新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 2/3
ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行 初出 2020/04/10 補充 2020/06/23 2024/02/26
〇安息の国「パルティア」にまつわる誤解
先ず第一には、古田氏が、安息国を「ペルシャ」と解しているのは誤解です。「ペルシャ」は、太古以来、今日に至るまで、イラン高原のペルシャ湾岸沿い高地の一地域です。当該地域の政権が興隆して、イラン高原全体を支配したのは、古代のアケメネス朝と後世のササン朝の二度に亘っていて、それぞれ、メソポタミアからエジプトにまで勢力を広げ、東地中海にまで進出したこともあって、ギリシャ、ローマの史書に名を残していますが、安息国(パルティア)は、それとは別の地域から興隆し、一時、地域を支配した王国なのです。ペルシャなどもっての外です。
ちなみに、中東アラブ諸国では、「ペルシャ湾」と言う事はありません。同様に、「トルココーヒー」も禁句です。現地に出向かれるときは、大事なところで口走らないように、口に巾着を掛ける必要があります。
それはさておき、安息国、パルティアは、たしかに、西は、メソポタミアを包含して、広くイラン高原全域を支配し、後年「シルクロード」と呼ばれるようになった東西交易の要路を頑固に占拠し、交易の利益の大半を得ていたのです。
其の国都「クテシフォン」は、大「王国」西端のメソポタミアにありましたが、漢使が五千里の彼方の国都に赴いたはずは無く、安息国内情報を取材したのは、全て、カスピ海東岸の「安息」の周辺だったのです。
パルティアは、この地の小国(班固「漢書」西域伝で紹介され、范曄「後漢書」西域伝の言う「小安息」)から起こって、イラン高原を西に展開し、アレキサンドロスが宏大なアケメネス朝ペルシァを破壊した後、早々に没した後に、旧帝国の中心部を支配した「セレウコス」朝王国が、西方での共和政ローマの将軍ポンペイウスによって指揮された大軍の侵攻で大敗したのを受けて、同国を駆逐して、イラン高原全域を支配しましたが、西の王都クテシフォンは、バグダード付近にあったのです。当然、「安息」(パルティア)と称していたと共に、発祥の地である旧邦も引き続き「安息」(パルティア)としていたのです。
東西両地域間には、北のメディア、南のペルシャの地方勢力の支配した地域が介在しましたが、安息(パルティア)は、中央集権で圧政を敷いていたわけではないのです。このあたり、漢/後漢は、しばしば混同していたし、西のローマは、帝制紀に入ってしばしば侵入してきましたが、こちらは、東方辺境の小安息のことなど、とんとご存じなかったのです。
*小安国の世界観 余談
漢使の取材に応じた安息の長老は、うるさく言うと小国安息の代表者/国主であり、その世界観は、地域的なものだったのです。従って、ここで言う「西海」は、目前の「大海」、カスピ海であり、條支は、その西岸の大国、「海西」だったのですが、して見ると、そこに到るのに、「大海」を百日航海するというのは、何らかの錯誤でしょう。西戎伝で見る限り、安息西境から條支国都まで、十日とかからなかったようです。
この際、中国から見た西域の地理認識を是正すると、古代史書に表れる「大海」は、今日想定されるような「海洋」などではなく、辺境に広がる塩水湖であったようです。最初は、ロプノールを、塩っぱい水に満ちていたことから、あえて「西海」と呼んだのですが、次第に、西方の地理が分かってくると、更に西方に、更に巨大な塩水湖があるのに気づいて、「大海」と呼ぶことになったのです。大海の東岸にあたる安息が、漢/後漢の到達した西の果てであり、安息の西の王都どころか、大海の西岸「海西」の條支すら、実見できていなかったので、噂話にとどまったのです。このあたりは、どんどん余談が広がるので、後ほど、解説できるでしょうか。
少なくとも、後漢書、魏略西戎伝に至るまでの史書で、西の大海がカスピ海でなく、地中海、黒海、ペルシャ湾などが「大海」であったと論証するのは、大変困難(不可能)と思われます。何しろ、そのような「大海」は、中国関係者が実見したものではないので、地平の彼方の霞の世界ですから、明確に特定できるものでもないのです。
*條支の西
條支の先は、黒海から地中海ですが、安息長老は、旅行記を取り次いだ程度と思われます。條支から西に行くには、「地中海」航路もあれば、黒海に出てアドリア海を渉る「渡船」もあり、また、その北の陸地を、コーカサスの難関を越えて渉る陸上行程も知られていたようです。圏外になりますが、ギリシャ、ローマ側の記録は、結構豊富なのです。
ともあれ、後漢朝史官が史実の報告として史書に掲載したのは、安息、大月氏までであり、笵曄「後漢書」によれば、条支以西は実見していないので風聞の採録に止まったのです。
*謝承「後漢書」考 余談
謝承「後漢書」なる断片史書が外夷伝を備えたと伝わっていて、その東夷伝が魏志「東夷伝」の原史料との主張が見られます。憶測の風聞が、現行刊本の信頼性を毀損するのは、無法なことです。亡失資料に関して確実なのは、謝承が後漢公文書(漢文書)を閲覧できなかったことです。謝承は、後漢末から三国の呉人であって、洛陽で史官の職に就いてないから、書庫に秘蔵の公文書は閲覧不可能でした。できたのは、先行史料の引用だけですから、本紀/列伝に関しては、なんとか史料を収集して書き上げたとしても、夷蕃伝は、公文書が不可欠なので、大したことは書けなかったのです。
*魚豢「魏略」考 余談
魏略を編纂した魚豢は、史官ないしは準じる官職にあったと見られる魏朝官人であり、魏の首都雒陽に蓄積されていた漢代公文書を制約無しに閲覧し「魏略」に収録できたと見えます。「魏略」、特に「西戎伝」には、漢代史料が豊富に引用されていて、魚豢が漢代公文書から取り込んだものと見えます。
因みに、古来、史書執筆の際に先行資料に依拠するのは史官の責務であったので、陳寿はじめ各編者は、魚豢「魏略」を、(必要に応じて、断り無く)利用したものと見ます。裴松之も、魚豢「魏略」が史書として適確と知っていたから、魏略「西戎伝」を丸ごと補追したのです。
世の中には、范曄「後漢書」が、正体不明の先行史書を引用したと推定しているものがありますが、いかに、史官の責務に囚われない范曄にしても、それは無謀というものです。笵曄「後漢書」西域伝で、笵曄は、先行資料の筋の通った解釈ができない風聞は割愛したと述べているほどです。范曄なりの史料批判に怠りはなかったのです。
〇条支国行程
古田氏は、條支に至る行程について、班固「漢書」西域伝の解釈を誤っています。
班固「漢書」は、西域の果ての諸国の位置を書くのに、帝都長安からの距離に従い順次西漸しています。条支は、安息の東方にあったと思われる「烏弋」(うよく)山離から百日余の陸上行程であり、安息は、烏弋と條支の間なので、安息~條支間は、陸上百日よりかなり短いはずです。
いや、以上のような批判は、よほど西域事情について考察しないと判明しないのであり、洋の東西を問わず、ほぼ、全学会が、條支行程について誤解しているので、古田氏が世にはびこる誤解に染まったとしても、無理からぬ事です。
地中海に、中国史書における西域事情の考証は、白鳥庫吉氏が、世界に先駆けて確立したものであり、古田氏が、白鳥庫吉氏の著書を参照していないと見えるのは、まことに残念です。いや、これは、氏に限ったことではなく、兎角、国内史料に偏重している国内古代史学界に共通の認識不足です。
未完
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