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2024年2月13日 (火)

新・私の本棚 海戸 弓真 「邪馬台国は四国だった」 女王卑弥呼の都は松山 2/4 補充再掲

 eブックランド (アマゾン) 2018/09/11
 私の見立て★★☆☆☆ 労作 前途遼遠    2023/09/22 2024/02/13

*世界観の齟齬
 早速提示されているのが、「州」島解釈ですが、なぜか「スーパー大辞林」の現代用例らしいものにしがみついて「州」は「大陸」の意味としていますが、「倭人伝」時代、中国人は、世間知らずの「井蛙」で、太平洋につながる「うみ」(海)も「大陸」も知らなかったのです。もちろん、自分たちのいるのが「大陸」とは知らなかったのです。用例は、当て外れしていると見えます。
 古代中国語として解釈すると、「州」は黄河(河水)中州の小島、中之島です。「倭人伝」は、冒頭で「大海」、つまり、塩(しょ)っぱい大きな水たまりとしていて、その結果、郡から一路半島を南下して着いた「狗邪韓国」の岩壁に立って、現代風に言う「対馬海峡」を「大河」に見立てています。身辺にない「大海」を乗り越えるのを考えると身が竦む思いであり、中々難儀ですが、島を伝って渡し舟で三回乗り継ぐだけで楽々行き着けるので、何も怖いことはないのですよ、と言っているのです。因みに、当時、一大国、壱岐から渡った末羅で上陸して、渡し舟を下り、陸に上がると書いていますから、普通に考えれば、そこから先は地続きで街道を進むのですから、寝床が揺れることはないので船酔いしないし、船が沈んで、金槌が沈んで行くこともないのです。
 また、狗邪韓国~伊都国間の周旋五千里は、行程を「検算」しているのであり、測りようのない「島囲を書き残したのではない」のです。

*さようなら「邪馬台国論争」~余談 
 よく言う「邪馬台国論争」は、そもそも、「邪馬台国」なる不都合な幻像から始まっていて、「所在地」論の決着を後伸ばしにして、九州を出ないという「不可避な結論」を押し隠しているため、「論争」を五里霧中に置いていますが、そのために、「不可避な結論」が出ないように、当時最善の史料である「倭人伝」の信頼性を喪わせ、そのためには、当時最高の知性の持ち主である編者陳寿の人格攻撃まで掻き立てているのです。そのため、世上、大量のごみ情報が出回っているわけです。一寸考えればわかるように、三世紀当時、編者陳寿は、史官として高く評価され、その労作である「倭人伝」は、信じるに足る史料として評価されていたから、何も重大な異議は提示されていないのです。
 冷静に考えて、まずは、「倭人伝」の適正な評価から出発すれば、「所在地」論は、当時の読者同様の眼に明らかであったように、現代人にとっても、たちどころに解明されるのであり、以後、もっと大事な議論に進むことができるのです。

*情報の選別 論義の出発点
 当てにならない「俗説」、間違いだらけとわかっている「風評」がネット経由で、大量にばらまかれているのですから、むりも無いと思うのですが、そうした限られた知識と古代漢字文書に不向きな参考辞書だけが頼りでは、あちこちで誤解された原因は分かるのですが、「倭人伝」原文を懸命に読解いた先賢諸兄姉の論考に見向きもしていないのは残念です。折角、先人が、時間と労力を費やして試みた「仮説」ですから、これにとり組んで、進むべき径を見きわめる努力を大事にして欲しいものです。

 以下、著者は、県内遺跡発掘成果を中心に、「瀬戸内海交通が盛ん」としていますが、三世紀当時の状況は、ほとんど、と言うか、まったくわかっていないのですから、断言を避けた方が良いでしょう。目の前の海に毎日出ていく程度の小船/漁船は、丸木舟時代からあったとしても、何日もかけて漕ぎ進む荷船は、鋼入りの大工道具が渡来するまでは無理であり、はるか後世にならないと「瀬戸内海交通」はできなかったと見ていますが、いかがでしょうか。当ブログの提案では、九州大分から伊豫三崎半島への交通は、随分以前から、ひょっとすると縄文時代から、小船の渡し船で通じていて、渡し舟以外の陸路は、誰でもできる担い次なので、山道が遥か東の燧灘沿岸まで通じていたと見ているのですが、いかがでしょうか。 

 それにしても、伊豫以外の三国を、ここに取り込むのは無理です。著者が良く理解されているように、伊豫は石鎚山を主峰とする四国山地を背景として独立した領域であり、四国の中央部、高峰石鎚の峰を後ろ盾にした伊豫の海、大海「燧灘」の東端「宇摩」地域で、ようやく、土佐、阿波、讃岐の三国に通じているのです。まして、西方の松山から見ると、他の三国は、別世界なのです。
 著者は、ご自身が、邪馬台国「松山」説を立証しようとしているのをお忘れのようですが、「倭人伝」の解釈で大事なのは、郡から伊都国、そして、「松山」への行程と、「松山」を中心とした、諸地への経路の論証なのです。

 「多量のものを容易く確実に運べる」との船便評価は、当時の事情を知らないから言える安直な思い込みです。三世紀当時は、手漕ぎ小船なので「多量のもの」は運べず、穏やかな内海は、風と潮まかせで「確実」とほど遠いのです。著者は、なぜそう信じたのでしょうか。
 そうそう、遺跡発掘は、とかく、現代都市開発で露呈したもので、古代に存在したと思われる諸「遺跡」は、ほとんど手が付いていないと見えます。松山や今治に遺跡が目だつのは、都市開発の副産物と見えるのです。

*正しい行程を求めて
 著者が率直に認めているように、先賢諸兄姉の行程解釈から、端的に「伊豫」が邪馬台国の所在地との解釈は、相当なり立たないと見えます。
 ここで著者は、「もう一度」、「倭人伝」原文を読んだとしていますが、へえ、いつ、最初に読んだのかと、揚げ足を取られる書き方です。
 行程記事の「到」、「至」使い分けを、自力で想定したのなら大したものです。
 ただし、「漢字源」に頼ったのは、勿体無いのです。中国の教育訓練を卒業した優等生であった「使者」が書いたのは三世紀、二千年近い昔です。「漢字源」の編者には、理解困難でしょうが、問い詰めるのは、気の毒です。

 「倭人伝」に書かれていることが、どんな趣旨か知るには、まずは、文脈を解する手順が最優先であり、併せて、先賢諸兄姉の意見を、謙虚に「聞く」必要があります。なんにしろ、辞書をこじつけの手段にしてはならないのです。因みに「聞く」とは、意味を理解し、裏を取るということです。念のため。

*「到」と「至」~行程記事の句読点
 普通に考えると、「到」は、「至」で連なる行程記事の区切りと見るものでしょう。つまり、行程記事は、郡内行程、つまり、郡から狗邪韓国まで七千里が「第一区分」、続く伊都国までの倭地周旋五千里が「第二区分」と見る「行程二分説」が、理解しやすい区切り方でしょう。この程度であれば、現地事情を何も知らない読者でも、簡単な思考実験だけで理解できるのです。
 「伊都国を行程の終止」とみるのは、郡使の目的地とされているのがよく分かります。大抵、伊都国以降が行程の続きと誤解されていますが、伊都国以降は「参考」として書かれている言わば後世付け足しの「第三区分」だと理解すれば、行程記事全体が筋の通ったものと見えます。
 当時、皇帝にも、そのように明解に読み解けたから、「倭人伝」は受け入れられたのです。

*「水行陸行」の意味の採り方
 ここは、著者の異例の信念なので、反論が困難であり、どうしてそう思うのか、と言うだけです。と言うものの、著者は、結局、断定した後で、意味が分からんと投げ出しているのですから、苦笑するしかないのです。もう一度、参考資料を探し求めて、じっくり読んでみたらいかがでしょうか。中には、正解を射止めている人もいるはずです。
 丁寧に説明すると、中国語を構成している漢字は、二千年以上、ひょっとしたら三千年前から、高度な文書構成に用いられていて、特に、「行」のような基本的な文字は、多様な場所で多様な意味で使われているので、二千年前の文書でどのような意味に使われているかは、まずは、その文書の前後関係、文脈で判断する必要があり、辞書に頼るにしても、使われている文脈から判断する必要があるのです。これは、文書解釈の基本の基本なのですが、「二千年後生の無教養な東夷」、いや、ほんの数世紀後生の中国教養人すら、しばしば見過ごすので、字書頼りで見間違えることは、よくあるのです。

*「倭人伝」の「水行」、「陸行」考察
 ここは、一部で誤解している論者諸兄姉の見解のように「使者の書き綴った気ままな旅行記」でなく帝国公文書という高度な公的な記録なので、「陸行」は陸上のある場所から別の場所に街道を移動する意味であり、しかも、国営街道「官道」として整備された「陸道」、「公道」を移動することに決まっているのです。「公道」は、英語で言うHigh wayですが、これは、日本語の「ハイウェイ」とは若干異なり、「高速道路」などではなく、国家制度で決まった「公定道路」なのです。
 さらに言うと、水の上に道を引くことはできず、いくら機敏な馬でも、「後足が沈む前に前足を繰り出し、それが沈む前に後足を引き寄せる」曲芸はできないので、本来、海の上を行く「水行」はあり得ないのですが、「倭人伝」では、前代未聞の海上公定道路、「水道」の意味に、先行して定義することにより、特に、限定的に使用したのです。
 あえて「海道」、「海路」と書かなかったのは、そのような言葉がなかったから、「存在しない言葉は、使用できなかった」のであり、他に策がないので、仕方なく渡し舟による渡海行程を、一般用語として使用例のある「水行」と呼んだのです。つまり、「倭人伝」では、「水行」を河川航行とするありがちな用法は、当然、自明の不文律により固く禁止されているのです。
 と言うような、伊予なまりで言う「あつかましい」、つまり、繁雑な』解釈が必要不可欠なのであり、そのような解釈が取り入れられていない現代日本辞書の用例、しかも「行」の一字の何千、何万ともあると思える中国、ないしは、日本の用例から、ポツンと選んだ解釈の一つに飛びつくのは、正確な解釈にほど遠い臆測になる可能性が、大変高いのです。

 言うまでもないのですが、陳寿は、著者の使用された辞書を見たわけではなく、また、田中氏の流麗な日本語解釈を見たわけでもないのです。くれぐれも、史官として不勉強だなどと非難しないでください。

*魏志倭人伝の行程を比定する
 弥生時代後期の対馬国の形状を推定する
 どうやら、著者は、「三国志」現存刊本のうち、「紹興本」に依拠したようですが、根拠史料を明記していないのは、不備/不審です。
 また、なぜか、対馬の島々が海流による浸食で、現状と異なった形状をしていたと決め付けていますが、古田武彦師が第一書『「邪馬台国」はなかった』の一大国論義で提示したように、二千年間に壱岐の島が浸食/縮減されたというのでなく、海流に乗って流れ来る砂によって「対馬の島々が成長して現代の形状になった」と主張するのは無法です。
 対馬は、堅固な岩山であり飴細工ではないし、と言って、その間に水でふやけたのでもないと見えるのです。対馬には、太古以来土砂を運んで堆積する大河は、ほぼ皆無であったので、現代地形でも、扇状地は数少ないのです。
 因みに、対馬、壹岐を包み込む「大海」は、滔々たる大河の風情があり、まことに悠揚迫らぬ「大河」なのです。海流、潮流が競り合っている「瀬戸」の形勢とは、全く異なるのです。

 なぜ、著者が、行程の通過点に、ここまでこだわるのか、不可解であり、随分損しているので、もったいなく思います。

 丁寧に言うなら、帯方郡を出て船で狗邪韓国に着く」という解釈を何の気なしに取り入れることによって、こじつけ、誤解の産物である俗説に取り込まれているのは、無理からぬ事としても、それ自体途方もない「夢物語」なのですが、話すと長いので、別の機会に譲ります。

                                未完

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