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2024年3月

2024年3月31日 (日)

新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」  1/10 改頁

私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28

 先ずは、NHKが公開している番組案内である。
 あまりひどいので、視聴前に別記事で一報したが、実際に番組を見たら、下には下があるの体たらくで、率直に苦言を呈するものである。

-番組案内の引用である。
古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る
初回放送日: 2024年3月17日
 私たちの国のルーツを解き明かす壮大なミステリー!古代史の空白に迫るシリーズ第1弾。謎の女王・卑弥呼の邪馬台国はどこにあった?発掘調査と最新科学が突き止めた新事実を紹介。人骨やDNA分析から見えてきた激動の東アジア。「三国志」に秘められた卑弥呼のグローバル戦略とは?最強の宿敵・狗奴国とのし烈な争いの結末は?未知の古墳のAI調査や大規模実験で徹底検証!日本の歴史を変えた卑弥呼の波乱万丈のドラマを描く!
-番組案内の引用終了である。

◯はじめに
 当番組は、古代史報道は「創作より奇想天外」であるという一例である。NHKは、与えられた虚構(ロマン)画像化の使命が達成困難なとき、何処かから予算を取り付けてでも、途方も無い虚構画像を作成すると経営的に決断したようである。かくして、NHKの制作陣は、投下費用をそれぞれの制作班に振り替えて、放送芸術の持続的発展を期したようであるが、以下に示すように、報道ならぬ「ロマン」は、学術的裏付けの乏しい「プロパガンダ」と化し、教養/報道番組の域を脱した浪費となっていて、このような費用支出を正当化するのは、至難と見える。会計監査をどう言い逃れするつもりかは知らない。
 すくなくとも、当方は、会計監査を業としていないので、諸説紛々たる古代史論で公共放送が「一説」に偏重したことをどのように正当化するかに、多少の興味はあっても知りたいとは主張しない。
 以下、番組を流し見しながら、速報/速評を試みたので、誤解/事実誤認があれば指摘いただきたい。また、再放送で確認いただければ幸いである。

◯各論
*誤解で導かれた虚報の世界開幕
 導入部で示される「邪馬壹国」と原史料を表示しつつ「ヤマタイコク」と発音する詐話紛いの手口と、勝手に「倭人伝」記事を解釈して、「邪馬台国」を「海の中」との決めつけたのは、まことに胡散臭い出だしである。
 ついでに言うと、「倭人伝」は、正史に明記された自明の史料名で、中国史学界で通用している。NHKには公共放送としての自尊心がないのか。
 三世紀古代史談に、無神経に「日本」と称して不吉である。NHKは、三世紀に九州で自立した「邪馬台国」が、八世紀に纏向地域を包括して「日本」と長大したと本気で信じているのか。「諸説あり」では済まないと思う。
 国内史学では、「偏見」を避け、「日本列島」なる中立概念を提起している。
 NHKには報道者の良識は無いのだろうか。

*「大規模な建物群と厖大な人物群」の壮大な時代錯誤
 堂々と開陳される大規模な建物群と行き交う厖大な人物群の時代錯誤、拙劣な虚構「画餅」に恐れ入る。建物は、南北線基準だろうか。時代に先駆けて、瓦葺きと見えるが、この時代、どうやって瓦を焼き上げ、どう足場を組んで葺き上げたのか。次世代から、絵空事と言われない堅固な「画餅」を望むものである。

                                未完

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私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28

*巨大瓦屋根の不思議
 ぱっと見であるが、降水の多い土地で雨仕舞い不備の大型建物は持続できたのだろうか。雨樋や排水口はどうしたのか。「画餅」批判が嫌いなら考証すべきである。なぜ、このような百年ものの大型建物を築けたのに、飛鳥時代は、二十年持たない萱葺きや板葺きに堕したのか。
 「虚構」は、専門家が、最先端の設計技術と工学技術を駆使し、途方もない費用を確保して細部に到るまで考証するはずが、なぜ使い回したか。困ったものである。
 毎年投入される多額の研究開発費は、このような虚構構築に費やされているのか。全国各地で考古学研究に勤しんでいる研究者に報いるべきではないのか。

*無謀な傾斜地運河
 虚構と言えば、これまでにも、奈良盆地三輪山麓の水量の乏しい渓流に、動力駆動の閘門無しに実現困難な傾斜水路運河を大々的に描いて見せて、あきれたものであるが、この手の病(やまい)は、草津の湯でも癒やしがたい(Die hard, Die harder, Die hardestか)ようである。
 要所で、女王が、高度な建築技術が偲ばれる宮室にあって、史料記事に反して多数の臣下を従えて胡座するのは、史料に反する大嘘である。公共放送たるNHKには、「フェイク情報」の拡散防止に努める良心はないのだろうか。

*不可能な銅鐸粉砕
 巨大銅鐸を瀬戸物のように粉砕するのは、既に「石野博信氏主催のレプリカ銅鐸破壊実験」で不可能と実証されたのをご存知ないのであろうか。NHK番組で堂々と公開されているから、知らないはずはないが、今回は、粉砕可能なレプリカを高度な技術で作成したのであろうか。

*年代鑑定の錯誤
 「遺物の年代鑑定が、一年単位で特定できる」というのは、素人騙しの言い逃れに過ぎない。予算申請時には、お役人に通じたろうが、素人眼にも誤魔化しに過ぎない。「年輪は一年単位」で形成され、データ解像度の限界となるという事実を、もって回って述べただけである。とんだ恥かきである。
 こうした、年代鑑定は「ヒューマンエラー」の積層に依存している。「科学はウソをつかない」と言っても、それは、観測結果の単純な表明に限定される。現実には、「結果」がスポンサーの意に沿わないと以後の依頼が途絶えて、収入源を喪う恐怖があるから、研究機関は、薄氷を踏んでいるが、蛮勇を持って「馮河」など怖くないというのだろうか。所望の結果が出せない鑑定者は排除しろという天の声が聞こえそうである。

*お手盛り鑑定の悲劇
 それにしても、ここで示されたのは、私利私欲でなく、また、研究機関の党利党略でなく、古代史学の不朽の基礎となる「結果」の獲得であれば、強引な結果誘導のない客観的研究成果批判が必要かと、素人ながら思う。

*百年遺産の願い
 常識であるが、「いかなる権力も不滅ではなく天命を喪えば下野する」のが、歴史の教えである。その際に、回示された「年代鑑定」は、素人目にも、見え透いた「底意を暴露されて批判の的になる可能性がある」のは当然の理である。その時、関係者は、「記憶・記録に無い」と弁明し、改竄の責めは実務担当部門の担当者に降りかかる。何処かで聞いた気がしたら空耳である。
 くれぐれも、後世の批判に耐える業績を画していただきたいものである。

                                未完

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私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28

*年輪年代鑑定の奇蹟
 木材年輪「年代鑑定」で三世紀のものと特定されたというのも、画面で見る限り確定的でなく、テレビドラマなら「一致率」何㌫というところが、数字は出せないのだろう。朗々たる箸墓古墳の年代特定は精々臆測である。
 かくのごとく巨費を投じた「でっち上げ」は、積年の赤字財政に喘ぐわが国で、貴重な国費を割いて巨費を投じた造作であり、途方も無い浪費と見える。これもまた、各地で地道な発掘を展開している方達に、大変失礼である。

*華麗なる「邪馬台国」~ 幻想の太古
 「女王共立」は年代物のお粗末な作り話で、粗雑である。なぜ、各国代表団が、史料に言及のない、おそろいのお仕着せ/制服か、意図不明である。
 いや、卑弥呼の衣装、髪型は、根拠のない幻想で、年齢設定も、虚構である。どんな「専門家」の時代考証にのか、公開頂きたいものである。

*喪われた出版物の伝統
 制作費は「透明化」していただきたいものである。往年のNHK特番は、付随出版物が豊富で、大判図版共々大変勉強になったが、近来、手抜かれて大変不満である。公共放送出版物の伝統は「荒城の月」になったのか。

*貴人参集の戯画
 「専門家」のご意見がないので、各国国主が、どこからどのようにして参集したか分からない。月に一度の参賀は必須だが、街道未整備で馬車交通が存在しないから貴人も徒歩往来であり、他人事ながらまことにご苦労である。

*壮大な「纏向」大国
 いや、三、四世紀に、各国邑(村落国家)が北九州に集中との想定なら別だが、当番組が示唆する壮大な「纏向」起点の長距離統治は、文書通信がなく街道未整備で、どうやって「古代国家」を維持したのか。

*生けるレジェンド
 古人曰く、「ローマは、一日にして成らず」社会の基礎構造(インフラストラクチャー。同時代のローマ帝国の制度を言うもの)が、皆目未形成では、「纏向」大国は、画餅/紙風船/張子の虎/砂上の楼閣/逃げ水と言われても、一切反論できないのではないか。一部で揶揄されているように、そこには、生ける「レジェンド」であった「纏向遺跡国家」が存在していたのか。

*幻想の雒陽首都
 それとも、以上は一視聴者の早合点で、堂々と展開されたのは「邪馬台国」で無く、曹魏雒陽首都であろうか。誤解を誘う無惨な手法では無いか。
 曹魏創業当時の雒陽は、曹魏文帝曹丕の再建活動があっても後漢末の廃都/破壊の跡を残していた。時代考証するなら、三国鼎立の戦時下に明帝曹叡のご乱行で、至る所で新王宮建設が進んでいたはずである。現場には官吏である「お役人」が多数駆り出されて、首都は、混乱していたはずである。明帝没後、新王宮建設は撤回されたが、画面で示された整然たる有り様は不審である。
 この画餅は、当番組の主題確保に、どう貢献しているのだろうか。

*「タイムカプセル」詐称
 土中から発掘された遺物を「タイムカプセル収蔵」と放言しているが、気密恒温状態でない「タイムカプセル」とは物知らずの素人の妄想と見える。出土物は、泥中で大気中の酸素との接触が、少なかったと見えるに過ぎない。認識不足(Ignorance)は回復不能、つまり、致命的(fatal)である。

                                未完

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私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28

*暴露されたタイムカプセル
 せめて、「纏向遺跡」で実例のあった大型建物遺跡の一隅の土坑の泥の底であれば、内部対流してなかったろうから、一千八百年を経ても、ほとんど外気を呼吸していなかったろうが、ここにずばり開封された。
 密閉と見えても、温度気圧の変動により呼吸して、周辺に纏わる大気の吸排は否定できない。一日の呼吸が極小でも、一千八百年間の呼吸の積み重ねは、影響無しとは言い切れない。今回の出土遺物は、表層近くと見えるし、遺物を密閉容器に収めた様子は見えない。まことに暢気である。

*纏向遺物の悲劇
 関係者は忘れたかったろうが、NHKオンデマンドで公開の「特番」は、纏向遺跡発掘で貴重な時代遺物である大量の桃種を埋蔵位置/深度を特定しないまま、貴重な付着物を無雑作に一括洗浄しているのが記録されている。
 多年の積層か一度ないしは数度の祭礼で一括投棄されたか判別できず、時代関係は一切不明である。出土資料の管理が等閑(なおざり)なのは勿体ない。考古学の遺物記録鉄則を失念した暢気なものである。後年高度な化学分析に供しても、遺物史料の信頼性に対する不信を拭いきれない。

*華麗な女王像
 女王は、共立後徐々に権力を掌握したと云うが、自身の領域を持たない軍事的、経済的に無力なものが権力を揮えるわけがない。確実なのは、調整役である。肝心の「魏志倭人伝」に女王権力など書かれていない。関係者の雨の夜の創造物か。諸国王と言うがそのようなことは書かれていない。
 当番組は、「女王」隣席の御前会議をでっち上げていて、史料無視で話がボロボロである。頑固/堅実な考古学は崩壊したのか。

*「狗奴国」幻像
 狗奴国反抗で番組の示唆する宏大領域が内戦状態に陥るとは信じられない。
 当番組は前方後方墳を根拠に、狗奴国が東方まで展開した巨大国家との奇説に組みしているが、文献根拠が提示されていない臆測である。

 確実なのは、墓制が異なれば葬祭儀礼が異なり他と和しないだけである。何かの流行で葬祭儀礼が「革新」され、銅鐸が一気に廃棄され、巨大墳丘墓が棄却されたと無責任に言うが、無教養で無知なものの放言である。

 葬祭儀礼は、古代国家の「伝統」根幹であり、また、現在の権力者の権力の根幹である。子々孫々の維持に全知全霊を傾けるから、祖礼を「流行」で廃棄するなど有り得ない。無教養で無知なものは、ことを宗教的とし、果ては迷信と蔑視するが、学界はそのような暴言を早速撲滅していると信じたい。

*長征幻想
 狗奴国との間に、「日本列島」を広範囲に蓋う抗争など不可能である。一部異説陣営が、古代の世界観の「乱」を望んで、恣意に満ちた解釈に勤(いそ)しんでいる。誰が考えても、道なき道を延々と徒歩移動し、野営を重ねた果てに果敢な武闘(campaign)は、とても持続できないものである。
 幸運に恵まれて遠征先で勝利したら、来た道を米俵と傷病兵を担いで延々と帰国するのだろうか。死者がいなくなって農業生産が害される。凱旋しても、遠路を担いで還った米俵など、ほとんど腹の足しにならない。もし、負け戦だったら、悲惨の極みである。敗軍の将は、斬首ものである。
 水田稲作で、春秋の植え付け、収穫時は共同作業できたが、夏場は各戸の人力頼りであるから、徴兵軍事行動は自滅行為であり、地域の指導者は、消極的であったはずである。

                                未完

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*「掠奪史観」汚染か
 要するに、近隣との水争い、漁場争いには、生活改善の意義があるが、食糧掠奪は子供のお遊びでも有り得ない。と言うのは、NHK番組司会役の「歴史家」磯田道史氏が、不正規発言で掠奪史観を持ち込んだが、「門外漢」が、古代掠奪国家と暴言を物しても時代と地域を理解していない暴言でしかない。
 一級史料「魏志倭人伝」に一切書かれていない広域の争いは、当時の「日本列島」では「無かった」のである。そもそも、調整役として女王を擁立したのは、「時の氏神」の元で、よろず談合しようという賢明な策であり、一時の抗争が収まれば不戦の誓いが復活したはずである。

 この地域、この古代で、他国侵略、食糧掠奪が、物々しい割に成果が望めないのは、先に述べた展開の後日談を考えればわかる。敵もさるもの、次回の侵略は手ひどく報いられるのは、日を見るより明らかである。

 掠奪に国家の礎を置く暴行は、天に裁かれる。「汝盗むなかれ」は、戒律の始まりと言える。古代人の叡知を侮るものは古代人にあざ笑われる。
 いや、延々と戒めるのは、他ならぬNHKの古代史教養番組が、三世紀における掠奪世界観/倫理観を高々と謳い上げて制止されていないからである。

*隔壁無き「国邑」
 史料に戻ると、「倭人伝」は、「倭人」の「国邑」村落国家が中原の常識に反して、隔壁の無い「安息」境と賛嘆している。水壕は「けもの除け」に過ぎず、実戦となれば、掠奪者の工兵が梯子を組んで渡るので、防備するには、三匹の子豚の童話で言う石壁が必要である。

*「青谷上寺地」難民キャンプ説
 青谷上寺地に、数世紀とも見える期間に大陸人員が居住したとして、それは、時間的に、量的にどの程度かということである。二人渡来しただけでも、世代がつながれば、計算上は百人を超える集団に発展するのである。
 どこからにしろ、部族ぐるみの到来であるから、先祖代々の葬祭儀礼を持ち込み、墓所には墓誌を埋めて金文史料が出土する。中原には中原の葬祭儀礼があるから、逃亡先でも、蛮夷に同化せず、「文化」を堅持したに違いない。
 下級民でも所帯道具一式に加え、当然、筆墨、算木に基づく度量衡や暦制も持参したに違いない。でないと、氏族が維持できず、もっての外の親不孝になるのである。そうした伝統維持が、何も遺っていないはずがない。
 言うまでもないが、氏姓、本籍は、何があっても棄てられないのである。

*中国権威者の妄言~百年の恥辱
 王勇老師は、古代中国で、民衆が戦乱から東に退避したと決めつけているが、何かの錯覚であろう。難民は、地域社会丸ごとと見るべきである。先ずは、現住所から系譜、戸籍、家財、財貨を抱えて、一族諸共、四方に逃散するはずであり、西は、流沙世界であるから逃げられず、北は、匈奴領域であるから逃げられず、大勢は、難なく南下したはずである。

 東方は、華夏文明の圏外であり、山島半島岸辺から見て、目前の海中山島である朝鮮半島中南部は、筏や小舟で渡れるというものの、現地は街道も無い荒れ地で徒歩移動であり、さらに、東夷の地に至るには小舟で島伝いに渡海する必要があるから、一族郎党が、家財道具一式を抱えて渡来するのは何とも難儀である。以上の推定が御不満であれば実験航海してみることである。

 それにしても、後漢末期の黄巾の乱が平定された三国時代の中原は、曹操が安定化を図っていたから、氏族ぐるみの逃散は鎮静化したはずである。

                                未完

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*根拠なき卑弥呼遣使
 それにしても、卑弥呼が、曹魏に使節を送ったと云う「法螺話」連鎖には恐れ入る。専門家が寄って集(たか)って考証したと言うが、どんな顔で法螺話を募ったのだろうか。いや、別にお顔を拝顔したいと言っているのではないので、SNSはご遠慮申し上げる。

*有り得ない大挙「北伐」
 老師(日本語で言う「先生」)の新説として、東呉の曹魏北伐を云うが記録はない。騎兵部隊を持たない東呉孫権は北伐して天下を取って中原を支配する気などなかった。
 幻想の「赤壁」事件の後日談でも、さっさと撤退した後漢宰相曹操の軍団は、別に追い打ちを掛けられず、悠悠と後漢献帝のもとに凱旋し、荊州平定の戦勝報告を物しているのである。要するに、東呉の軍兵は、騎兵がいないので追撃/侵攻できなかったのである。
 以後、曹魏は、川船を駆使した水軍の訓練をした形跡があるが、東呉が、軍馬を大量に買い付け、騎馬兵団を養成したとは聞かない。いや、そもそも、どこから大量の軍馬を買い付けられるのか、不思議ではある。

 あえて言うなら、曹魏に対する反乱勢力では、西方で騎馬兵を有する弱小「蜀漢」が、関中方面に北伐軍を送り込んだが、曹操、曹丕の二代は、各国の内情を熟知していたから、孫権が北進しても片手業で追い返したのである。いずれの場合も、せいぜい、威嚇して降服を促すだけであり、遠征して征服することなど論外である。

*有り得ない「四国」鼎立
 それにしても、戴燕教授なる老師は、どんな史料を見て発言したのだろうか。三世紀、「倭」が、第四勢力気取りで魏、呉、蜀の海上紛争に介入したというのは、日本人はだしの「倭自大」である。かくも保身されているのは、何が怖かったのだろうか。もちろん、蜀の海上作戦など、勘違いであろう。
 いや、謝礼を振りかざされた両老師の発言の断片から、当番組制作陣が、番組展開に都合の良い部分だけを見せている可能性は否定できない。見えていないものは分からない。
 画期的な大量の難民が発生したのは、西晋末期の亡国時である。亡国の洛陽官人一族が黄海を越えて百済に渡来し、文書行政を後進の百済に齎した。

*魏帝幻想
 ここで、公共放送の制作陣は、寄って集(たか)って大層な対話劇/法螺話を打ち上げているが、要するに、何の裏付けも無い「虚構」である。堂々と喚いている魏帝は、明帝曹叡であろうが、金印を手配したものの、サッサと逝去したから、以後は、全て沙汰止みになったはずである。史料に照らして時代考証していないのは、お粗末である。

*史料無視の咎め
 復習すると、当時、信頼するに足る史料は、唯一「魏志倭人伝」だけである。字数は、二千字程度であるが、三世紀当時、西晋の高官などの読書人が精読し、確認したから、信頼するに足るのである。
 国内史学の見地で、気に入らない点があっても、それは、「二千年後生の無教養な東夷」のわがままに過ぎない。まして、「倭人伝」に書かれていない創作を「天こ盛り」するのは、史学の道を、はなから、大きく外れていると思量するものである。
 NHKが、このような創作/改竄を助長するのは、まことに勿体ないことである。

                                未完

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*幻の卑弥呼朝廷
 それにしても、提示された卑弥呼朝廷はウソの固まりである。女王となる以前は、しばしば、人々の諮問に応じて神意を託宣していたとされているが、女王となって以後、卑弥呼は「滅多に臨朝しなかった」と「倭人伝」に明記されているから、御簾も無しに素顔をさらす胡座(あぐら)の女性は何者か、不明である。番組は、勝手に各国に王がいたとしているが「国主」の誤読であろう。天辺の「点」の有無で大違いである。「国邑」に王がいて王統が継承されていたのは、限られた大国だけである。ちなみに女王は王では無い。

 このような立派な「再現」の根拠となる朝廷遺跡が発掘されたと聞かない。

*「前方後円墳」の手前味噌
 前方後円墳(一種の熱病か)は、三世紀から一世風靡したとしているが、それは、無理の固まりである。通説では、前方後円墳熱は、吉備で発症し、纏向に蔓延/波及したとしているのではないか。
 大規模な墳丘墓の大規模な施工には、先ずは、大勢の技術者が必要であり、技術者は、天から降ってくるものでもないし、地から生えるものでもないから、何年という時間をかけて、文化/文明を教え込んで、読み書き計算から始まって、工学原理の伝授まで養成しなければならないのである。そのようにして、丹精して養成した工人たちは、実は、「古代国家」の国の礎/大黒柱であり、安売りしたとは思えない。
 いや、三世句後半に、突然、纏向で、造墓組織が蹶起しても、「日本列島」各地の徹底には、多数の部隊が並行して各地で動作しないと実行不能である。
 「人、物、金」、どこから降って湧いたのだろうか。各地で、指示通りに墳墓を施工させるのに、どんな威嚇手段を執ったのだろうか。不思議であるが、まだ、具体的な手法は聞いていない。すくなくとも、国王の詔勅が届かなければ、各地方の君主は、動かないはずなのである。

 いや、そのような難癖は、卑弥呼没後に(寄って集って無理やりに)直結させるから手ひどく突っ込まれるのであり、箸墓が、伝統的な時代比定で、四世紀とされ、以下、徐々に各地に技術が波及して、二世紀かけて、土木技術が伝世普及したというなら、納得させられるのだが、当番組は、「新説」正当化に、あまりに性急である。

*「歴博教授」綺譚
 素人目にも明らかなように、「歴博教授」が過去のNHK番組で愛好した性急な論法は、今回は「根拠の無い虚構」として棄却されたと見える。今回は、なぜか陰に隠れているが、三世紀「倭人伝」記事の否定に唐詩の大家李白の名作を持ち出す場違いな論断は、今となっては、歴博の風土が生んだ「レジェンド」の児戯として、むしろ懐かしいのである。氏が、NHK番組での失態で失職していないのを見て安堵したものである。

*「倭の五王」と「巨大墳丘墓」の時代/地域考証談議
 冷静に見れば分かるように、『中国史書に記録された中国南朝に遣使した「倭の五王」の文献上の偉業』と『現存する巨大な墳丘墓の遺跡/遺物の考古学』は、それぞれ独立して存在するのであり、「後世人の恣意でくくりつけてはならない」のである。どちらの偉業も、「日本書紀」に明記されていないので、「専門家」のご意見次第でどうとでも「ゴロゴロ」と転がるのである。

                                未完

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私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28

*「狗奴国」飛翔
 いや、いつの間にか、狗奴国は、東方に広く展開していたことになっていて、たいした法螺話と思うのである。誰も、不思議に思わなかったのだろうか。どこの誰の指示によるものか知らないが、ちゃんと制作過程の議事録と指示書を取っておかないと、後世責任追及するときに、「誰が決定して、なぜこうなったのか、記憶にありません」で済まされると危惧するのである。となると、具体的な制作担当者の責任で逃げるのではないか。まさか、登場した俳優の責任では無いだろうが。

*安直な戦闘シーン
 もちろん、人件費がかかっていると見える戦闘シーンは、時代錯誤そのものである。戦国ものの流用ではないとしても、さすがにいずれかのドラマの流用なのだろうが、まことにお粗末である。それにしても、これほど多数の兵隊が動員できたら、勝利を争わず和平/妥協すれば、多額の戦費が霧散し、兵は、農事に帰れるから、国は富むのである。

*無意味な鉄鏃
 実戦では、鉄鏃など、ほとんど無意味である。大抵の矢は的を外れるものであるから、数多く撃って当てるのが「勝ち」である。
 一戦を交えた後、死者の身体に食い込んだもの以外は、せっせと、矢を拾い集めたはずである。衆知であるが、山野で拾い集めた石塊をたたき割って作られる石鏃の殺傷能力は、しばしば粗製の鉄鏃を越え、ありふれた石鏃矢は内職で、格段に安上がりで豊作である。要は、数多く打てば当たるのであり、別に殺さなくても、手足に傷を負わせれば、敵は闘志を喪う。三世紀時点で鋼鉄甲冑は無く石鏃で十分とも言える。

 戦が負け戦で終われば、さっさと撤退するから、石矢は、ばらまかれたままで早晩忘れ去られたのである。

*渡来技術談義
 珍しく健全な常識を備えた方が登場して、墳墓施工は渡来技術起源としていて、奈良盆地内でも、特異地点である「纏向」遺跡で忽然と開始したと云うが、当時、そのような兆し/契機はない。いや、三世当時、纏向は「生きた国邑」であり、亡霊の徘徊する「遺跡」にはなっていなかった。もちろん、周辺の「唐古鍵」などは、纏向遺跡の一部ではない。

*伝統の版築工法
 ちなみに、「版築」工法は、遅くとも秦代以来の基礎技術/業界の常識であり、楽浪郡、帯方郡にも、土壁/石垣を備えた築城の技術として伝わっていたはずである。辺境に、郡治/郡太守のお城を築くには、不可欠な技術であるから、遅くとも、秦始皇帝が長城の東端の守りとして遼東郡を築いた時点には、東夷の境地にまで伝来していたはずである。つまり、遼東郡に、築城工兵部隊を常駐させていたはずである。何しろ、始皇帝が設けた官道は、二千年を超えた今日でも、版築の姿をとどめているのである。

 ついでに言うと、雒陽付近の土壌は黄土の一部と見え、適度の粘り気のあるものであり、また、特に多雨地帯でも無いので、内部に草の花粉などが少ないので、突き固めの版築が、既に千年近く施工されていたのである。
 知らないでいた専門家は、誇らしく「新説」を語っているが、後世に残る「迷言」とされるだけである。
 ちなみに、国内で眼に付くのは、戦国時代の築城術であり、整地/地固めの工程と石垣積みに土壁を築くものであり、長年継承された土木技術と見える。

                                未完

新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」  9/10 改頁

私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28

*幻の三世紀「ヤマト王権」
 以下、当然、卑弥呼の後裔として「ヤマト王権」を括りつけているが、無理の固まりである。考古学界の先人は、「発掘現場の考察を無理に文献や広域学説にくくりつけるな」と厳命していたはずである。
 「金属加工技術」と言うが、現実に存在したのは、青銅器の鋳造技術である。鍛冶屋さんの鍛鉄技術は、完全に別義である。ものの理屈を知らない人のどんぶり勘定は、ご勘弁いただきたい。

*明帝復活/面談の奇蹟
 今回、卑弥呼の高官が、曹魏皇帝と対立/対面して堂々と抗弁している様が描かれているが、そのようなことは、絶対に不可能である。先ずは、玉体に危害が及ぶことなど、到底、あってはならないのである。馬鹿馬鹿しい眺めであった。
 皇帝は、玉座に鎮座し、蛮夷のものは、遥か遙か隔たった、何段も低い場所から、許しを得て身辺の通詞に語りかけ、その言辞が随時伝言されて、皇帝の書記官が趣旨を解したとき、初めて、皇帝に簡牘によって言葉が伝わるのである。そもそも、臣下、さらには、蛮夷が、天子たる皇帝に直言など、絶対に許されない。いや、蛮夷昇殿は、それ自体が奇蹟なのである。
 そもそも、卑弥呼高官は、蛮夷「倭大夫」であって、人の言葉を知らないので、皇帝に通じる発言が一切できず、上申文書も、事前に国王の署名を得た国書を、書記官の許可を得て/通じて、検疫を受けて伝えるしかない。
 それにしても、瀕死の明帝がよみがえったのか、少帝が竹馬にでも乗ったのかギャグ連発で恐れ入る。いや、よくよく見ると、これは、御前会議などでは無く、玉座は空席であった。面目ない。

*ぶざまな乱行の連続
 全体に、各カットに金のかかるウソの固まりで呆れるしかない。
 NHKは、いつから、古代史番組の堅実な考証を棄てて、一部通説に奉仕する伝統的な「幇間(太鼓持ち)芸」に成り下がってしまったのであろうか。方針に沿わない堅物の古代史担当者は、地方局に出向したのだろうか。
 「科捜研の女」由来の人気取りとなると、「京都府警 土門薫警部」の次は、SRIの豪勢な科学捜査鑑定設備でも動員するのであろうか。

*秘められた戦略のリーク疑惑
 ついでながら、「「三国志」に秘められた卑弥呼のグローバル戦略とは」と、冒頭惹き句で大ぼけをかましているが、別に秘められているので無く、無かったから書いていないだけである。終生自室に引きこもっていた女王は、殊更に啓示されない限り、魏、呉、蜀の角逐など知るはずがないし、遠隔地に逼塞しているちんまりした国が、中原の抗争に干渉などできるわけがない。

 もちろん、厳重この上ない極秘事項であった「国家戦略」が、外部に「リーク」され、後年陳寿によって、中国に暴露されたのであれば、それは、まことに壮大な物語であるが、制作者が、そのような幻覚に襲われたのは、何か悪いものでも食べたのでは無いかと懸念されるのである。

 東呉孫権は、遼東公孫氏の口車に乗って援軍を送ろうとしたが、背かれて大軍を失ったものである。「倭人伝」は、そのような戯言と無関係の世界として書かれているのである。夢物語の愛好家は、薬物を断ち、顔を洗って目を覚まして欲しいものである。

                                未完

新・私の本棚 NHKBS「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」 10/10 改頁

私の見方 ☆☆☆☆☆ 果てし無い浪費の泥沼 底なしのてんてこ舞い 稚拙な弥縫の流沙 2024/03/18, 03/28

*「グローバル」幻想
 「グローバル」(地球的の意味か?)という「天下」は、二千年後世の東夷の辞書に載っているカタカナ言葉なのだろうが、古代人どころか、現代人すら、適格に理解していないのではないか。
 三世紀当時の知識人の意識に於いては、あくまで、当人の棲息する/知りうる「井戸」の中の地域的、ローカル、プライベイトな「小宇宙」であり、その外の「外界」のことは、時代を越えてあらゆる人が「知り得ない」ものと認識していたのである。

*魚豢「魏略」西戎伝の世界観
 このあたり、陳寿「三国志」魏志第三十巻末尾に裴松之が補追した魚豢「魏略」西戎伝は、「倭人伝」二千字を超える大部の小伝であるが、魚豢の労作が、公式に上程された証左として、巻末に「評」が提示されている。(筑摩書房 筑摩世界古典文学全集24C 三国志 今鷹真訳)

 魚豢(『魏略』の著者)が議していう。庭中の池にとじこめられた魚は江海の広さを知らず、あしたに生まれ夕に死す蜉蝣は四季の気候を知ることがないといわれるが、それはなぜなのであろう。そうしたもののいる場所が狭く、その生命が短いからである。私はここに広く中国の外に広がる異民族や大秦に属する諸国を見わたしたのであるが、これだけでも盲人の目が直って自の前がひろびろと広がったようである。ましてや鄒衍が推定した大九州の世界や、大易(易経?)や太玄(太玄経〉が推算する世界の大きさは、これよりもさらにはるかに広いものなのである。牛の蹄のあとの水たまりの中にとじこめられ、また彰祖のような長寿をもたぬわれわれには、景きな風に乗って疾やかに天空を遊行し、神馬をかけて遐かな土地を観るよしもなく、ただいたずらに日月星辰をながめやって、思いを大地の八方の果てに飛ばすだけなのである。

 ぜひ、虚心に、味わって読んでいただきたいものである。

*遠隔の神がかり
 当時中国文字の精華である「文化」を一切知らない東夷が、そのような高度な概念を理解したはずは無い。陳寿のもとには、東夷の「考え」など届くはずは無く知り得なかったから、文字のかたちで書き置くなどできなかった。まして、有り得ない遠隔の神がかりで、地の果ての方の東夷の真意を知り得たとして、史官の筆で正史に潜ませることなど、到底できなかったのである。
 このような、子供じみた言葉錯誤に自己陶酔していては、多額の制作費をかけて視聴者を騙すことになる。NHKには、公共放送の使命感も、報道者としての倫理も良心もないのだろうか。

◯次回の「お楽しみ」
 以下、次回の大ぼら話、「古墳時代」以後の史談に続けるのであるが、おそらく、今回同様、国策に奉仕する内容だろうから、こじつけの堆(うずたか)い様が思いやられるのである。
 衷心から申し上げるが、ここで述べ立てた大嘘は、公共放送の記録として、百年先まで残るのである。専門家や研究者は、漠たるものであるから、それぞれの局面の台本担当、考証担当は、文化功労者に叙勲されるのであろうか。「悪名」は「無名」に勝ると、本当に信じているのだろうか。

                                以上

2024年3月27日 (水)

新・私の本棚 邪馬台国の会 第367回講演記録~大乱小論 1/3

                2018/04/29 2024/03/27
第367回 邪馬台国の会 1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史
私の見立て ★★☆☆☆ 当部分に限る

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 当ブログ記事は、安本美典氏主催「邪馬台国の会」が、概算で三〇年を越えて、ほぼ月例で開催している講演の記録紹介と批判である。当ブログで「批判」が論点否定でないのは、いつもの通りである。
 ここで取り上げたのは、「2倭国の大乱」の一部であり、別記事の「長大論」で取り上げた段落に続く部分である。

█後漢末、遼東には、公孫氏が蟠踞(ばんきょ)していた
 当段落は、前段に丁寧に展開された卑弥呼長大論挿話に続いて、今回の講演の本題である「大乱」を描き出そうとしていると思われる。

 ことさら字数を費やして力説しているのは、倭人伝に書かれていない「大乱」を、それ以外の後世史書記録と風聞で綴り上げる「大技」を意識してと思われるが、論理の強さは、語勢の強さや字数の多さでなく、論拠の確かさ、論理展開の滑らかさにあるのではないかと思われる。

*段落総評
 総合して、当段落の論説は、不安定な論拠と不安定な論理展開に陥っているものと思われる。
 最大の弱点は、もっとも適確な記録と思われる「倭人伝」が記事に残していない「大乱」を、後漢書を起点としていても、総じて根拠不確かで、論理展開も不出来なためと思われる。

 また、「倭人伝」以外の部分の魏書記事を上げて状況証拠としているが、核心となる、寡黙な倭人伝を華麗に上書きする論拠を持たないものと思われる。
 憎まれるのを承知で言うと、「倭人伝」に『倭国「大乱」はなかった』と思われるのである。

*避けたい時代錯誤

 講演録の限界でもあるが、全体に元号抜きで、当時ローマで通用していたと思われる太陽暦とは言え、後世、六世紀にローマ暦紀年に変えて採用されたとされる西暦年を表記するのは、誤解を招く時代錯誤である。横着とみられても仕方ない。

 概念としての時代錯誤として「独立」がある。
 公孫氏は、中央政府の諸侯管理の崩壊で帰属先を無くしたのであって、今日言う意味での「独立」などせず、後に、曹操の元に安着した後漢献帝や禅譲を受けた魏帝に人質を送ったが、自身の皇帝拝謁は行わなかった程度である。漢の一官吏であった曹操が、帝国崩壊の瓦礫から残骸を拾い集めて帝国複製品(レプリカ)をでっち上げたが、慌てて平伏する必要もあるまいと様子見していたと思うべきである。

 文献記録の乏しい古代に対して、時代錯誤の概念を持ち込むのは、正確な時代観形成を疎外するように思われる。
 特に、専門知識の乏しい聴衆に、安直な時代観を刷り込むのは、感心しない。

                       未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第367回講演記録~大乱小論 2/3

                2018/04/29 2024/03/27
第367回 邪馬台国の会 1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史
私の見立て ★★☆☆☆ 当部分に限る

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*景初三年の怪 再説
 皇帝曹叡(明帝)の臨終の床での司馬懿謁見は、三国志全巻でも燦然としていて、明帝本紀記事でありながら、晋朝創業に繋がる吉兆として描かれているが、それにしても、帰還即日参上は誇張であり、数日前、つまり前年中に洛陽の自邸に帰着しているはずである。

 明帝享年混乱の一因は、明帝が没した月を、前年景初二年の「後の十二月」として、一月一日の命日を避けたことに起因した混乱にあるように思われる。当時の数え年齢では、景初二年没と景初三年没では、享年が一年違うのである。

 因みに、健在、病臥に拘わらず、皇帝が署名すれば、皇帝印を押した詔書は発行できるし、時には、皇帝署名無しでも詔書は発行できる。皇帝は「自然な」行いはできないのである。

*「翰苑」論 再説含む

 論拠とする史料「翰苑」の紹介が端折られているが、現存する世界唯一の写本は、全巻でなく写本残巻/断簡である。
 また、「翰苑」は、史書ではなく、当然、通史でもない。国家として編纂を進めたものではないから、帝室書庫の正史原本などを参照することはできなかった。確か、勅許のない民間人の史書編纂は、大罪であった。張楚金の編著がどのような位置付けで行われ、唐時代に写本継承され、どのような経緯で二世紀近い後年に雍公叡によって付注されたのか一切不明である。

 後年正史と認定された陳寿「三国志」や笵曄「後漢書」ですら、写本継承の経過が不明だから、一切信用できないと言いがかりを付けて得々としている論客があるくらいだから、「翰苑」の信用度は不明であり、また、「国内史料」は、異本、異稿との丹念な比較検証を経ないと、どこまで信用できるか不明ではないかと思われる。俗に言うように、「国内史料」の原本どころか、原本が、国家事業として継承維持されたとの史料は存在せず、また、現存写本が、地方社寺の非公式なものであることが明らかである以上、これら残存史料から、原本を復元することは、誰にもできないのである。

 「翰苑」記事が「はっきり」書かれていることを採用根拠としているが、現存断簡の文字を書いた人間が、写本の原本を書いたものではないから、いくら、後世東夷の無教養なものが「はっきり」記していると臆測しても、誤記は、確実に発生する。

 俗説の論法をまたしても拝借すると、古来、二と三との取り違いは珍しくもない。まして、「翰苑」残存写本断簡は、筆運びが華麗で字形が妖しく、素人目に明らかな誤字をしばしば堂々と書いているので、書かれている文字に、無条件だろうと条件付きであろうと、とにかく、の信を置くべきでは無いと思われる。写真版を見て頂ければ、明らかである。

*「翰苑」論の系譜 文献紹介
 翰苑論は、竹内理三氏の著書(「翰苑」 吉川弘文館)が嚆矢であり、史料全文写真版は唯一である。
 早い段階で考察を加えたのは、内藤湖南氏(研幾小録 舊鈔本翰苑に就きて「内藤湖南全集第七巻」)であり、後年、克明な論考を加えたのは、古田武彦氏(「邪馬一国への道標」第4章 十一歴代の倭都は「謎」ではないーー『翰苑』をめぐって)である。
 季刊「邪馬台国」誌の権威を思えば、随分不用意な議論に終わっているようである。
 素人のことで寡聞未見なだけで、諸論奮発していると思うが、世上には、子引き、孫引きか多いのでなかなか目につかない。

*補足 2024/03/27
*「翰苑」史料批判の不備
 学術的に論ずるなら、中国哲學書電子化計劃に収録されている《遼海叢書》本《翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本》で校訂済みの整然たる資料を参照すべきである。印影に見られる誤字乱調/乱丁の不備が、丁寧に校訂された整然たる活字本であって、例えば、誤解が広く出回っている「卑弥娥惑」は「卑弥妖惑」に適確に校正されている。古田武彦氏に先人ありである。
 いたずらに、「翰苑」を称揚するのでなく、厳密な史料批判を歴て、至上の史料である陳寿「三国志」魏志倭人伝と対峙しうるものであるかどうか判断するものではないかと思量する。

                       未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第367回講演記録~大乱小論 3/3

                2018/04/29 2024/03/27
第367回 邪馬台国の会 1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史
私の見立て ★★☆☆☆ 当部分に限る

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*後代史書論
 「梁書」は、「侯景の乱」で帝都建康が反乱軍により包囲され陥落し梁が壊滅した際と次代陳の亡国の際に散逸したと思われる南朝「梁史稿」を、在野史料などによって復活させたものであり、検証を経ずして正確さを言うべきものではない。

 因みに、公孫淵誅殺は、景初二年の出来事であり、引用しているような景初三年の事件ではない。魏明帝は景初三年元旦に逝去したのであり、万事、景初二年までに生起していたのである。
 また、遼東における公孫氏滅亡と遙か南方の帯方郡の魏朝帰属とそれに続く郡の倭国使節招聘の二つの事歴の時間的な前後は、陳寿「三国志」「魏志」に明記されていないので、あえて、史料として信頼性の乏しい梁書を起用したと思われるが、「梁書」編纂時の「魏志」解釈が正しいという保証はないと見る。
 「北史」は、史料の乏しい北朝諸国史を、正統の魏(北魏)を継いだと称する隋、唐以降の北朝系の史官が再構成したものと思う。北朝諸国は、東夷「倭国」との通交がなかったため、「東夷伝」「倭国伝」とすべき独自素材がなく、魏晋南朝の「東夷伝」「倭国伝」を流用したものと思われる。

*継承と改竄
 このように、「倭人伝」編纂時期から遙か後世の史書編纂に際して使用した史料の正確さ/不正確さを考えると、普通の解釈では、何れかの時点で、「倭人伝」記事引用資料に書き足し、ないしは、読替えによる改竄がされたということであり、それ以後は、代々帝室書庫に門外不出で所蔵されていた同時代原本と別に、そのように改竄された「通用史料」が継承されたということである。
 いかなる誤記、誤解、書き足しも、同時代原本と対照し校閲訂正しない限りは、そのまま継承されるが、そのような改竄内容は、遡って同時代原本に至ることは無い。

*公孫氏小伝 確認のみ
 次項を含めて、本件批判の背景にある個人的な意見(建安史観)を述べただけであり、他人に押しつける意図はない。
 公孫氏の遼東における自立について確認すると、建安九年(二百四年)に楽浪郡を支配下に収め、建安十二年(二百七年)に袁氏が滅亡して、曹操の支配が及んだが、河水以北を確保した曹操が、西方、南方の制圧を優先したので、服従している限り、討伐を受けることはなかった。

*曹操建安年紀 確認のみ
 曹操は、「単身同然で帝都長安を脱出して以来、流浪・窮乏の(後の)献帝」を君主として迎え、冀州の鄴を仮の
帝都とし、改元した建安元年(百九十六年)に、実質的君主となった。
 但し、一度崩壊した漢朝の権威は、曹操の武威をもってしても、直ちに全国の群雄に号令するに至らなかったため、以後も建安(天下泰平)の元号のもと、四半世紀に亘る天下平定の戦いが続いたのである。
 漢朝の名のもと、曹操は、抜きんでた勢力を確立し、建安十三年(二百八年)に漢の丞相に任じられ、以後、同十八年(二百十三年)魏公、同二十一年(二百十六年)魏王の栄誉を加えたが、同二十五年(二百二十年)に没するまで、漢朝を廃して新王朝を拓くことはなかったので、取り敢えず、漢帝国の紀元前二百二年(元号無し)以来、四百年余の伝統は保たれた。

                       完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第367回講演記録~惨状論 1/4

                   2018/05/01 2024/03/27
第367回 邪馬台国の会 1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史
私の見立て ☆☆☆☆☆  1.中国・後漢末の動乱の当部分に限る

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 当ブログ記事は、安本美典氏主催「邪馬台国の会」が、概算で三〇年を越えて、ほぼ月例で開催している講演の記録紹介と批判である。当ブログで「批判」が論点否定でないのは、いつもの通りである。
 講演会来場者がどのような感慨をもたれたかは、当方の知りうるところではないが、端的に言うと、この部分は安本氏の権威と品格に相応しくないものであり、サイトで公開するに適しないものと考える。想像力の豊かなかたは、PTSDなどの心理障害を避けるため、目や耳を塞いだ方が良いと思う。

 首掲サイト記事の講演会記録は筆者紹介がなく、主催者安本氏が書かれたとしている。失礼があればご容赦いただきたい。

█「思痛記」にみる惨状
日本の歴史では考えられないが、中国では戦乱などの混乱での殺戮は大規模で悲惨である。この2世紀の黄巾の乱の殺戮について詳細な記録は残っていないが、19世紀の太平天国の乱で、殺戮の惨状が書かれているので、参考に示す。

*異議提出
 いきなり、冒頭の釈明に異議がある。

1.国内史実の確認
 「日本の歴史では考えられない」と言い切っているが、「日本」の歴史、つまり七,八世紀以降に限るとしても、一度ならず大規模な殺戮があったのは衆知ではないか。話者は、考えられないのではなく、知らないだけである、と譏(そし)られかねない失言である。

 一つは、戦国時代末期、一向一揆の集団に対して行われた撲滅策であり、もう一つは、江戸時代の初期、天草、島原の一揆に対して行われた撲滅策である。

 いずれも、宗教集団側の身命を惜しまぬ不退転の団結と、天下平定の天命に従い、その徹底的な排除を進める攻撃側の強固な戦意が、不倶戴天の敵対を招いた不可避な事態である。

*一向一揆顛末
 戦国後期の一向一揆は、領主の統治の後退によって勢力を拡大し得た各地に設けた強力な出城を、多くの犠牲を払ったとは言え、悉く撲滅した武装集団(実名を出すと、織田信長指揮下の軍団であるが、以下、実名は避け、図式化する)の包囲攻撃に、石山本願寺を本拠とした未曾有の堅城で頑強な籠城策を採ったが、数年に亘る、執拗、かつ、頑強な攻勢を受け、信徒が悉く「殉教」する最悪の事態を避けるため、指導者(実名を出すと、顕如であるが、以下、実名は避け、図式化する)が、武装闘争を放棄し、自ら開城の上、全員退散する和平策を受け入れたため「最悪の事態」は避けられた、と素人なりに理解している。

                    未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第367回講演記録~惨状論 2/4

                   2018/05/01 2024/03/27
第367回 邪馬台国の会 1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史
私の見立て ☆☆☆☆☆  1.中国・後漢末の動乱の当部分に限る

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*仲裁の労
 その際、和平策を提示して仲裁の労をになったのは、辛うじて権威を保っていた天皇であり、それを両陣営が受け入れた故に、戦国時代の一翼を担っていた一向一揆は平定されたのである。そのような解決に至ったのは、武装集団が求めていたのは、宗教集団の無害化であって、殺戮では無かったからである。

 以上、何の権威も持たない素人の聞きかじりだから、史実の見方や言葉遣いが不穏当であるかも知れないが、かって、日本史上でも、大規模な殺戮の例があって、その一例は、仲裁によって平定されたことを指摘するのみである。

 当然、以上の見方に不審はあるだろうから、是非、安直な先入観や偏見、俗説にとらわれて言い飛ばすのではなく、ご自身で、じっくり考察を加えていただきたいものである。

2 「太乱」記録紹介の意義
 皮切りに続いて、延々と展開される「太平天国の乱」(「太乱」と略称)に関する資料紹介は、倭国古代史とは、時代背景がとてつもなく、途方もなく異なり、まったく古代史に関して参考にならないどころか、大きな誤解を招くので、大いに異議がある。
 
勝手な言いがかりと言われたくないので、以下、丁寧に説明する。

*「太乱」概括
 「太乱「は、たかだか二世紀前の近代の事件であるが、正史たる清史が書かれていないので、どんな視点で書かれた文献を「参考」資料として採用するか、厳重な検討、史料批判が必要であると考える。

 案ずるに(以下略)、「太乱」を起こしたのは、キリスト教の影響下に生まれた新興宗教集団であり、すでに二百年近く中国に君臨し、知識の導入には熱心であっても、危険極まりないキリスト教の国内布教を厳重に禁じていた清朝から見ると、そのような叛徒集団は、直ちに滅ぼすべき邪教勢力であったと思う。 

 太乱の主体は、古来の宗教観を、迷信、偶像崇拝とみて、布教に反抗するものに処刑を加えるものであるから、中華文明に背く邪教集団である。

*清朝概観
 かたや、清朝は、中国東北部の満州族が、先行する明朝の三世紀に亘る頑強な政権が内乱に討たれて崩壊したのに乗じて全土制覇した政権であり、異民族だが往年の元朝とは異なり、中華文明に忠実な正統政権として治める大義名分を得ていた。とは言え、元朝を創始した蒙古と清朝を創始した満州(文殊菩薩信仰から、自称したもの)は、農地に根ざしていない草原の民であり、中国などの城郭に立て籠もる勢力を退治するために、降服しない城市は、屠城を持って根絶やしにする一種「戦争」哲學を信奉していることを広く知らせ、清朝草創期に長城を超えて南征した際には、屠城の例を示しているが、以後、中華文明に即した「戦争」哲學に帰依したから、「太乱」期には、屠城は影を潜めていたのである。
 と言うことで、中華文明を破壊する邪教集団は、天下の敵であり、何としても撲滅しなければならない、と言う大義名分、主たる動機があった。
 そのような対決の際に、それぞれ、自身の行動を正当化するから、軍事行動の範疇を越える残酷な所業があったのは、確かなところであろう。
                       未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第367回講演記録~惨状論 3/4

          2018/05/01 2024/03/27
第367回 邪馬台国の会 1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史
私の見立て ☆☆☆☆☆  1.中国・後漢末の動乱の当部分に限る

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*「太乱」屠城
 「太乱」の暴挙の中には、幹部の一人が殺害された時に、報復として「屠城」、つまり、都市住民全員の殺害を行ったと記録されているが、太乱賊徒にしてみれば、正当な復讐、制裁であり、何ら良心の痛みは感じなかったと思われる。

*文書批判
 以下、「軍隊としての規律がとぼしい太平天国の賊徒」と前置きして、清朝御用達の反「太平天国」の視点で書かれた文書が引用されている
 歴史上の事実として、太乱は回天の志を遂げずに敗北したから、勝者たる清朝の戦後処理では、その行いを悉く貶めるのが急務であり、まとめられた文書は、事実の忠実な報告を意図したものでなく、「偏見」「曲筆」の精緻であるのは、自明と思う。

 まして、先に引用したような一方勢力に加担した前置き付きで、偏向したと想定される文書の内容を書き立てるのは、この通りに歴史に学べとばかりの偏った引用紹介であり、安本氏の講演として「絶対に」適さない。

*無用な偏見刷り込み
 と言うことで、ここに引用された太乱資料は、十九世紀の歴史上の事実を紹介するものとして不適切である。
 また、十九世紀史料は、二世紀の黄巾の乱の際の惨状を推定する参考として全く見当違いである。
 付け加えて言うと、二世紀の黄巾の乱と倭国の乱との関連も、不確かであると考える。 

 そのように、本件資料をもとにした史学的な考察が成り立たない可能性が極めて高い上に、このような資料は、聴衆にとって無用な残酷行為の描写が聴衆に、後々まで消しがたい深い悪心証を与え、加えて、聴衆に、「中国五千年を通じ、戦いに残酷行為が通り相場であった」という、歴史理解の邪魔になる有害な中国観を刷り込むものとなりかねない「有害資料」であり、その取り扱いに異議を禁じ得ない。

*暴言の波
 すでに、さる公共放送の番組で、さる(猿)ならぬ人のコメンテーターが、突然、弥生社会に乱入した「掠奪」主義が倭国の乱の原因であったと、幼児のごとく喚き出す態を示し、そういう安直な暴虐古代史観が、史学会に蔓延しているのではないかと懸念するのである。

*人口激減考察
 同時期の中国は、古代国家が確立されて久しく、全国くまなく戸籍が整備され、帝国の骨格となっていたが、漢末、中央政権が壊滅し、要地にあって地方鎮守する軍事拠点が、武力と資材備蓄を備えていたので、各地に紛争が生まれたのである。

 生じた広範囲の動乱は、動員農民が不在で、耕作物に対する飛蝗やネズミの大規模な被害を防ぐことができなかったための収穫喪失も含めて、人災としての飢饉を呼び、留守家族を含めた地域社会に大損害を与えた結果に至ったと思われる。

 人口十分の一は、ただごとでなく、実際にそうなれば、当該地域社会が崩壊し、生存者も程なく死に絶える。それこそ、県単位で地域社会が消滅したことであろう。

 案ずるに,そのような風評形成は、基礎となる地域戸籍の壊滅、地域戸籍集計不備による広域人口調査の劣化が主因と思われる。

 戸籍が捕捉できないと、税務としての食糧収集もできず、広く遠隔地にまで日々の食料を求めていた、つまり、到底食糧自給できない首都圏など帝国中核部の飢餓などで、人口額面通りの実害が出たとしても不思議ではない。

                                          未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第367回講演記録~惨状論 4/4

        2018/05/01 2024/03/27
第367回 邪馬台国の会 1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史
私の見立て ☆☆☆☆☆  1.中国・後漢末の動乱の当部分に限る

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*大量殺戮
 いやな言葉で、大量殺戮」と言うが、三世紀に行われた悪名高い曹操の「仇討ち」のように、強力な軍隊組織が、指揮官の厳命で取り組まない限り、組織的な軍事行動として持続されないと思うのである。まして、武装集団との戦闘では、双方に相応の死傷者が出るのが常識であり、一方的な「大量殺戮」は、不可能なのである。
 「太乱」(太平天国案件)に限らず、蜂起勢力にとって、地域社会は、勢力拡大の原動力であり、貴重な戦力を割いての収穫無き殺戮は考えられない。

 古来、他国侵略の際は、他国政権に重大な復旧負担を与えるために掠奪、暴行、虐殺が半ば許容されるが、将来自国に併呑すべき土地では、掠奪、暴行が、厳禁されるのが常道である。

*倭国概観
 以下は、個人的な、つまり、素人考えの考察であるが、三世紀に先行する倭国前代、村落に近い小規模なクニ(国邑)の散在状態と思われる。自然、近隣との交流が先にあって、婚姻などの親戚づきあいが生じたと思われるから、互いの喧嘩、諍いは、氏神の祭礼などでの駆け競べ、力比べにより勝敗を競い、様々な場で優先権を定め、戦いに至らない工夫がされたのではないかと思うものである。

 そもそも、武装と軍糧を備えた常備軍無しに全面戦争は不可能であるし、全面戦争に農民を大量動員して戦争を拡大すれば、広範囲で農耕が停滞し食糧生産が大不振に陥り、数年を経ずして深刻な飢餓がやってくるのである。全滅である。

 いや、戦闘を重ねるにつれて、双方に死傷者が増え、仇討ち、復讐、仕返しの激情が、止めどなく過熱化するのは、古代であっても、むしろ自然な成り行きと思われる。

 そのようなことは古代人にとって、自明であったから、戦いではなく折り合いが求められはずである。そうであったという証拠は無いが、全滅が発生しなかった以上、どこかで分別が働いていたのである。「倭人伝」では、卑弥呼が、在野時代、鬼道に事えて衆を惑わしていたと特に明記しているが、要するに、すくなくとも、参拝可能な周辺諸勢力によって「国邑を束ねる」と見なされていた氏神の至高の巫女であり、紛争の際には、託宣を下して仲介し、抗争を回避していたとみるのが、順当なところでは無いか。「倭人伝」に於いても、女王に服さないのは、狗奴国王だけが明記されていて、逆に、それ以外の諸国邑の和合したさまが読み取れるのである。

 今回、この項では、諸国分立状態では戦乱が「歴史の必然」とばかり長々と饒舌を振るわれているが、何のために、そこまで話題を迂回させて、後漢書にしか書かれていない「倭国大乱」を、広域戦乱と実証しようとしているのか、一向に見えてこない。

*無用の暴力的、猟奇的記述・表現
 なお、Wikipediaでは、一部、好ましくないと判断した記事、例えば、暴力的記事に対しては、冒頭に警告が付されている。「この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。」読者に、心の準備をする余裕を与え、読者に、忌避する選択肢を与えるものと思われる。

 今回の講演記録のこの部分では、「邪馬台国の会」の名声から期待される品格が損なわれるような、無用、かつ無効な「暴力的または猟奇的な記述・表現」が長々と述べられ、いたずらに聴衆の感性を攻撃して、学術的な講義としての意義を見いだせない。

 当世風の言い方に染まると、一種の学術的な聴衆虐待、「アカデミックハラスメント」ではないかと危惧される。

 一度、関係者の皆さんがじっくり考えて、ふさわしい対処をしていただければ、まことに幸いである。

                        完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第367回講演記録~長大論 1/3

                       2018/04/26 2024/03/27
第367回 邪馬台国の会
 1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史
私の見立て ★★★★★ 2倭国の大乱 の当部分に限る

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 当ブログ記事は、安本美典氏主催「邪馬台国の会」が、概算で三十年を越えて、ほぼ月例で開催している講演の記録紹介と批判である。当ブログで「批判」が論点否定でないのは、いつもの通りである。
 首掲サイト記事の講演会記録は筆者紹介がなく、主催者安本氏が書かれたとしている。失礼があればご容赦いただきたい。

■長大---長大(ひととなる)
『魏志倭人伝』につぎの文がある。
卑弥呼の年齢について述べた個所である。
「年、已(すで)に長大なれども、夫壻(ふせい)無し。」


 この文のなかの「年已(すで)に長大なれども」とはどういう意味であろう。なんとなく「おばあさんであるが」という意味のような印象を受ける。「おばあさん」とはいかないまでも、「年をとっても」などと翻訳されていることが多い。

 しかし、ここの「長大」はその上よな(ママ)意味ではない。「成人したけれども」あるいは「大人になったけれども」の意味である。それは、日本の古典の使用例からも、中国の文献の使用例からも、そう言える。


*明解・堅実な論考
 上記引用部に始まる安本氏の論考は、古代史学界の泰斗にふさわしく、論拠と論旨が明快であるので、このような明言をいただき感謝すること大である。
 まず、「」で、筑摩書房版三国志魏書の日本語訳を引用され、「定説」に対して、内外文献を根拠に合理的な「長大論」を展開される筆致は燦然たるものがある。
 「倭人伝」の「長大」の解釈を論じて、壮語を避け、着実に足場を踏み固めて論説する進め方は、論旨に同意できない方達も物書きとして大いに参考とすべきであると考える。

*豊富な古典用例
 私見では、日本の古典の用例は、後世資料であるので、参考でしかないと思うのだが、その執筆時点で継承されていた字義を示していて、数世紀遡った三世紀に典拠とされていた字義、すなわち、「長大」は、現代語でも言う「成人となる」(動詞表現)で使われていたとの用例解釈は尊重すべきである。当ブログ筆者が浅学の分野であるが、「論じ方」に賛成する。

*余言あり
 余計な素人考えかも知れないが、ここは、個別用例の学術的評価であるから、各用例の評価を怜悧に揺らさず、「文脈から、然々(しかじか)の意味で用いられていると見る」と揃えた方が、拙く(つたなく)見えても、一般読者が解釈に困らなくて良いのではないか。

                                                    未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第367回講演記録~長大論 2/3

                       2018/04/26 2024/03/27
第367回 邪馬台国の会
 1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史
私の見立て ★★★★★ 2倭国の大乱 の当部分に限る

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*余言2
 最後にあげられたのは、当ブログ筆者も検索・渉猟した中国史書用例であり、東夷伝で倭人伝に先立っている高句麗伝の用例に続いて、曹丕が帝位を継いだ西暦二百二十年、三十四歳の姿を「長大」と形容した例が示されていて、本用例については、当方からの考察を加えることができると考えた。

*呉書諸葛瑾伝
 この記事は、呉書諸葛瑾伝、即ち東呉孫権の重臣で、当時は呉王配下の左将軍の任にあり、東呉の建国と共に大将軍に上り詰めた諸葛瑾の伝の引用である。因みに、諸葛瑾は、三国鼎立時代前半に蜀漢宰相を務めた諸葛亮(孔明)の実兄として知られているが、政務に私情を交えなかったことで知られている。
 同記事は、諸葛左将軍の呉王孫権に対する進言を、東呉史官が「呉国史稿」に書き留めたものと思われ、東呉政権内部の言葉遣いそのままであって、三国志編者たる陳寿が、魏志記事に相応しい視点、用語で書き残したものではないと思われる。

*呉書と蜀書
 いや、予告無しの不意打ちで「呉国史稿」と呼んだ史料は、もちろん、実在のものではなく、東呉が、秦漢に続く国家としての呉を名乗り、皇帝を擁立した以上、必須とされる国志編纂史料を仮にそう呼んだのである。別に高度な史料でなく、後に、晋朝が発行した「起居註」のように、皇帝の日々の行動、発言を逐一記したものであり、史官が交替で君側に伺候して、ひたすら記録し続けるのである。

 陳寿の述懐として、蜀漢の国状は蜀漢に仕えて知っていたが、「漢の後継王朝と言いながら、先主劉備、後主劉禅の皇帝二代の君側に史官が伺候していなかったので、正確な記録が残っていないことを歎いていた」が、呉については何も言い残していないので、史官が編纂した「呉国史稿」は残されていたのであろう。
 ただし、諸侯王は、自国の史稿を残すことを許されないので、亡国の際に廃棄されただろうが、史官の生き残りにより、密かに呉書が書き綴られたのだろう。

*補追 2024/03/27
 当記事執筆時点では、認識不足であったが、陳寿「三国志」に収録されている「呉志」の韋昭伝に明記されている韋昭編纂の「呉書」が亡国の際に西晋皇帝に献納されたと明記されていて、「呉国史稿」が、「呉志」として「三国志」に収録されたと知ることができる。
 陳寿は、史官の務めとして、「呉志」は、三国鼎立時の東呉の領分に関する所定の公文書/史実は、晋朝公文書庫に皇帝御覽文書として所蔵されていた「呉書」に依拠し、天子ならぬ国主伝の態を整えただけで、細部に手を加えること無しに、上申したのであるから、「呉志」には、曹魏歴代君主であった曹操、曹丕、曹叡について、容赦ない形容が温存されている。
 就中、後漢建安年間、後漢宰相曹操が率いる官軍が、荊州討伐後に、余勢を駆って、東呉に対して服属を求めた際に、東呉孫権政権が敢然と対抗してこれを拒絶し、紛糾の後、漢軍が撤退したことが示されていて、曹操の面目を損なっているのだが、単に、撤退したことに留めていて、世上風聞のある「赤壁の戦」の漢軍大敗の惨状はかかれていないのである。ちなみに、この事件では「呉志」の記事が不徹底であるとして、裴松之は、「呉志」周瑜伝に、東呉関係者の喧伝である「江表伝」を補追しているのであるから、誠に華麗な「蛇足」が、麗々しく出回っているのである。

*進言の背景・真意
 思うに、この進言は、在位六年で没した文帝曹丕について語ったものではなく、後継の明帝曹叡(西暦二百二十六年)が二十一歳の若輩で、実母たる皇太后の後ろ盾は無く、先帝の兄弟は曹丕の邪魔にならないように、早々に政権から排除され、また、皇帝見習いとしてむしろ酷使されていた曹丕自身と異なって、洛陽政権から隔離、保護/温存されていたために自身の軍事、行政の実績が無く、従って武帝曹操、文帝曹丕以来の老臣の支持も乏しいという、まことに心細い曹魏皇帝の姿を評したものと思われる。
 重ねて言うが、陳寿「三国志」にあっても、「呉志」に関しては、陳寿が編纂した部分は僅少で、実質上、韋昭「呉書」を蹈襲したものであり、また、採用されている戸数、道里、郡制は、東呉のものであって、曹魏に報告/承認されたものではないことを正しく認識しないと、史料としての解釈を誤るものである。まして、「呉志」に裴松之が追補した史料は、陳寿の知り得ない内容であるので、魏志に対する史料批判の論拠として採用できないものである。

                                        未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第367回講演記録~長大論 3/3

                       2018/04/26 2024/03/27
第367回 邪馬台国の会
 1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史
私の見立て ★★★★★ 2倭国の大乱 の当部分に限る

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*天下三分の計
 当時、すでに五十歳の左将軍にしてみれば、自身の一回り下であって、「主君孫権の五歳下であって同世代後輩であり、三十四歳であっても曹操の元で軍功を積んでいた」曹魏文帝曹丕すら「若造」だったのに、新帝(明帝)曹叡は、孫権の二回り下で、軍功も何もない年端もいかぬ子供、幼帝ではないか、恐るるに足らず、と酷評したと思われる。
 進言の時点まで、孫権は、江東に君臨していたというものの、強大な魏に臣従して、長江上流に割拠する蜀漢との抗争を有利に進めようと帝位を称さずにいた。
 しかし、進言を受けて、天下を眺めると、非力な曹叡を頂く曹魏には、天下統一の威勢無しと見極めたのである。
 かくして、西暦二百二十九年、孫権は呉国を創立して、天子の座に就き、さらに蜀漢と和解して簒奪者曹魏を攻撃する姿勢を取ったと呉書は述べているようである。いわば、東呉版、天下三分の計であるが、三国三君鼎立でも、蜀漢先主劉備と比して、東呉国主孫権の評判は悪い上に、素人目には、蜀漢で先主亡き後の孤高の宰相であった実兄諸葛亮との対比で、諸葛謹は、一段と不利と見える。

*古田説への異論
 閑話休題。
 以上、論拠のない当て推量ばかりの余談が長引いてしまったが、当「呉書」記事は、そのような由来で書かれているのである。

 古田武彦氏は、三国志は、陳寿によって、統一した方針で編纂されたという見方をしていたため、いわば、当然の帰結として、「倭人伝」「長大」解釈の随一典拠として卑弥呼三十代説の用例として依拠したものである。

 しかし、以上、長々と講釈したように、当記事は、客観記事でなく、東呉が自立を正当化するために「作った」記事と解すべきであり、従って、諸葛瑾によって「長大」と形容された曹丕即位時の実年齢三十四歳自体は単に参考とすべきである。と言うのが、事「長大」に関する当ブログ筆者の頑固な古田説批判である。

*堅固な論説
 誤解されると困るので念押しすると、安本氏は、曹丕用例に特別な意義を見ず、国内史料考察を中心に着実、かつ柔軟に積み重ねて堅固な論拠を積み重ねているのは、揺るぎない末広がりの堅固さであり、論考姿勢としてまことに賢明と言える。

 古田氏を始め、古代史解釈において、素人受けする「ユーレカ」事例(アルキメデス気取り)や「コペルニクス」事例(「コペテン」)に肖る一発論説はしばしば目にするが、学問の世界は、着想が全てではなく、これを支える堅固な物証、論証の積み重ねに注目すべきである。発明王エジソン曰く、「発明で、発想は1パーセントに過ぎず、残りは全て汗にまみれる努力である」

 本記事における「長大」論展開は、目立たないが、安本氏畢生の偉業と考える。(迂遠な自画自賛とは自覚している)
 
                                        完

2024年3月26日 (火)

倭人伝随想 12 里数・日数の虚実について 1/3 更新

                          2019/01/10 2024/03/26
*加筆再掲の弁
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◯はじめに
 ここまでの当ブログの記事を振り返ると、「里数・日数の虚実」に付いて、念押しが不足しているようなので、念には念を入れます。

*「従郡至倭」の整合性
 ここまでに、「従郡至倭」が、「萬二千里」と「水行十日陸行一月」の二種の表現、つまり、道里と所要日数の二種で表示されていて、水行、陸行、ともに一日三百里でほぼ整合することを述べました。四十日掛ける三百里で万二千里という勘定です。
 つまり、総計計算の辻褄が合うように、具体的な里数や日数が書かれている(演出されている)ことになります。

*実測説の否定
 これは、魏使の実際の行程が反映されているとの仮説を否定するものです。
 途端に、これは「虚像」で、史実、つまり「実像」を述べていないウソとの非難が想定されます。しかし、これは、幾つかの意味で不当な非難です。

*里数・日数の目的

 里数、日数は、郡倭間の通信日数を定めるものであり、責任者を処断すべき厳格必達の規定です。郡太守の「首」がかかるのです。中央政府は当然、関係者が保身のために(過度に)規定を甘くする事は認めないので、誇張や嘘は、度を過ごせば厳罰対象です。つまり、保身と厳正さを両立させるのが、日数、里数記事であり、不確かかも知れない里数を織り込んだ数字は、立派な記事なのです。

□虚実の混じった話
*虚像の効用

 良く言われる「虚像」とは、光学的に言うなら目に映る姿であり、人の世は、目に映る姿に反応しているから、実際上精確な姿なのです。そして、手に触れて実感できる限り、何も不合理なことはないのです。

*実像の効用
 「実像」は、光学的に言うと、像の場所に白紙を置けば、画像が表示される状態で、大抵、「実像」は天地逆、倒立です。正確であっても、天地逆なので、倒立実像を見る眼鏡は、実生活で着用できないのです。

 因みに、「実像」でなければ「見えている」ものの姿を感知できないので、「虚像」でないのは明らかです。網膜に映し出されている倒立実像を、脳が天地逆転して理解するので、実生活に支障が無いのです。

*廃語の勧め
 「実像と虚像」に含まれる価値判断は、長年比喩として通用しているから、今更訂正できないという見方もあるでしょうが、れほど不合理な比喩は、現世代の責任で、後世に引き継ぐことなく、廃語としたいものです。

                                未完

倭人伝随想 12 里数・日数の虚実について 2/3 更新

                     2019/01/10  2019/01/13 2024/03/26
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*実測値の不確かさ/無意味さ
 光学的な蘊蓄は別として、実際の里数、日数を精確に測定、測量できたとしても、それを「実像」と称して、そのまま報告するのは愚行です。

 現実世界の測定、測量は、「実像」と言っても、必ず、一定の不確かさ(「誤差」と言うと、何か間違いのことと「誤解」されるが)を伴っていて、厳正な法規定の限界値にそのまま採り入れると一種の錯誤となります。

 限界値に余裕を見るも、何も、まずは、絶対的な基準とすべき、頼りになる平均値を得るには、旅行者を変え、移動手段を変え、季節、天候も含めた諸条件を変えた多様な状況で測定して多数の「実像」を得る必要があるのですが、そのような無意味な手間は、全く想定されていないのです。

*虚像史官
 と言うことで、倭人伝の里数、日数は、まずは、帯方郡の原資料にもとづき、誰かによって演出された、見栄えのする、そして、誰もが命をかけられる「虚像」(虚構、フィクション)であり、三国志編者である陳寿は、『伝統的に演出された史実という名の「虚像」を至上のものとして尊重する/殉ずる』という史官の務めに即していて、意味/意義の無い「実像」追求などしていないのです。

*西方道里の当否
 言うならば、晋書地理志に代表される諸書に記録されている西方諸国の道里、つまり里数記事も、同様の背景から、必ずしも、実測値でないと思われるのですが、当方には実証できないので、憶測としておきます。(里制が違う可能性もあるので、簡単に比較できないのですが) と、一度は手早く論議を閉めたのですが、簡単に書き過ぎたようなので、言葉を足します。

 つまり、大変な「大遠距離」の形容として「萬里」という常套句が普通のものとなった後、更に大変な「大々遠距離」という表現として設定されたのが、「萬二千里」ではなかったかという事です。(西域の萬二千里と同じ道里とは限らないのが、議論の歯切れの悪い原因です)

 もちろん、百里程度の里程であれば、縄でも引いて実測できたでしょうし、千里程度も、数百里程度の実測里数を積み重ねて計算できたでしょうが、「萬里」や「萬二千里」は、概数でしか捉えられない別世界の数字であり、とても道里を実測できるものではなく、詩的な修辞句、つまり、虚構ではなかったかと思うのです。

*総里数の起源
 してみると、倭人伝の里数は、まず、大々遠距離である「萬二千里」を総里数と見立てて、そこから、半島内官道の実測道里の可能性が高い「七千里」を引き、更に、三度の渡海は、どう工夫しても道里が測定できないから、それぞれ、数日がかりの陸行になぞらえた「千里」水行を三度と見て、計「三千里」を引いて、最後に二千里が残ったものの、これには実測の裏付けはなく、従って、残る区間の道里を、里数でも所要日数でも、表現されなかったと見るのです。

                               未完

倭人伝随想 12 里数・日数の虚実について 3/3 更新

                          2019/01/13 2024/03/26

*加筆再掲の弁
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*倭人伝原資料(仮称)
 「倭人伝原資料」は、帯方郡、ひょっとするとその母体であった楽浪郡の実務担当者が書き起こしたものと推定され、遼東郡健在時は、公孫氏のもとに上程されていたのですが、公孫氏は、天子気取りで、零落した後漢朝に上申することも無く、公孫「天子」の史官がまとめていたのでしょう。当然、後漢朝史官の視点でなく、実務的道里が書かれていたかも知れませんが、「魏略」魚豢ないしは「魏志」陳寿が、国史にそのような実像を書いても、中原の読者が現地の「地図」を思い描けないので、史官の「常道」に従い虚像を書いたのでしょう。そして、常道として、班固「漢書」の西域道里「表現」を踏襲したものと見るのです。

 これは、世に言う曲筆、改竄、誇張のいずれにも該当しない、堂々たる史官の筆法なのです。いや、二千年後世の無教養な東夷が、「史官」の筆法を誹るなど、罰当たりなのですが、それが分かっていたら「無教養な東夷」などと罵倒されずにすんでいるのです。

*隠された史料伝達
 ちなみに、公孫氏時代の「倭人」関係史料は、司馬懿の遼東殲滅の際に灰塵に帰したのであり、景初初年に、魏明帝の特命を受けた毋丘儉が任用した新任太守が、無血で回収した楽浪/帯方郡に所蔵されていた郡志の控えを上程したために、雒陽の関係部局に届いたとは言え、後に、司馬氏に背いて族滅された毋丘儉の功績を隠滅するために、明記されなかったので、正史の字面をいくら発掘しても出てこないのです。

 ついでに言うと、「倭人伝原資料」(仮称)は、後漢献帝の建安年間に起草されたとは言え、曹魏明帝の治世になって、初めて開示されたので、後漢公文書には収蔵されず、従って、笵曄が、先行する諸家の後漢書を下敷きに、笵曄「後漢書」を編纂した際には、所引するのを憚ったと見えます。笵曄は、史官としての訓練を受けたわけでは無いのですが、史官として恥となるあからさまな剽窃はできなかったと見えます。
 又、東晋の司馬彪「続漢書」「郡国志」の編纂の際に、後漢献帝建安年間の事例とは言え、遼東郡時代の帯方郡創設の文書が参照できなかったため、唐代になって、范曄「後漢書」に司馬彪「続漢書」「郡国志」を収納したとは言え、そこに楽浪郡-帯方縣と書かれていても、帯方郡は存在せず、従って、雒陽から楽浪郡に到る公式道里は書かれていても、帯方郡に到る公式道里は書かれていないのです。
 従って、「倭人伝」で言う「従郡至倭」の道里は、所在不明の帯方郡を基点とするものではないのは明らかです。
 世上、陳寿「三国志」魏志に「西域伝」が欠けているのに対する非難めいた発言が漂っていますが、魏代西域に天子の威勢を示していなかった史実を隠蔽するのは当然であり、「東夷伝」にしても、「倭人」に関する史料が断片散在状態では、陳寿としても、薄氷を踏む思いで編纂の筆を凝らしたのは明らかです。

*緩い推定
 それはさておき、以上のような緩い推定は、「倭人伝」道里に堅固な実像を求める論者にしてみれば、大変不満でしょうが、当ブログでの最近の論議は、以上のような理路に従って推察したものです。

 くれぐれも、現代技術で得られる道里や後世法制から推定される日数計算の精密な、しかし、虚構の数字を、倭人伝記事の「実像」と主張されないようにお願いします。古代人は、根拠が確かでない「実像」記事の危うさを熟知していたのです。

*曖昧談義の念押し
 以上で、不確かさを盛り込んだのは、あくまで、「精確さを求められない」東夷、特に「倭人」の話であり、別項で論じた戸数の不確かさも、同様の事情によるものです。

 一方、帝国内の諸郡国には、管下の戸数、口数を、一戸単位で謬りなく報告する任務があり、地理志等には、そのような精密な集計が報告されています。一桁単位の計算しかできない「算木」で、一戸単位から始まり万万(億)に及ぶ桁数の計算は、至難の極みですが、読み書き計算に熟練した官吏を無数に揃えれば、何人・日かかろうと、郡国としての責務を果たしたので、つまり、不可能でないので、実行されたと見えます。

 しかし、それは、あくまで、郡の統制が健在で、精確な戸籍が記録されているのが前提であり、両郡が高句麗、百済の圧力によって統率力を失った際の戸数、口数は、漠たる概数として房玄齢「晋書」地理志に記録されているのです。

 と言っても、程なく、両郡は高句麗/百済の支配下に入って滅亡し、太守は職を失って逃亡したので処罰の仕様がないのです。また、曹操が再建した帝国内文書伝送の厳格化は、次第に形骸化し、おそらく、晋朝には引き継がれなかったのでしょう。

*曖昧論のお勧め
 以上、ここまで折に触れて書いてきたように、倭人伝の「時代相応、地域相応の曖昧さ」を理解いただきたいというお勧めです
 以下、改めて再論することはないと思うので、当ブログの筆法として承知いただきたいものです。

                               以上

2024年3月25日 (月)

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 1/3 総論 三訂

          2021/03/08 補充2021/09/15 2023/06/12 2024/03/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに
 当記事で論じているのは、范曄「後漢書」の史料批判にあたって、編者范曄が、原典史料にどのような編集を加えたか、推定するということである。そのために、後漢献帝期の著名人であった孔融の「伝」をどのようにまとめたか、同時代を記録した他の史書と比較したものである。

 孔融は、聖人孔子の子孫の中でも、同時代では、随一の位置付けであった。名門、名家の中でも、格別の偉材であった。

 范曄「後漢書」は、列伝において「孔融」伝を立てている。袁宏「後漢紀」は、列伝を持たないが、献帝紀に孔融が処刑されたとの記事を書くに際して、孔融の小伝を書き起こしている。それぞれ、孔融なる偉才に、伝記を書き残す価値があるとみたことがわかる。因みに、袁宏「後漢紀」は、東晋期に編纂されたものであり、范曄「後漢書」に先行している。
 范曄「後漢書」編纂時に、袁宏「後漢紀」が 参照されたことは確実である。

 一方、陳寿「三国志」「魏志」は、「孔融」伝を持たない。つまり、陳寿は、「孔融は著名人であったが、伝を立てるに及ばない」と見たものと思われる。これに対して、裴松之は、「魏志」崔琰伝に司馬彪「續漢書」から引用、付注 している。
 つまり、南朝劉宋の時代の視点で、魏志に孔融伝がないのは、欠落と見なされていたので、衆望に応えて補完したとみられるが、「魏志」に「孔融伝」を追加すると改竄になるので、「崔琰伝」に補注する形式を採用したとみられる。つまり、「魏志」は改変されていないのである。
 言うまでもないが、裴松之の補注、裴注は、陳寿の編纂したものではないので、陳寿「三国志」の史料批判に起用することはできない。参考になるとすれば、司馬彪「續漢書」の孔融記事は、陳寿が否決したものなのである。
 范曄「後漢書」編纂時に、司馬彪「續漢書」が参照されたことは確実である。

 素人読者が范曄「後漢書」孔融伝を通読して感じるのだが、笵曄は、先行する諸家「後漢書」を熟読した上で、自身の文筆家としての沽券にかけて、熱意を持って執筆したことは確実である。その際、江南圏教養人には、周秦漢の中原で通用していた古代語、古典用語が、十分理解できないと見て、随分手心を加えたと思われる。范曄「後漢書」が、唐代に流麗な文章と賞賛された由縁と思われる。

 以下、范曄「後漢書」の特徴を示すと思われる用例を見出して、用語、構文を対照する。因みに、袁宏「後漢紀」の該当部は、日本語訳が刊行されているので参考にした。陳寿「三国志」魏志の該当部分は、筑摩書房刊の『正史「三国志」』所収の日本語訳を参考にした。
 また、当記事は、笵曄の筆の冴えを賞味することにあるので、續漢書、後漢紀が、原資料/史実に忠実な、保守的なものとして、それを基準に、范曄「後漢書」の用語を批判している。

〇用語、文例比較
*十余歳~十歳
 范曄「後漢書」は、まずは、原史料の「十余歳」を「十歳」としている。
 つまり、笵曄は、年齢表記で「余」概数を避けたのである。今日でも、中国古代史書の語法を解しない人は、「十余」歳を、本来の七,八歳から十二,三歳程度の範囲と見ないで、十歳から十五歳までの範囲と解釈(誤解)する人が大変多いから、誤解を避けて賢明である。 
 言うまでもなく、十歳は、キッチリ十歳という断言でなく、八歳から十二歳程度としても、孔融は後に十三歳で父を亡くしたとあるので、整数ないしは所数で十歳とした方が字面が滑らかである。どのみち、孔融が、一歳単位まで正確に何歳であったかは、全く重要ではない。
 なお、中原では、太古以来、戸籍が整備されていたから、およそ、子供に正式に「命名」する程の名家では、それぞれの子供の名前と年齢は、確実に知られていたのである。
 言うまでもないが、当時は、日本で言う「数え」年齢であるから、現代風に「満」年齢と見ると、一,二歳若くなるのである。
 当時、現代の日本のように小学校はなかったし、どの道、四月から学年開始するのではないが、まあ、今日で言う、小学生高学年か、という程度である。

*周旋~「恩舊」(古い付き合い)
 当記事の筋書きでは、孔融少年が、しかるべき紹介者を通じてではなく、一介の無名人として河南尹李膺に面会を申し込んだのに対して、当然、門前払いになるところを、気の効いた口上でしゃしゃり出たのである。(偉人伝の冒頭を飾る挿話である)

 李姓の李膺は、少年の口上で、老子「李耳」の末裔と扱われて気を良くしたので、孔子「孔丘」の子孫孔融との両家交流を、あっさり認めている。つまり、紹介者の要らない旧知の間柄と強弁したのである。

 ここで、原史料に見られる「周旋」は、古典用語であるため、当時の教養人に理解されない可能性があるので、笵曄は、「恩舊」(古い付き合い)と言い換えた。普通、周旋とは、二地点、あるいは、両家の間の交遊、往来という意味なのである。
 ここでは、正体不明の領域をぐるぐる巡るという意味でないことは確かである。

*長大~(言い換え放棄)
 「高明長大、必為偉器」でも、同時代人に「長大」は理解されない可能性があると見たようだが、適当な言い換えが見つからないで省略したようである。大差ないとも言えるが、「この小僧、成人すれば、大物になるぞ」の意味が消されている。
 因みに、「長大」は、陳寿「魏志」「倭人伝」にも見られる表現であるが、二千年を経た現代中国語にも伝えられていて、さらには、東夷世界でも、現代の有力辞書である「辞海」(三省堂)にも収録されているから、日本でも、教養人の語彙として継承されているようである。
 当時成人が十八歳とすると、十余歳は「数年中」となるので、ぼかしたのだろうか。「末恐ろしい」というには、微妙である。
 また、今日に至るまで、「長大」に老齢の意味は見られないように思う。

*早熟談義~笵曄の本領
 笵曄の真骨頂は、『陳煒後至,曰「夫人小而聰了,大未必奇。」』、つまり、「小才の利いた子供は、大抵、大した大人にならないものだ」と評されて、すかさずこたえた名セリフを「書き換えている」所にある。

 先行史料は、「さぞかし早熟だったのでしょうね」と激しく切り返しているが、笵曄は「お話を聞くと、高明なる貴兄は、神童ではなかったのですね」(觀君所言,將不早惠乎) とやんわりこなしている。「早恵」は、同音の「早慧」と同義で、早熟の意味であるが、ここでは、「不早惠」と否定されているので、後漢紀、續漢書と逆の意味であると思う。つまり、神童などではなく長じて智者になったという尊敬の趣旨である。

 本来は、孔融が生意気な皮肉で高名な官人に反駁したことになっていたが、笵曄は、衆人の前で高官の面子を潰したら「ただで済まない」から、如才のない受け答えをしたはずだと解したのである。

 孔融は、晩年、献帝の建安年間、時の最高権力者曹操に楯突いて、きつい諫言を度々奏したため、遂に刑死しているから、巷では、少年時代の毒舌伝説と語られても、当時河南尹の李膺が、生意気な子供の肩を持って賓客の顔を潰すはずはないと言う、賢明な解釈を採用しているのである。

 笵曄は、「不」の一字で毒消しし、李膺は、孔融少年の爪を隠すことを知っている才覚に感嘆したとしている。話の筋は滑らかであるが、史料に忠実でなく創作である。笵曄の「本領」とは、そういう意味もこめたのである。

*陳寿の孔融観
 因みに、三国志の孔融関連記事は、むしろ乏しい。
 陳寿「三国志」魏志「太祖本紀」(曹操本紀)では、時に、高官としての行状/言行が語られるが、最後は、先に書いたように、時の権力者曹操に、しばしば反抗したとして、誅殺、族滅の憂き目に遭っている。孔子の子孫であり随分高名でありながら、陳寿「三国志」魏志に列伝はない。
 陳寿「三国志」魏志の孔融記事は、大半が裴注によるものであり、子供まで連座して孔融の家系は絶えていたから、裴松之が、孔子子孫の孔融を殺したのは曹操の大失態との「世評」にこたえて、十分に補追したようである。と言って、このように補注されるように、敢えて「孔融伝」を採用しなかったのは、陳寿の見識を示すものであり、また、裴松之は、決して陳寿を誹っているのでは無いのである。

 孔融十歳時の逸話は、「魏志」崔琰伝に司馬彪「續漢書」が付注されていたので、袁宏「後漢紀」、笵曄「後漢書」と比較したが、陳寿が認めた記事ではない。
 むしろ、陳寿が、「魏志」に無用として排除した一連の孔融記事の中でも、最悪と見なしていた記事と思えるのである。

 このような扱いに、陳寿の史官としての判断が厳然と示されているのである。「孔融伝」を立てると、不本意な記事も、加筆、訂正できないまま収録することになるから、陳寿の史官としての志(こころざし)が曲がるのである。もちろん、陳寿は儒教を信奉していたわけではないし、曹操も同様である。と言うことで、陳寿は、孔融の記事を「割愛」したのである。

*不本意な引用
 結局、陳寿「三国志」魏志に孔融伝は無いにもかかわらず、世上の孔融神童(異童子)挿話に、「三国志」本文ならともかく、裴注記事が引用されているのは、割愛した陳壽の身になっても、労作を物した笵曄の身になっても、大変不本意であり勿体ないことだと思うのである。

*范曄の「脱史官」宣言
 総じて、司馬彪「續漢書」と袁宏「後漢紀」の書きぶりには大差がない。古来の史官は、忠実な引用を旨としていたためと思われる。
 そして、范曄「後漢書」は、陳寿「三国志」が提起した確実に歴史を語る」という提言を離れて、また別の一つの正史像を示したものである。

                                未完

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 2/3 対照篇 三訂

          2021/03/08 補充2021/09/15 2023/06/12 2024/03/25

*加筆再掲の弁
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*原典史料出典 中国哲學書電子化計劃 維基文庫
〇史料対照篇
 「中国哲學書電子化計劃」及び「維基文庫」による
 笵曄「後漢書」「孔融列伝」。司馬彪「續漢書」は、陳寿「三国志」「魏志」崔琰伝の裴注に収録。袁宏「後漢紀」考献帝紀・
【後漢書】孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
【後漢紀】融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
【續漢書】融,孔子二十世孫也。

【後漢書】融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。
【後漢紀】幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。
【續漢書】融幼有異才。融年十餘歲,

【後漢書】時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。
【後漢紀】時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。
【續漢書】時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。

【後漢書】融欲觀其人,故造膺門。語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
【後漢紀】融欲觀其為人,遂造膺門,曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
【續漢書】欲觀其為人,遂造膺門,語門者曰:「我,李君通家子孫也。」

【後漢書】問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
【後漢紀】曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
【續漢書】膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」

【後漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
【後漢紀】融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆[僕]累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
【續漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義、而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」

【後漢書】太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
【後漢紀】太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。[煒]曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
【續漢書】太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」

【後漢書】融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
【後漢紀】融曰:「如足下幼時豈嘗〔常〕惠乎?」
【續漢書】融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」

【後漢書】膺大笑曰:「高明必為偉器。」
【後漢紀】膺大笑,謂融曰:「高明長大、必為偉器。」
【續漢書】膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」

【後漢書】年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
【後漢紀】年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。
【續漢書】該当記事なし

                    未完          

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 3/3 原典篇 三訂

          2021/03/08 補充2021/09/15 2023/06/12 2024/03/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*原典史料出典 中国哲學書電子化計劃 維基文庫

 下線、太字は、当ブログにて付加

范曄「後漢書」鄭孔荀列伝

孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
七世祖霸,為元帝師,位至侍中。父宙,太山都尉。
融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。融欲觀其人,故造膺門。
語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
膺大笑曰:「高明必為偉器。」
年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
性好學,博涉多該覽。

袁宏「後漢紀」卷三十 孝獻皇帝紀 建安十三年

融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。融欲觀其為人,遂造膺門,
曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
融曰:「如足下幼時豈嘗惠乎?」
膺大笑,謂融曰:「高明長大必為偉器。」
年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。

 司馬彪「續漢書」:「魏志」崔琰傳 裴松之付注

融,孔子二十世孫也。高祖父尚,鉅鹿太守。父宙,太山都尉。
融幼有異才。
時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。
融年十餘歲,欲觀其為人,遂造膺門,
語門者曰:「我,李君通家子孫也。」
膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」
融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」
膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」 

                                以上

2024年3月24日 (日)

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 1/6 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝(倭条)は虚構濃厚  初出 2020/02/17 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
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〇逐条審議ということ
 当記事は、後漢書倭伝記事批判において、まずは、正史の中核三史の掉尾を為す後漢書との視点から、手早く審議していくものです。

【倭在】 以下、参照の便に供するために冒頭二字を条題としています。
倭在韓東南、大海中依、山島為居,凡百餘國。
大意:倭は、韓の東南に在る。大海中に依り、山島居を為す。百国程度ある。

*時代観
 韓伝に続いて後漢朝末期の「現状」と思われます。歴史背景と地理情報で説き起こす韓伝と異なり、唐突で根拠不明です。
 漢書に至る先行史書には「倭」伝、ないし、条が登場していないから、ここが初出の詳解であり、この書き出しは史書条として唐突の感を免れません。
 朝鮮半島に韓が成立したのは、漢武の楽浪郡設置後であり、断り無く時代が前後しているのは不用意です。と言うものの韓伝には、武帝の朝鮮討伐の故事はなく、依然として説明不足です。
 別解は、倭在韓東南大海中依山島為居。凡百餘國。
 つまり、「倭は、韓の東南大海中にあり、山島により居を為す」と読めば、「倭は、韓の向こうの大海中の山島に在る」であり、幾分筋が通って見えます。

*地理観
●韓地地理情報
 脇道ですが、韓伝地理観は、その時点の形勢を整然明解としています。

 三韓同居の韓地は、地勢で東西二分され、西方は、馬韓が占め、北方は楽浪郡と接し、南方は倭と接します。東方は、辰韓があり北方は濊と接します。すなわち、楽浪郡は、韓地北方の西方のみであり、東方には濊が在ります。これは、半島中央部の東方寄りに山塊がある地理を反映しています。

 三韓最後の弁辰は、辰韓の南方であり、その南方で倭と接します。すなわち、倭は、韓地の南方にあって弁辰と接しています。

 以上は、笵曄の理解であり、誠に単純明快です。また、韓地は東西「海」と明解です。南の「倭」が、何者でどのような地理にあるか、韓伝に書かれていません。書かれていないことに先入観は禁物です。
 ただし、特に倭の事情を書いていない以上、この倭は、直後の「倭」であるから倭として一体で地続きと解するのが順当です。つまり、笵曄は、そのように読者が解するように書いているのです。

●漢書地理志談義
 漢書地理志の「倭」関連は燕地記事ですが、「樂浪海中有倭人,分為百餘國」とあり、「倭人」は、樂浪海、すなわち楽浪西の黄海を隔てた山東半島方面とも読めます。
 当記事は、西漢、つまり、長安帝都時の土地勘がない帝室史官が書いたため不明確になったと思えます。当記事では倭人への道は方向不明です。

 最後に、唐代顔師古の付注(641年(貞観15年))で「師古曰 今猶有倭國 魏略云 倭在帶方東南大海中 依山島爲國 度海千里 復有國 皆倭種」
 今、つまり、唐代に倭国はあるとした後に、魏略により「倭在帯方東南大海中..」と書いています。顔師古注は後世ですが、魏略自体は、魏志とほぼ同時代の編纂なので、笵曄の知識となっていたも思われます。「倭国」と称したのは、東晋以降のようですが、范曄が倭をどう呼んだかは不確かです。

 まずは、漢書編者の手元に「倭」の所在、素性を示す地理情報がなかったと見えます。先に書いたように、次項で武帝の朝鮮征覇が書かれていますから、時代が前後しますが、漢武帝による楽浪郡創設前、長安が「倭人」の詳細な情報を得ていたとは思えません。情報源は、蛮夷の上申ですが、朝鮮が健在な間は朝鮮王の手元にとどまり、燕に属した遼東郡太守の地方官の手元に倭人情報は届いていなかったのでしょう。

                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 2/6 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝(倭条)は虚構濃厚  初出 2020/02/17 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

●黄海渡海談義

 因みに、漢書に詳解されている武帝の朝鮮征覇は、山東半島から黄海を渡って朝鮮王都を攻撃した渡海部隊が書かれていて、当時、この経路が航行容易であったため、大船を造船して、大軍の輸送に動員することができたと思われます。この間は、精々二、三日の行程であり、特に難所がないことから、大船というものの、当時市糴に採用されていた帆走船舶で対応できたと思われます。つまり、周辺に造船所があったはずであり、新規の設計は不要であったことから、皇帝の号令一下、短期間で造船できたとみるのです。また、市糴で便船が往来していたということは、新規造船にも海域に通じた船員が起用できたということです。
 後漢代の航行記録が乏しいのですが、山東半島の青州東莱からの行路として、遼東半島に至る経路とともに、帯方郡治の海津に到る経路と更に漢江河口部を避けて南方の後世唐津(タンジン)と呼ばれた海津に到る経路が並行して起用されていたと見えます。後者は、後漢書にことさら示された馬韓伯済国(後、つまり、劉宋時の百済)が海上交易を営むに到ったと見えます。
 但し、西晋が滅び、中原が北方民族の支配下に墜ちたとき、山島半島周辺の青州が北方民族の支配下にあっては、東晋、南朝諸国の勢力下を離れたため、そのような交易は低迷した可能性があります。
 なお、その際、洛陽有司が百済に亡命し、新興国家の体制構築に大いに貢献したと伝えられています。

●冒頭条解釈
 本条を、唐代刊本の句読点に従い読むと、韓の東南の大海と進みそうですが、冒頭句の要件は、「倭」の所在を明らかにするので、「韓の東南」と読まねばなりません。独断で「倭」主語の後に四字句連続としました。
 ただし、「韓」つまり三韓全体の国主の所在が不明確なので、東南方向という起点が不明です。何とも、不用意であり、史官の筆致であれば、後漢朝を通じ存在した楽浪の東南とすべきです。

●大海談義
 魏略「西戎伝」に延々と収録されている後漢朝西域記事で、「大海」は西域でしばしば見られる内陸塩水湖であり、まして、長安帝都時代には、現代で言う「海」(うみ)の認識は薄かったでしょう。語彙は、時代だけでなく、地域でも、大きく異なるのです。

 武帝以前、西域の入り口にあたる楼蘭付近の蒲昌海(ロプノール)が「西海」とされていたかと思われますが、漢使安息国到達後は、裏海(カスピ海)が「西海」となり、其の海西に条支があると西方に拡張された可能性もあります。時代地理観です。

●山島談義
 続いて「海中山島」と言いますが、古代語彙では、「海中」はも必ずしも、海に浮かんだという意味でなく、従って、離島という確証はありません。編者の意図は、後世で言う朝鮮半島に連なる半島かも知れず、海中は入り江に挟まれた丘陵かも知れません。後続記事でも地理情報は不明確なままです。
 但し、笵曄は、魚豢「魏略」西戎伝の地理記事、道里記事を理解できなかったようですから、劉宋地理観で捉えていて、「朝鮮半島」の南の離島と見ていたのかも知れませんが、笵曄の地理観と後漢時代との地理観の相違が解き明かされていないので、わからないことは、いくら考えてもわかりません。

【自武】
自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。
大意:武帝が朝鮮を滅して以来、使驛の漢に通じるものは、三十国程度である。国はみな王と称し、代々継承しているという。

*時代観
 本条は、漢武帝以降、漢代の状況であり、後漢書の時代外と読めます。国みな王を称したとしますが、以降、後漢末の建安年間まで、およそ二百五十年にわたる長大な期間の何れかの時に、合わせて三十国が長安ないし洛陽に参詣した際の申告を集計して、代々国王が継承していますと申告したとしても、それは、何か意味のあることでしょうか。
 武帝は、朝鮮討伐後、四郡を置いたとしていますが、後世、帯方郡が置かれたとき、その管轄すべき南方の領域は未整備の「荒地」だったとされています。帯方郡すらない時代、どのようにして、海峡の彼方から使節を迎えていたのでしょうか。漢代の帝都は、遙か西方の長安なのです。

 笵曄は、魏朝に接収された帯方郡の事情を述べているのでしょうか。それにしても、帯方郡の創設は、後漢献帝の建安年間、曹操の「君臨」していた時代は、魏志の時代であり、笵曄「後漢書」の圏外です。と言って、公孫氏健在の時代、東夷の貢献は遼東郡止まりだったのです。そして、公孫氏時代の記録は、司馬懿の討伐の際に廃棄されていて、不明なのです。どういう経緯で、笵曄の手にこのような情報が届いたのでしょうか。わからないことだらけです。

 そして、陳寿「三国志」魏志倭人伝の説くところでは、王統が継承されていたのは、ほんの数カ国に留まっているのです。「倭人伝」にすら、名のみ記載の小国が、悉く王制を維持していたとする根拠は何なのでしょうか。それとも、「倭人伝」は、陳寿の曲筆の産物で、笵曄の倭条記事の方が正しいのでしょうか。
 
                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 3/6 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝(倭条)は虚構濃厚  初出 2020/02/17 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

【其大】
[今]其大倭王居邪馬臺國。
大意:今、倭の大倭王は、邪馬台国に居するという。

*時代観
 さすがに後漢代の記事と見ます。それにしても、蛮夷の王を、天子を差し置いてでもないでしょうか、「大倭王」と至高の尊称で呼ぶのは無法です。後出しの交流事跡には倭[奴]国しかありません。諸国盟主の意とするのは、意味不明です。
 漢に「邪馬臺国」国号に意味はなく、唐突な自称と見えますが、小国、つまり、倭の三十国との関係が不明では、記事として不合理です。
 魚豢「魏略」西戎伝によれば、遙か西方に「大秦」と呼ばれた国が存在したようですが、西方の「無法」な国号を東夷に敷衍したとしても意図が不明です。
 それとも、「今」を補って、笵曄は劉宋視点で書いたのでしょうか。つまり、劉宋時に大倭が存在したのでしょうか。誠に不可解です。

【楽浪】
樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。
大意:楽浪郡の徼は、其の国、邪馬臺国を去ること一万二千里。其の国の西北界である拘邪韓國を去ること七千里程度である。

*地理観
 其國とは、書いたばかりの邪馬臺國王の居処、居城でしょうが、楽浪郡界までの道里が一万二千里とする根拠が不明で、明らかに実測ではありません。
 ちなみに、「樂浪郡徼 」は、楽浪郡の領域の南方にあった帯方縣のことなのでしょうか。いずれにしろ、楽浪郡から蛮夷に文書を送達するとき、問われるのは、楽浪郡治から蛮夷の王の居処の間の所要日数であって、「郡檄」に特段の意義は無いのです。
 冒頭記事で、倭は韓の東南とされていて、楽浪郡との関係には触れていません。大倭王の居処は、楽浪郡治の東南に在ると見るべきなのでしょうか。

●絶遠一万二千里
 なお、この一万二千里は、当然「普通里」であり、絶遠一万二千里は、一日五十里行くとして、二百四十日、八ヵ月を要する道里であり、茫漠として地理情報になりません。郡が洛陽に紹介する際の義務が果たせていません。誠に不可解です。
 次に、初出の拘邪韓国までの道里七千里が表明されていますが、この区間だけで、百四十日、五ヵ月近くを要します。其国共々、絶遠です。
 拘邪韓国は、倭の西北界、つまり、倭の領域であり、郡管轄外ですが、そこに到るまでの大半の行程は、帯方郡管轄下であって、もはや荒地ではなく、街道制をしいた筈であるから、行程を明記する責任があるように見えます。(魏志韓伝には、弁辰の鉄を両郡に運んだと伝えられているが、後漢書に漏れている)
 先立つ三韓記事では、同様に「普通里」で「地合方四千餘里」としています。倭記事の全道里には「餘」がないのできっちり里数と読めます。史官なら、記法を首尾一貫させるはずです。
 正体不明の拘邪韓国は、其国の西北国境、つまり、其国と地続きと見てとれますが、正体不明の「国」までの韓地道里を七千里とする根拠は不明です。或いは、范曄は、朝鮮半島が遙か南に延伸していると見ているかも知れません。繰り返しますが、韓地内行程は不明です。

●倭人伝参照
 ここで、本考察では圏外の陳寿「三国志」魏志倭人伝を、この場限りの参考例として想起すると、まず、先立つ辰韓記事で郡管轄下と明記した既知の「狗邪韓国」まで街道道里で七千余里として地域独特の「里」を確立し、全区間一万二千「里」の提起は後ほどですから、それぞれ地域独特の「里」と想定した上で妥当な位置に比定できる点が、当然とは言え用意周到で着実であるのと大いに異なります。つまり、倭人伝の狗邪韓国は、帯方郡と頻繁に文書連絡し、歳事に応じて国使が到来する程度の手近さなのです。
                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 4/6 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝(倭条)は虚構濃厚  初出 2020/02/17 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

●倭条復帰
 圏外の倭人伝をどけて、後漢書考証に戻ると、[今]が省略されて不用意ですが、延々二世紀に及ぶ後漢代の中でも、時代は、遼東郡太守公孫氏の支配期であり、それも帯方郡分郡以前なのでしょうか。分郡時、帯方郡領域は荒地とされ、後漢代早期に街道整備され道里計測されていたとは思えません。
 残る五千里は、一切不明です。全体として、根拠不明です。

【其地】
其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同
大意:其の地、すなわち、倭の領域は、会稽東冶の東に中るようである。朱崖、儋耳と近いので、倭の法俗は同じ点が多いようである。

*地理観
 「其地」とは、倭王居処なのか、倭の全土なのか不明です。倭王居処まで拘邪韓国から五千里程度であり、「邪馬臺国」が南限としても、倭地は南北五千里に広がっていたと見えます。いくら、「大較」でも随分いい加減です。
 東冶が、朱崖、儋耳と近いと言いますが、これも随分いい加減です。
 会稽東冶の地は、後漢時代の洛陽視点から見ますと、遠隔不通、公道を設定できない難路の果てですから、後漢公文書で参照するのは無法です。笵曄は、会稽付近の出生であり、長く、建康で官人として過ごしたから、東冶を、ちょっとした田舎と感じたでしょうが、時代錯誤、地理錯誤です。
 朱崖、儋耳は、地理だけ言うと、東冶の更に南方ですが、却って、内陸交通の便がよく、風俗、地理が知られていた可能性が高いです。いずれにしろ、東晋の京都建康から、会稽郡東冶県に到る行程は、峨々たる福建産地に阻まれて陸路街道が通じていなかったので水路だけの記載であり、江州に至るには「去京都水一千四百」と後年の「宋書」「州郡志」に描かれているのです。後漢代の交通事情は、不明です。
 以上のように、この二条の記事は、史官として不熟の劉宋文筆家の感想であって、後漢書記事として不適当です。

【土宜】
土宜禾稻、麻紵、蠶桑,知織績為縑布。出白珠、青玉。其山有丹土。氣溫鹏,冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲。其兵有矛、楯、木弓,竹矢或以骨為鏃。男子皆黥面文身,以其文左右大小別尊卑之差。其男衣皆橫幅結束相連。女人被髮屈紒,衣如單被,貫頭而著之;並以丹朱坋身,如中國之用粉也。有城柵屋室。父母兄弟異處,唯會同男女無別。飲食以手,而用籩豆。俗皆徒跣,以蹲踞為恭敬。人性嗜酒。多壽考,至百餘歲者甚眾。國多女子,大人皆有四五妻,其餘或兩或三。女人不淫不妒。又俗不盜竊,少爭訟。犯法者沒其妻子,重者滅其門族。其死停喪十餘日,家人哭泣,不進酒食,而等類就歌舞為樂。灼骨以卜,用決吉凶。行來度海,令一人不櫛沐,不食肉,不近婦人,名曰「持衰」。若在塗吉利,則雇以財物;如病疾遭害,以為持衰不謹,便共殺之。
大意:省略

 逐条というものの明細批判はしません。
 このように詳細な風俗記事は、博識の漢人が長期現地探査しなければ得られません。漢の使節が百人に及ぶ大所帯なのは、一つには現地事情を精確に収集するためですが、そのような後漢使節団が、東夷の倭に派遣されたという記録は絶無です。
 よって、現地の物知りが書き送った、と言い逃れするしかありませんが、そもそも、鄙にまれな博物学者は、都合よくいるはずがありません。

 といって、文献を取り寄せて学習しようにも、汗牛充棟であり、到底、絶遠の地に輸送できないのです。
 先賢諸兄姉が考証したように、当記事は、陳寿「三国志」魏志倭人伝記事の盗用と見えます。盗用というのは、本来、後漢書の収容すべきで無い、時代錯誤だからです。

                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 5/6 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝(倭条)は虚構濃厚  初出 2020/02/17 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
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【建武】
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。
[本紀]光武帝紀曰:建武中元二年(57)春正月,東夷倭奴國王遣使奉獻。
大意:後漢光武帝の建武中元二年、倭奴国が奉貢朝賀した。使人は大夫と自称した。倭奴国は倭国の極南界という。光武帝は印綬を下賜した。

*時代観
 本紀は、東夷「倭奴国」です。印綬下賜に渡る記事の裏付けが見られません。正月朝賀と言うから、年始の挨拶に参上したものでしょう。
 倭奴国は、邪馬臺國の更に南と見ます。光武帝が印綬下賜したものの以後交信がありません。二十年一貢を課したはずですが、再訪不明に過ぎません。
 漢代、「大夫」は、「庶民」の位置付けであり、貴人どころか下級官人ですらないので、ここは、倭人の無知を揶揄していると見えます。或いは、蛮夷に過ぎないのに、後漢の官位を自称するのは、何事かという非難を秘めているとも見えます。何とも、肝要なのは、大乱を平定した勢いに任せた寛容さかも知れません。

【安帝】
安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。
[本紀]孝安帝紀曰:永初元年(107)冬十月,倭國遣使奉獻。
大意:安帝永初元年、倭国王帥升等が生口百六十人を献じ、拝謁を願った。

*時代観
 本紀記事によれば、初見以来五十年を経た遣使です。笵曄「後漢書」東夷伝倭伝(倭条)は、生口百六十人の献を申請したとしますが、大集団の洛陽参上は書いていません。なぜ、殊更に書いたか不審です。
 少し考えれば分かりますが、文字を知らず、言葉の一切通じない百六十人の生口は、官奴としての献上であれば、天子は受け入れ不可能であり、言下に拒絶したはずです。光武帝に奴隷解放勅命があり、当貢献は違勅で、倭使の無知を揶揄していると見えます。

【桓霊】
桓、靈閒,倭國大亂,更相攻伐,歷年無主。
大意:後漢桓帝、霊帝の期間、倭国は全国が内乱の攻防に包まれ、その間、国王が定まらなかったという。

*時代観
 「倭国大乱」は、夷蕃王が天子として倭を治めたという前提であり、後漢朝史書として、漢朝天子に不敬です。数千里に散在しての内戦も不審です。
 桓霊間は、韓の騒乱、漢朝乱脈で、交信が断絶し、献帝期は、遼東公孫氏が東夷の交通を壟断したから、当字句は根拠不明で范曄創作の可能性濃厚です。

【有一】
有一女子名曰卑彌呼,年長不嫁,事鬼神道,能以妖惑眾,於是共立為王。
大意:一人の女子が有った。名を卑弥呼という。年長で嫁がず、鬼神道に事えて、衆を妖惑した。ここに、共立して王とした。

*時代観
 出自不明の王の共立は、冒頭の説明で漢朝が重んじた王統の断絶です。女王が蛮習である上に、年長非婚では王位継承に不安があるから、かかる承継が遼東に報告されても、洛陽には報告されないものです。
 公孫氏が遼東郡志を書いていたとしても、曹魏明帝景初の討伐により関係者皆伐、郡史料絶滅と思われ、後漢代記事の根拠が不明です。

                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 6/6 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝(倭条)は虚構濃厚  初出 2020/02/17 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
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【侍婢】
侍婢千人,少有見者,唯有男子一人給飲食,傳辭語。居處宮室樓觀城柵,皆持兵守衛。法俗嚴峻。
大意:侍婢千人。接見は少なく、男子一名が飲食を供し言辞を伝えた。宮室に居し、楼観城柵があり、みな武器を持ち守衛した。法俗厳峻であった。

*時代観
 倭の政治機構、官僚体系に関して適確な報告がされていません。全権大使たる「大夫」の位置づけが示されていません。郡の監督不行き届きです。
 女王に奉仕する大勢の「侍婢」が不明です。「見る者少なし」では臣下奏上を裁可する国王責務が成されないので、漢朝の信頼を危うくします。倭国の堅実さ、漢への忠誠を伝える字句を集積せずに冗語連発で逆効果です。
 蛮夷の様を揶揄しているのでしょうか。

【自女】拘奴國条
自女王國東度海千餘里至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王。
大意:女王国から東渡海一千里拘奴国に至る。皆倭種なるも女王に属しない。

*時代観
 「女王国」の意味が不明です。後漢代を通じて女王が統治していたわけではないのだから「其国」とすべきでしょう。

*地理観
 忽然と「渡海」とありますが、中原の渡河同様、大河をさっさと渡り街道を行くのでしょうか。何しろ、一千里渡海は、一日五十里として二十日を要する前代未聞の途方もない「渡海」なのです。それでは、根拠不明のホラ話でしょう。
 「倭奴国」を南の果てとしたため、東に渡海して、別の島に移るしか女王[国]に属さない国の置き場所がなかったのでしょうか。なんとも、不可解です。

 王の居処から、西北界拘邪韓国まで五千里の勘定に比較すると、拘奴国は わずか一千里にある近傍国扱いです。見方によっては、極南界の倭奴国より国都に近いと見えるのです。
 倭奴国と似た国名は、同格の意味でしょうか。拘邪、拘奴と「狗」(食用家畜たる犬)を避けているのは、笵曄の嗜好によるのでしょうか。
 高度に政治的な曲筆ではないでしょうが、こうして見て取れるように、筆が随分泳いでいるのは、史官としての適性を欠いているものです。
 倭伝において三十国の女王への属・不属が書かれていないのに、此の国が、特段に女王に不属という記事にどんな意義があるのか不明です。

【自女】朱儒國条
自女王國南四千餘里至朱儒國,人長三四尺。自朱儒東南行船一年,至裸國、黑齒國,使驛所傳,極於此矣。
大意:女王国から南四千里で朱儒国に至る。人長三,四尺である。朱儒から東南に船で行くと一年で裸国、黒歯国に至る。使驛所伝の限界である。

*地理観
 南の果ての「倭奴国」が、実は「矮奴国」であって、こびとの国というしゃれなのでしょうか。意義不明です。邪馬臺国から見て、北方に五千里で狗邪韓国、南方に四千里で朱儒国とは、まことに漠たる倭人世界観です。

〇まとめ
 以上の逐条審議は、後漢書の三史としての位置づけを重視したものであり、意図して、陳寿「三国志」魏志の後漢朝時期の部分を流用/盗用したとの視点を避けています。その上で、倭条記事は、正当な根拠を有しない推測、創作と断じています。

 そのように審議したのは、後世史家が、まず、後漢書によって時代認識、地理認識を形成し、その認識を前提として魏志を批判する手順を辿っていることを意識したものです。言い換えるなら、笵曄「後漢書」東夷伝倭伝(倭条)が、適切な史料批判を受けないままに、崇拝/追従されている風聞風潮を批判したものです。

                                以上

新・私の本棚 番外 范曄「後漢書」倭伝 史料批判の試み 2 概論 1/4 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 初出 2020/02/18 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇総評
 本著は、時に「倭伝」と通称されますが、「伝」の要件を満たしていないからと言って「条」と呼ぶのも切ないので「小伝」かと愚考しますが、取り敢えず「通称」に従います。

*伝談義
 伝の要件として、冒頭に、その対象の由来、出自を、前世史書を引いて明記し、次いで、「国」の場合、君主、最寄りの郡、ここでは楽浪郡に対する服属の有無、服属の場合は、郡への道里、戸数、口数、城数を明記します。次いで、本紀記載の事歴が書かれ、最終的に、以後蛮夷の貢献が続いているか関係が絶えたかなどが書かれて締めくくるのです。

 先賢には、魏志倭人伝を「条」と揶揄する向きがありますが、以上要件をほぼ備えているから的外れと見ますが、范曄「後漢書」倭伝(倭条)は要件の大半を欠き、「伝」と呼べないはずです。結局、范曄「後漢書」倭伝(倭条)としています。しつこく書いているのは、当節、囓り取った断片を、素材として私説をこね回す手法が出回っているので、部分取り出しに対応している物です。
 参考まで、末尾に班固「漢書」西域伝安息国伝(安息条)を紹介しています。

〇序説
 倭伝は、五世紀劉宋范曄の畢生の労作です。西晋首都雒陽陥落時、歴年の遺蔵公文書は喪失されたので、笵曄は、公文書原典を参照できなかったものの、原典を参照して書かれたと見られる諸後漢書を通じ、間接的に後漢朝記録を参照したので、本文部は大過なく編纂できたのです。

 当方は、全後漢書精読はこれまで敬遠し、今後も遠慮するので、以上は、巷間世評によります。本文記事批判の意図はないので、論じません。

*史官の務めの再確認
 まず、考えつくのが、史官は、歴史について格別の見識を有するものとの見解です。多くの場合、史官は父子相伝であり、史官となるべき少年は、幼い頃から、厖大な古典の講読を課せられ、そこに記された言葉から想起される事象を、当代の言葉に置き換えることなく、時代のまま解する訓練を受けていると見られます。つまり、生き字引の訓練です。一度、資料に向かうと、史官の思考は、時代の世界観、時代観と地理観に満たされるのです。

*素人史家の錯誤
 これに対して、史官の訓練を受けてない素人史家は、自身の育った当代の世界観、時代観と地理観のまま、資料の用語を解釈しようとします。
 その際に、公知の「辞書」を参照すれば゜大きく時代の世界観を失することはないはずですが、時代と当代の間に変動があって適確な文化継承が維持されていないと、誤解が幅をきかすことになります。そのような誤解を大別すると、時代錯誤と地理錯誤となります。

*天下のかたち
 時代錯誤の一因が、(中原)天下です。殷周秦漢と継続した天下推移で、建前上は、天子は、華夏文明の担い手として天下を維持していたのです。

 ところが、漢朝、つまり、後漢霊帝末期、天下は分裂して、大乱に到り、後漢朝の威令は形骸化したのです。魏武曹操が復元に努めたものの、遂に、天下統一はならず、大乱は大乱のままで、魏朝に移行したのです。

 魏朝重臣の司馬氏は、曹氏の天下を奪い、蜀、呉を滅して天下統一が成ったのですが、その後、忽ち天下大乱となり北方の蛮人に天下を奪われたのです。ということで、歴代南朝諸国は天下を喪っていたと見ることができます。

                                未完

新・私の本棚 番外 范曄「後漢書」倭伝 史料批判の試み 2 概論 2/4 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 初出 2020/02/18 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*笵曄の使命感
 案ずるに、南朝劉宋高官である笵曄は、後漢天子が、むざむざと天下を喪った顛末を史書にまとめることによって、後世に垂訓しようとしたのであり、決して、後漢朝を賛美しようとしたのではありません。

 それ故、范曄「後漢書」東夷伝に書かれている諸蕃は、洛陽の天子に服属せず、自己天下での天子を自負している尊大なものと描かれています。范曄には、中原文明の担い手の自負もあり、夷蛮蔑視の姿勢が窺われます。

 范曄「後漢書」東夷伝の解釈にあたって、編者である史官ならぬ文筆家笵曄の深意を承知しておく必要があります。

*笵曄の欠点
 以上、わかりきったことをことさら書き出したのは、范曄「後漢書」の世界観の不具合が、范曄「後漢書」編纂の諸処に露呈しているように見かけるからです。

 あるいは、范曄自身は、当時屈指の文化人であったから、そのような事情は弁えていたかも知れませんが、編纂記事には、そのような時代錯誤、地理錯誤を、そのまま読者に伝えないという練達の史官の手法が、適切に行使されていないと見えます。

*逐条審議
 時代錯誤と地理錯誤は、都度解明するとして、別稿の逐条審議に入ったのです。いや、史料を丁寧に読み解くのは、大変な労力を要するのです。

 その結果、范曄「後漢書」倭伝(倭条)は粗雑で、中でも枢要であるべき後漢朝記事は、大半が出典不明の風聞記事と見えることから、一後世人としては不審と見るのです。三史掉尾の范曄「後漢書」倭伝(倭条)が粗雑な著作なのは意外ですが、論議抜きに笵曄の直筆が賞揚される風潮は不適当と考え、是正の論考を測るものです。

●来貢考
 なぜか、范曄「後漢書」倭伝(倭条)末尾に追いやられている後漢早々の倭来貢記事は、本紀が根拠ですが、光武帝印綬下賜の倭奴王に関して、同国出自、王名、王都、漢朝服属、地理情報、戸数などの必須情報が欠け、「伝」たるべき要件を欠きます。

 安帝の時は、生口百六十人の献上を奏上と言いますが、これほど多数の生口が嘉納されたという記録はありません。当時の諸状況から、海峡の難所を越えた多数の生口の移動は大いに疑わしく、また、受け入れ側としても、文化未開の蛮人の大挙到来は、楽浪郡から上申されても、謝絶/拒否したと思われることから、そのように勝手に敷衍された「史実」は、大いに疑わしいのです。(あり得ない虚構ということです)

 両事績ともに言えることとして、本紀に書かれている事績は実在したにしても、范曄が潤色している倭伝記事は、正確なものか大いに疑わしく、まして、更に、後世人が敷衍している解釈は、大いに疑わしいということです。

*印綬談義
 例えば、後漢朝の夷蕃に対する印綬下賜記事を点検された上で、むしろ、初回参上の際には印綬の下賜は恒例に近いものであったとする考察があり、素人考えでは、次回参上時に街道各所の関所を通過する際に身分証明として提示する仕掛けに思われるのです。当然ながら、印材は、鉄製が主力で、精々、金、つまり、青銅製と思われるのです。

 関係者の方には嫌われるでしょうが、光武帝が漢朝再興を目指した大乱の果て、国力が底をついている時期に、一介の新参の東夷に、素材として大変貴重であるとともに、製作が至難な黄金の印を下賜したとは、到底思えないので、率直にそのように書き記しておきます。黄金は融点が大変高温なので、青銅や鉄を溶かせる炉では、鋳型に注げるように溶かすことができないのです。

●断絶考
 夷蛮記事の欠落を思わせるように、来貢記事は二件の後途絶えていて、後漢末まで倭の来貢は明記されていなくて、また、諸般の状況から、後漢朝の見方として、楽浪郡の統御下とは言え、地続きの韓国ですら治安不安定で仕切れていないのに、更に彼方の倭とは、長年にわたり交通途絶していたと見えるのです。いや、大国と言えども、後漢朝の東夷対応方針は、特に定まっていなかったので、倭のことは瑣末事として忘れられていたのでしょう。

 そのような背景から、伝を埋めるに必要な情報がないにかかわらず、粗雑な地理情報と共に、現地取材無しには書けない筈の貴重な風俗情報が、歴然と書かれているのは、根拠が不明であって、笵曄は、范曄「後漢書」西域伝で、西域都護の残した現地情報すら根拠不明の風聞と排除していると見られるので、首尾一貫せず大いに不審です。

●創作起源考
 以上重ね合わせると、范曄が確保していた范曄「後漢書」倭伝(倭条)依拠史料は、光武帝、安帝の本紀史料のみであり、他は、笵曄の創作/臆測で埋めたと思われるのです。
 もっとも、素材無しの創作は不可能ですから、手元の資料を流用したと見えます。ただし、情報源として確実なのは、魚豢「魏略」倭記事、次いで、陳寿「三国志」魏志倭人伝ですが、陳寿は史官の務めに従い、倭人伝編纂に際しては、大幅に唯一無二の史料魏略を引用したと思われるので、要点としては、大差ない記事であったと見て、以下の論議を進めます。

 世上、この推定が気に入らない論者は、それ以外に原史料があったに違いないと断じていますが、長きに亘って東夷との交流がなかったにも拘わらず、東夷から詳しい現地情報が得られていたとするのは、推定と言うより、根拠のない想定であり、二千年後の東夷の身で、范曄同様に創作の道をたどっているものと見えます。

                                未完

新・私の本棚 番外 范曄「後漢書」倭伝 史料批判の試み 2 概論 3/4 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 初出 2020/02/18 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

●「倭人伝」流用考
 笵曄創作の「倭人伝」流用部は、魏明帝景初年間に、楽浪/帯方郡を遼東の公孫氏専断から回収した時点とそれ以後の入手情報と見られるのです。
 例えば、帯方郡から倭王居処への行程、途上各国の戸数、地勢、官人など身上調査情報は、多くが景初以降のもので、後漢朝に得られなかったと見えます。
 以下、国内小国名羅列も同様です。史上の交流事跡は以前から入手可能です。続く風俗記事は、博物知識の豊富なものの長期調査が必要で、景初以降と思われるが断定はできません。また、女王就職(王位就任)事情は、主として景初以降入手であり、本来、後漢書に転用できないことは明白です。

●女王就職考
 笵曄は、まず、女王の就職を後漢霊帝期に遡らせ、続いて風俗情報も取り込み、後漢末期に倭情報が到来していたかの印象を醸し出しましたが、「倭人伝」を慎重に読めば、女王就職時は若年で、景初時には、成人していたものの依然として若者であり、大して歳月を経てないと読めるのです。

 となると、女王就職は、後漢の最後、曹操君臨の建安年間も末期かと思われます。もちろん、笵曄は、根拠となる記事は提示していないのですが、「倭人伝」が健在なので、粉飾は見えています。

●地理情報考
 地理情報は、「朝鮮半島さらには倭地との交流が長く途絶していて土地勘を有しない南朝劉宋」の弱点が露呈しています。

 陳寿は、現地地勢を承知した上で、半島、海峡、離島と言った中原にない地勢を、それこそ、本当の「海」を見たことのない中原知識人に、漠然とでも理解させるために、「倭人伝」道里記事の叙述に工夫を凝らしましたが、笵曄は、なまじ、南遷後の東晋の高官として、本当の「海」を知っていたために、魏晋朝中原人の理解の仕方を解せず、誤解に誤解を重ねているのです。

●「韓の東南大海の中」考
 倭は韓の東南方、大海の中としていますが、陳寿は、「倭人伝」で、洛陽人に、「大海」は内陸の塩水湖、大海「海中」は、「大海」沿岸の半島と誤解されるのを避けるために、倭人は「大海」の向こう岸の島に在り、そこ行くには、大河河水(黄河)を渡るように、狗邪韓国から、渡船の小船により、中州のように浮かぶ島を経て、三度に分けて渡海水行すると念入りに断りを入れているのです。

 笵曄は、狗邪韓国が岸辺と言っていないので、後漢史書語法で解釈され、倭は韓の南に地続きに在り、其の王治は、そこにある内陸塩水湖の半島にあるとも読めるのです。それはそれで明解な地理観ですが、倭人伝地理記事の真意を見損なった誤解なのです。

●道里考
 これに続くのは「里」の誤解です。陳寿が各国道里に用いた「里」は、帯方郡管内の街道の道里であり、狗邪韓国までの公式里程七千里を「原器」としているので、容易に(今日の七十五㍍程度と)検定できるとの魏晋朝洛陽人に自明の理に従っています。

 これに対して、建康に南遷して朝鮮半島から切り離された南朝劉宋の范曄と同時代人は、旧帯方郡の事情を知るすべがないので、倭人伝道里は、古来普遍の里、つまり、陳寿の用いた「原器」の六倍の四百五十㍍程度の「普通里」と理解したのです。

*「倭」遠望
 郡から一万二千里の倭王王治は、五千四百㌔㍍(公里)程度の道里となり、七千里の狗邪韓国は、三千百㌔㍍(公里)程度の道里の遠隔の地となり、街道未整備と思われる倭地内は「荒地」であり、文書交信による国家体制の維持が困難な過疎状態と見えます。

                                未完

新・私の本棚 番外 范曄「後漢書」倭伝 史料批判の試み 2 概論 4/4 再掲

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 初出 2020/02/18 再掲 2024/03/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

●「大乱」考
 「倭人」の世界は、牛馬を役務に動員する体制がないので、移動も輸送も、徒歩と決まっています。しかも、中国基準の街道では無い狭隘で凹凸のある「悪路」を克服する健児も、一日五十普通里二十㌔㍍強の行軍が精々で、仮に一千普通里四百五十㌔㍍先への遠征と想定したとしても、そのような遠征先までの道中、食糧と当座の水と武器装備一式を背負って、延々二十日行軍しなければ到達しません。
 これに対するに、せいぜい手薬煉(てぐすね)引いて待ち構え、休養も食事も十分の現地軍ですから、そのような相手と命がけで交戦し、激戦の果てに勝とうが負けようが、何日か先には食糧も体力も尽きて、またもや延々二十日間かける帰還の途に就くことにならざるを得ないのです。
 帰還といっても、凱旋どころでなく、今度は敵地からの出発で食料も水も覚束ない状態であり、激闘で疲れた体に鞭打って、はるばると帰還するのは、どんな兵士にとっても至難の極みです。一回の遠征でこの始末では、各国散在の天下で全土に及ぶ長年の戦続きで、数多い敵国に対して大遠征を連発する「大乱」は、どう考えても成り立たず、古式蒼然たる戯画でしょう。
 大敵に遠征先で必勝を期するには、猛将が率いた精鋭多数の出陣が必要ですが、その間、本国は無防備です。先ほどの例では、二ヵ月近く主力が遠征中不在では、留守を守る国王も不安そのものでしょう。
 それ以外にも、遠征軍が悪心を抱いて反転し、自国を攻めるという謀反への不安もあります。猛将に率いられた精鋭が敵では、絶望的な劣勢と言えます。

 いや、そのように危険満載の大遠征に成功して遠隔地を征服しても、戦利品として収穫物という重荷を抱えて遠路を還ることはできず、また、勝って敵を降伏させたとしても、多数の兵力を残すことなく、自領としての支配もできないでしょう。

 こうして見ると、往復二ヵ月かかるような地の果ての国と、本気で喧嘩して興亡を争うというのは、素晴らしい魔法の世界のように思えます。

*古代国家幻想
 余談はさて置き、倭の楽浪進貢は、片道二百四十日の長丁場で、年中行事のたびに参上はできないでしょう。それ以外、これほど主要国が遠隔では、古代「国家」が成り立たないのは明白でしょう。
 ということで、笵曄が書いた記事は、あまりにも辻褄が合わないので、(倭人伝以外の)同時代(後漢朝末期)の実際の状況を記録した史料に依拠した記事とは思えないのです。ことは、世界観のずれに起因する誤解から出発した「創作」と見えるのです。

〇先例紹介
 班固「漢書」西域伝の安息国条が史官の手本となる古典史書夷蕃伝記事でしょう。(中国哲學書電子化計劃)
安息國,[後漢(東漢) 班固 撰] 小題は、自作。
【王都】 [其]王治「番兜城」,    
【道里】 [其国]去長安萬一千六百里。
【服属】 [其国]不屬[西域]都護。
【四囲】 [其国]北與「康居」、東與「烏弋山離」、西與「條支」接。
【民俗】 [其]土地風氣,物類所有,民俗與「烏弋」、「罽賓」同。
【通貨】 亦以銀為錢,文獨為王面,幕為夫人面。[其]王死輒更鑄錢。
【特産】 有大馬爵。
【形勢】 其屬小大數百城,[其]地方數千里,最大國也。
【市糴】 [其国]臨媯水,商賈車船行旁國。
【文書】 [其国]書革,旁行為書記。
【遣使】 武帝始遣使至安息,[其]王令將將二萬騎迎於[其]東界。
【行過】 [其]東界去[其]王都數千里,行比至,過數十城,人民相屬。
【来観】 [其国]因發使隨漢使者來觀漢地,
【犁靬】 以大鳥卵及犁靬眩人獻於漢,天子大說[悦]。
【隣地】 安息東則大月氏。
 記事内容を論じているのではないので、当記事の大意は略します。
 史書なので自明事項は極力省略されますが、西方超大国「安息国」の(漢武帝時初見以来の交流で得られた)諸元が適確に表記されています。
 他の西域諸国記事も、その大小、漢との交流の多寡に応じて、記事の字数は大きく異なりますが、史書である以上、所定の要件、形式が守られていることが確認できます。

 後続史書は、この形式に習っているはずです。と言っても、笵曄「後漢書」倭伝(倭条)は、伝としての要件を欠き、あとは、陳寿「三国志」「魏志」東夷伝の末尾に補注の魚豢「魏略」西戎伝が、班固「漢書」を継ぐものなのです。

〇結論
*脚のないはなし 

 断言してしまうと、笵曄「後漢書」倭伝(倭条)は、張りぼて細工で、内実のないものなのです。
 つまり、後漢初期の漠然たる二度の来貢談以外は、魚豢「魏略」東夷条、あるいは倭人条の盗用と見えるのです。いや、魏略の魏代記事を、魏代記事として参照、利用するなら、それは一つの記述方法ですが、何の断りも無く、魏略の魏代記事を後漢代記事として連ねているから「盗用」になるのです。

 范曄の編纂方針を案ずるに、倭人伝に付注されて継承されている魏略「西戎伝」の書きぶりが、後漢代記事に魏代記事を混在させる「漢魏一体」のものであることが、強い味方になったのでしょう。
 散逸して全文が残存してはいない魚豢「魏略」「東夷伝」も、「西戎伝」同様な「漢魏」一体の書きぶりであったとすると、魏略から倭の現地事情などの記述を採り入れて、換骨奪胎しても、史書の編纂過程で許される範囲と考えたものでしょうか。要は、時代考証の一見解としたのでしょう。
 いくら何でも、高名な魏国志(三国志魏志の別名)から記事を書き抜いてくるのは、さすがに許されるものではないと言うことだったのでしょう。

 范曄「後漢書」倭伝(倭条)信奉の立場から、魚豢「魏略」盗用説の排除を図るとしたら、直面する難題は、後漢代二百餘年を通じ、かの二件以外一切倭との明確な交流記事がなかったのに、いつ、このような現地情報を得たのかということになります。
 困ったことに、倭事情は、後漢末期献帝期で遼東郡すら統御できていなかった時代の事情なのです。そして、「後漢書」倭伝(倭条)記事の時代考証からも、後世の付注を含めた諸文献の考証からも、笵曄後漢書」倭伝(倭条)の依拠史料らしきものは、魏略の他に見当たらないのです。

 素人なりに最善を尽くして考察すると、「魏志倭人伝」は、魏略倭人条の依拠資料を有力史料としていて、陳寿が入手し得た関連周辺史料とない交ぜた「創作」(オリジナル)史料だったのですから、史官としての見識をかけた著作だったのです。これに対して、范曄「後漢書」倭伝(倭条)には、そのような史書としての創作性/創造性はないのです。

 日本の幽霊談義に絡めると、脚のある引用は許されても、脚のない引用は幽霊であり、「お釈迦」だという事です。

 こうして、范曄「後漢書」倭伝(倭条)の華麗な舞台の大半が笵曄創作の書き割りと見ると、舞台に散在するのは、ただの残骸であり、范曄「後漢書」倭伝(倭条)は、班固「漢書」、陳寿「三国志」と並ぶ史書と見てはならないとの結論です。

*范曄後漢書の再評価~真価の発掘
 ただし、范曄「後漢書」は、史実を網羅した史書を目指したのでなく、史記に続く史談の名著を目指したのであり、後世の評価も、その点を最大の美点としているので、その特質を正しく捉えて、文筆家著作としての評価を行うよう見方を変えるべきと思います。

 いうまでもないことですが、以上は、あくまで浅学非才の素人考えであり、この結論に至るまでに、自身の辿った階梯が、読者に見えるように示したので、史実の取り違え等あれば、具体的に指摘いただければ幸いです。
                                以上

2024年3月17日 (日)

今日の躓き石 NHKの盗用疑惑 「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」

                                  2024/03/17
今回の題材は、NHKが公開している番組案内である。
番組を見てしまうと、声が出にくくなるかも知れないので、話題を絞ったことを理解いただきたい。

-番組案内の引用である。
古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る
初回放送日: 2024年3月17日
 私たちの国のルーツを解き明かす壮大なミステリー!古代史の空白に迫るシリーズ第1弾。謎の女王・卑弥呼の邪馬台国はどこにあった?発掘調査と最新科学が突き止めた新事実を紹介。人骨やDNA分析から見えてきた激動の東アジア。「三国志」に秘められた卑弥呼のグローバル戦略とは?最強の宿敵・狗奴国とのし烈な争いの結末は?未知の古墳のAI調査や大規模実験で徹底検証!日本の歴史を変えた卑弥呼の波乱万丈のドラマを描く!
-番組案内の引用終了である。

*「ルーツ」の由来~公知情報
 「コトバンク」によれば、新語として流入した「ルーツ」の意義は、次の通りと見える。
 ▷ roots (=根。 root の複数) アメリカの黒人作家ヘイリーの著書とそのテレビドラマ化から一九七七年に広まった語。

*著名な著作書名「ルーツ」の盗用疑惑
 公共放送たるNHKによる「ルーツ」の無神経な「盗用」には、反感を持たざるを得ません。「ルーツ」は、テレビ朝日によって何度か放送されていますが、NHKは、知的財産の盗用と思っていないのでしょうか。
 物語の内容は、以下の通りに要約できると思いますが、公知情報を、引用/編集しているのは、ご勘弁いただきたい。

 「ルーツ」は、アレックス・ヘイリーによって書かれた 1976 年の小説/ノンフィクションです。この作品は、18世紀のアフリカ人、クンタ・キンテが青年時代に捕らえられ奴隷として売られて北米に移送され、奴隷として終生酷使された歴史を語っています。
 ヘイリーは、クンタ・キンテの子孫としてアフリカを訪ね、その故郷に、クンタ・キンテが妻子を残して失踪した悲しい思い出が語られているのを発見し、自身の「ルーツ」を見出したのです。

 NHKは、「私たちの国」が、異境から拉致された人々の国だというのでしょうか。NHKには、報道者としての良心はないのでしょうか。

*「卑弥呼」の歴史捏造疑惑
 更に、NHKは、「日本の歴史を変えた」と卑弥呼に汚名を着せているが、在野時代、一女子であった女王は、先祖の霊の語る言葉に耳を傾け、生きている人々を正しく導いた巫女であったと「魏志倭人伝」に明記されているのである。但し、女王となった後の、言動/行動は、特に書かれていない。
 もちろん、三世紀の古人が、まだ影も形もない「日本」の『「歴史」を変える』などとんでもない法螺話である。

 更に言うなら、当時、「歴史」は文書化されていなかったから、部外者がいかに努力しても、「存在しないものを改竄のしようがなかった」のである。

*まとめ
 NHKは、現代の善良な視聴者たる人々を惑わせて、何を仕掛けようとしているのであろうか。

 今回は、誰に媚びたのか、途方も無い「惹き句」を捏造しているが、制作陣は、営業用の「惹き句」に囚われず、矍鑠として受信料に値する健全な番組を物したことを望むのである。公共放送としてのNHKの最大の顧客は、経営委員などの執行部でなく、乏しい懐から受信料を捻り出して、実直に支払っている国民なのである

 後世の人々は、制作陣の陣容は知るものの、「執行部」など、知ったことではないのである。

以上

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