は、世間知らずの「井蛙」で、太平洋につながる「うみ」(海)も「大陸」も知らなかったのです。もちろん、自分たちのいるのが「大陸」とは知らなかったのです。用例は、当て外れしていると見えます。
 古代中国語として解釈すると、「州」は黄河(河水)中州の小島、中之島です。「倭人伝」は、冒頭で「大海」、つまり、塩(しょ)っぱい大きな水たまりとしていて、その結果、郡から一路半島を南下して着いた「狗邪韓国」の岩壁に立って、現代風に言う「対馬海峡」を「大河」に見立てています。身辺にない「大海」を乗り越えるのを考えると身が竦む思いであり、中々難儀ですが、島を伝って渡し舟で三回乗り継ぐだけで楽々行き着けるので、何も怖いことはないのですよ、と言っているのです。因みに、当時、一大国、壱岐から渡った末羅で上陸して、渡し舟を下り、陸に上がると書いていますから、普通に考えれば、そこから先は地続きで街道を進むのですから、寝床が揺れることはないので船酔いしないし、船が沈んで、金槌が沈んで行くこともないのです。
 また、狗邪韓国~伊都国間の周旋五千里は、行程を「検算」しているのであり、測りようのない「島囲を書き残したのではない」のです。

*さようなら「邪馬台国論争」~余談 
 よく言う「邪馬台国論争」は、そもそも、「邪馬台国」なる不都合な幻像から始まっていて、「所在地」論の決着を後伸ばしにして、九州を出ないという「不可避な結論」を押し隠しているため、「論争」を五里霧中に置いていますが、そのために、「不可避な結論」が出ないように、当時最善の史料である「倭人伝」の信頼性を喪わせ、そのためには、当時最高の知性の持ち主である編者陳寿の人格攻撃まで掻き立てているのです。そのため、世上、大量のごみ情報が出回っているわけです。一寸考えればわかるように、三世紀当時、編者陳寿は、史官として高く評価され、その労作である「倭人伝」は、信じるに足る史料として評価されていたから、何も重大な異議は提示されていないのです。
 冷静に考えて、まずは、「倭人伝」の適正な評価から出発すれば、「所在地」論は、当時の読者同様の眼に明らかであったように、現代人にとっても、たちどころに解明されるのであり、以後、もっと大事な議論に進むことができるのです。

*情報の選別 論義の出発点
 当てにならない「俗説」、間違いだらけとわかっている「風評」がネット経由で、大量にばらまかれているのですから、むりも無いと思うのですが、そうした限られた知識と古代漢字文書に不向きな参考辞書だけが頼りでは、あちこちで誤解された原因は分かるのですが、「倭人伝」原文を懸命に読解いた先賢諸兄姉の論考に見向きもしていないのは残念です。折角、先人が、時間と労力を費やして試みた「仮説」ですから、これにとり組んで、進むべき径を見きわめる努力を大事にして欲しいものです。

 以下、著者は、県内遺跡発掘成果を中心に、「瀬戸内海交通が盛ん」としていますが、三世紀当時の状況は、ほとんど、と言うか、まったくわかっていないのですから、断言を避けた方が良いでしょう。目の前の海に毎日出ていく程度の小船/漁船は、丸木舟時代からあったとしても、何日もかけて漕ぎ進む荷船は、鋼入りの大工道具が渡来するまでは無理であり、はるか後世にならないと「瀬戸内海交通」はできなかったと見ていますが、いかがでしょうか。当ブログの提案では、九州大分から伊豫三崎半島への交通は、随分以前から、ひょっとすると縄文時代から、小船の渡し船で通じていて、渡し舟以外の陸路は、誰でもできる担い次なので、山道が遥か東の燧灘沿岸まで通じていたと見ているのですが、いかがでしょうか。 

 それにしても、伊豫以外の三国を、ここに取り込むのは無理です。著者が良く理解されているように、伊豫は石鎚山を主峰とする四国山地を背景として独立した領域であり、四国の中央部、高峰石鎚の峰を後ろ盾にした伊豫の海、大海「燧灘」の東端「宇摩」地域で、ようやく、土佐、阿波、讃岐の三国に通じているのです。まして、西方の松山から見ると、他の三国は、別世界なのです。
 著者は、ご自身が、邪馬台国「松山」説を立証しようとしているのをお忘れのようですが、「倭人伝」の解釈で大事なのは、郡から伊都国、そして、「松山」への行程と、「松山」を中心とした、諸地への経路の論証なのです。

 「多量のものを容易く確実に運べる」との船便評価は、当時の事情を知らないから言える安直な思い込みです。三世紀当時は、手漕ぎ小船なので「多量のもの」は運べず、穏やかな内海は、風と潮まかせで「確実」とほど遠いのです。著者は、なぜそう信じたのでしょうか。
 そうそう、遺跡発掘は、とかく、現代都市開発で露呈したもので、古代に存在したと思われる諸「遺跡」は、ほとんど手が付いていないと見えます。松山や今治に遺跡が目だつのは、都市開発の副産物と見えるのです。

*正しい行程を求めて
 著者が率直に認めているように、先賢諸兄姉の行程解釈から、端的に「伊豫」が邪馬台国の所在地との解釈は、相当なり立たないと見えます。
 ここで著者は、「もう一度」、「倭人伝」原文を読んだとしていますが、へえ、いつ、最初に読んだのかと、揚げ足を取られる書き方です。
 行程記事の「到」、「至」使い分けを、自力で想定したのなら大したものです。
 ただし、「漢字源」に頼ったのは、勿体無いのです。中国の教育訓練を卒業した優等生であった「使者」が書いたのは三世紀、二千年近い昔です。「漢字源」の編者には、理解困難でしょうが、問い詰めるのは、気の毒です。

 「倭人伝」に書かれていることが、どんな趣旨か知るには、まずは、文脈を解する手順が最優先であり、併せて、先賢諸兄姉の意見を、謙虚に「聞く」必要があります。なんにしろ、辞書をこじつけの手段にしてはならないのです。因みに「聞く」とは、意味を理解し、裏を取るということです。念のため。

*「到」と「至」~行程記事の句読点
 普通に考えると、「到」は、「至」で連なる行程記事の区切りと見るものでしょう。つまり、行程記事は、郡内行程、つまり、郡から狗邪韓国まで七千里が「第一区分」、続く伊都国までの倭地周旋五千里が「第二区分」と見る「行程二分説」が、理解しやすい区切り方でしょう。この程度であれば、現地事情を何も知らない読者でも、簡単な思考実験だけで理解できるのです。
 「伊都国を行程の終止」とみるのは、郡使の目的地とされているのがよく分かります。大抵、伊都国以降が行程の続きと誤解されていますが、伊都国以降は「参考」として書かれている言わば後世付け足しの「第三区分」だと理解すれば、行程記事全体が筋の通ったものと見えます。
 当時、皇帝にも、そのように明解に読み解けたから、「倭人伝」は受け入れられたのです。

*「水行陸行」の意味の採り方
 ここは、著者の異例の信念なので、反論が困難であり、どうしてそう思うのか、と言うだけです。と言うものの、著者は、結局、断定した後で、意味が分からんと投げ出しているのですから、苦笑するしかないのです。もう一度、参考資料を探し求めて、じっくり読んでみたらいかがでしょうか。中には、正解を射止めている人もいるはずです。
 丁寧に説明すると、中国語を構成している漢字は、二千年以上、ひょっとしたら三千年前から、高度な文書構成に用いられていて、特に、「行」のような基本的な文字は、多様な場所で多様な意味で使われているので、二千年前の文書でどのような意味に使われているかは、まずは、その文書の前後関係、文脈で判断する必要があり、辞書に頼るにしても、使われている文脈から判断する必要があるのです。これは、文書解釈の基本の基本なのですが、「二千年後生の無教養な東夷」、いや、ほんの数世紀後生の中国教養人すら、しばしば見過ごすので、字書頼りで見間違えることは、よくあるのです。

*「倭人伝」の「水行」、「陸行」考察
 ここは、一部で誤解している論者諸兄姉の見解のように「使者の書き綴った気ままな旅行記」でなく帝国公文書という高度な公的な記録なので、「陸行」は陸上のある場所から別の場所に街道を移動する意味であり、しかも、国営街道「官道」として整備された「陸道」、「公道」を移動することに決まっているのです。「公道」は、英語で言うHigh wayですが、これは、日本語の「ハイウェイ」とは若干異なり、「高速道路」などではなく、国家制度で決まった「公定道路」なのです。
 さらに言うと、水の上に道を引くことはできず、いくら機敏な馬でも、「後足が沈む前に前足を繰り出し、それが沈む前に後足を引き寄せる」曲芸はできないので、本来、海の上を行く「水行」はあり得ないのですが、「倭人伝」では、前代未聞の海上公定道路、「水道」の意味に、先行して定義することにより、特に、限定的に使用したのです。
 あえて「海道」、「海路」と書かなかったのは、そのような言葉がなかったから、「存在しない言葉は、使用できなかった」のであり、他に策がないので、仕方なく渡し舟による渡海行程を、一般用語として使用例のある「水行」と呼んだのです。つまり、「倭人伝」では、「水行」を河川航行とするありがちな用法は、当然、自明の不文律により固く禁止されているのです。
 と言うような、伊予なまりで言う「あつかましい」、つまり、繁雑な』解釈が必要不可欠なのであり、そのような解釈が取り入れられていない現代日本辞書の用例、しかも「行」の一字の何千、何万ともあると思える中国、ないしは、日本の用例から、ポツンと選んだ解釈の一つに飛びつくのは、正確な解釈にほど遠い臆測になる可能性が、大変高いのです。

 言うまでもないのですが、陳寿は、著者の使用された辞書を見たわけではなく、また、田中氏の流麗な日本語解釈を見たわけでもないのです。くれぐれも、史官として不勉強だなどと非難しないでください。

*魏志倭人伝の行程を比定する
 弥生時代後期の対馬国の形状を推定する
 どうやら、著者は、「三国志」現存刊本のうち、「紹興本」に依拠したようですが、根拠史料を明記していないのは、不備/不審です。
 また、なぜか、対馬の島々が海流による浸食で、現状と異なった形状をしていたと決め付けていますが、古田武彦師が第一書『「邪馬台国」はなかった』の一大国論義で提示したように、二千年間に壱岐の島が浸食/縮減されたというのでなく、海流に乗って流れ来る砂によって「対馬の島々が成長して現代の形状になった」と主張するのは無法です。
 対馬は、堅固な岩山であり飴細工ではないし、と言って、その間に水でふやけたのでもないと見えるのです。対馬には、太古以来土砂を運んで堆積する大河は、ほぼ皆無であったので、現代地形でも、扇状地は数少ないのです。
 因みに、対馬、壹岐を包み込む「大海」は、滔々たる大河の風情があり、まことに悠揚迫らぬ「大河」なのです。海流、潮流が競り合っている「瀬戸」の形勢とは、全く異なるのです。

 なぜ、著者が、行程の通過点に、ここまでこだわるのか、不可解であり、随分損しているので、もったいなく思います。

 丁寧に言うなら、帯方郡を出て船で狗邪韓国に着く」という解釈を何の気なしに取り入れることによって、こじつけ、誤解の産物である俗説に取り込まれているのは、無理からぬ事としても、それ自体途方もない「夢物語」なのですが、話すと長いので、別の機会に譲ります。

                                未完

新・私の本棚 海戸 弓真 「邪馬台国は四国だった」 女王卑弥呼の都は松山 3/4 補充再掲

 eブックランド (アマゾン) 2018/09/11
 私の見立て★★☆☆☆ 労作 前途遼遠    2023/09/22 2024/02/13

*一大国~海流に削られ/膨らむ島々
 対海国論の「方四百里」の後回しでの「方三百里」論は納得できないのです。
 著者は、対馬島が海流浸食から魔法のように復元したとしますが、著者の知る瀬戸の島々は、そうして伸び縮みしたのでしょうか。対馬は、海中に岩山が聳える形状で、海流で削られないはずであり、まして、そこから復元するとは思えません。
 壱岐は、盆を伏せたように背の低い、ほぼ真ん丸の島の四囲に海浜が見え、砂浜が海流で多少削られることはあるでしょうが、それにしても、河川による沖積もあって、平衡が取れているように見えるのです。先に述べたように、壱岐が、激流に揉まれて、消しゴムのように細り続けていると感じた方がいらっしゃったのですが、多分、その方も、瀬戸内、それも、来島海峡、鳴門海峡、さらには、関門海峡の早瀬の波涛の様子で連想したのでしょうが、何かの勘違いでしょう。
 本当の意味の「瀬戸内」は、東西の瀬戸に挟まれた浩瀚な燧灘であり、ここは、島影もないので、激流は無いのですが、これは、余談でしょうか。

 いずれにしても、行程で三度渡し舟に乗って、州島、つまり中之島を跨いで越える「対馬海峡」は、当時の中国語で珍しくない「大海」と紹介されていて、特に、「瀚海」と言うように、広々とした(塩水で飲めない)「内陸」の流れであり、水深も結構深く、また、干満するとは言え潮流は見当たらないので、激流と見えず、むしろ、中原人が見なれている大河、河水(黄河)のように「淡々と」流れているように見えるのです。
 要するに、当時の中国人が見たことも聞いたこともない瀬戸内のように、干満が激しい波涛に曝されているわけではないのです。

 ここで、珍しく、原文、それも、句読のない白文を書き流していますが、つづいて、わけのわからない/意味の通らない/理解困難な日本語訳が付いて、原文掲示の趣旨が不明です。筆者は、すらすらと読解できるのでしょうが、一般の読者には、「珍紛漢紛」(ちんぷんかんぷん)です。

*泥沼の「方里」こじつけ
 突然「方可三百里」としますが、議論を「漢字源」に付け回し、根拠なく「使者実測」として、そのヒントを正体不明の野津清氏につけ回していては、説明になりません。
 それどころか、根拠不明の「三百里」を島囲と決めつけ、現代地図で「精測」した四十三㌔㍍を根拠に、一㌔㍍七里としていますが、自認のように島の外形は、誠にあてにならず、現代地形から恐らく国土地理院が制作した地図から「倭人伝」の深意を推定するのは、不正確この上ないのですが、野津氏の責任としたのでしょうか。
 ここでの小説家高木彬光氏の「考証」は、素人考えに過ぎず、前後不覚、何しろ意識不明ですが、邪馬台国論で、高木氏の所説があてにならないかもしれないのは常識」として、高木氏も、このような場違いの席で、野津氏の後ろ盾として引き合いに出されて、またもや批判の的になったのでは、たまるまいと思います。

 と言うことで、著者は、一里は0.14㌔㍍(現代中国語で、「公里」)、百四十㍍程度と決め付けます。この検定には、疑問と言うより否定的で、「到底賛成できない」としておきます。

 因みに、著者はここで「餘」の解釈を決め付けますが、一大国「可三百里」は、「言うなら三百里としておく」との表現です。また、全般的に登場する「餘」が、「多少多い」との解釈は、時に、頑固にしがみついている人がいますが、「倭人伝」の筋道からして、計算にならず、「明らかに謬り」ですが、場違いなので留め置きます。

 両件併せて、大事な事項で勉強不足のように感じますので、率直に指摘します。

*末羅国から弓なりの曲折を経て辿り着く伊都国
 著者は、原文を大きく離れた空想世界を繰り広げます。現代地図らしくJR線路が「紆余曲折」しますが、原文にそのような曲芸はないので、不合理です。陳寿が、JR線路入りの地図を見たはずはないのです。
 著者は、末羅国を、「到」、「至」論で決め付けた「下関市千代裏町室津」としますが、論理が通らず、混乱していると見えます。一大国始点方角がないのは、引き続き南に進んでいるからです。勝手読みが昂じていて心配になってきます。
 続いて、伊都国は、さらに空想行程を流れていて不審ですが、郡使者が着いていた伊都国が、九州島を外れているのは、大変困ったものです。大事な「倭人伝」の大事な書き出しで、『「倭人」は帯方の東南に在る』と明記されているので、これを大きく踏み外していては、陳寿が、冒頭で大嘘をついたことになりかないのです。
 なお、以下、奴国、不弥国は、既に書いたように、行程の圏外なので、外します。

 チラリと覗くと、著者は、許多ある先賢諸兄姉の諸説から、田中俊明氏の飜訳と野津清氏の方位解釈を、自説に合わせやすいと見くびっていますが、正確な検証無しに、通りがかりの落とし物をぱくつくのは、身体に悪いのです。「倭人伝」に関して何を言っても、口先のこね回しでこじつけられたら良いというのは、両氏の言としても、よい子が真似すべきでない詭弁に加担していることになるのです。「倭人伝」を好きなように書き換えて、気がすむのなら、最初から、倭人伝を持ち出すべきではないのです。

*無視された常識~喪われた初心
 方位解釈で言うと、どんな未開発地でも、その地の東西を知るには、「太陽の南中の方角で南北を知った後、それと直角に東西を求めれば、季節に関係なく正確に知ることができる」のに気づいていないのです。それは、小学校理科程度なので、ここでは、くどくど述べませんが、著者が、自説に有利ということで、野津氏の暴論を検証していないのは、誠に残念です。

 要するに、野津氏は、「倭人伝」を端的に解釈しては、氏の我流論義/さらには、氏の属する学派の論義に不利なので、懸命にごまかしているだけなのです。良くある話ですが、「子供だまし」の「こけおどし」に巻き込まれてはならないのです。

                                未完

新・私の本棚 海戸 弓真 「邪馬台国は四国だった」 女王卑弥呼の都は松山 4/4 補充再掲

 eブックランド (アマゾン) 2018/09/11
 私の見立て★★☆☆☆ 労作 前途遼遠    2023/09/22 2024/02/13

*奇怪な捏造
 野津氏は、現代中国船員(正体不明、根拠不明の憶測)が、海図や羅針盤、六分儀などの高度な手段を使用せず、太陽の方角と太陽暦の日付から、方位を暗算するとしていて誠に奇異ですが、それを二千年前の使者の方位感と連動させるのは、誠に奇異で、神がかりと見えます。
 いや、確かに、現代にそのようなインチキ航海術が横行しているのでしょうが、それは、帯方郡の役人のように、正規の教育を受けているものには、あり得ないのです。また、古代中国は、月の満ち欠け、出没をもとにした暦で動いていたので、太陽暦は、通用していないのです。

 著者が、このような「神がかり」を信じるのは誠に残念です。

 地軸が傾いているのは、現代人ならではの知識ですが、東西南北の方位決定は、そのような見当違いの知識とは関係です。「子供だまし」と言いかけたものの、現代の小学生は、当然知っていて、子供は騙せず、小学校の学習を忘れた年長者しか騙せないのです。
 因みに、「緯度」と題していますが、「倭人伝」に「緯度」など一切書かれていなくて、掲げられている現代地図にも存在ないので、この議論は、丸ごと「ゴミ」なのです。

*無法解釈の先例
 因みに、田中俊明氏が、「会稽東治」を「会稽」と「東治」に分解し「東治」を「東冶」とする改竄、無法解釈を、著者が信じ込んだのは残念です。根拠のないこじつけは、まずは、疑ってかかるべきなのです。

*無理な誘致努力~なせばなる
 著者が、「邪馬台国」伊豫誘致「比定」キャンペーン(軍事作戦)で呼び寄せた援軍の胡散臭い議論で、ここまで辛抱していた耳を傾けていた読者が、一斉に引くのが見える気がします。姿勢を考え直した方が良いかと愚考します。

邪馬台国の都は松山である
 突如、難路の果てに、「現在形で絶叫している」のは、余程行き詰まったからでしょう。それにしても、「松山の人」が、ほとんど邪馬台国」の所在地と思わないのは、「日本」古代史で、温泉や斉明天皇滞在の「伝承」はあっても、「卑弥呼」伝説は史書にも地域伝承に一切ないので、むしろ当然でしょう。もちろん、学校で習わず、試験にも出ないから、知らなくて当然でしょう。
 因みに、現代人にとって、「都」は、「市町村」の上に来る、おおきな「まち」に過ぎず、物々しく訴えても、空振りするだけです。
 古代、伊豫国司は今治であって、松山はむしろ後出であり、しかも、「邪馬台国」存在の記録が、まったく残っていないのは、納得されないでしょう。

 以下、一段と胡散臭い段落が続きます。

*科学を超えた奇観
 確かに、「白石の鼻巨石群」と淡々と称されている石組みが現存しているのでしょうが、人工的と断定するのは大いに無理でしょう。
 気安く引き合いにされた「ストーンヘンジ」は、陸地に巨石が列置、配置され、人手と時間次第で構築できますが、当巨石群は、海渚浅瀬で足場が悪く、木組み縄掛けして吊り下げ移動などできないので、巨石郡を構築しようがないのです。これほど不定形では、近代技術でも、計測不可能です。
 頂部巨石を、所望の方角に向けて精密に整列するには、コンピューター制御重機群と熟練運転者が不可欠です。つまり、実行不可能な法螺話です。相手にしてはならないのです。

 当巨石に関する「古代人工説」は、その当時、毎日新聞専門編集委員であった「佐々木泰造」氏が、同紙夕刊の連載コラムで、思いつきを書き立てたために、権威ある全国紙毎日新聞社の支持するものと誤解されて、世上に広がったようですが、当ブログで早々に論破したように、学識に乏しい素人が、専門家の検証を仰ぐことなく「でっち上げた」、不合理な夢想に過ぎないのであり、学界で検証されたものでもなく、毎日新聞社が支持しているものでもない一個人の所感/意見/思いつき/落書きなので、真面目に自説の論証を勧めている著者は、不合理な「与太話」として、早々に棄却すべきです。要するに、著者所説は、このような「与太話」に関わらなくても、まったく問題無いので、程々に扱うべきです。
 以下、著者は、四国各県各地の郷土史資料を提示していますが、どう見ても、三世紀当時の「倭人」統治者の居処と見られる発掘例は見て取れません。但し、限られた国家予算を、吉野ヶ里と纏向の大規模発掘に消尽しているため、他地域は、何かの開発計画の際以外、大して発掘できていないのですから、「結果」が出ていないのは、排除する理由にはならないのです。一部で燻っている『四国に「邪馬台国」遺跡無し』は、必ずしも正確な見解ではないのです。

 諸兄姉の著書を見ていただけば、北九州「筑紫」の厖大な出土物に圧倒されるはずです。並記すると不利なので取り繕ったのでしょうが、無理な比定地を担いだ不利は、余程の努力がなければ克服できないのです。

*閉店の弁
 ここで持ち分が過ぎたので、閉店とします。
 丁寧に助言したので、苦言連発は、ご容赦いただきたいと思います。

*参考記事
 下記は、世間に余りにも杜撰な「比定説」が氾濫しているのに呆れて、無理矢理創作した「合理的比定説」の見本(フィクション)であり、事実とは異なるので、よい子は真似しないように。
 古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 序章  1/5 補充版

                                以上

2024年2月12日 (月)

新・私の本棚 番外 上村 里花 毎日新聞 「邪馬台国はどこにあったのか」賛辞再掲

「考古学界で優位の近畿説に反論 九州説の「逆襲」相次ぐ理由は」
 毎日新聞 2020年7月21日 10時20分  (最終更新 7月22日 15時19分)
 私の見立て ★★★★★ 絶賛 毎日新聞古代史記事の復興 に期待 2020/08/01 補追 2023/01/16 2024/02/12

▢補追の弁
 当記事は、初見時に、冷静、確実な取材と卓越した筆致に感動して絶賛したのだが、今般、某同僚記者の杜撰な「古墳」談義を読まされて批判記事を挙げたことに影響されて、同紙の名誉回復の趣旨で再掲したものである。
 今次補筆(2024)は、参照された方があったので、手を入れただけである。

〇はじめに
 当ブログ筆者は毎日新聞宅配購読者であるが、当時、留守で宅配停止していたのでWeb記事で拝見した。
 本記事は、全国紙に冠たる毎日新聞の古代史記事の復興と見て、勝手ながら賞賛した。従来、同紙で散見した纒向中心の安直な提灯持ち記事と異なり、冷静な目配りで一般読者(納税者)に、古代史に関する適確な視点を提供する記事であるので、ことさら目立つ言い方をしたのである。

 記事中紹介されている片岡氏の著書の原文を入手するのに日数を要したが、確認した所では、記者の読解力は適確であり、先輩諸氏の変調と無縁である

*報道ならぬ騒動
 見出しが半ば揶揄しているが、末尾の高島氏の談話が説くように、「学界で優位」、「逆襲」は、復讐も逆襲もない学問論に不適切である。

*考古学界の動向
 いや、正体不明の考古「学界」であるが、実際は、とかく表層で喧噪をまき散らしている「風聞」集団がすべてでなく、良識を有する研究者/論者が、寡黙な大勢を構成していると信じている。
 片岡氏の論議であるが、劈頭、まずは、纏向が支配的な学界風聞の引用である。学術発表が「報道」されていれば引用できるが、同紙を先頭に「ヒートアップ」とか「近畿説で決まり」など、野次馬好みの喧噪が、伝統ある全国紙に書き立てられているのは、報道機関として「世も末」である。
 そのような風潮に抗してか、片岡氏の論議は、概して冷静で、学界に蔓延る軽率な風聞を窘め、まことに貴重である。

 ただし、別記事(近日予定)書評で歎いたように、氏は、遺跡、遺物の研究を専攻している考古学者であり、同時代文献、つまり、中国史書(の燦然たる一章)「倭人伝」の解釈では、「専門家」のご意見を拝聴した感じであり、そのため、原文解釈ではなく、「手前味噌」が堆い(うずたかい)国内通説、俗説依存の和流「読替え」訳文(本意か不本意かは不明であるが)忠実に信奉し、原文の意義を、元から取り違えて伝えていると見える点が、氏の折角の冷静な論議の脚もとを揺るがして、何とも「もったいない」。
 それに付随して、氏の中国「古代国家」観は、時代離れした後世/異郷史学論法に染まっていて、立て続けに空を切っているので、ここではひっそりと治癒を祈るものである。もちろん、以上は、氏だけの宿痾ではないので、気に病まないで頂きたいものである。

*時代錯誤「訳文」に依存~片岡氏批判
 端的に言うと、「倭人伝で晩年の卑弥呼は、千人の侍女をはべらせ、常に警護がつくなど、強大な力を持った姿で描かれる。しかし、それは半世紀近くの治世の間に生まれた権力で、当初はクニグニに「共立」された弱い存在に過ぎなかった。(後略)」と時代錯誤訳文に、赤々と染まっているが、このように「翻訳」文に惑わされたために生じたと見える、苔のように纏わりついた先入観を取り除き、描かれている原文に回帰して、その真意に密着すると、以下の判断が提示できるはずである。

 倭人伝の原文から考えると、ここにでっち上げられた「晩年」は、二千年後生の無教養な東夷が、勝手に「共立」の時代比定と卑弥呼の年齢推定をずらし、挙げ句に、長期在位」としたお手盛りの年齢を押しつけただけであり、当人は、老齢でもなかったし、また、神ならぬ身で、自身の死が近いとは思っていなかったし、また、老人でも病人でもなかったと見えるから、「晩年」決め付けは、「倭人伝」と無縁の事実無根である。
 婢千人は、侍女とは限らないし、女王が、身辺に多数の女性をはべらす意義も不明である。「王治」(後漢書にいう大倭王の治所 「邪馬台国」)の警護を想定しているが、「倭人伝」にかかれた諸「国」に城壁のある要塞は存在しない上に、「強大な力」は、後生東夷が勝手に創作した幻影である。陳寿「三国志」魏志「倭人伝」には、「半世紀近」い 治世も、クニグニに「共立」されたのも書かれていない。
 少なくとも、「共立」は二者以上、三者以下と見えるが、「クニグニ」と書き殴って多数、三十ヵ国と思わせるのは、狡猾に過ぎる。何しろ、「倭人伝」に「クニグニ」などかかれていない。とにかく、有る事無い事てんこ盛りの「ごった煮」に見えて信用ならない。
 そもそも、衆議一決して排斥されるほど強力な男王を継ぐ王は、本質的に弱い存在ではないから、朝議に参加させなかったのであろう。それにしても、文書行政でない古代君主が、朝廷御前会議を主宰せずに、どうやって、強力に統治できたか、不明である。

 以上の不都合は、女王の「性格」(片岡氏の手前味噌造語)を纏向から九州北部を「強力に支配」した権力者のものに仕立てた創作、つまり、原文に無い「俗説」満載の創作劇に起因するものに過ぎない。言うならば、「魏志倭人伝』が描いた邪馬台国』も、同様の背景による「俗説」の被造物である。「我田引水」に荷担するのは、せめて、最低限、十分に史料批判した後のことに願いたいものである。

*切望される原典回帰~片岡氏批判
 当記事を魏志に採用した陳寿は、同時代史家であり時代錯誤にも、和風意識も無縁である。心ある考古学者は、陳寿によって、女王の墓碑銘として構想された「倭人伝」の泥や苔を洗い落として欲しいものである。

*冷静な総括
 末尾の高島氏の談話は、冷静な指摘であり「逆襲」などではない。「現在の考古学界にはそれが決定的に欠ける。それが問題であり、課題だ」と適格に断じておられるが、「問題」、「課題」には、編纂者である陳寿によって、明快な解答、是正策が示唆、ないしは予定されているはずである。ぜひ、高島氏の慧眼で模範解答をお願いしたいものである。
 古代ギリシャの挿話「幾何学に王道なし」の流用であるが、中国古代史文献に「ジーンズとスニーカー/サンダル履きの散歩道」は無い。

〇まとめ 河清を待つ
 本記事は、全国紙の古代史記事の「正道」を想起させる。諸先輩は、何度でも顔を洗って、原点から出直してほしい。
 時を経て、人が代わっても、毎日新聞の泥や苔にまみれた古代史記事は残るのである。と言うか、当分野の先賢諸兄姉の一部の通説に媚びた「曲筆」三昧は、永久に残るのである。

 その意味でも、当記事は、担当記者の清新さが感じ取れて、清水再来(clear water revival)を待望するのである。
                                以上

2024年2月11日 (日)

倭人伝随想 14 太平御覽 「魏志に云う」 の怪 1/2 更新

                          2019/02/08 2024/02/11
*倭人伝談義
 当方は、一介の私人であり、一千巻にのぼる大冊の太平御覽(以下、御覽)全般について史料批判するなど論外です。
 語りたいのは、御覽の「」記事の魏志引用で「邪馬臺国」(耶馬臺国)と明記されているという点に絞った議論です。(卷七百八十二 四夷部三 東夷三 俀)

 結論を言うと、御覽編者が「魏志に云う」と宣言しても、正確な引用でなく編者が改編した結果が書かれているということです。

 これは、先賢諸兄がとうに精査済みの筈なので、おそらく、何れかで論議されていると思いますが、当方の見聞では今ひとつ明解で無いので、ここに私見を示すのです。

 太平御覽は、「中国宋代初期に成立した類書の一つである。同時期に編纂された『太平広記』、『冊府元亀』、『文苑英華』と合わせて四大書と称される。李昉、徐鉉ら14人による奉勅撰であり、977年から983年(太平興国二ー八年)頃に成立した」(Wikipedia)とされ、西暦十世紀後半、北宋期のものです。以下、御覽引用/所引の魏志を「御覽魏志」といいます。

*先行資料の優越性
 現行刊本に見える「魏志」は、御覽編纂より後年、西暦十二世紀の南宋刊本に準拠することから、先行した御覽魏志の方が三国志原本に近いと「推定」されています。して見ると、「御覽魏志」が参照した陳寿「魏志」に「耶馬臺国」と書かれていたものが、南宋刊本は、以後の誤写で「邪馬壹国」となったものに違いない、とは、世上よく見かける臆測/未検証の論調です。

 しかし、大局的に御覽記事を見ると、まず、笵曄「後漢書」記事が引用され、倭女王ならぬ大倭王が「邪馬臺国」を居処としていると明記されています歴代史書で、司馬遷「史記」、班固「漢書」に続いて、笵曄「後漢書」が「三史」の掉尾として参照されたものです。そのように、笵曄「後漢書」によって国名を確定した後に、続く陳寿「三国志」「魏志」の当用写本を参照し「邪馬壹国」は「耶馬臺国」の誤記として改編したと見れば、笵曄「後漢書」「邪馬臺国」が陳寿「三国志」「邪馬壹国」に優越したのは、別に不可解ではないと思われます。

*史料批判の試み

 しかし、後世人たる当方は、どの時点であろうと、原文を改編したと思われる引用文は、そのまま承認することはできないのです。

 と言うものの、御覽編者を弁護すると、その手元に届いた魏志第三十巻の東夷伝「所引」は、何れかの時点で、後漢書をもとに訂正されていた可能性があり、編者は、採用所引に従っただけかも知れないのです。(経過が不明なので、どんな可能性も、否定できないという趣旨です。)

 そのような「懸念」を排除できないのは、これほど権威を与えられた編者が、あえて原文を改編して「云う」としたのは、時代の史料解釈定説に従ったと見られるからです。云うならば、編者が手元史料として利用した当用写本が、既に「耶(邪)馬臺国」と改訂されていた可能性を見のです。

*原本不可侵
 とは言え、いくら同時代解釈が有力でも、さすがに、帝室所蔵の原本の改竄はできなかったので、厳格に写本継承された成果と見える陳寿「三国志」南宋刊本への信頼は維持されているのです。

                               未完

倭人伝随想 14 太平御覽 「魏志に云う」 の怪 2/2 更新

                          2019/02/08 2024/02/11
*御覽編者の誤解
 以上は、笵曄「後漢書」をもとにした改編の疑惑ですが、「御覽魏志」は、他にも、南宋刊本の字句を整形して、自身の解釈に沿うように訂正している例が見られます。原文の忠実な引用でなく、編者の解釈で改編しているのです。編者に云わせると、それは、当代最高の知性による至高の編集であり、原典は原典として、十分尊重していると云うでしょうが、ここでは、無批判で追従はできないのです。

*継承と改編
 件の「邪馬壹国」と「耶馬臺國」の対照部は次の通りです。
 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戶    南宋刊本
 又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都其置官曰伊支馬次曰彌馬叔次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮   御覽魏志 (影印複写 末尾)

 「邪馬国」「彌馬」と「耶馬国」「彌馬」などの違いを除くとほぼ同一の文字が書かれていても、語順を変えたために意味が変わっています。

 「水行十日陸行一月」は、行程「従…至」が不明なものが、「至耶馬臺国」行程とされ、戸数「七萬戸」も「耶馬臺国戸数」とされ、行程は「又」で繋いで放射状行程が成り立たなくしていて、至って明快です。
 但し、三世紀の読者に迎合した原文を、千年近い後生の当代読者に迎合して「明快」に書き換えた解釈が正しいかどうかは別であって、原文の忠実な再現でないことは明らかなので、所詮、「誤解」に類するものと見られます。

*誤解の由来
 そのような改編は、写本誤写では起きず、また、別史料に依存したものでも無いので、御覽編者としての権限を持つ権威者の見識による「校訂」であり、「御覽魏志」の史料としての信頼性の限界を示すものと思われます。

*結論

 端的に言って、御覽魏志」の「耶馬臺国」は陳寿「三国志」「魏志」の正確な引用とは思えないのです。又、「御覧魏志」の改編が御覽が創始したものなのか、先行資料の継承なのか、も、当然ながら不明です。確実なのは、陳寿「三国志」、笵曄「後漢書」以後の史料に「邪(耶)馬臺国」とあっても、その時点の陳寿「三国志」「魏志」原本に「邪(耶)馬臺国」と書かれていた証拠にならないのです。

 ここまで流していますが、「御覽」の公開資料は、全て、「後漢書」部は「馬臺国」、「魏志部」は「馬臺国」であり、文字不一致は何とも不可思議です。又、笵曄「後漢書」、陳寿「三国志」「魏志」から始まる所引記事で、全体を「倭」でなく「」としているのも、気がかりです。
 大冊の編纂作業に、玉石混淆の大勢で取り組んでいて、内部資料に草書を多用したために、例えば、「邪」が「耶」に化けたのでしょうか。「わからないこととはわからない」としか言いようがないのですが。

 言うまでもないでしょうが、世間で通用している写本に「時代誤記」が発生しても、帝室所蔵の同時代原本には一切影響しないので、「時代誤記」は、まるっきり継承されないのです。これだけは、不変不朽の真理です。

*保守と創造
 後世人には、頑固に三国志原本の「みだれ髪」を保守する原典志向の史官と同時代読者に向けて髪の解れ(ほつれ)を櫛けずる創造志向の類書編者との違いを弁えず、頑なに俗説を言い立てる方が絶えないのです。

 くれぐれも、思いつきの先入観に囚われて、無理な深読みをしないことです。個人的な意見ですが、真相はいつも明快なものと思うのです。

以上

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2024年2月10日 (土)

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 1/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱

*はじめに
 最初にお断りしておきますが、当ブログ筆者、以下当方は、伊藤氏の当著作は、論理的で誠実なものと見ています。
 ただし、氏が重用する倭人伝「改ざん論」は、熱意の空転であり、云っていることは無意味(ナンセンス)と考えます。ここで無茶を言ったため。折角の好著がドブに落ちています。

*誠実な論考
 誠実は、まずは、論者としての誠実さであって、例えば、倭人伝を解くのに、まず、紹凞本(?)のテキストを元にPDF文書、当然、漢字縦書き、を作成し、その労作全体は巻末に収録しつつ、本書全体で、当該文書の一部を取り出して表示した上で論じていることです。

 当方も同様の試みに取り組んだことはありますが、何しろ、当方の主媒体であるブログは、縦書き表示が大変難しいのです。縦書き表示自体は、設定可能ですが、閲覧操作が、大変わかりにくくなるので断念しています。というものの、縦書き史料のPDF画面コピーを挟んで議論するのも、一段と難しいので足が遠のいているのです。

 この点、伊藤氏に敬服するものです。

*とんだとばっちり~余談
 また、使用図版類の原典、出典を明らかにし、これを自身の責任で編集したことを都度書き添えていることは、当然ながら中々できないことです。

 ここで殊更言い立てるのは、当方の見るところ、古代史分野の他の著者には、現代の国土地理院地図データの個人的利用が許容されているのをよいことに、カシミールなどのアプリでデータを図示したと見られる地図を千年以上前の地図と見せる悪用例が、少なからず出回っているからです。
 一番甚だしいのは、一時、毎日新聞夕刊の「歴史の鍵穴」と称する謎解きコラムであり、毎日新聞社専門編集委員なる金看板の元に、例えば、奈良県の山中から愛媛県松山市の海岸まで山並と海を越えて、真一文字に直線の見通しが通っているような図を載せて、自説の裏付けとしていたものでした。権威のある肩書きの人物が、堂々と全国紙の紙面を飾っていたので、当ブログでは、毎回地図悪用を見る度に非難したのですが、どうも、ご当人は無視したようで、未だに、いらだちが燻ってるのです。もちろん、この架空地図捏造は、当該非専門家がゼロから創始したのではなく、新書歴史本などに源流があるのですが、見るからにインチキ本なので、批判はそれほどでもなかったのです。

 そのような地図データの「悪用」は、国土地理院、カシミールのサイトの利用条件に書かれていない筈の保証外の流用であり、よって「不法」(犯罪)なのです。誰にも、今日の地図データを、一千年前、二千年前に適用できないのも明白です。

 と言うような、ご自身には、何の責任もない地図データ悪用論のとばっちりは余計なお世話でしょうが、反面教師を出して、氏の論考を賞賛しているので了解いただきたい。

*「倭人伝」復権の時
 別に、氏の責任ではないのですが、「倭人伝」の位置付けを俗信に頼るのは感心しません。
 本書でもあるように、「倭人伝」は、魏志第三十巻の巻物から抜き書きした時代以来、独立史料として扱われていて、宋朝の叡知を反映した紹凞本は「倭人伝」と見出しを立て前段と分離しています。

 ぼちぼち「倭人条」などと格下げするのはやめるべき時が来ているように思います。

                               未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 2/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱

*壮大な抱負
 氏は、次の三原則を抱負として打ち出しています。
 倭人伝の『「邪馬台国」位置研究』へのアプローチ法として、次の三つを念頭に置いて「魏志倭人伝」の解読に臨みたい。
㈠ 基本的に「魏志倭人伝」の記述は正しいと考え、安易な読替えは行わない。
㈡ 推論の根拠はできる限り「魏志倭人伝」の記述の中に求める。
㈢ 考古学的成果を、予断を以て「魏志倭人伝」記述と関連づけることは避ける。

*発進脱輪
 但し、氏は、忽ち『「魏志倭人伝」後世改ざん説』を提唱し、先のアプローチとの齟齬への批判の言い訳に「自身に都合の良い読替え」を卒然と否定します。
 つまり、アプローチと現実は別のようです。
 一応三原則で始めても、一旦予断を形成したら、忽ち自己流「倭人伝」を構成するのは、首尾一貫していません。
 帯に言う『邪馬台国の位置は「魏志倭人伝」に正確に書き記されていた!』は、結局、我流、お手盛りの「倭人伝」談義であり、通りがかりの読者には虚言です。

 以上の点は、氏の基本的な執筆姿勢に反するものと考え、減点しています。

*残念な勘違い
 倭人伝旅程記事の「ごく一般的な現代語訳」は、責任者不明です。
 大は「邪馬台国」なる非倭人伝用語、小は諸処に軽率な誤訳、果ては、古代にない「ゼロ」整形多桁数字までてんこ盛りで、不適切な代物です
 現代語で示す概念は三世紀に存在しなかったので、現代語訳は意味がないのです。

*誤訳が呼んだ進路錯覚
 結局、訳者不明の現代語訳の勝手な解釈が、伊藤氏の方針選定を誤らせたと見えます。最終旅程南に水行十日、陸行一ヵ月で、女王の都である邪馬台国に至るは、ごく一般的な誤訳です。
 文章明快な現代語訳が読み解けないのは、誤訳の可能性が最も高いのです。 

 氏の漢文は「南至邪馬台国」ですが、現行刊本は「南至邪馬壹國」です。「倭人伝」に「邪馬台国」がないのは、初学者にも周知の事実です。

 ついでながら後ほど出る「原本(陳寿のオリジナル文)」なる意味不明の語句も困ったものです。陳寿は、三国志を盗用や複写でなく「オリジナル」な著作物として書いたのです。とは言え、倭人伝「陳寿原本」はとうに消滅していて、それが自然の摂理というものです。

*旅程の終わりの始まり
 できるだけ原文の語順を保てば南して邪馬壹国に至る。女王が都するところである。水行十日、陸行一月であると読みくだすことができます。(撤回済みの誤解です)
 ここで、出発点を伊都、不弥、投馬のいずれと解釈しても、取り敢えずは、作業仮説であり、到底断定できません。

 また、水行陸行日数「計四十日」が、どこから倭都への日数と解釈しても、それは、作業仮説であり、到底断定できません。

新たな読みの提案 2021/03/30
 因みに、2021年3月末現在の解釈では、
南して邪馬壹国に至る。女王のところである。
 都(すべて)水行十日、陸行一月である」
に落ち着いていますが、これは、まだ浸透していない読みなので、提言にとどめます。


                               未完

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱

*速断の咎め
 以上は、僅かな字数ですが、編者陳寿がどんな意味(深意)を込めたか、「二千年後生の無教養な東夷」が、勝手に決めるべきではないと考えます。

 自己流解釈で明快な「現地」像を描けないなら、まずは、その解釈を疑うべきでしょう。凡そ、いかなる分野でも、新説の九十九㌫はジャンク、錯覚です。
 最初の一歩の選択に無記名現代語訳を持ち出し、読者に対する説明無しに史料改竄しているのは、氏の原則に背いていて同意できません。

 まずは、いの一番に原文表示から「邪馬台国」を外し、ちゃんと読者に向かって理由付けした上で、自己流解釈と置き換えるべきではないでしょうか。

*選択肢の明記
 また、旅程解釈で強引な議論を展開する前に、課題の部分で、伊都国から倭へ「南」する読み方も、「水行陸行」を郡以南の総日数と見る読み方も、説明無しに排除するのでなく、しかるべく審議した上で却下理由を説明すべきと思います。

 不採用仮説は、別に否定も排除も必要なく、単に氏が採用しない仮説であることが示されていれば、読者に、氏の意図が適確に伝わるのです。

 以上、是非、ご一考いただきたいものです。

*不用意な比喩

 氏は、郡から倭までの行程記事に里数と日数が混在するという「予断」を採用したため、まことに不出来な比喩を上程しています。

 軽率な比喩で、東京大阪間の旅程で、名古屋まで里数表記、名古屋から日数表記と不統一では「違和感」を生じると強弁していますが、このような子供じみた感情論を持ち出すのは、氏が時代錯誤の旅程感に染まっているからです。

 万事如意の現代は忘れて、江戸時代の東海道道中を見れば、お江戸日本橋から名古屋まで、渡し舟などを「はした」として除けば「陸行」で里数がありますが、名古屋から桑名は渡し舟で里数は無意味です。以下、桑名から西して、京に至る旅程は里数が明記できます。南は、お伊勢さん、さらに、西には、やや南寄りなから大和路、難波路もあります。
このように放射的に書くのは、別に、桑名が国都だったからではありません。交通の要路、分岐点だったからです。

 このように、行程の実質が大きく異なれば、統一できないのは当然で、それを「違和感」なる生煮えの現代語で感覚的に拒否するのは現代人という名の二千年後世の無教養な東夷の我が儘というものです。

 三世紀旅程が、氏に「違和感」(水に油が浮いている様子か、それとも、筋肉に「しこり」を感じているのか)を生じる背景には、当時、最高の知性が、長期間呻吟の上で、そう書くのを最善と判断した事情があり、まずは、底の浅い現代視点を忘れて、同時代の深甚な視点の、論理的で慎重な考察が必要と考えます。

 但し、当方は、氏のお気に入りの「里数日数混在読み」を支持しているのではないのです。

*公正ならざる両説評価

 好ましくないことに、「連続説」「放射説」の比較評価が、本来、旅程出発点で評価すべき重大な話題なのに、なぜか後回しにされています。

 氏は、既に予断を固めていて、「放射説」起点を伊都とし、倭へ計四十日とした時、違和感、疑問など、解決できない「矛盾」が多いと感じたことを根拠に「連続説」を採用します。

 早計で、予め選択肢を狭めているのは、適切な手順では無いと考えます。

                               未完

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱

*「連続説」のつけ
 一応の根拠は示したものの、以下の進行で「連続説」に不合理な難点が多いのが露呈しているので、現代感覚頼りの決めつけは早計かと愚考します。

 氏は、以下、不弥ー投馬ー倭都間旅程の高度な解析にかかります。
 「連続説」では、肝心な二区間が壮大な日数表示の上に、長期の水行が含まれ、明快な解析ができないのですが、これは、「違和感」「疑問」などと、個人の感性に左右されるものではないからで、数式解法の不備などではないのです。

▢改ざん説長談義

 と言うことで、氏は、本来明快な筈の現代語文倭人伝の旅程記事を、「自己流解釈で解読できなかった」ため、記事が不明瞭な原因は、陳寿が書いた明快な記事が、現行記事にすり替えられたものと断じています。大変な転換点なので、少し手間をかけて審議します。

 氏は、倭までの最終旅程が水行陸行四十日だけで道里不明との理解(立証されていない仮説)に立ち、書かれていない水行、陸行の速度を捻出して、その計算に合う里数記事を「創造」したものです。氏は、ご自身の労作を本来の記事を復元した偉業と見ていますが、そのような記事は、痕跡すら残っていません。倭人伝「伊藤本」とでも称すべきであり、氏の創造物です。(現代の著作物なので、著作権が発生しています)

 要するに、氏は、氏の見た倭人伝里程記事の「解読困難」を「後世改ざん」の帰結と早合点し、「なかった原型の復原」という、史料に根拠がなく仮説になれない、解答とは一切言えないロマン、夢想に取り憑かれたと見えます。

 この行き方は、氏自身が冒頭で提示した原則に、真っ向から違反しています。

*「三国志」原本の旅程
 「三国志」は、陳寿没後程なく、いち早く晋の帝室書庫に収蔵されました。陳寿は上程用に脱稿していたので、未完成でなく決定版でした。
 そして、晋朝の権威の根拠として尊重され、後に「正史」として権威づけられ史記、漢書の二史に続く第三の史書として重視されたのです。要するに、歴代王朝の「国宝」として、厳重保管され、絶大な努力を傾注して、正々堂々と写本継承されたのです。決して、非合法な異端の書として闇の世界に息を潜めたのではないのです。

 晋を継いだ劉宋の裴松之が、皇帝指示により付注した際に、異本を校勘して帝室原本に付注して、体裁刷新した「決定版」としたこともあって、裴注版三国志は広く出回り、その後に改竄版を流布させるなど不可能です。

 以後、北宋に至る各王朝で連綿として「国宝」、つまり、帝室貴重書として厳格に原本管理され、北宋、南宋刊刻時の大規模校勘もあって、原本のすり替えなどできなかったと見ます。世上言われるように、「三国志」は、古来の「正史」の中で、異色と言えるほど、版による異同が少なく、安定しているのです。諸賢の中には、これでは、行程の筆を挟む余地がなくて、「実力を発揮する余地がない、まことにけしからん」とでも言うように、歎いている方が少なくないのです。

 北宋刊刻時、「三史」の掉尾として重要視された笵曄「後漢書」は、劉宋当時に編纂されたものの、編者范曄が謀反大罪で継嗣と共に処刑されて、南朝亡国後、唐代に正史とされるまで、闇世界で低迷したものと見えますから、種々あった後漢史書の中に在って、延々と不確実/不安定な地位にあったとも言えます。
 笵曄「後漢書」が見出された唐代以降三史の地位を得たものですから、陳寿「三国志」は「正史」として四位以降の「その他」に回されたものの、「三国志」自体の評価は依然として高かったのです。

                               未完

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 扶桑社新書 219 2016年9月刊  2019/03/17 一部改訂 2021/03/30、2021/04/12, 2021/04/12 2024/02/10
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱

*すり替え考察~余談
 実際的な思考を試みると、劉宋時の「魏志」は紙の巻物と思われます。
 中国は広いので、簡牘の巻物は、骨董品価値も含めて長く残ったでしょうが、貴族、富豪など蔵書家は、早い段階で、嵩張らない紙巻物に移行したものと思います。陳寿「三国志」六十五巻は、班固「漢書」に比べて、随分細身であり、紙巻物にすれば随分手軽であり、全巻揃えても書棚に収まる程度であるので、身近に置くことができ、あるいは、軍人であれば前線の兵舎に抜き書きを持って行けるので、急速に普及したものと見るのです。

*歴博綺譚~余談
 但し、世間は広いもので、「歴博」には、三国志ならぬ、范曄「後漢書簡牘巻物の複製品」などと言う出所/由来不明の展示物があり、複製元がどんなものか、ぜひとも、お顔が見たいものです。
 おそらく、多額の複製費が国費援助で投入されたと思うので、公的研究機関の研究成果は、堂々と、納税者に対して内容展示いただきたいものです。複製品(レプリカ)は、本物と同一構成、同一技法で再現されているので、来場者が手で触れられるように配慮いただければ、笵曄「後漢書」に対する親近感が増そうというものです。

 因みに、西域、敦煌から出土している三国志の断簡は、どう見ても紙であり、東呉商人が、家宝の写しとして西域まで持参するには、紙巻物が常識となっていたように見えます。いや、分量の少ない列伝は、仏教経文にあるような折り畳み小冊子の「折本」になっていたのではないでしょうか。
 「倭人伝」は二千字程度なので、「野良写本」では小冊子になっていて、表紙には「魏志倭人伝」と書かれていたように思います。特に証拠となる文物は見かけていませんが、「なかった」と言う証拠はないように思います。

 と言うことで、南朝劉宋の史官、裴松之が、補注の際にどんな三国志を手にしていたのか、正確には今ひとつわかりません。
 袋綴じ冊子は該当二ページ単位で偽造、すり替えできないことはありません(「絶対不可能ではない」という意味であって、容易に実施可能という事ではありません)が、巻子は全巻糊接ぎ、裏打ちされていて、部分すり替えはできないのです。
 魏志第三十巻全体の帝室原本の良質複製品を入手し、巻末附近のつなぎを剥がし、のり付けを外し、全く同一の幅の偽造部と入れ替える、途方もなく高度なすり替えが必要です。
 つまり、時代原本同等の用紙、墨硯筆、写本工で同等写本を仕上げ、更に装幀専門家が必要です。門外不出の時代原本の取出し、返納も含め、まことに壮大な事業です。現代人が削除追記するのとわけが違うのです。

 別案として、原本巻子を持ち出し、該当部の墨文字を削り取り書き直すのが、断然手間が少ないのですが、持ち出し、持ち込みの不可能犯罪はこの際度外視しても、そのような手軽な書き換えが、そもそも、可能かどうか判断に困ります。

*大罪連座の定め

 いや、帝室所蔵の時代原本を勝手に持ち出すだけで死刑ものですから、偽造品とすり替えるのは、露見すれば関係者残らず一家全滅です。当人は信念で本望としても、共犯者は得られず密告されるでしょう。荷担しなくても密告しなければ共犯で、共犯連坐を免れるには、密告以外に選択はないのです。

*やはり実行不可能
 一案として、帝室書庫の時代原本更新の時期、例えば、巻子から冊子への転換の際、担当部局に大金を積んで、記事の一部をすり替えて写本させるのは、うまく行けば露見せずに済みそうですが、どれほど大金が必要か空恐ろしいほどです。また、史学者が精査して改竄を指摘する危険もあります。

 と言うことで、折角の「改ざん説」、「すり替え説」ですが、肝心の時代原本すり替えは、到底実行不可能と思われます。

 時代原本は根源であり、下流写本が根こそぎ改竄されても、根源から新写本すれば、不可能犯罪は、水泡に帰するのです。時代原本のすり替えにこだわる由縁です。氏は、劉宋末期すり替えとしているので、以上の推定ができるのです。

*改竄の動機
 以上でおわかりのように、帝室の時代原本の巻子を偽造巻子とすり替えるのは、余りにも避けがたい危険が多く、また、そのような、本当の意味で「命がけ」、「必死」の大罪を犯す動機が見当たらないのです。とにかく、正史原本「改ざん」なる刑死族滅、家族皆殺しの大罪を、誰がなぜ犯すのか。道里記事すり替えは、魏志東夷記事の些細項目の改竄、すり替えです。そんな些末事に命をかけて、共犯者を含めて大金を得ても、一族処刑されれば無意味で、家族全員の命を賭けられないのです。

 結論として、氏の壮大な「連続説」難局打開の救済策は、無理のようです。

 これだけの命がけの曲芸を持ち込めば、氏がご不快に思われた「放射説」も棄却原因となった矛盾を解消できる
でしょう。

*改竄不要の提言  2021/04/12
 ここで、せめて、建設的な意見を述べさせていただくと、安本美典氏の短里説と榎一雄氏の伊都国起点の放射経路説、加えて古田武彦氏の「水行陸行郡起点説」を採り入れると、「女王之所」は、伊都国の南というものの、概数計算の本質的な限界と原資料の持つ不確かさから、そこに達するための道里は不確定であり、手堅く見ても、最短百里未満、最長千里程度のかなり広い範囲が適用可能となります。

 一部論者の言う宮崎県域は「かなり無理」と見えます。

 「南」と言っても漠然と言うのであり、伊都国に道標が立っていれば、「南 邪馬一」と彫られていたでしょう。目前の南に向かう路を指示しているだけで、途中の東西転進は、道なりに進めば良いので始発点では言うに及ばないのです。何しろ、まともな道は他に無いので、追分(分岐点)があれば、そこで指示するだけで間違いはないのです。

 帝室蔵書改竄の大罪を犯さなくても、ある程度の範囲に誘致することはできる(否定できない)のです。

 そこで、古田武彦氏の金言が登場するのですが、「倭人伝」の文言解釈は必要だが、さらに、現地の出土物の評価が重大である、と言うことです。もちろん、筑紫地域の発掘の進展と比べて、県外地域の発掘はゆっくりしていますが、かなり有力な意見であることは間違いありません。

 と言うことで、本書を改定される際は、改竄説撤回を最優先に取り組んでいただきたいものです。要するに、当ブログ筆者の所説に同化することを提案しているのですが、この程度の手前味噌は良くあることでしょう。
 いずれにしろ、同意するしないは、氏の勝手なのです。京都のわらべ唄で言う「ほっちっち」(ほっといて)も可能です。

                                未完

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*精密計算の時代錯誤
 伊藤氏も、多くの論者と同様、現代データの古代への適用で、途方もない錯覚に陥っています。それは、各種数値の有効数字に関する時代錯誤です。

 先に挙げた問題著者達は、不法使用地図データで、ある地点と別の地点を結ぶ直線(?!)が、途中の第三地点を㍍単位で通過すると主張します。しかし、太古には、メートル法SI単位系がなく、三角測量も不可能との認識が欠けている時代錯誤です。また、堂々と、見えない日没が超高精度で見える、地平の彼方が見えるなどとしている例まであります。錯視の極致です。

 氏は、そのような愚行に染まってないと見たのですが、百十四ページに、一尺は24.12㌢㍍との錯誤が書かれています。
 古代にそのような測定/制作精度はなく、ズバッと丸めて25㌢㍍程度(有効数字1.5桁)とすべきです。現物を手元で確認できるから、尺の精度は、1㌢㍍、5㌫程度は出せたでしょうが。(いや、二本の尺を並べて末端をすりあわせたら、㍉㍍単位で整合させられるでしょうが、ここで言っている「精度」は、そういう性質のものではないのです)

 一歩が六尺というなら百五十㌢㍍程度となります。「歩」は、土地測量、つまり、農地の検地に常用されるので、一部定寸の縄なり一部単位で目印の入った縄を使用していた可能性が高いのです。但し、全国各地で、土地台帳を記帳するには、精密な測量は不可能であり、また、無意味なので、大雑把な計測が出回っていたはずです。何しろ、新規造成で縄張りした農地は、幾何学的に「矩形」、「方形」に近いものでしょうが、現地でお目にかかるのは、不規則なものでしょうから、その土地区画を、四角形と見立てて、縦、横を測寸し、掛け合わせて、土地面積と見なすことにしたはずです。何しろ、全国に幾何学的測量を施し、精緻な計算をすることは、陳湯社が揃わないので不可能であり、そのように精測しても、所詮、収穫物の計量は大まかなので、土地土地の「歩」は、精密に統一されていたとは思えないのです。
 方や、「里」に基づいた「道里」の測量となると、450㍍にも及ぶ縄は常用できないし、45㍍の縄も大変な重荷になるので、縄張りで、数百里にわたって測量したものかどうかは不確かです。街道の場合は、精々、一里塚を着々と築いて、道中の宿場で里を刻みなおしたでしょうが、行程が、海上の場合は、道里の測りようがないので、所要日数の見地から、「道里」を見立てたのでしょう。誰も、書かれている道里を、検証できないのですから、海上の場合は、それで十分だったのです。
 何しろ、未開地では、千里どころか百里単位の「道里」も、測定しようがなかったのですから、全体の「道里」の精度に見合った推定で埋めたのでしょう。
 正史の「志」部に書かれている道里は、太古に一度設定されて以来、維持されていて、「尺」の変動に連動して修正したことはありません。「洛陽」-「長安」官の道里は、少なくとも、秦漢代を通じ提示されています。

 と言うことで、勝手な考証はこれぐらいにして、氏の論考の批判に戻ります。
 この部分の過度な桁数は、引用転記に過ぎないのでしょうが、安直な誤解を広げている点は好ましくないと考えます。

*多桁表示の弊害~余談
 氏は、ご多分に漏れず、漢数字に、時代錯誤のゼロ位取りの多桁表示を多用し、有効数字が多いように演出し誤解を誘います。
 郡から狗邪韓国までの七千余里を七〇〇〇余里と書くと、一里単位まで計り、下の位を丸めた0.02㌫程度のとてつもない高精度に通じます。当時の感覚で、里程は七「千里」であり、まずは、千里単位で、五百里程度の出入りを含みうる概数なのです。(いや、二千里単位で千里の出入りかも知れません)
 当時、全桁計算可能な算盤(そろばん)も、実務での多桁筆算もなく、一桁計算で、七に一を三つ足して十(千里)、一萬里、ここで桁違いの百の位は端数で無視できます。必要なら百の位を添えて二桁計算し、十の位以下を無視するのです。そのような概数での運用であれば、高度な計算技術も不要であり、日常雑務の計算に多大な人数を注ぎ込む事もないのです。

 伊藤氏は、一里は三〇〇歩として、多桁計算後、一里四三五㍍としますが、有効数字二桁(一桁半)と見て四百五十㍍とするのが時代相応です。高精度を要しない文献批判の際には、一里を四百五十㍍と決めておいて、一歩(ぶ)百五十㌢㍍、1.5㍍、一尺二十五㌢㍍とした方が、各種計算が、有効数字二桁の概算になり、筆算しても簡単になるので便利です。お勧めの設定です。(「歩」を、歩幅に由来するとするのは、多分勘違いでしょうが、紙数がないので、ここでは割愛します)

 ついでながら、一歩を三百分の一里と見る発想は、時代錯誤です。当時半分とか四半分はあっても、桁の多い分数は滅多にないので、一里の三百等分は不可能です。現代でも三百等分はなかなかできないのです。割り切った言い方をすると、世に言う「道里」の里は、尺度の延長線上にない、別次元の単位なのです。

 土地測量の単位として常用されていた「歩」は、度量衡、尺度の単位で原器も残っている物差しの「尺」の六倍であり、以下、畝などを経る倍数計算階梯を重ね、一里=三百歩に至るのであり、一気に三百倍されるとは限らないのです。まして、道里の里を得るのに、一尺の物差を千八百倍するなど、現在の技術を持ってしても実行不可能ですから、尺を持って里を測ることはできないのです。

*丸める話
 個人批判ではない一般論として、古代史の論考において、漢数字の多桁表示はもちろん、小数表示も多桁分数もやめてほしいものです。要は、当時の数値計算、表示の概念を遠く離れた表示は、好ましくないのです。
 そのような事情がわかっていて、一般読者向けに多桁表示するのは「読者を騙している」ことになるのです。

 素人目には、古代史学界の諸兄姉は、理数系教養の基礎の基礎を忘れて数字遊びに耽っているように見えますが、氏は、無縁でしょうか。

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*海上里程の錯覚
 同様に見ると、渡海行程で一千餘里を一〇〇〇余里と書くと里単位測量がされているとの「錯覚」を呼びますが、海上移動に「路」も「道里」もないので、測量不能な海上を、例えば、七百里強から千五百里弱の範囲内と「見なした」大まかな数値と見るべきです。
 ただし、この道里は、実測と無関係の日程面からの概算であり、一日三百里の勘定で前後の余裕も見て所要三日を三回、全体で一日余裕で、切りの良い十日との勘定合わせしたものと見られます。
 そうであれば、測量の結果ではないので、概算千里が合理的なのです。これは、現代人に喪われた、本当の意味で、数字に強い書き方です。

▢水行談義
 水行談義で、氏は、時代無視の安易な「俗説」に、どっぷりと毒されていると見受けます。
 但し、氏は、子供ではないので、自分で書いたことに責任があると言えます。

 里程記事の冒頭で、「従郡至倭」で「海を渡るのを水行と言う」と宣言された「倭人伝」は例外として、魏晋朝までの正史記事で、「水行」は専ら河川航行であり、さらに言うと、大陸の「道里」で「渡河」は、「陸行」の一部であり、表記されず、「水行」とは別です。いや、そもそも、街道を行くのが正規の行程である以上、「水行」道里は、本来「無法」なのです。
 して見ると、氏の著作で、半島西南岸の海上「水行」図で、島々を踏みにじる不可能な経路を表示しているのは、氏としては、航行不能な経路と示したとも見えます。

 なお、畿内説に必須の瀬戸内や日本海の「航路」は、(あったとすれば。以下略)毎日寄港し、また、食糧、水、薪炭の積み込み、潮待ち、風待ち、雲行き待ちがあるので、必ず翌日出港とは行かないのです。つまり、港港で船を代え、漕ぎ人を代え、天候好転を待ち、潮待ちして、四十日に到底収まらない日数をかけて旅するのです。日数が数えられないから、正規の行程となりようがないのです。
 並行して陸上経路があれば「道里」測量できても、それは海上移動と異なりますが、陸上経路があれば、危険でお天気まかせの海上行程を行く理由がないのです。中原であれば、陸上の街道は、歩行することもあれば、ゆるゆると騎馬で行くこともあり、さらには、駿馬で疾駆する「急行」もありますが、海上移動となると、船上で駆け足しても移動速度は変わらないので、「急行」はないので、文書使の漕行や派遣軍の移動には、全く不向きです。

 こうした海の行程(あったと仮定すれば)と対比される対馬、壱岐伝いの三度の渡海は、岩礁、浅瀬もなく、日頃の交易便船と同様に、見通せる対岸に渡っては、必要に応じて漕ぎ手一同を替え、ときには、急流に適した便船に乗り換えるのであり、予備日を考慮すると、ある程度決まった日数で、ほぼ確実な運行が可能です。

 氏が、千差万別の実態を考慮せずに、一律、「水行一日二百里」と見るのは、氏にしては、不用意で不可解です。

*空想競争~余談
 またもや、一般論、俗説批判になりましたが、「畿内説」論者は、当時、長距離の便船、航路が君臨したと見るようですが、それなら、筑紫から中部大和、中和に至る魏使の四十日に渡る(と読み替えざるを得ないのであり、当論者の指示する論法ではない)最終旅程は、冒頭の諸国記に劣らぬ痛快な記事となるはずですから、割愛された理由が理解できません。(要するに、当方と「読み」違いですが)

 極端な「海路」論者は、景初遣使は、現在の大阪湾岸から万里波濤を越えて渤海湾岸の天津(「天津」は、元代の産物で、当時存在しない)に漕ぎ渡り、河水,洛水遡流で洛陽に漕ぎ至ったと「おおぼら」を吹くのですが、それは、無理に無茶を重ねた途方もない時代錯誤です。そして、そのような無理難題の辻褄を合わせるために原本を改竄/解読するのは、無茶の三乗です。
 三世紀に、そのような強カな漕ぎ手を擁する漕ぎ船が便船として常用できていたら、船主は「天下」を取ったでしよう。何しろ、そのような漕ぎ船は、半島を沿岸廻遊せず、直接山東要地の東莱に乗り込め、時では、狗邪韓国/一支国寄港なしで、倭の港に直行渡海できます。人間業ではないのです。

 いやはや、できもしないことを積み重ねて、画期的な新説と述べる著者がいて、氏も、悪影響を受けていると困るので、長々と講釈を垂れたわけです。

*妄言多謝
 いや、最後まで、しばしば、氏の論議批判にこと寄せて、世にはびこる俗説を論断しましたが、旁々、ご容赦いただきたいのです。
 氏の作業仮説群の由来がわからないので、俗説から想定される根強い妄説を批判しただけです。

                                完

2024年2月 7日 (水)

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 1/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/07

◯更新の弁
 当ブログも、発足以来日時を経ていて、各記事も、初稿以来、更新を重ねているものも、少数ながら存在する。但し、件数、頁数がかなり多いので、更新の手が行き届かないものも、少なくない。そこで、最近務めているのが、一般読者の方から閲覧が入ったものは、積極的に内容を見直して、改訂するという事である。
 但し、それが、字句修正や書き足しならともかく、論旨が大きく変わったものは、暫し考えたあげく、打ち消し線で削除して、以下、新規書き足すことになるのである。結構見苦しいのだが、当方は、意見が変わったことを隠す意思はないので、そのような改訂/更新もある。
 本項で言えば、当初、古田武彦師の「魏志短里説」擁護/批判/否定を辿って、現在の「倭人伝」二重記事説に至るまで、何度か意見の基調が替わっているので、ここは、恥を曝すのを覚悟で、極力、旧稿保存に努めたものである。ということで、読みにくい記事となっている点をお詫びするものである。
 端的に略記すると、当初、「倭人伝」道里記事は、「短里」で書かれているとする意見であったが、それが、「三国志短里」でも、「魏晋朝短里」でもないところから始まって、「倭人伝短里」との主張に一度立ち止まったが、現時点では、「倭人伝」道里記事は、倭人初見の際に書かれた「全行程万二千里」という決め込みで書かれていて、それが、「倭人伝」記事策定の際に、「皇帝承認記事は改訂できない」という制約に束縛された史官が、明らかに実態に即していない道里を温存せざるを得なかったことから、これを公式道里として記載し、実務の必須事項である総括「都所要日数」を記載するという、現在も伝わる道里記事になったと言うことを示したのである。
 そのような記事校正は、一種の「難問」として提示されているが、「難問には、必ず解答がある」のであり、読者は、それを解決することを予定されているのである。
 本講読者諸兄姉は、それぞれ、「難問」に対する解答をお持ちであろうが、本稿をはじめとする当ブログの「解答」を理解いただければ幸いである。

◯始めに
 本項の目的は、引き続き、「倭人伝」里制の妥当性を確認するものです。
 まず、当ブログ著者は、本記事初出の段階(2018/10/26)では、『「倭人伝」里数は、「短里」のものであり、これは、現地、つまり、帯方郡領域で実施されていた「里制」の忠実な反映である』と見ました。主たる論拠は、「倭人伝」冒頭で、帯方郡から狗邪韓国までの、帯方郡にとって既知の里程が、七千里と宣言されているということです。そのため、全体に「地域短里」、「倭人伝短里」の見方で進めています。

*「誇張」・「虚偽」説
 これに対して、倭人伝里数が、悉く「誇張」・「虚偽」と見る説は、総じて根拠のない憶測であり、正史に明記された記事を否定する力を持たないものです。そのような説自体「作業仮説」にもならない、単なる子供じみた思いつきであり、非科学的な「誇張」・「虚偽」と見えます。
 例外的に趣旨明解な松本清張氏の主張の批判は別記事です。

◯方針説明
 当記事は、魏志「倭人伝」の時代を含む歴史的な地理情報を網羅した晋書「地理志」の内容を検討し、里制に関する判断資料とするものです。
 もっとも、晋書「地理志」にも、晋書「倭人伝」にも、「倭人」領域に関する行程道里記事が無いので、「倭人」領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。

◯晋書紹介
 晋書は、魏志「倭人伝」の編纂された司馬晋の時代の中国王朝です。時に、その前半を特定して「西晋」と呼ばれますが、当時は、自分たちの時代が早々に幕引きになって、天子が北方異民族の虜囚になって処刑された亡国に至って、辛うじて南方で再建され「東晋」と呼ばれた後世王朝と区別するために「西晋」と呼ばれるなどとは「夢にも」思っていなかったことは言うまでもありません。

*古代の晋(春秋)
 ちなみに、「晋」は、中国古代の周王によって中原北方に封建された周代の一大国でしたが、春秋時代末期に王権が衰え重臣に権力を奪われて飾り物になった挙げ句、重臣間の抗争を歴て生き残った趙、魏、韓の三家が、遂に晋王を放逐、それぞれの姓によった趙、魏、韓の三国に分割したのです。
 晋王が、臣下に放逐されたのは画期的な大事件であり、諸国を束ねた東周の権威が失われ、各国がむき出しの抗争を行う戦国時代に移ったとされます。晋王は周の創業以来の大黒柱であり、臣下による追放から保護できなかった上に、三国から大枚の贈答を受けて不法事態を承認したから、周王に権威がない事を天下に知らせたことになるのです。以後、時代は、統一権威の存在しない「戦国時代」に移行したと見られています。

*司馬晋登場
 ともあれ、この時代の晋の創業者司馬氏は、つい先年の曹操、曹丕の天下把握の手口そのままに、曹魏皇帝から天子の権威を譲り受けるについては、先ずは、古代の晋の旧地を所領とする異姓の「晋王」に任命され、続いて、曹魏皇帝から国の譲りを受けるという「禅譲」により、魏朝を廃し、皇帝として晋朝を拓いたのです。こでは、古代とは逆に「魏」から「晋」に権力が移行したことになります。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 2/9 更新

                2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*太平の崩壊招く愚策~司馬晋の自滅
 と言うことで、西晋崩壊の背景は、三国志の最後の呉を滅ぼして天下統一した皇帝が、太平に甘えて官兵を靡兵、解雇したために、失業した多数の元官兵が、各王の私兵となったのです。
 野心家が天下を狙うとなれば、教育、訓練の要らない、命令服従を本分とする元職業軍人は強力な武器であり、まして、帝位継承資格を持つ各王が他の王に対抗して強力な軍を組織し台頭を図ったため、乱世の幕を拓いたのです。
 さらには、兵力増強のため、北方異民族「匈奴」の部族を傘下に採り入れ、教育訓練を施して、私兵としたのですから、それは、長年討伐していた侵略者を、領内に呼び入れるものであり、程なく、内乱によって権威が失われた帝国を、内部から食い散らかす、害獣を育てたことになります。
 斯くして、司馬晋による天下統一は、束の間の天下太平であり、晋朝は、いわば自滅政策を行い、始皇帝以来の統一国家「中国」は瓦解し、以降、四世紀に亘り南北二分されたので、晋皇帝は大罪人ということになります。

*前車の轍 始皇帝の永久政権構想

 過去の歴史に学ぶとすれば、戦国諸公を滅ぼして天下統一した結果、兵力過剰に直面した秦始皇帝は、大軍を匈奴対策名目で北方に駐在させ、全国から長城や寿陵建設に農民を大量動員して、失業軍人の反乱を避けたのです。
 税収に即した緻密な動員策が必要ですが、全国地方官からの統計情報を元に、計数に強い官僚がギリギリまで民衆を絞りあげれば、中央政権を「永続」できたはずです。一方、全国から不平分子を徴用して反乱の原動力を吸い上げ、併せて事業経費を幅広く徴収して反乱の資金源を断つ戦略です。
 とは言え、後継皇帝は、そのような巨大な戦略に、全く気づかず、的外れの過酷な動員と徴税を続けたため、衆怒を買い、反乱多発の状態となったのです。

◯晋書由来

 以上、晋書の素性/対象時代を知るため、中国史を抜粋しましたが、晋書は、南方に逃避した東晋政権や後継の南朝諸国では編纂できず、北朝を滅ぼした唐朝で、太宗の重臣房玄齢の率いる錚錚たる集団によって完成したのです。

 既に、時代は、南朝を討伐して全国統一した隋が、天下太平維持に失敗したために、またもや生起した全国反乱を統一した正統たる唐の御代であり、晋書を、南北朝の乱世を生起した晋朝の不始末をうたいあげる、いわば反面教師としての正史としたため、史談とも言うべき本紀、列伝において、風評に富んだ「面白い」史書になったのです。先ほど上げた、西晋滅亡時の各王内戦は、当時の皇帝が、極めつきの暗君であったために、必然的に起こったとされています。

 但し、ここで当方が取り組んでいる「地理志」は、地理情報、統計情報を記した「志」であり、そうした演出とは関係無く、歴代政権の公文書として継承された豊富な資料を、丁寧に駆使した意義深いものです。

*「志」を欠く先行史書
 先行史書で言うと、南朝劉宋代に大成された笵曄「後漢書」は、自身の「志」を備えず、唐代に、先行していた司馬彪「続漢書」の「志」と併合されたものです。そして、三国志は、遂に「志」を持たなかったのです。
 ということで、晋書は、班固「漢書」以来久々の体裁の完成した正史となります。
 また、笵曄「後漢書」が、ほぼ笵曄単独編纂の労作であり、陳寿「三国志」も、陳寿の指導力が強く反映しているのに対して、晋書は、房玄齢以下の集団著作とされていて、厖大な数値データを参照する必要のある「志」の編纂に相応しい体制であったと思われます。もちろん、四世紀ぶりに、乱れた全国を再統一した唐王朝の国力も強く反映されています。

 つまり、晋書「地理志」は、大変信頼性の高い史料と見るものです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 3/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*本論開始
 枕が続きましたが、題材とした資料文献の背景説明としました。
 と言うことで、晋書地理志が当記事の本題です。

▢古田武彦氏の「魏晋朝短里説」の消長
◯短里説提唱と展開
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』で、倭人伝行程記事の郡から倭に至る里数について、詳細に考察した上で、
  これは、当時の里制を忠実に記したものである。実際の地理から、「倭人伝」の一里は一貫して75㍍程度(数値は、参照しやすく丸めた概数)の「短里」である。
 ⑵ これは、古代周朝の里制である。
 ⑶ これに対し、秦始皇帝が、天下統一にあたり、六倍、450㍍程度の「長里」に変更し漢に継承された。
 ⑷ これに対し、魏朝は全国里制を「短里」に復原し「倭人伝」に反映している
 ⑸ 「短里」は、後継した晋朝に継承されたが、晋朝南遷後東晋によって廃され、秦漢「長里」に復帰したとの趣旨で提言したものです。

 ⑴~⑸は当記事筆者による要約

◯魏晋朝里制の論証
 古田氏の論旨は、「三国志」は陳寿が統轄編纂した史書であるから、前漢に渡って、里制は統一されているべきであるとの理路により、「倭人伝」記事の小局から出発して魏晋朝全国という大局に及び、三國志全文に及ぶ実証の試みは現在も続いています。

◯魏朝里制変更の否定
 ここでは、先ほどの⑶以降の推論が成立しないことを述べるものです。

*史書に記載なし
 晋書「地理志」を根拠とすれば、魏晋朝短里の否定はむしろ自明です。晋書「地理志」は、古来の地理情報を克明に記していますが、魏晋朝において、秦漢朝と異なる里制が公布、施行されたとの記事はありません。

*里制変更の無法さ補充2022/06/01
 里制は、晋書「地理志」という公式記録/正史の根拠となるものであり、国政の根幹であると共に、各地方においても行政の根幹であり、里制を変えるという事は、国家の秩序を破壊することであるから、皇帝と言えども里制変更はできないのです。

 全国里制を、それまでの「普通里」から、「短里」に変更すると、一里三百歩の原則から、農地測量単位の「歩」(ぶ)が、それまでの、一歩六尺の関係を維持できず、一歩一尺になってしまうのです。
 言い換えると、土地台帳は、それまで、面積百歩、現代風に言えば百(平方)歩、と書いていた土地が、六倍ならぬ三十六倍の三千六百歩になるということで、全国の地籍(土地台帳)を換算して、書き替える必要がありますが、もちろん、農地の実際の面積は変わらないので、税は、同等なのですが、そのような換算計算は、読み書き計算のできない「一般人」の理解を越えているので、増税と判断されて衆怒を招きます。

 あるいは、そのような激変を避けて、尺、歩までは維持し、一里五十歩とするのでしょうか。

 通常、「歩」による農地面積管理に、「里」は関係しないのですが、ことが、県単位の世界を越えて、郡単位や全国での農地面積となると、「里」単位で計算することになり、その際、里が一/六になって、道の里「道里」が六倍の数字になるとして、それを、広域の農地面積に適用すると、「千里」四方が、三十六倍の「三万六千」里四方になってしまうので、広域方里の取扱について、明確な指示を公布する必要が生じるのです。

 「短里」制は、一片の帝詔では済まず、厖大な公文書と実務を必要とするのです。従って、そのような大量の公文書が残されていない以上、里制変更はなかったと断定できるのです。(臆測、推定ではないのにご注意下さい) 

▢結論
 そのような途轍もなく重大な制度変更が実施されていたとすれば、魏晋朝の不手際を明らかにするものとして、晋書の本紀部分に記載されるべきものであり、まして、晋書「地理志」の周以降の制度推移記録に記載されないはずがありません。

 と言うことで魏晋朝といえども、国家制度としての短里は、実施されなかった事が明らかです。実施されなかったから、記録に残らなかった」というのは、まことに、まことに明解です。
                              未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 4/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

◯周朝短里制への疑問
 さて、次に懸念があるのが、⑵の項です。いや、秦が「短里」を「長里」に変更したということも、議論が必要ですが、周里制がいかなるものだったか解明しなければ、秦里制を議論しようがないので、後回しとします。

*晋書「地理志」に見る周朝制度

 周は、それまで中原を支配していた殷(商)の覇権を奪って王朝交代を実現したのですが、元々、函谷関以西の「関中」を根拠とした西方の地方勢力だったので、中原を包括する統一国家を運営する組織も制度も持っていなかったのですから、殷の制度、殷の官僚組織を継承しつつ、徐々に周の国家制度を組み立てていったものです。

*口分田制度(日本)
~異邦の不法な制度 余談
 参考となる口分田は、本朝律令では、「戸籍に基づいて六年に一回、口分田として六歳以上の男性へ二段(七百二十歩=約24㌃)、女性へはその三分の二(四百八十歩=約16㌃)が支給され、その収穫から徴税(租)が行われるとされていた。口分田を給付することは、人々を一定の耕地に縛り付け、労働力徴発を確実に確保できる最良の方法であった。」Wikipedia
 1㌃は、一辺10㍍の方形の面積(百平方㍍)

 少年少女以上の男女それぞれに支給されている点が、「目覚ましい」のです。中国の制度では、「長大」、「成人(15歳程度か)となった」男性が「戸」の構成員であることが前提となっているものの、農地耕作に貢献できない年少者は、あてにしていないものですから、まったく、異質の概念で書かれている規定と見えます。
 つまり、何が目覚ましいかというと、「口分田」制度は、秦代以後の中国で一貫して施行された「戸」という家族制度をもとにした、戸籍制度、土地管理制度とは、相容れないものであり、魏代に「親魏倭王」として、漢制(中国制)に服属する蛮夷の王の法制としては、到底許されない、不法な制度と見えます。

 世上、国内で制定された「律令」(国内律令)が、唐律令に準拠した法制(模範解答)だと考えている方が少なくないようですが、仮に、遣唐使が、国内律令を献上したとすると、立ち所に「死罪」に処せられる大罪を犯したことになります。とんでもない意見ですが、在野の論者に時に見られる論義です。
 そもそも、持ち出し厳禁の唐律令を、蕃王使節が盗み出して持ち出すのは、それ自体が既に大罪です。なぜなら、唐律令には、天子に始まる諸官の規定が書かれていて、それを、蕃王が施行するのは、自身を天子と称するものであり、到底許容されるものではありません。即日、討伐軍を送り込まれても、当然の大罪なのです。
 と言うことで、先に挙げた「口分田」の制度は、服従に際して上申した「戸数」が、中国制度に背く、虚偽のものであることを白状しているので、中国の天子の耳に「絶対に」入ってはならないものです。

 つまり、掲げられている「口分田」の制度は、中国に服従する蕃王のものでなく、中国との交流のない「くに」が、いわば、勝手に制定したものだと分かるのです。

 ちなみに、中国制度の「戸数」を復習すると、夫婦二人に、子供として複数の成人男子が同居している「戸」を根拠/単位とした国家制度であり、各戸には、所定の農地が割り当てられて、耕作が許可され、その大小に所定の農作物を納税し、各戸単位で、最低一名の徴兵に応じる全国統一制度であるので、対象地域の「戸数」を言えば、税収と兵士の数が自動的に定まる、計数管理の容易な制度なのです。

*井田制
 本朝の口分田のお手本となった周朝の井田制は、「中国の古代王朝である周で施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。 まず、一里四方、九百畝の田を「井」の字の形に九等分する。そうしてできる九区画のうち、中心の一区画を公田といい、公田の周りにできる八区画を私田という。私田はそれぞれ八家族に与えられる。公田は共有地として八家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。」 Wikipedia

*尺・歩・畝・里

 少し言い足すと、(中国)畝(ムー)は、六百尺四方であり、一尺25㌢㍍とすると、一辺150㍍程度となり、およそ2.25㌃となります。
 縦横三個ずつ畝を並べた、井とも呼ばれる「里」は、一辺450㍍の正方形となります。つまり、距離としての一里は、450㍍となります。(あくまで概算です)

 「尺」は、時代によって異なったと知られていますが、多くの物差しに複製されて日常の経済活動に使用されるから、短期間に変動することはなく、長期的にも六倍に変動することは、「絶対に」あり得ないのです。

 結局、記録に見る里は、おしなべて、「普通里」であり、したがって「長里」と呼ぶのは不合理なのです。
 また、畝は、半永久的に継承される土地台帳に記載され、農地面積の基本単位は、時代によって変動することはなかったと思われます。取り敢えず、周短里は見えてこないのです。
 但し、各戸に割り当てられる耕作地の面積は、「牛犂」と呼ばれる標準的農具を牛に引かせるものであり、蛮夷の土地に農耕用の牛がいない場合は、平坦な黄土平原を前提に中国制度で定められた広さの土地は、蛮夷には到底耕作できないのであり、各戸に割り当てられる農地は、その数分の一に過ぎないから、戸数から、その領域の生産力を知ることはできないのです。

 議論の詳細は、大変長引くので、可能な範囲で説明して行きます。

                              未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 5/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

□短里制再考
 以下、もう少し手前に遡って、「倭人伝短里」の由来を見極めたいと考えます。

*「地域短里」再考 旧論
 「倭人伝」里数は、短里で書かれていて、これは、現地で実施されていたことの忠実な反映のように見えます。「地域短里」と称されているものです。もっとも、晋書「地理志」には、倭人領域に関する記事が無いので、倭人領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。
 但し、晋書は「倭人伝」を有しているので、魏晋代「地域短里」が制度化され、帯方郡限定といえども、国家制度して運用されていたのであれば、その旨明記されたはずだと言えます。
 晋書「倭人伝」は、魏志「倭人伝」の引き写しではなく、後代史書の限界はあるものの、里制について明言できれば、明言していたはずです。

□晋書「地理志」による里制考
 と言うことで、基本に立ち返って、晋書「地理志」の「里」について考察します。参照されているのは「司馬法」で、該当部分は、「司馬法」の残簡にない逸文となっていますが、別文献で周制であることが裏付けされています。

*古制
 「廣陳三代,曰」と書き出されているのは、夏、殷、周三代の制度を述べる前触れのようですが、資料が残されているのは周朝であり、古制とは、周朝制度と思われます。もっとも、漢字によって文書が記録されるようになったのは、殷代中期以降であり、課題の公文書は存在せず、殷代も、公文書が保管されていたとは思えないのです。

 以下、「井田法」と呼ばれる土地分配の規則が記されていて、土地の広さの単位である、「歩」「畝」「里」の決め方が記されています。

 古者六尺爲步,步百爲畝,畝百爲夫,夫三爲屋,屋三爲井。井方一里,是爲九夫,八家共之。

 「井」が土地区分の単位であり、漢字の形が示すように、縦横三分割されて九個の「夫」から成り立っています。
 「井」は、「方一里」、つまり、縦横一里の正方形となっています。それぞれの「夫」は、百「畝」。つまり、縦横それぞれ十個、計百個の「畝」からなっています。それぞれの「畝」は、百「歩」、つまり、縦横それぞれ十個、計百個の「歩」からなっています。面積系単位の大系が、適確に定義されています。

*歩の起源
 そこで、基本である「歩」(ぶ)をどう決めるかという事ですが、これは、人体「尺」の六倍となっています。
 「歩」と書いていることから、人の歩幅に関連付ける解釈が見られますが、それは、後生人の早計であり、単に、六尺の言い換えとしてこの字が選ばれたとみる方が、明快に理解できるでしょう。
 史料によっては、古来、つまり、秦制で、農作に常用される牛犂の幅が、土地面積測量の単位である「歩」の基準であったと説明している例が見られます。
 後世、「歩」の字の起源がわからなくなって、一歩の幅が単位だとか、いや、二歩の幅が単位だとか、混乱しているようですが、秦制が、そのような曖昧な定義を基準として構築されていたはずはないのです。

 以上の理由から、日本語としての漢字発音は、「ぶ」とした方が、誤解がなくて良いでしょう。

*概算基準の提案
 尺は、人の腕の尺骨の長さで、ほぼ25㌢㍍と仮定します。すると、歩は、150㌢㍍、つまり、1.5㍍のようですが、併せて、一歩を一辺とする正方形の広さ/面積を言うようです。と言うことで、長さでは、一里は三百歩となり、450㍍に落ち着きます。
 このあたり、周制は、別に後世のメートル法やSI単位系を基準に制定されたわけではないのですが、時代、地域によって変動する諸単位の概略を便宜的に固定し、概算しやすい、有効桁数の誇張に到らない、切りの良い数字を採用しようとしているのです。

*長さ、距離と面積~表記の勘違い
 以上の説明で、数字に明るい方は首を傾げると思うのですが、長さの一里が三百歩であれば、「一辺一里の方形」の面積は「一辺一歩の方形」の面積の九万倍となります。一方、「面積一里」が「面積一歩」の三百倍であれば、「長さ一里」は「長さ一歩」の十七倍であり、十七倍の食い違いとなります。長さで言うと、これは、二十㍍となります。いつの間にか、つじつまが合わなくなっているのです。

 仮説推論のための推定ですが、ここで参照される一歩六尺に基づく一里450㍍が、「普通里」(標準里)として、後世まで一貫して実施されたのでしょう。
 ちなみに、「倭人伝」の道里は、「千里」が単位であり、ひょっとすると、一「千里」に始まって、三「千里」,五「千里」,七「千里」と飛び飛びであり、以下、十「千里」、十「二千里」となっていたかもしれないのです。そうであれば、道里の足し算は、算木と呼ばれる一桁計算器具で行えば良いのであり、「算用数字」も、「横書き多桁表示」も、ソロバンも、「メモ用紙」もなくても、確実に計算できるのです。
 因みに、漢文には、文書横書きの風はなく、掲題(掲額)で横書きするときは「右から左に書く」と決まっていたので、厳重に注意しないと、時代錯誤に陥るのです。(国内史料も同様なのですが、近年、古代史論説にも、時代錯誤の欧風横書きがのさばっているので、気づかない人が多いようです。いや、当ブログ記事も、他に方策がないので、しかたなく横書きで公開しているのです)

 農地面積「歩」、長距離「里」は、それぞれ、社会制度の別の局面で適用され、「尺」の変動に関係無く、固定されていたものと見ます。

                              未完

追記 尺、歩、里を、25㌢㍍、150㌢㍍、450㍍と統一しました。これは、あくまで、計算しやすい概数に丸めたものであり、絶対正確と主張しているものではありません。あくまで、提案です。
 また、時代錯誤極まりない算用数字の弊害で、桁数が多い数字であって精密と誤解されるので、有効数字を二桁弱に減らしたものです。
   2020/11/08

 いや、道里計算の場合、一里五百㍍(1/2公里)に丸めた方が、暗算しやすいのであり、そのように古代風に表記すれば、㍍の桁や、それ以下に意味がないことが明示されて、無用の誤解が無いように思われます。
   2024/02/06

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 6/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06
*井田受田
 一夫一婦受私田百畝,公田十畝,是爲八百八十畝,餘二十畝爲廬舍,出入相友,守望相助,疾病相救。

 井田制度では、農民は、二十歳で、私田百畝、公田十畝の計百十畝の「良田」(適切な灌漑状態、土壌の肥沃さを持つ適格な「田」、即ち、水田とは限らない「農作地」であり、一律の課税条件を適用される「田」であり、耕作に適さないものではないということを示す)を受け、六十歳で返納するまで、毎年の収穫時に公田からの収穫を税として上納すると書かれているようですが、それは、せいぜい一割の税率であり、古来、そのような低税率で運用された政府は無く、実際のものとは思えないのです。まして、耕作者の努力により、規定以上の収穫を得れば、それは、収穫者の取り分になるという、奨励策も含んでいたものです。(農奴が、叱咤しない限り怠慢になるのと対極です)

*軍制、地方官規定への拡張

 司馬法には、井田を基礎とした周の軍制、地方官制が書かれています。

 十井、つまり、一里方形の井を出発点に、十井を通、十通を成とし、成は、一辺十里方形とします。続いて、十成を終、十終を同とし、同は、一辺百里方形とします。続いて、十同を封、十封を畿とし、畿は一辺一千里方形としてす。
 丁寧に、一里に始まる十倍階梯で帝国の広域に結びつけています。

 令地方一里爲井,井十爲通,通十爲成,成方十里。成十爲終,終十爲同,同方百里。同十爲封,封十爲畿,畿方千里。

 これと別に、四井を邑とし、四邑を丘とし、この丘は、十六井としています。丘ごとに、戎馬一匹、牛三頭の保有が課せられています。

 故井四爲邑,邑四爲丘,丘十六井,有戎馬一匹,牛三頭。

 続いて、四丘を甸とし、田は、六十四井としています。井は、戎馬四匹、兵車一乗、つまり、四頭立ての兵車一台に加え、牛十二頭、甲士三人、卒七十二人を有します。これを、乗車の制と言い、兵車乗数の計算基準となります。(甸 ①天子直属の都周辺の土地。「甸服」「畿甸(キデン)」 ②郊外。 ③おさ(治)める。 ④農作物。 ⑤かり。狩りをする。かる。)

 四丘爲甸,甸六十四井也,有戎馬四匹,兵車一乘,牛十二頭,甲士三人,卒七十二人。是謂乘車之制。

*地方官規定への拡張
 同は、一辺百里であり、領地は一万井となります。但し、領地内には、山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路など、耕作地外の土地が三千六百井であり、残る六千四百井が出賦で、戎馬四百匹、兵車百乗を有します。領主である卿大夫は百乗の家と呼ばれるのです。

 一同百里,提封萬井,除山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路三千六百井,定出賦六千四百井,戎馬四百匹,兵車百乘,此卿大夫菜地之大者也,是謂百乘之家。

 と言うことで、里は、各地領主の軍備計算の根拠であり、兵車の乗数は領主の権威の格付けでもあります。

*魏志「東夷伝」~「方里の推定」
 因みに、以上のような拡張は、所定の領域内が、ほぼ平坦で半ば以上が耕地という前提なので、これは、中原領域では当然/自明でも、荒れ地の多い領域では、通用しないのです。
 魏志「東夷伝」では、「倭人伝」に先立つ、高句麗、韓の両地域の記事で、ともに、山谷が多くて農地(良田)が少ない土地柄が書かれていて、戸数から土地の生産力を知るという手順が成立しないことが書かれています。して見ると、魏志「東夷伝」では、対象領域の面積を知っても、意味がないことは自明であり、むしろ、対象地域の土地台帳を集計した耕地面積が重要だという認識にいたものと考えます。
 魏志「東夷伝」で起用された韓地の「方四千里」などの記法は、面積管理に努めたものと見るべきであり、「里」と書かれていても、「道里」ではないと思われます。
 このように、当時の教養を踏まえた上で、教養に外れた点を十分予告した上で、未開の荒れ地である「倭人」の道里や戸数が報告されていると見るべきなのです。
 「二千年後生の東夷の無教養な東夷」は、史官が、当時の読書人/教養人が、多少の努力で正解できるように丁寧に予告した事項/深意/真意を理解した上で、「倭人伝問題」(Question)と言う文章題の解釈、回答に挑むべきなのです。

 念のため付記すると、面積単位系の「里」、「歩」は、古代算術教科書であり、解答付き演習問題集である「九章算術」の用語から推定したものです。当ブログ筆者の独創ではありません。
                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 7/9 更新

         2018/10/26  2018/12/26 2019/01/29 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*天下のかたち
 司馬法は、さらに、高位の軍制を示しています。

一封三百六十六里,提封十萬井,定出賦六萬四千井,戎馬四千匹,兵車千乘,此謂諸侯之大者也,謂之千乘之國。

 封は、三百六十六里(正しくは三百十六里)で一万井となります。うち、六万四千井が出賦で、戎馬四千匹兵車千乗を有し千乗の君と呼ばれます。

天子畿內方千里,提封百萬井,定出賦六十四萬井,戎馬四萬匹,兵車萬乘,戎卒七十二萬人,故天子稱萬乘之主焉。

 天子の畿内は、方千里で、地は百万井。六十四万井が出賦で、戎馬四万匹兵車万乗を有し、天子は万乗の君と呼ばれます。
 因みに「東夷」のいう「畿内」は、かってな盗用であり、中国視点で書かれた文書であれば「畿内」は、大逆罪に当たる不法なのです。つまり、
これは、中国から蕃王として服属を認められた東夷には、あり得ない誤用なのです。

*遠大な構想
 以上のように、周制は、尺から始まって、天子の直轄領分である一辺千里(一辺四百五十㌖)に至る倍率の階梯がきっちり規定されていて、勝手に、一部をずらすことはできない仕掛けです。
 天子直轄領は、約二十万平方㌖で、 本州島面積の約二十三万平方㌖に匹敵しますが、これは、周王朝の京畿であり、諸国所領はこれを越えているものがあったと見えます。

*秦制の意義
 秦が天下統一した後、周衰亡の原因として総括したのは、このような形式的軍制が、周辺勢力への防衛にならなかったと提起され、始皇帝は、「乗」数軍制を廃棄しましたが、周制の里規定に手を加えたり、一歩六尺を新設したのではないのです。秦国として確固たる実績のある、精緻を極めた法律や度量衡制度を全国に徹底するのが、帝国の使命とみていたのです。

 また、「里」と連動した土地面積単位として「畝」「歩」が存在しているので、いかに始皇帝でも、土地検量、税の付け替えは避けたとは思うのです。

*秦朝の里制変更
 いや、当方にも意外だったのですが、司馬法のみならず、晋書地理志自体の記事にも、秦始皇帝が里制、井田制などを改めたとの記事は無いのです。
 井田制は、単に廃止されたのでしょうが、里制は廃止できないので改定すれば記録が残るはずです。特に周制の定義が延々と引用されている以上、里制の変更だけ実施することはできないのは自明です。

 と言うことで、秦始皇帝は、周制による尺、歩、畝、里から天下に至る大系に手を加えなかったと見えるのです。
 再確認すると、秦が、それまで、自国内で施行していた諸制度を文書化して、全国に徹底したと見ることができます。

*地域短里制の消滅
~旧説の終末
 ついでながら、「倭人伝」道里記事から明確に読み取れる里制は、朝鮮半島に実施されていたかも知れません。晋代に、三韓体制と楽浪郡、帯方郡支配が崩壊し、郡の確立した戸籍、地籍の台帳は、東西に勃興した新興の新羅、百済が東西が国家制度を整備する際に利用されたとも見えます。
 あるいは、隋唐の指示に従い、現地の不規則な里制を廃し、普通里による土地制度が敷かれたかとも思われます。その結果、短里制は倭独特の「倭里」として辺境に生き残ったものの、倭の消滅と共に、日本里制に置き換えられたと見えるのです。

 以上は、本記事の初期段階では、それなりに筋が通った推測とみたのですが、以降、史料を精査した結果、これは、根拠の無い憶測にすぎず、「倭人伝」道里記事の「道里」が、地域の公的な制度として実施されていたという証拠は一切ないので、旧説『「地域里制」はなかった』と訂正することになったのです。
 魏志「東夷伝」を読む限り、後漢末期の献帝建安年間、遼東郡太守となった公孫氏が、楽浪郡南部の帯方縣に「帯方郡」を設け、南方の耕地、つまり、土地制度の確定していない領域を帯方郡の管理下に置いたと言うことは、後漢の郡太守である公孫氏が、後漢の土地制度、道里を敷いたと言う事であり、それは「普通里」に決まっているのです。それ以前と言えば、遼東郡は、秦始皇帝が置いたものであり、楽浪郡は、漢武帝が置いたものですから、秦漢代の土地制度、道里制度に基づくものでしかないのです。

 斯くして、当ブログで維持していた旧説は、終止符を打たれたのです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結末 8/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*周里の意義 削除
 と言うことで、距離の単位としての里が周制から六倍になったという仮説と整合させる策としては、周制の里は、尺、歩から積み上げたものでなく、別の根拠を持つ、言うならば独立した単位系でなかったかということです。

*次元の違い 削除
 井と里が合同なら、里を六倍に拡大すると、下は、歩から天子領分まで倍数で定義されている全体系が連動しますから、それは不可能というものです。 
 絨毯を敷き詰めた部屋にテーブルを置いた会場で、絨毯の一角を別の場所に移すことなど不可能なのと同じです。

*同文同軌 周秦革命 削除
 周里が長さの単位(一次元)で、井(二次元)と無関係(異次元)であり、秦朝が、何かの理由で周を井に同期したのなら、同文同軌の里制変更で里程が影響されても、日常使用の歩、畝は変動せず、混乱はなかったのです。また、些細な改定ということで、里長の変更は記録に残らなかったのでしょう。

 先ほどの例で言うと、絨毯の一角が本来別物で、縫い付けられているだけであれば、そこだけ、剥がして移動できるのです。

*結論 削除
 と言うことで、経緯は不明ですが、周里が短里としても史料に書かれている周制と矛盾しないという見方です。何しろ、秦始皇帝が周制を覆してから、陳寿の三国志編纂まで五百年、房玄齢の晋書編纂まで九百年経っていたのですから、いくら公文書類と言っても、正確な伝承には限界があったし、何事も組織的に定義するとしても、全て定義できるものでもないものです。
 
 どんなものにも欠点はあるのです

*現地里制の確認
 原点に戻って、延々と模索した結果、古田氏の第一書で提示された論考と提言は、見事に構築されていたものの、その展開に於いて、根拠に欠ける作業仮説が、基礎として起用されていたものであり、不適切な部分をそぎ落とした核心だけが、ほぼ論証されたものと思います。

 即ち、「倭人伝」里制の由来は多少不確かでも、⑴現地里制を適確に示しているとする意見を覆すものでないということです。また、別系列の史料により、⑵周朝が短里を実施していたことは、ほぼ信じて良いでしょう。 この項は撤回します。
 
 晋書「地理志」から判断すると、⑶以降については、成立しないものと思いますが、以下に、可能性に乏しくとも、別史料で覆る判断かも知れないので、意識の片隅に留めておけば良いものでしょう。

 以上、一介の素人の意見ですから、別に権威はないのですがものの理屈として、筋が通っていると思うので、ご参考まで公開したものです。
 以後、少なからぬ改訂を要しましたが、できるだけ、改訂の履歴がわかるようにとどめています。

*従郡至倭の始点/終点 2024/02/07
 最近の考察によれば、「倭人」は、後漢代、東夷の管轄であった楽浪郡に参上したものであり、従って、その際に申告された道里は、雒陽から公式道里が登録されていた楽浪郡が「始点」と見られます。また、その時点で「倭」王の居処は、伊都国の国城であったものと見られます。これは、「倭人伝」で、郡からの使者は、伊都国に滞在したと書かれている点から、伊都国が公式道里の「終点」であったことは、明らかです。

 但し、その時点では、まだ、遼東郡が、帯方郡を東夷管理拠点として「倭人」を管理させる制度は発足していたなかったものの、霊帝没後の騒動もあって、楽浪郡の報告は、雒陽に届いていなかったものと見えます。
 陳寿が、西晋代に「倭人伝」の道里行程記事を集成している段階には、「始点」は、皇帝直轄の帯方郡であり、「終点」は、女王の居城となっていたと見えますが、公式史料/公文書では、行程道里の終点、始点は、あくまで、初見段階、皇帝に報告をあげた時点のものであり、実務に応じて改定されるものではなかったのです。
 陳寿は、史観の器量で、具体的な郡名、倭王居処を書かないことによって、そうした細瑾を表明しなかったと見えます。どのみち、雒陽から、帯方郡に至る公式道里は、奏上されていなくて、遂に、後年の帯方郡消滅まで、そのような記録は残されなかったのです。ここに、公式に認知されていない帯方郡を始点とする道里を書くのは、史官として、不都合なことだったのです。 

*文書送達日数/全権都督 2024/02/07
 いずれにしろ、魏制では、「郡から倭に」送られた文書は、伊都国の文書官が受領した時点で、倭に届いたとされるので、それ以後、伊都国王が受領しようが女王が受領しようが、日程管理には関係なかったと見えるのです。
 ここで、纏向説を追い詰めないように弁明すると、一度、郡との文書更新の公式規定が承認されたら、漢制/魏制として、倭の内部体制の問題似よって、伊都国王が、「幕府」を許された西方都督/全権代理であれば、帯方郡太守に対等の立場で応答しても、何の問題も無いのですから、物理的/地理的に、伊都国王(西域都督/大宰)と纏向に仮定された「大倭王」との間が、遠隔で疎遠でも、特に問題ないのです。

                               以上

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結末 9/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*当ページは、主として史料考察のために追加されたものです。

*里の起源(「釋名」劉煕:後漢)
 参考まで、冒頭で論議した釋名の「定義」を掲げます。(中国古典書電子化計劃)

 釋名:周制,九夫為井,其制似井字也。四井為邑,邑,猶悒也,邑人聚會之稱也。四邑為丘,丘,聚也。四丘為甸,甸,乘也,出兵車一乘也。

 ここまでは、司馬法と同内容です。

五家為伍,以五為名也。又謂之鄰,鄰,連也,相接連也。又曰比,相親比也。
 五鄰為里,居方一里之中也。五百家為黨,黨,長也,一聚之所尊長也。
 萬二千五百家為郷 郷,向也,眾所向也。

 以下、少々検討を加えます。
 「釋名」は、中国の州名や国名の由来を明らかにした古典書籍、一種の辞典であり、その一部の「釋州国」に、「家」、「里」などの由来が記録されています。それらの定義は、主として周代の史料から引用して集成されたものと思われます。

*里の起源 一説
 古来、つまり夏殷周の三代で、五家を「鄰」として、五鄰(二十五家)を里とし、里の一辺を「里」としたようです。ちなみに、里の首長、里長は、里の中央に社を設けて氏神を祭祀したようです。当時は、万事小振りの商(殷)代であって、憶測ですが、里は(約)15㍍で、殷を継ぐ周はそれを維持したようです。一家は15㍍四方となります。(以下、約を省略)
 このように、里は集落であり、転じて距離単位にもなったのです。

*里の変貌 一説
 夏殷周文明の影響下にあった中原諸国に比べて、遅れて文明に浴した秦は、古制にあった距離単位の里を、自国の大家族世帯の格好に合わせて、周里の六倍の450㍍とし、統一王国を築いたときにこの長里が全土に適用されたのでしょう。
 周里を適用していたであろう各国王家が滅び、「同文同軌」と共に、秦里で一新、測量されたのでしょう。里制に限らず、社会制度の根幹が一新されるのは、史上類の無い同文同軌の一大変革の際に限られるのです。
 但し、距離単位の里が六倍となったために、集落としての里は三十六倍となり、周の時代と大きくかけ離れたものになったのですが、先に述べたように、これを周の井田制という土地支給制度の「井」と合わせたので、見かけ上、周里は、秦に引き継がれたように見えたのです。

*周制の名残り 一説 削除
 朝鮮半島東夷は鄙で秦里は及ばず、周里制を維持したのでしょう。秦漢で、下級役人となった大夫が、周と同様の高官となって、東夷に残ったのと同様と思います。

*史料の検索
 古田武彦氏は、緯度ごとの太陽高度の変化に周里の定義の裏付けを求めて、75㍍程度の概数を確認したとしていますが、当ブログは、あくまで、史料に根拠を求めたのです。

▢一説の終わり
 以上は、初稿時に捻り出した言い訳ですが、以降の検討で、半ば取り下げとしています。
 2022/06/01時点では、「倭人伝」道里は、公的里制と関係しないものであり、当時、遼東で半ば自立していた郡太守公孫氏が、「倭人」を万二千里の僻遠の蕃夷として権威付けを図ったものが、公孫氏滅亡時の混乱で、魏明帝曹叡に、文字通りに上申されたものであって、実際の道里と関係無い「見立て」であったというものです。

 2024/02/06の総括としては、次の通りです。
 公孫氏の内部文書は、司馬懿によって蹂躙され、悉く廃棄されたものですが、楽浪/帯方両郡は、司馬懿軍とは別に明帝が派遣した別働隊によって、無血回収されたので、両郡公文書は、明帝の元に届けられ、公孫氏の見立てた「従郡至倭萬二千里」記事が嘉納され、「倭人伝」記事として公文書庫に収まったため、明帝没後、「倭人」事情が明らかになっても、不可侵文書として承継されたようです。
 案ずるに、倭人伝冒頭の道里行程記事は、魏志編纂にあたって、すべての公文書を精査した結果、「従郡至倭萬二千里」を温存せざるを得なかった陳寿が、郡を発した文書使が「倭」に至る所要日数/公式日程が四十日であると明記したものであり、同時代の読者/高官が、それで良しとしたため、現在の記事が正史蛮夷伝として残ったものと見ます。

 当ブログでは、「倭人伝」道里に関する設問/問題(Question)に対して、史料を読み替える必要のない善解(Solution)が整ったものと考えています。

 補足:以上では、「従郡至倭萬二千里」 の由来を、後漢献帝建安年間に、公孫氏が、遼東郡太守となり、漢武帝設置の楽浪郡を支配下としたときに、「倭人」を絶遠の蛮夷として、新たに服属を求めたものとしていますが、これは、あくまで一解であり、あるいは、それ以前、漢制で半島南部以南の東夷の監督を担当していた楽浪郡が「倭人」を絶遠の新参東夷として台帳登録していたことも考えられます。時は、桓帝、霊帝以降ということになりますが、何しろ、「倭人」に関する記録が雒陽に報告されていなかったので、「公文書記録」が欠落したと見えます。
 因みに、公孫氏が「倭人」の存在に、早々に気づいたとしても、後漢献帝の建安年間初頭、韓国以南の領域は、街道未整備の「荒れ地」であったため、取り敢えず、楽浪郡「帯方縣」を郡に昇格させて、韓国を歴て「倭人」に到る街道行程の整備取りかかっただけだったようです。
 何しろ、「倭人」に文書を送達するにも、文書使は、並みいる韓「諸国」を歴訪した上で、ようやく、倭の在る大海の北岸狗邪韓国海岸に至るのであり、倭地行程は知る由もなく、公式道里とできる確実な行程が判明するのに年数がかかったのです。
 中でも、半島中南部で、屏風のように領域を仕切っている小白山地の彼方の半島東南部の「嶺東」領域は、面積広大とは言え、未開の「荒れ地」そのものであり、辛うじて、南方の産鉄鉱山から産出する鉄を、帯方郡に納付する任務を与えたものの、郡街道として定着するまでには、年数を要したようです。
 そんなこんなで、何とか、三世紀当時の帯方郡文書使の服務規程を察することができたのです。

                             以上

2024年2月 6日 (火)

新・私の本棚 正木裕 邪馬壹国の歴史学 8「短里」の成立と漢字の起源 1/2 三掲

 ミネルヴァ書房 古田史学の会編 2016年3月刊 記2019/02/17 再掲2020/11/11 2024/02/06
私の見立て ★★★★☆ 重要 

◯はじめに
 本論は、論述が紆余曲折で判読困難なので大まかに書きましたが。粗略はないものと信じます。

8.「短里」の成立と漢字の起源
*礼記論
 小見出しで礼記」「礼記正義」に見る「古尺」と「周尺」と謳いだしながら、「古尺」と「周尺」が要領を得ません。どうも、原史料の解釈がずれているようです。「礼記」を見る限り、周尺は、古来の尺のままと書かれていて、氏の読みとずれているように見えます。

 「古」は、周以前、殷代のことですが、それ自体、特に異論はありません。「古尺は一尺八寸、周は八尺一歩なので、一歩は、六十四寸です。礼記正義も、同様に書いています」と言い立てますが、要は、「周朝短里」が、国家制度として存在しなかったことになるのです。

 晋書地理志に引用された司馬法にも、そのように明記されています。

*反転
 ところが、氏は、「礼記」の疏に「十寸為尺」とあることを根拠に、以上の定義を無視して、この記述を優先するのです。何のために、礼記正義の本文を引用して解説していたのか、不可解です明記されていないが、周代を通じて、変化があったとの見方のようです。しかし、肝心の「寸」の定義が欠けているから、「尺」が変わったのか変わらなかったのか不明です。「尺」は、日常参照されるので、原器を作るほどであり、「尺」を突然切り替えるのは、混乱、社会不安を煽るものと見えます。
 それとは別に、発掘遺物から、殷尺は、周尺より二十㌫程度短いとされているものの、「尺」の物差遺物はあったが、「里」の物差遺物は存在しないようです。

*単位系混乱論
 氏は、古代中国では、丈、尺、寸の「手の系」と里、歩の「足の系」の二つの単位系が混在して、換算する必要が生じる」ことを理由に、両系の統一が行われたと見ていますが、何か勘違いしているようです。

 「丈」は、山の高さにまで用いられて、千㍍を越えることもあり、詩的表現で「万丈の山」と謳われますが、それは、距離/道のりの単位の「里」とは別の単位系、云うならば「寸法」系です。例えば、山高を「里」ということはなかったのです。 

 両単位系のものを同じ用途に適用すれば当然混乱しますが、そのような用例は見かけません。つまり、それぞれの専門分野に籠もっていたので、混用/混同は発生せず、きれいに棲み分けていたのです。それが、古代文明に対する合理的な見方というものです。

*始皇帝度量衡統一の範囲
 氏が語られるように、秦始皇帝は、度量衡統一を公布しましたが、自国などの周制逸脱で、「中国」全体の単位系が混在した(かも知れない)ものを、「周制に忠実であった秦制に統一した」の「ではない」と思われます。いや、そもそも、各国が、周制から勝手に逸脱したとは言い切れないのです。もともと統一されていた制度を、始皇帝の命によって確立したのかも知れません。
 わからないことはわからないのです。

 始皇帝の意図を、後世の東夷のものが拝察すると、それまで棲み分けていた単位系の一方を、強引に他方に合わせれば日常単位が大変混乱しますから、広大な帝国を一律支配するのが至上目的であった始皇帝は、そんなつまらないことはしなかったのです。

                             未完

新・私の本棚 正木裕 邪馬壹国の歴史学 8「短里」の成立と漢字の起源 2/2 三掲

 ミネルヴァ書房 古田史学の会編 2016年3月刊   記2019/02/17 再掲2020/11/11 2024/02/06
私の見立て ★★★★☆ 重要 

*無意味な例証
 注釈(7)に「九章算術」(勾股)の問題と回答が例示され、これを解くには、丈里換算が必要と書かれていますが、これは氏の誤解です。
 実際は、求める山高(丈)が、近傍の木高(丈)の何倍かを求める計算であり、山・木・人の「離度」は、計算式で相殺され「無次元」になっているので、短里、長里、現代の公里のどの里制でも、丈尺で求める山高計算に一切関係しないのです。
 ここで、現代風に図解すると、直感的に単位混在と見えてしまうのですが、当時、図解の弊風はなく、「丈尺」と「里」は、別ものと知れているので、明快なのです。
 本題で誤解が生じるとすれば、それは、図解された図上の測定単位は同一であるべきだ」という理念によるものであり、古代の当時、そのような図解の弊害は知れていたからなのか、図解は採用されていなくて、解答、解説は、文字のみです。

有山居木西、不知其高。山居木五十三里、木高九丈五尺。人立木東三里、望木末適與山峰斜平。人目高七尺。問山高幾何。
答曰 一百六十四丈九尺六寸、太半寸
術曰 置木高減人目高七尺、餘、以乗五十三里為實。以人居木三里為法。實如法而一、所得、加木高即山高。

 本題は尺里換算など不要な数学演習であり、それで誤解されなかったということは、尺寸と道里の単位系使い分けが厳然と行われていて、混乱がなかったという状況証拠であり、本題に依存する本論の里制変更仮説は根拠を失うのです

*文帝明帝相克~幻想の終焉
 氏は、曹魏第一代皇帝文帝曹丕に「里制変更」帝詔を求めてその形跡を見いだせ、後継した明帝紀の改暦記事/帝詔につけを回そうとしたようですが、記事を拡大解釈するなどの禁じ手を使わないと証拠を言い立てられなかったようです。それは、論証に使えない臆測でしかないのです。

 確かに、明帝曹叡は、武帝曹操、文帝曹丕がなし得なかった「新たな創業」を歴史に刻もうと、三国鼎立の戦時に拘わらず、多大な国費を費消して新宮殿を造営していた」ようですが、そのような情勢で、国家の存立を危うくする里制改革など、一切目論んでいなかったと見えます。当時、皇帝は絶対的権威を持っていたものの、気骨のある重臣は、皇帝の暴政に対して、生命を危うくする諫言を上奏していますが、皇帝の里制改革に対して諌止奏上した例はないのです。また、国内各地で発生したであろう反抗も記録されていないのです。
 更に決定的なのは、正史である晋書に、そのような変革が魏朝から継承され、晋朝で廃止されたとの記録も、一切ないのです。
 特に、晋書「地理志」は、周代以来の諸制度変遷を通観、回顧していますが、魏朝に於いて、全国里制が改革されたとの記事はないのです。

 氏は、『明帝時に里制変更があったという記事が無くても「なかった」と言い切れない』と強弁していますが、里制変更記事が、魏晋代正史になかったとしても、実際に「なかった」と「絶対に断定できない」』となれば、もはや、それは史学ではないのです。

*最後の最後

 正木氏は、本論に不退転の意気で取り組んでいるらしく、記録のある「三百歩一里制」が、周朝以降長く実施されたと云いつつ、殷代記録がないのを良いことに、それ以前は、別の里制が敷かれていたと無法に主張するのです。
 殷代半ばになると、突然、文字史料が発見されていますから、それ以降の国家制度については、推察することができますが、それ以前の制度「殷制」(商制)は、何も史料がないので、そもそも、制度が実在、実施行されていたかどうか不明なのです。殷は、武力平定主義と見えますから、実力行使したものの、殷制の普及、文字、計数の教育浸透など、未開諸国の教育馴化に取り組んだとは見えないのです。

 考えるに、周は、文明未開、無文の種族が、何れかの時点で、殷の臣下となって、開明し、ついに「西伯」と呼ばれる高官の地位に就いたから、国内制度は殷制に従っていたと考えるべきです。また、殷の文字を授かった以上、殷暦と殷制を遵守するように強いられていたはずです。かってに、里制を定めることなど、許されていなかったはずです。

 殷周革命、克殷というものの「すべて殷制のお下がりであった」はずです。と言うことで、殷周革命の後、里制改廃などなかったと見るべきです。

 氏は、殷代里制なる大胆な仮説は「可能性が高い」無根拠で確信されているようですが、『正史、ないしは、正史に準じる文献資料は、書かれているままに読解く』と云う史学の基本原理を失念されたように見えます。もちろん、可能性は皆無ではないので、それが0.001であろうと、感性で「高い」と見るのは、その人次第であり、余人の口を挟むことではないのは承知していますが、何か、途方もない考え違いをされているとしか見えないのです。

 氏は、最後の最後に捨て台詞を残されていて、未発見の周代物差しなどが発見されたら、確証の不足は解消するとか、果ては、遺物が出れば、いつ「短里」が廃止されたのかまで判明するから、それ以前には短里が敷かれていたと実証できるという、どこかで聞いたような「タラレバ」山師論に堕して見え、痛々しいのです。
 国家制度の施行/改廃に関する公文書史料がないまま、仮想した「周代物差し」や架空の遺物が露呈しても、それは、文字史料に支持されない虚妄に過ぎず、そのような虚妄は、史学に反するので、早々に/あるいは、あらかじめ捨て去るべきでしょう。

                                完

2024年2月 2日 (金)

新・私の本棚 片岡 宏二 「続・邪馬台国論争の新視点」追補 1/3

 「倭人伝が語る九州説」   雄山閣 2019/12刊
 私の見立て ★★★☆☆ 折角の論考の基礎が乱調で幻滅 2020/08/02 追補 2023/01/16 2024/02/03

〇はじめに
 毎日新聞古代史記事のお勧めで入手、熟読したが、片岡氏の意見は「倭人伝」勝手改訂を引き摺って、いきなり低迷しているのが、難である。
 考古学が、発掘遺跡、遺物の現物、現場から出発するように、文献学は「倭人伝」原文から出発すべきである。氏が依拠している訳文は、遺憾ながら「前世紀の遺物」であり、「新視点」を謳うなら、手指を洗い、顔を洗い、清浄な「足元」を確保した上で、出発点を刷新すべきである。
 なお、入手困難な本書より、さらに困難な前著は、取り敢えず未読である。

*造語の弁解
 氏は、「性格」なる「ユニーク」な用語(「独特」であるとの美点としての指摘であり、決して俗用されているような非難/蔑称では無い)について弁解されているが、世間で通用している単語に、自分なりの特異な意義を付するのは、読者に意図が伝わらず誤解を誘うので、甚だ不適当である。言うならば「出版社編集部が、体を張ってでも止めるべき」ものである。
 それにつけても、「イメージ」は、読む人ごとに解釈が異なるとんでもなく「たちの悪いカタカナ言葉」であるのに、そこまでしても適例を示していないのは、折角、氏が構築した論理が読者に的確に伝わらない可能性が無視できないので、くれぐれも自省頂きたいものである。

*依拠資料の誤認
 既に触れたように、本史論で重大なのは、「倭人伝が語る」と銘打ちながら、「倭人伝」原文でなく筑摩書房刊の「世界古典文学全集 三国志Ⅱ 魏書⑵ 今鷹真他訳以下「筑摩本」に依拠していて、読者に誤認させる虚偽表示である。さらには、同書から離れて、独自の夢想世界に迷い込んでいる諸兄姉の独特の解釈に影響されているのは、誠に、残念である。
 史書訳文は、「絶対に」原文そのものでない』。それに加えて、当ブログで検証に努めていたように、凡そ世にある「倭人伝」翻訳は、ほぼすべてが、訳文を、国内古代史「俗説」に沿うように力まかせに撓めていると認められる。何しろ、陳寿の同時代人が有していた世界観を有していない二千年後の後生の無教養な東夷の解釋が横行していると見え、とても、そのまま、文献解釈の基礎とできないように見えるのである。
 ここでは、世上溢れている「現代語訳倭人伝」を総じて批判しているだけであり、妥当な見識に基づく、妥当な飜訳を、はなから批判しているわけではない。聞き分けてたいただければ幸いである。
 倭人伝」の現代語文への「翻訳」は現代創作物であり、例えば、筑摩本は、今鷹氏他が著作権を有する現代著作物であり、偉大な創作である。
 史料翻訳は、付注して原文からの乖離を示すべきだが、とかく翻訳は、訳者の書き足した文字を埋め込んでいて、原文が読み取れないと見えてしまう。つまり、学術的でない。(筆勢に任せて、「飜訳」を罵倒したことは、慚愧に堪えないが、ここでは、極力改竄せずに原記事を維持している)
 片岡氏が、倭人伝準拠の古代史論を説くのなら、原文に密着した漢文解釈から開始すべきであって、翻訳は、あくまで参考にとどめるものではないだろうか。要するに、業界儀礼を離れて欲しいものである。タイトルに裏切られて不満である。
 なお、当記事は、筑摩本が原史料を偽っていると称しているのでないことをご理解頂きたい。単に、「飜訳は、原史料そのものでない」と確認しているだけである。

*やまと言葉の塗りつけ
 なぜそのようなことを言い立てるかというと、筑摩本をひっとうとした「現代語訳」は、素人目には、「なら盆地」中心の世界観に基づき、俗耳に訴えるべく「造作されている」ように見えるからである。それは、訳者の本意では無いだろうが、素人目には、諸所で原文から遊離しているのである。
 筑摩本で如実なのは、冒頭の「倭人」の「わびと」ルビである。訓読ふりがなは、三世紀当時存在せず、時代錯誤、学術的な偽りでしかない。また、ふりがなの主旨は、「倭人」は後世の「倭」とは単にひとの意の「人」の意図らしいが、原文解釈上無理である。
 魏書編者陳寿は、「倭人」を格別の、つまり「比類なき」蛮夷と認知したから、魏書の掉尾に伝を立てたのであり、当然、知る由もない「訓読」など存外であるから、その真意は、「倭人」の典拠を探るしか無いのである。
 いや、片岡氏は、そのような主張をしていないと言うだろうが、筑摩本を「倭人伝」と見なすのは、「わびと」史料観に従属していると言うことである。

*無理を通す話 事実考証の試み
 俗説の確認として、景初倭使が、何年のことかと論じたくても、ならやまと国家が、『「倭人伝」に明記されているように、景初二年六月に帯方郡に到着するように使節を派遣する』のは、到底不可能である。そのため、俗説関係者は挙(こぞ)って景初三年と読み替えるが、事実考証を図ると、そのような延命策は不毛である。
 景初二年八月に遼東郡を壊滅させた後の十月頃に両郡接収したとすると、翌三年六月まで八ヵ月しかない。三世紀、帯方郡となら盆地の間、約千三百公里(㌔㍍)を、騎馬無しの純歩行で片道四ヵ月で踏破したということを主張していることになる。
 既に、長年に亘り宿駅整備されていた半島内官道をよそに、いつ着くともわからない半島沿岸連漕と想定しているから、底なしの無法である。それにしても、当時の中四国経由は、道も何も無い蛮境の遠大な距離だが、どうやって踏破したのだろうか。何しろ、瀬戸内海北岸の東西航行は、難所の連続であり、三世紀時点では、連続道はなかったのであるから、一段と「急遽移動」は不可能なのである。

 とは言え、景初二年六月は、さらに不可能であるから、俗説は、史書誤記を提示して、景初三年六月を採り、後は言わない。同年元旦に明帝曹叡が逝去、新帝即位と言うも、改元は翌年であり景初が維持されていた背景があるが、日本書紀「神功紀」の追記文を見ても分かるように、教養豊かな書紀編者は、皇帝逝去による変動をご存知なかったと見えるのである。「明帝景初三年」なる不法な字句は、馬脚を現していると言える。恐らく、この部分は、書紀本文の公開後、魏志等の所引を入手して、急遽、無教養な編集者が、識者の校正無しに、貼り付けたものと見える。そうとでも思わなければ、辻褄が合わない。

                                未完

新・私の本棚 片岡 宏二 「続・邪馬台国論争の新視点」追補 2/3

「倭人伝が語る九州説」   雄山閣 2019/12刊
 私の見立て ★★★☆☆ 折角の論考の基礎が乱調で幻滅 2020/08/02 追補 2023/01/16 2024/02/02

*景初二年説の精査
 では、早々に棄却された景初二年説に成立の余地はないのだろうか。
 ここに筑摩本の難点が露呈する。遼東征伐に付随して半島西岸に「密かに」渡海し、両郡を「回収」したと書いている。戦後処理と見ている方が少なくないが、それなら「密か」に行う必要はない。司馬懿部隊の遼東攻撃以前に、事前に郡太守を洛陽官人にすげ替え、無血で両郡平定したと見るのが合理的である。平定は交通困難な厳冬期であったため、遼東太守は、両郡喪失に気づかなかったかと思われる。

*深刻な訳文「誤解」
 ちなみに、筑摩本は、原文の「又」を「さらに」と訳している。「又」は、あることがあって次に別のことがあってと云う時間経過が意味されている例時間の経過に触れず、単に、二つのことが同時期にあったと示している例とが見られる。大抵見過ごされているが、実は、大変大事なことで、日本語の「さらに」も、同様に、両様の意味があるとわかるのである。
 要するに、読者は、自身の限定された語彙に頼って「さらに」の解釈を一方に決め付けるのでなく、両様の意味のどちら味か、読者は、文脈、文意から判断することを求められているのである。
 世上、この程度の解釈を、いわば粗雑に行っている論者に依拠されているのは、みっともないものである。
 この点、ここまで、筑摩本訳者の高度な配慮を見過ごしていて失礼な発言を重ねているので、ここで、深く謝罪したいところである。

 翻訳文を的確に理解する能力/教養がないと、正しい訳文を誤解してしまうという教訓である。せめて、勝手に決め込まずに、辞書を引くことである。

*疾駆参上の背景
 帯方郡を収めた魏朝は、郡の東夷台帳で最遠の「倭人」に早速の参上を命じたと見る。
 世上、倭女王が、遼東郡、帯方郡の変事を察知した」などと、途轍もないおとぎ話に仕立てている例が多いが、普通に考えれば、新任の郡太守が、急使でもって通達/指示したと見るものではないか。倭女王も、いきなり参上を命じられ、即応したと見るのである。何しろ、公孫氏が滅ぼされるような大軍であるから、即応しないと、次は討伐されると畏れるはずである。

 倭人は、遅滞なく参上すれば、公孫氏に連座して滅ぼされることはなく、逆に、あるいは、絶大な功として皇帝奏上するとの通達に応じて、好機を逃さず即応したと見える。郡命であるから、途中の関所は全て無事通過し、官道宿駅は、官費でもてなしたはずである。

 以上は、景初遣使なる蕃客への多大な下賜物と帝詔の背景として妥当と見えるのである。
 後漢から禅譲を受けて、諸制度を継承した曹魏は、曹操が再興した法治国家であるから、訳もなく厚遇しないのである。

*「倭人伝」語りの「倭人伝」知らず
 俗説の「倭人伝」誤記説は、なべて言うと「ならやまと」説救済のために、衆知を集めて創出した牽強付会と疑われるから、無批判に追従、原文改竄することはできない。正史として承認された「倭人伝」を改竄するには、厳密な史料批判を経た史料が必要である。

 片岡氏には、「倭人伝」誤記説に従う原文改訂を採用するに際しては、俗説に無批判に追従したり、「論者の人数を数えて大に事える」などしたりするのでなく、論理的な批判を加えた上で納得できる議論を戴きたいものである。

 氏の本領たる考古学考察は、十分資料批判を経ていると信を置くが、「倭人伝」文章解釈が、他人の意見の無批判追従で非科学的では「曲解」の産物と見ざるを得ない。

*禁断の性格批判
 「賢い鳥は止まる樹を選ぶ」は古人の説くところである。片岡氏ほど道理を弁えた方が「倭人伝が語る」と銘打ちつつ、倭人伝」ならぬ既存の俗説を止まり樹としているのは勿体ない。また、参考資料に「九州説」二大論客、安本美典、古田武彦両氏著作が見当たらないのも疑問である。

 本書に具現化された「性格」から、氏が歴史科学者の資質に欠けると見られるのは、氏が、学会人、組織人として、筆を撓めて著述しているからだろう。古代史学業界では、考古学者は、文書解釈で専門家に追従するのが不文律と感じる。氏も、やむなく保身しているのだろうか。学術的な見地からは、俗説迎合で素人批判に耐えない著作は、業績として相応しくないとみる。

 念を入れると、ここでは、氏の考古学考察を批判しているのではない。国内古代史の視点から「倭人伝」に造作を加えている「現代語訳」、「現代解釈」に基礎を置いている不都合を指摘しているのである。

*「近畿」綺譚~「中和」提唱
 「畿内」に異議を示す一方、「近畿」を受け入れるのも筋の通らない話である。「近畿」は「王幾」から発し、「畿内」とちょぼちょぼである。まして、「近畿」の「イメージ」は多様である。伊勢神宮の後座する三重県が近畿かどうか、議論の絶えないところである。

 奈良盆地は、ほぼ一貫してヤマトと呼ばれたなら「ならやまと」で十分ではないか。それで範囲が合わないのであれば、南北記法で言う「中和」(中部大和)が一案である。
 いや、「古代史学界」が、確固たる定見を示さないのが問題なのである。

                                未完

新・私の本棚 片岡 宏二 「続・邪馬台国論争の新視点」追補 3/3

 「倭人伝が語る九州説」   雄山閣 2019/12刊
 私の見立て ★★★☆☆ 折角の論考の基礎が乱調で幻滅 2020/08/02 追補 2023/01/16 2024/02/02

*世襲・禅譲と革命
 本書の由来を物語るのは、このけったいな用語談義である。
 氏は、正史の意義を理解してないようである。帝都長安を脱出し流亡の皇帝後漢献帝が、曹操の庇護のもと面目を回復し、後に継嗣曹丕に天子を譲ったのは妥当な権力継承である。氏は曲がりくねった消化不良の言い回しを採用しているが、禅譲は、後漢皇帝が行った堂々たる国事行為であり、留保は必要ない。
 因みに、漢を再興した光武帝劉秀は、王莽の禅譲を受けたものではない。(いや、書き漏らしたが、王莽は、反乱軍赤眉に打倒されたのであって、劉秀は、王莽亡き後の混沌を制し天命を得たから、「正しい形式を経て漢の皇帝から天子を譲られ正統な皇帝となった王莽を不法に打倒したのではない」と見られるのではないか。いや、このあたりは素人には判断が難しい)

 司馬晋が「魏からの権力奪取を正当化」したと言うが、魏書編纂の姑息な正当化は不要である。衰弱した魏帝が、最後の国事行為として晋帝に譲位したことは、天下公知、当然だったのである。そして、「禅譲」の結果、重臣、高官は、下級官人に至るまで、そっくりそのまま晋に移行したのである。晋代に到っても、魏代の法令、通達は有効であり、各官庁の公文書も、順当に移行したのである。要するに、「皇帝」天子が交代しただけなのである。それが「禅譲」である。「革命」と言っても、天命の行き先が変わっただけであり、それは、氏の言う「権力奪取」とは、別次元のことである。氏の思い描いている「革命」は、状況も実態も異なる後世概念であり、中国古代史を語る際には場違いである。全くのところ、時代錯誤である。よく勉強して欲しいものである。
 いや、太古に「殷」(商)は、家臣であったとされる「周」に攻め滅ぼされて、天子は首を失い、天命が革まったのであるが、それ以降、随分長い間「革命」は、踏襲されなかったのである。
 して見ると、片岡氏には、古代史料読解が任に余ることは理解できる。

*「倭人伝」解釈の常道
 『「倭人伝」は、古代中国人が古代中国人のために書いた著作』であるから、そのように読解すべきだとか、倭人伝は魏書の一部であるから魏書全体を見た上で読解すべきだとか、無理難題の教訓が見られるが、氏のような見当違いの意見の横行が目に余ったと思われる真意を察するべきである。
 翻訳は、遥かな山々を居間のこたつに引き寄せるが、何らかの手法で「情報」の全てを取り込んでも、それは、現地そのものではない。

*「傀儡」という無様な比喩
 二度登場する「傀儡」は、業界通念だろうが廃語をお勧めする。時代錯誤を棄てれば、歴史の実相が、一段と正確に読み取れるはずである。
 献帝を曹操の傀儡と言うが、片岡氏は、ご自身で傀儡を操れるのだろうか。人形浄瑠璃、糸操り人形芝居など、所作や表情に生命が通じていて、とても、人形遣いの意のままと思えない。それが、芸術というものである。人は、そうした様を楽しんでいるのであり、操り手の妙技を鑑賞しているのではない。誰が言い始め蔓延したか、大変できの悪い比喩である。
 古代当時、形式に絶大な意義があり、天子は天子で、「実権」論は、関係者の隠語だったのである。曹操の理念は、成文法をもって帝国を律するもので「名のみの皇帝」と言うはずがない。一度、よくよく考え直していただきたいものである。

*君主裁可の形
 平安時代の「関白」は、臣下が上奏した議案は、全て関白があずかって稟否し、天皇は追認したという。曹操も同様ではないか。
 皇帝は、曹操の決定を皇帝裁可し、はんこ押しであっても、あえて、芸術的な「操り人形」になったのではないか。どの道、大抵、皇帝は、上申事案を、添付書通りに裁可、つまり、「そうせよ」と決したのである。「皇帝専政」と一口で言っても、実相は多様である。
 今日の官庁、企業で、大抵、起案者の書いた通りに、決裁権限者の裁可、稟議決裁が下りるからといって、決裁者は傀儡ではない(はずであるが、実態は知らない)。

*陳腐と伝統
 陳腐な比喩は、唱えた人間の安直さと追従者の更なる安直さを偲ばせるものである。場違いな比喩で、自身の品格を落とさないようにしたいものである。
 原点に還ると、古代史料の解読は、その史料の著者、当時の読者の属する言語、倫理に即して解釈するしかないのであり、当時存在しなかった言語、倫理を唱えるのは、徒労なのである。

 倭人伝」から始める』総合的な論考は、考古学、文献史学の両要件を満たしたものとすべきである、と愚考する次第である。

                                以上

2024年2月 1日 (木)

新・私の本棚 番外 NHK 「あなたも絶対行きたくなる!ミステリアス古墳スペシャル」 補充 1/2

 放送 2020年3月24日 よる10時 総合 NHKG
 私の見立て ☆☆☆☆☆☆ 独善の虚説、「フェイク」        2020/03/25 補充 2022/10/11 2024/02/01

〇総評
 公共放送であるNHKの古代史番組が泥沼に這っているとの噂があるが、同番組は、古墳ブームを仕掛けたと目される功労者「歴博」の独演会に堕していて情けないのである。古墳時代は専攻外であるが、もののついでのように「倭人伝」を毀損しているので、論じないわけには行かないのである。

*番組紹介 公平のためにNHKサイトから引用 句読点編集あり
 今、古墳が熱い!世界遺産に登録された大阪の巨大古墳のほかにも、全国には魅力的な姿かたち、ミステリアスな古代のロマンに満ちた古墳がいっぱい。そのえりすぐりを紹介!
 沸騰する「お城」人気に続いて、今、熱いまなざしが向けられているのが「古墳」。ステキなのは世界遺産に登録された巨大古墳だけじゃない。全国にはユニークな姿かたちをしていたり、古代のロマンに満ちた古墳がたくさん。純粋にその「カワイサ」に夢中になる古墳女子も続々出現しています。今回は全国に無数にある古墳の中から、えりすぐりを6つ紹介。その中から「あなたも絶対行きたくなる!ミステリアス古墳」を選び出します。
【司会】恵俊彰、赤木野々花 【出演】苅谷俊介、笑い飯、哲夫、堀口茉純、
  国立歴史民俗博物館教授…松木武彦、京都美術工芸大学教授…村上隆

*歴博独演会
 国立歴史民俗博物館(以下「歴博」)が教育機関でもあるという事か、松木教授登場の趣旨は不明である。国立博物館機関を代表する権威と解すべきか。

*異議連発
 当番組は、単なる古墳紹介と見て録画設定せず、あまり注目してなかったがトンデモ発言で注視した。別番組の古代史素人の磯田道史氏の失言はともかく、古代史権威たるべき歴博教授の口から堂々と放たれた虚言である。
 三世紀に、全国に古墳が開始し、一斉に同形態の古墳が広がったなど、大量生産風説が蔓延している。当時の「全国」は、奈良盆地一帯も怪しいが、列島各地を「全国」とは、言うならば、子供だましの口車なのだろうか。

*古墳数え遊び
 早々に見せたように、堺空撮で古墳と見えるのは、精々5,6件で、残りは、眼に止まらない砂粒である。それを逐一数えるのはどういう趣旨なのか、コンビニの全国店舗数を引き合いに出すのは、どういう意味か。誠にうさん臭い。

*一斉造成妄想
 中央権力による造成は子供だましだろう。それぞれの古墳の造墓は、その都度、その土地で、誰かが提唱し、図面を引き、人と物を集め、一から十まで指導したのである。並行して集団派遣できるように、多くの造墓者集団を養成した上で、各地にそれぞれ派遣し、各地で同時に造成したと見るものと思う。ことは、政治権力の問題ではない。古墳は、帝王が片手で作るのでなく、造墓技術者集団と現地募集の労務者が作るのである。
 全国で一千を超える数であるから、十集団が取り組んで、それぞれ十年以上かけるとしたら、遙か後年まで、いや、ひょっとしたら今でも造成が続いている計算である。そういえば、堺地域のとある古墳には、鉄筋橋梁が世界遺産の一部として遺跡保存されていると言うから、冗談ですまないのかも知れない。
 してみると、強力な中央権力も、崇高な宗教性も、堅実な考古学に無縁の無根拠、未検証の仮説、風説と懸念される。

 と勝手に言うものの、解説の歴博教授松木武彦氏は、学術だけでなく、広報教宣担当、歴博聖戦の首席参謀も兼務なのか、軽々と話しを転がしていて、なじめないのである。

*視聴者誤認も時事報道の成果か
 思うに、このような特定宗派荷担は、報道機関体質なのか。新説、新発見のNHK報道は、大抵提唱者に載せられたフェイクとの噂がある。
 近年、NHK古代史番組で機械仕掛フェイクを俗耳に押しつける番組作りが蔓延しているが、風説報道を戒める経営委員会の指導はないのか。因みに、過去、フェイク報道批判には、その時点での時事報道と弁明している。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK 「あなたも絶対行きたくなる!ミステリアス古墳スペシャル」 補充 2/2

 放送 2020年3月24日 よる10時 総合 NHKG
 私の見立て ☆☆☆☆☆☆ 独善の虚説、「フェイク」        2020/03/25 補充 2022/10/11 2024/02/01

*無意味な若者迎合 
 番組は、にぎやかに囃し立てて、うまく人選された、悪乗り得意な、定見のない若者を乗せているが、それは、医薬品などの通販広告に時にある「教授」の囃し立て、個人的感想による印象操作手口ではないのだろうか。それは、公共放送の番組に相応しくない。NHK内部に番組審査機能はないのだろうか。

*頑固な背教者
 三世紀早々に古墳造成開始、全国一律形態と言いながら、東北独自に「前方後方墳」はどういう趣旨か。中央に宗教的権威があるなら、なぜ、背教者は討伐されなかったか。素人目には、中央より先に造墓技術が存在した「先進性」を見るのである。

*唐突な「倭人伝」援用
 その後に、「古墳」は、三世紀早々に確立していて、倭の女王卑弥呼はその様式で埋葬された』と、しれっとして言い放って唐突である。ここで、なぜ、ここに来て、「信用のおけない」(そこまで、そう見て無視していたらしい)外国文献史料を持ち出すのか、うさん臭い話しである。しかも、倭人伝」の記事全体を丁寧に読んだら、そのような埋葬は書かれていないのではないか。

*廃品再生した銅鏡論
 銅鏡談義で、太古、「倭人伝」誤解釈を支えた輸入品説が、学問的棄却を克服(無視)して新装されているのは困ったものである。スズメ百までということか。
 広く配布したはずの銅鏡が、特定の古墳に多数埋設されているのはどういうことなのか。その何倍もの数を、各地に配布して地上に残したというのか。簡単な問いだが、想定外なのか、そうした当然の質問もなければ、回答もない。
 教師は教鞭を振るい、生徒は無批判のスズメの学校」の趣向である。いや、これは、Eテレの教育番組ではないから、思いつきで何を言ってもいいということなのか。

*魔鏡乱入
 本筋と無関係の魔鏡が、古墳考察の本筋と脈略なしに、突然舞い込んでくるのは、歴博の広報戦略か。この議論は、安本美典氏が手厳しく批判しているのだが、何の反応も反省も無く、的外れな実験模様を再生しているのである。
 魔鏡の研ぎ出しと言うが、新鋳銅鏡は所望の輝きがあるから、強力研磨しないのではないか。なぜ、裏面の影響が出るほど研ぎまくるのか。
 魏晋朝にすれば、蛮人にくれてやる旧鏡を、百枚にわたって精巧仕上する謂れはない。関係者はみんな、宮殿装飾品の新作などで忙しいのである。銅素材も、どこでも掘れば沸いてくると言うものではない。
 一部説のように、新作でなく、宮廷倉庫に眠る後漢代の小振りな鏡を動員したのであれば、ここに上げられたような盛大な演出は無関係、無縁である。
 いや、この形式の鏡は、国産の新作と理解しているから、魏朝下賜物銅鏡百枚と魔鏡は全く関係無いとの前提なのかも知れないが、そうは聞こえない紛らわしい言い方であった。但し、出演者からの追求/突っ込みはなかったから、話は通じていたのかとも思えるのである。(展開は、台本次第と言うことか)

 いや、理科実験は理科実験として、その発想と努力をねぎらうとしても、考古学の上で、ここに取り出された魔鏡が、古墳の全国展開に対してどんな意義を持っているのか、よくわからないのである。もちろん、一流の人材が見たところ、絶大な意義があるから、このように唐突に発表したのだろうが、見ていてその趣向が理解できなかった。番組構成上、何か失敗しているのではないか。

*幻の銅鏡国産工房
 以前から思っているのだが、国内の何れかの交通至便な、つまり、物資輸送に適した工房で、これほど大型の銅鏡が、大量に営々と作られたと思えるのだが、そうした銅鏡工房の遺跡は、畿内のどこかにに見つかったのだろうか。
 素人考えでは、奈良盆地の北、淀川水系に即した木津や後の恭仁京あたりに遺跡が眠っているように思うのである。

 当然のことなのだが、念のため補足すると、銅鏡製作には、大量の銅素材以外に燃料とか鋳型の素材とかも、大量に必要であり、また、銅鋳物の型を構想し、試作を繰り返して改善するなど、芸術的に彫り上げる工人以外に、型を実作する職人、坩堝に火を焚いて銅を溶かす職人、さらには。銅鏡を鋳造する工程の汗かき、力技職人、上がった鏡の仕上げ職人、輸送用の木箱や柳籠を編み上げて作る職人、詰めものする職人、そして、川船までの運びやなどなどの多数の汗っかき役以外に、全体の資材管理、日程管理、職人の出欠管理などに加えて、どんな通貨があったにしても、銭勘定は必要だし、結局、近現代の町工場なみの経理、営業、購買などの管理が必要であり、魔鏡ごっこなど物の数ではないのである。こう考えると、何も遺物が残らない謂れはないと思う。

*新陳代謝幻想
 新説をでっちあげ、永年墨守してきた旧説を淘汰、棄却するのは、「進化」の常道だが、古代史の世界で、本当にそれでいいのだろうか。新構造、新材料登場で旧式、旧材料が、敝衣の如く遺棄される業界ではないのである。

*戦線放棄、敵前逃亡
 古墳に多額の国費を注ぐ以上、世に訴え支持を得る使命感には深く同情するが、外連(けれん)と虚構(うそ)で、長年、全国各地で考古学の活動に勤しんできた先人が確立した貴重な定見を排除するのは、罪深いフェイクである。目的は手段を正当化しない。恥を知るべきである。
 「倭人伝」解釈で、「邪馬台国」誤記説に、命がけで固執した「畿内説」の面々が、鬱屈した敗勢に耐えきれずなのか、使命観に目覚めたのか、新時代になって、倭人伝」を単なるできの悪い外国史料として棄却する戦略に転進したのは、何とも、いたましいものがある。

*取り残された誤記論
 そのような参謀本部の転進では、論争最前線で「倭人伝」誤記説にこだわって「畿内説」を死守する良識派は、今回の番組で「見捨てられた」と感じるのではないか。倭人伝」は、古墳新説の聖戦の前には、埋もれた古戦場に過ぎないのか。

〇まとめ
 「最後の聖戦」キャンペーンに血道を上げる歴博はどこに向かうのだろうか。
 いずれは、三世紀に「中央政権」が古墳を全国展開したのなら、遡って、後漢光武帝遣使の倭奴国も管理下にあったと称するのだろうか。わらべ唄のようにずり下がった「しましまパンツ」をずり上げるプロレスラーは、これからは頭が隠れるまでずり上げるのか。
 古墳時代観の低落は、どこで止まるのだろうか。

 それより、地に足のついた、泥臭い考古学考証が必要と思うのである。

                                以上

私の意見 倭人伝「之所都」の謎 再掲

                           2022/01/21 2024/02/01
〇はじめに
 「倭人伝」の「之所都」解釈の同業各派を通じて広く信じられている「通説」は、陳寿の真意ではないようである。
 「之」に続くのは、本来一字であり、二字句を続けている例は希である。「所都」は、「都とする所」と解するかどうかは別として、二字句に見える。勘定が合わない。
 つまり、順当な解釈は、「之所都」と続けず、「之所」で区切るのである。
 正史夷蕃伝である「倭人伝」は、国王/国主の居城を明記することが求められているが、道里行程記事で行きついた後、女王居処が「邪馬壹国」であると明記され、全所要日数が確認された上で、初めて一段落できるのである。

*魏志の権威
 但し、後世文筆家は、言わば、早とちりで魏志「倭人伝」に「之所都」用例を見て追従したようである。正史「魏志」の権威は絶大で、以後、各代の史学者は、「倭人伝」を典拠としたようである。
 世間には、「倭人伝」を独立した「本」(日本語)と誤解することがあるが、あくまで、魏志第三十巻掉尾であり、魏志の一翼としての「権威」を身に纏っているので、二千字といえども「小冊子」と侮ってはならない。「所都」の典拠となったのは、誤解であろうと何であろうと、そのような権威の故である。
 用例検索の結果、「之所都」に、精査に耐える有効な前例はなかったのである。また、「所都」の「都」は、漢魏代では、蕃王居処に不適切であり、周秦漢魏と継承されていた「古典教養」を継承していた西晋に於いて史官の職に任じられていた陳寿には、当然、そのような意図は、一切なかったのである。
 「古典教養」の継承がいったん断裂した後世の類書編者は、古典書に不案内で「都」の禁制など身についていなかったから、無造作に「女王之所都」と読んだのである。太平御覧など類書の所引は、倭人伝の深意を探る「掘り下げ」など念頭に無く、ぱっと見の早呑み込みなので、当たり外れが、激しいのである。外すときは、従って、大きく外すのである。と言うことで、中国史学会の見解といえども、時にあてにしてはならないものがあるのである。まして、後世東夷の無教養な「史学者」の見解は、三度読みなおして、威儀を正すべきなのである。
 ここでも、各種字書、用例の継ぎ接ぎ細工に頼るのでなく、「倭人伝」の適確な解釈は、陳寿の真意を察するのが正解への唯一の道なのである。くれぐれも、裏街道、抜け道、禽鹿の径の類いは、いくら、普通の早道に見えても、よい子は踏み込まないことである。

〇「之所都」用例談義 中国哲学書電子化計劃
 「倭人伝」(ないしはそれ)以前に由来すると思われるのは、二例と見える。
*太平御覽 地部二十七 鎬
 水經注曰:鎬水上承鎬池於昆明池北,周武王之所都
 「水経注」は、中国世界の全河川を網羅して、水源から河口までの各地の地名由来を古典書から収録している。「鎬水」水源「鎬池」が昆明池の北で「之所都」は、周武王が「都」とした意味としても史実は不明で王城名もない。他用例は「武王所都」(説文解字)で「之」を欠いている。
 共通しているのは、後世崇拝された周武王なる無上の存在の「都」であり、東夷蕃王が、正史蛮夷伝に於いて、同列に扱われることなど到底あり得ないのである。

*太平御覧 四夷部三・東夷三 倭
 又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都
 「御覧所引」魏志は、読み損なって杜撰に縮約している。「倭人伝」と前後して文意誤伝であり、「耶馬臺國」は、 誤字で開始していて、信用できるものではない。「正解」は一例に収束するが、「誤解」は多様であり、また、一度誤解されたものは、拡散、迷走していくだけで、正解に復帰しない。と「所引」批判できる。

〇鹽鉄論談義
 通典 食貨十 鹽鐵 【抜粋】   中国哲学書電子化計劃
又屯田格:「幽州鹽屯,每屯配丁五十人,一年收率滿二千八百石以上,準營田第二等,二千四百石以上準第三等,二千石以上準第四等。(略)蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所,每年課鹽都當錢八千五十八貫。(略)榮州井十二所,都當錢四百貫。(略)若閏月,共計加一月課,隨月徵納,任以錢銀兼納。其銀兩別常以二百價為估。其課依都數納官,欠即均徵灶戶。」以下略
 「榮州井十二所,都當錢四百貫」は、塩水井戸十二「所」、「都」は、塩水井戸課税「総計」四百貫/十二ヵ月である。(閏月は、一ヵ月分課税)

 当史料で「總」(すべて)は、「蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所」のように、管内塩井数の総計としているので、課税総計は、「都」(すべて)と字を変えたようである。つまり、「所都」と続けての用例ではない。

 塩の専売による財政策は漢武帝代創設であり、以後、後漢、魏の公文書館に順次継承され通典に所引されたと見える。つまり、倭人伝に先行と見える。
 因みに、先賢の説に依れば、「塩鉄専売」収入は、この時、無から創設された制度で無く、古来、つまり、遅くとも、秦始皇帝の制度として実在したものであり、それまで帝室の収入、つまり、皇帝の私費であったものが、武帝の大規模な外征や河水治水工事への大盤振る舞いのせいで、国庫が枯渇しかけたので国庫収入に付け替えたようである。それまで、いかに、秦漢初期の帝国財政が豊かであり、帝室の私的な財産が厖大であったか、窺い知ることができるのである。

 何にしろ、当時の「経済活動」の規模と成り行きは、現代人の想像を遙かに超えていて、そのくせ、当時の知識人には、当然のことなので、記録に残っていないことが多いのである。くれぐれも、現代人の良識で判断しないことである。

〇「之所都」解釈案
 本稿の結論としては、「之所都」と並んでいても、「都」が総計の意味の場合は、連続させない例として有効で、「倭人伝」解釈に有益と考えて本稿を残したのである。

 因みに、国内古代史学界は、「都」の大安売りであるが、三世紀時点の用語解釈すら不確かなのに、以後化石化した国内用例の解釈と敷衍には、慎重の上にも慎重であって欲しいものである。先賢顕学諸兄姉が、念押しするように、中国史料は、中国人によって、中国人が解釈すべく、中国語で書かれているから、中国人ならぬ後世東夷のものは、適切な教養をもって、中国語として解釈することが、必須なのである。

                                以上

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