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2024年2月13日 (火)

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 4/4 補追

 ...から見る邪馬壹国所在位置論争への結論 「投稿記事」
 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業          2024/01/11 02/13

*魏志「南宋」刊本の由来
 「魏志」は、西晋時、陳寿原本収納以来、国宝として多大な労力と最高級の学識者を動員して写本継承され、劉宋裴松之を始め、厳重な校訂を経ている。
 北宋期に各地愛蔵の写本を結集/校訂した決定稿により刊本が起こされ、主要な宛先に配布されたが、精々、百部程度と見えるのである。北宋刊本の主題は、生成された「正確な」刊本を種とした写本の拡散であるが、北宋の盛期は永続せず、北宋の軍制の弱体と、それ故の、陰謀攪乱の邪計に対する激怒から大挙南下した、北方民族「金」の大挙侵攻/亡国で、正史、書経の刊本は、版木共々、撲滅されて根こそぎ喪失したが、北宋刊本を根拠とする良質写本が、再興された南宋に結集し、今日残っている南宋刊本が刊行されたのである。

*高度な校訂の産物~最高品質
 衆知の如く、写本、所引は、粗雑に行われれば、早速に精度が失われるが、帝国の国家事業として写本された場合は、所謂粗忽な「ヒューマンエラー」は、数度に上る徹底照合/校正によって、極小となるのである。

*粗忽な例
 粗忽な「ヒューマンエラー」が、誤記、乱丁のまま野放しの例として「翰苑」残簡が挙げられる。一度、二度の粗雑な写本で文献は壊滅しているが、美麗な書体によって美術品として認められ国宝となっている。

*良質写本継承の例
 比較的「良質」な写本としては、袁宏「後漢紀」が、「傷だらけ」であるが、正史ほどの厳密な写本で無くとも、最善の努力が積み重ねられた成果である。

*「焦土」作戦の果てる時
 事態混沌化「焦土作戦」によって糊塗されているが、史料の質的評価に天地の差異がある。また、当然、自明のことであるが、現存刊本に見えない誤謬は、本来存在しなかったとみるべきである。
 それにしても、現存刊本の「邪馬壹国」が、本来、『「邪馬壹国」であった可能性が極めて高い』とする「邪馬台国」風評臆測説は、同誌の逆鱗として高言しないのだろう。

*陳寿の魏志編纂の姿勢
 氏の誤解を払拭すると、陳寿が「魏志」編纂にあたって、原史料を忠実に承継するのでなく、悉く推敲、加筆、割愛したとの意見は、誠に素朴な誤解であり、聞きかじりの速断は、まことに勿体ない。
 「重複」の例では、「倭人伝」に「壹與壹與」の連打がある。また、紹興本では「諸國諸國」の連打がある。どんな原則にも、例外はある。

 氏は、「京師」と「京都」の僻諱の例を挙げるが、陳寿編集との証拠はない。陳寿最終稿から献呈本を起こして西晋恵帝に上程した際に写本を指揮したものが、皇帝の直近の父祖に憚って保身した可能性もある。世上、風聞、憶測が絶えないから新説で貢献したが、「マジ」ではない。
 因みに、信頼されている「紹凞本」、「紹興本」でも、宋代皇帝の実名を憚る「僻諱」は、散在する。是は、西欧には存在しない禁忌であるから、「ヒューマンエラー」は、オガ度違いである。

 それにしても、氏の考察は、全篇を通じ、無節操にうねっている。陳寿が、「倭人伝」編纂に「ほぼ情熱を...淡々と...過ぎない」とは見上げたものである。「ほぼ情熱」と「淡々」は「小人」感慨であり、陳寿は史実継承が根幹であって、私利では、一切動いていなかった。
 古人曰く、「燕雀焉んぞ鴻鵠の志を知るや」、「士は誠に小人である」

◯最後に~陳寿の真意
 陳寿の「三国志」編纂の真意は、宰相諸葛亮の「臣鞠躬尽力、死而後已」の献身を頌えるもので、蜀漢国志が存在しなかったため、陳寿は、絶大な尽力で「蜀志」を創造し、三国志を不滅の正史としたから、「大行は細瑾を顧みず」。自身の身命を惜しんだのは、大行の前では面目は細事であったからである。

 因みに、古来宰相は、天子に「骸骨」を献じていて、高齢などで退官するには、天子から「骸骨」を返して貰わなければならなかった。

 妄言多謝。死罪死罪

                               以上
 追記:書き漏らしを補追する。2024/02/13
 陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」の根拠となっている原「倭人伝」は、景初に、明帝指示のもとに楽浪、帯方両郡に赴任した新太守が、それまで、公孫氏が文書で報告せず、司馬懿の暴挙で塵滅した公孫版「倭人伝」を温存していた両郡公文書を、鴻臚を介さずに明帝に短絡したものと見える。佚文から、魚豢「魏略」が「倭人伝」相当の記事を備えていたと見られるが、公孫氏から公文書上程されたものではないので、明帝没後に、深い闇に埋もれていたと見える。
 魚豢「魏略」佚文から見て、魚豢「魏略」は、「倭人伝」相当の記事を備えていたと憶測されるが、氏が想定している先行史料である「大魏書」及び王沈「魏書」が取り入れていたかどうか、大変不確かである。わからないものは断言しない勇気が必要と思うのである。
 陳寿は、東京、即ち、雒陽の官人が「西羌伝」を挙げたと書くが、東夷、中でも、倭人に関する「伝」の由来は、以上読み解きを試みたように、示唆にとどめているのである。按ずるに、司馬氏に対して謀反をなした大罪人である毋丘儉の功績と攻撃されるのを警戒して、記事を分散秘匿したと見える。そのような(司馬氏に対する痛烈な)筆誅は、陳寿以外なし得なかったと思量する。
 念のため時代背景を考察すると、後漢は、光武帝劉秀以後、洛陽に公文書庫をおいて、専門家が厳重に管理していたが、霊帝没後の混乱の際、董卓が長安遷都を強行したため、文書管理体制が損傷を受け、文書管理者も、多く離散したと見るのである。何しろ、帝国公文書は、依然として木簡などの太古以来の簡牘巻物で厖大であるから、長安遷都の際には、多くが洛陽に半ば放置されたと見える。
 何しろ、「歴博」の考証に依れば、劉宋笵曄の編纂した「後漢書」は、蔡侯紙でなく、簡牘に書かれていて、何れかの時点で、刑死した謀反人の書庫から浮上して、国庫に納まったと断定しているのである。いずれにしろ、劉宋高官であり、有数の財産家であった笵曄が、わざわざ、簡牘で巻物に著述したのは、信じられないのである。
 後漢末期の建安年間、長安帝都を脱出して、流亡していた献帝が、許都の曹操の元に迎え入れられても、公文書庫は、洛陽にとどまったと見えるのである。曹魏文帝は、各地各都に分散していた諸官庁を、雒陽「首都」に再集結したが、後漢盛時の堅固な文書行政国家は、遅々として再建されなかったのである。ということで、明帝に到っても、依然として、国家創業の時代であり、正史となるべき「国志」を編纂することはできなかったのである。
 氏は、「大魏書」、王沈「魏書」なる二大史書を夢想しているが、画餅に近いものではないかと愚考するのである。
 かくして、氏は、大量の夢想を、あたかも、白日夢の如く図示しているが、夢想は夢想として、氏の脳内に留めておくべきだと思うのである。この場は、お返しとして、当方の夢想を提示しただけである。

以上

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