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2024年2月21日 (水)

新・私の本棚 番外 あおき てつお 邪馬台国は隠された(改) 2/2

 漫画家が解く古代ミステリー~」 Kindle版 初版、改定年次不明
 私の見立て ☆☆☆☆☆ 勘違いのだまし絵 消せない悪書 2024/02/21

*基本の見落とし 
 著者は、道里記事の大事な「分かれ道」に対して、『榎一雄先生は「倭人伝の道のりは一直線に読むのでなく、伊都国まで来たらそこを中心に放射状に読み取るべき」と主張された』と勘違いして大局を見失ったと見えます。
 要するに、中原なら、四頭立ての馬車で行く「周道倭遅」ですが、馬車も乗馬もない倭地ですから「郡道が伊都で完結」する徒歩行と見るものであり、以後、奴不彌投馬三国は、万二千里に無関係の脇道であり、行く必要は無いのです。これら三国とは、「余り往き来していないので、不詳」と明記しているのに、長々と論義しては、読者を混乱させるのです。あるいは、時間の無駄として読み飛ばされてしまうのです。

 実態不明の脇道の後に、『伊都国の直南に女王の住まう「邪馬壹国」があり、必要日数は、[都]全て、海上十日と陸上三十日、計四十日』まことに明快です。
 それ以外、女王以北狗邪まで「周旋」五千里と検算していて、重ね重ね誤解できないはずですが、それでは早々に黒星が付いて敗退と決まる「定説」派が猛然と攪乱しているのです。
 そんな攪乱に対して、著者は、まれに冷静な理解をしますが、すぐに言葉が動揺して混乱するのです。

*誤解の始まり提起
 いや、本論は、著者の論旨を追うのが主目的/主題ですから、本書の狗邪韓国あたりから論義を始めていますが、ここで、始点に戻ると、著者は、早々に、分かれ道の選択を誤っていて、回復困難な破局を、以後、一貫して、無頓着に踏み渡っている糊塗を、確認する手順となりました。本来、間違った分かれ道の先は、一切論義する必要は無いのですが、ここでは、著者の勘違いを正すために、あえて、無効とわかっている筋道を辿っているのです。ご容赦ください。
 さて、著者は、大抵の論者と同罪であり、勝手に早合点していますが、道里行程記事は、正始魏使の道中報告などではなく、明帝が、魏使派遣に先立って把握していた行程道里なのです。前提部分で、重大な錯誤があれば、即却下して、出直してもらう所ですが、それでは、指導にならないので、丁寧に面倒を見ているのです。
 従って、重大な懸案と見える脇道の三国は、「倭人伝」の要件であって、肝心な「伊都までの所要日数」に全く関係なく、従って、陳寿の関心外なのですから、陳寿が見たことも聞いたことも無い現代地図と照合して、無理やり辻褄合わせしても、陳寿の知ったことではないのです。何とも、意味の無い「徒労」記事です。

*箴言再生 
 当方は、高名な歴史学者岡田英弘氏の箴言をもとに、『三国志から二千年後世の無教養な東夷が、孤高の歴史書である三国志を非難するのは見当違いとしている』のです。但し「無教養」は、単に、もの知らずで読み書きができない「状態」であり、勉強で「無教養」でなくなるとの「自戒」です。
 古人曰「後生畏るべし」、先に生まれた「先生」が偉いのでなく、「後生」に乗り越えられるとの言葉があり、心ある関係者は、失礼にならないように「先生」と云わないことです。

*遣隋使談義の暇つぶし
 著者は、「隋書」を読めていない所から、何の参考にもならない後世談、余談を話し始めます。隋帝のもとに参集した蛮夷は、それぞれ「遅参はきつく処罰する」と、新規統一王朝の隋から、半ば脅されて参上していて、それを追い返すなどあり得ないのです。
 そもそも、無知、無礼は、蛮夷の真髄ですから、承知の上であり、そのような蛮夷を、厚遇して招待し、とことん「おもてなし」して、手なずけるために「鴻廬寺」が儲けられているのであり、接客実務の担当として、掌客部署があるのです。「客」は、蕃夷が耳にして怒り出さないように、美称している(外交辞令のリップサービス/口先だけのお愛想)です。
 もし、手違いで賓客を追い返しなどしたら、以後、辺境に侵入、掠奪して、たんまり仕返しされるので、豪勢に歓待していたのです。いや、追い返すと、歓待した状況を、腹ぺこ、野宿で引き返すので、怒り倍倍増で、掠奪暴行必至です。蕃夷の機嫌を損じた「鴻廬寺掌客」は、軽くて免職、さらには、鞭打ち、大抵は、斬首/死罪のはずです。

*権威者の妄言
 そのような事情紹介の後に続いて『この事情に関しては三国志研究の権威・早稲田大学教授の渡邉義浩先生の提唱を参考に説明します』ですが、読者は、遣隋使など無関心です。
 以下、記事に戻り、魏が「倭人」記事に色を付けたのは、西方蛮族との見合いとしますが、それは無茶で、「大月氏」記事は、後漢支配下の西域に反乱と掠奪を繰り返した悪者を、西域に無力な魏が「おもてなし」した中国文飾を見すごした岡田英弘氏の「新説」に渡邉氏が追従したのに気づくべきです。
 東夷談義に戻ると、倭人来貢は、司馬懿の公孫氏撲滅後、来なければ同様に叩き潰すと脅されて恐懼参上したものです。司馬懿は、公孫氏一味を大量虐殺し、公文書も焼き尽くしているので、倭人は、震え上がったはずです。

*明帝明敏
 時の明帝曹叡は、司馬懿の魔の手が伸びなかった帯方郡から倭人事情を知らされていたので、急遽持ち込まれた(仮想)帯方郡「倭人伝」が「郡から倭まで万二千里」と恰好を付けていても、片道四十日あれば、往来できると承知していたので、確実に大量のお土産を送りつけられると理解していたのです。つまり、「呉の沖合」などとは、まるっきり思っていなかったのです。陳寿は、西域を含めて、諸蛮夷事情を熟知していたので、子供だましにもならない戯言は書いてないのです。そうそう、陳寿は、三国史「呉志」の大部分を、東呉が降伏の際に上程され、皇帝が享受した韋昭「呉書」をそのまま採用しているので、東呉が、東夷と交通していたなどとは、思ってもいなかったし、曹魏自体、そのような報告を記録していないので、魏志に、そのようなウソ八百の記事は無いのです。

*不朽の失言か
 そのように、三世紀当時は、衆知であった、つまり、関係者に当たり前のことを見過ごした「権威」の与太話は困ったものです。まして、明帝も知る「倭人事情」を、陳寿が、晋皇帝のご機嫌取りで創作したなど、見当違いも甚だしいのです。現代人でも暫く調べれば気づく迷言を言い放っているのは、ご自身を「二千年後世の無教養な東夷」と自嘲されているのかと訝しいほどです。
 因みに、当時の晋皇帝は、天下唯一の権力者と云っても、史上著名な暗君であり、「倭人伝」など意識外であり、そもそも、魏志自体、読めもしないので、大して気に留めていなかったのです。なにしろ、この権力者は、政治に無関心な上に、唯一無二の皇太子を廃嫡して死なせるのですから、名も知らない史官の編纂している「正史」など、どうでも良かったのです。
                                以上

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