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2024年2月

2024年2月27日 (火)

私の意見 「いたすけ古墳」の史跡 世界遺産から除外提言

                        2019/05/30 2024/02/27

◯「名残」の異物排除の提案 2024/02/27
 同異物は、「現在も濠の中に残されている橋げたは、土取り工事が行われようとしたときの名残です」とされているので、依然として、改善/是正されていない/今後とも改善/是正されないものと見て、苦言を再提案するものです。

*当初公開記事 追記あり
 当記事は、世界文化遺産への登録が勧告されている「百舌鳥・古市古墳群」の中で、「いたすけ古墳」が不適格であることを指摘し、除外すべきと考える理由を述べるものです。

 今回、丁寧に新聞、テレビから情報を収集しましたが、「いたすけ古墳」に、現代の工事用橋の遺物が包含されているのは、世界文化遺産の趣旨に反しているので、一国民として、少なくとも、当該異物は直ちに取り除くべきだと考えます。本来、史跡から排除すべき異物を含めて「史跡」としていることに問題があるのです。

 NHKの番組「歴史秘話 ヒストリア」で、当該古墳の宅地開発事業を差し止めし、史跡としての保存に繋いだ功労者である宮川徏氏が橋異物を保存した趣旨が語られていて、声を上げざるを得ないと感じたものです。いや、番組を製作したNHKが、発言をそのまま報道しているということは、NHKはその主旨に賛同しているのでしょうが、当方は、一納税者として一視聴者として正直に「反対」と言います。

 当時、「遺跡として保存することは不要」とされていた広大な土地に宅地造成する事業は、何ら不法な行為ではなく、そのような大規模な事業投資で、地域振興に貢献しようとした事業者は、公正な視点で見て、むしろ頌えられるべきです。

 結果として、「いたすけ古墳」が保存の価値のある史跡と新たに認定されたとしても、もともと非難すべき理由のなかった純然たる開発行為を、こともあろうに、アメリカ合衆国トルーマン大統領の戦争犯罪(ドナルド・トランプ前大統領の公式発言)』(2024/02/27追記)である)「原爆投下」に例える趣旨で世界文化遺産の一部として後世に残すのは、大変な見当違いであり、例えた方も例えられた方も大変具合が悪いと思います。

 精一杯和らげて言うと、この発言を聞いた原爆関係者は、同古墳群の話題に接する度に、激しいこころの痛みを覚えるのではないかと危惧されます。それ以外にも、この発言は無用の痛みをまき散らします。

 個人的には、そのような意見は脇に置いて、「いたすけ古墳」は「百舌鳥・古市古墳群 」全体の品格を毀損するものであり、少なくとも、史跡でない後世のガラクタは速やかに撤去すべきである』と思うのです。今が最後の機会と思うのですがもはや手遅れかも知れません。その場合は、これが過ちによるものであって、世界文化遺産の一部でないことを示すべきです。

 手短に要約すると、このような現代遺物/異物を取り除く当然の義務を怠っている「いたすけ古墳」は、正統な古代史跡とは言えないので、世界文化遺産登録から排除すべきではないかと考えるものです。

以上

アメリカ合衆国トルーマン大統領の戦争犯罪(ドナルド・トランプ前大統領の公式発言)』 は、とんでもない不法な発言であり、現職大統領の職務上の犯罪は、その時点で、つまり在職中に自動的に免責されるというトランプ前大統領の発言は、せいぜい、合衆国憲法による、言わば国内規定であり、国際法で裁かれる戦争犯罪に対して無効であり、逆に、現職大統領が軍事上の最高責任者として下した決断は、合衆国連邦法によって罪科を問われることはないという程度の一説でしかないのです。いずれにしろ、法的な判断は、賈人が勝手に決断できるものではなく、当然、合衆国司法省の審議が不可欠です。其れが、英語で言う「Justice」なのです。

 「免責」されるとは「推定有罪」の前提であり、原爆投下の最終判断を下した、当時のトルーマン大統領は、後世のトランプ前大統領によって「永遠に反論できない状態で断罪されている」のです。 まことに困ったものですが、この場では、これ以上論義しません。

以上

今日の躓き石 毎日新聞 将棋観戦記の盗用事故「王座戦」ネット中継の「不法利用」 追記

                2023/11/22 追記 2023/11/24 2024/02/27

 今回の題材は、毎日新聞2023年11月22日大阪朝刊12版のオピニオン面に掲載された「第82期名人戦 A級順位戦」 観戦記 第21局の2である。
 正直なところ、将棋棋戦(タイトル戦)の報道は、それぞれの主催メディア(時に、複数メディア共催)が、最優先権を持っていて、第三者の報道には「当然」制約があるのだが、今回は、毎日新聞社の記事に『「王座戦第4局」のネット中継を見ての報道』が、堂々と掲載されていて、不審に思ったのである。

 まず、問題なのは、同棋戦の主催紙、ネット中継者について、報道年月日を含めて書かれていないことである。第三者著作物の引用に不可欠な事項が欠落している。

 次に、ネット中継の画面を見た感想のはずが、観戦記者自身の報道のように書かれていることである。「取り返しのつかないミス」などと、許しがたい論評を付し競合誌の紙面で、主催紙の独占的な権利を大いに侵害している。言うならば、自身の観察ではないのに、臨場感を催していたのである。報道偽造である

 ということで、明らかに、知的財産権の重大な侵害がなされているのである。観戦記者は、王座戦第5局の観戦記を担当する予定だったと言うが、それは、第5局の観戦記を主催紙の承認のもとに主催紙に掲載する権利であり、第三者である毎日新聞に掲載することは認めていないはずである。まして、今回の記事は、観戦記依頼など受けていない第4局であり、これを高言するのは、論外の暴というしかない。いわば、職業上の秘密事項を不当に漏らしたものとも見える。念のため言い置くと、ネット中継は、中継者の著作物であり、それを、自身の見聞のように書くのは、中継者の著作権の侵害であると指摘しているのである。

 続いて、同局敗者の談話らしきものが、堂々と引用されているが、毎日新聞社が、自社の名人戦A級順位戦の観戦記で、自社主催棋戦を高め、他社主催棋戦を貶めるために、敗者談話を掲載するのは、報道倫理に悖(もと)るのではないだろうか。

 常識的に考えて、主催紙がそのような談話の取材を許しているのは、当日の観戦者、報道者であり、時点不明の後日の談話については、「勘弁してくれよ」と思っているはずであるが、談話には話者の記名はないし、談話の語られた日が、当然、タイトル失陥の後日であるとしても、いつのことか明記されていない。
 「王座戦」の価値を毀損することを恐れているはずの主催紙が、前王座が「ミス」を犯したと自認した談話が競合紙に正式掲載されることを許可したものかどうかは、不明である。

 正直言って、棋界、つまり、「世界一の順位戦A級」を占めている「棋界最高位の九段」にしてタイトル保持経歴のあるトップクラスの有力棋士が、「メンタルは他人より強いと自覚してい」たなどと、子供じみた言い方をするものではないと思うのである。「mental」(メンタル)は、体育会系のアスリートの好む恥知らずな言い回しであるが、所詮、名詞でなく形容詞であるし、形の無いものであるから、「強い」、「弱い」は、誰にも知ることができないのは、当然である。
 伝統的な評言としては、「体力」、「筋力」でなく、「知力」が高く評価されるものであり、『「鈍感さ」を誇っている』と聞こえては、甚だ不本意では無いかと思うのである。
 このあたり、他紙の観戦記で持ち出され、主催紙に不利益をもたらすと了解した上なのか、という点も、大変疑問なのである。
 問題の談話が、どのような前提で成されたものであり、どのような質問に対する回答なのか「隠されている」から、当の棋士に対して不当に厳しいかもしれないが、もし承知の上での発言、引用許諾であれば、プロ棋士としての職業倫理の根幹に関わると思えるのである。

 ついでに確認すると、「自覚」とは、何かの資質が劣っていると自認する場合の卑下した言葉遣いであり、あいまって、知性に富んだ一流棋士の口にすべき言葉遣いでないのであり、それでは、観戦記者が棋士の知性を毀損しているのでは無いかと思われる。
 当観戦記は、毎日新聞の看板のもとに、世間に、有力棋士の失言をさらすべきものでないと信じるものであり、この場合、毎日新聞社としては、教育的指導すべきと見るのである。共同主催紙の朝日新聞社は、同一の談話を引用した、同一趣旨の観戦記を載せていないと思うので、困るのである。
 それとも、この程度の「行き過ぎ」は、業界相場で許容されているというのだろうか。日本経済新聞社のご意見を聞きたいものだが、この場は、毎日新聞社の責めを問うものなので、そちらはそちらで確認して欲しいものである。

 以上のように厳密に論じたのは、本日の観戦記の相当部分が、実際の観戦記でない「第三者著作物の不法利用」に占められているからである。毎日新聞編集部は、このような問題を露呈した記事を当然と見ているのだろうか。
 少なくとも、毎日新聞の一読者として、大変疑問に思うものであり、率直、かつ丁寧に「批判を加えた」のである。

以上

追記: 2024/02/27
 当ブログ記事を閲読したと報せがあったので、思いきって、続報めいたものを書くことにした。
 別の対局者の対戦の観戦記であるが、第一譜がとんでもないものになっていたのである。全面的に一方対局者の談話らしきものになっていて、観戦記者は、署名しているものの、記事内容としては、同談話を引用符で囲んでいるだけなのである。報道の原則として、引用符で囲んだ部分は、発言内容の忠実なベタ引用であるので、文責は、全面的に発言者にかかるのである。観戦記者は、「無責任」なのである。
 まず第一に、このように一方対局者の談話をベタで掲載するのは、観戦記として当然のことなのだろうか。通常、読者に対して断りがあるはずなのだが、なにもない。つまり、同対局者が「手づから」執筆したことになっている。つまり、この回の観戦記の著作権は、当然同対局者に帰属するはずである。そのような「観戦記」に対して、掲載紙は、普通に原稿料を支払ったのであろうか。同対局者には、「観戦記執筆」に対する謝礼を支払ったのだろうか。

 つぎに問題になるのは、同対局者は、そもそも、このような形式での談話掲載について了解しているのだろうかという疑問である。談話に署名がないから、無断掲載「とか」も思われるのである。談話内容は、素人目にもかなりの不振と見える当期順位戦の成績について後悔とか泣き言を言っているのではないと思うが、それにしても、道半ばで、言い訳めいたものと取られかねない談話を公開するのが、本意とは見えないのである。

 いや、観戦記者が、目下の星の具合や席上発言について「勝手な」解説を述べるのは、ある程度「飯のタネ」で仕方ないのだろうが、それとこれとは、別義である。それにしても、相手方対局者の談話は、なぜ掲載されなかったのだろうか。何とも、面妖な観戦記である。
 同観戦記は、朝刊に掲載され、毎日新聞社ネット記事でも公開されていたから、当方の指摘が、的外れであったら、反駁いただいて結構である。

 この場で観戦記者名など書かないのは、武士の情けである。当方は、一介の読者であるので、断罪などできないのである。

 いや、同観戦記者は、以前にも、その時点の名人を差し置いて、「目前のA級順位戦勝者が、棋界の最高峰である」という様な書き方で、当ブログの批判を浴びているのである。目立った失態として、すくなくとも三度目であるから、ぼちぼち、ご勇退頂いた方が良いのではないかと思量する次第である。

以上

 

新・私の本棚 糸高歴史部 季刊「邪馬台国」137号 「糸高歴史部座談会~」

 創刊40周年記念号 記念エッセー 第二席 「糸高歴史部座談会 ~邪馬台国はどこにある~」
 短評:「定説」「通説」の軛(くびき)を負う「痩せ馬」(疾走者)の自画像  2023/11/07 2024/02/27

◯はじめに
 記念稿が、『「魏志倭人伝」の文章が間違っている』と書き出すのは、諸先輩の遺産を負わされた不幸と思う。もっとも、「遺産」呼ばわりには、「まだ生きとるわい」の罵声の波が予想されるので、「諸先輩の遺産 (時期未定)とするのが、妥当かもしれない。

*「遺産」の書き出し
 真面目に言うと、掲載誌 季刊「邪馬台国」の40周年記念号の記念エッセイで、栄えある「第二席」を占める「エッセイ」(小論文、作業仮説)は、世評が高い「福岡県立糸島高等学校歴史部」の多年の部活動成果、つまり、諸先輩の尽力の積み重ねを踏まえて、その場に立っている姿を示しものと見られるので、いきなり「魏志倭人伝」誤謬風聞で書き出すのは、実は、不幸な星の嘆きと見える。

 要するに、数世紀に及ぶ「邪馬台国」論争が、挙(こぞ)って『原史料を「間違っている」との風評を談じている』ことの不条理適確に認識していて、しかも、是正していないのが「傷ましい」というものである。

 「倭人伝」誤記文書呼ばわりの根拠なき風評(groundless rumor)に対する反論は、本来は、「邪馬台国」が虚構国名であり、続いて、其の国が「大国」との誤解/幻想が元凶であると「つぶさに」指摘すべきなのだが、前者は、掲載誌が本誌「邪馬台国」なので誌上で主張できないから、当小論文は、後者への反論を浮かびださせるものであり、「壹国」(いちこく)ならぬ「伊都国」(いつこく)が、北に行程を逆行/周旋する行程三国を「一大率」(例えば、難升米は、倭官名で「倭大善中郎將」の巡察/巡回指導によって官制整備していた図式が読み取れるように思う。(私見付け足し御免)。総じて、よくよく読み解けば、随分、健全な意見と見える。

 ネットや俗悪「新書」で、跳梁跋扈している不出来な「陳寿誹謗風説」の暴論と一線を劃しているのは、見事である。

*「倭人伝」を尊重する解釈
 それにしても、以下、冒頭提言に縛られつつ、「魏志倭人伝」の『現代東夷流解釈、つまり、本質的な「誤解」』に基づいていても、原史料を離れない地味な議論が進むのは、ある意味、誠に傷ましいものであった。それにしても、「間違っている」との「通説」に、これほど世上の注目を集める栄えある場で、ある意味堂々と背くのは、良い度胸と言える。立ち上がって、ただ一人拍手喝采(Standing Ovation)である。
 糸高歴史部の誰かが、ここに示された達観を追求していくことを望むだけである。

*禁じられた質問
 もちろん、正直に筋を通すと、国内史学界で生存できないので、素人論でしか述べられないのだが、うして『「魏志倭人伝」の文章が間違っている』と断定できるのか、素朴に初心を追求するのが、生活のかかっていない高校生の史学研究の第一歩のように思うのである。

◯まとめ
 国内史学分野の底辺/後尾/残泥から延々と巻き起こる「陳寿」罵倒論は、どうも、高校生の初学レベルでも感じ取れる「陋習」のようだが、それが業界相場であってみれば、これに逆らうと、国内史学界での生計に支障が出るので、大人(おとな)は擁護/追随/固執せざるを得ないとも見えるのである。
 それが、浮世の習いというもので、誠に嘆かわしいのだが、その点、当方のように、一介の素人で生活のかかっていない小人(こもの)しか筋を通せないと思うので、このような拙文を残しているのである。

 おかげで、こてこての業界人に「おれたちの商売の邪魔をする奴」と言う趣旨で「一利なし」と誹られ、堂々と妨害工作を仕掛けられているが、非営利の素人であるから、利害を問われるのは単に不快なだけであり、別に、他人の儲けがどうなろうと関心ないのである。

 樹木は、芽生えて根ざす土地を選べない、とは、古人の箴言であるが、長大/成人は樹木ではないので、率直/正直に自分の立脚点を変えられると考えるのである。各位に於いては、所属組織の目先の利害に囚われることが、本当に、ご自身の使命なのか、再考いただきたいものである。いや、これは、「糸高歴史部」の現役部員を問い詰めているものではない。世に出た諸先輩の姿を示しているだけである。

                                以上

2024年2月26日 (月)

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 1/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行   初出 2020/04/10 補充 2020/06/23 2024/02/26
 私の見立て ★★★★★ 豊穣の海、啓発の嶺

〇はじめに
 以下は、古代史における不朽の名著の裳裾の解れを言い立てているに過ぎません。多年に亘り広範な史料を渉猟し、雄大な構想のもとに展開された歴史観ですから、一介の素人は、その一部すら考証する力を有さず、たまたま、氏の学識の辺境に、思い違いを見つけて指摘するだけです。
 本記事は、単に、氏が陳寿の東夷観の由来と見た漢書西域観の勘違いを言うものです。

 いうまでもないと思いますが、巨大な山塊に蟻の穴があっても、山塊の堅固さに何の影響も無いように、ここに挙げた「突っ込み」は、氏の名著の価値をいささかも減じるものではありません。

 「余談」としたのは、氏の見解に関係しない勝手な余談論議です。

〇漢書西域観
 後漢の史官班固が編纂した漢書は、「西域伝」を設けて、高祖から王莽に至る歴代の西域交渉を、国別に、いわば小伝を立て、主要国については、小伝内に年代記として描いています。漢書「西域伝」の書法は、陳寿「三国志」のお手本であり、後世人も、大いに学ぶところがあるのは、言うまでもありません。

〇「東夷伝」序文考
 氏は、「東夷伝」序文を引用したあと、漢書「西域伝」の言として、「安息国長老」の言を漢書から引用しています。しかし、「東夷伝」序文に、魏代事績として再々奉献と列記された西域大国に「安息」の名はありません。ちぐはぐです。

 序文を少し戻ると、武帝が張騫を西域に派遣した結果、西域諸国との交通が開き、各国に百人規模の使節団を派遣して、服属ないしは通交を求めたため、得られた各国情報が漢書に記されたとしています。よくよく考えると、漢書に魏代記事があるはずは無く、陳寿の知識がどこから来たものか、一瞬戸惑います。東夷伝を見ると、当時、後漢代史官記録は、いまだ公式集成されていなかったと見えます。そんな状況で、「東夷伝」序文の出典として注目されるのが、末尾の魚豢「魏略」西戎伝です。
 劉宋史官裴松之が、陳寿「魏志」に全文を補注したのでわかるように、魚豢「魏略」は公式史書に準ずる権威が認められ、陳寿も、序文を書くに際して参照したと見られるのです。

〇印綬下賜談義 余談
 「通典」収録の漢代記録によると、漢朝は、反匈奴勢力拡大のためか、来朝使節の低位者にも印綬を下賜したと言います。ということは、漢朝を再興した後漢朝が、地域を代表する大国以外に、付随する小国にまで印綬を下賜した可能性はあり、その後継たる魏朝も、闊達に下賜したようです。
 というものの、陳寿が、「東夷伝」序文に挙げた魏代西域交流が事実なら、魏志特筆の大月氏への黄金印下賜は場違いです。漢武帝時代以来欠かさず遣使していたお馴染みが、長年ご無沙汰(絶)としていた後、忽然と洛陽に顔を出したのなら、本来過度の厚遇は不要です。

 総合すると、実は、序文記事は、史官として苦心の粉飾で、桓・霊以来、西域との音信不通、交通遮断の魏朝にとって、この来訪は干天慈雨だったのでしょうか。としても、さすがの陳寿も、この一件だけでは、魏志「西域伝」の書きようがなかったのでしょう。

*金か「金」か 余談
 多発されたのが、黄金の金印か青銅印か不明ですが、大半は、太古以来「金」と呼ばれていた青銅でしょう。皇帝付きの尚方工房は、大物も交えた精巧な青銅器を日々鋳造していたから、印面はともかく、四角四面の角棒に紐飾程度の作品は、茶飯事でしょう。材料は倉庫に山積みだったでしょうし。
 それはさておき、「陳寿は漢書を意識した」の段落には、これまで取り上げられなかった、魏略「西戎伝」の影響の再評価が必要です。何しろ、魏志「夷蕃伝」に対する裴松之付注、「裴注」の主力を成しているのですから。

                                未完

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 2/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行     初出 2020/04/10 補充 2020/06/23 2024/02/26

〇安息の国「パルティア」にまつわる誤解
 先ず第一には、古田氏が、安息国を「ペルシャ」と解しているのは誤解です。「ペルシャ」は、太古以来、今日に至るまで、イラン高原のペルシャ湾岸沿い高地の一地域です。当該地域の政権が興隆して、イラン高原全体を支配したのは、古代のアケメネス朝と後世のササン朝の二度に亘っていて、それぞれ、メソポタミアからエジプトにまで勢力を広げ、東地中海にまで進出したこともあって、ギリシャ、ローマの史書に名を残していますが、安息国(パルティア)は、それとは別の地域から興隆し、一時、地域を支配した王国なのです。ペルシャなどもっての外です。
 ちなみに、中東アラブ諸国では、「ペルシャ湾」と言う事はありません。同様に、「トルココーヒー」も禁句です。現地に出向かれるときは、大事なところで口走らないように、口に巾着を掛ける必要があります。
 それはさておき、安息国、パルティアは、たしかに、西は、メソポタミアを包含して、広くイラン高原全域を支配し、後年「シルクロード」と呼ばれるようになった東西交易の要路を頑固に占拠し、交易の利益の大半を得ていたのです。
 其の国都「クテシフォン」は、大「王国」西端のメソポタミアにありましたが、漢使が五千里の彼方の国都に赴いたはずは無く、安息国内情報を取材したのは、全て、カスピ海東岸の「安息」の周辺だったのです。

 パルティアは、この地の小国(班固「漢書」西域伝で紹介され、范曄「後漢書」西域伝の言う「小安息」)から起こって、イラン高原を西に展開し、アレキサンドロスが宏大なアケメネス朝ペルシァを破壊した後、早々に没した後に、旧帝国の中心部を支配した「セレウコス」朝王国が、西方での共和政ローマの将軍ポンペイウスによって指揮された大軍の侵攻で大敗したのを受けて、同国を駆逐して、イラン高原全域を支配しましたが、西の王都クテシフォンは、バグダード付近にあったのです。当然、「安息」(パルティア)と称していたと共に、発祥の地である旧邦も引き続き「安息」(パルティア)としていたのです。

 東西両地域間には、北のメディア、南のペルシャの地方勢力の支配した地域が介在しましたが、安息(パルティア)は、中央集権で圧政を敷いていたわけではないのです。このあたり、漢/後漢は、しばしば混同していたし、西のローマは、帝制紀に入ってしばしば侵入してきましたが、こちらは、東方辺境の小安息のことなど、とんとご存じなかったのです。

*小安国の世界観 余談
 漢使の取材に応じた安息の長老は、うるさく言うと小国安息の代表者/国主であり、その世界観は、地域的なものだったのです。従って、ここで言う「西海」は、目前の「大海」、カスピ海であり、條支は、その西岸の大国、「海西」だったのですが、して見ると、そこに到るのに、「大海」を百日航海するというのは、何らかの錯誤でしょう。西戎伝で見る限り、安息西境から條支国都まで、十日とかからなかったようです。

 この際、中国から見た西域の地理認識を是正すると、古代史書に表れる「大海」は、今日想定されるような「海洋」などではなく、辺境に広がる塩水湖であったようです。最初は、ロプノールを、塩っぱい水に満ちていたことから、あえて「西海」と呼んだのですが、次第に、西方の地理が分かってくると、更に西方に、更に巨大な塩水湖があるのに気づいて、「大海」と呼ぶことになったのです。大海の東岸にあたる安息が、漢/後漢の到達した西の果てであり、安息の西の王都どころか、大海の西岸「海西」の條支すら、実見できていなかったので、噂話にとどまったのです。このあたりは、どんどん余談が広がるので、後ほど、解説できるでしょうか。
 少なくとも、後漢書、魏略西戎伝に至るまでの史書で、西の大海がカスピ海でなく、地中海、黒海、ペルシャ湾などが「大海」であったと論証するのは、大変困難(不可能)と思われます。何しろ、そのような「大海」は、中国関係者が実見したものではないので、地平の彼方の霞の世界ですから、明確に特定できるものでもないのです。

*條支の西
 條支の先は、黒海から地中海ですが、安息長老は、旅行記を取り次いだ程度と思われます。條支から西に行くには、「地中海」航路もあれば、黒海に出てアドリア海を渉る「渡船」もあり、また、その北の陸地を、コーカサスの難関を越えて渉る陸上行程も知られていたようです。圏外になりますが、ギリシャ、ローマ側の記録は、結構豊富なのです。
 ともあれ、後漢朝史官が史実の報告として史書に掲載したのは、安息、大月氏までであり、笵曄「後漢書」によれば、条支以西は実見していないので風聞の採録に止まったのです。

*謝承「後漢書」考 余談
 謝承「後漢書」なる断片史書が外夷伝を備えたと伝わっていて、その東夷伝が魏志「東夷伝」の原史料との主張が見られます。憶測の風聞が、現行刊本の信頼性を毀損するのは、無法なことです。亡失資料に関して確実なのは、謝承が後漢公文書(漢文書)を閲覧できなかったことです。謝承は、後漢末から三国の呉人であって、洛陽で史官の職に就いてないから、書庫に秘蔵の公文書は閲覧不可能でした。できたのは、先行史料の引用だけですから、本紀/列伝に関しては、なんとか史料を収集して書き上げたとしても、夷蕃伝は、公文書が不可欠なので、大したことは書けなかったのです。

*魚豢「魏略」考 余談
 魏略を編纂した魚豢は、史官ないしは準じる官職にあったと見られる魏朝官人であり、魏の首都雒陽に蓄積されていた漢代公文書を制約無しに閲覧し「魏略」に収録できたと見えます。「魏略」、特に「西戎伝」には、漢代史料が豊富に引用されていて、魚豢が漢代公文書から取り込んだものと見えます。

 因みに、古来、史書執筆の際に先行資料に依拠するのは史官の責務であったので、陳寿はじめ各編者は、魚豢「魏略」を、(必要に応じて、断り無く)利用したものと見ます。裴松之も、魚豢「魏略」が史書として適確と知っていたから、魏略「西戎伝」を丸ごと補追したのです。

 世の中には、范曄「後漢書」が、正体不明の先行史書を引用したと推定しているものがありますが、いかに、史官の責務に囚われない范曄にしても、それは無謀というものです。笵曄「後漢書」西域伝で、笵曄は、先行資料の筋の通った解釈ができない風聞は割愛したと述べているほどです。范曄なりの史料批判に怠りはなかったのです。

〇条支国行程
 古田氏は、條支に至る行程について、班固「漢書」西域伝の解釈を誤っています。
 班固「漢書」は、西域の果ての諸国の位置を書くのに、帝都長安からの距離に従い順次西漸しています。条支は、安息の東方にあったと思われる「烏弋」(うよく)山離から百日余の陸上行程であり、安息は、烏弋と條支の間なので、安息~條支間は、陸上百日よりかなり短いはずです。

 いや、以上のような批判は、よほど西域事情について考察しないと判明しないのであり、洋の東西を問わず、ほぼ、全学会が、條支行程について誤解しているので、古田氏が世にはびこる誤解に染まったとしても、無理からぬ事です。
 地中海に、中国史書における西域事情の考証は、白鳥庫吉氏が、世界に先駆けて確立したものであり、古田氏が、白鳥庫吉氏の著書を参照していないと見えるのは、まことに残念です。いや、これは、氏に限ったことではなく、兎角、国内史料に偏重している国内古代史学界に共通の認識不足です。

                                未完

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 3/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行   初出 2020/04/21 補充 2020/06/23 2024/02/26

〇漢書安息記事
 「王治番兜城,去長安萬一千六百里」なる班固「漢書」西域伝の安息地理情報は、本来明解です。
 安息は、現地にいる漢使にとって、目前の番兜(ばんとう)城を治所とする「大国」であり、大月氏や烏弋山離のすぐ西の隣国となっています。ところが、それに続いて、安息は、方数千里の「超大国」であり、「国都」は西方数千里の彼方、とあるので、長安帝都の関係者は混乱したようです。この混乱は、順当に後続史書に受けつがれます。ちなみに、班固「漢書」西域伝で「王都」は、ほぼ安息国だけの敬称です。

史官の務め色々
 言いきってしまうと、誤解を招くかとも思うのですが、ここでは史官の務めを確認したいのです。史官は、手元の史書、資料に混乱があると見えても、勝手な解釈から小賢しい是正を加えてはならないということです。混乱していると見えても、是正せずに継承していれば、あるいは、後世、無理のない是正ができるかも知れないのです。棄てず作らずと言うことです。

 ただし、後世に史官の務めを知らない、小賢しい輩が現れて気に入らない原史料を棄ててしまったら、後世にはその勝手な解釈による改竄結果しか残らないのです。
 ここで言うなら、西域記事に関しては、范曄「後漢書」西域伝が、大々的な是正を加えているので、危うく歴史改竄がまかり通っていたのです。幸い、原史料が、劉宋史官裴松之によって魏書第三十巻に収録された魚豢「魏略」西戎伝に温存されているので、劉宋だの歴史家であった笵曄「後漢書」が、何を消してしまったかわかるのです。
 とすると、後漢末(桓帝、霊帝、献帝)から魏(武帝、文帝、明帝)にかけての東夷伝記事で、范曄と陳寿のどちらを信じるべきか、はっきりしてくるように思います。
 いや、このような両史家の資質評価は、古田氏の持論とも一致するので、ここに書いても許されるように思った次第です。

*混乱解決の手掛かり
 この際の混乱の由来を整理すると、安息は、大王国の国名であると同時に、王国東端の小安息で漢使を応対した「長老」にしてみたら自国の国名なのです。小安息は方千里程度なので、近隣諸国と比肩できます。

 このように認識すれば混乱は解消するのです。特に、漢使到着の時点は、大安息西方の大発展、イラン高原統一が完了した時点なので、まだまだ、安息と言えば、長年王国を維持してきた全天下の地理観、世界観が通用していたように見ます。
 と言うことで、漢使の安息到着以来、二千年を越えようかという條支比定の課題は、にわかには、 解決しないでしょう。
 それはさておき、條支は、安息から見て、国境~国境で数日程度の隣国です。

 後の魚豢「魏略」西戎伝に依れば、條支は、安息と大海カスピ海を挟んだ隣国で、大海(南部)を横断する行程と共に、南岸を経巡る訪問行程が描かれています。條支王都は、安息人が「海西」と通称するように大海の西岸ですが、そこから西に百余日河川遡行しても、西方の山地を越え、黒海なり、今日の小アジア(トルコ)に出る程度で、その認識は、今日のヨーロッパに届いていないのです。
 「條支」は、字面から言うと、分かれ道、川の支流ということのようですが、当時、東のカスピ海と西の黒海の狭間で双方と通じていた「アルメニア」王国を指すようです。今日の「アルメニア」は、カスピ海岸の「アゼルバイジャン」と黒海岸の「ジョージア」(かつての「グルジア」)に介在する内陸国ですが、当時は、両国を支配していたようです。(これは、少数意見です)
 安息を等身大に解釈するだけで、大半の混乱は解消するのです。

*「西方」観の相違 余談
 漢人の西方は、西王母の住む仙境であって、こころのふるさとなのですが、安息人には、西は交易相手の隣国が在るというだけで、格別の感興はないのです。現世の思いとして、漢人に西方諸国を知られると、安息迂回の貿易路を開設されて巨利を失う危険があることから、とぼけ通したとも見えます。

*西の狼、東の虎 余談
 現実には、メソポタミアの向こうの地中海東岸シリアには、強力な軍備のローマの大軍四万人が駐屯していて、往年のアレキサンドロス大王ばりの侵略を企てていると見られるので、安息国は、東方の大国をローマと交流させるわけにはいかなかったのです。
 何しろ、漢武帝は、東方オアシス国家を支配した北の匈奴の排斥戦略として安息の仇敵大月氏と同盟を企てた事が知られているので、せめて、「漢との同盟を拒否して敵対した」と解されないように、つまり、敵に回さないで、敬遠したかったはずです。何しろ、大月氏にこの企てが知れたら、何をするかわからないと言う危惧もあったと思われます。
 と言うことで、安息国の長老、おそらくは、小安息の国王と側近は、漢人の聞きたい西方幻想譚を示唆しただけに止めたのでしょう。

〇まとめ
 以下、率直に、本書に示された古田武彦氏の西域観の瑕瑾を指摘して、本記事を終わります。
 1.漢書西域伝から読み取った安息、條支の地理情報が誤解されています。
   そのために、漢書、後漢書の西域観を読み損ねています。
 2.東夷傳序文に示された陳寿の漢魏西域交流総括が軽視されています。
   それが、氏の東夷伝解釈に反映していて不満です。

〇謝辞
 以上の素人考えの背景は、主として、以下の諸書によるものです。

 白鳥庫吉 白鳥庫吉全集 岩波書店
  第六巻 西域史研究 上 第七巻 西域史研究 下

  史記に始まり唐書に至る正史西域伝に残された漢文明と西域との交流の歴史解明と欧州文書など大量の資料を基盤とした考察は、世界的に先進かつ最高峰として高評価を受けていて、後世の素人に、大変貴重な労作の高峰です。

 塩野七生 ローマ人の物語
 東方のペルシャ帝国を打倒したアレキサンドロス三世の偉業を慕うローマにとって、「ヨーロッパによるアジア制覇」は国民的願望として、共和制末期を飾るポンペイウスのセレウコス帝国打倒、続く、クラッススによるパルティア遠征と破綻、皇帝ネロの和平構築、等の出来事が、時に応じて丁寧に紹介され、ローマ視点のパルティア観を明らかにしていて大変貴重です。
 東西超大国の狭間でしたたかに生き続けたアルメニア王国の姿は、ここ以外では、中々読めないものです。

 本記事筆者は、西域伝/西戎伝に現れる大国「條支」は、数世紀に亘り両大国の緩衝地帯となった大国アルメニア王国に違いないと確信しています。

 なお、漢代西域展開の極致は、後漢西域都督班超が派遣した副官甘英が、長年西域支配を画策している「大月氏」(貴霜)打倒のための同盟工作を極秘裏にに展開した安息国の東方拠点であり、その隣国條支にすら、足を伸ばしていないのです。

*「大秦」の幻影払拭 2024/02/27
 魚豢「魏略」西戎伝及び笵曄「後漢書」西域伝に言及されている「大秦」記事は、疑いを挟む余地無く、「條支」、ないしは、その近辺の「小国」の風聞であり、パルティアを越えた地中海圏にまでその所在の検索を求めるのは、砂漠に蜃気楼の「逃げ水」を追い掛けているものです。
 魚豢「魏略」「西戎伝」は、参照した後漢代史料の錯簡により後世史家が誤解していますが、とかく誤解が蔓延っている「大秦」は、前世で、アラル海付近にいたと特定されている黎軒が、「海西」、つまり、大海西岸の條支国付近に移住したものであり、あくまで、近隣なのです。袁宏「後漢紀」考明帝紀は簡潔明瞭であり、康居、大月氏、安息、大秦、烏弋と並んだ諸国の中で、比較的西の方としています。

 後漢西域都督班超の派遣した副使甘英は、大海の岸辺/東岸に到達して、海西に渡ろうとしたものの、「安息の塩水の大海は渡海困難」の説明で説得されて断念したとされていますが、思うに、西方探索は、甘英の本来の使命ではないので、安息高官の説得に応じて條支、大秦の究明を断念しても、違命でも何でもなく、使命に忠実な甘英として不思議はないのです。
 
 「後漢紀」 によれば、大秦は、太古、中国「秦」の西方にいた騎馬/遊牧の民であり、大月氏同様に、何かの機会で身軽に西方に移住したのであり、転々と移住を重ねた挙げ句、安息の一隅を占めて、従って、中国由来の「大秦」を名のっていたらしいのです。
 このあと、記事は、宏大で文書行政を施された大国の風情を収めた「大秦」記事と解釈されているが、常識として、これは、安息の記事が、錯簡されたものと見えます。何しろ、当時の夷蕃伝は「其国」として書き継いでいたので、綴じ紐がちぎれて簡牘が交錯したものを臆測で復元したとみるのが自然です。
 これは、魚豢「魏略」西戎伝でも見られる交錯であり、條支について語るはずの記事が、突然、大秦国の所在とその風土、風物を語り始めているように見えるのは、「素人読み」として「普通」なのですが、少し考えれば、簡短な錯誤による取り違えと分かるのです。魚豢「魏略」「西戎伝」は、魏志第三十巻の巻末に安住していることから、写本継承の際の錯誤は最小ですが、劉宋史官裴松之が確保していた帝室蔵書の時代善本といえども、後漢公文書原史料の錯簡などに由来する誤謬は避けられないのであり、丁寧に考証することが求められるのです。いや、魚豢「魏略」「西戎伝」も、孤立している史料と見え、また、魏志本文と同様、異本が事実上存在しないので、校勘は至難ですが、それでも、文書史料自体の整合性を追求すれば、原史料の想定は可能と思われるのです。と言うことで、くわしくは、当ブログの別記事に述べているので、御参照いただきたいのです。
 端的に言うと、本来、詳細を究めるべき安息事情が希少で、初見の大秦事情が豊富であるとする解釈は、そのような誤謬を是正し損ねた、錯覚の産物に見えるのです。
 このあたり、二千年近い錯覚の継承が山を成しているので、原資料から出発する丁寧な考証が不可能になっていると見えます。いや、何処かで聞いた話のような気がしたら、それは、空耳です。

*安息の機密保持~東西交易の「中つ道」
 それはさておき、「状況証拠」として明快、かつ有力なのは、東西交易、さらには、南方交易で「ローマが羨む世界一の巨利」を博している安息としては、暴威を極めている大月氏の同類としか見えない漢の使節甘英が何と言おうと、国内事情を詳しく教えるどころか、遙か西方の敵国ローマ準州に接触を許すはずがないのです。何しろ、班超は、第三国に使者として滞在しているときに、匈奴使節団の滞在を知り、暗夜奇襲してこれを葬ったという蛮勇の持ち主であり、百人程度の少数でも、厳重警戒が必要なのです。
 何しろ、目下沈静化しているとは言え、大月氏は、東方から亡命したと称しながら、突如、騎馬軍団で、安息王都を急襲して、「国王親征軍」を大破して、王都の財宝を掠奪し尽くしたという前歴があり、西方からの援軍で、大月氏軍を押し返し報復したとは言え、以後、国境部に二万の常備兵を置いたほど、警戒しているのであり、漢月共々、一切信用できないのです。そんな物騒な輩に、国内通行を許すことは有り得ないのです。
 さらには、安息の交易ルートの北方に脇道を設けている條支と接触することすら、商売の上で、もっての外だったのです。もっとも、西戎伝には、條支商人の述懐として、安息は、東西交易で厖大な利益を得ていて、売価が、仕入れの五倍十倍は当たり前だとしていましたが、それは、大月氏制圧を、喫緊の使命としていた漢使の知ったことではないのです。

*莉軒「大秦」の比定
 というような「常識的」な考察を歴て、大秦の居住地は、かなりの可能性で現在のイランテヘラン周辺、太古の「メディア」の後裔地域であり、「メディア」の語意を得て、「中つ国」、「中国」、転じて「大秦」と名乗ったと見えるのです。ちなみに、以後、さすらいの莉軒がどうなったかは、不明です。

袁宏「後漢紀」復権
 袁宏「後漢紀」は、「黎軒」が、「印度北部のヒマラヤ中腹の細道を歴て、益州、つまり、蜀漢の地に至り、更に、交址に下りる細々としていても、確実な経路を確保していた」と見ていて、これは、張騫が西域諸国で傍見した中国物品の渡来につながるようです。
 そして、これが、後年、「ローマ皇帝」使節の漢都到達という年代物の理解/誤解につながったようです。砂漠の道、海の道以外に、細々とは言え、酷暑、瘴癘、乾燥と無縁の「山辺の道」があったのです。

 いや、魚豢「魏略」「西戎伝」の該当部分の行程記事は、常人の読み解けるものではないように見えます、見る人が見れば、要点を見抜けるものです。

 以上、どこにも飛躍やこじつけのない「エレガント」な仮説ですが、どうしても、世間さまでは、「大秦」=「ローマ」の無理やりの決め込みが解けないようである。くり返して念押ししますが、これを何処かで聞いた話と思ったら、それは、空耳です。

*ローマの残照
~帰らざる安息のローマ軍団
 西方蛮夷の風聞の源流を求めるなら、ローマ共和制末期の「クラッスス」の遠征譚であり、四万の遠征軍が、パルティア正規軍と会戦して大敗/壊滅したため、不敗のローマ軍団が全面降服を余儀なくされ、一万人の戦時捕虜がパルティアに引き渡され、「組織を保ったローマ軍団が東部国境に到達して、安息国兵士一万人とともに国境警備の任に就いた」とされているので、当該捕虜から聞いたローマの風聞が伝説化していたかもしれないのですが、それにしても、ローマ兵捕虜は、帝政以前のユリウス・カエサル時代の共和制ローマ市民であり、「国王」の執務など知りようがなかったと見えるのです。
 そして、結局、ローマとパルティアの和平が長年成立しなかったため、ローマ兵捕虜は、全員が異境の土に帰ったのです。常識的な期間内に和平が成立していれば、ローマ兵捕虜は、当時の国際法に従い、身代金と交換に帰郷できたのですが、ローマ側の混乱で、それは実現しなかったのです。
 まず、ローマは、ポンペイウスによる、ユリウス・カエサル誅滅が、カエサルの反撃によって挫折して、広範な地域でポンペイウス追悼戦が続き、ポンペイウスの死で決着したものの、カエサルが企てたパルティア遠征が、カエサル暗殺で頓挫し、以下、エジプトを支配下に置いたアントニウスのパルティア遠征は、惨敗に終わり、といった具合で、時はひたすら空転し、帝制に移行して久しい皇帝ネロの英断で、両国間に和平が成立したときには、パルティアの東北辺境、メルブのオアシスで望郷の念を紡いでいたローマ兵捕虜は、全員が自然死を遂げていたのです。
 パルティアのために弁明すると、一万の統制されたローマ兵捕虜は、一万のパルティア兵とともに、重要な国境防衛に専念していたので、それなりの厚遇をえていたものと思われるのです。そして、ローマ兵捕虜は、当然、和平による捕虜交換がいずれは実現するものと、不敗の大国、共和制ローマの再来を信じていたのです。

 いやはや、風聞、錯覚の弁護をするのは、何とも、古代ロマンの風に曝されるものです。

 この項 2024/02/26~28追記
                                以上

2024年2月19日 (月)

新・私の本棚 笛木 良三 季刊 邪馬台国 136号 「魏志倭人伝は本当に短里..」三次稿 1/1

 「魏志倭人伝は本当に短里で書かれているのか?」 2019/07刊行
私の見立て ★★★☆☆ 不毛の論争の朴訥な回顧 2019/07/11 2020/04/06, 09/28改訂 2024/02/19

〇愚問愚答
 本誌一九八八年春号「里程の謎」は「古典」であり、掲題は愚直です。
 三国志に、はなから「短里」なる用語と概念は存在しないから、『三国志に「短里」はなかった』のです。史学論文は、用語錯誤に注意すべきです。
 このような批判は、同誌掲載に際し、編集責任者によって論文審査されていると信じるからです。論者も十分な見識を有し、率直な指摘に耐えるとみました。

*無駄なおさらい
 古田武彦氏創唱「魏晋朝短里説」論議は先行論文参照で事足ります。紙数の無駄は悪しき先例となります。
 本誌131号掲載の受賞論文、塩田泰弘氏の「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」の広範で確実な論考を参照しないのは不用意です。学術論文は先行論文を克服すべきです。重ね重ね不用意です。

*見過ごされた「宣言」
 ここで、肝心なのは、先賢諸兄姉は、揃って「倭人伝」記事を読み違えているのです。
 「韓人、倭人は中国本土と異なる里数を使用し」の要約は、多重錯誤です。「里数」でなく「里」の論議なのです。また、「中国本土の里」、つまり、一里が現代単位の五百㍍程度と見える「普通里」の里数と六倍程度異なるとみえる里数を提示したのは、諸韓国や倭人の者でなく帯方郡の者となります。夷蕃は官制を知らないのです。不用意な用語選択です。つまり、因みに、愚見では、倭人伝に「韓人」は、登場しないはずです。宜しく。ご確認賜りたく。
 「地域里」の「倭人伝」編纂時、「普通里」でない里数を採用せざるを得ず、後世検証できるように「宣言」したと解するのが、後世読者の務めと感じます。明白な宣言を見過ごして「三国志」本文の「雑記事」をもとに泥仕合したから、掲題設問に三十年を経て解答が出せていないと思量します。

 追記:2024/02/19
 以後の考察で、ここに示した表現は、若干浅慮の粗忽であったと反省していますが、そのまま残します。
 つまり、倭人伝に示された「郡から倭まで一万二千里」の提言は、遅くとも、遼東郡太守公孫氏が、後漢献帝建安年間に、当時の「倭人伝」稿に書き記したものと見ます。陳寿は、史官の責務に従い、「魏志」編纂にあたって、原「倭人伝」(「倭人伝稿」)を蹈襲したものです。漢制の施行されていた、つまり、「普通里」の道里が知られていた区間を、あえて、「郡から狗邪まで七千里」と明示したのは、それ以降、倭人伝に限って臨時の「里」を適用しているとの宣言なのです。「倭人伝」の眼目/(必須)要件は、郡を発した文書が何日で「倭」に届くかという規定の確立であり、それが、「総じて四十日」であると規定したのが、正史夷蕃伝における「都水行十日陸行一月」の意義なのです。(「都」は、はなから蕃王居処に使える文字でないので「論外」であり、一も二も無く「すべて」と解すべきなのです)
 史官の教養の持ち合わせのない東夷が、このあたり、自明の理を見逃していたのは、まことに不明でした。深く反省しています。

*図の錯解
 以下、氏は、意義不明の「図」の概念で論じますが、「図」は非論理的で、読者の感性に向けて、自身の幻想を押しつけるものなので、論拠になりません。
 ただし、機械製図のように、一定の工学規則に沿って作図解釈される「図」は、規則を学べば一意的解釈が成立し、論拠たりえますが、それは例外です。
 論者は、根拠無く三世紀の陳寿が見た「世界図」を論じますが、全て論者の脳内図式で第三者に何の意味も無い夢物語は、紙数の無駄です。

*迷走の果て
 最後に、論者は、我に返って史料を直視しますが、史料が読み解けないと、長々と夢想にふけったことの反省があるのかどうか。

 結局、論者は史料を直視せず、他人の意見を丸呑みしています。陳寿が、漢制の施行されていた区間を明示した「郡から狗邪まで七千里」の「原器」を渡海一千里で、すこし曲げていますが、「渡海」は本来、日数勘定であって、実距離と連動しないと見定めたのを忽然と抛棄します。そのような右顧左眄の論証は信用できません。

 また、実測でない、不確かな「里数」の換算に高精度計算を施すのは、時代錯誤です。不確かな数値は不確かなまま扱うのが「合理的」、「科学的」です。

*まとめ
 すべて読み通して、合理的な推論手順を外れた、何十年の堂々巡りが実績として浮かびます。
 先賢諸兄姉の厖大な論考によって、「正解を得られないと証された不毛な論議」は捨てるべきです。「本当に」などと、空疎な常套句に貴重なタイトルの三文字を空費している余裕などないはずです。

                               以上

2024年2月12日 (月)

新・私の本棚 番外 上村 里花 毎日新聞 「邪馬台国はどこにあったのか」賛辞再掲

「考古学界で優位の近畿説に反論 九州説の「逆襲」相次ぐ理由は」
 毎日新聞 2020年7月21日 10時20分  (最終更新 7月22日 15時19分)
 私の見立て ★★★★★ 絶賛 毎日新聞古代史記事の復興 に期待 2020/08/01 補追 2023/01/16 2024/02/12

▢補追の弁
 当記事は、初見時に、冷静、確実な取材と卓越した筆致に感動して絶賛したのだが、今般、某同僚記者の杜撰な「古墳」談義を読まされて批判記事を挙げたことに影響されて、同紙の名誉回復の趣旨で再掲したものである。
 今次補筆(2024)は、参照された方があったので、手を入れただけである。

〇はじめに
 当ブログ筆者は毎日新聞宅配購読者であるが、当時、留守で宅配停止していたのでWeb記事で拝見した。
 本記事は、全国紙に冠たる毎日新聞の古代史記事の復興と見て、勝手ながら賞賛した。従来、同紙で散見した纒向中心の安直な提灯持ち記事と異なり、冷静な目配りで一般読者(納税者)に、古代史に関する適確な視点を提供する記事であるので、ことさら目立つ言い方をしたのである。

 記事中紹介されている片岡氏の著書の原文を入手するのに日数を要したが、確認した所では、記者の読解力は適確であり、先輩諸氏の変調と無縁である

*報道ならぬ騒動
 見出しが半ば揶揄しているが、末尾の高島氏の談話が説くように、「学界で優位」、「逆襲」は、復讐も逆襲もない学問論に不適切である。

*考古学界の動向
 いや、正体不明の考古「学界」であるが、実際は、とかく表層で喧噪をまき散らしている「風聞」集団がすべてでなく、良識を有する研究者/論者が、寡黙な大勢を構成していると信じている。
 片岡氏の論議であるが、劈頭、まずは、纏向が支配的な学界風聞の引用である。学術発表が「報道」されていれば引用できるが、同紙を先頭に「ヒートアップ」とか「近畿説で決まり」など、野次馬好みの喧噪が、伝統ある全国紙に書き立てられているのは、報道機関として「世も末」である。
 そのような風潮に抗してか、片岡氏の論議は、概して冷静で、学界に蔓延る軽率な風聞を窘め、まことに貴重である。

 ただし、別記事(近日予定)書評で歎いたように、氏は、遺跡、遺物の研究を専攻している考古学者であり、同時代文献、つまり、中国史書(の燦然たる一章)「倭人伝」の解釈では、「専門家」のご意見を拝聴した感じであり、そのため、原文解釈ではなく、「手前味噌」が堆い(うずたかい)国内通説、俗説依存の和流「読替え」訳文(本意か不本意かは不明であるが)忠実に信奉し、原文の意義を、元から取り違えて伝えていると見える点が、氏の折角の冷静な論議の脚もとを揺るがして、何とも「もったいない」。
 それに付随して、氏の中国「古代国家」観は、時代離れした後世/異郷史学論法に染まっていて、立て続けに空を切っているので、ここではひっそりと治癒を祈るものである。もちろん、以上は、氏だけの宿痾ではないので、気に病まないで頂きたいものである。

*時代錯誤「訳文」に依存~片岡氏批判
 端的に言うと、「倭人伝で晩年の卑弥呼は、千人の侍女をはべらせ、常に警護がつくなど、強大な力を持った姿で描かれる。しかし、それは半世紀近くの治世の間に生まれた権力で、当初はクニグニに「共立」された弱い存在に過ぎなかった。(後略)」と時代錯誤訳文に、赤々と染まっているが、このように「翻訳」文に惑わされたために生じたと見える、苔のように纏わりついた先入観を取り除き、描かれている原文に回帰して、その真意に密着すると、以下の判断が提示できるはずである。

 倭人伝の原文から考えると、ここにでっち上げられた「晩年」は、二千年後生の無教養な東夷が、勝手に「共立」の時代比定と卑弥呼の年齢推定をずらし、挙げ句に、長期在位」としたお手盛りの年齢を押しつけただけであり、当人は、老齢でもなかったし、また、神ならぬ身で、自身の死が近いとは思っていなかったし、また、老人でも病人でもなかったと見えるから、「晩年」決め付けは、「倭人伝」と無縁の事実無根である。
 婢千人は、侍女とは限らないし、女王が、身辺に多数の女性をはべらす意義も不明である。「王治」(後漢書にいう大倭王の治所 「邪馬台国」)の警護を想定しているが、「倭人伝」にかかれた諸「国」に城壁のある要塞は存在しない上に、「強大な力」は、後生東夷が勝手に創作した幻影である。陳寿「三国志」魏志「倭人伝」には、「半世紀近」い 治世も、クニグニに「共立」されたのも書かれていない。
 少なくとも、「共立」は二者以上、三者以下と見えるが、「クニグニ」と書き殴って多数、三十ヵ国と思わせるのは、狡猾に過ぎる。何しろ、「倭人伝」に「クニグニ」などかかれていない。とにかく、有る事無い事てんこ盛りの「ごった煮」に見えて信用ならない。
 そもそも、衆議一決して排斥されるほど強力な男王を継ぐ王は、本質的に弱い存在ではないから、朝議に参加させなかったのであろう。それにしても、文書行政でない古代君主が、朝廷御前会議を主宰せずに、どうやって、強力に統治できたか、不明である。

 以上の不都合は、女王の「性格」(片岡氏の手前味噌造語)を纏向から九州北部を「強力に支配」した権力者のものに仕立てた創作、つまり、原文に無い「俗説」満載の創作劇に起因するものに過ぎない。言うならば、「魏志倭人伝』が描いた邪馬台国』も、同様の背景による「俗説」の被造物である。「我田引水」に荷担するのは、せめて、最低限、十分に史料批判した後のことに願いたいものである。

*切望される原典回帰~片岡氏批判
 当記事を魏志に採用した陳寿は、同時代史家であり時代錯誤にも、和風意識も無縁である。心ある考古学者は、陳寿によって、女王の墓碑銘として構想された「倭人伝」の泥や苔を洗い落として欲しいものである。

*冷静な総括
 末尾の高島氏の談話は、冷静な指摘であり「逆襲」などではない。「現在の考古学界にはそれが決定的に欠ける。それが問題であり、課題だ」と適格に断じておられるが、「問題」、「課題」には、編纂者である陳寿によって、明快な解答、是正策が示唆、ないしは予定されているはずである。ぜひ、高島氏の慧眼で模範解答をお願いしたいものである。
 古代ギリシャの挿話「幾何学に王道なし」の流用であるが、中国古代史文献に「ジーンズとスニーカー/サンダル履きの散歩道」は無い。

〇まとめ 河清を待つ
 本記事は、全国紙の古代史記事の「正道」を想起させる。諸先輩は、何度でも顔を洗って、原点から出直してほしい。
 時を経て、人が代わっても、毎日新聞の泥や苔にまみれた古代史記事は残るのである。と言うか、当分野の先賢諸兄姉の一部の通説に媚びた「曲筆」三昧は、永久に残るのである。

 その意味でも、当記事は、担当記者の清新さが感じ取れて、清水再来(clear water revival)を待望するのである。
                                以上

2024年2月11日 (日)

倭人伝随想 14 太平御覽 「魏志に云う」 の怪 1/2 更新

                          2019/02/08 2024/02/11
*倭人伝談義
 当方は、一介の私人であり、一千巻にのぼる大冊の太平御覽(以下、御覽)全般について史料批判するなど論外です。
 語りたいのは、御覽の「」記事の魏志引用で「邪馬臺国」(耶馬臺国)と明記されているという点に絞った議論です。(卷七百八十二 四夷部三 東夷三 俀)

 結論を言うと、御覽編者が「魏志に云う」と宣言しても、正確な引用でなく編者が改編した結果が書かれているということです。

 これは、先賢諸兄がとうに精査済みの筈なので、おそらく、何れかで論議されていると思いますが、当方の見聞では今ひとつ明解で無いので、ここに私見を示すのです。

 太平御覽は、「中国宋代初期に成立した類書の一つである。同時期に編纂された『太平広記』、『冊府元亀』、『文苑英華』と合わせて四大書と称される。李昉、徐鉉ら14人による奉勅撰であり、977年から983年(太平興国二ー八年)頃に成立した」(Wikipedia)とされ、西暦十世紀後半、北宋期のものです。以下、御覽引用/所引の魏志を「御覽魏志」といいます。

*先行資料の優越性
 現行刊本に見える「魏志」は、御覽編纂より後年、西暦十二世紀の南宋刊本に準拠することから、先行した御覽魏志の方が三国志原本に近いと「推定」されています。して見ると、「御覽魏志」が参照した陳寿「魏志」に「耶馬臺国」と書かれていたものが、南宋刊本は、以後の誤写で「邪馬壹国」となったものに違いない、とは、世上よく見かける臆測/未検証の論調です。

 しかし、大局的に御覽記事を見ると、まず、笵曄「後漢書」記事が引用され、倭女王ならぬ大倭王が「邪馬臺国」を居処としていると明記されています歴代史書で、司馬遷「史記」、班固「漢書」に続いて、笵曄「後漢書」が「三史」の掉尾として参照されたものです。そのように、笵曄「後漢書」によって国名を確定した後に、続く陳寿「三国志」「魏志」の当用写本を参照し「邪馬壹国」は「耶馬臺国」の誤記として改編したと見れば、笵曄「後漢書」「邪馬臺国」が陳寿「三国志」「邪馬壹国」に優越したのは、別に不可解ではないと思われます。

*史料批判の試み

 しかし、後世人たる当方は、どの時点であろうと、原文を改編したと思われる引用文は、そのまま承認することはできないのです。

 と言うものの、御覽編者を弁護すると、その手元に届いた魏志第三十巻の東夷伝「所引」は、何れかの時点で、後漢書をもとに訂正されていた可能性があり、編者は、採用所引に従っただけかも知れないのです。(経過が不明なので、どんな可能性も、否定できないという趣旨です。)

 そのような「懸念」を排除できないのは、これほど権威を与えられた編者が、あえて原文を改編して「云う」としたのは、時代の史料解釈定説に従ったと見られるからです。云うならば、編者が手元史料として利用した当用写本が、既に「耶(邪)馬臺国」と改訂されていた可能性を見のです。

*原本不可侵
 とは言え、いくら同時代解釈が有力でも、さすがに、帝室所蔵の原本の改竄はできなかったので、厳格に写本継承された成果と見える陳寿「三国志」南宋刊本への信頼は維持されているのです。

                               未完

倭人伝随想 14 太平御覽 「魏志に云う」 の怪 2/2 更新

                          2019/02/08 2024/02/11
*御覽編者の誤解
 以上は、笵曄「後漢書」をもとにした改編の疑惑ですが、「御覽魏志」は、他にも、南宋刊本の字句を整形して、自身の解釈に沿うように訂正している例が見られます。原文の忠実な引用でなく、編者の解釈で改編しているのです。編者に云わせると、それは、当代最高の知性による至高の編集であり、原典は原典として、十分尊重していると云うでしょうが、ここでは、無批判で追従はできないのです。

*継承と改編
 件の「邪馬壹国」と「耶馬臺國」の対照部は次の通りです。
 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戶    南宋刊本
 又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都其置官曰伊支馬次曰彌馬叔次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮   御覽魏志 (影印複写 末尾)

 「邪馬国」「彌馬」と「耶馬国」「彌馬」などの違いを除くとほぼ同一の文字が書かれていても、語順を変えたために意味が変わっています。

 「水行十日陸行一月」は、行程「従…至」が不明なものが、「至耶馬臺国」行程とされ、戸数「七萬戸」も「耶馬臺国戸数」とされ、行程は「又」で繋いで放射状行程が成り立たなくしていて、至って明快です。
 但し、三世紀の読者に迎合した原文を、千年近い後生の当代読者に迎合して「明快」に書き換えた解釈が正しいかどうかは別であって、原文の忠実な再現でないことは明らかなので、所詮、「誤解」に類するものと見られます。

*誤解の由来
 そのような改編は、写本誤写では起きず、また、別史料に依存したものでも無いので、御覽編者としての権限を持つ権威者の見識による「校訂」であり、「御覽魏志」の史料としての信頼性の限界を示すものと思われます。

*結論

 端的に言って、御覽魏志」の「耶馬臺国」は陳寿「三国志」「魏志」の正確な引用とは思えないのです。又、「御覧魏志」の改編が御覽が創始したものなのか、先行資料の継承なのか、も、当然ながら不明です。確実なのは、陳寿「三国志」、笵曄「後漢書」以後の史料に「邪(耶)馬臺国」とあっても、その時点の陳寿「三国志」「魏志」原本に「邪(耶)馬臺国」と書かれていた証拠にならないのです。

 ここまで流していますが、「御覽」の公開資料は、全て、「後漢書」部は「馬臺国」、「魏志部」は「馬臺国」であり、文字不一致は何とも不可思議です。又、笵曄「後漢書」、陳寿「三国志」「魏志」から始まる所引記事で、全体を「倭」でなく「」としているのも、気がかりです。
 大冊の編纂作業に、玉石混淆の大勢で取り組んでいて、内部資料に草書を多用したために、例えば、「邪」が「耶」に化けたのでしょうか。「わからないこととはわからない」としか言いようがないのですが。

 言うまでもないでしょうが、世間で通用している写本に「時代誤記」が発生しても、帝室所蔵の同時代原本には一切影響しないので、「時代誤記」は、まるっきり継承されないのです。これだけは、不変不朽の真理です。

*保守と創造
 後世人には、頑固に三国志原本の「みだれ髪」を保守する原典志向の史官と同時代読者に向けて髪の解れ(ほつれ)を櫛けずる創造志向の類書編者との違いを弁えず、頑なに俗説を言い立てる方が絶えないのです。

 くれぐれも、思いつきの先入観に囚われて、無理な深読みをしないことです。個人的な意見ですが、真相はいつも明快なものと思うのです。

以上

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2024年2月 7日 (水)

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 1/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/07

◯更新の弁
 当ブログも、発足以来日時を経ていて、各記事も、初稿以来、更新を重ねているものも、少数ながら存在する。但し、件数、頁数がかなり多いので、更新の手が行き届かないものも、少なくない。そこで、最近務めているのが、一般読者の方から閲覧が入ったものは、積極的に内容を見直して、改訂するという事である。
 但し、それが、字句修正や書き足しならともかく、論旨が大きく変わったものは、暫し考えたあげく、打ち消し線で削除して、以下、新規書き足すことになるのである。結構見苦しいのだが、当方は、意見が変わったことを隠す意思はないので、そのような改訂/更新もある。
 本項で言えば、当初、古田武彦師の「魏志短里説」擁護/批判/否定を辿って、現在の「倭人伝」二重記事説に至るまで、何度か意見の基調が替わっているので、ここは、恥を曝すのを覚悟で、極力、旧稿保存に努めたものである。ということで、読みにくい記事となっている点をお詫びするものである。
 端的に略記すると、当初、「倭人伝」道里記事は、「短里」で書かれているとする意見であったが、それが、「三国志短里」でも、「魏晋朝短里」でもないところから始まって、「倭人伝短里」との主張に一度立ち止まったが、現時点では、「倭人伝」道里記事は、倭人初見の際に書かれた「全行程万二千里」という決め込みで書かれていて、それが、「倭人伝」記事策定の際に、「皇帝承認記事は改訂できない」という制約に束縛された史官が、明らかに実態に即していない道里を温存せざるを得なかったことから、これを公式道里として記載し、実務の必須事項である総括「都所要日数」を記載するという、現在も伝わる道里記事になったと言うことを示したのである。
 そのような記事校正は、一種の「難問」として提示されているが、「難問には、必ず解答がある」のであり、読者は、それを解決することを予定されているのである。
 本講読者諸兄姉は、それぞれ、「難問」に対する解答をお持ちであろうが、本稿をはじめとする当ブログの「解答」を理解いただければ幸いである。

◯始めに
 本項の目的は、引き続き、「倭人伝」里制の妥当性を確認するものです。
 まず、当ブログ著者は、本記事初出の段階(2018/10/26)では、『「倭人伝」里数は、「短里」のものであり、これは、現地、つまり、帯方郡領域で実施されていた「里制」の忠実な反映である』と見ました。主たる論拠は、「倭人伝」冒頭で、帯方郡から狗邪韓国までの、帯方郡にとって既知の里程が、七千里と宣言されているということです。そのため、全体に「地域短里」、「倭人伝短里」の見方で進めています。

*「誇張」・「虚偽」説
 これに対して、倭人伝里数が、悉く「誇張」・「虚偽」と見る説は、総じて根拠のない憶測であり、正史に明記された記事を否定する力を持たないものです。そのような説自体「作業仮説」にもならない、単なる子供じみた思いつきであり、非科学的な「誇張」・「虚偽」と見えます。
 例外的に趣旨明解な松本清張氏の主張の批判は別記事です。

◯方針説明
 当記事は、魏志「倭人伝」の時代を含む歴史的な地理情報を網羅した晋書「地理志」の内容を検討し、里制に関する判断資料とするものです。
 もっとも、晋書「地理志」にも、晋書「倭人伝」にも、「倭人」領域に関する行程道里記事が無いので、「倭人」領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。

◯晋書紹介
 晋書は、魏志「倭人伝」の編纂された司馬晋の時代の中国王朝です。時に、その前半を特定して「西晋」と呼ばれますが、当時は、自分たちの時代が早々に幕引きになって、天子が北方異民族の虜囚になって処刑された亡国に至って、辛うじて南方で再建され「東晋」と呼ばれた後世王朝と区別するために「西晋」と呼ばれるなどとは「夢にも」思っていなかったことは言うまでもありません。

*古代の晋(春秋)
 ちなみに、「晋」は、中国古代の周王によって中原北方に封建された周代の一大国でしたが、春秋時代末期に王権が衰え重臣に権力を奪われて飾り物になった挙げ句、重臣間の抗争を歴て生き残った趙、魏、韓の三家が、遂に晋王を放逐、それぞれの姓によった趙、魏、韓の三国に分割したのです。
 晋王が、臣下に放逐されたのは画期的な大事件であり、諸国を束ねた東周の権威が失われ、各国がむき出しの抗争を行う戦国時代に移ったとされます。晋王は周の創業以来の大黒柱であり、臣下による追放から保護できなかった上に、三国から大枚の贈答を受けて不法事態を承認したから、周王に権威がない事を天下に知らせたことになるのです。以後、時代は、統一権威の存在しない「戦国時代」に移行したと見られています。

*司馬晋登場
 ともあれ、この時代の晋の創業者司馬氏は、つい先年の曹操、曹丕の天下把握の手口そのままに、曹魏皇帝から天子の権威を譲り受けるについては、先ずは、古代の晋の旧地を所領とする異姓の「晋王」に任命され、続いて、曹魏皇帝から国の譲りを受けるという「禅譲」により、魏朝を廃し、皇帝として晋朝を拓いたのです。こでは、古代とは逆に「魏」から「晋」に権力が移行したことになります。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 2/9 更新

                2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*太平の崩壊招く愚策~司馬晋の自滅
 と言うことで、西晋崩壊の背景は、三国志の最後の呉を滅ぼして天下統一した皇帝が、太平に甘えて官兵を靡兵、解雇したために、失業した多数の元官兵が、各王の私兵となったのです。
 野心家が天下を狙うとなれば、教育、訓練の要らない、命令服従を本分とする元職業軍人は強力な武器であり、まして、帝位継承資格を持つ各王が他の王に対抗して強力な軍を組織し台頭を図ったため、乱世の幕を拓いたのです。
 さらには、兵力増強のため、北方異民族「匈奴」の部族を傘下に採り入れ、教育訓練を施して、私兵としたのですから、それは、長年討伐していた侵略者を、領内に呼び入れるものであり、程なく、内乱によって権威が失われた帝国を、内部から食い散らかす、害獣を育てたことになります。
 斯くして、司馬晋による天下統一は、束の間の天下太平であり、晋朝は、いわば自滅政策を行い、始皇帝以来の統一国家「中国」は瓦解し、以降、四世紀に亘り南北二分されたので、晋皇帝は大罪人ということになります。

*前車の轍 始皇帝の永久政権構想

 過去の歴史に学ぶとすれば、戦国諸公を滅ぼして天下統一した結果、兵力過剰に直面した秦始皇帝は、大軍を匈奴対策名目で北方に駐在させ、全国から長城や寿陵建設に農民を大量動員して、失業軍人の反乱を避けたのです。
 税収に即した緻密な動員策が必要ですが、全国地方官からの統計情報を元に、計数に強い官僚がギリギリまで民衆を絞りあげれば、中央政権を「永続」できたはずです。一方、全国から不平分子を徴用して反乱の原動力を吸い上げ、併せて事業経費を幅広く徴収して反乱の資金源を断つ戦略です。
 とは言え、後継皇帝は、そのような巨大な戦略に、全く気づかず、的外れの過酷な動員と徴税を続けたため、衆怒を買い、反乱多発の状態となったのです。

◯晋書由来

 以上、晋書の素性/対象時代を知るため、中国史を抜粋しましたが、晋書は、南方に逃避した東晋政権や後継の南朝諸国では編纂できず、北朝を滅ぼした唐朝で、太宗の重臣房玄齢の率いる錚錚たる集団によって完成したのです。

 既に、時代は、南朝を討伐して全国統一した隋が、天下太平維持に失敗したために、またもや生起した全国反乱を統一した正統たる唐の御代であり、晋書を、南北朝の乱世を生起した晋朝の不始末をうたいあげる、いわば反面教師としての正史としたため、史談とも言うべき本紀、列伝において、風評に富んだ「面白い」史書になったのです。先ほど上げた、西晋滅亡時の各王内戦は、当時の皇帝が、極めつきの暗君であったために、必然的に起こったとされています。

 但し、ここで当方が取り組んでいる「地理志」は、地理情報、統計情報を記した「志」であり、そうした演出とは関係無く、歴代政権の公文書として継承された豊富な資料を、丁寧に駆使した意義深いものです。

*「志」を欠く先行史書
 先行史書で言うと、南朝劉宋代に大成された笵曄「後漢書」は、自身の「志」を備えず、唐代に、先行していた司馬彪「続漢書」の「志」と併合されたものです。そして、三国志は、遂に「志」を持たなかったのです。
 ということで、晋書は、班固「漢書」以来久々の体裁の完成した正史となります。
 また、笵曄「後漢書」が、ほぼ笵曄単独編纂の労作であり、陳寿「三国志」も、陳寿の指導力が強く反映しているのに対して、晋書は、房玄齢以下の集団著作とされていて、厖大な数値データを参照する必要のある「志」の編纂に相応しい体制であったと思われます。もちろん、四世紀ぶりに、乱れた全国を再統一した唐王朝の国力も強く反映されています。

 つまり、晋書「地理志」は、大変信頼性の高い史料と見るものです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 3/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*本論開始
 枕が続きましたが、題材とした資料文献の背景説明としました。
 と言うことで、晋書地理志が当記事の本題です。

▢古田武彦氏の「魏晋朝短里説」の消長
◯短里説提唱と展開
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』で、倭人伝行程記事の郡から倭に至る里数について、詳細に考察した上で、
  これは、当時の里制を忠実に記したものである。実際の地理から、「倭人伝」の一里は一貫して75㍍程度(数値は、参照しやすく丸めた概数)の「短里」である。
 ⑵ これは、古代周朝の里制である。
 ⑶ これに対し、秦始皇帝が、天下統一にあたり、六倍、450㍍程度の「長里」に変更し漢に継承された。
 ⑷ これに対し、魏朝は全国里制を「短里」に復原し「倭人伝」に反映している
 ⑸ 「短里」は、後継した晋朝に継承されたが、晋朝南遷後東晋によって廃され、秦漢「長里」に復帰したとの趣旨で提言したものです。

 ⑴~⑸は当記事筆者による要約

◯魏晋朝里制の論証
 古田氏の論旨は、「三国志」は陳寿が統轄編纂した史書であるから、前漢に渡って、里制は統一されているべきであるとの理路により、「倭人伝」記事の小局から出発して魏晋朝全国という大局に及び、三國志全文に及ぶ実証の試みは現在も続いています。

◯魏朝里制変更の否定
 ここでは、先ほどの⑶以降の推論が成立しないことを述べるものです。

*史書に記載なし
 晋書「地理志」を根拠とすれば、魏晋朝短里の否定はむしろ自明です。晋書「地理志」は、古来の地理情報を克明に記していますが、魏晋朝において、秦漢朝と異なる里制が公布、施行されたとの記事はありません。

*里制変更の無法さ補充2022/06/01
 里制は、晋書「地理志」という公式記録/正史の根拠となるものであり、国政の根幹であると共に、各地方においても行政の根幹であり、里制を変えるという事は、国家の秩序を破壊することであるから、皇帝と言えども里制変更はできないのです。

 全国里制を、それまでの「普通里」から、「短里」に変更すると、一里三百歩の原則から、農地測量単位の「歩」(ぶ)が、それまでの、一歩六尺の関係を維持できず、一歩一尺になってしまうのです。
 言い換えると、土地台帳は、それまで、面積百歩、現代風に言えば百(平方)歩、と書いていた土地が、六倍ならぬ三十六倍の三千六百歩になるということで、全国の地籍(土地台帳)を換算して、書き替える必要がありますが、もちろん、農地の実際の面積は変わらないので、税は、同等なのですが、そのような換算計算は、読み書き計算のできない「一般人」の理解を越えているので、増税と判断されて衆怒を招きます。

 あるいは、そのような激変を避けて、尺、歩までは維持し、一里五十歩とするのでしょうか。

 通常、「歩」による農地面積管理に、「里」は関係しないのですが、ことが、県単位の世界を越えて、郡単位や全国での農地面積となると、「里」単位で計算することになり、その際、里が一/六になって、道の里「道里」が六倍の数字になるとして、それを、広域の農地面積に適用すると、「千里」四方が、三十六倍の「三万六千」里四方になってしまうので、広域方里の取扱について、明確な指示を公布する必要が生じるのです。

 「短里」制は、一片の帝詔では済まず、厖大な公文書と実務を必要とするのです。従って、そのような大量の公文書が残されていない以上、里制変更はなかったと断定できるのです。(臆測、推定ではないのにご注意下さい) 

▢結論
 そのような途轍もなく重大な制度変更が実施されていたとすれば、魏晋朝の不手際を明らかにするものとして、晋書の本紀部分に記載されるべきものであり、まして、晋書「地理志」の周以降の制度推移記録に記載されないはずがありません。

 と言うことで魏晋朝といえども、国家制度としての短里は、実施されなかった事が明らかです。実施されなかったから、記録に残らなかった」というのは、まことに、まことに明解です。
                              未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 4/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

◯周朝短里制への疑問
 さて、次に懸念があるのが、⑵の項です。いや、秦が「短里」を「長里」に変更したということも、議論が必要ですが、周里制がいかなるものだったか解明しなければ、秦里制を議論しようがないので、後回しとします。

*晋書「地理志」に見る周朝制度

 周は、それまで中原を支配していた殷(商)の覇権を奪って王朝交代を実現したのですが、元々、函谷関以西の「関中」を根拠とした西方の地方勢力だったので、中原を包括する統一国家を運営する組織も制度も持っていなかったのですから、殷の制度、殷の官僚組織を継承しつつ、徐々に周の国家制度を組み立てていったものです。

*口分田制度(日本)
~異邦の不法な制度 余談
 参考となる口分田は、本朝律令では、「戸籍に基づいて六年に一回、口分田として六歳以上の男性へ二段(七百二十歩=約24㌃)、女性へはその三分の二(四百八十歩=約16㌃)が支給され、その収穫から徴税(租)が行われるとされていた。口分田を給付することは、人々を一定の耕地に縛り付け、労働力徴発を確実に確保できる最良の方法であった。」Wikipedia
 1㌃は、一辺10㍍の方形の面積(百平方㍍)

 少年少女以上の男女それぞれに支給されている点が、「目覚ましい」のです。中国の制度では、「長大」、「成人(15歳程度か)となった」男性が「戸」の構成員であることが前提となっているものの、農地耕作に貢献できない年少者は、あてにしていないものですから、まったく、異質の概念で書かれている規定と見えます。
 つまり、何が目覚ましいかというと、「口分田」制度は、秦代以後の中国で一貫して施行された「戸」という家族制度をもとにした、戸籍制度、土地管理制度とは、相容れないものであり、魏代に「親魏倭王」として、漢制(中国制)に服属する蛮夷の王の法制としては、到底許されない、不法な制度と見えます。

 世上、国内で制定された「律令」(国内律令)が、唐律令に準拠した法制(模範解答)だと考えている方が少なくないようですが、仮に、遣唐使が、国内律令を献上したとすると、立ち所に「死罪」に処せられる大罪を犯したことになります。とんでもない意見ですが、在野の論者に時に見られる論義です。
 そもそも、持ち出し厳禁の唐律令を、蕃王使節が盗み出して持ち出すのは、それ自体が既に大罪です。なぜなら、唐律令には、天子に始まる諸官の規定が書かれていて、それを、蕃王が施行するのは、自身を天子と称するものであり、到底許容されるものではありません。即日、討伐軍を送り込まれても、当然の大罪なのです。
 と言うことで、先に挙げた「口分田」の制度は、服従に際して上申した「戸数」が、中国制度に背く、虚偽のものであることを白状しているので、中国の天子の耳に「絶対に」入ってはならないものです。

 つまり、掲げられている「口分田」の制度は、中国に服従する蕃王のものでなく、中国との交流のない「くに」が、いわば、勝手に制定したものだと分かるのです。

 ちなみに、中国制度の「戸数」を復習すると、夫婦二人に、子供として複数の成人男子が同居している「戸」を根拠/単位とした国家制度であり、各戸には、所定の農地が割り当てられて、耕作が許可され、その大小に所定の農作物を納税し、各戸単位で、最低一名の徴兵に応じる全国統一制度であるので、対象地域の「戸数」を言えば、税収と兵士の数が自動的に定まる、計数管理の容易な制度なのです。

*井田制
 本朝の口分田のお手本となった周朝の井田制は、「中国の古代王朝である周で施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。 まず、一里四方、九百畝の田を「井」の字の形に九等分する。そうしてできる九区画のうち、中心の一区画を公田といい、公田の周りにできる八区画を私田という。私田はそれぞれ八家族に与えられる。公田は共有地として八家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。」 Wikipedia

*尺・歩・畝・里

 少し言い足すと、(中国)畝(ムー)は、六百尺四方であり、一尺25㌢㍍とすると、一辺150㍍程度となり、およそ2.25㌃となります。
 縦横三個ずつ畝を並べた、「井」とも呼ばれる「里」は、一辺450㍍の正方形となります。つまり、距離としての一里は、450㍍となります。(あくまで概算です)

 「尺」は、時代によって異なったと知られていますが、多くの物差しに複製されて日常の経済活動に使用されるから、短期間に変動することはなく、長期的にも六倍に変動することは、「絶対に」あり得ないのです。

 結局、記録に見る里は、おしなべて、「普通里」であり、したがって「長里」と呼ぶのは不合理なのです。
 また、畝は、半永久的に継承される土地台帳に記載され、農地面積の基本単位は、時代によって変動することはなかったと思われます。取り敢えず、周短里は見えてこないのです。
 但し、各戸に割り当てられる耕作地の面積は、「牛犂」と呼ばれる標準的農具を牛に引かせるものであり、蛮夷の土地に農耕用の牛がいない場合は、平坦な黄土平原を前提に中国制度で定められた広さの土地は、人力に依存する蛮夷には到底耕作できないのであり、各戸に割り当てることのできる農地は、その数分の一に過ぎないから、戸数から、その領域の生産力を知ることはできないのです。
 あるいは、各戸が、中国標準の核家族的なものから、独特の大家族になるのかも知れません、その場合、各戸は、収穫量を大勢で食べることになるので、個別の税負担は少なくなります。

 議論の詳細は、大変長引くので、可能な範囲で説明して行きます。

                              未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 6/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06
*井田受田
 一夫一婦受私田百畝,公田十畝,是爲八百八十畝,餘二十畝爲廬舍,出入相友,守望相助,疾病相救。

 井田制度では、農民は、二十歳で、私田百畝、公田十畝の計百十畝の「良田」(適切な灌漑状態、土壌の肥沃さを持つ適格な「田」、即ち、水田とは限らない「農作地」であり、一律の課税条件を適用される「田」であり、耕作に適さないものではないということを示す)を受け、六十歳で返納するまで、毎年の収穫時に公田からの収穫を税として上納すると書かれているようですが、それは、せいぜい一割の税率であり、古来、そのような低税率で運用された政府は無く、実際のものとは思えないのです。まして、耕作者の努力により、規定以上の収穫を得れば、それは、収穫者の取り分になるという、奨励策も含んでいたものです。(農奴が、叱咤しない限り怠慢になるのと対極です)

*軍制、地方官規定への拡張

 司馬法には、井田を基礎とした周の軍制、地方官制が書かれています。

 十井、つまり、一里方形の井を出発点に、十井を通、十通を成とし、成は、一辺十里方形とします。続いて、十成を終、十終を同とし、同は、一辺百里方形とします。続いて、十同を封、十封を畿とし、畿は一辺一千里方形としてす。
 丁寧に、一里に始まる十倍階梯で帝国の広域に結びつけています。

 令地方一里爲井,井十爲通,通十爲成,成方十里。成十爲終,終十爲同,同方百里。同十爲封,封十爲畿,畿方千里。

 これと別に、四井を邑とし、四邑を丘とし、この丘は、十六井としています。丘ごとに、戎馬一匹、牛三頭の保有が課せられています。

 故井四爲邑,邑四爲丘,丘十六井,有戎馬一匹,牛三頭。

 続いて、四丘を甸とし、田は、六十四井としています。井は、戎馬四匹、兵車一乗、つまり、四頭立ての兵車一台に加え、牛十二頭、甲士三人、卒七十二人を有します。これを、乗車の制と言い、兵車乗数の計算基準となります。(甸 ①天子直属の都周辺の土地。「甸服」「畿甸(キデン)」 ②郊外。 ③おさ(治)める。 ④農作物。 ⑤かり。狩りをする。かる。)

 四丘爲甸,甸六十四井也,有戎馬四匹,兵車一乘,牛十二頭,甲士三人,卒七十二人。是謂乘車之制。

*地方官規定への拡張
 同は、一辺百里であり、領地は一万井となります。但し、領地内には、山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路など、耕作地外の土地が三千六百井であり、残る六千四百井が出賦で、戎馬四百匹、兵車百乗を有します。領主である卿大夫は百乗の家と呼ばれるのです。

 一同百里,提封萬井,除山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路三千六百井,定出賦六千四百井,戎馬四百匹,兵車百乘,此卿大夫菜地之大者也,是謂百乘之家。

 と言うことで、里は、各地領主の軍備計算の根拠であり、兵車の乗数は領主の権威の格付けでもあります。

*魏志「東夷伝」~「方里の推定」
 因みに、以上のような拡張は、所定の領域内が、ほぼ平坦で半ば以上が耕地という前提なので、これは、中原領域では当然/自明でも、荒れ地の多い領域では、通用しないのです。
 魏志「東夷伝」では、「倭人伝」に先立つ、高句麗、韓の両地域の記事で、ともに、山谷が多くて農地(良田)が少ない土地柄が書かれていて、戸数から土地の生産力を知るという手順が成立しないことが書かれています。して見ると、魏志「東夷伝」では、対象領域の面積を知っても、意味がないことは自明であり、むしろ、対象地域の土地台帳を集計した耕地面積が重要だという認識にいたものと考えます。
 魏志「東夷伝」で起用された韓地の「方四千里」などの記法は、面積管理に努めたものと見るべきであり、「里」と書かれていても、「道里」ではないと思われます。
 このように、当時の教養を踏まえた上で、教養に外れた点を十分予告した上で、未開の荒れ地である「倭人」の道里や戸数が報告されていると見るべきなのです。
 「二千年後生の東夷の無教養な東夷」は、史官が、当時の読書人/教養人が、多少の努力で正解できるように丁寧に予告した事項/深意/真意を理解した上で、「倭人伝問題」(Question)と言う文章題の解釈、回答に挑むべきなのです。

 念のため付記すると、面積単位系の「里」、「歩」は、古代算術教科書であり、解答付き演習問題集である「九章算術」の用語から推定したものです。当ブログ筆者の独創ではありません。
                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 7/9 更新

         2018/10/26  2018/12/26 2019/01/29 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*天下のかたち
 司馬法は、さらに、高位の軍制を示しています。

一封三百六十六里,提封十萬井,定出賦六萬四千井,戎馬四千匹,兵車千乘,此謂諸侯之大者也,謂之千乘之國。

 封は、三百六十六里(正しくは三百十六里)で一万井となります。うち、六万四千井が出賦で、戎馬四千匹兵車千乗を有し千乗の君と呼ばれます。

天子畿內方千里,提封百萬井,定出賦六十四萬井,戎馬四萬匹,兵車萬乘,戎卒七十二萬人,故天子稱萬乘之主焉。

 天子の畿内は、方千里で、地は百万井。六十四万井が出賦で、戎馬四万匹兵車万乗を有し、天子は万乗の君と呼ばれます。
 因みに「東夷」のいう「畿内」は、かってな盗用であり、中国視点で書かれた文書であれば「畿内」は、大逆罪に当たる不法なのです。つまり、
これは、中国から蕃王として服属を認められた東夷には、あり得ない誤用なのです。

*遠大な構想
 以上のように、周制は、尺から始まって、天子の直轄領分である一辺千里(一辺四百五十㌖)に至る倍率の階梯がきっちり規定されていて、勝手に、一部をずらすことはできない仕掛けです。
 天子直轄領は、約二十万平方㌖で、 本州島面積の約二十三万平方㌖に匹敵しますが、これは、周王朝の京畿であり、諸国所領はこれを越えているものがあったと見えます。

*秦制の意義
 秦が天下統一した後、周衰亡の原因として総括したのは、このような形式的軍制が、周辺勢力への防衛にならなかったと提起され、始皇帝は、「乗」数軍制を廃棄しましたが、周制の里規定に手を加えたり、一歩六尺を新設したのではないのです。秦国として確固たる実績のある、精緻を極めた法律や度量衡制度を全国に徹底するのが、帝国の使命とみていたのです。

 また、「里」と連動した土地面積単位として「畝」「歩」が存在しているので、いかに始皇帝でも、土地検量、税の付け替えは避けたとは思うのです。

*秦朝の里制変更
 いや、当方にも意外だったのですが、司馬法のみならず、晋書地理志自体の記事にも、秦始皇帝が里制、井田制などを改めたとの記事は無いのです。
 井田制は、単に廃止されたのでしょうが、里制は廃止できないので改定すれば記録が残るはずです。特に周制の定義が延々と引用されている以上、里制の変更だけ実施することはできないのは自明です。

 と言うことで、秦始皇帝は、周制による尺、歩、畝、里から天下に至る大系に手を加えなかったと見えるのです。
 再確認すると、秦が、それまで、自国内で施行していた諸制度を文書化して、全国に徹底したと見ることができます。

*地域短里制の消滅
~旧説の終末
 ついでながら、「倭人伝」道里記事から明確に読み取れる里制は、朝鮮半島に実施されていたかも知れません。晋代に、三韓体制と楽浪郡、帯方郡支配が崩壊し、郡の確立した戸籍、地籍の台帳は、東西に勃興した新興の新羅、百済が東西が国家制度を整備する際に利用されたとも見えます。
 あるいは、隋唐の指示に従い、現地の不規則な里制を廃し、普通里による土地制度が敷かれたかとも思われます。その結果、短里制は倭独特の「倭里」として辺境に生き残ったものの、倭の消滅と共に、日本里制に置き換えられたと見えるのです。

 以上は、本記事の初期段階では、それなりに筋が通った推測とみたのですが、以降、史料を精査した結果、これは、根拠の無い憶測にすぎず、「倭人伝」道里記事の「道里」が、地域の公的な制度として実施されていたという証拠は一切ないので、旧説『「地域里制」はなかった』と訂正することになったのです。
 魏志「東夷伝」を読む限り、後漢末期の献帝建安年間、遼東郡太守となった公孫氏が、楽浪郡南部の帯方縣に「帯方郡」を設け、南方の耕地、つまり、土地制度の確定していない領域を帯方郡の管理下に置いたと言うことは、後漢の郡太守である公孫氏が、後漢の土地制度、道里を敷いたと言う事であり、それは「普通里」に決まっているのです。それ以前と言えば、遼東郡は、秦始皇帝が置いたものであり、楽浪郡は、漢武帝が置いたものですから、秦漢代の土地制度、道里制度に基づくものでしかないのです。

 斯くして、当ブログで維持していた旧説は、終止符を打たれたのです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結末 8/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*周里の意義 削除
 と言うことで、距離の単位としての里が周制から六倍になったという仮説と整合させる策としては、周制の里は、尺、歩から積み上げたものでなく、別の根拠を持つ、言うならば独立した単位系でなかったかということです。

*次元の違い 削除
 井と里が合同なら、里を六倍に拡大すると、下は、歩から天子領分まで倍数で定義されている全体系が連動しますから、それは不可能というものです。 
 絨毯を敷き詰めた部屋にテーブルを置いた会場で、絨毯の一角を別の場所に移すことなど不可能なのと同じです。

*同文同軌 周秦革命 削除
 周里が長さの単位(一次元)で、井(二次元)と無関係(異次元)であり、秦朝が、何かの理由で周を井に同期したのなら、同文同軌の里制変更で里程が影響されても、日常使用の歩、畝は変動せず、混乱はなかったのです。また、些細な改定ということで、里長の変更は記録に残らなかったのでしょう。

 先ほどの例で言うと、絨毯の一角が本来別物で、縫い付けられているだけであれば、そこだけ、剥がして移動できるのです。

*結論 削除
 と言うことで、経緯は不明ですが、周里が短里としても史料に書かれている周制と矛盾しないという見方です。何しろ、秦始皇帝が周制を覆してから、陳寿の三国志編纂まで五百年、房玄齢の晋書編纂まで九百年経っていたのですから、いくら公文書類と言っても、正確な伝承には限界があったし、何事も組織的に定義するとしても、全て定義できるものでもないものです。
 
 どんなものにも欠点はあるのです

*現地里制の確認
 原点に戻って、延々と模索した結果、古田氏の第一書で提示された論考と提言は、見事に構築されていたものの、その展開に於いて、根拠に欠ける作業仮説が、基礎として起用されていたものであり、不適切な部分をそぎ落とした核心だけが、ほぼ論証されたものと思います。

 即ち、「倭人伝」里制の由来は多少不確かでも、⑴現地里制を適確に示しているとする意見を覆すものでないということです。また、別系列の史料により、⑵周朝が短里を実施していたことは、ほぼ信じて良いでしょう。 この項は撤回します。
 
 晋書「地理志」から判断すると、⑶以降については、成立しないものと思いますが、以下に、可能性に乏しくとも、別史料で覆る判断かも知れないので、意識の片隅に留めておけば良いものでしょう。

 以上、一介の素人の意見ですから、別に権威はないのですがものの理屈として、筋が通っていると思うので、ご参考まで公開したものです。
 以後、少なからぬ改訂を要しましたが、できるだけ、改訂の履歴がわかるようにとどめています。

*従郡至倭の始点/終点 2024/02/07
 最近の考察によれば、「倭人」は、後漢代、東夷の管轄であった楽浪郡に参上したものであり、従って、その際に申告された道里は、雒陽から公式道里が登録されていた楽浪郡が「始点」と見られます。また、その時点で「倭」王の居処は、伊都国の国城であったものと見られます。これは、「倭人伝」で、郡からの使者は、伊都国に滞在したと書かれている点から、伊都国が公式道里の「終点」であったことは、明らかです。

 但し、その時点では、まだ、遼東郡が、帯方郡を東夷管理拠点として「倭人」を管理させる制度は発足していたなかったものの、霊帝没後の騒動もあって、楽浪郡の報告は、雒陽に届いていなかったものと見えます。
 陳寿が、西晋代に「倭人伝」の道里行程記事を集成している段階には、「始点」は、皇帝直轄の帯方郡であり、「終点」は、女王の居城となっていたと見えますが、公式史料/公文書では、行程道里の終点、始点は、あくまで、初見段階、皇帝に報告をあげた時点のものであり、実務に応じて改定されるものではなかったのです。
 陳寿は、史観の器量で、具体的な郡名、倭王居処を書かないことによって、そうした細瑾を表明しなかったと見えます。どのみち、雒陽から、帯方郡に至る公式道里は、奏上されていなくて、遂に、後年の帯方郡消滅まで、そのような記録は残されなかったのです。ここに、公式に認知されていない帯方郡を始点とする道里を書くのは、史官として、不都合なことだったのです。 

*文書送達日数/全権都督 2024/02/07
 いずれにしろ、魏制では、「郡から倭に」送られた文書は、伊都国の文書官が受領した時点で、倭に届いたとされるので、それ以後、伊都国王が受領しようが女王が受領しようが、日程管理には関係なかったと見えるのです。
 ここで、纏向説を追い詰めないように弁明すると、一度、郡との文書更新の公式規定が承認されたら、漢制/魏制として、倭の内部体制の問題似よって、伊都国王が、「幕府」を許された西方都督/全権代理であれば、帯方郡太守に対等の立場で応答しても、何の問題も無いのですから、物理的/地理的に、伊都国王(西域都督/大宰)と纏向に仮定された「大倭王」との間が、遠隔で疎遠でも、特に問題ないのです。

                               以上

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結末 9/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*当ページは、主として史料考察のために追加されたものです。

*里の起源(「釋名」劉煕:後漢)
 参考まで、冒頭で論議した釋名の「定義」を掲げます。(中国古典書電子化計劃)

 釋名:周制,九夫為井,其制似井字也。四井為邑,邑,猶悒也,邑人聚會之稱也。四邑為丘,丘,聚也。四丘為甸,甸,乘也,出兵車一乘也。

 ここまでは、司馬法と同内容です。

五家為伍,以五為名也。又謂之鄰,鄰,連也,相接連也。又曰比,相親比也。
 五鄰為里,居方一里之中也。五百家為黨,黨,長也,一聚之所尊長也。
 萬二千五百家為郷 郷,向也,眾所向也。

 以下、少々検討を加えます。
 「釋名」は、中国の州名や国名の由来を明らかにした古典書籍、一種の辞典であり、その一部の「釋州国」に、「家」、「里」などの由来が記録されています。それらの定義は、主として周代の史料から引用して集成されたものと思われます。

*里の起源 一説
 古来、つまり夏殷周の三代で、五家を「鄰」として、五鄰(二十五家)を里とし、里の一辺を「里」としたようです。ちなみに、里の首長、里長は、里の中央に社を設けて氏神を祭祀したようです。当時は、万事小振りの商(殷)代であって、憶測ですが、里は(約)15㍍で、殷を継ぐ周はそれを維持したようです。一家は15㍍四方となります。(以下、約を省略)
 このように、里は集落であり、転じて距離単位にもなったのです。

*里の変貌 一説
 夏殷周文明の影響下にあった中原諸国に比べて、遅れて文明に浴した秦は、古制にあった距離単位の里を、自国の大家族世帯の格好に合わせて、周里の六倍の450㍍とし、統一王国を築いたときにこの長里が全土に適用されたのでしょう。
 周里を適用していたであろう各国王家が滅び、「同文同軌」と共に、秦里で一新、測量されたのでしょう。里制に限らず、社会制度の根幹が一新されるのは、史上類の無い同文同軌の一大変革の際に限られるのです。
 但し、距離単位の里が六倍となったために、集落としての里は三十六倍となり、周の時代と大きくかけ離れたものになったのですが、先に述べたように、これを周の井田制という土地支給制度の「井」と合わせたので、見かけ上、周里は、秦に引き継がれたように見えたのです。

*周制の名残り 一説 削除
 朝鮮半島東夷は鄙で秦里は及ばず、周里制を維持したのでしょう。秦漢で、下級役人となった大夫が、周と同様の高官となって、東夷に残ったのと同様と思います。

*史料の検索
 古田武彦氏は、緯度ごとの太陽高度の変化に周里の定義の裏付けを求めて、75㍍程度の概数を確認したとしていますが、当ブログは、あくまで、史料に根拠を求めたのです。

▢一説の終わり
 以上は、初稿時に捻り出した言い訳ですが、以降の検討で、半ば取り下げとしています。
 2022/06/01時点では、「倭人伝」道里は、公的里制と関係しないものであり、当時、遼東で半ば自立していた郡太守公孫氏が、「倭人」を万二千里の僻遠の蕃夷として権威付けを図ったものが、公孫氏滅亡時の混乱で、魏明帝曹叡に、文字通りに上申されたものであって、実際の道里と関係無い「見立て」であったというものです。

 2024/02/06の総括としては、次の通りです。
 公孫氏の内部文書は、司馬懿によって蹂躙され、悉く廃棄されたものですが、楽浪/帯方両郡は、司馬懿軍とは別に明帝が派遣した別働隊によって、無血回収されたので、両郡公文書は、明帝の元に届けられ、公孫氏の見立てた「従郡至倭萬二千里」記事が嘉納され、「倭人伝」記事として公文書庫に収まったため、明帝没後、「倭人」事情が明らかになっても、不可侵文書として承継されたようです。
 案ずるに、倭人伝冒頭の道里行程記事は、魏志編纂にあたって、すべての公文書を精査した結果、「従郡至倭萬二千里」を温存せざるを得なかった陳寿が、郡を発した文書使が「倭」に至る所要日数/公式日程が四十日であると明記したものであり、同時代の読者/高官が、それで良しとしたため、現在の記事が正史蛮夷伝として残ったものと見ます。

 当ブログでは、「倭人伝」道里に関する設問/問題(Question)に対して、史料を読み替える必要のない善解(Solution)が整ったものと考えています。

 補足:以上では、「従郡至倭萬二千里」 の由来を、後漢献帝建安年間に、公孫氏が、遼東郡太守となり、漢武帝設置の楽浪郡を支配下としたときに、「倭人」を絶遠の蛮夷として、新たに服属を求めたものとしていますが、これは、あくまで一解であり、あるいは、それ以前、漢制で半島南部以南の東夷の監督を担当していた楽浪郡が「倭人」を絶遠の新参東夷として台帳登録していたことも考えられます。時は、桓帝、霊帝以降ということになりますが、何しろ、「倭人」に関する記録が雒陽に報告されていなかったので、「公文書記録」が欠落したと見えます。
 因みに、公孫氏が「倭人」の存在に、早々に気づいたとしても、後漢献帝の建安年間初頭、韓国以南の領域は、街道未整備の「荒れ地」であったため、取り敢えず、楽浪郡「帯方縣」を郡に昇格させて、韓国を歴て「倭人」に到る街道行程の整備取りかかっただけだったようです。
 何しろ、「倭人」に文書を送達するにも、文書使は、並みいる韓「諸国」を歴訪した上で、ようやく、倭の在る大海の北岸狗邪韓国海岸に至るのであり、倭地行程は知る由もなく、公式道里とできる確実な行程が判明するのに年数がかかったのです。
 中でも、半島中南部で、屏風のように領域を仕切っている小白山地の彼方の半島東南部の「嶺東」領域は、面積広大とは言え、未開の「荒れ地」そのものであり、辛うじて、南方の産鉄鉱山から産出する鉄を、帯方郡に納付する任務を与えたものの、郡街道として定着するまでには、年数を要したようです。
 そんなこんなで、何とか、三世紀当時の帯方郡文書使の服務規程を察することができたのです。

                             以上

2024年2月 2日 (金)

新・私の本棚 片岡 宏二 「続・邪馬台国論争の新視点」追補 1/3

 「倭人伝が語る九州説」   雄山閣 2019/12刊
 私の見立て ★★★☆☆ 折角の論考の基礎が乱調で幻滅 2020/08/02 追補 2023/01/16 2024/02/03

〇はじめに
 毎日新聞古代史記事のお勧めで入手、熟読したが、片岡氏の意見は「倭人伝」勝手改訂を引き摺って、いきなり低迷しているのが、難である。
 考古学が、発掘遺跡、遺物の現物、現場から出発するように、文献学は「倭人伝」原文から出発すべきである。氏が依拠している訳文は、遺憾ながら「前世紀の遺物」であり、「新視点」を謳うなら、手指を洗い、顔を洗い、清浄な「足元」を確保した上で、出発点を刷新すべきである。
 なお、入手困難な本書より、さらに困難な前著は、取り敢えず未読である。

*造語の弁解
 氏は、「性格」なる「ユニーク」な用語(「独特」であるとの美点としての指摘であり、決して俗用されているような非難/蔑称では無い)について弁解されているが、世間で通用している単語に、自分なりの特異な意義を付するのは、読者に意図が伝わらず誤解を誘うので、甚だ不適当である。言うならば「出版社編集部が、体を張ってでも止めるべき」ものである。
 それにつけても、「イメージ」は、読む人ごとに解釈が異なるとんでもなく「たちの悪いカタカナ言葉」であるのに、そこまでしても適例を示していないのは、折角、氏が構築した論理が読者に的確に伝わらない可能性が無視できないので、くれぐれも自省頂きたいものである。

*依拠資料の誤認
 既に触れたように、本史論で重大なのは、「倭人伝が語る」と銘打ちながら、「倭人伝」原文でなく筑摩書房刊の「世界古典文学全集 三国志Ⅱ 魏書⑵ 今鷹真他訳以下「筑摩本」に依拠していて、読者に誤認させる虚偽表示である。さらには、同書から離れて、独自の夢想世界に迷い込んでいる諸兄姉の独特の解釈に影響されているのは、誠に、残念である。
 史書訳文は、「絶対に」原文そのものでない』。それに加えて、当ブログで検証に努めていたように、凡そ世にある「倭人伝」翻訳は、ほぼすべてが、訳文を、国内古代史「俗説」に沿うように力まかせに撓めていると認められる。何しろ、陳寿の同時代人が有していた世界観を有していない二千年後の後生の無教養な東夷の解釋が横行していると見え、とても、そのまま、文献解釈の基礎とできないように見えるのである。
 ここでは、世上溢れている「現代語訳倭人伝」を総じて批判しているだけであり、規範とすべき「筑摩本」は妥当な見識に基づく、妥当な飜訳であり、ここで批判しているわけではない。聞き分けてたいただければ幸いである。
 倭人伝」の現代語文への「翻訳」は現代創作物であり、例えば、筑摩本は、今鷹氏他が著作権を有する現代著作物であり、偉大な「創作」である。
 世上見られる、手前味噌の飜訳は、規範に対して、具体的に異を唱えるべきであり、そうでなければ、学問としての進歩は見失われるのである。

 史料翻訳は、付注して原文からの乖離を示すべきだが、とかく翻訳は、訳者の書き足した文字を埋め込んでいて、原文が読み取れないと見えてしまう。つまり、学術的でない。(筆勢に任せて、「飜訳」を罵倒したことは、慚愧に堪えないが、ここでは、極力改竄せずに原記事を維持している)

 片岡氏が、倭人伝準拠の古代史論を説くのなら、原文に密着した漢文解釈から開始すべきであって、翻訳は、あくまで参考にとどめるものではないだろうか。要するに、業界儀礼を離れて欲しいものである。タイトルに裏切られて不満である。
 なお、当記事は、筑摩本が原史料を偽っていると称しているのでないことをご理解頂きたい。単に、「飜訳は、原史料そのものでない」と確認しているだけである。

*やまと言葉の塗りつけ
 なぜそのようなことを言い立てるかというと、筑摩本を筆頭とした「現代語訳」は、素人目には、「なら盆地」中心の世界観に基づき、俗耳に訴えるべく「造作されている」ように見えるからである。それは、訳者の本意では無いだろうが、素人目には、諸所で原文から遊離しているのである。

 筑摩本で如実なのは、冒頭の「倭人」の「わびと」ルビである。訓読ふりがなは、三世紀当時存在せず、時代錯誤、学術的な偽りでしかない。また、ふりがなの主旨は、「倭人」は後世の「倭」とは単にひとの意の「人」の意図らしいが、原文解釈上無理である。
 魏書編者陳寿は、「倭人」を格別の、つまり「比類なき」蛮夷と認知したから、魏書の掉尾に伝を立てたのであり、当然、知る由もない「訓読」など存外であるから、その真意は、「倭人」の典拠を探るしか無いのである。
 いや、片岡氏は、そのような主張をしていないと言うだろうが、筑摩本を「倭人伝」と見なすのは、「わびと」史料観に従属していると言うことである。

*無理を通す話 事実考証の試み
 俗説の確認として、景初倭使が、何年のことかと論じたくても、ならやまと国家が、『「倭人伝」に明記されているように、景初二年六月に帯方郡に到着するように使節を派遣する』のは、到底不可能である。そのため、俗説関係者は挙(こぞ)って景初三年と読み替えるが、事実考証を図ると、そのような延命策は不毛である。
 景初二年八月に遼東郡を壊滅させた後の十月頃に両郡接収したとすると、翌三年六月まで八ヵ月しかない。三世紀、帯方郡となら盆地の間、約千三百公里(㌔㍍)を、騎馬無しの純歩行で片道四ヵ月で踏破したということを主張していることになる。
 既に、長年に亘り宿駅整備されていた半島内官道をよそに、いつ着くともわからない半島沿岸連漕と想定しているから、底なしの無法である。それにしても、当時の中四国経由は、道も何も無い蛮境の遠大な距離だが、どうやって踏破したのだろうか。何しろ、瀬戸内海北岸の東西航行は、難所の連続であり、三世紀時点では、連続道はなかったのであるから、一段と「急遽移動」は不可能なのである。

 とは言え、景初二年六月は、さらに不可能であるから、俗説は、史書誤記を提示して、景初三年六月を採り、後は言わない。同年元旦に明帝曹叡が逝去、新帝即位と言うも、改元は翌年であり景初が維持されていた背景があるが、日本書紀「神功紀」の追記文を見ても分かるように、教養豊かな書紀編者は、皇帝逝去による変動をご存知なかったと見える。「明帝景初三年」なる不法な字句は、編者の無教養、馬脚を現していると言える。恐らく、この部分は、書紀本文の公開後、魏志等の原文ならぬ「所引」(貼り付けメモ)を入手して、急遽、無教養な編集者が、識者の校正無しに、貼り付けたものと見える。そうとでも思わなければ、辻褄が合わない。

                                未完

新・私の本棚 片岡 宏二 「続・邪馬台国論争の新視点」追補 2/3

「倭人伝が語る九州説」   雄山閣 2019/12刊
 私の見立て ★★★☆☆ 折角の論考の基礎が乱調で幻滅 2020/08/02 追補 2023/01/16 2024/02/02

*景初二年説の精査
 では、早々に棄却された景初二年説に成立の余地はないのだろうか。
 ここに筑摩本の難点が露呈する。遼東征伐に付随して半島西岸に「密かに」渡海し、両郡を「回収」したと書いている。戦後処理と見ている方が少なくないが、それなら「密か」に行う必要はない。司馬懿部隊の遼東攻撃以前に、事前に郡太守を洛陽官人にすげ替え、無血で両郡平定したと見るのが合理的である。平定は交通困難な厳冬期であったため、遼東太守は、両郡喪失に気づかなかったかと思われる。

*深刻な訳文「誤解」
 ちなみに、筑摩本は、原文の「又」を「さらに」と訳している。「又」は、あることがあって次に別のことがあってと云う時間経過が意味されている例時間の経過に触れず、単に、二つのことが同時期にあったと示している例とが見られる。大抵見過ごされているが、実は、大変大事なことで、日本語の「さらに」も、同様に、両様の意味があるとわかるのである。
 要するに、読者は、自身の限定された語彙に頼って「さらに」の解釈を一方に決め付けるのでなく、両様の意味のどちら味か、読者は、文脈、文意から判断することを求められているのである。
 世上、この程度の解釈を、いわば粗雑に行っている論者に依拠されているのは、みっともないものである。
 この点、ここまで、筑摩本訳者の高度な配慮を見過ごしていて失礼な発言を重ねているので、ここで、深く謝罪したいところである。

 翻訳文を的確に理解する能力/教養がないと、正しい訳文を誤解してしまうという教訓である。せめて、勝手に決め込まずに、辞書を引くことである。

*疾駆参上の背景
 帯方郡を収めた魏朝は、郡の東夷台帳で最遠の「倭人」に早速の参上を命じたと見る。
 世上、倭女王が、遼東郡、帯方郡の変事を察知した」などと、途轍もないおとぎ話に仕立てている例が多いが、普通に考えれば、新任の郡太守が、急使でもって通達/指示したと見るものではないか。倭女王も、いきなり参上を命じられ、即応したと見るのである。何しろ、公孫氏が滅ぼされるような大軍であるから、即応しないと、次は討伐されると畏れるはずである。

 倭人は、遅滞なく参上すれば、公孫氏に連座して滅ぼされることはなく、逆に、あるいは、絶大な功として皇帝奏上するとの通達に応じて、好機を逃さず即応したと見える。郡命であるから、途中の関所は全て無事通過し、官道宿駅は、官費でもてなしたはずである。

 以上は、景初遣使なる蕃客への多大な下賜物と帝詔の背景として妥当と見えるのである。
 後漢から禅譲を受けて、諸制度を継承した曹魏は、曹操が再興した法治国家であるから、訳もなく厚遇しないのである。

*「倭人伝」語りの「倭人伝」知らず
 俗説の「倭人伝」誤記説は、なべて言うと「ならやまと」説救済のために、衆知を集めて創出した牽強付会と疑われるから、無批判に追従、原文改竄することはできない。正史として承認された「倭人伝」を改竄するには、厳密な史料批判を経た史料が必要である。

 片岡氏には、「倭人伝」誤記説に従う原文改訂を採用するに際しては、俗説に無批判に追従したり、「論者の人数を数えて大に事える」などしたりするのでなく、論理的な批判を加えた上で納得できる議論を戴きたいものである。

 氏の本領たる考古学考察は、十分資料批判を経ていると信を置くが、「倭人伝」文章解釈が、他人の意見の無批判追従で非科学的では「曲解」の産物と見ざるを得ない。

*禁断の性格批判
 「賢い鳥は止まる樹を選ぶ」は古人の説くところである。片岡氏ほど道理を弁えた方が「倭人伝が語る」と銘打ちつつ、倭人伝」ならぬ既存の俗説を止まり樹としているのは勿体ない。また、参考資料に「九州説」二大論客、安本美典、古田武彦両氏著作が見当たらないのも疑問である。

 本書に具現化された「性格」から、氏が歴史科学者の資質に欠けると見られるのは、氏が、学会人、組織人として、筆を撓めて著述しているからだろう。古代史学業界では、考古学者は、文書解釈で専門家に追従するのが不文律と感じる。氏も、やむなく保身しているのだろうか。学術的な見地からは、俗説迎合で素人批判に耐えない著作は、業績として相応しくないとみる。

 念を入れると、ここでは、氏の考古学考察を批判しているのではない。国内古代史の視点から「倭人伝」に造作を加えている「現代語訳」、「現代解釈」に基礎を置いている不都合を指摘しているのである。

*「近畿」綺譚~「中和」提唱
 「畿内」に異議を示す一方、「近畿」を受け入れるのも筋の通らない話である。「近畿」は「王幾」から発し、「畿内」とちょぼちょぼである。まして、「近畿」の「イメージ」は多様である。伊勢神宮の後座する三重県が近畿かどうか、議論の絶えないところである。

 奈良盆地は、ほぼ一貫してヤマトと呼ばれたなら「ならやまと」で十分ではないか。それで範囲が合わないのであれば、南北記法で言う「中和」(中部大和)が一案である。
 いや、「古代史学界」が、確固たる定見を示さないのが問題なのである。

                                未完

新・私の本棚 片岡 宏二 「続・邪馬台国論争の新視点」追補 3/3

 「倭人伝が語る九州説」   雄山閣 2019/12刊
 私の見立て ★★★☆☆ 折角の論考の基礎が乱調で幻滅 2020/08/02 追補 2023/01/16 2024/02/02

*世襲・禅譲と革命
 本書の由来を物語るのは、このけったいな用語談義である。
 氏は、正史の意義を理解してないようである。帝都長安を脱出し流亡の皇帝後漢献帝が、曹操の庇護のもと面目を回復し、後に継嗣曹丕に天子を譲ったのは妥当な権力継承である。氏は曲がりくねった消化不良の言い回しを採用しているが、禅譲は、後漢皇帝が行った堂々たる国事行為であり、留保は必要ない。
 因みに、漢を再興した光武帝劉秀は、王莽の禅譲を受けたものではない。(いや、書き漏らしたが、王莽は、反乱軍赤眉に打倒されたのであって、劉秀は、王莽亡き後の混沌を制し天命を得たから、「正しい形式を経て漢の皇帝から天子を譲られ正統な皇帝となった王莽を不法に打倒したのではない」と見られるのではないか。いや、このあたりは素人には判断が難しい)

 司馬晋が「魏からの権力奪取を正当化」したと言うが、魏書編纂の姑息な正当化は不要である。衰弱した魏帝が、最後の国事行為として晋帝に譲位したことは、天下公知、当然だったのである。そして、「禅譲」の結果、重臣、高官は、下級官人に至るまで、そっくりそのまま晋に移行したのである。晋代に到っても、魏代の法令、通達は有効であり、各官庁の公文書も、順当に移行したのである。要するに、「皇帝」天子が交代しただけなのである。それが「禅譲」である。「革命」と言っても、天命の行き先が変わっただけであり、それは、氏の言う「権力奪取」とは、別次元のことである。氏の思い描いている「革命」は、状況も実態も異なる後世概念であり、中国古代史を語る際には場違いである。全くのところ、時代錯誤である。よく勉強して欲しいものである。
 いや、太古に「殷」(商)は、家臣であったとされる「周」に攻め滅ぼされて、天子は首を失い、天命が革まったのであるが、それ以降、随分長い間「革命」は、踏襲されなかったのである。
 して見ると、片岡氏には、古代史料読解が任に余ることは理解できる。

*「倭人伝」解釈の常道
 『「倭人伝」は、古代中国人が古代中国人のために書いた著作』であるから、そのように読解すべきだとか、倭人伝は魏書の一部であるから魏書全体を見た上で読解すべきだとか、無理難題の教訓が見られるが、氏のような見当違いの意見の横行が目に余ったと思われる真意を察するべきである。
 翻訳は、遥かな山々を居間のこたつに引き寄せるが、何らかの手法で「情報」の全てを取り込んでも、それは、現地そのものではない。

*「傀儡」という無様な比喩
 二度登場する「傀儡」は、業界通念だろうが廃語をお勧めする。時代錯誤を棄てれば、歴史の実相が、一段と正確に読み取れるはずである。
 献帝を曹操の傀儡と言うが、片岡氏は、ご自身で傀儡を操れるのだろうか。人形浄瑠璃、糸操り人形芝居など、所作や表情に生命が通じていて、とても、人形遣いの意のままと思えない。それが、芸術というものである。人は、そうした様を楽しんでいるのであり、操り手の妙技を鑑賞しているのではない。誰が言い始め蔓延したか、大変できの悪い比喩である。
 古代当時、形式に絶大な意義があり、天子は天子で、「実権」論は、関係者の隠語だったのである。曹操の理念は、成文法をもって帝国を律するもので「名のみの皇帝」と言うはずがない。一度、よくよく考え直していただきたいものである。

*君主裁可の形
 平安時代の「関白」は、臣下が上奏した議案は、全て関白があずかって稟否し、天皇は追認したという。曹操も同様ではないか。
 皇帝は、曹操の決定を皇帝裁可し、はんこ押しであっても、あえて、芸術的な「操り人形」になったのではないか。どの道、大抵、皇帝は、上申事案を、添付書通りに裁可、つまり、「そうせよ」と決したのである。「皇帝専政」と一口で言っても、実相は多様である。
 今日の官庁、企業で、大抵、起案者の書いた通りに、決裁権限者の裁可、稟議決裁が下りるからといって、決裁者は傀儡ではない(はずであるが、実態は知らない)。

*陳腐と伝統
 陳腐な比喩は、唱えた人間の安直さと追従者の更なる安直さを偲ばせるものである。場違いな比喩で、自身の品格を落とさないようにしたいものである。
 原点に還ると、古代史料の解読は、その史料の著者、当時の読者の属する言語、倫理に即して解釈するしかないのであり、当時存在しなかった言語、倫理を唱えるのは、徒労なのである。

 倭人伝」から始める』総合的な論考は、考古学、文献史学の両要件を満たしたものとすべきである、と愚考する次第である。

                                以上

2024年2月 1日 (木)

私の意見 倭人伝「之所都」の謎 再掲

                           2022/01/21 2024/02/01
〇はじめに
 「倭人伝」の「之所都」解釈の同業各派を通じて広く信じられている「通説」は、陳寿の真意ではないようである。
 「之」に続くのは、本来一字であり、二字句を続けている例は希である。「所都」は、「都とする所」と解するかどうかは別として、二字句に見える。勘定が合わない。
 つまり、順当な解釈は、「之所都」と続けず、「之所」で区切るのである。
 正史夷蕃伝である「倭人伝」は、国王/国主の居城を明記することが求められているが、道里行程記事で行きついた後、女王居処が「邪馬壹国」であると明記され、全所要日数が確認された上で、初めて一段落できるのである。

*魏志の権威
 但し、後世文筆家は、言わば、早とちりで魏志「倭人伝」に「之所都」用例を見て追従したようである。正史「魏志」の権威は絶大で、以後、各代の史学者は、「倭人伝」を典拠としたようである。
 世間には、「倭人伝」を独立した「本」(日本語)と誤解することがあるが、あくまで、魏志第三十巻掉尾であり、魏志の一翼としての「権威」を身に纏っているので、二千字といえども「小冊子」と侮ってはならない。「所都」の典拠となったのは、誤解であろうと何であろうと、そのような権威の故である。
 用例検索の結果、「之所都」に、精査に耐える有効な前例はなかったのである。また、「所都」の「都」は、漢魏代では、蕃王居処に不適切であり、周秦漢魏と継承されていた「古典教養」を継承していた西晋に於いて史官の職に任じられていた陳寿には、当然、そのような意図は、一切なかったのである。
 「古典教養」の継承がいったん断裂した後世の類書編者は、古典書に不案内で「都」の禁制など身についていなかったから、無造作に「女王之所都」と読んだのである。太平御覧など類書の所引は、倭人伝の深意を探る「掘り下げ」など念頭に無く、ぱっと見の早呑み込みなので、当たり外れが、激しいのである。外すときは、従って、大きく外すのである。と言うことで、中国史学会の見解といえども、時にあてにしてはならないものがあるのである。まして、後世東夷の無教養な「史学者」の見解は、三度読みなおして、威儀を正すべきなのである。
 ここでも、各種字書、用例の継ぎ接ぎ細工に頼るのでなく、「倭人伝」の適確な解釈は、陳寿の真意を察するのが正解への唯一の道なのである。くれぐれも、裏街道、抜け道、禽鹿の径の類いは、いくら、普通の早道に見えても、よい子は踏み込まないことである。

〇「之所都」用例談義 中国哲学書電子化計劃
 「倭人伝」(ないしはそれ)以前に由来すると思われるのは、二例と見える。
*太平御覽 地部二十七 鎬
 水經注曰:鎬水上承鎬池於昆明池北,周武王之所都
 「水経注」は、中国世界の全河川を網羅して、水源から河口までの各地の地名由来を古典書から収録している。「鎬水」水源「鎬池」が昆明池の北で「之所都」は、周武王が「都」とした意味としても史実は不明で王城名もない。他用例は「武王所都」(説文解字)で「之」を欠いている。
 共通しているのは、後世崇拝された周武王なる無上の存在の「都」であり、東夷蕃王が、正史蛮夷伝に於いて、同列に扱われることなど到底あり得ないのである。

*太平御覧 四夷部三・東夷三 倭
 又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都
 「御覧所引」魏志は、読み損なって杜撰に縮約している。「倭人伝」と前後して文意誤伝であり、「耶馬臺國」は、 誤字で開始していて、信用できるものではない。「正解」は一例に収束するが、「誤解」は多様であり、また、一度誤解されたものは、拡散、迷走していくだけで、正解に復帰しない。と「所引」批判できる。

〇鹽鉄論談義
 通典 食貨十 鹽鐵 【抜粋】   中国哲学書電子化計劃
又屯田格:「幽州鹽屯,每屯配丁五十人,一年收率滿二千八百石以上,準營田第二等,二千四百石以上準第三等,二千石以上準第四等。(略)蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所,每年課鹽都當錢八千五十八貫。(略)榮州井十二所,都當錢四百貫。(略)若閏月,共計加一月課,隨月徵納,任以錢銀兼納。其銀兩別常以二百價為估。其課依都數納官,欠即均徵灶戶。」以下略
 「榮州井十二所,都當錢四百貫」は、塩水井戸十二「所」、「都」は、塩水井戸課税「総計」四百貫/十二ヵ月である。(閏月は、一ヵ月分課税)

 当史料で「總」(すべて)は、「蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所」のように、管内塩井数の総計としているので、課税総計は、「都」(すべて)と字を変えたようである。つまり、「所都」と続けての用例ではない。

 塩の専売による財政策は漢武帝代創設であり、以後、後漢、魏の公文書館に順次継承され通典に所引されたと見える。つまり、倭人伝に先行と見える。
 因みに、先賢の説に依れば、「塩鉄専売」収入は、この時、無から創設された制度で無く、古来、つまり、遅くとも、秦始皇帝の制度として実在したものであり、それまで帝室の収入、つまり、皇帝の私費であったものが、武帝の大規模な外征や河水治水工事への大盤振る舞いのせいで、国庫が枯渇しかけたので国庫収入に付け替えたようである。それまで、いかに、秦漢初期の帝国財政が豊かであり、帝室の私的な財産が厖大であったか、窺い知ることができるのである。

 何にしろ、当時の「経済活動」の規模と成り行きは、現代人の想像を遙かに超えていて、そのくせ、当時の知識人には、当然のことなので、記録に残っていないことが多いのである。くれぐれも、現代人の良識で判断しないことである。

〇「之所都」解釈案
 本稿の結論としては、「之所都」と並んでいても、「都」が総計の意味の場合は、連続させない例として有効で、「倭人伝」解釈に有益と考えて本稿を残したのである。

 因みに、国内古代史学界は、「都」の大安売りであるが、三世紀時点の用語解釈すら不確かなのに、以後化石化した国内用例の解釈と敷衍には、慎重の上にも慎重であって欲しいものである。先賢顕学諸兄姉が、念押しするように、中国史料は、中国人によって、中国人が解釈すべく、中国語で書かれているから、中国人ならぬ後世東夷のものは、適切な教養をもって、中国語として解釈することが、必須なのである。

                                以上

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